閑話休題:死が二人を分かつまで
嵐は、夜の窓を叩き続けていた。
フェリオーネ家の離れは、サルマンディアの明るい石畳から遠い場所にあった。古い葡萄畑の奥に建てられた小館で、表向きは客人を休ませるためのものとされている。だが今夜、そこに客の名はなかった。
雨は斜めに吹きつけ、窓硝子の表面を細く流れた。古い木枠は水を吸って黒ずみ、隙間から入る冷気が寝台の裾を撫でていく。雷鳴が遠くで腹を鳴らすたび、部屋の燭台がわずかに震えた。寝台の白い掛け布には、婚礼の日に使われた淡い香油の匂いがまだ残っていた。葡萄酒の杯は二つ。片方は口紅で縁が薄く汚れ、もう片方はほとんど空になっている。
リヴィア・セルヴァッリは、ジュリオ・フェランテの胸に顔を伏せていた。
彼の上着は雨を吸い、冷たく重かった。濡れた毛織物の匂いと、肌に残った葡萄酒の甘さが混じっている。彼の手が、彼女の濡れた髪を拭う。逃げ込むような指だった。抱き寄せる力は強いのに、その先を決める力はない。リヴィアはそれを知っていた。知っていて、彼の手に頬を押しつけた。
「もう、戻れない」
声は細かった。雨よりも頼りない。
「戻らなくていい」
ジュリオはそう言った。だがその言葉の下に、馬車も、宿も、行き先も、金もなかった。あるのは濡れた上着と、震える息と、口づけの熱だけだった。
彼は一度だけ、上着の内側へ手を入れた。
そこには小さな革袋がある。銀貨が数枚。雨に濡れた紹介状。港町の安宿の名を走り書きした紙片。どれも逃亡と呼ぶには薄すぎた。貴族の娘を連れて夜を越えるには足りない。家名も、道も、明日の食事も守れない。
革袋の口金が、彼の指先でかすかに鳴った。
ジュリオはその革袋を出さなかった。
リヴィアは気づいていた。
「何もなくてもよかった」
彼女は小さく言った。
「あなたが、何も持っていなくても」
その言葉は優しさだった。だからこそ、ジュリオの顔に痛みが走った。
リヴィアは顔を上げる。
二人の唇が重なった。
最初は確かめるように。次に、失ったものを取り戻すように。リヴィアの指がジュリオの襟を掴み、ジュリオの手が彼女の背へ回る。衣擦れの音が、雨音に混じった。寝台の端へ腰が触れ、白い掛け布が片側へずれる。燭台の火が二人の影を壁へ伸ばし、すぐ雷の白さに消した。
それでも二人は、最後の線へ踏み込めなかった。
息だけが近い。手だけが互いを探す。越えれば戻れない場所の手前で、二人とも同じものを見ていた。扉の鍵。杯。雨。明け方。署名された名。
リヴィアの指が、胸元へ触れた。
婚姻契約の日、そこに咲いた深紅の薔薇はもう見えない。だが布の下には、まだ熱が残っている気がした。祝福の熱ではない。署名した名と、交わした言葉が、皮膚の内側に沈んでいる熱だった。
彼女はその場所を押さえ、少し笑った。
泣く直前の笑みだった。
ジュリオはその手に、自分の手を重ねた。
熱は確かにあった。布越しでも分かるほど薄く脈を打ち、触れた指先へ逃げ場のない重さを返してくる。祝福の日に咲いた花は見えない。だが見えないからこそ、そこにあるものは消えなかった。
「俺が代われたら」
「代わらないで」
リヴィアは即座に首を振った。
「あなたまで、あの庭へ連れて行かれたくない」
それは愛の言葉だった。
同時に、自分がもう庭へ戻されていると知っている者の言葉でもあった。
「ここが、ずっと痛いの」
雷が鳴る。
リヴィアが息を呑み、ジュリオの腕の中で身を縮める。彼の手は背中に回ったまま固まり、何かを庇う形だけを作った。
「あの誓いは、私の言葉じゃない」
彼女は言った。
「父が決めた。家が決めた。マテオ様は、何も間違えていない顔をしていた。皆が祝福して、皆が笑って、私だけが違う場所に立っていた」
「リヴィア」
「私はあなたを見ていたの。あの庭で。ずっと。なのに、私は別の人に真心を尽くすと誓った」
ジュリオは彼女を抱きしめた。
その背へ、彼女の爪が立つ。
「俺が連れ出せばよかった」
「違う!」
リヴィアの声が割れた。
「あなたは悪くない! 私が弱かったの。逃げればよかった。泣けばよかった。あの魔女の前で、違うと言えばよかった!」
燭台の火が、横へ倒れた。
風は入っていない。
窓は閉まっている。扉には鍵がかかっている。重い掛け金も下ろされていた。なのに火だけが、何かに吹かれたように傾いた。
甘い匂いがした。
薔薇の香りだった。
リヴィアは顔を上げる。ジュリオも気づいた。部屋のどこにも花はない。香油瓶に薔薇は使われていない。婚礼の名残の甘さとも違う。もっと深く、もっと古く、雨に濡れても腐らない花の匂いだった。
燭台の明かりに、蝶の影が揺れた。
一羽。
二羽。
三羽。
黒に近い赤の翅が、火の周りを舞う。羽ばたきは音を立てない。蝶は炎へ近づいても燃えず、光の輪郭だけを少しずつ食んでいく。部屋の隅が濃くなった。壁紙の薔薇模様が、影の中で咲いたように見えた。
雨音が遠のいた。
「誰だ!」
ジュリオがリヴィアを背に庇った。
答えはない。
部屋の暗がりに、椅子があった。
さっきまでなかったはずの椅子だった。深紅の布張り。黒い肘掛け。そこに、エヴァンジェリーネが座っていた。
足を組み、片手を肘掛けに置き、金の瞳で二人を見ている。髪は嵐の湿りを知らず、深い薔薇色の衣は一筋も乱れていない。現れたのではなかった。最初からそこに座り、二人の言葉が出尽くすのを待っていたかのようだった。
「よい夜じゃな」
エヴァが言った。
「嵐の夜、鍵の掛かった部屋、葡萄酒、香油、震える恋人。舞台としては上等じゃ」
リヴィアの顔から血の気が引いた。
「エヴァンジェリーネ様……」
「薔薇の魔女、と呼べ。今宵の妾は、祝福の女主人ではない」
ジュリオが前へ出る。
「彼女は何も悪くない!」
「黙れ」
その一言で、部屋の火が細くなった。
ジュリオの喉が動く。声は出なかった。雨に濡れた襟元だけが上下し、息の通り道を探していた。
エヴァは立ち上がらない。指先だけで肘掛けの薔薇を撫でる。燭台の周りを舞っていた蝶が、一斉に向きを変えた。
「リヴィア・セルヴァッリ」
名を呼ばれた瞬間、リヴィアの胸元が淡く赤く光った。
婚姻契約の日、胸に咲いた深紅の薔薇。その光は、今は花ではなく痣のように皮膚の下で濁っている。リヴィアは両手で胸を押さえた。布越しの熱が、掌にじわりと滲む。
「そなたが愛したのは、花婿か」
リヴィアは震えた。
「違います」
「では、妾の前で誰に真心を尽くすと誓った」
「それは……」
「誰じゃ」
「マテオ様、です」
エヴァは頷いた。
「声は覚えておる。手も覚えておる。署名の色も、胸に咲いた花も覚えておる。そなたは妾の前で誓った。病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、喜びの日も、災いの日も、互いを愛し、敬い、偽らず、支え、死が二人を分かつまで真心を尽くすと」
「言わされたんです!」
リヴィアは叫んだ。
「家のために! 父のために! セルヴァッリの名のために! 私は、私はあの場でどうすればよかったのですか!」
「違うと言えばよかった」
エヴァの声は低い。
「泣けばよかった。逃げればよかった。妾の庭で倒れてもよかった。署名する前なら、そなたにはいくらでも醜くなる権利があった」
リヴィアの喉から、ひゅ、と音が漏れた。
「けれど署名した」
蝶が一羽、リヴィアの肩へ止まる。
翅の先は軽かった。軽いのに、肩の骨まで冷えた。
「恋は罪ではない。ジュリオを愛したことも、愛されたことも、妾は裁かぬ。だが、偽りの署名は罪じゃ」
ジュリオが動いた。
「俺が悪い! 俺が呼んだ! 俺が彼女をここへ!」
床板の隙間から、茨が飛び出した。
速かった。
ジュリオの足首に絡み、膝を引き、腕を捻り上げる。次の瞬間には、彼の背が壁へ叩きつけられていた。肩、手首、太腿、喉元。深紅の茨が四肢を縫い止める。壁紙の薔薇模様の上に、生きた蔓が這い広がった。
「ぐっ、あああっ!」
ジュリオの声が潰れる。
「ジュリオ!!」
リヴィアが駆けようとした。
茨が彼女の足元を横切る。触れてはいない。ただ床に線を引いただけだった。それだけで、リヴィアの足は止まった。
エヴァはジュリオを見た。
「お前は契約者ではない」
「だったら俺を殺せ! 俺を殺せよ! リヴィアは、リヴィアは家に押されただけだ!!」
「ならば生きて見よ」
ジュリオの顔が歪む。
「やめろ! やめてくれ!! リヴィア、逃げろ! 逃げろって言ってるだろ!!」
リヴィアは逃げなかった。
逃げるための扉は開いていない。開いていたとしても、彼女はもうそこへ向かわなかった。
ジュリオの手が壁の上で軋む。茨に縫われた指が一本だけ、彼女へ伸びようとしていた。ほんの数寸。届くはずもない距離だった。けれどリヴィアはそれを見て、同じように手を伸ばした。
二人の指先の間を、蝶が一羽通り抜けた。
胸の赤い痕が、ゆっくり開いた。
それは花弁ではなかった。皮膚の下から押し広げられる棘の輪だった。リヴィアは両手で胸を押さえたが、指の隙間から細い茨がのぞいた。口から悲鳴が出る。次の瞬間、その口の端にも赤い棘が覗いた。
「いや……いや、いや、いやああああ!!」
茨は、彼女の内側で芽吹いた。
目尻から、耳の奥から、鼻から、口から。細く濡れた蔓が次々と外へ伸びる。白い肌の下を走った赤が割れ、血が飛んだ。だが血は床へ落ちる前に、薄い薔薇の花弁へ変わった。花弁は嵐のない部屋で舞い、寝台の白へ散る。
ジュリオが壁で暴れた。
「リヴィア!! リヴィア!!」
茨が彼の肩へ食い込み、声が呻きに変わる。
「ぐ、あ、くそっ、外れろ! 外れろよ!!」
リヴィアは膝をついた。
「助けて……ジュリオ、助けて……!」
ジュリオは答えようとした。
喉に巻きついた茨が、声を潰す。
「り、ヴィ……っ、あ……!」
名前にさえならなかった。
その声が、茨に絡まれる。
エヴァは目を逸らさなかった。
笑いもしなかった。
部屋の中で咲いているのは、薔薇ではない。誓いの残骸だった。契約の日に胸へ沈んだ花が、偽りの熱を吸って、内側から別の形を取っている。
「妾の前で、愛を偽ったか」
エヴァの声が、雨音より低く響いた。
「よかろう。契約の対価を、その血で支払うがよい」
リヴィアの悲鳴が、雷鳴と重なった。
扉の外で、誰かが叫ぶ。
足音が廊下を走った。
「開けろ!」
「奥様!」
「鍵が、鍵が内側から!」
だが鍵は、内側から掛かっていなかった。
鍵穴には、一匹の蝶が止まっていた。翅を閉じ、開き、また閉じる。そのたび、金属の中で赤い筋が走る。外の手が鍵を回すより早く、扉のほうが勝手に開いた。
廊下の灯りが流れ込む。
使用人たちが敷居で止まった。
誰も入れなかった。
リヴィアは床に崩れている。血は床にはない。代わりに、花弁がある。白い寝具、葡萄酒の杯、散った髪飾り、壁に貼り付けられたジュリオの足元。そのすべてに、深紅の花弁が積もっていた。
壁のジュリオはまだ生きている。
「リヴィア……リヴィア……!」
声は枯れていた。
廊下の奥から、マテオ・フェリオーネが駆け込んできた。
夜着の上に外套を引っ掛けただけの姿だった。髪は乱れている。だがその乱れ方は、少し整いすぎていた。足音は急いでいるのに、息は思ったほど上がっていない。外套の裾には泥がない。濡れた床を踏んだ靴の跡だけが、廊下の灯りに薄く光った。
「リヴィア!」
彼は敷居の前で膝をつきかけ、エヴァを見て止まった。
「薔薇の魔女様……これは、何が」
「見た通りじゃ」
エヴァはそこで初めて椅子から立ち上がった。
彼女の裾が床を滑る。花弁は踏まれても潰れない。深紅の布の下で、むしろ嬉しげに舞い上がった。
「そなたの妻は、妾の前で真実の愛を騙った」
マテオの顔が、痛ましい形に歪む。
「そんな……リヴィア、君は……!」
声はよくできていた。
怒り。悲しみ。裏切られた者の震え。廊下に集まった使用人たちが息を呑むには十分だった。クラリッサが奥から来て、口元を押さえた。オルランドは妻の肩を抱きながら、息子の背へ視線を落とす。
「マテオ!」
クラリッサの声が崩れた。
「母上、見ないでください」
マテオは言った。
その優しさも、よくできていた。
エヴァは、喉の奥で短く笑った。
「カカカ」
部屋の空気が冷えた。
マテオが顔を上げる。
「何がおかしいのです」
「よい面じゃ」
エヴァは彼を見る。
「被害者の面は、鏡の前で練習したか」
マテオの唇が固まった。
「何を……」
「妾は、まだそなたに何も問うておらぬ」
エヴァが指を上げる。
蝶が動いた。
鍵穴に止まっていた一羽が、ひらりと廊下へ出る。マテオの足元を回り、彼の外套の裾へ止まった。赤い翅が開くと、濡れていないはずの布に雨染みのような跡が浮いた。
次に、机の引き出しがひとりでに開いた。
そこには封の切られた手紙があった。紙は古い。折り目は何度も開かれた跡を持っている。蝶がその上へ止まると、文字が赤く滲んだ。
リヴィアへ。
ジュリオの筆跡だった。
マテオは動かなかった。
手紙の下から、別の紙が滑り出る。招待客の名簿。婚姻契約の日、薔薇庭園へ招かれた者たちの名。その中で、ジュリオ・フェランテの名前だけが濡れる。赤い染みが文字の周りを囲み、次に、細い線となってマテオの名へ伸びた。
廊下の誰かが小さく悲鳴を上げた。
「これは……」
オルランドの声だった。
マテオは振り返らない。
「父上、これは魔女の」
鍵が鳴った。
床に落ちていた金の鍵が、勝手に跳ねる。蝶がその頭に止まる。金属の表面へ、赤黒い指の跡が浮かんだ。親指。人差し指。握った時の癖。マテオの右手の指輪の内側についた小さな傷と、同じ位置の欠け。
クラリッサが息を吸った。
「マテオ……?」
「違います!」
初めて、マテオの声が割れた。
「私は知らなかった! リヴィアが、こんな女だとは! ジュリオが、ここに来るとは!」
契約書は、部屋にないはずだった。
だが黒い小箱が、燭台の隣に置かれていた。
薔薇の館で封じられたはずの箱だった。蓋は閉じたまま、封蝋も割れていない。ただ、その内側から淡い薔薇色の光が漏れている。蝶たちが箱の上へ集まり、翅を一斉に開いた。
封蝋の薔薇が、黒く濁る。
マテオの署名のあった場所だけが、箱の外から見えるはずもないのに、赤黒く浮かび上がった。文字は美しかった。整っていた。練習された名だった。その整い方が、今だけひどく冷たかった。
エヴァは何も説明しなかった。
部屋が勝手に喋っている。
鍵が語る。手紙が語る。名簿が語る。契約書が語る。蝶が、燭台の火をゆっくり削りながら、黙って証言を並べていく。
マテオの呼吸が浅くなった。
「違う……私は、家を守ろうとしただけだ。セルヴァッリ家は我々を軽んじていた。あの女は、最初から汚れていた。ならば、契約で明らかにするしかないだろう! 私は被害者だ! 私が一番、辱められたんだ!!」
「マテオ!」
オルランドが叫んだ。
その声には、息子を止める力と、止まってくれと縋る弱さが混じっていた。
クラリッサは夫の腕を掴んだまま、首を横に振っている。
「違うと言って。ねえ、違うと言って、マテオ」
マテオは母を見た。
一瞬だけ、幼い顔になった。
「母上、助けてください。私は、家のために……フェリオーネのためにやったんです。父上だって分かるはずだ。あんな女を妻にして、こちらが笑いものになる前に」
「黙れ!!」
オルランドの声が廊下を裂いた。
彼は前へ出ようとした。だが敷居の手前で膝が震え、止まった。そこから先は、もう父親が踏み込める場所ではなかった。
エヴァの領域だった。
「罠にしたな」
エヴァが言った。
それだけだった。
だがその一言で、マテオの顔は砕けた。
「お許しください!」
彼は床へ崩れた。
「薔薇の魔女様、お許しください! 私は契約を破っていない! 私は愛していました! 妻として迎えるつもりだった! ただ、ただ正しく裁かれるべきものが裁かれるように」
「正しい?」
エヴァが笑った。
「カカカ。そなた、人間の小さな算盤で妾の薔薇を数えたか」
マテオが這う。
「違います! どうか、どうか父と母には! 私だけを、私だけを罰してください!」
そう言った直後、彼の目は父を探した。
「父上、私は家を守ろうとしたんです! フェリオーネの名を、父上と母上が守ってきたものを! 分かってくださるでしょう!? こんな形でなければ、セルヴァッリは認めなかった! 私は、私は正しい手順を選んだだけです!!」
オルランドは答えなかった。
答えられなかった。
マテオは母へ向いた。
「母上……母上は分かりますよね。私は悪い息子ではなかった。ずっと、ちゃんとやってきた。母上の言う通りに、父上の言う通りに、家のために……!」
クラリッサは首を横に振った。
それは否定ではなかった。
もう、息子の言葉を受け止める場所が彼女の中に残っていないだけだった。
「望み通りじゃ」
エヴァの指が下りた。
マテオの右手から、茨が噴いた。
署名した手だった。指の爪の下から細い棘が伸び、手の甲を内側から裂く。彼は絶叫した。右手を押さえようとした左手にも、同じように蔓が絡む。
「ああああああっ!! 父上! 父上助けてください!!」
オルランドが動いた。
クラリッサが悲鳴を上げる。
「行かないで! あなた、行かないで!!」
茨はマテオの腕を上り、喉へ巻きついた。締める。切らない。殺すにはまだ早いと言うように、呼吸だけを細く奪っていく。
「お、かあ、さ……」
「マテオ!!」
クラリッサが崩れた。
オルランドが彼女を抱き止める。だが彼の目は息子から離れない。離せない。愛した息子が、今まさに、自分たちが本物だと信じてきた契約の法に裁かれている。
エヴァはマテオの前に立った。
「死が二人を分かつまで」
彼女はゆっくり言った。
「そなたは、その言葉を利用した」
茨が胸へ入る。
マテオの背が反った。
「あ、ああ、いやだ、死にたくない! 母上! 母上えええ!!」
クラリッサの喉から、声にならない音が出た。
「見るな、クラリッサ」
オルランドが言う。
だが自分は見ていた。
エヴァの瞳に、情けはなかった。
「愛は、そなたの家の刃物ではない。契約は、そなたの恥を片づける箱ではない」
マテオの喉を締めていた茨が、深紅の花を一輪咲かせた。
それは美しかった。
あまりに美しく、吐き気がするほどだった。
花が開くと同時に、マテオの声は途切れた。
彼の体が床へ落ちる。右手は署名する形に曲がったまま、もう動かなかった。胸の花弁がほどけ、リヴィアの時と同じように光へはならず、赤い花弁となって床へ散った。
廊下に、誰のものとも分からない泣き声が満ちた。
ジュリオは壁に貼り付けられたまま、目を見開いていた。声はもう出ていない。リヴィアだったもののそばへ目だけを向け、呼吸だけをしている。
エヴァが振り返る。
茨がほどけ、ジュリオの体が壁から落ちた。彼は床に膝をつき、這うようにリヴィアへ近づいた。触れようとして、手が止まる。そこにあるのは、彼の知っている体ではなかった。花弁と、髪と、壊れた髪飾りと、白い布に残った温度の影だけだった。
「リヴィア……」
その声は、とても小さかった。
エヴァは彼を裁かなかった。
だから彼は、生きていた。
オルランドとクラリッサは、息子の亡骸の前で動けなかった。
二人とも、婚姻契約の日の小宴で笑っていた。茶の温度を語り、若い頃の失敗を話し、互いの手を自然に重ねていた。あの手は本物だった。長い年月を生きた契約の形だった。
だからこそ、その手はいま震えていた。
「薔薇の魔女様……」
オルランドの声は、老人のものになっていた。
「我らは、何を間違えたのでしょうか」
エヴァはしばらく答えなかった。
雨が窓を叩く。
蝶が一羽、クラリッサの足元へ落ちた。翅は花弁に変わり、すぐ消えた。
「そなたらの契約は、本物であった」
エヴァは言った。
クラリッサが顔を上げる。
「だから、逃げるな」
言葉は慰めではなかった。
「本物を知る者ほど、偽物を見誤った時の痛みは深い。息子を愛したことまで偽りにするな。されど、息子の偽りからも目を逸らすな」
クラリッサは泣いた。
オルランドが彼女を支える。支える手は震えている。それでも離さない。その手の震えだけが、部屋に残った愛の形だった。
エヴァは黒い小箱へ手をかざす。
箱は消えた。
薔薇の香りも、蝶も、少しずつ薄くなる。燭台の火が普通の火へ戻り、嵐の音が部屋を取り返す。
去り際、エヴァは誰にも祈らなかった。
「薔薇は咲いた」
彼女は低く言った。
「あとは、残った者の仕事じゃ」
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薔薇の館の談話室では、暖炉が燃えていた。
外の雨は、こちらにも届いている。だがフェリオーネ家の離れで聞いた雨とは違った。窓の外で庭木を濡らす音は、屋敷の厚い壁に受け止められ、柔らかい幕の向こう側へ押しやられている。
エヴァンジェリーネは、暖炉脇の椅子に沈んでいた。
深紅の衣に血はついていない。靴にも、手袋にも、髪にも、何も残っていない。薔薇の魔女が裁きを終えた時、汚れは常に相手の側へ残る。だが今夜、その清潔さがかえって不快だった。
アルフレッドが静かに茶を置いた。
茶ではなく酒にすべきか迷った気配が、一瞬だけ手元に出ていた。だが彼は何も言わない。銀の盆を下げ、影のように退いた。茶面には暖炉の火が細く映り、すぐ揺れて消えた。
蒼凪は向かいの椅子に座っていた。
呼ばれたのではない。来ると分かっていた場所に、最初から空席が用意されていただけだった。彼は暖炉を見ている。火の赤は、彼の目にあまり映らない。
「不快じゃ」
エヴァが言った。
蒼凪はすぐには返さなかった。
火の中で薪が割れる。
「契約を罠にしたからですか」
「それもある」
エヴァは杯を持たない手で、肘掛けの薔薇を撫でた。
「愛のふりをしたからじゃ」
蒼凪の視線が、少しだけエヴァへ向く。
「恋は本物でした」
「知っておる」
「だから、余計に悪い」
エヴァは短く笑った。
笑いは喉の奥で途切れた。くっくっく、と続くはずの音が、二つ目まで行かずに消える。
「凪よ。そなたは時々、妾より残酷な言い方をする」
「事実です」
「そうじゃな」
エヴァは暖炉を見る。
炎の形は、薔薇に似ていない。ただ燃え、崩れ、灰を作っている。
「本物の恋があった。家を背負う理屈もあった。父母の愛もあった。どれも、人間の側では本物であった。だからといって、妾の前で交わした言葉が軽くなるわけではない」
蒼凪は頷かなかった。
「軽くならないための契約です」
「半分じゃな」
エヴァの声が少し冷えた。
「契約は、軽いものを重くするためにもある。だが本来は、重いものを逃がさぬためにある」
蒼凪は黙った。
沈黙は長くならなかった。
「エヴァ様」
「何じゃ」
「気分は晴れましたか」
エヴァは答えなかった。
暖炉の火が、彼女の金の瞳に揺れる。
その目は、制裁の場で見せたものほど鋭くない。怒りはある。だが怒りよりも、もっと粘るものがそこに残っていた。人間の愚かさを何百年も見続けた者の倦み。愛が咲く瞬間を見届けたい者の苛立ち。偽物を裂いても、本物が増えるわけではないと知っている者の不機嫌。
「晴れるものか」
ようやく、エヴァは言った。
「妾は掃除屋ではない」
蒼凪の目がわずかに伏せられる。
「……そうですね」
「そうじゃ。妾は薔薇の魔女ぞ。愛と契約を見届ける者じゃ。人間の薄汚い算盤を片づけるために咲いたのではない」
「でも、片づけた」
「片づけねば、薔薇が腐る」
その言葉の後、部屋は静かになった。
アルフレッドの気配は扉の外にある。入ってこない。今夜の沈黙は、茶を足して薄めるものではないと分かっている。
蒼凪は暖炉を見たまま言う。
「あの二人の親は、残りますね」
「残る」
「ジュリオも」
「残る」
「リヴィアも、マテオも、別の形で残る」
エヴァは目を細めた。
「凪よ」
「はい」
「そなた、今日は随分と嫌なことを言う」
「嫌な話なので」
エヴァは今度こそ、わずかに笑った。
「まったく」
短い笑いだった。
疲れた笑いでもあった。
「可愛げがない」
「昔からです」
「昔はもう少し、壊れ物らしかったぞ」
蒼凪は返さなかった。
その沈黙に、エヴァもそれ以上踏み込まなかった。
暖炉の薪が落ちる。
火の粉が跳ね、すぐ消える。
外の雨はまだ続いていた。薔薇庭園にも、離れの窓にも、同じ雨が降っている。祝福の日に咲いた花も、今夜の血で咲いた花も、雨だけは分け隔てなく叩く。
その雨音の奥に、離れで聞いた悲鳴はもう混じっていない。
消えたのではなかった。
音にならない場所へ沈んだだけだった。残された父母の家に、壁から落ちた男の喉に、薔薇の館へ戻った魔女の手元に。それぞれ違う形で、同じ夜が残っている。
そしてどれも、朝になれば別の顔をして人前へ出る。
そのことが、いちばん気に食わなかった。
夜だけが正直だった。
夜は嘘をつかない。
エヴァは椅子に深く沈んだ。
「アルフレッド」
扉の向こうで、気配が動く。
「酒を」
「かしこまりました」
返事は静かだった。
蒼凪は立たない。
エヴァも、帰れとは言わない。
暖炉の火が、二人の間で低く燃えている。薔薇の香りはもうない。あるのは、湿った夜と、消え残った怒りと、口に出されなかった契約の重さだけだった。




