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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
98/129

魔女の館、臨時休館につき

 朝の光は、暴力だ。


 俺はまず、それを骨で理解した。


 目を閉じているのに白い。瞼の裏が薄布みたいに透ける。光が額を押し、眉間の奥へ細い針を入れ、喉の奥に乾いた砂を置いていく。朝とは本来、清々しいものではなかったのか。


 少なくとも今朝は違う。


 斬りかかってくる。


 俺は息を吸った。胸の中で酒の残りがゆっくり揺れた。船底に溜まった濁った水みたいに、少し動くだけで気分が悪くなる。鍛えた身体には自信があった。夜明け前の漁も、雨の中の見張りも、傷の痛みも大抵は耐えられる。


 酒はだめだ。


 耐えるとか耐えないとかいう前に、身体の側が勝手に白旗を上げる。


 ゆっくり目を開けた。


 天井が遠かった。


 俺の部屋の天井ではない。寝台の上でもない。視界の端で薄いカーテンが光り、暖炉の黒い口が沈黙している。背中には柔らかいものがあるが、その下に絨毯の硬さがある。首を動かすと毛足が頬をこすった。


 談話室の床だった。


 どうしてだ。


 そう考えようとしただけで頭の奥が鳴った。港で濃霧が出た日の鐘だ。近い。うるさい。逃げ場がない。


 俺は首だけで自分の身体を確かめた。


 毛布が掛かっていた。肩から腹まで丁寧に覆われている。胸元は苦しくない。足元は逃げられるくらいに空いている。酔いつぶれた人間を雑に丸めたのではなく、客として寝かされた形だった。


 情けない。


 しかも左足が軽い。


 右足には靴がある。革の重みと締めつけがある。左足には靴下しかない。絨毯の毛足が直に分かる。片足だけが妙に自由で、その自由がどうしようもなく不安だった。


「……片方だけ?」


 声を出した瞬間、頭の鐘がもう一つ増えた。


 失敗だった。


 声など出すべきではなかった。今の俺に許されている発声は、せいぜいうめき声までだ。言葉は重い。言葉を作るには脳を使う。脳は現在、昨日の酒に占領されている。


 俺は片方だけ残った靴を見た。


 誰が脱がせたのか。なぜ片方でやめたのか。俺が抵抗したのか。右足の靴に何か重大な意味があったのか。左足の靴だけが先に人生を終えたのか。


 考えたくない。


 海には底を見てはいけない場所がある。今朝の記憶もそれだ。


 俺は目だけを動かした。


 談話室は朝になっていた。だが完全に朝へ明け渡してはいない。暖炉には灰が残り、昨夜の熱の形だけを抱えている。低い机の上には水差しが並んでいた。空瓶。伏せられた杯。布巾。小皿に載った薄い塩。


 そして銀の小匙が一本、妙に誇らしげに斜めを向いていた。


 よく見ると、小匙は倒れた本と本の間に挟まっている。立っているわけではない。だが今の俺には、あれが昨夜を生き延びた勇敢な兵に見えた。


 部屋のあちこちに毛布の山があった。


 人の形をした山。ソファからは大きな腕が落ちている。椅子の背には上着が掛けられ、その下に金色の髪が少しだけ見える。床の隅には外套を枕にしている何者かがいて、呼吸に合わせて布がわずかに上下していた。


 誰も起きていない。


 賢い。


 この朝に正面から立ち向かわない判断は、きわめて正しい。


 俺はもう一度目を閉じた。


 閉じても白い。閉じても頭が痛い。閉じても喉は乾いている。世界が優しくなる気配はない。


 仕方なく開けた。


 昨夜の始まりは、たしか静かだった。


 契約の後の晩餐だ。手の甲の黒い薔薇は消えていた。けれど消えた場所だけが、自分の皮膚ではないように熱を覚えていた。銀器の音が妙に大きく、椅子を引く音ひとつで全員がそちらを見るような空気だった。


 レオンは背筋を伸ばしていた。カイは皿ではなく人の手元を見ていた。ヴァローは静かで、静かすぎて何を考えているのか分からなかった。ガイウスは料理を見ていたが、最初は礼儀正しく食べていた。ヴェスタは笑っていたが、その笑いもまだ刃をしまっていた。


 ラウリ殿だけが食べた。


 遠慮という概念が、あの人の前では皿に載らないらしい。


 最初の肉が消えた。次の魚も消えた。パンは籠ごと軽くなった。大皿の端で誰も手をつけないでいた焼き野菜まで、気づけば美しい空白になっていた。食べ方は汚くない。むしろ見ていて気持ちがいい。


 ただ速い。


 波が岩を削るみたいに、確実で止まらない。


 そのあたりでヴェスタが何かを言った。


 言葉そのものは覚えていない。俺の記憶は肝心なところで網目が荒い。ただ、その一言で食卓の硬さが割れたことだけは覚えている。細いひびが入って、そこから湯気と笑いが漏れた。


 ガイウスが笑った。


 杯が上がった。


 誰かが止める前に、別の杯も上がった。


 晩餐が宴へ傾く時の音は、皿の音ではない。人が息を許す音だ。最初は小さい。椅子の背にもたれる。肩の力が抜ける。料理を褒める声が少し大きくなる。水と酒の境目が曖昧になる。


 足首まで潮が来た。


 その程度なら笑っていられる。


 ラウリ殿が食べる。ガイウスが飲む。ヴェスタが煽る。レオンが真面目に応じる。カイが止める。止めたカイの前にもなぜか杯が置かれる。彼は眉間を押さえ、そのあと水差しを手に取った。


 そこまではまだ、人の世の出来事だった。


 膝まで潮が来たのは、規則が生まれたあたりだ。


 誰が作ったのか分からない。たぶん全員が少しずつ悪い。酒の場の規則というものは、誰か一人の手柄にしてはいけない。罪を分け合うためにも、あれは自然発生したことにしておきたい。


 杯を空けた者は隣に水を渡す。


 これはいい。むしろ立派だ。


 水を受け取った者は渡した相手の体調を祈る。


 これもいい。優しい。


 祈られた者は礼として杯を上げる。


 ここから雲行きが変わった。


 礼で酒を飲む。飲んだら水を渡す。渡された者が祈る。祈られた者が飲む。輪になる。逃げ場が消える。礼儀が罠になる瞬間を俺は見た。


 レオンは真面目だった。


 真面目に水を受け取り、真面目に礼を言い、真面目に杯を空けた。あの人は規則が目の前に置かれると、まず守る方向から考えるらしい。勇者らしいと言えばそうなのかもしれない。


 だが酒の席では危ない。


 カイは止めた。


 何度も止めた。水を差し、食事を勧め、杯を下げようとした。なのに動きが正確すぎた。水を配る手つきが見事で、皆がそれを頼りにした。止めるために立っているはずが、いつの間にか宴の中心で水差しを抱えていた。


 役目を全うする者は強い。


 強いから逃げ遅れる。


 ヴァローは静かに飲んでいた。


 あれはずるい。


 声が大きくならない。笑いも膨らまない。顔色もほとんど動かない。けれど杯の底だけが、いつ見ても乾いている。誰かが騒ぐたびに観察するように一口飲む。何かの記録を取るように、目だけが淡く動く。


 今朝、彼の椅子だけがまっすぐ残っているのも納得できない。


 椅子まで酔わないのか。


 胸まで潮が来た頃、イーリスが歌った。


 歌詞は思い出せない。


 それが逆に腹立たしい。声の細い震えや、空気がやわらかく丸まった感じは残っている。ラウリ殿が目を閉じた。ガイウスが黙った。レオンが杯を持ったまま聞き入った。カイが水差しを抱えたまま、息を合わせるみたいに肩を落とした。


 歌が終わった時、誰かが杯を上げた。


 敬意だったと思う。


 その敬意がまた酒になるのだから、世の中には恐ろしい礼儀がある。


 蒼凪さんの姿は途中で消えていた。


 最初は少し席を外したのだと思った。だが戻ってこない。気づけばあの人の席には、食べ終えた皿だけが残っていた。魚は骨だけ。野菜はきれいになくなっている。パンは半分。杯の酒はほとんど減っていない。


 嵐を読む人だ。


 俺たちがまだ風向きを笑っている間に、蒼凪さんは帆を畳んでいた。


 俺も畳むべきだった。


 晩餐室から談話室へ移った理由は、ぼんやりしている。


 椅子では足りないとか、暖炉のそばがいいとか、歌うなら向こうだとか。そんな言葉が波の泡みたいに残っている。だが一つだけはっきり分かる。


 談話室へ移ったのは失敗だった。


 ソファがある。絨毯がある。低い机がある。暖炉がある。倒れても痛くない場所がある。つまり、人間が敗北するための条件が整っていた。


 酒は場所を選ぶ。


 そして俺たちは、選んではいけない場所を選んだ。


 談話室に入ってからは、記憶が細切れになる。


 ヴェスタが椅子の背に毛布を掛けていた。何をしていたのかは分からない。だが本人は真剣だった。ガイウスは盆を持っていた。盆の上には焼き菓子が三つあり、それを守っているように見えた。


 盆は盾ではない。


 焼き菓子は城ではない。


 だがガイウスの構えだけは妙に様になっていた。左肩を引き、右腕を前へ出す。あれで海辺の見世物に立てば、子どもたちは喜んだと思う。問題は、守る対象が焼き菓子だったことだ。


 ラウリ殿はそれを見ていた気がする。


 眠そうな目で。


 片目だけ開けて。


 あれは獲物を狙う目ではない。最後の甘いものがどこにあるかを見失わない目だ。人は半分眠っていても、食べ物の位置を覚えていられるらしい。


 尊敬していいのかは分からない。


 レオンは上着を畳んでいた。


 誰かに畳み方を教わったのか、酔っているのに端が揃っていた。立派だった。立派だったが、その横で本人は毛布に捕まっていた。肩へ掛けられた毛布に礼を言おうとして、立とうとして、立てずにそのまま深く頭を下げた。


 笑ってしまった。


 周りも笑った。


 本人も困ったように笑った。


 その一瞬だけ、勇者という言葉が遠くなった。そこにいたのは、礼儀正しく酔ってしまった若い男だった。毛布に勝てない。だが礼は忘れない。


 カイはそれを見て、少しだけ安心した顔をした。


 その直後、自分の杯を見て絶望していた。


 止める人間にも限界がある。水差しを握っていても、世界を全部止められるわけではない。彼の前に置かれた杯は、やけに静かに光っていた。


 ヴァローの記憶はさらに妙だ。


 最後の方、窓際に立っていた。月明かりが背中にあり、手には杯があった。誰かが何かを尋ねた。眠くないのか。酔っていないのか。まだ飲むのか。たぶんそのどれかだ。


 ヴァローは少し考えた。


 それから短く答えた。


 答えは覚えていない。


 ただ、聞いた相手が妙に納得して毛布へ戻ったことだけは覚えている。会話なのか。説得なのか。眠りへ向かう合図なのか。今の俺には判断できない。


 今朝、彼の席の近くに紙片が落ちていた。


『酒量推定、不可』


 きれいな字だった。


 きれいな字で書くな。


 それを見た瞬間、俺は紙から目をそらした。二日酔いの朝に読むものではない。そこには知ってはいけない何かがある。少なくとも今の俺の頭には重すぎる。


 もっと分からないものもあった。


 木の実みたいなものだ。


 昨夜、何か軽いものが床を転がった。こつんと鳴った。誰かの足元に当たった。その一拍あと、部屋の笑い方が変わった。油断していた腹を横からつつかれたみたいな笑いだった。


 誰かが足元を払われたのかもしれない。


 比喩で済ませたい。


 黒い影が机の下を通った気もする。尾の先が一度だけ揺れた気もする。だが俺の記憶は信用できない。信用できないものを語るのは危険だ。


 ただ、今朝の机の下に小さな丸いものが一つ転がっている。


 それだけは事実だ。


 俺は起き上がろうとした。


 世界が斜めになった。


 すぐに床へ戻った。


 毛布が肩を受け止めた。優しい。負けた人間に優しい。薔薇の館は恐ろしい場所だ。契約の場では茨が飛び、魔女の笑みには温度がない。だが酔いつぶれた客には毛布が来る。


 しかも掛け方がうまい。


 首元を締めない。肩を冷やさない。足を覆いすぎない。起きようと思えば起きられる。起きられないならそのまま寝てもいい。そういう掛け方だった。


 俺は毛布の端をつまんだ。


 薔薇の刺繍があった。


 小さくて、目立たなくて、でも丁寧だ。客用なのだろう。客用にしては数が多い。昨夜の人数に合わせて用意したのか。あるいは、この屋敷ではこういう夜が以前にもあったのか。


 ありそうだ。


 そして少し怖い。


 低い机の上に札が置かれていた。


『目覚めた方から水を』


 字が整いすぎている。


 水差しの横には杯が並び、空になったものは伏せてある。割れたものは見当たらない。銀器も無事だ。暖炉の前の置物も無事。椅子も机も立っている。


 人間だけが倒れている。


 もう一枚、札があった。


『割れ物なし』


 下に別の筆跡で短く足されていた。


『奇跡』


 俺はその札へ無言で頭を下げた。


 本当に奇跡だ。あれだけの人数がいて、あれだけ酒が出て、あれだけ毛布が動き、誰も何も割っていない。いや、人として大事な何かは少し欠けたかもしれない。


 だが形のあるものは残った。


 それは屋敷への礼儀として、ぎりぎり守れたと言っていいのだろうか。


 俺はゆっくり身体を起こした。


 今度は倒れなかった。頭は遅れてついてくる。胃は不満そうに沈んでいる。喉は水を求めている。俺は杯を取り、水を注ぎ、一口飲んだ。


 うまい。


 水とはこんなに強いものだったのか。


 昨日の俺に教えてやりたい。お前が探していた救いは瓶の中ではなく、水差しの中にある。たぶん昨日の俺は聞かない。杯を上げて笑うだけだ。


 愚かだ。


 だが少しだけ楽しそうでもある。


 毛布の山を踏まないように、俺は立ち上がった。右足だけ靴があるせいで歩きにくい。左足の靴下が絨毯を感じるたび、自分の失態を足裏から読まされているようだった。


 扉へ向かう途中、ソファの下に何かが見えた。


 靴かと思った。


 違った。


 誰かの手袋だった。きれいに畳まれている。畳んだのが本人なのか屋敷の人なのかは分からない。昨夜の混乱のあとにこの几帳面さが残っているのは、少しおかしい。


 おかしいが、ありがたい。


 扉を開けると廊下は静かだった。


 不自然なほどではない。むしろ作られた静けさだった。足音を吸う敷物。半分だけ開けられた窓。遠くの扉がゆっくり閉まる気配。誰かが起きているのに、その気配を布で包んでいる。


 屋敷が声を落としている。


 いつもの薔薇の館にも静けさはある。だがそれは刃の静けさに近い。今朝の静けさは違った。寝ている者を起こさないための静けさだ。大きな屋敷が、毛布の山を守っている。


 俺は片足の靴を見下ろした。


 なんとかしなければならない。


 そう思った時、廊下の奥から黒い衣が現れた。


 アルフレッド殿だった。


 黒衣。白手袋。銀の盆。姿勢はいつも通りで、昨夜の崩壊など存在しなかったように歩いてくる。盆の上には水と薄い色の小瓶があった。液面は揺れていない。


 この人だけ重力が違うのではないか。


「お目覚めでございますか、海守り殿」


「……おはようございます」


 声が乾いていた。


 情けないくらい乾いていた。


 アルフレッド殿は一礼し、盆をわずかに差し出した。


「こちらを」


 俺は受け取った。


 小瓶の中身は薄い塩気のある飲み物だった。水より少し重く、酒よりずっと優しい。喉を通ると胃がゆっくり目を覚ました。騒がずに、現実へ戻ってくる感じがした。


「助かります」


「お顔の色は、昨夜より落ち着いておられます」


「昨夜の顔色を知られているのがつらいです」


 アルフレッド殿の目元がほんの少し緩んだ。


 笑ったと言うには静かすぎる。だが確かに、硬い黒衣の奥で何かがやわらかくなった。


 俺は頭を下げた。


「昨夜は、すみません。かなりご迷惑をかけたと思います」


「お気になさらず」


 早い。


 あまりに早い。


 謝罪が廊下に落ちる前に拾われたような返事だった。


「薔薇の屋敷があれほど賑やかだった晩は、久方ぶりでございます」


 その声は静かだった。


 けれど、少しだけ嬉しそうだった。


 俺はその少しに驚いた。昨夜の笑いよりも、魔女の契約よりも、ある意味では不意を突かれた。アルフレッド殿が嬉しそうにするという事実が、二日酔いの頭にゆっくり染みる。


「賑やかで済みましたか」


「割れ物はございませんでした」


「人は」


「皆さま、お休みでございます」


「それは無事に含めていいんでしょうか」


「今朝に限っては、十分かと」


 その判断が優しかった。


 厳密に言えば、昨夜の俺たちはあまり無事ではなかった。尊厳のいくつかは毛布の下に置き忘れている。だが命も器も残っている。誰かが誰かの首を絞めたわけでもない。椅子を投げたわけでもない。


 同じ部屋で眠った。


 それだけだ。


 そう思うと、頭の痛みの底に別の温度があった。昨日まで互いに測っていた相手と、同じ食卓につき、同じ酒で崩れ、同じ屋敷の朝を浴びている。


 情けない。


 だが悪くない。


 アルフレッド殿が盆を持ち直した。


「本日は、魔女の館を臨時休館としております。ごゆっくりお過ごしください」


「臨時休館」


 俺は復唱した。


 言葉が廊下に落ちた。魔女の館。臨時休館。その二つが並ぶだけで、妙に現実感がなくなる。


「休むんですか。ここ」


「必要があれば」


「必要があったんですね」


「ございました」


 迷いがない。


 俺は額に手を当てた。頭痛が増した。やめればよかった。


 廊下の奥へ、アルフレッド殿は一度だけ視線を向けた。視線は短く、すぐ戻る。だがそれだけで十分だった。


「お館さまは」


「客人の前へお出ましになる時刻を、少し遅らせております」


「具合が悪い、と聞いていいんですか」


「昨夜は、たいへんお楽しみでございました」


 答えではない。


 答えではないが、答えだった。


 館の主まで、昨夜をたいへん楽しんだらしい。あの笑みを思い出すだけで、昨夜のどこかに濃い影が差す。だが今日はその影も毛布に包まれている気がした。


 アルフレッド殿は俺の足元へ視線を落とした。片方の靴を見た。顔色は変わらない。変わらないことが逆に痛い。


「お履物は湯殿の前に揃えてございます」


「いつの間に」


「回収いたしました」


「片方だけで歩くところでした」


「少し、歩かれております」


「今まさにです」


「はい」


 はい、ではない。


 俺はもう一度頭を下げようとして、頭痛を思い出して浅く止めた。アルフレッド殿は何も言わず、廊下の先へ身体を向ける。


「湯浴みの支度が整っております。お身体を温めてから、厨房隣の食堂へお越しください。軽いものをご用意しております」


「ありがとうございます。本当に何から何まで」


「客人を朝までお預かりした以上、当然でございます」


 当然という言葉が、あまりにも自然に出た。


 この屋敷では恐ろしい契約も、上質な茶も、酔いつぶれた客への毛布も、同じ手つきで扱われるのかもしれない。俺はそれをありがたいと思い、少しだけ怖いとも思った。


──────────────────────────────


 湯殿へ向かう廊下には、札が掛かっていた。


『臨時休館』


 字はきれいだった。きれいすぎて、冗談ではなく本当に休んでいることが分かる。下には小さな字がある。


『急ぎの契約は明日以降』


 俺は立ち止まった。


 昨夜の酒は、館の予定を明日へ押し流したらしい。海なら大潮だ。屋敷なら臨時休館だ。


 別の扉の前には盆が置かれていた。


 水差し。布。塩。小さな札。


『起こさないでください』


 誰のための札かは見なかった。


 見ない礼儀もある。


 談話室の方から、重い布がずれる音がした。誰かが寝返りを打ったのだろう。少し待つと静かになった。すると扉の隙間から、小さなものが転がってきた。


 こつん。


 こつん。


 廊下の端で止まった。


 木の実めいたものだった。


 俺はそれを見た。


 それは何も言わない。もちろん言わない。だが今朝の俺には、妙に勝ち誇っているように見えた。昨夜の笑いが脳裏で跳ねる。足元を払われた笑い。油断した者だけが出す、あの軽い崩れ方。


 俺は拾わなかった。


 触らない。


 今朝の俺は学んでいる。


 湯殿の前に、靴が両方そろえてあった。


 右も左も同じ顔で並んでいる。俺の靴なのに、俺よりまともに見える。どこから回収されたのかは分からない。聞きたくもない。靴にも人にも、朝までの空白は必要だ。


 俺は湯殿に入った。


 湯気が顔を包んだ。


 熱すぎない。ぬるすぎない。二日酔いの身体を叱らずに戻す温度だった。肩まで沈むと、骨の間から酒の重さが少し抜けていく。額に貼りついていた痛みも、遠くで鳴る鐘くらいには下がった。


 湯は偉大だ。


 水も偉大だ。


 酒は当分いい。


 たぶん昼には意見が変わる。人間は愚かだ。


 俺は腕を湯から出した。


 手の甲を見る。


 黒い薔薇はない。


 ただの皮膚だ。昨日、茨が絡みつき、刺さり、契約が刻まれた場所とは思えない。痛みもない。痕もない。だが何もないからこそ、逆にそこだけ記憶が残っている。


 肌の奥が覚えている。


 あれは夢ではなかった。


 契約は終わった。終わったから食卓についた。食卓についたから飲んだ。飲んだから床で寝た。


 途中のつながりがひどい。


「ひどいな」


 湯の中でつぶやくと、声が壁に丸く返った。


 考えるべきことは山ほどある。昨日の合議で出た言葉。交わした線引き。見えないまま残った重み。手の甲の奥に沈む感覚。どれも放っておけるものではない。


 だが今朝は無理だ。


 深く潜れば戻れない。


 俺は海で育った。潜っていい時といけない時の違いくらい分かる。今の俺は潜ってはいけない。息が続かない。頭も腹も、まず陸へ上がれと言っている。


 湯をすくって顔を洗った。


 湯の匂いには、薔薇の香りがほんの少し混じっていた。強くはない。疲れた鼻に引っかからない程度だ。館のどこにいても薔薇は消えない。昨日の黒い契約も、今朝の白い湯気も、同じ屋敷の中にある。


 そこが不思議だった。


 怖さと世話が同じ廊下を歩く。


 湯から上がると、身体はかなり戻っていた。


 まだ頭は痛い。胃も威張れない。だが足は床を覚えた。髪を拭き、用意されていた服を整え、両方の靴を履く。両足に同じ重みがあるだけで、人生が少し持ち直した気がした。


 小さな勝利だ。


 勝利の基準が低い。


 それでも今朝はそれでいい。


──────────────────────────────


 厨房へ向かう前に、俺は談話室の前で足を止めた。


 忘れ物を確かめるためだ。


 と言い訳したい。


 実際には、昨夜の残骸をもう一度見ておきたかったのかもしれない。あの場が夢ではないと確かめたい気持ちと、夢であってほしい気持ちが半分ずつあった。


 扉を細く開けた。


 談話室は、まだ眠っていた。


 光は入っている。だが厚い毛布と低い机と消えた暖炉の匂いが、夜を少しだけ留めている。空瓶のほとんどは片づけられ、水だけが残されていた。杯は伏せられ、布巾は畳まれ、机の端には塩がある。


 屋敷の手が入った後の宴の跡だ。


 散らかった昨日と、整えられた今朝が重なっている。


 ソファの背から外套がずり落ちそうだった。


 俺はそっと直した。


 その瞬間、近くの毛布の山がわずかに動いた。


 俺は止まった。


 起こしてはいけない。


 今、誰かが目を覚まし、俺を見て、昨夜の何かを思い出したら終わる。俺も思い出す。互いに思い出してしまう。そうなれば、この朝を生きる難しさが増す。


 毛布の山は動かなくなった。


 俺は外套から手を離し、息を殺して後退した。


 扉を閉める。


 音を立てない。


 勝った。


 今朝二度目の小さな勝利だった。


 廊下へ戻ると、屋敷の静けさがまた広がった。誰かの寝息の気配が壁の向こうから伝わる。遠くで布が揺れた音。窓から入る風。薔薇の葉が擦れる音。


 魔女の館というより、大きな寝床だ。


 ただしその主まで寝ているらしい。


 考えると少し笑えた。笑うと頭が痛いので、口元だけでやめた。


 厨房に近づくにつれ、音が戻ってきた。


 水が流れる。包丁が板を叩く。火が小さく鳴る。鍋の中で何かがとろりと動く。臨時休館の札が掛かっていても、腹を空かせた者と二日酔いの者は休まない。


 匂いが先に来た。


 出汁の匂い。米の甘い匂い。焼いた魚の香ばしさ。塩と湯気と灰の匂い。俺の胃は、さっきまで弱っていたくせに、その匂いには小さく反応した。


 現金だ。


 厨房の入口で声をかける前に、透真さんが顔を上げた。


「起きたか、ヒュウマ」


 呼び捨てだった。


 距離が近すぎるわけではない。肩を叩くほどではない。けれど昨日より半歩だけ近い。厨房で人の体調を見ている者の声だった。皿と火と水の間で、相手が座れるかどうかを確かめる声だ。


「おはようございます。昨夜は」


「謝る前に水」


 椀が出た。


 俺は受け取った。


「飲め」


 飲んだ。


 ぬるくない。冷たすぎない。二日酔いの喉を驚かせない温度だった。


「次に塩」


 小皿が出た。


「少しでいい。それから座れ。反省はあとだ」


「反省くらい先に」


「いらない。今の胃に入らない」


 俺は言葉を失った。


 その通りだった。


 厨房隣の小さな食堂へ通された。大きな食堂ではない。屋敷の者たちが交代で使う場所だろう。白木の机は磨かれていて、椅子の数は必要な分だけ。窓から朝の光が入り、湯気が細く上がっている。


 机の端に黒猫がいた。


 黒い毛並み。深い緑の目。尾は机の縁に沿ってゆっくり揺れている。皿の上には焼き魚があり、黒猫は迷いのない速度でそれを食べていた。


 俺の前には粥が置かれた。


 黒猫の前には魚。


 差がある。


 たいへん大きな差がある。


 黒猫は一度、俺を見た。次に俺の粥を見た。それから自分の魚を見た。目が少し細くなる。


 勝った顔だった。


 腹立たしいほど勝った顔だった。


「フェリ様、ヒュウマの粥は奪わないでください」


 透真さんが鍋を見たまま言った。


 黒猫は答えない。


 魚へ顔を戻しただけだ。


「奪うつもりだったんですか」


「あの目は見てた」


「粥をですか」


「魚が遅ければ、考えてたな」


 俺は椀を両手で持った。


 今朝守るべきものは粥だった。昨夜は契約だの合議だの言っていたのに、今の俺にとって最前線はこの椀である。人生は急に小さくなる。


 粥は薄かった。


 薄いが、ただの薄さではない。米の粒がやわらかくほどけ、出汁が奥にあり、塩はほんの少し。熱すぎず、ぬるくもない。舌に乗った時は頼りないのに、飲み込むと腹の底で静かに広がる。


 一口目で喉がほどけた。


 二口目で胃がこちらを許した。


 三口目で身体が、朝を少しだけ受け入れた。


「うまいです」


「食えるなら勝ちだ」


 透真さんは鍋の火を弱めた。


「昨夜、ひどかったですか」


「ひどいの種類による」


「種類」


「あれだけ空気が固かった晩餐が、あそこまで崩れるのは珍しい」


「やっぱり崩れてましたか」


「綺麗に崩れた」


 綺麗に。


 そう言われると少し救われる。崩れたこと自体は否定できない。ならばせめて、散らかり方に美しさがあったと思いたい。


「最初は全員が皿より相手を見てた。あれは食わせる側からすると、あまりよくない」


 透真さんは布巾で手を拭いた。


「途中から全員が皿を見てた。そこはよかった」


「いいんですか」


「食ったならいい。飲みすぎは別だ」


「すみません」


「謝罪は胃に入らない」


 水がまた出た。


 俺は飲んだ。


 これほど正しい言葉はなかなかない。謝罪は胃に入らない。反省も水分にはならない。二日酔いの朝には、正しさより椀が必要だ。


 黒猫は魚を食べ終えていた。


 皿には骨だけが残っている。見事だった。魚が最初から骨の形で皿に載っていたように、身が消えている。黒猫は前足をそろえ、尾をゆっくり振った。


「フェリ様、骨は端へ」


 透真さんが言うと、黒猫は一度だけ目を細めた。


 それから骨を皿の端へ寄せた。


 従った。


 従ったが、従ってやったという顔だった。


「昨夜、あの転がったものは」


 俺はそこで言葉を止めた。


 聞いていいのか分からなかった。聞いたところで、正しい答えが返るかも分からない。当の黒猫は魚を食べている。しかも目が強い。


 透真さんは俺の迷いを見て、短く言った。


「俺は厨房にいた」


「ですよね」


「だから知らない」


 そこで終わるかと思った。


 だが少し間を置き、透真さんは鍋の蓋をずらした。


「ただ、一度だけ晩餐室から笑い方が変わった」


「変わった」


「皿が割れた笑いじゃない。怒った笑いでもない。足元を軽く払われたみたいな笑いだ」


 俺は椀を持ったまま固まった。


 昨夜の軽い音が戻ってきた。床を転がる何か。靴に当たる音。間。爆発する笑い。


 黒猫は窓を見ていた。


 自分は関係ない。


 そういう横顔だった。


 関係ある者の横顔だった。


「木の実みたいなものが廊下に」


「見なかったことにしろ」


 即答だった。


「そうします」


「賢い」


 黒猫の尾が一度だけ動いた。


 勝った顔をしている。魚を食べ、骨を端へ寄せ、粥を奪わずにいるだけでこの存在感だ。一言も鳴かなくても、部屋の空気に爪の跡を残していく。


 俺は粥を守りながら食べた。


 粥の底が見えてくる頃には、頭痛はまだあるが、輪郭がぼやけていた。さっきまで眉間に刺さっていた杭が、少し遠くへ移った感じだ。胃も椀を受け入れている。身体がようやく、今日という日を破棄しない方針に傾いた。


「昨夜、蒼凪さんは早かったですね」


 言ってから、聞きすぎたかと思った。


 透真さんは特に表情を変えなかった。


「嵐の前に窓を閉める人はいる」


「俺もそうすればよかったです」


「閉める側と開ける側がいる。昨日のお前は開ける側だった」


「嫌な役です」


「嫌なら次は水差し側に回れ」


「カイさんが見事に巻き込まれてました」


「水差し側も危ない」


 否定できなかった。


 二日酔いの朝に、教訓だけは増えていく。酒の規則は疑え。礼儀が罠になることがある。毛布は偉大。靴は両方脱ごう。木の実めいたものには触らない。


「食べ終えたら、今日は寝ろ」


 透真さんが言った。


「手伝えることは」


「ない」


 早い。


「でも」


「二日酔いの人間に厨房を歩かれると危ない。粥を食えたなら今日は勝ちだ」


「勝ちの基準が低い」


「朝による。今朝は低くていい」


 透真さんの判断は、料理と同じで迷いがない。


 俺は椀の最後を食べた。


 米粒が舌に残り、薄い塩が喉を通る。空になった椀を置くと、それだけで少し成し遂げた気分になる。昨夜の俺が聞いたら笑うだろう。だが今の俺にとっては大事な一歩だ。


 黒猫の前には二皿目の魚が来ていた。


 臨時休館でも、魚は休まない。


 黒猫の胃も休まない。


 俺は食堂を出る前に、透真さんへ頭を下げた。今度は浅く。頭痛を学習した角度だった。


「ごちそうさまでした」


「水を持っていけ」


 小瓶が渡された。


「ありがとうございます」


「眠る前に少し飲め。起きてからも飲め。謝るならその後だ」


「はい」


 実務の人だ。


 優しいとか厳しいとかより先に、必要なものが出てくる。水。塩。椅子。粥。眠れという言葉。そういう世話は、胸に静かに残る。


──────────────────────────────


 食堂を出ると、廊下の光が少し柔らかくなっていた。


 朝が暴力ではなくなったわけではない。だが距離ができた。湯と粥が間に入ってくれた。俺は小瓶を持ち、ゆっくり自室へ向かう。


 途中、庭へ続く通路に差しかかった。


 薔薇庭園が見えた。


 昨夜は影の中で黒く沈んでいた花が、朝の光でそれぞれの色を取り戻している。赤。白。淡い桃色。濃い葉の緑。露が葉先に残り、風が通るたびに小さく光る。土は湿っていて、花の匂いに朝の冷たさが混じっていた。


 東屋の屋根が見えた。


 その下に、蒼凪さんがいた。


 本を読んでいる。


 背筋はいつも通り静かで、指先だけが頁をめくる。机には水の入った杯があり、他には何も騒がしいものがない。昨夜の宴から一人だけ別の朝へ滑り出したような姿だった。


 俺は足を止めた。


 声をかけようと思った。


 おはようございます。


 昨夜、いつの間に席を外したんですか。


 俺の靴が片方消えた件について、何か知っていますか。


 どれも違う気がした。


 庭の光の中で、蒼凪さんは本へ目を落としている。昨日の合議も契約も、宴も、その後の静けさも、あの人なりに並べている途中なのかもしれない。そこへ俺が、二日酔いの顔で踏み込む必要はない。


 俺は粥を守ったばかりの男だ。


 東屋へ行くにはまだ早い。


 少しだけ寂しさがあった。


 だがそれは、声をかけない理由を壊すほど強くなかった。むしろ今朝は、その距離がちょうどよく思えた。同じ屋敷にいる。同じ朝を迎えている。けれど無理に言葉を重ねなくていい。


 俺は足音を小さくして、庭の前を通り過ぎた。


 廊下へ戻ると、屋敷は相変わらず静かだった。


 どこかで水が注がれる音がする。遠くの扉が開き、すぐ閉じる。寝ている者を起こさないための動きだ。昨夜の賑やかさが嘘みたいに、今朝はすべてが布越しになっている。


 だが冷たいわけではない。


 むしろ温かい。


 大声で笑った後に残る喉の痛み。杯を重ねた後の頭痛。毛布の中で誰かが寝返りを打つ気配。同じ屋敷に、それらが散らばっている。昨日までの緊張が消えたわけではない。問題が解けたわけでもない。


 それでも今朝は、誰も急いでいない。


 臨時休館とは、そういうことなのだろう。


──────────────────────────────


 自室は整えられていた。


 窓が少し開き、風が入っている。寝台の横には水差しと杯。小さな皿に塩。薄い飲み物の小瓶。椅子には清潔な布が掛けられている。昨夜着ていたものはもう見当たらない。


 俺より部屋の方が先に立ち直っていた。


 それもまた負けた気がする。


 寝台に腰を下ろした。


 靴を脱ぐ。


 今度は両方だ。


 右も左も、きちんと床に並べる。それだけで胸の奥に小さな安堵が落ちた。片方だけの朝はもう終わりだ。少なくとも靴については。


 俺は水を飲んだ。


 それから横になった。


 背中が寝台を受け止める。床ではない。絨毯でもない。頬に毛足の跡をつける心配もない。寝台は偉大だ。毛布も偉大だ。屋敷の世話は、さらに偉大だ。


 目を閉じると、屋敷の音が遠くなった。


 誰かが廊下を歩く。途中で足音が止まる。また遠ざかる。話し声はない。扉の向こうの世界が、寝ている者たちに合わせて息を潜めている。


 こんな大きな屋敷が、全員で寝坊を守っている。


 そのことが少しおかしく、少し温かかった。


 昨日まで、俺たちは互いに目を測っていた。言葉の端を拾い、沈黙の意味を読もうとしていた。今朝は、同じ酒の残りを抱えて同じ屋根の下に沈んでいる。誰が強いとか、誰が正しいとかではなく、だいたい全員が朝の光に負けている。


 それは誇れることではない。


 けれど悪くない。


 少なくとも昨夜、俺たちは同じ部屋で笑った。歌を聞き、杯を上げ、毛布にくるまれた。同じ朝に水を飲み、同じ屋敷の静けさに助けられている。


 それだけは確かだった。


 窓の外に海は見えない。


 薔薇の館は港から離れている。けれど目を閉じると、潮騒が近く聞こえる気がした。頭痛のせいかもしれない。湯で身体が緩んだからかもしれない。手の甲の奥に、まだ昨日の余韻が沈んでいるからかもしれない。


 波が寄せる。


 引く。


 また寄せる。


 屋敷の音がさらに遠くなる。薔薇の匂いも、粥の温度も、湯気の白さも、少しずつ眠りの底へ溶けていく。臨時休館の魔女の館で、誰も急いでいない。


 なら、俺も急がなくていい。


 潮騒が近く聞こえるような気がして、そのまま眠りに落ちた。

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