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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
97/129

薔薇と黒猫

 小扉の金具が噛み合うと、円卓の声は厚い木の向こうで水底めいて鈍った。


 エヴァンジェリーネは足を止めなかった。


 廊下に伸びた深紅の裾が、壁灯の炎を一つずつ拾っていく。硝子越しの灯は細く震え、白壁に編まれた薔薇の模様へ棘の影を足していた。背後ではまだ椅子が動く。革靴が床を擦る。誰かが息を吐き、誰かが低い声で返し、誰かが契約の余韻から手を離せずにいる。


 その気配を背に置いたまま、薔薇の魔女は館の奥へ歩いた。


 歩調は乱れない。


 ただ、廊下の三つ目の壁灯を過ぎた時だけ、指輪を重ねた手が壁紙の薔薇に触れた。指先は織り糸の棘を一度だけ撫でる。布のざらつきが爪の下へかすかに残り、すぐ離れた。


 晩餐室の方角から、銀の当たる音が届いた。


 まだ遠い。


 遠いが、館の奥にまで来る音だった。


 厨房の熱は廊下の下を伝っていた。焼いた肉の脂。潰した香草。割る前のパンの皮が抱えた甘い湯気。曲がり角では若いメイドが盆を胸に抱えて立ち止まり、二人同時に膝を折った。盆の上の皿は鳴らない。息も鳴らない。


 アルフレッドはいない。


 メリッサの鋭い声もない。


 あの二人の手と目は、今は晩餐室に取られている。合議を終えた者たちを食卓へ移し、温かい皿を冷まさず、酒瓶を足し、若い客人たちの張りつめた背を椅子へ沈めるために、薔薇の館は大きな獣のように静かに動いていた。


 エヴァは自室の前で止まった。


 扉の下から、焼き菓子の匂いが漏れていた。


 甘い。焦がした砂糖の匂いまである。


 鍵は外されている。


 エヴァは取っ手を押した。


「契約は終わったようね」


 声は扉の内側から流れてきた。


 深紅の長椅子に、黒髪の女が横向きに沈んでいた。背もたれへ肩を預け、片膝を立て、もう片方の足を絨毯へ投げ出している。白い指の間には小さな焼き菓子。皿は膝の上。黒い短外套は長椅子の背に掛かり、袖口から覗く紫の糸だけが灯を拾っていた。


 髪は真っすぐ肩甲骨の下まで落ち、毛先だけが気ままに跳ねている。目は黒く見えるほど深い緑。細い銀鎖の先では黒曜石の飾りが揺れていて、骨だけになった小魚にも小さな針にも見えた。


 女は菓子を噛み砕き、指に残った砂糖を眺めた。


 それから手首を返し、耳へ髪をかける。


 黒猫が前脚を舐める時のような、遠慮のない面倒くささだった。


 エヴァは扉を閉めた。


「妾の菓子を、また勝手に」


「置いてあったから」


「置いてあっただけで食うな」


「食べられたくないものは隠すものよ」


「ここは妾の部屋じゃ」


「だから隠し場所も多いよね」


 黒髪の女は、何の反省もない指で次の菓子を取った。


 フェリシア・ノクティリア。


 屋敷の者がフェリ様と呼ぶ黒猫は、その夜、人の姿で長椅子と菓子皿を占領していた。


 猫の姿でも人の姿でも、部屋へ置く影の濃さは変わらない。そこに座っているのに、棚の隙間へ潜んでいるように見える。灯を受けているのに、影の半分を窓の外へ残しているように見える。人の腕。人の脚。人の喉。けれど、目を逸らした瞬間に皿の横か暖炉の上へ移っていても不思議ではない。


 人の形が、フェリシアを人から遠ざけていた。


 エヴァは奥の椅子へ向かった。金細工の肘掛けに手を置き、座る前に菓子皿を見下ろす。皿の縁には砂糖が散り、焼き菓子は半分以上が消えていた。黒い服の膝にも白い粉が落ちている。


「魚ではないぞ」


「知ってる。魚より賽の味がする」


「賽を食う者があるか」


「転がるものは、だいたい食べられるよ」


「腹を壊すぞ」


「壊れた腹は寝れば直る」


 エヴァは椅子へ腰を下ろした。会議室で固めていた背筋が、絹張りの背へ沈むにつれてゆるむ。深紅の袖が肘掛けから落ち、指輪の金が橙の灯を跳ね返した。


 私室は会議室より狭い。


 それでも一人の女主人が夜を過ごすには、広すぎるほどだった。壁際には低い書棚が並び、革表紙の本と封を切っていない手紙が眠っている。窓辺の細い花瓶には黒い薔薇。暖炉には火こそ入っていないが、灰の奥に残った熱が石の匂いを保っていた。


 そこに、半分空になった銀皿がある。


 持ち主の許しを得ていないものだけが、部屋で一番生き生きしていた。


 フェリシアはその部屋の癖を、最初から自分のものとして扱う。足先で絨毯を撫でる。肘掛けへ肘を置く。菓子を選ぶ時だけ、眠たげな目がわずかに鋭くなる。客の態度ではない。盗人の態度でもない。古い屋根裏の梁を知る者が、暗い中でも頭をぶつけずに歩く時の自然さだった。


 エヴァは咎めない。


 咎めるには、長い時間を見すぎていた。黒猫が窓辺で丸くなっている時も、棚から尾を垂らしている時も、今のように人の膝で皿を支えている時も、フェリシアは同じだった。礼儀が姿に合わせて変わると思うのは、まだこの黒猫をよく知らぬ者だけである。


 エヴァにとっては、菓子を盗む足が白い指に変わったにすぎない。


「珍しいね。あんたがあのオルヴェリスの尖兵に茨を刺すなんて」


 フェリシアは皿の中を覗き、欠けの少ない菓子を選んだ。


「いくら凪からの頼みだって、ねぇ?」


 エヴァは鼻先で笑った。


「最初は突っぱねた。若人の約束に棘を添えるなど、妾の趣味ではない」


「趣味じゃないこと、嫌いだよね」


「嫌いではない。退屈なだけじゃ」


「同じ魚籠だよ」


「魚ではないと言うておる」


 フェリシアは眠そうに肩を揺らした。笑ったのか、息を抜いただけなのか判然としない。


 エヴァの口元がゆがむ。


「凪め、あいつ。年々狡猾になってきておる。よりにもよって黄金の名前を出しおった」


 フェリシアの指が止まった。


 菓子の砂糖が一粒、皿に落ちる。


 その小さな音だけが、部屋の真ん中へ残った。


「……あぁ、そういうこと」


 納得は短かった。


 黄金の魔女。


 その名は、薔薇の館の奥で口にされても余分な説明を求めなかった。白い石の遠い奥に差す、金色の厄介な光。エヴァの口でその名が動く時、空気は菓子の甘さを一枚剥がされる。


 フェリシアは知っている。


 だから、聞き返さない。


 名は鍵に似ていた。合わぬ者にはただ冷たい飾りであり、合う者には古い箱の底まで開く。黒猫はその鍵穴を見たことがある。だから黄金という一語で、凪の頼みがエヴァの退屈をどこから刺したのかを悟った。


 ただ、箱の底のものを取り出すほど、夜はまだ深くなかった。


 エヴァは肘掛けへ指を置いた。


 爪が金細工を軽く鳴らす。


「凪の言い分にも理はあった。滅多に触れぬ駒に、こちらの茨を一つ絡める機会など多くはない」


「駒」


「本人の前では言わぬ」


「言う時もあるよね」


「気分次第じゃ」


 フェリシアは皿の上で菓子を転がした。


「それで、黄金の顔を思い浮かべた?」


「当然じゃ。教会の寵児に黒茨が刺さったと知れば、あの女の眉も少しは動くであろう」


「動くだけでいいの」


「妾はあの顔を見れるのならば何だってやるぞ」


 笑いが落ちた。


「カカカ」


 契約の場に響いたものとは違う。法を宣する声ではない。鍵穴へ針金を差し、奥で何かが外れる音を待つ者の笑いだった。


 フェリシアは目を細めた。


「……呆れた。薔薇の魔女様ともあろう者が、そんな理由で大事な茨を使うんだね」


「そんな理由ではない」


「黄金の顔」


「凪の頼み」


「黄金の顔」


「若人への慈悲」


「菓子より嘘が多い」


「お主が食っておる菓子ほどではない」


 フェリシアは菓子を口へ入れ、砂糖のついた指を軽く払った。


「面白いじゃない」


 片側の口角だけが上がる。


「にひ」


 エヴァは空の杯を指で弾いた。澄んだ音が小卓の上で立ち、すぐ静まる。酒はまだ来ていない。来ていないから、部屋の静けさは菓子の匂いと一緒に少し長く残った。


 遠くで、晩餐室の扉が開く音がした。


 人が増える音だった。


 椅子の脚。布の擦れ。温かい皿が置かれる鈍い響き。合議の硬さを肩に乗せた若い者たちが、それでも湯気の前で座り直す気配がある。声はまだ低い。けれど、さっきより数が多い。


 エヴァはそちらを見なかった。


「まったく。可愛げがなくなったかと思えば、別のところから妾を退屈させぬ」


「凪のこと?」


「他に誰がおる」


「海守りも、だね」


 エヴァの金の瞳が狭まる。


「お主、何を見た」


「見たんじゃない。匂っただけ」


 フェリシアは皿の端に残った砂糖を爪で集める。


「あの二人の近くは、賽が水に沈むの。軽い目が軽く落ちない。沈むはずのないものが、魚の腹みたいにふっと止まる」


「相変わらず分からぬ物言いじゃ」


「分かる言い方は高いの」


「なら安い方でよい」


「安い方は、変な感じ」


「ますます役に立たぬ」


 フェリシアは砂糖を舐める代わりに、指を膝の上で払った。


「役に立つものほど、眠い時もあるよ」


 エヴァは少し黙り、喉の奥で笑った。


「くっくっく。魚だの賽だの水だの。お主の占いは、皿の上が散らかっておるな」


「散らかってる時の方が、よく当たるよ」


 笑いは長く続かなかった。


 空の杯の縁を、エヴァの爪がゆっくりなぞる。硝子はまだ冷たい。契約の場で乾いた喉に、薔薇酒の火が欲しくなる頃合いだった。


「あんたが黄金とファフニール卿の婚姻を取り持った時も、いい目が出ると思ってたけど」


 フェリシアは背を長椅子へ預ける。


「まだ続くんだ。次のヴァルプルギスは、少し起きてられそう」


「あの集まりを楽しみにするとは、悪趣味じゃの」


「あんたも嫌いじゃないよね」


「嫌いじゃ」


「面倒なだけだよね」


「面倒は嫌いの十分な理由じゃ」


「でも、その顔を土産にできるなら?」


 フェリシアの指が空中で小さく転がる。見えない賽を弾くような動きだった。


 エヴァは顎を少し上げた。


「持って行くに決まっておろう。黒茨の話だけで、しばらく酒がうまい」


「奥様、性格悪いね」


「薔薇の魔女に性格の良さを求めるでない。棘の立つ瀬がないわ」


 二人の間に沈黙が置かれた。


 扉の外で足音が止まる。


 控えていたディーノ・ベラルディが、扉の向こうから声をかけた。


「奥様。失礼いたします」


「入れ」


 扉が開いた。


 ディーノは銀盆を手に入ってきた。白手袋。黒のバトラー服。硬い襟。整った顔は静かに保たれている。長椅子にいる人型のフェリシアを認めた瞬間、銀盆の角度だけが針の先ほど変わった。


 水差しは鳴らない。


 杯も揺れない。


「フェリ様」


 ディーノは頭を下げた。


 人の姿を見た驚きは、声のどこにも置かれていない。


 訓練であり、生存の作法でもあった。薔薇の館では、見てはいけないものを騒がず見ない。けれど、見落としてはいけないものは決して落とさない。杯の数。菓子皿の欠け。主の指の動き。客の靴先。影がどちらへ濃いか。そういうものを拾いながら、顔は清潔な布のように平らでなければならない。


 ディーノはまだ若い。


 アルフレッドのように部屋の空気の継ぎ目を消すことはできない。メリッサのように一瞥で皿と人心の乱れを同時に整えることもできない。それでも、余計な勇気を見せぬ慎重さは身につけていた。


 その慎重さは今、薔薇の魔女と人型の黒猫の間で試されている。


 フェリシアが一度瞬きした。


「見たね」


「失礼いたしました」


「なかったことにする?」


「奥様のお部屋にいらっしゃるお客様を、見落とすわけには参りません」


 エヴァが眉を上げる。


「ほう」


 ディーノの背筋は揺れない。


「ただし、必要以上には拝見しておりません」


 フェリシアは菓子を一つ持ち上げ、ディーノへ差し向けた。


「正解。たぶん」


「恐れ入ります」


「食べる?」


「勤務中ですので」


「勤務中って、味が薄そう」


「申し訳ございません」


 エヴァが指を鳴らした。


「ディーノ。酒を」


「承知いたしました」


「菓子も持て。フェリが妾の皿を哀れな姿にした」


 フェリシアは皿を見下ろす。


「まだ二つある」


「数の問題ではない。気品の問題じゃ」


「皿に気品を求めるの、疲れそう」


 ディーノは水差しを小卓へ置き、盆を胸元へ戻した。


「薔薇酒でよろしいでしょうか」


「強い方じゃ」


 返事まで、わずかな間が空いた。


「……承知いたしました」


「今の間は何じゃ」


「銘柄の確認でございます」


「アルフレッドの顔を借りるには早いぞ」


「恐れ入ります」


 ディーノは頭を下げた。扉へ向かう足音は静かだが、平素より半歩だけ早い。


 フェリシアはその背を眺めた。


「あの子、靴を踏まなくなったから使いやすい」


「踏んでおったのか」


「最初だけ」


「なぜ」


「水差しの置き場が悪かった」


「それはメリッサの領分じゃ」


「踏んだ方が早かった」


 エヴァは喉の奥で笑った。


「お主の早道は、屋敷の者には災難じゃな」


「災難も慣れると道になるよ」


 廊下の向こうで、晩餐室の声が少し膨らんだ。


 最初は短い驚きの声。次に椅子が引かれる音。誰かが低く制し、別の者がこらえ切れずに笑った。まだ言葉の中身は届かない。ただ、皿の上の緊張がほぐれ始めたことだけは伝わった。


──────────────────────────────


 エヴァは空の杯を回した。


「最近の市井の天使と悪魔どもはどうじゃ」


 部屋の空気が、薄く冷える。


 フェリシアは残りの菓子へ伸ばしかけた指を止めた。


「どっちも相変わらず。天の方は忙しく歩き回ってる。魔の方は、ほとんど見かけないね」


「凪たちが来てからもか」


「凪たちが来ても、目はまだ変わってないよ」


「何も無しか」


「結果は見ないようにしてるけど……何とも言えないね」


 フェリシアは窓の方へ目を向けた。


 夜の庭では、薔薇の色がすべて黒へ沈んでいる。花弁は闇に溶け、棘だけが灯の端で細い形を残していた。


「落ちる前の小石みたいな音はある。でも今は、食卓の方がうるさい」


「それは報告か」


「感想」


「感想なら日記に書け」


「日記は魚が読まないから」


「魚に読ませる必要がどこにある」


「読まないから、いいんだよ」


 エヴァは笑わなかった。


 沈黙が短く落ちた。菓子の甘みと薔薇の香りの奥に、氷の薄片のようなものが混ざる。天使。悪魔。市井。二人の魔女は、それ以上を言葉で広げない。広げなくても、互いに必要なところまでは届いていた。


 遠い晩餐室で、杯が触れた。


 澄んだ音がいくつも重なり、次の瞬間には笑いへ変わる。


 冷えたものは、その笑いに少し押し返された。


──────────────────────────────


 扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 ディーノが戻った。


 銀盆の上には、薔薇色の酒を含んだ細長い瓶があった。二つの杯。新しい菓子皿。蜂蜜を含ませた果実。薄切りの乾酪。香草をまぶした木の実。小さく焼いた菓子も積まれている。


「遅い」


 エヴァが言った。


「申し訳ございません。晩餐室への追加酒と重なりました」


「あちらはもう飲んでおるか」


「はい。皆様、お席に着かれております」


「騒いでおるな」


「……賑やかでございます」


 フェリシアが小さく笑う。


「賑やか、だって」


 ディーノは盆を置いた。表情はそのまま保たれている。ただ、その一語の中には報告書へ移せない種類の気配がいくつか折り畳まれていた。


 エヴァは瓶を見た。


「注げ」


「はい」


 ディーノは杯を取り、薔薇酒を注いだ。濃い赤が硝子の底へ広がる。香りはすぐに立った。薔薇の甘さ。火を溶かした酒精。喉の奥を先に熱くする気配。


「フェリ様も」


「少し」


「少しとは、どの程度でございましょう」


「猫の額ほど」


 ディーノの手が止まる。


「……承知いたしました」


 彼はエヴァの杯の半分よりも少なく注いだ。


 フェリシアはそれを見て、口角を少し上げた。


「正解。たぶん」


「恐れ入ります」


 エヴァは自分の杯を持つ。


「ディーノ」


「はい、奥様」


「今宵はここに控えよ」


「かしこまりました」


「もっと近くじゃ」


 ディーノの視線が小卓と扉の距離を測った。


「こちらでよろしいでしょうか」


「遠い」


「では、こちらで」


「まだ遠い」


 フェリシアが杯の香りを嗅ぎながら言った。


「エヴァ、遊んでる」


「灯の近くに若い男が立つと、部屋が締まる」


 ディーノの手袋の白が、盆の縁でかすかに張った。


「奥様」


「なんじゃ」


「私は室内装飾ではございません」


「知っておる。装飾なら口答えせぬ」


「職務上の訂正でございます」


「なおよい」


 フェリシアは酒を少し含み、すぐに眉を寄せた。


「強い」


「強い方を持てと言うた」


「あたしは聞いてない」


「聞かずに飲むからじゃ」


「罠だったんだ」


「杯は逃げも隠れもせぬ」


 エヴァは自分の杯を半分ほど空けた。


 ディーノの眉が動きかけ、すぐ戻る。


「奥様。空腹に強い酒はお控えください」


「契約で疲れた」


「軽いお食事をお持ちいたします」


「菓子でよい」


「菓子は食事ではございません」


「妾が食事と呼べば、この館では食事じゃ」


「メイド長がいらしたら、違うご判断かと存じます」


 部屋が一拍だけ止まった。


 フェリシアの目が細くなる。


 エヴァも黙った。


 それから、ゆっくり笑った。


「くっくっく」


 ディーノは頭を下げた。


「失礼いたしました」


「よい。メリッサがおらぬ時にそれを言うとは、なかなか肝が据わっておる」


「肝ではなく、職務でございます」


「ますますよい」


 エヴァは菓子皿から蜂蜜漬けの果実を摘み、ディーノへ差し出した。


「食え」


「勤務中です」


「命令じゃ」


「……承知いたしました」


 ディーノは白手袋を外すべきか迷った。迷いは、指先の沈黙にだけ出た。すぐに予備の小皿を取り、果実を受ける。


「違う」


 エヴァが言った。


「違いますか」


「妾が手ずから差し出しておる」


 ディーノは表情を整えたまま止まった。


 フェリシアが長椅子の上で肩を震わせる。


「その目は高いね」


「フェリ様」


 ディーノの声は礼儀正しい。


「助け舟をいただけるのでしたら、今が適切かと存じます」


「助け舟?」


 フェリシアは眠たげに瞬きした。


「じゃあ、あたしの分も選んで」


「承知いたしました」


「魚に近い味」


「その条件を満たす菓子はございません」


「じゃあ、一番遠い味」


 ディーノの肩が、ほんの少しだけ下がった。


「かしこまりました」


 エヴァが声を立てて笑った。


 その笑いはもう女主人のそれだけではない。


「カカカ。よいぞ、ディーノ。今夜はそなたがよい酒肴じゃ」


「恐れ入ります」


「恐れておる顔ではないな」


「恐れは内側にございます」


「ほう。言うではないか」


 エヴァは杯を掲げた。


「ならば、そこへ立て。妾の杯が空けば注げ。フェリが菓子に難癖をつければ別の皿を寄越せ。晩餐室が静かになれば報告せよ」


「最後の条件は、今夜中には難しいかと存じます」


 その時、晩餐室の方から大きな笑い声が上がった。


 男たちの声だった。一人ではない。複数の声が重なり、卓を叩いたような鈍い音も混じる。すぐ誰かが制しようとしたが、その声も笑いに飲まれた。


 ディーノは扉を見ない。


 フェリシアは見た。


「大きくなったね」


「腹が満ちると、声も椅子からはみ出すものじゃ」


 ディーノは盆の角度を直した。晩餐室で誰が声を上げ、誰が止め、誰が止めるふりで火を足すのか。予想はできるが、確信には届かない。アルフレッドなら足音だけで席の乱れを読む。メリッサなら戻る皿の重さで酒量を当てる。そこまで及ばぬ若いバトラーは、せめてこの部屋の杯を倒さぬよう瓶の重さを覚えた。


 エヴァは杯を空にした。


「注げ」


 ディーノは瓶を持った。


「奥様。先ほどより控えめにいたします」


「多めじゃ」


 ディーノは杯を受ける手を動かさず、瓶の口だけを少し持ち上げた。


「ほう」


 フェリシアが膝を抱えた。


「反抗だ」


「職務でございます」


「いい賽だね」


「恐縮です」


 エヴァは杯を差し出したまま、目を細める。


「アルフレッドの留守に、妾へ説教か」


「執事頭が不在のため、最低限の確認を代行しております」


「メリッサの留守に、妾の食事に口を出すか」


「メイド長が不在のため、最低限の栄養を確認しております」


「では今宵のそなたは、半分アルフレッドで半分メリッサじゃな」


 ディーノは黙った。


 長くはない沈黙だった。


「どちらの半分にも、まだ到底及びません」


 エヴァは満足げに笑う。


「謙遜半分。事実半分じゃ」


「恐れ入ります」


「よい。少なめで許す」


「ありがとうございます」


 ディーノは杯の三分の一ほどを満たした。


 エヴァは鼻を鳴らす。


「少なすぎる」


 ディーノは瓶を垂直に戻し、杯から一歩だけ離した。


「そなた、図太くなったな」


「三年目でございますので」


 フェリシアが「にひ」と笑った。


「その返し、魚一尾ぶん」


「いただけるのでしょうか」


「あげない」


 ディーノは一礼し、盆の端の木の実が転がらぬよう指で止めた。


 晩餐室の声がさらに広がった。


 今度は笑いだけではない。低い声が何かを語る。別の声が短く応じる。杯が触れ、椅子が軋み、皿が置かれる。そこへ高い笑いが一つ混じった。誰の声かは分からない。ただ、合議の硬さが同じ形のまま残ってはいないことは分かった。


 扉を閉めても、古い館は音を運ぶ。


 壁の中の空洞。使用人用の細い通路。床板の下に残る乾いた隙間。笑いはそこを通り、薔薇酒の香りを含んだ私室へ薄く流れ込んでくる。さっきまで言葉を選び合っていた者たちが、今は同じ皿へ手を伸ばし、同じ酒で喉を焼いている。


 エヴァはその音を聞きながら、杯を唇へ運んだ。


「よい夜じゃ」


「契約して、菓子を盗られて、若い男を立たせて、酒を飲む夜?」


 フェリシアが言った。


「順番が違う」


「どこ」


「菓子は盗られたのではない。奪われたのじゃ」


「そこなんだ」


「そこじゃ」


 ディーノが盆を持ったまま目を伏せた。


「奥様」


「なんじゃ」


「私は立たされているのではなく、控えております」


「同じではないか」


「職務上、大きく異なります」


「そうか。なら違いを見せよ」


「具体的には」


「妾の杯が空く前に気づけ」


「それは従来どおりでございます」


「フェリが嘘をつく前に止めよ」


「それは私の職務範囲を超えます」


 フェリシアは木の実を一つ摘み、ディーノの盆へ置いた。


「超えた分」


「これは」


「差額」


 ディーノは盆をわずかに傾け、木の実を中央へ寄せた。


「食べないの?」


「盆上の品は、お客様へお出しするものでございます」


「さっき食べた」


「奥様のご命令でしたので」


「じゃあ、これも命令にしてもらえば」


 ディーノの視線がエヴァへ動く。


 エヴァは椅子に深く沈んでいた。頬には薔薇酒の赤がわずかに上っている。金の瞳の鋭さは消えていない。しかしそれは会議室で人を裁く鋭さではなく、逃げ道を見つけた相手の前へ先回りする目だった。


「命令じゃ」


 ディーノは盆を小卓へ置いた。木の実を小皿へ移し、静かに口へ運ぶ。


 表情は変わらない。


 フェリシアが身を乗り出した。


「味は」


「甘うございます」


「それだけ?」


「香草の香りが少々強くございます」


「安いね」


「以後、皿の組み合わせを調整いたします」


「謝らなかった」


「値が下がるとのことでしたので」


 エヴァがまた笑った。


 笑い声は晩餐室からの声と重なる。


 二つの部屋の夜が、同じ館の中で別々に膨らんでいく。片方では若者たちが食卓の熱にほぐされ、皿と酒の間で肩の力を抜いている。もう片方では、魔女二人が菓子と薔薇酒で若いバトラーを困らせている。厳かな契約の直後に、馬鹿馬鹿しいほど小さな攻防がある。


 その落差を、エヴァは好んでいるようだった。


 会議室では、言葉は刃だった。契約は茨だった。晩餐室では、同じ者たちが匙を取り、誰かの声の大きさに顔を上げる。私室では、魔女たちがそれらを遠く聞きながら酒を飲む。館という一つの器の中で、硬さと弛みが同時に泡立っていた。


 その夜を形にするのは、主の格だけではない。


 皿を運ぶ者がいる。酒を選ぶ者がいる。扉を開け、廊下の気配を拾い、声が大きくなれば咳払いで少し戻す者がいる。アルフレッドとメリッサが晩餐室へ回っている今、私室の秩序はディーノの肩へ落ちていた。彼は巻き込まれながらも、杯の量と皿の位置だけは譲らない。


 その頑なさが、かえってエヴァの機嫌をよくしていた。


 フェリシアは乾酪を一枚つまんだ。


「これは魚から遠い」


「乳でございます」


「知ってる。遠すぎて眠い」


「魚に近づけることは難しいかと」


「魚を持ってくればいいのに」


 ディーノは一拍置いた。


「晩餐室にはございます」


 フェリシアの目が少し開いた。


「あるの」


「はい。焼き魚と香草蒸しが」


「それ、こっちに来ないの?」


「晩餐室のお客様へお出ししております」


「余ったら」


「余らぬ可能性が高いかと」


 フェリシアは小さく舌打ちした。


「若いのは食べるから面倒」


 エヴァは杯を揺らした。


「お主も食う側であろう」


「あたしは選ぶ側」


「盗る側じゃ」


「皿に聞いて」


「皿は泣いておる」


 ディーノは菓子皿を見た。残りの焼き菓子の配置を整え、乾酪と果実を離して置き直す。蜂蜜が焼き菓子の粉を濡らさぬよう、小皿の角度を変えた。動きは小さいが、部屋の上に敷かれた布を一枚正すような確かさがある。


 フェリシアはそれを眺めた。


「あんた、皿には優しいね」


「お客様にも同様でございます」


「本当?」


「少なくとも、皿を落とすことはいたしません」


「客は?」


「落とさぬよう努めます」


 エヴァが肩を揺らす。


「努めるだけか」


「落ちようとされる場合は、限界がございます」


「誰の話じゃ」


「一般論でございます」


 晩餐室から、今度は少し違う音が来た。


 誰かが長く話している。途中で別の声が混ざる。そこで笑いが起きる。先ほどより酒が回り、声の角が丸くなっていた。緊張の糸が切れたのではない。火の近くで柔らかくなり、持ちやすい形へ曲がったのだ。


 エヴァはその音に耳を傾ける。


「ディーノ。あちらの酒は何を出した」


「軽い白から始め、今は赤をお出ししております」


「強いのは」


「まだ控えております」


「なぜじゃ」


「晩餐室がこれ以上賑やかになる可能性を考慮いたしました」


 フェリシアが笑った。


「もう遅いよ」


「今なら、まだ椅子は全て立っております」


「椅子が倒れるのが基準?」


「一つの目安でございます」


 エヴァは愉快そうに目を細めた。


「報告が実用的になってきたのう」


「晩餐室付きの者より、随時受けております」


「妾の部屋で控えながらか」


「廊下の足音と盆の戻りで、ある程度は」


「アルフレッドじみてきたな」


「到底及びません」


「メリッサにも似てきた」


「それは恐れ多く存じます」


 フェリシアは指で見えない賽を弾いた。


「あの二人がいない夜の方が、高い目が出るね」


「おらぬわけではない。別の部屋で目を光らせておる」


 エヴァはそう言い、杯をまた空に近づけた。


 ディーノはそれを見逃さなかった。瓶を持つ。だが、注ぐ前に小皿を差し出す。


「奥様。こちらを先に」


「何じゃ」


「乾酪でございます」


「つまらぬ」


「蜂蜜漬けの果実もございます」


「甘い」


「木の実もございます」


「さっき食わせた」


「奥様もお召し上がりください」


 エヴァは目を細める。


「妾に命令するか」


「お願いでございます」


「似たようなものじゃ」


「職務上のお願いでございます」


 フェリシアが長椅子の背にもたれた。


「高いお願いだね」


「できれば、お支払いいただきたく」


「何で」


「奥様の健康でございます」


 エヴァは一瞬、黙った。


 次に、腹の底から笑った。


「カカカ。健康と来たか。薔薇の魔女へずいぶん健やかな札を出す」


「必要な札でございます」


「札遊びはフェリの方が得意じゃぞ」


「では、フェリ様にもご確認いただきたく」


 フェリシアは乾酪を一枚選び、エヴァの皿へ置いた。


「これ。魚から一番遠いから、奥様向き」


「どういう理屈じゃ」


「遠い方が長く転がる」


「食い物の話をせぬか」


「食べれば食べ物だよ」


 エヴァは皿の上の乾酪を見下ろした。


 会議室でなら、その視線だけで相手を黙らせられただろう。だが相手は黒猫と若いバトラーだった。片方は最初から黙る気がなく、もう片方は黙ったまま退かない。


 エヴァは乾酪を摘み、口へ運んだ。


 ディーノの肩が少しだけ下がる。


「満足か」


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いではない」


「職務が進みましたので」


「お主、なかなか嫌味を覚えたのう」


「事実でございます」


 フェリシアは嬉しそうに目を細めた。


「いいね。三年目」


「フェリ様に褒めていただくべきか、判断に迷います」


「迷う時は裏」


「何の裏でございましょう」


「賽」


「賽に裏表はございません」


「あるよ。落ちる前だけ」


 ディーノは返答を諦め、杯の量を確認した。


 その諦め方があまりに静かで、エヴァはまた笑った。


 晩餐室の声は、さらに近くなっていた。


 扉が閉まっているのに、笑いは廊下を曲がり、壁の中を通り、絨毯の上まで来る。誰かが何かを言い返したらしい。別の誰かが手を叩いた。椅子の脚が床を鳴らし、すぐに低い咳払いが入る。その咳払いはアルフレッドのものではなかった。けれど、誰かが彼の代わりを必死に務めていることは分かる。


 フェリシアは耳を動かすように首を傾けた。


 人の姿に猫耳はない。


 それでも、聞く姿は猫だった。


「盛れてきたね」


「酒の話か」


「音の話。皿の端からこぼれてる」


「食卓とは、多少こぼれるくらいがよい」


「じゃあ、もう少しこぼしてもいいね」


 ディーノの目がわずかに上がる。


「フェリ様」


「まだ何もしてないよ」


「そのお言葉が出た時点で、報告の必要を検討いたします」


「検討は遅いよ」


「では、事前確認を」


「眠い」


 エヴァは杯を持ち上げた。


「止めるな。猫は気まぐれに歩くものじゃ」


「奥様。晩餐室には多数のお客様が」


「知っておる」


「食事中でございます」


「なおよい。空腹の時より機嫌が丸い」


「酒も入っております」


「だから面白い」


 ディーノは一度だけ息を整えた。


 その息は音にならない。だが、盆を持つ手の白手袋が少しだけ強く張った。


 フェリシアは長椅子から足を下ろした。


 音はほとんどない。


 黒い靴が絨毯へ触れ、影が先に伸びる。一瞬だけ、その影は人のものではなく低い背をした黒猫の形に見えた。次の瞬間には、黒髪の女の影へ戻っている。


「行くのか」


 エヴァが聞いた。


「高い目が出そうだし、ちょっと悪戯してくる」


 ディーノの視線が扉へ向いた。


 報告、制止、追跡。


 その三つを一瞬で並べ、どれも間に合わないと判断した顔だった。


 エヴァが片手を上げた。


「よい。行かせろ」


「奥様」


「若い奴らの食卓には、少し黒猫が横切るくらいでちょうどよい」


「黒猫でございます」


「だからなおよい」


 フェリシアは長椅子の背に掛けていた外套へ手を伸ばさない。伸ばす前に、黒い短外套は床へ落ちることもなく影の中を滑り、肩へ戻ったように見えた。


 ディーノの目がそこへ向かう。


 見すぎる前に、盆へ戻る。


「行ってらっしゃいませ、フェリ様」


「うん。帰るかどうかは、まだ落ちてない」


「……承知いたしました」


 フェリシアは扉を開けた。


 廊下の灯が黒髪に触れ、毛先だけが銀の糸みたいにほどける。開いた分だけ、晩餐室の声が大きくなった。笑い声。杯。誰かが早口で言い返す声。もう遠いとは言いにくい。


 フェリシアの影が先に廊下へ出る。


 姿がそれに続く。


 扉は閉まらなかった。


 細い隙間を残し、廊下の音を私室へ流し続ける。


 ディーノが閉めるべきか迷った。迷いは盆の角度にだけ出る。


「そのままでよい」


 エヴァが言った。


「はい」


 ディーノは扉へ行かなかった。


 晩餐室の方から、ひときわ大きな声が上がる。


 次に、軽いものが転がった。


 杯ではない。皿でもない。木の実か、パンの欠片か、小さな賽に似た何か。ころころと床を走り、誰かの靴に当たったような音がした。


 フェリシアの笑い声は聞こえない。


 ただ、晩餐室のざわめきが一拍だけ変な形に跳ねた。その後で、さらに大きな笑いへ割れる。驚きの角を持った笑いだった。誰かが立ち上がり、椅子が引かれ、誰かが何かを隠そうとして間に合わなかった時の形。


 絵は届かない。


 届くのは音だけだ。


 だからこそ、エヴァは楽しげに目を細めた。どの若者が最初に反応したのか。どの杯が揺れたのか。どの皿が守られ、どの口が真っ先に笑ったのか。想像するだけで、酒の香りは変わる。


 そこに裁きはない。


 契約の後にだけ生まれる妙な弛みがある。昨日なら火種になったかもしれない言葉も、今夜は皿の上を転がる木の実くらいの軽さで済む。フェリシアは、そういう隙間を見つけるのがうまい。眠たげな顔で入り込み、魚の骨みたいな細い爪で夜の端を引っかく。


 ディーノは扉の隙間へ耳を向けた。


「奥様」


「なんじゃ」


「今の音について、確認に」


「行かぬでよい」


「しかし」


「笑っておる」


「笑っていればよいとは限りません」


「悲鳴ではない」


「悲鳴でないことは、最低条件でございます」


 エヴァは杯を掲げた。


 酒は三分の一しかない。ディーノが少なめに注いだ量だった。


「ディーノ」


「はい、奥様」


「次は多めじゃ」


 ディーノは瓶を持たず、まず晩餐室の方へ短く耳を澄ませた。


 向こうではまた笑いが起きている。今度は誰かが咳き込み、別の声が大げさに何かを告げ、さらに拍手のような音が重なった。混乱はある。だが、崩壊ではない。少なくとも今は。


 ディーノは瓶を持った。


「奥様。先ほどより、わずかに多くいたします」


「わずかではなく多めじゃ」


「晩餐室の状況確認を優先する必要が生じる場合がございます」


「まだ言うか」


「三年目でございますので」


 エヴァは喉の奥で笑った。


「それを盾にするでない」


「便利でございます」


「なお悪い」


 ディーノは杯へ酒を注いだ。先ほどより少しだけ多い。だが、エヴァが望むほどではない。


 エヴァはそれを見て、片眉を上げる。


「そなたの多めは、随分と慎ましい」


「奥様の明朝を考慮しております」


「妾の明朝を勝手に案じるな」


「職務でございます」


「今夜は妾の夜じゃ」


「明朝も奥様のものでございます」


 その返しに、エヴァは一瞬だけ目を丸くした。


 次いで、笑った。


 酒の赤が硝子の内側で揺れる。廊下の隙間からは、晩餐室の熱がまだ押し寄せてくる。フェリシアの姿は見えない。だが、黒猫が食卓の下を横切るような気配だけが音の中に混ざっていた。


 エヴァは杯を唇へ運ぶ。


 薔薇の香りが舌に触れ、酒精が喉を熱く撫でた。会議室の契約書はもう遠い。黒い文様は若者たちの手から消えた。けれど夜のどこかでは、まだ細い棘が灯を受けている。


 晩餐室で、また笑いが爆ぜた。


 エヴァはその喧噪を肴に、薔薇酒をあおった。

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