群青と黄金の交わる日
俺の腰で、聖剣だけが夜を吸って重くなっていた。
鞘越しの重みはいつもと同じはずなのに、今夜は椅子の脚まで沈ませるようだった。
円卓には茶器が並んでいる。湯気はもう痩せ、薔薇の香りの奥から薬草の苦みが立っていた。窓の向こうは黒く、庭の輪郭すら見えない。硝子には燭台の火と、同じ卓を囲む俺たちの顔が薄く揺れていた。
エヴァが茶器を置いた音が、まだ耳の底に残っている。
契約の骨は置いた。
肉も血も、まだこれから。
その言葉を飲み込んだ喉が、遅れて渇いた。
蒼凪が指をほどき、もう一度組み直した。
「では、こちらの理由を話します」
静かな声だった。だが小さくはない。円卓の端に座る誰の耳にも、まっすぐ届く声だった。
俺は背筋を伸ばした。隣でカイの袖がかすかに鳴る。ヴァローは眼鏡の奥の視線を上げ、ガイウスは椅子の背から体を離した。ヴェスタは茶器へ伸ばしかけていた手を止めた。
向かい側では、ヒュウマが蒼凪の横顔を見ている。イーリスは笑みを薄くした。ラウリ殿は大きな手を膝の上に置いたまま、海底の岩のように動かなかった。
「俺たちは、深淵の徒を正義で追っているわけではありません」
最初に置かれた言葉は、予想より冷えていなかった。
正義。
俺には、その言葉がどうしても先に来る。人を守る。邪悪を止める。光の名に背かない。教会で聞いた祈りも街で向けられる視線も、最後にはそこへ流れ込む。勇者という呼び名も同じだ。
だが蒼凪の声には、その流れがなかった。
「マリヴェル家が壊れた理由を、俺はまだ知らない」
カイが小さく息を止めた。
マリヴェル家。
その名を俺は紙の上で知っていた。海洋同盟の古い名。白真珠の塔と縁がある没落貴族。蒼凪がそこに連なる者だということも、断片としては聞いている。
けれど本人の口から壊れたと出た瞬間、家という言葉の中身が変わった。
壁ではない。屋根でもない。家名でも、紋章でもない。
朝に席へ着く人。廊下を歩く足音。食卓に残る温度。誰かが開けたままにした扉。それらが一つずつ失われたことを、壊れたというのだ。
蒼凪は、それを声に滲ませなかった。
俺は、その抑え方を強さと呼んでいいのか迷った。
強いから揺れないのではない。揺れを見せた瞬間に、言葉が出来事を縛ってしまう。壊れた家。消えた席。戻れない部屋。そう名づければ、聞く者は理解した顔になる。
蒼凪は、まだそれを許していないのだろう。
「残された資料には、海底神殿と深海信仰の痕跡がありました。最初は、家の記録を辿るための調査でした」
「最初は、という言い方をするのですね」
ヴァローが静かに拾った。
蒼凪は頷く。
「その線を追うほどに、深淵の徒が現れた」
燭台の火が、窓硝子の中で細く揺れた。
「神殿の記録。失われた航路。古い信仰の断片。どれにも、同じ影が混じっていました。偶然として切れるほど薄くはない」
俺は蒼凪の顔を見た。
怒っているのか、と考えかけた。すぐにその考えを引っ込める。俺が見たかったのは怒りではなく、こちらが理解しやすい熱だったのかもしれない。
そこにあったのは、燃えるものではなかった。
測るものだった。
割れた器の縁を指で辿り、欠けたところの形を確かめるような静けさ。冷たいのではない。熱を外へ逃がさないために、表面だけを固くしている。
ヴェラーナで剣を向け合った時、俺にはその静けさが敵の迷いなさに見えた。こちらの事情を汲まず、計算だけで動く相手に見えた。
今は少し違う。
蒼凪は余計なものを切り捨てていたのではない。余計なものを入れれば、かろうじて見えている線まで濁るのだ。たぶん彼は、その濁りで何度も道を失いかけた。
「復讐ではないのですか」
カイが言った。
責める声ではなかった。神官として確かめる声であり、旅の仲間として迷っている声でもあった。
蒼凪は一度だけ目を伏せた。
「復讐と呼べるほど、相手の輪郭を掴めていません」
部屋の空気が、一枚薄く冷えた。
輪郭。
俺たちは深淵の神を討つ密命を負っている。だがその相手の輪郭を、本当に掴んでいるのか。そう問われたなら、俺の答えは鈍る。
教えられた名がある。討つべきものだという確信も、俺の内側に植えられている。聖剣もある。
だが輪郭の前に、俺は剣を握っている。
その事実が、腰の重みと一緒に沈んだ。
「だから追っている」
蒼凪は続けた。
「家を壊したものの輪郭を知るために。神殿探索も、深淵の徒との接触も、その途中にあります」
ヒュウマが膝の上で拳を握った。
ほんのわずかな動きだった。だが指の節が白くなり、彼の中で別の潮が動いたのが見えた気がした。父の話へ近づく潮。痛みではなく、証言へ向かうための潮だ。
イーリスが目を細める。
「物語は、始まりを選んでくれません。後から辿る者は、いつも途中の頁から読み始めるのでございます」
「頁は戻せますか」
カイが問うた。
「戻せるものもございます。戻せぬものもございます」
イーリスの声は、いつもの柔らかさを保っていた。けれど今夜の柔らかさは、飾りではない。触れたものを傷つけないための布だった。
「ですから、返されなかった頁がどちらへ持ち去られたかを見るのでございます」
エヴァの瞳が細くなる。
「よい言い方じゃ」
彼女の指が円卓を軽く叩いた。
一度。
乾いた音が、話の流れに印を押す。
「凪。証を出せ」
蒼凪は短く頷いた。
彼は椅子の横に置いていた革鞄を引き寄せる。留め具が外れる音は小さいのに、夜の部屋では金属が噛み合う音まで鮮明だった。彼の手つきに迷いはない。だが急ぎもない。
取り出されたのは、黒い金属で縁取られた小さな羅針盤だった。
それが円卓へ置かれた瞬間、茶の香りが半歩退いた気がした。
黒い羅針盤。
旅人の道具なら、俺も何度か見たことがある。北を知るためのもの。道を失わないためのもの。手のひらに乗る、小さな安心。
だが目の前のそれは、安心をくれる形をしていなかった。
盤面は暗く、針の下に夜の水を閉じ込めているような光がある。北を示すはずの針は、上ではなく下へ落ちようとしているように見えた。円卓の上に置かれているのに、どこか深い場所から引かれている。
俺は無意識に聖剣へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
これは斬るものではない。聖剣で重さを量るものでもない。
柄に触れれば返ってくる重みがある。革の擦れ。鞘の硬さ。鍛えた腕に乗る金属の現実。けれど黒い羅針盤は、触れていないのに掌の内側を冷やしてきた。
カイが祈りの形を取りかけ、指を閉じる前に止めた。
ヴァローは盤面より針の動きを見ている。ガイウスは椅子の位置と扉までの距離を一瞬で測った。ヴェスタは沈む船底の音を聞いたような顔をした。
向こう側ではラウリ殿が顎を引く。荒れ始める海を、言葉より早く読む者の動きだった。
ヒュウマだけは、羅針盤から目を逸らさなかった。
蒼凪は羅針盤に手を添えずに言った。
「旧水門下で、これの機能が反転しました」
「反転、ですか」
ヴァローの声が、ほんの少しだけ細くなる。
「以前は、戻るべき座を示していたと見ています。今は違う」
蒼凪の指が羅針盤の縁から少し離れたところで止まった。
「返されなかったものの方角を示します」
返されなかったもの。
その一言で、ヒュウマの頬から血の色が少し引いた。
羅針盤が何をそう呼ぶのか、俺には見えない。
人か。名か。記憶か。約束か。帰る場所か。
あるいは、それらを別々に分ける俺の考え方自体が陸のものなのかもしれない。海で失われるものは、ひとつの名に収まらない。人が戻らなければ声も戻らない。声が戻らなければ約束も戻らない。約束が戻らなければ、待つ者の時間も歪んでいく。
ヒュウマの瞳は、その全部を見ているようだった。
ラウリ殿が低く息を吐いた。
「海は、戻すものと返さぬものを分ける」
その言葉には、慰めがなかった。
だからこそ重かった。
ヴァローが羅針盤を見つめる。
「これは一点を指す道具ではありませんね」
「はい」
蒼凪が答える。
「針が場所を名指すわけではありません。幅を示す。潮筋に近い」
「観測上は、その理解が妥当でしょう」
ヴァローはゆっくり頷いた。
「羅針盤という呼び名に引きずられないほうがいい。単独の目的地ではなく、戻されなかったものが流れた偏りを可視化している。少なくとも、今見えている振る舞いはそうです」
「厄介な道具だな」
ガイウスが言った。
声に苛立ちはある。だが相手を責めるものではない。ぬかるんだ戦場を見て、足を取られる前に言葉へ出す時の声だった。
「厄介です」
蒼凪は否定しなかった。
「便利なら、もっと早く答えに着いています」
淡々とした返事だった。
しかし最後の一音に、薄い苦みがあった。長く同じ線を追い、何度も手前で逃げられた者の苦みだ。
ヒュウマがゆっくり口を開いた。
「俺が持つと、その潮筋は父の最後の潮名と重なります」
父。
その一音が、円卓へ落ちた。
大きな声ではない。けれど茶器の縁も燭台の火も、その言葉の周りで一瞬止まったように見えた。窓の黒さまで動かない。
ヒュウマは俺たちを見た。
助けを求める目ではなかった。慰めを拒む目でもない。夜の海を見張る者の目だ。見えたものを見えたまま伝える責任を、まっすぐ引き受けている。
「慰めではありません。海守りとして、そう読んでいます」
カイの手が膝の上で重なった。
「お父上の、最後の潮名」
「はい」
ヒュウマは頷いた。
「父を探す話だけなら、ここに置くつもりはありませんでした。けれど、深淵の徒の線と重なるなら、俺一人の話ではありません」
声は震えなかった。
震えないことが、胸に刺さった。
俺は自分の父の記憶へ触れかけ、やめた。ここで比べることではない。ヒュウマが差し出したのは、悲しみではなく線だ。地図の上で、他の線と重なるものだ。
父を探したい。
そう言えば、誰にでも伝わる。誰もが優しい顔をする。だがヒュウマは、その通じやすさへ逃げなかった。自分の痛みを証言にするには、熱いまま差し出せない。握りしめて冷まし、形を見てから置く必要がある。
優しい人間ほど、それはつらいはずだった。
それでも彼は置いた。
イーリスが静かに目を伏せる。
「返されなかったものは、名を変えても沈みきらぬことがございます」
「語り部殿」
ラウリ殿が低く呼んだ。
「それは、歌か」
イーリスは薄く微笑む。
「今夜は証言でございます」
歌にしない。
その選択が、今は礼儀に見えた。
誰かの痛みを美しく整えることは、時に刃になる。イーリスはそれを知っているのだろう。言葉の扱いに長けた者ほど、言葉を使わない場所を知っている。
ヴァローが顔を上げた。
「ここで確認しておきたい」
その声が、散りかけた感情を卓の上へ戻す。
「重なっているのは、目的地あるいは事件の線です。力の根だと断じる根拠はありません」
彼は蒼凪を見る。
「蒼凪殿の権能と、ロドル・ヴァシレフの深淵の力を同一視するべきではない。外形の暗さ。神格の圧に近い感触。既存の分類から外れる振る舞い。似て見える点はあります。しかし観測上、根は別と扱うべきです」
蒼凪は頷いた。
「深淵ではありません」
短い一言だった。
それ以上飾らないからこそ、強かった。
ヒュウマの肩がわずかに下がる。安堵とは違う。張り詰めた綱が、切れずに少しだけ緩んだような呼吸だった。
カイが口を開いた。
「神格へ至る可能性がある以上、教会の密命と無関係ではありません」
彼の声は祈りの調子を帯びていない。判断の声だった。
「ただ、祈りの名で急ぐべきではないのでしょう。知らないものを知らないまま討つことと、知る手順を踏んだ上で刃を取ることは違います。今の私たちは、そこを取り違えてはならないのだと思います」
エヴァが短く笑った。
「神官にしては、よい」
カイは目を伏せた。
「恐れ入ります」
「褒めたわけではないぞ」
「はい」
そのやり取りで、部屋の空気がほんの少し動いた。
緩んだわけではない。
けれど呼吸を忘れていた者が、ようやく息を吸ったような動きだった。
黒い羅針盤は円卓の上にある。
俺の腰には聖剣がある。
一つは返されなかったものを示す。一つは通してはならないものを斬るためにある。どちらも今夜、薔薇の館の灯りを浴びている。
それだけで、十分に奇妙だった。
同じ灯りの下に置かれたからといって、同じものになるわけではない。
どちらか一方の理屈で押し切れば、今夜の話し合いはただの勝ち負けになる。勝ったほうが影を消せるわけではない。違う道具が同じ卓にあるから、見落としていた角度に気づけることもある。
ヴェラーナの桟橋で剣を構えた朝から、ずいぶん遠くへ来た気がした。
場所ではない。
考え方の距離だ。
「すぐ動くのか」
ガイウスが問うた。
必要な声だった。話がどれほど重くても、動くか止まるかを決めなければ旅は進まない。
蒼凪は首を横に振る。
「いいえ。こちらはまだ調べるものがあります」
「何を」
「博物館の資料。港湾記録。旧水路。潮位表」
語られたものは、どれも派手ではなかった。
紙。石。水位。古い数字。
だが派手でないからこそ、答えの足場になる。
「答えそのものではありません。ただ、サルマンディアの中に、潮筋の歪みを読む材料があります。今離れれば、見落とします」
今離れれば。
その言葉で、俺は自分たちの旅を思い出した。
勇者の旅は、前へ進む道だった。止まれば遅れる。遅れれば誰かが傷つく。教会から届く密命も街の期待も、俺たちの背を押してくる。次の目的地も同じだ。
だが前へ進むだけでは、拾えないものがある。
水路の湿り。港の帳簿。契約に縛られた人の顔。路地の匂い。夜の館で出された茶の苦み。足を止めることでしか見えないものが、たしかにこの街にはある。
ヒュウマが言葉を継いだ。
「潮は、今ここで読まないと変わります。書類は残りますが、潮の読み方は日を置くほど鈍ります」
「こちらにも、この街で見過ごせないものがあります」
俺は言った。
言葉にすると同時に、白い保証欄が頭の中をよぎる。古杭の護衛団。契約。身動きできない人々。だが今ここで細かく出せば、話は別の方向へ流れる。
今は輪郭だけでいい。
「深淵の徒と直接つながるかは分かりません。けれど、放っておけるものではない」
カイが頷いた。
「レオンの判断に、私は賛成です。救うべき人を見つけておきながら、遠い名だけを追うことはできません」
ヴァローも視線を落とす。
「観測対象は増えます。ただ、この街の問題を切り離して進むほうが、かえって誤差を大きくする可能性があります」
ヴェスタが目だけで俺を見た。
口は挟まなかった。けれどあの紙を一緒に見た者の目だった。軽口で覆わないほうがいい夜だと、彼も察している。
ガイウスが腕を組む。
「なら、互いに街へ残る理由はあるわけだ」
「はい」
蒼凪が答える。
「ただし、同じ道を歩くとは限りません」
「そこは分かる」
ガイウスは顎を引いた。
「味方ごっこより、背中を斬らねえ約束のほうが信用できる」
その言い方に、ラウリ殿が小さく頷く。
「急ぐ潮は船を割る」
短い言葉だった。
だが海を知る者の言葉は、長く説明しなくても重い。荒波。傾く船。水を含む帆。割れる竜骨。見たことのない俺にまで、その音が一瞬届いた。
「神官殿に言うつもりだったが、ここでは全員に言うことになりそうだな」
ラウリ殿が付け足す。
カイは深く頭を下げた。
「受け取ります」
ヴェスタが茶器へ手を伸ばし、また止めた。
「潮目が同じなら、別々に漕いでもぶつかる」
声は抑えられていた。
「ぶつかる前に、声くらいは掛けろってことだな」
「その程度なら、契約にできる」
エヴァが言った。
その瞬間、部屋の温度が変わった。
それまでは話し合いだった。
今からは、結ぶ。
──────────────────────────────
話は後で言い換えられる。そういうつもりではなかった。状況が変わった。聞き違いだ。人は言葉に逃げ道を作れるし、ときにはその逃げ道が必要になる。
だがエヴァがこれから作るものは、その逃げ道を細くするための形だった。
俺は怖かった。
怖さを抱えたまま、それでも必要だと胸の奥で決めた。
安易な和解ではない。肩を並べて笑い合う場でもない。それでも同じ影を追う者同士が、互いの背を勝手に刃へ晒さないための最低線はいる。
エヴァが指先で卓を叩いた。
「アルフレッド、紙とインクを」
「承知いたしました」
壁際に控えていたアルフレッドさんが、待っていたかのように動いた。
待っていた。
たぶん本当に、待っていたのだ。
扉を開けて誰かを呼ぶこともない。彼は脇の小卓へ向かい、厚手の白い紙と黒いインクと細いペンを載せた盆を取った。音はほとんどしない。布を捌く音。銀の縁がかすかに触れる音。靴音さえ、床に吸われている。
用意がよすぎる。
俺が息を詰めた時には、盆はもうエヴァの前にあった。
薔薇の館は、ここまで見越していたのだろうか。
あるいは、この館では合議が契約へ至ることなど珍しくないのか。
どちらにせよ、アルフレッドさんの顔には驚きがなかった。まるで晩餐の前にナプキンを整えるのと同じ自然さで、彼は紙とインクを差し出している。
エヴァは白い一枚を取り、円卓の中心へ置いた。
それはただの白ではなかった。薄い繊維が潮の跡のように走り、ところどころに薔薇の花弁を乾かしたような影がある。手を触れていないのに、表面から冷えが漂っていた。
インク壺の黒は、夜より深い。
エヴァが手をかざす。
白い一枚が浮いた。
誰かの椅子が小さく鳴った。息を呑む音が遅れて重なる。それは円卓から掌ひとつ分ほど持ち上がり、見えない板の上に置かれたように平らなまま止まった。
黒いインクが動き出した。
ペンは誰の手にも握られていない。だが細い先端が白い面を滑り、文字が次々に生まれていく。古い書体だった。目で追える。追えるのに、意味は肌へ先に触れる。
深淵の徒に関する発見は共有すること。
単独で深追いしないこと。
互いの調査を妨げないこと。
必要があれば、互いに協力すること。
それだけで終わらない。
細かな言い換えが生え、条項の間を薔薇の蔓のようにつないでいく。余白に小さな文字がほどけ、また締まる。けれど骨は四つだった。
共有する。
それは、すべてを明け渡すことではない。隠して進めば全員を危うくするものを、隠さないということだ。
単独で深追いしない。
勇者である俺には、重い。誰かを守るためなら一人で行けると決めてきた。だが一人で行くことは、残された仲間へ後始末と判断を押しつけることでもある。
妨げない。
同じ道を歩かなくても、相手の灯りを消さない。
協力する。
必要があれば、という条件がつく。それでもその一文があるだけで、この契約はただの停戦ではなくなる。
エヴァが浮いた書面を見上げたまま言った。
「薔薇の館の契約として、最低線を結ぶ」
声は大きくない。
だが円卓の木目まで従わせるような響きがあった。
「深淵の徒に関する発見は共有する。単独で深追いせぬ。互いの調査を妨げぬ。必要あらば、互いに力を貸す」
蒼凪は黙って聞いている。
俺も目を逸らさなかった。
「共闘とはまだ呼ばぬ。じゃが、背を向けて斬る関係でもあるまい」
ガイウスが鼻から短く息を抜いた。
「分かりやすい」
「分かりやすい契約ほど、破った時の言い訳が薄くなる」
エヴァの口元が笑った。
だが、それ以上は言わない。
破った時に何が起きるのか。黒い薔薇がどう働くのか。そういう話は、誰も聞けなかった。聞くべきではないと、部屋の全員が同時に理解していたのかもしれない。
言われない怖さがある。
言われないからこそ、背筋に残る。
「代表者は二名」
エヴァは書面を挟んで俺と蒼凪を見た。
「勇者側はレオン・ソル。賢者側は蒼凪・マリヴェル。条項を確認し、名を記せ」
蒼凪は何も言わなかった。
呼び方にも代表という扱いにも、抗議はない。
俺は椅子から立ち上がった。
床がかすかに鳴る。自分の足音が、予想より大きく聞こえた。円卓の中心へ近づくと、浮いた書面から薔薇の香りとインクの匂いが混じって漂ってきた。
カイが静かに頷く。
ヴァローは条項を目で追い続けている。ガイウスは俺の背を見ていた。ヴェスタは口を閉じ、茶器にも触れない。
俺は書面を読み返した。
共有する。
単独で深追いしない。
妨げない。
必要があれば、力を貸す。
勇者の名で軽く飲んでいい約束ではない。
だが飲めない約束でもない。
むしろここで飲まなければ、俺たちはまた別々に同じ影を追う。どこかの水際でぶつかる。次に剣を交える時、今夜より悪い形になるかもしれない。
俺はペンを取った。
指先に、意外な温かさが伝わる。
レオン・ソル。
自分の名を書く。
黒いインクだったはずの線が、白い面で白がかった黄金色へ変わった。
まぶしくはない。勝利を誇る金でもない。夜明けの前、空の底に薄く差す光のような色だった。俺の名が、その色で白い面に残る。
蒼凪が反対側からペンを取る。
彼の手は速くも遅くもなかった。ただ迷わなかった。
蒼凪。
書かれた名は、深い群青へ変わった。
海の夜に落ちる色。黒に近いのに黒ではなく、最後のところで青であることを譲らない色。白い面で沈み、同時に光っていた。
黄金色と、群青色。
二つの名が同じ契約書に並んだ。
俺はしばらく、その光景から目を離せなかった。
敵として剣を向けた相手の名が、俺の名と同じ条項の下にある。
二つの色は混ざらない。
黄金色は黄金色のまま。群青色は群青色のまま。近くにありながら、互いの輪郭を潰さない。
それでいい。
混ざれば安心できるのかもしれない。だが混ざった色では、どちらの線も追えなくなる。違う色のまま同じ白に残ることが、今夜の答えだった。
エヴァが満足げに顎を引いた。
「よい」
契約書がさらに少し高く浮いた。
「全員、立て」
椅子が床を擦った。
誰も逆らわない。勇者一行も蒼凪の側の者たちも、同じ円卓の周りで立ち上がる。ラウリ殿の椅子だけはひときわ重く鳴った。
エヴァは立たない。
座ったまま、俺たち全員を見上げるように命じた。
「手の甲を上にして、前へ出せ」
俺は右手を前へ出した。
剣を握る手だ。
訓練で皮が厚くなり、小さな傷がいくつも残っている。聖剣の柄を何度も握った手。誰かを守ると決めるたびに、先へ出してきた手。
隣でカイも手を出す。ヴァローは一瞬だけ眉を動かし、それでも従った。ガイウスの手には古い傷が走っている。ヴェスタの指には縄を扱う者の跡があった。
向こう側で蒼凪が手を出す。ヒュウマもイーリスも、ラウリ殿も。
全員の手の甲が、円卓の上へ向いた。
エヴァの声が低く響いた。
「薔薇の魔女の名に於いて、契約を執り行う。汝ら、その命ある限り、真心を尽くす事を誓い給え」
契約書が鳴った。
紙が鳴る音ではない。
蔓が硬い枝を伸ばすような音だった。
契約書の端から、茨の蔓が飛び出した。
一本ではない。人数分の黒い蔓が、空中を走る。速い。避ける暇などなかった。俺の手の甲へ、鋭い棘が突き刺さる。
痛みはなかった。
痛みはないのに、刺さった事実だけが残る。
皮膚ではなく、名前の奥を突かれたような感覚だった。血が出る場所ではない。けれど何かに触れられた。俺が俺であると書かれたところを、細い棘が確かめた。
カイが目を閉じた。
ガイウスの肩が一度だけ動く。ヴェスタは短く息を呑み、ヴァローは自分の手を観察するように見ていた。
蒼凪の表情は変わらない。ヒュウマは手を引かなかった。イーリスは微笑みを消し、ラウリ殿は海鳴りのように低く息を吐いた。
茨が光になった。
黒い蔓は手の甲からほどけ、細い光の粒へ変わる。粒は宙で瞬き、すぐ消えた。
あとに残ったのは、黒い薔薇の文様だった。
俺の手の甲に、花が咲いている。
黒い花弁。細い棘。輪を描く蔓。
それは一呼吸だけはっきり浮かび、次の瞬間には薄くなった。墨が水へほどけるように、肌の奥へ沈んでいく。もう一度瞬きをした時には、何もなかった。
傷も血もない。
痛みもない。
けれど消えたから終わったのではないと、俺の手は知っていた。
エヴァが手を下ろす。
「成立じゃ」
その一言で、契約は終わった。
俺は自分の手の甲を見つめた。
何もない。
さっきまでそこにあった黒い薔薇は、夢のように消えている。だが夢ではない。聖剣を初めて手にした時の重みと同じように、消えた文様の感触が皮膚の下へ残っている。
腰の聖剣が重い。
卓の上には黒い羅針盤がある。
宙に浮いていた契約書は、ゆっくりと円卓へ降りた。白がかった黄金色の名と群青色の名が、まだ乾かない光を帯びている。
その時、アルフレッドさんが一歩前へ出た。
「晩餐の用意が整っております」
あまりに自然な声だった。
俺は反射的に彼を見る。
たった今、茨が手の甲を刺した。黒い薔薇が咲き、そして消えた。契約が成立したばかりだ。それなのにアルフレッドさんの声は、客を食堂へ案内する時の静けさを保っている。
「お館さまより、皆さまの席を整えるよう申しつかっております。温かいうちに、お移りいただければと」
ヴェスタが小さく息を漏らした。
「用意がいいな」
いつもの軽さにはならなかった。
薔薇の館は、俺たちがここで最低線を結ぶことを最初から見越していたのかもしれない。あるいは、結ばなければならないところまで追い込む用意があったのかもしれない。
信頼か。計算か。
たぶんエヴァにとっては、その二つを分けることにあまり意味がない。
契約を結べるなら、その材料はすべて卓へ載せる。薔薇も茶も、沈黙も晩餐も。
エヴァが椅子に深くもたれた。
「疲れた。妾はここまでじゃ」
「お館さま」
アルフレッドさんが静かに頭を下げる。
エヴァは手をひらひらと振った。
「あとは若い奴らで好きにやるとよい」
若い奴ら。
その言葉に、ガイウスが何か言いかけた顔をした。ヴェスタも口の端をわずかに上げた。けれど誰も言わなかった。
エヴァの前では、俺たちはたぶん全員若い。
年齢ではない。まだ迷い、まだ選ぶ。まだ食べることで息を整えられる者たちという意味なのかもしれない。
蒼凪だけが、わずかに目を伏せた。
「ありがとうございます、エヴァ様」
「礼など要らぬ。今宵はもう、妾の館の客じゃ」
エヴァは立ち上がり、小扉のほうへ歩いた。
深紅の裾が床を滑る。彼女が動くと、部屋の灯りまで少し道を空けるように見えた。扉の前まで来ても、エヴァは振り返らなかった。
「食え。腹が空いておる者は、たいてい悪い契約を結ぶ」
それだけを残し、薔薇の魔女は部屋を出ていった。
──────────────────────────────
圧が一枚抜けた。
軽くなったわけではない。
むしろ天井が少し高くなり、そのぶん自分の足で立たなければならなくなった。エヴァがいた間は、彼女の言葉が卓の中心にあった。いなくなれば、契約は俺たちの手の甲の奥に移る。
しばらく、誰も動かなかった。
アルフレッドさんは急かさず待っている。
円卓から食卓へ移る。
言葉にすれば、それだけだ。
だが今の俺には、部屋を一つ移るだけでは済まない気がした。さっきまで俺たちは陣営ごとに座っていた。勇者一行。蒼凪の側。薔薇の館の主と執事。
晩餐の席ではどうなる。
同じ湯気を浴びる。同じ皿から取り分けられたものを食べる。塩を取るために手を伸ばせば、さっきまで向かいにいた者の指と近づく。そういう距離は、剣の間合いより扱いにくい。
ガイウスが契約書から目を離さずに言った。
「席は分けてあるのか」
アルフレッドさんは、わずかに頭を下げた。
「ひとつの食卓にてご用意しております」
やはり。
俺は息を吐いた。
エヴァが疲れたと言って席を外した後まで、この館はもう次の形を整えている。共闘と呼ぶにはまだ早い。だが別々の客として帰すつもりもない。
蒼凪が黒い羅針盤を布で包み直す手を止めた。
「こちらに異議はありません」
返答は早い。
今夜の話し合いで、彼は余計な言葉を足さない。必要なものだけを置く。その慎重さが、少しずつ見えてきた。
俺はカイたちを見た。
カイは静かに頷いた。ヴァローは「観測には適しています」とだけ言った。ガイウスは肩をすくめる。ヴェスタは口を閉じたまま立ち上がった。
「俺たちも、構いません」
自分の声が予想より落ち着いていた。
けれど言った直後、手の甲の奥がかすかに熱を持った気がした。
晩餐。
その言葉は現実の匂いを連れてくる。
温かい皿。切られたパン。肉汁。湯気。杯に注がれる音。誰かが椅子を引く音。さっき茨に刺された手で、俺たちは食器を持つことになる。
奇妙だった。
だが必要でもあった。
剣を合わせるより先に、食卓を囲む。信じるためではない。まず相手が同じ夜に腹を満たす人間だと知るために。
俺は手の甲をもう一度見た。
何もない。
黒い薔薇は消えている。だが消えた花の冷たさだけが、皮膚の奥に残っていた。
「行きましょう」
カイが言った。
穏やかな声だった。
蒼凪が黒い羅針盤を布で包み、鞄へ戻す。ヒュウマはその動きを見守っていた。イーリスは椅子から立ち上がり、ラウリ殿はゆっくりと体を起こす。
俺たちも動き出した。
椅子が引かれ、衣擦れが鳴る。薔薇の香りの残る部屋に、少しずつ人の体温が戻ってくる。合議の夜はまだ終わっていない。だが話し合いの形は変わった。
円卓の上には契約書が残っていた。
白がかった黄金色の署名。
群青色の署名。
俺は腰の聖剣を意識した。卓には、さっきまで黒い羅針盤が置かれていた。手の甲にはもう文様はない。それでも、黒い薔薇が消えた場所を俺は忘れられない。
共闘ではない。
まだそこまでの言葉は早い。
けれど背を向けて斬る関係ではなくなった。情報を隠して単独で沈み、相手の調査を踏みにじる関係でもない。必要な時には、力を貸す。そこまでの最低線が、今夜ようやく結ばれた。
晩餐の湯気が待つ場所へ移れば、俺たちは食器を持つ。
茨に触れられた手で塩を取り、杯を持つ。パンを割る。
剣でも祈りでもない。そういう小さな動作から始まる約束もあるのだと、今夜の俺は知った。
振り返ると、契約書の二つの名はまだ静かに光っていた。
白がかった黄金色と、群青色。
混ざらないまま、同じ紙の上に残っていた。




