薔薇の円卓にて
「勇者様ご一行のご到着です」
アルフレッドさんの声は、厚い扉と赤い絨毯に吸われながら館の奥へ通った。
薔薇の館は夜を待つように灯っていた。壁の燭台には赤みを帯びた火が並び、磨かれた床にはそれが細く流れている。甘い香りがあった。花の香り。蜜蝋の匂い。古い木に染み込んだ時間の匂い。
俺は足を止めかけた。
腰の聖剣レーヴァテインが、いつもより近い。革帯の重みも鞘の角度も同じはずなのに、今夜だけは体の内側へ食い込んでくる。剣は抜かれていない。だが抜いた記憶は、まだ手首に残っていた。
「こちらでございます」
アルフレッドさんは振り返らず歩き出した。
俺たちは後に続いた。俺の隣にカイ。半歩後ろにヴァロー。ガイウスは壁側を取り、ヴェスタは窓側を歩く。誰も声を立てない。靴底が絨毯に沈む音だけが続いた。
戦いに来たわけではない。
それでも、誰も完全には肩の力を抜けない。
窓の外には、夕方の赤がまだ薄く残っていた。庭の薔薇は色を失いかけ、枝と葉だけが黒く絡んでいる。白帆亭で見た封蝋の赤が脳裏に重なった。招待の印。拒めばそれもまた答えになる印。
ルシアンは来ていない。
あいつが残ると言った時、誰も長く止めなかった。オルヴェリス教会の名はこの館で軽くならない。むしろ鋭くなる。カイは黙って受け入れた。ヴァローも異を唱えなかった。
俺も、その鋭さを背中で受けていた。
だからこそ、空いた一人分の重さが俺の背に乗っている。
不在のままでも、ルシアンの椅子は俺たちの後ろにある。教会の名を置き去りにしたわけではない。余計な刃にしないため、あいつは来なかった。その判断を軽く扱えば、この席に来た意味まで崩れる。
廊下の奥に両開きの扉があった。木目の深い扉だ。表面には薔薇と蔓が彫られている。蔓は幾重にも絡んでいるのに、棘は目立たない。招くための模様に見えた。閉じ込めるための模様にも見えた。
扉の前で、俺の呼吸が浅くなる。
古代神殿の石床を思い出した。冷たい床。割れた柱。舞い上がる埃。ラウリ殿の白い影。蒼凪の静かな目。ヒュウマの踏み込み。イーリスの薄い笑み。
あの時、俺は判断した。
彼が連れ去られる。そう見えた。だから剣を抜いた。
その後でロドル・ヴァシレフが現れた。灰色の目。底のない声。聖剣を通じて腕に走った痺れ。あれは終わった戦いの記憶ではない。まだ皮膚の下で息をしている。
「どうぞ」
アルフレッドさんが扉を開いた。
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明かりが広がった。
会議室は広かった。中央に円卓がある。長机ではない。誰かを上に置く形ではない。深い色の木で作られた円は、燭火を受けて鈍く光っていた。中心には薔薇の紋章が浅く彫られている。
円卓の向こう側に、蒼凪たちが座っていた。
蒼凪は背筋を伸ばしていた。赤い髪は乱れていない。表情も静かだった。ただ袖口から見える包帯が新しい。白い布が灯りの中で妙に目立った。
ヒュウマは蒼凪の隣にいる。こちらを見て軽く顎を引いた。笑ってはいない。けれど敵意を見せてもいない。青い服の肩に旅の埃が残っているのが見えた。
イーリスは指を膝の上で重ねていた。薄い笑みは崩れていない。柔らかい声を出す人の形をしているのに、目だけは刃物の背のように冷たい。
そして、ラウリ殿がいた。
椅子は彼のために用意されたものだろう。他の椅子より大きく、背もたれも厚い。白い衣の下に包帯が見える。傷は浅くないはずだ。それでも彼はそこに座り、巨体を静かに保っている。
ここにいる。
その事実だけで、胸の奥にあった何かが重く動いた。
俺は蒼凪へ一礼した。
「蒼凪殿。今夜、この席を受けてくださったことに感謝します」
「こちらから申し出た席です。礼はエヴァ様へ」
蒼凪の返事は短かった。責める声ではない。迎える声でもない。必要な線だけが引かれている。
それでいい。
ヒュウマが頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ」
カイが返した。いつもの穏やかさはある。けれど、少し低い。祈りの場で使う声に近かった。
イーリスが目礼する。
「夜の薔薇にお越しくださり、光栄でございます」
「夜の薔薇か。ずいぶん静かな名前だな」
ヴェスタの声は抑えられていた。軽く聞かせようとしていない。
イーリスは笑みを深める。
「静かな夜ほど、棘の位置がよく見えるものでございます」
ヴェスタは口の端を少し動かしただけだった。
アルフレッドさんが席を示した。俺の正面に蒼凪。カイの向こうにヒュウマ。ヴァローの前にイーリス。ガイウスとヴェスタの先にラウリ殿。
椅子を引く音がいくつか重なった。
俺は腰を下ろした。円卓の木目が目に入る。年輪は薄い線をいくつも作り、中心の薔薇へ向かっている。別々に伸びた道が、同じ場所で止まっているようだった。
茶器が置かれていく。
白い器。薄い湯気。草に似た香り。薔薇の甘さよりずっと淡い。誰の前にも同じ器が置かれ、誰の前の湯気も同じ高さで揺れた。
最後の茶器が置かれた時、奥の小扉が開いた。
エヴァンジェリーネが入ってきた。
今夜の彼女は深紅のドレスをまとっていた。赤というより黒に近い。胸元には小さな薔薇の飾り。長い髪は燭火を受けるたび、濡れた金属のように光る。
体は小さい。
けれど、誰も彼女を小さく扱えない。
エヴァは円卓の空いた席へ進んだ。その椅子にだけ薔薇の紋章がある。上座ではない。だが、この円を閉じる場所だった。彼女が座らなければ、この卓は卓として完成しない。
腰を下ろす前に、エヴァは俺たちを順に見た。
「よう来た、勇者一行。薔薇の館の女主人として、今宵は客として迎えよう」
彼女の声は軽くない。歓迎の形をしているのに、そこには線が引かれていた。招いた以上は守る。だが守るからといって、甘やかすわけではない。
エヴァはわずかに顎を上げる。
「婚姻以外の契約を扱うのは何百年ぶりか。光栄に思うがいい。妾の大事な凪からの申し出があったのでな」
凪。
その呼び方に、視線が勝手に蒼凪へ動いた。
「今はその呼び方はやめてください」
蒼凪の声は低く、速くも遅くもない。
「嫌じゃ」
エヴァは即答した。笑ってはいない。からかいではなく、最初から譲る気のない返事だった。
蒼凪は短く息を吐き、それ以上は言わなかった。ヒュウマも驚かない。イーリスは知っていた顔をしている。ラウリ殿は目を伏せたままだった。
俺たちだけが、その呼び方の距離を測れない。
エヴァは椅子に座り、卓の薔薇を指先で一度叩いた。
「妾の館に招かれた以上、客は客じゃ。今宵、いかなることがあろうとも命を落とすことはあるまいよ」
命を落とすことはない。
その言葉は保証のはずだった。けれど安心にはならなかった。殺さないということと、傷つけないということは違う。剣を抜かなくても、人は折れる。
エヴァはそれを知っている顔で続けた。
「ここは裁きの場ではない。泣いて許しを乞う場でもない。恩を売る場でも、罪を数えて酒の肴にする場でもない」
燭火が揺れた。
「決めるのは最低線じゃ。不可侵か。共闘か。その間に置けるものか。言葉にして結べるものを選ぶ」
彼女の声には甘さがない。
小さな指が一本立つ。
「まず一つ。この席で出た名と事情を、妾の許しなく外へ持ち出すでない。光の教会であろうと、月読みの塔であろうと同じじゃ」
二本目。
「二つ。見たものと考えたものを混ぜるな。混ぜれば、たいてい赤く濁る」
三本目。
「三つ。謝罪と赦しを急ぐな。急いだ契約は軽い。軽いものは、最初の風で飛ぶ」
誰も異を唱えなかった。
俺は胸の中で古代神殿を分け始める。見たこと。考えたこと。ラウリ殿を救おうとしたこと。蒼凪たちを敵と見たこと。聖剣を抜いたこと。
混ぜれば、一つの傷になる。
分ければ、責任の形が見える。
「記録は残されますか」
カイが尋ねた。
疑いではない。神官として手順を確かめる声だった。
壁際のアルフレッドさんが頭を下げる。
「必要でしたら、私が」
「要らぬ」
エヴァはすぐに言った。
「紙は後でよい。今夜は紙を守る席ではない。相手をどう扱うかを決める席じゃ」
ヴァローが眼鏡を直した。
「口頭契約として、薔薇の館が証人になるという理解でよろしいか」
「そうじゃ。月読みの小僧は話が早い」
「私は小僧ではありません」
「妾から見れば、たいがいの者は小僧か小娘じゃ」
ヴァローはそれ以上返さなかった。返す価値のない反論だと判断したのだろう。
蒼凪が口を開いた。
「事実と判断を分ける。この点に同意します」
その声で、視線がこちらへ集まった。
俺は頷く。
「同意します」
カイも続いた。
「私も同意します」
ガイウスは腕を組んだまま短く言った。
「構わねえ」
ヴェスタは茶器に触れず、静かに顎を引いた。
その沈黙が意外だった。いつもの彼なら一つ何かを挟む。けれど今夜は、その一つがないことに意味があった。
しばらく誰も話さなかった。
部屋の音が細くなる。湯気の立つ音など聞こえるはずもないのに、耳はそこまで探ろうとする。衣擦れ。木の軋み。誰かの浅い呼吸。
俺は掌を膝の上で開いた。
共闘。
不可侵。
まだ答えはない。けれど敵対を続けるという道だけは、ここへ来るまでにもう細くなっていた。
「まず、古代神殿でのことを話します」
俺は蒼凪を見た。
「俺たちは、ラウリ殿が危険な形で連れて行かれようとしていると判断しました。だから剣を抜いた。あの場で先に刃を向けた責任は、俺にあります」
言い終えると、舌の上に鉄の味がした。
実際に血を流しているわけではない。だが言葉にした責任は、黙っている時より重い。
「ただ、俺たちはラウリ殿を害するつもりではありませんでした。救うために動いた。それは、この席で改めて伝えたい」
蒼凪は最後まで聞いた。
「確認しました」
短い返事だった。
許すとは言わない。疑わないとも言わない。確認した。それだけだ。だが、それだけだから信じられる。
蒼凪は卓の上で指を組む。
「こちらも、ラウリを連れ去るために古代神殿へ行ったわけではありません。同様に救助が目的でした。結果として同じ場所へ集まり、ロドル・ヴァシレフの介入を受けた」
ヒュウマが目を伏せた。イーリスは動かない。ラウリ殿の大きな手が膝の上で少し沈む。
蒼凪は続ける。
「敵対を続ける理由は薄いと見ています。ただし、共闘できるかは別です」
「分かっています」
俺は頷いた。
胸の奥がわずかに広がる。楽になったのではない。置くべき石を、やっと卓の上に置けた気がしただけだ。
ラウリ殿が顔を上げた。
「勇者殿」
低い声が会議室の壁に触れて戻る。
「俺は、ここに座っている」
言葉はそれだけだった。
俺は背を正した。
「はい」
ラウリ殿はカイへ視線を移す。
「神官殿も、それで足りるか」
「はい。あなたがここにおられることに、深く感謝します」
カイの声は柔らかかった。祈りではない。けれど祈りの近くにある声だった。
ラウリ殿は頷き、また口を閉じた。
彼の沈黙は重い。多くを語らないからこそ、そこに座る体の傷と息が言葉になる。包帯。白い衣。膝に置かれた大きな手。
ガイウスが息を吐く。
「裁きじゃねえなら、次へ行くしかねえな」
「そうじゃ」
エヴァが頷いた。楽しげではない。場の流れを正確に測っている顔だった。
「互いの痛みを一つずつ数えれば夜が足りぬ。ここでは、どこで道が重なったかを見る」
ヒュウマが拳を緩めた。
「ラウリさんがここにいる。それは、俺たちにとって大きいです」
彼は俺ではなくカイを見ていた。
「あの戦いを、ただの敵対で終わらせない理由にはなります」
「ありがとうございます」
カイが頭を下げる。
ヒュウマは首を振った。
「礼を言われることではありません。ぶつかった理由を分けるだけです。次に同じ場所へ立つなら、先に確認しなければいけない」
彼の声には若さがある。だが浮つきはない。
ヴェスタが茶器へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。何か言いそうになり、そのまま飲み込んだ。普段の軽さを押さえている。
いつもなら一言で空気をずらす男だ。今夜はその役を引き受けない。笑いで逃げられる席ではないと、誰より早く見切っているのかもしれなかった。
「イーリス殿」
ヴァローが声を出した。
「あなたの立場も確認したい。あなたは蒼凪殿たちと行動している。ただ、神殿探索そのものとは別の目的を持っているように見える」
イーリスは眉をわずかに上げた。
「見える、でございますか」
「観測からの推定です」
「月読みの塔は、便利な目をお持ちでございますね」
「便利でなければ、持つ意味がありません」
イーリスは小さく笑った。
「では、便利にお答えいたします」
彼女は指を重ね直した。
「わたくしは、彼らの歩みを見届けるためにおります。ヒュウマ殿の父上の軌跡を、少しだけ存じておりました。世代を越えて続くものは、いつも静かに人を呼びます」
ヒュウマの肩が一瞬だけ動いた。
蒼凪は何も言わない。ラウリ殿も目を伏せている。
イーリスは続けた。
「今夜、わたくしが求めるのは決定権ではございません。証言の正確さと、踏み込みすぎぬ距離でございます」
「承知した」
ヴァローは頷いた。
俺はその言葉を受け止めた。軌跡。見届ける。距離。綺麗な言葉に聞こえる。けれど、そこには人の傷も死も含まれるのだろう。イーリスの声は、それを見ないふりにしない者の声だった。
エヴァが茶器を持ち上げた。
「では次じゃ。古代神殿で現れた男。ロドル・ヴァシレフ」
名が卓に置かれた瞬間、空気が冷えた。
俺の背中を何かが撫でた。あの灰色の目を思い出す。底の見えない場所から、こちらを見上げてくるような目。聖剣を握った掌が痺れた。握力が戻っているか、今でも確かめたくなる。
エヴァは俺を見た。
「勇者よ。お主らは、あの者を何と見る」
俺はカイへ目を向けた。
ここから先は一人で背負うには重い。だが俺の口から出さなければならない。勇者という肩書は、都合のいい時だけ前に置けるものではない。
カイは静かに頷いた。
俺は蒼凪たちへ向き直る。
「俺たち勇者一行には、表の役目があります。光神教会の名を背負い、各地で人を助けることです。祈りを届け、魔物を退ける。それが知られている役目です」
蒼凪は黙っている。
ヒュウマもイーリスも、ラウリ殿も視線を外さない。
「ですが、それだけではありません」
口の中が乾いた。
「教会から受けた密命があります。深淵の神を討つことです」
沈黙が落ちた。
驚きだけではない。蒼凪の目がわずかに細くなる。ヒュウマの指が茶器の縁から離れた。イーリスの笑みが薄くなった。ラウリ殿は目を閉じる。
深淵の神。
自分で口にした名が、自分の胸に戻って刺さる。
カイが続けた。
「教会では、深淵を光の秩序を脅かすものとして教えています。深淵の徒と呼ばれる者たちは、その力に関わる者として追われています」
ヴァローが淡々と言った。
「ロドル・ヴァシレフは、その線上にいると判断できます。古代神殿の異常と彼の術式は連動していた。加えて、ラウリ殿を巡る動きにも介入している」
その言葉は机の上に置かれた刃物のようだった。装飾はない。用途だけがある。
蒼凪が口を開いた。
「つまり、ヴェラーナでの接触もその密命に関係していた」
俺は拳を握った。
ヴェラーナの空気が蘇る。潮の匂い。湿った石畳。向かい合った蒼凪。俺はあの時も、自分の目で見たものを信じたつもりだった。
しかし、目に見えない前提があった。
「そうです」
俺は答えた。
「俺たちは、あなたを深淵側の存在だと疑った。今は、その判断をそのまま置くべきではないと考えています」
蒼凪はすぐ返さなかった。
ヴァローが卓に片手を置く。
「観測の範囲では、蒼凪殿の力はロドルのものと同じ枠には入りません」
声ははっきりしていた。
「似て見える局面はある。異常を扱い、空間や感覚へ干渉する。しかし根が異なる。少なくとも、古代神殿でロドルが用いた深淵の力と同じものとして扱う根拠はない」
蒼凪の視線がヴァローへ移る。
「月読みの塔の見立てとして受け取っていいですか」
「はい」
ヴァローは迷わなかった。
「そして、私個人の見立てでもあります」
蒼凪は短く頷く。
「確認しました」
同じ言葉だった。
けれど、卓の上の重さが少し変わった気がした。敵かもしれないという石が、敵とは限らないという場所へ動く。消えたわけではない。置き直された。
ヴェスタが茶器を持った。
「表は人助け。裏は神殺し。……背負わせ方が荒いな」
軽口にはならなかった。彼自身もそのつもりではないのだろう。低い声が木目に沈んだ。
誰も笑わない。
エヴァだけが薄く唇を上げた。
「ならば、その荒さを契約で測るしかあるまい」
ヴェスタはそれ以上言わず、茶器を戻した。
蒼凪が俺を見る。
「こちらにも、ロドル・ヴァシレフを追う理由があります」
心臓が強く打った。
彼はそこで止めた。
「ただし、その理由をここで全部話す必要はありません。今は、あなたたちの密命と古代神殿での敵対解除を同じ卓に置くところまでで十分です」
「同じ卓に置く」
俺は繰り返した。
「はい」
蒼凪は頷く。
「味方か敵かを急ぐ前に、何が同じ方向を向いているかを見ます」
エヴァが卓を指先で叩いた。
「よい。ようやく会議らしい形になってきたの」
彼女の声は柔らかい。だが、その目はまったく笑っていない。
「では、勇者よ。お主らの密命が深淵の神を討つことなら、そのための刃があるはずじゃな」
沈黙が切られた。
俺の右手が腰へ動きかける。
聖剣レーヴァテイン。
光神教会から勇者へ与えられた剣。人々を守る証。魔物を退ける刃。深淵の神へ至るための唯一の手段。
そう教えられてきた。
「あります」
俺は言った。
「この聖剣レーヴァテインが、深淵の神を討つための剣だと聞いています」
ヒュウマの呼吸が止まった。
イーリスの指が膝の上で一度だけ動く。ラウリ殿の目が俺の腰の剣へ向いた。蒼凪だけは剣ではなく、俺の顔を見ていた。
エヴァは茶器を置いた。
「忌々しいことに、その剣は本物じゃ。ただ『聖剣』と呼ぶには、ちと血生臭すぎる」
本物。
その言葉は祝福に聞こえなかった。
喉の奥が乾いた。俺は息を飲む。
「本物、というのは」
「神格に届く刃、という意味じゃ」
エヴァは淡々と言った。
「魔を祓う飾りではない。人を励ます旗でもない。届いてはならぬところへ届く。そういうものとして造られ、そういうものとして扱われてきた」
カイの横顔が白く見えた。
彼は神官だ。聖剣の名は俺より前から知っていただろう。祈りの中で聞き、聖句の中で覚えたはずだ。だが、エヴァの口から出た説明は教会の響きと違っていた。
「深淵の神を討つため、と聞いています」
俺は声を保とうとした。
「それは嘘ではあるまい」
エヴァは言った。
嘘ではない。
その言い方が一番嫌だった。嘘ではないなら、何が抜けているのか。何を見ないまま信じていたのか。
エヴァは俺の目を見た。
「だが嘘でなければ全てではない。契約でも、歴史でも、愛でも同じことじゃ。言ったことの外側に置かれたものが、時に人の首を絞める」
燭火が揺れる。
「少し話は逸れるがの。お主は先代、先々代、またはそれより前の勇者と呼ばれる者たちが、どのような末路であったか知っておるのか」
先代。
教会の白い廊下が浮かんだ。磨かれた床。壁に掛けられた肖像。石板に刻まれた名。司祭の声はいつも穏やかだった。勇者たちは光のために戦った。人々を守った。最後まで剣を手放さなかった。
誇り高い話として聞いていた。
疑う理由がなかった。
「……先代については、名誉ある戦死、と伺っています」
答えながら、自分の声が薄いと感じた。
エヴァの口元が歪む。
「くっくっく。そう言うほかあるまい。何も知らされておらなんだ。本当に惨いことをするものよな」
カイがわずかに動いた。
俺も動きかけた。膝の上の手に力が入る。怒りとも恐れともつかない。ただ胸の奥が熱くなる。知らないと言われたことへの恥。知らされていないと言われたことへの痛み。
「どういう意味ですか」
声は低く出た。
荒げれば負けるからではない。荒げても答えは出ないと、目の前の魔女が全身で示していた。
エヴァはゆっくり首を横に振る。
「これは貴様ら教会の問題であって、妾の問題ではない。よって真実は自分で知るように。でなければ意味を成さぬ」
「ここでは話さないということですか」
「話せぬのではない」
エヴァの声が少し低くなった。
「妾がここで語れば、お主は妾の言葉を信じるか疑うかに落ちる。教会の言葉と魔女の言葉のどちらを選ぶかじゃ。それでは、お主の剣はまだ他人の手にある」
返せなかった。
腰の聖剣は、確かに俺の側にある。革帯で結び、俺の歩幅についてきた。魔物を斬った。ロドルへ向けた。ヴェラーナで構えた。
俺が握っていた。
そのつもりだった。
だが、その意味を誰が握っていたのか。
この場で沈黙している者たちの視線が、剣の鞘へ集まっては離れる。誰も責めていない。それがかえって、逃げ場を狭くした。
カイが静かに口を開いた。
「エヴァンジェリーネ殿。教会が隠している、とおっしゃるのですか」
「神官よ」
エヴァはカイを見る。
「お主は信じることを捨てぬほうがよい。信じる者がいなければ、祈りはすぐ刃こぼれする。ただし、信じることと知らぬままでいることは違う」
カイは黙った。
その横顔を見て、胸が痛んだ。俺の問題だけなら、俺が折れればいい。けれどこれは俺一人の話ではない。勇者と神官。剣と祈り。肩を並べて歩いてきたものの足元に、知らない穴が開いている。
ヴァローが茶の表面を見つめたまま言った。
「情報の欠落は、判断の欠落に直結します」
エヴァが鼻を鳴らす。
「月読みは乾いたことを言う」
「湿らせる必要がありません」
ヴァローは淡々としていた。
その短いやり取りで空気が少しだけ動く。だが軽くはならない。動いただけだ。
蒼凪は黙っている。
俺は彼を見た。蒼凪は何かを突きつける顔をしていない。答えを待つ顔でもない。ただ同じ円卓の向こう側にいる。それがかえって重い。
敵なら斬ればいい。
その考えが、あまりに短くて恐ろしかった。敵と名づければ剣は抜ける。だが名づける前に知らなければならないことがある。この卓では、剣を抜かない代わりに自分の無知を見なければならない。
俺は息を吸った。
「俺は」
声がかすれた。
もう一度、息を吸う。茶の香りが喉を通った。草と湯気と薔薇の匂い。
「俺は、深淵の神を討つために勇者になりました。人を守るために、この剣を受け取りました」
誰も口を挟まない。
「先代のことを知らないなら、知る必要があります。知らないまま剣を振っていたなら、それも俺の責任です」
言葉が胸の内から剥がれる。
「でも、今ここで言えることは一つです。俺は、この剣で守るべき人を傷つけたくない」
言ってから、足りなさが舌に残った。
傷つけたくないだけで済む剣ではない。届いてはならない場所に届く刃。そう言われたばかりだ。俺の願いの形など、剣の形に比べれば薄いのかもしれない。
エヴァの目が細くなる。
「よい答えではないが、悪い出発点でもない」
彼女は胸元の薔薇へ指を添えた。
「ただ凪の仲間となるならば忠告しておく。その剣を振る意味を、よく考えるがよいぞ」
その剣を振る意味。
言葉が胸に落ちた瞬間、記憶が一つの線になった。
古代神殿でロドルへ向けた刃。ラウリ殿を救おうとして踏み込んだ足。ヴェラーナで疑いを確信に変えかけた一瞬。訓練場で初めて聖剣を握った朝。司祭の声。人々の視線。
全部が同じ剣につながってしまう。
「エヴァ様」
蒼凪が言った。
「この席の範囲は、そこまでで十分です」
「お主は相変わらず、話の刃を途中で鞘に戻したがる」
「必要なところまで抜けば足ります」
エヴァは蒼凪を見た。
しばらく、二人の間だけで何かが交わされたように見えた。言葉ではない。長く積もったものの重さだ。
やがてエヴァが短く笑う。
「よかろう。今宵の前半は、契約の骨を置けたと見る」
骨。
その言い方が喉に引っかかった。肉も血もまだこれからだと言われているようだった。
ヒュウマが静かに息を吐いた。イーリスは何も言わない。けれど彼女の視線は、俺の腰の聖剣にしばらく留まっていた。
ラウリ殿が大きな手を膝に置いた。
「海の底にも、名を変えた骨は残る」
低い呟きだった。
誰も聞き返さなかった。
ガイウスが椅子の背に体を預ける。鎧の音が布に抑えられ、鈍く響いた。
「次は蒼凪側の話か」
「焦るでない」
エヴァは言った。
「契約は一息で結べば、たいてい破れる。今夜はまだ長い」
窓の外から夕方の赤が消えていた。
庭の薔薇はもう黒い影だ。会議室だけが灯りに浮かんでいる。円卓の木目は夜の水面のように光り、中心の薔薇は沈んだ印に見える。
俺は茶器へ手を伸ばした。
指先が冷えていた。器の熱が皮膚を温める。けれど腰の聖剣の重さは変わらない。鞘の中にあるのに、刃だけが夜に露出しているようだった。
茶の表面に燭火が映る。
その小さな光は、人を急かさない。剣の光とは違う。俺はその中で、自分の手が震えていないか確かめた。震えてはいない。だが、力を抜けば震え出しそうだった。
聖剣レーヴァテイン。
本物の、神殺しの剣。
教会が与えた名。魔女が置いた重さ。先代たちの沈黙。知らないまま振っていたかもしれない自分の手。
俺はまだ答えを持っていない。
それでも、この円卓から逃げることはできない。蒼凪の一行は向こう側にいる。俺たちはこちら側にいる。円卓は閉じている。誰も上にはいない。誰も外にはいない。
エヴァが茶器を戻した。
小さな音が、やけに遠くまで響いた。
俺の腰の聖剣だけが、夜の重さを増していた。




