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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
94/128

招待状の紅

 封蝋の紅は、灯を吸って沈んでいた。


 白帆亭の奥の小部屋には、焼いた魚と古い木の匂いが薄く残っている。階下の客の笑い声は壁に吸われて丸くなり、俺たちの卓まで届く頃にはただのざわめきになっていた。卓の中央には一枚の封筒。昼に冒険者組合で見た契約書の写しが脇に積まれていて、白い紙と深紅の封蝋が別々の重さで目を刺した。


 白は、名前を隠していた。


 紅は、名前を呼んでいた。


「薔薇の館より、勇者一行の皆様へ」


 ルシアンは同じ文句を、もう一度だけ置いた。声は軽い。いつものように笑っている。けれど封筒を卓に置いた指先は妙に慎重で、紙を傷つけることより紙の向こうを乱すことを避けているように見えた。


 俺は封筒に手を伸ばした。


 カイが隣で小さく息を吸った。祈りの前に灯を確かめる時の呼吸だ。ガイウスは椅子に深く座り、太い腕を組んだまま封筒から目を外さない。ヴェスタは卓の端に肘をつき、封蝋の薔薇を斜めから見ていた。


「開けるぞ」


「はい」


 カイの返事は短かった。


 指先で封の縁を探る。蝋は見た目より硬く、爪の下に冷たさが残った。刃を使うほどではない。だが雑に割れば、それだけでこちらの息が荒いと見抜かれそうだった。俺は封筒を押さえ、ゆっくり力を込めた。


 薔薇の紋が二つに割れた。赤い欠片が白い卓に落ちる。小さな音だったのに、部屋の空気が一拍だけ止まった気がした。


 中には厚い便箋が一枚だけ入っていた。


 文字は整っている。飾りは少ない。なのに余白が広く、その白い場所がこちらを待っているようだった。書かれている言葉より、書かれていない沈黙の方が強い。俺は喉を一度鳴らしてから、声に出した。


「勇者レオン・ソル殿、ならびに御一行の皆様。サルマンディア滞在中のご快癒とご無事を、まずは喜ばしく存じます」


 ヴェスタが小さく鼻を鳴らした。


「丁寧だな」


「最後まで聞け」


「聞いてるって。耳は塞いでねえよ」


 俺は便箋に目を戻した。


「このたび、賢者、蒼凪・マリヴェル殿および同行の方々との間に、静かな話し合いの席を設けたく、薔薇の館へお招き申し上げます。日取りは二日後の晩。白帆亭へ馬車を遣わせます」


 静かな話し合いの席。


 そこを読んだ時、喉の奥に硬いものが引っかかった。


 俺たちがあの人たちと最初に持ったものは、静かな話し合いではなかった。剣を握り、祈りを立てた。盾と魔法も前へ出した。結果は明白だった。向こうが殺す気でなかったから、俺たちは今この小部屋で椅子に座っている。


 便箋はその事実を責めていない。


 責めていないから、重い。


「差出人は」


 カイの声が横から入った。静かな問いだった。


 俺は末尾へ視線を落とす。


「薔薇の魔女、エヴァンジェリーネ」


 部屋の温度が一段下がったように感じた。


 名前だけなら聞いている。サルマンディアの名士。薔薇の魔女。婚姻都市の祝福にまつわる、半ば伝説のような人。療養中の噂にも観光客向けの案内にも、その名前は混じっていた。


 だが今は噂ではない。


 俺たち宛てに紙を出している。


「薔薇の魔女様が、間を取り持つと」


 カイが言った。


「そういうことになるな」


 俺は便箋を卓に置いた。


 ヴェスタが割れた封蝋の欠片へ指を伸ばしかけた。だが途中で止めた。指先が空中で一拍止まり、そのまま肘の方へ戻る。触れない方へ傾く時の、あいつの勘は馬鹿にできない。


 ルシアンは椅子に座っていなかった。窓際に立ち、夜気を含んだ白外套の端を揺らしている。いつもの笑顔だ。けれど今夜の距離は半歩遠い。白い布一枚ぶんではなく、戸一枚ぶんの遠さだった。


「良いお誘いだと思いますよ」


「ルシアン殿は、そう見ますか」


 カイが訊ねた。


「ええ。少なくとも、喧嘩の続きを求める文面ではありません」


「喧嘩を始めた側が言うことではないな」


 ガイウスが低く言った。


「耳が痛い」


 俺は認めた。


 痛かった。肩の傷や腕の痺れとは違う場所に来る。あの戦いを思い出すと、胸の内側が鈍く重くなる。俺は勇者として前に出た。前に出ることだけはできた。だがそこから先で、俺の眼はあまりに多くを見落としていた。


 カイが便箋をもう一度見た。


「レオン。返事は早い方がよいでしょう」


「分かってる」


「ただ、その前に」


 カイの視線が俺を通り越した。


 ヴァローは部屋の奥の壁にもたれていた。白帆亭へ戻った時にはいなかったが、封筒を持って小部屋に入る頃には合流していた。灰色の長い髪を後ろで束ね、深い灰色のローブの皺を指で整えている。


 あいつの前には、小さく折られた紙片が置かれていた。


「ヴァロー。塔からの返答は」


「届いています」


 ヴァローは短く答えた。


「招待状がなければ明朝に回すつもりでした。ですが状況が変わりました。今、共有した方がいいでしょう」


「蒼凪殿のことか」


「主に」


 ヴァローは紙片を開いた。紙は薄い。白帆亭の紙ではない。淡い灰を含んだ繊維が灯を含み、表面に細い筋を浮かべる。紙そのものが、月読みの塔から来たと言っているようだった。


「まず、白真珠の塔との関係について。月読みの塔の見立てでは、今回の件で塔同士の敵対を心配する必要は薄い。少なくとも、表に出ている関係は険悪ではありません」


「表に出ている関係、か」


 ヴェスタが言った。


「塔ってのは、裏で仲が悪くても表じゃ礼儀正しいんだろ」


「海賊団よりは」


「そりゃそうだ」


 ヴェスタは肩をすくめた。軽く返したが、その眼は笑っていない。部屋にある紙と封蝋と人の立ち位置を、斥候の速さで見ている。


 ヴァローは続きを読んだ。


「次に、蒼凪・マリヴェル殿について。白真珠の塔での賢者承認は、事実です。当時の最年少。俗に凪式と呼ばれる観測予測理論の論文が、主な承認理由とされています」


「凪式」


 俺は言葉を繰り返した。


 蒼凪。凪式。本人の名前が、式の名になっている。剣に名が刻まれるのとは違う。けれどそれもまた、人が残す跡なのだと思った。


「何をした理論なんだ」


「海域の異変を、複数の観測記録から事前に読む手法です。観測部門、海洋史部門、現象記録部門。そのあたりの記録を統合したものらしい。月読み側の資料では、相当に評価が高い」


「予知か」


「違います」


 ヴァローは即答した。


 速かった。刃を抜くより早い否定だった。塔の人間にとって、そこは踏まれると困る線なのだと伝わった。


「予知ではなく、観測です。読めるものを積み重ねて、読める範囲を広げた。そこが評価されている。塔では発見より誤記の訂正に名前が残ります。残念ながら、正しい仕組みです」


「褒めてるのか」


 ガイウスが言った。


「最大限に」


 ヴァローは淡々と返した。


 俺は苦く笑いそうになった。ヴァローが最大限に褒める時の顔を、俺はまだ完全には見分けられない。だが今の言葉に軽さはなかった。あいつが誰かの実績を認める時、皮肉より先に精度が立つ。


「それで」


 カイが続きを促した。


「月読みの塔からは、礼をもって接するようにと念を押されました。かなり強く」


 部屋が静かになった。


 礼。


 その語は招待状の余白にもあった。封蝋の赤にも白い紙にも、まだ閉じている閾にも似合う語だった。


 ヴェスタが椅子の背に寄りかかった。


「礼、ね。あのおっかない賢者様に喧嘩売ったのが礼だってんならそうなんだろうよ」


「ヴェスタ」


 カイが名前を呼んだ。たしなめる声だが、強くはなかった。


「悪い。けど、間違っちゃいねえだろ」


「間違ってはいません」


 カイはそう言って、卓の上の封蝋を見た。


「だからこそ、これからの礼を間違えないようにしましょう」


 カイらしい返しだった。責めるより先に、今できる手当てへ置き直す。祈りも包帯も、この男はいつも同じ指で扱う。裂けたところを見て、そこへ手を置く。


 俺は便箋を見下ろした。


 蒼凪殿の顔が浮かぶ。


 船上の合議で、あの人は素っ気なかった。必要なことだけを置き、余計な言葉を落とさなかった。あの戦いの時の圧とは違った。こちらを踏み潰せる力を持っていながら、使わない場所を見極めている人だった。


「他には」


 俺が訊くと、ヴァローは紙片の下段へ目を落とした。


「一つ、意味の分からない注意がありました」


「意味の分からない?」


「ええ」


 ヴァローは紙を指先で押さえた。


「黒猫に注意すべし」


 誰もすぐには返さなかった。


 廊下を誰かが歩いていく。皿の重なる音。階下の笑い声。酒の注文を飛ばす声。普通の宿の普通の夜が、戸一枚向こうにある。


 その中で黒猫という言葉だけが、細い針のように浮いた。


「黒猫」


 ガイウスが繰り返した。


「猫の話か」


「文字通りなら」


 ヴァローは言った。


「月読みの塔は、サルマンディアに黒猫がいることを把握しているようです。ただし、私に送られてきた返答にはそれ以上の説明がない。場所も、意味も不明です」


「黒猫が横切ると不運が起きる、という話はありますね」


 カイが静かに言った。


「子供の頃、孤児院でも聞きました」


「港でも聞くぜ」


 ヴェスタが頷く。


「ただ、あれは大体、船が沈んだ理由を猫に押しつける時の話だ。猫にしちゃ迷惑な勘定だな」


「塔が迷信を送ってきたとは考えにくい」


 俺は言った。


 ヴァローが小さく頷いた。


「同感です。月読みの塔が黒猫という曖昧な言い方をしたのは、説明できないからではなく、説明しない方がよいと判断した可能性がある」


「お前にもか」


「私にもです」


 ヴァローの声に、薄い棘が混じった。


 塔の人間が塔から情報を絞られる。それは気持ちのいい話ではないのだろう。紙片を押さえる指が、ほんの少し強くなっていた。薄い紙が爪の下でたわむ。


 ルシアンは窓際で何も言わなかった。


 ただ笑っている。いつもの笑みと同じ形だ。人懐っこく、角を立てず、こちらの焦りを飲み込む顔。なのに今夜は、その笑みの奥へ手が入らなかった。


「黒猫は、頭に置いておく」


 俺は結論だけを置いた。


「だが、今は招待状だ」


「その判断がよろしいかと」


 ルシアンがようやく口を開いた。


「黒猫を追って薔薇の館へ入るより、薔薇の館へ招かれた客として入る方が、まだ無難です」


「まだ、か」


 ガイウスが短く言った。


「ええ。まだ」


 ルシアンはにこりと笑った。


「魔女の庭というのは、無難の幅が狭いもので」


──────────────────────────────


 返事の文面は、カイが最初に整えた。


 返事の責任は俺が持つと決めた。そこだけは譲れなかった。ヴァローが余計な含みを削り、カイが礼の形に戻す。ガイウスは文面の意味より、俺たちが言いすぎていないかを見ていた。ヴェスタは椅子を揺らしながら、時々「そこ固すぎる」「そこ軽すぎる」と口を挟んだ。


 白い紙に黒い文字が増えていく。


 招待に応じる。礼を述べる。二日後の晩に伺う。蒼凪殿および同行の方々との席へ、慎んで伺う。書けば書くほど、俺たちは客になっていく。剣を抜いた相手の前へ、今度は手紙を返して歩いていく。


 ルシアンは最後まで筆を取らなかった。


 それが不思議に見えた。


「書かないのか」


 俺が訊くと、ルシアンは両手を軽く上げた。


「これは皆様への招待状です。私が混じると、少し話が白くなりすぎる」


「白いのは悪いことか」


「場合によりますね」


 ルシアンは笑った。


「薔薇の魔女様のお庭では、白は目立ちます」


 ヴェスタが椅子の背を鳴らした。


「じゃあ、あんたは来ねえのか」


 その一言で、部屋の視線がルシアンへ集まった。


 俺も同じところへ引っかかっていた。ルシアンは、ここ数日の間ずっと俺たちの近くにいた。マーレの式典でもシローネ商会の件でも、宿に戻れば当然のようにいた。笑って情報を置き、必要なところで半歩引く。


 だからこそ薔薇の館の前でだけ白外套が消えることに、妙な段差があった。


 ルシアンは変わらない笑顔で首を横に振った。


「私は同行いたしません」


「なぜ」


 レオン・ソルとして整えた声ではなかった。俺個人の声が先に出た。


「招かれていないからです」


「それだけか」


「それだけでも十分です。魔女の方々は、招いた者と招かなかった者の線を大切にされる」


 カイが眉を寄せた。


「薔薇の魔女様は、私達を嫌っておいでですか」


 ルシアンは少しだけ目を細めた。


「勇者という肩書きを嫌っているわけではないと思うので、ご安心を。ただ、分は悪いかもしれませんね」


「分が悪い」


「ええ」


 ルシアンは窓際から少し離れた。白外套の縁が光を含み、淡く光る。


「個人的な理由もあると思います。聖教会にいらっしゃる、黄金の魔女様とは少々折り合いがよろしくないと聞いておりますので」


 黄金の魔女。


 その名が出た瞬間、俺はカイを見た。カイも俺を見ていた。


 知っている。ただし、知っていると言えるほどではない。


 本部の正式な式典。遠い席。白い人々の列。香の匂い。磨かれた床に映る灯。そこに一度だけ、黄金の光をまとった誰かが立っていた。顔も声も、何をする人かも知らない。ただそこにいるだけで、場の順序が変わる人だった。


「黄金の魔女、ですか」


 ヴァローが言った。


 聞き慣れない声だった。観察する時の声ではなく、資料の外にある名前を拾った時の声だ。


「一般には出ていない話です」


 ルシアンは軽く断った。


「レオン君とカイ神官は、式典でお見かけしたことがあるはずです。個人的に話したことは、ないでしょう」


「ない」


 俺は答えた。


 カイも静かに頷いた。


「ありません。ただ、お姿だけは」


「それで十分です。深く知る必要はありません」


 ルシアンの口調は柔らかい。柔らかいのに、そこから先へ踏み込ませないものがあった。白い布を掛けられた門のようだった。今夜でなければ、俺はそれを見逃したかもしれない。


 だが卓には招待状の紅がある。


 線が見える。


 白と紅の間に。


「魔女ってのは、教会にもいるのか」


 ガイウスが言った。


「おります。ただ、皆様が市場で見かける占い師や、旅芸人の魔女とは違います」


「市場の魔女と比べるなよ」


 ヴェスタが言う。


「あいつらも結構当てるぞ。財布の紐が緩む日とか特にな」


「否定はしません」


 ルシアンは笑った。


「ただ、薔薇の魔女様のような方々は、契約を司る。約束、婚姻、誓約、代償。人が声と署名で結んだものの重さを、魔法として扱う方々です」


「契約」


 カイが低く繰り返した。


 ここ数日、俺たちは契約書ばかり見ている。白い保証欄。古杭の護衛団。傷ついた男。名前を出せない被害。記された名と、記されなかった名。そこへ今、契約を司る魔女の招待状がある。


 紙の重さが変わる。


 ただの便箋ではない。その瞬間、俺は自分の指が紙の端を強く押さえていることに気づいた。深呼吸を一つする。剣を納める練習の方が多いと教官は言っていた。紙の前でも同じだ。


「もし薔薇の魔女様が間を取り持つなら、それは強力な繋がりになります」


 ルシアンは言った。


「逆に言えば、そこで礼を欠けば、ただの失礼では済まない」


「礼を欠かないための作法は」


 俺は訊いた。


「招かれた者として入ること。勝手に調べないこと。相手の沈黙を埋めようとしないこと」


「難しいな」


 ヴェスタが笑った。


「俺、沈黙ってやつとはあんまり仲良くねえんだよ」


「では今日は、少し仲直りしておくとよろしいかと」


 ルシアンは涼しく返した。


 ガイウスが鼻を鳴らした。


「ヴェスタ、口を縛る紐ならあるぞ」


「兄貴までひでえな。俺の軽口は場を温める薪だぜ」


「燃えすぎる薪は外に出す」


「ほら、山の人はこれだからよ」


 カイが小さく息を吐いた。笑ったのか、祈りの前の呼吸なのか分からない柔らかさだった。重い話の中で、ほんの少しだけ部屋の木が軋む音が戻ってきた。


 ルシアンはその間も、卓のこちら側には座らなかった。


「中央育ちの私なんかが薔薇の魔女様の敷地を踏もうものなら、八つ裂きにされてしまいますよ」


 冗談めかした声だった。


──────────────────────────────


 だが、誰も笑わなかった。


 白帆亭の小部屋に、階下のざわめきだけが戻ってくる。誰かが杯を置く音。椅子を引く音。油の灯りが芯を焦がす匂い。さっきまで軽口で少し緩んでいた空気が、また紅い封蝋の周りへ集まっていった。


 ルシアンだけが、困ったように肩をすくめる。


「怖がらせるつもりはないんです」


「十分怖い」


 俺は言った。


「それは失礼」


「でも、分かった。お前が来ない理由は」


 完全には読めない。けれど、頷くしかない部分もある。ルシアンにはルシアンの線がある。俺たちが踏み越えられない線を、あいつは軽口に包んで置いた。黄金の魔女の話も、薔薇の魔女の機嫌を測るための物差しではないのだろう。


 そういう事情があるらしい。


 今の俺には、それ以上を掴む手がなかった。


「レオン君」


 ルシアンが俺の名を呼んだ。


 いつもの柔らかい呼び方だった。だが卓の上にある返書の草案よりはっきりと、俺の方へ差し出された声だった。


「これは、喧嘩の続きをしに行く席ではありません」


「分かってる」


「追う影が同じなら、共闘したい。そう伝えるのがよろしいでしょう」


「そのつもりだ」


「それから」


 ルシアンは卓の便箋ではなく、俺の顔を見た。


「賢者殿は、君たちが思っているよりずっと大きい。けれど、君たちが思っているほど遠くもない。礼を尽くして話す価値があります」


「お前がそう言うのか」


「ええ。私がそう言います」


 ルシアンは笑った。


 笑顔はいつもの通りだった。


 それでも俺は、その奥に白い門のようなものを見た。通すものと、通さないものを選ぶ門。閉じているのではない。ただ、誰の足でも好きに越えられるわけではない。


「レオン」


 カイが静かに言った。


「返書を仕上げましょう」


「ああ」


 俺は息を吐いた。胸の奥で止まっていたものが、少しだけ動いた。


 ヴァローが草案を指先で引き寄せた。灯りに透かすように見てから、余白の一行を指で示す。


「ここは削るべきです。こちらの事情を並べる必要はありません」


「削ると冷たくならないか」


「長ければ温かいわけではありません。観測の範囲では、謝意は短い方が誤読されにくい」


「観測か」


 ヴェスタが言った。


「手紙にも観測ってあるんだな」


「あります。むしろ手紙は観測の対象です」


「じゃあ俺の手紙は読ませねえ方がいいな。酒代の催促に見える」


「十中八九そうでしょう」


「ひでえ」


 ガイウスが鼻を鳴らした。


「礼は短く。詫びも短く。長い言い訳は安い」


「ガイウスの兄貴まで手紙の師匠かよ」


「傭兵の受領書も手紙だ」


「そりゃそうか」


 短い掛け合いが落ちて、すぐに消えた。笑いにはならない。だが手は動いた。


 カイが文を整える。ヴァローが含みを削る。俺は最後に責任の場所を確かめる。誰が書いた文字でも、差し出す名は俺の名になる。勇者一行の名になる。


「この文でいこう」


 俺は言った。


 カイが頷いた。


「よいと思います」


「ヴァロー」


「余計な前提はありません」


「ガイウス」


「軽くねえ」


「ヴェスタ」


「固いけど、まあ礼ってのは生ものだ。置いとくと足が早い」


 カイが少しだけ目を瞬いた。


「生もの、ですか」


「そうだぜ。遅れると臭う」


「臭う返書は困りますね」


「だろ?」


 ヴェスタが口の端を上げた。


 返事は、その夜のうちに出した。


 白帆亭の主人に頼むと、宿の使いがすぐに動いた。薔薇の館への届けものだと聞いた時、主人の顔が少しだけ引き締まった。大げさに騒がない。だが、雑にも扱わない。封筒を預かる両手が、客の荷物を預かる時とは違っていた。


 サルマンディアでは、薔薇の魔女の名はそういう重さを持つ。


 封をした返書を宿の使いに預けると、俺は自分の手を見た。


 赤い蝋の細片が、指先に残っていた。


 水で洗えば落ちる。旅の土や血よりも軽い汚れだ。けれど、すぐに洗う気にはなれなかった。紅は皮膚の皺に入り、灯の下で小さく暗くなっている。


 その晩、眠りは浅かった。


 黒猫。薔薇の館。蒼凪・マリヴェル。ルシアンの白外套。黄金の魔女の遠い姿。


 目を閉じると、単語だけが順番を変えて浮かんだ。剣を握っている時は、前に進めば身体が答えを出す。けれど手紙と招待は、前へ出るだけでは足りない。納める力。待つ力。相手の沈黙を切らない力。


 剣は抜く練習より納める練習のほうが多いんだ。


 教官の受け売りだけど。


 胸の中でそう呟いて、俺はようやく指先の紅を洗った。


──────────────────────────────


 二日後の夕方、白帆亭の前に黒い馬車が止まった。


 華美ではない。そう言うと簡単だが、それだけでは足りない。豪商の馬車のように金具を光らせていない。婚礼客を乗せる観光馬車のように花を飾ってもいない。黒い車体は深く磨かれ、夕方の街を薄く映していた。


 車輪の縁には古い銀が走っている。車体の小さな取っ手だけに、薔薇の棘が彫られていた。


 白帆亭の前を行き交う客が、自然に道を空ける。誰かが大声でどけと言ったわけではない。ただ、そうするものだと知っているように人の流れが左右へ割れた。市場帰りの女が籠を抱え直し、酔った男が声を飲み込む。


「迎えが来たな」


 ガイウスが言った。


「ああ」


 俺は腰の聖剣を確かめた。


 持っていくべきか、最後まで迷った。招かれた客として行くなら、武器は失礼かもしれない。だが俺は勇者として招かれている。聖剣を置いていくことも、別の失礼になる気がした。


 抜かないために持つ。


 そう決めて、鞘留めの紐をいつもより固く結んだ。指に革の感触が残る。結び目は小さい。だが今日の俺にとっては、剣を抜くなと自分に言い聞かせる印だった。


 カイは神官服の襟を整え、胸元のロザリオに一度だけ触れた。ヴァローは薄い灰色の書類入れを抱えている。ガイウスは大盾を持たず、旅装の外套だけを肩に掛けていた。ヴェスタは曲刀を腰に差していたが、こちらも鞘留めをしている。


「兄貴、本当に盾なしで行くのか」


 ヴェスタが小声で訊いた。


「招かれた客だ」


 ガイウスは短く答えた。


「客でも腕は持ってくだろ」


「腕は置けん」


「そりゃそうだ」


 ヴェスタは笑いかけて、馬車を見てやめた。


 ルシアンはいなかった。


 本当に来ないのだ。昨日まで宿の廊下で見慣れていた白外套の不在が、妙にはっきりした。宿の外へ向かうだけで、その白い空白が背中に残る。見送りの声もない。見送らないこともまた、線なのだろう。


「行こう」


 俺が言うと、カイが頷いた。


 宿の扉を開ける。


 その先に、男が立っていた。


 山羊の頭。黒い燕尾服。白い手袋。


 硬い白襟と黒絹のタイ。胸元には銀鎖の懐中時計が一本、ほとんど飾りのように静かに垂れている。身長はガイウスよりさらに高い。ただ大きいのではない。入口の高さを基準に作られたような立ち方だった。


 そこに立っているだけで、白帆亭の入口が少し低く見える。


 男は深く礼をした。


 角の動きまで、礼法の一部に見えた。


「勇者レオン・ソル様。薔薇の館より、お迎えに上がりました」


 声は低い。重いのに、乱れがない。床板を震わせるほどではないのに、骨の内側へ響く。


「アルフレッド・ダルマスと申します」


 俺は一拍遅れて名乗り返した。


「レオン・ソルです。迎えに感謝します」


「恐れ入ります」


 アルフレッドはそう言って、わずかに目を伏せた。


 その所作だけで、こっちの背筋が伸びる。


 怖い、とは違う。剣を向けられているわけでも、敵意を向けられているわけでもない。むしろ礼を尽くされている。だが礼の形そのものが重い。こちらの姿勢が少しでも崩れれば、床に落ちた音まで聞こえそうだった。


 カイが一歩前へ出た。


「光神のご加護を。カイ・グレイスと申します。本日は、お招きいただきありがとうございます」


「カイ神官様。お館さまに代わり、御礼申し上げます」


 アルフレッドはカイにも同じ深さで礼をした。


「月読みの塔のヴァロー・ノヴァと申します」


「ヴァロー様」


 ヴァローの名にも、余計な反応はなかった。知っているのか、知らないのか。判断できないほど滑らかな受けだった。


「ガイウス・フェルム」


「ガイウス様」


 ガイウスが短く頷く。普段ならそれで終わる。だが今日は、頷きの角度まで少しだけ硬い。


 ヴェスタはいつもより声を抑えた。


「ヴェスタ・ロウ。よろしく頼む」


「ヴェスタ様」


 アルフレッドは、誰の名も取りこぼさなかった。


 それが当たり前のようで、当たり前ではない。俺たちを勇者一行としてまとめて扱うのではなく、一人ずつ客として扱っている。名を聞き、名を返す。その一つ一つが閾の前で鍵を回す音に似ていた。


 ヴェスタが小声で言った。


「あれは、本当に執事か」


「聞こえるぞ」


 俺も小声で返す。


「聞こえてるだろ」


「なら言うな」


 アルフレッドは聞こえていても、何も言わなかった。


 ただ瞼がほんの少しだけ下がった気がした。笑ったのかもしれない。だが声には出ない。白手袋の指先だけが、馬車の取っ手へ移った。


 馬車の戸が開かれる。


 白手袋の指が取っ手にかかる動きには、音がなかった。足台が下ろされ、先にカイが乗る。次にヴァロー、ヴェスタ、ガイウス。順番を決められたわけではないのに、自然とそうなった。


 俺は最後に馬車へ乗り込んだ。


 車室が静かに閉じた。


──────────────────────────────


 馬車は白い街を抜けた。


 サルマンディアの夕方は、昼の華やかさをまだ少し引きずっている。石畳に残った熱が、車輪の下でゆっくり逃げていく。店先の灯が一つずつ点き、婚礼宿の前には花を持った客がまだ立っていた。


 遠くで鐘が鳴る。


 港の方から、潮の匂いも上がってくる。


 けれど、馬車の中は静かだった。音が吸われているわけではない。車輪の音も馬の蹄も、外のざわめきも聞こえる。なのに会話をするには、少しだけ姿勢を正さなければならない空気があった。


 座席の革は柔らかいのに、腰を深く沈める気にはなれなかった。背を預けると、客として運ばれている事実が強くなる。俺は膝の上で手を組み直し、鞘留めの結び目に触れないように指を離した。


 向かいにガイウスが座っている。膝の上で太い手を組み、窓の外ではなく車室の出入口を見ていた。


「ガイウス」


「なんだ」


「盾を置いてきて、落ち着かないか」


「落ち着かん」


 即答だった。


 ヴェスタの笑いが喉で止まった。


「兄貴でもそうなのか」


「盾は手だ。置いてくりゃ、手が一本足りん」


「そりゃ落ち着かねえな」


「お前は」


「俺は鞘留めが気持ち悪い」


 ヴェスタは腰の曲刀を軽く叩いた。


「抜く気がなくても、抜けねえってだけで足が遅くなる」


「今日は抜かない」


 俺が言うと、ヴェスタは少しだけ肩をすくめた。


「分かってる。だから気持ち悪いんだよ」


 カイが小さく笑った。


 その笑いで、馬車の中の空気が少しだけ緩む。窓の外を過ぎる灯が、カイの頬に淡く流れた。胸元のロザリオは揺れず、指先だけが膝の上で重なっている。


「怖いですか」


 カイが誰にともなく言った。


「怖い」


 俺は答えた。


 自分でも、声の早さに少し驚いた。


 ヴァローがこちらを見る。


「正確には」


「正確には?」


「何を間違えたら失礼になるのか、まだ読めないのが怖い」


「それは賢明です」


 ヴァローは淡々と言った。


「観測できる範囲では、魔女の領分は手順の外側にあります。通常の礼法だけでは足りないでしょう」


「不安を増やすな」


「減らす嘘は、礼ではありません」


「お前、本当にそういうところだぞ」


 ヴェスタが呟く。


「正確でしょう」


「正確すぎるんだよ。塩が多い料理みてえだ」


「味の評価は専門外です」


「だろうな」


 カイが窓の外へ目を向けた。


「私は、少し安心しました」


「安心?」


「はい」


 カイはロザリオに触れないまま、指先だけを重ねた。


「怖いと思えるなら、たぶん大丈夫です。怖くないと思い込んで入る方が、危うい」


「カイらしいな」


 俺が言うと、カイは微かに笑った。


「祈りも同じです。怖い場所で、怖くないふりをするためのものではありません」


 その言葉を、俺は黙って胸に置いた。


 怖い。けれど、逃げる怖さではない。蒼凪殿と向き合う。ヒュウマともイーリスともラウリとも向き合う。俺たちが間違えて戦った相手たちと、今度は剣が役に立たない距離で話す。


 同じ影を追っているなら、手を組みたい。


 それは本心だ。だが手を組みたいと言う前に、手を出した事実を置かなければならない。そこを飛ばせば、どんな申し出も軽くなる。


「レオン」


 ヴァローが言った。


「なんだ」


「賢者殿に対しては、私からも礼を取ります。月読みの塔の名を出す必要があるなら、出す」


「助かる」


「ただし、塔同士の会話に引きずり込みすぎると話が細ります」


「どういう意味だ」


「今回の席は、塔の席ではありません。勇者一行と、賢者一行の席です。月読みの塔は、私の背中にあるだけで十分です」


 ヴァローにしては、珍しく自分の立ち位置を先に削った言い方だった。


 カイもそれに気づいたのか、少しだけ目を細める。


「では、私は神官として座ります」


「俺は勇者として座る」


 俺が言った。


 ガイウスが短く頷いた。


「俺は盾だな」


「今日は置いてきたんだろ」


 ヴェスタが言う。


「手ぶらでも盾は盾だ」


「そりゃいい」


 ヴェスタは外を見た。


「俺は、まあ、海賊あがりの足で座るか」


「座る足か」


「逃げる時に便利だぜ」


「逃げるな」


「逃げねえよ。今日はな」


 その軽口に、誰も強く返さなかった。


 馬車は街の中心から外れ、道の幅が少し広くなった。白い石壁が低くなり、庭を持つ屋敷が増える。薔薇の香りが、まだ遠いのに混じり始めた。


 夕方の光が、車内の黒い木目を赤くする。招待状の封蝋と同じ色が、窓の縁に細く落ちた。


「黒猫」


 ガイウスが突然言った。


「まだ気にしているのか」


 俺が訊くと、ガイウスは首を横に振らない。


「山でも、黒いものは夜に紛れる。見えないものを見た気になる」


「迷信か」


「迷信にも使い道はある。暗い道で足を止める理由になる」


 ヴァローが興味深そうに顔を上げた。


「実用の話ですか」


「そうだ」


「悪くありません」


 ヴェスタが笑った。


「黒猫が横切ったら止まれ、ってことか」


「止まって周りを見ろ、だ」


 ガイウスは短く直した。


 その言葉は、妙にしっくり来た。


 黒猫に注意すべし。意味はまだ掴めない。だが、止まって周りを見る理由にはなる。迷信でも警告でも、足を止めることだけはできる。


 俺は窓の外を見た。


 道の先に、鉄の門が見え始めていた。


 黒い門。


 そこに、薔薇の蔓が絡んでいる。


──────────────────────────────


 薔薇の館は、街の灯から少し離れた場所にあった。


 夜ではない。まだ夕方の名残がある。空の低いところに、深い赤と紫が混じっている。けれど館の周りだけは、昼と夜の間から少し外れたように見えた。


 門が開く。


 馬車が進む。


 砂利の音が、車輪の下で細かく鳴った。両側の薔薇庭園は、手入れされすぎているほど整っている。赤、白、淡い桃色、深い黒に近い紅。花は咲いているのに、騒がしくない。香りは濃いのに、押しつけがましくない。


「綺麗ですね」


 カイが小さく言った。


「ああ」


 俺は頷いた。


 綺麗だ。だから余計に、足の置き場を間違えたくなくなる。


 庭の奥に館があった。白い壁は夕闇を受けて薄く青い。窓には暖かな光が入り、黒い屋根の稜線は空の紫に沈んでいる。薔薇の蔓が壁を這っているのに、荒れた感じがない。絡みついているのではなく、許された場所にだけ伸びているようだった。


 馬車は玄関前で止まった。


 車輪の揺れが消えると、耳の奥に自分の脈だけが残った。戦場へ出る時とは違う速さだった。剣を抜けば終わるものではない場所へ来たのだと、身体の方が先に知っている。


 扉が外から開かれる。


 アルフレッドがそこに立っていた。いつ降りたのか、目で追えなかった。さっきまで御者台にいたはずなのに、もう玄関の光の下で白手袋を揃えている。


 一人ずつ降りる。


 足元の砂利は想像より柔らかかった。石が沈むほどではない。けれど、街の石畳とは違う。自分の足音が、庭に吸われる。


 ヴェスタが降りた瞬間、わずかに周囲を見た。玄関の光、庭の影、馬車の後方。いつもの癖だ。ガイウスは肩を少しだけ回し、大盾のない背中の重さを確かめるように立つ。ヴァローは館の窓を一つずつ見た。カイはロザリオに触れず、ただ息を整えた。


 俺は最後に地面へ足を置いた。


 砂利が鳴る。


 その小さな音が、やけにはっきり聞こえた。


 館の戸口は大きかった。


 黒い木に、古い金具。左右には灯があり、その炎が風もないのにわずかに揺れている。上部の彫りには薔薇の意匠がある。花びらではなく、棘の方が細かい。


 アルフレッドが俺たちを振り返る。


「こちらへ」


 それだけ言って、彼は扉の前へ立った。


 俺は背筋を伸ばした。


 聖剣の重みが腰にある。抜かないために持ってきた重みだ。指先を動かせば、鞘留めの結び目に触れられる。触れない。今は必要ない。


 カイが隣に立つ。ヴァローが少し後ろに控える。ガイウスはさらに後ろだが、その立ち方だけで背中が広くなる。ヴェスタは一番端で、庭の影と玄関の光を両方見ていた。


 勇者一行。


 そう呼ばれてきた。


 けれど今は、その呼び名ごと館の扉の前に置かれている。教会の外の権威。薔薇の館の作法。こちらの正しさだけでは開かない門。


 アルフレッドの白手袋が、黒い戸板に触れた。


 扉が開く。


 内側から、暖かい光と薔薇の香りが流れた。外の夕闇より一段濃い空気が、ゆっくりこちらへ出てくる。床の艶。奥へ伸びる廊下。遠くのどこかで、茶器の触れるような小さな音。


 アルフレッドは一歩下がり、深く礼をした。


「勇者様ご一行のご到着です」

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