保証欄の白
白い写しは、折られた形をまだ忘れていなかった。
白帆亭の卓に広げると、懐で温まっていたはずの一枚はすぐに冷えた。角だけが少し浮いている。細い影がそこに溜まる。名はない。ブルーノ・カルデラの名も、古杭の護衛団の名も伏せられている。団員の欄は黒く塗られ、誰が誰かをたどれない。
それでも、軽くはならなかった。
名を伏せても、重さは残る。
「もう一度、確かめましょう」
カイの声は静かだった。
白帆亭の昼は、朝より人の気配が濃い。奥の食堂で皿が重なる。階段の向こうで荷を引く音がする。窓の外では白い石畳が光を跳ね返していた。婚礼都市の昼は明るい。その明るさが、卓の上の白い面にも容赦なく落ちる。
「この写しで、ブルーノさんの名前は出さない」
「はい」
「古杭の護衛団の名も出さない」
「はい」
「団員の名も」
「出しません」
カイは一つずつ受け止めた。祈りを数える時と同じ手つきで、声の置き場をずらさない。
ヴェスタは椅子の背にもたれていた。片足だけを少し前に投げ出している。歩けるところまでは戻っているが、動きはいつもより少ない。青と黄色のバンダナの端が、肩の上で小さく揺れた。
「何度も言うが、名を出さねえのは正解だぜ」
「分かっている」
「分かってる顔と、押し込みてえ顔は別物だ」
「押し込む?」
「勇者の印だよ。こう、ばんとやるやつ」
ヴェスタは卓へ手のひらを落とす真似をした。けれど実際には触れない。風だけが浮いた角をわずかに動かした。
「押せば早いかもしれない」
「早いだけだな」
「……ああ」
俺は白い面へ目を落とした。
契約解除通知。
荷損補填。
違約相当額。
字は整っている。線はまっすぐで、癖がない。怒った人間の字ではない。焦った人間の字でもない。泣きながら書いた跡もない。ただ決められた場所へ、決められた語が置かれている。
「急ぎたい」
口に出してから、同じ言葉を何度も飲み込んできたことに気づいた。
カイが俺を見た。
「はい」
「だが、急げば壊れるものがある」
喉の奥が少し乾いた。
今の言葉は、教官から借りたものではなかった。
ヴェスタが口の端を上げる。
「悪くねえな。勇者の兄ちゃんの言葉って感じになってきた」
「褒めているのか」
「半分だな」
「残りは」
「これから見る白い奴次第」
カイが小さく笑った。笑いはすぐに閉じる。彼は卓の端に置いた清布を畳み直し、布袋へしまった。昨日もその前の日も同じだった。祈りの前に呼吸を整える時の手順だ。
「ガイウスは」
「寝てろって言ってあります」
ヴェスタが答えた。
「本人は」
「不満そうだった。だから寝るだろ」
「なぜそうなる」
「ガイウスの兄貴は、不満を言うだけ言ったら従う。山の男ってのはそういう作りなんじゃねえか」
カイが少し眉を下げた。
「ヴァローは報告書ですね」
「ああ。朝から塔宛ての書面とにらめっこしている」
「今回のことは、ヴァローが見た方が早いのではありませんか」
「早いと思う」
俺は写しを折らずに、板紙の間へ挟んだ。折り目を増やしたくなかった。名を消された人間に、さらに余計な線をつける気がしなかった。
「だが、まず俺たちが見る。俺の判断だ」
カイは頷いた。
ヴェスタは椅子から身を起こす。体重の移し方に、かすかな遅れがあった。それでも彼は顔に出さない。曲刀の位置だけを確かめて、いつもの調子を作った。
「なら行こうぜ。白い奴は足が遅いって言いたいとこだが、港じゃ夜逃げもする」
「書面が夜逃げするのか」
「するぜ。誰かの懐に入ってな」
冗談だった。
けれど笑えなかった。
白帆亭を出る前、俺は一度だけ階段の上を見た。
二階の廊下は静かだった。ガイウスの部屋の扉は閉じている。前には、カイが朝に置いた水差しと宿の女将が追加した果物皿があった。山の男は文句を言いながらも、ああいう小さな世話を無視しない。食べる。飲む。たぶん礼は言わず、皿だけをきちんと返す。
ヴァローの部屋の扉の下からは灯りが漏れていた。昼なのに灯りをつけている。報告書の写し。塔への連絡。白真珠の塔とのつながり。彼は俺たちが戻った時、受け取ったものを線で分ける準備をしているはずだ。皮肉を言い、嫌な場所ほど正確に残す。
俺たちは五人で一行だ。
けれど、いつも五人で同じものを見るわけではない。
誰かが前に出る日がある。部屋に残る日もある。剣を持つ朝がある。帳面を持つ昼もある。今日の俺は聖剣ではなく、名を消した写しを持っている。
宿の扉を開けると、白い光が入ってきた。
サルマンディアの昼は明るい。明るすぎるほどだった。白い壁。白い石畳。花を載せた馬車。海から来る薄い塩の匂い。露店の果実水から立つ酸味が、風に混じって喉を刺す。
昨日見た依頼票も、こんな光の下で貼られていた。暗い場所で人を縛るなら、まだ分かりやすい。だがこの街の書面は、陽の当たる場所で人を縛る。
俺はサッシュの位置を直した。
勇者の深紅は、今日は少しだけ重い。
──────────────────────────────
冒険者組合の照会机は、昨日の契約控え室よりさらに奥にあった。
表の依頼板は相変わらず人が多い。剣を腰に下げた冒険者。荷役の札を探す若者。港の匂いをまとった船員。観光客向け護衛の値を見て首をひねる者。依頼票が壁を埋め、目が行を追う。誰かが選び、誰かが札を剥がす。
照会机の周りは、そこから少しだけ空気が違った。
声が低い。
書きつけを置く音が目立つ。
窓口にいたのは昨日の女性ではなかった。年配の男で、銀縁の眼鏡をかけている。こちらを見る目は、勇者一行への驚きより先に机上の手順へ戻った。そういう癖が染みている目だった。
「個別名を伏せた契約照会ですね」
「はい」
俺は板紙を差し出した。
「この件と似た相談が、公開可能な範囲であるか確認したい」
「個人名、団体名、船主名、具体的な被害額は伏せます」
「構いません」
「相手方の代理業者名は、登録済みの公開情報に限り出せます」
「それでお願いします」
男は頷いた。余計な質問はない。勇者として扱わないわけではない。だが勇者だからといって、机の上の線を飛び越えない。
そのことに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
一枚目が置かれた。
「発注元代理。ベローニ物流」
知らない看板だった。
ヴェスタが端の欄を見る。
「知らねえ名前だ」
「ご存じありませんか」
「知らねえ名前ってのは、港じゃ便利なんだよ。顔が浮かばねえ」
男の指が次の行へ滑った。
「積み場変更通知。当日第四鐘。南倉庫列から西側仮置き場へ」
「当日?」
俺が聞くと、男は頷いた。
白い一行は、返事をしない。
返事をしないまま、人を遅らせる。
カイが小さく息を吐いた。
「間に合いませんね」
「間に合わねえように書いてある」
ヴェスタが言った。
男は何も言わない。指だけが次へ進む。
「不履行扱い。荷損補填。違約相当額」
その三つは、昨日も見た。
別の写しで見た。別の男の手元で見た。今は別の代理業者に紐づいている。だが順序は同じだった。冷えた刃を、布で包んで渡されたような感じがした。
「次を」
俺は言った。
年配の男が二枚目を出す。
二枚目は、机に乗った音が違った。俺が触れたわけではない。ただ響きが違う。昨日の写しは少し厚く、何度も手元で折られた丸みがあった。今の一枚は薄い。棚から抜き取られたばかりの、冷えた白さを持っている。
男は同じ調子で読み上げた。
「発注元代理。リーヴァ配送管理」
「また知らねえ名だ」
ヴェスタの声は軽い。
だが目は笑っていない。
男の指が下りる。
「積み場変更通知。前日夕刻。北桟橋から南側倉庫列へ」
南側倉庫列。
昨日、依頼板の白い札にあった場所だ。
「不履行扱い。補填請求。ただし一部団員については、発注元側の斡旋により荷役業務へ移行」
「救済、ですか」
カイが問う。
男は眼鏡の奥で目を細めた。
「書面上は、そうです」
書面上。
その言葉は、机の上で冷えた。
欄は救済を示す。その字が誰をどう救うかは、どこにも示されていない。働き口が残る。明日の飯が残る。だが、それだけで何かが守られたことになるのか。
ヴェスタが指を鳴らしかけて、やめた。照会机で鳴らす音ではないと、自分で切ったのだろう。
「潰してんじゃねえな」
彼は低く言った。
「違うのか」
「潰してたら分かりやすい。看板を砕いて、連中を路地に放り出す。誰が見ても悪さだ」
「これは」
「腹だけ残して、刃を抜いてる」
ヴェスタは欄を見た。
「飯は残る。看板は消える。護衛は荷役になる。剣を握ってた手が、縄と箱を持つ。港じゃそれを救済って呼ぶ奴もいる」
カイの手が、布袋の上に置かれた。
「働けていることと、守られていることは同じではありません」
男の指が止まった。
彼はカイを見た。
「その通りです」
一瞬だけ、窓口の声から薄い膜が剥がれた。
すぐ戻る。
三枚目は、読み上げではなかった。男は俺たちの前に簡略の控えを置き、該当する行へ指を当てる。白い余白の中に、同じ形の文字がそろっていた。
発注元代理。サンターニ商務代行。
契約変更受付。前日第三鐘。
積み替え地点、東側水門付近から南側倉庫列へ。
履行遅延。補填請求。
団員二名、倉庫補助へ移行。
ヴェスタは何も言わなかった。灰緑の目だけが、最後の行に止まる。
俺の手の下で、板紙の角が硬く感じられた。
同じ歩幅で来る。
違う肩書きが、同じ口で喋っている。
四枚目は、男が声を出す前に息が止まった。もう流れが見えていたからだ。代理業者の看板が変わる。倉庫列の位置が少し変わる。通知時刻もずれる。補填の言葉も、履行遅延の言葉も揺れる。
だが、進む先は同じだ。
「発注元代理。オルメッタ共同輸送」
男の声は変わらない。
「契約変更受付。当日第一鐘。東桟橋から南側倉庫列へ」
まただ。
「履行確認不能。代替人員斡旋。旧契約者より三名、倉庫補助へ移行」
「旧契約者」
俺は思わず繰り返した。
「はい」
「護衛団ではなく」
「照会表では、その表記です」
旧契約者。
白い一行は、人間の仕事を古い契約に変える。古い契約になったものは、次の契約に置き換えられる。護衛団という呼び名はなくなる。団長も斥候も前衛も欄に収まる。船を守ってきた年月まで、古くなった枠へ押し込まれる。
カイが帳面の端を見た。
祈りの言葉を探しているようにも、祈りを出さない場所を選んでいるようにも見えた。
「保証欄は」
俺が言うと、男は一瞬だけこちらを見た。
「保証欄」
「信用保証、または紹介元。公開できる範囲で」
男は少し迷った。
迷いは短かった。彼は机の下から別の一枚を取り出す。写しではない。照会用の簡略表だ。個人名や団体名は黒く伏せられている。代理業者の表示も、いくつかは頭文字だけになっていた。
だが右端の欄だけは残されている。
欄の上に信用保証の文字があった。
一件目。
白い保証欄。
「シローネ商会」
男は告げた。
二件目。
「シローネ商会」
三件目。
「シローネ商会」
声は変わらない。
帳面も変わらない。
それなのに、白い保証欄だけが机の上で大きくなる。
シローネ商会。
耳にしたことのある看板だった。町で噂になる看板。誰かが詳しく教えてくれたわけではない。サルマンディアにいる間、あちこちで薄く耳に入っていた名だ。蒼凪殿たちがどう見ているかは知らない。俺たちが見てきたのは、今ここにある白い欄だけだ。
「保証人ですか」
カイが聞いた。
男は首を振る。
「厳密には違います。信用保証、商流照会、支払能力の確認、紹介元。案件ごとに呼び方は違います」
「呼び方が違うだけか」
俺の声が硬くなった。
男は俺を見る。
「違います。呼び方が違えば、扱いも違います。法的には」
「法的には」
「はい」
法的には。
それもまた、白い面の言葉だった。
俺は反論しなかった。ここで反論すれば、相手は窓口の男ではなく法の束になる。机の向こうにいる男が作ったものではない。彼はその中で、出せる線を選んでこちらに出している。
「ありがとうございます」
俺は言った。
男は少しだけ頷いた。
「これ以上は、正式な調査権限か、当事者からの委任が必要です」
「委任は取らない」
「その方がよろしいでしょう」
即答だった。
ヴェスタが男を見る。
「あんた、嫌いじゃねえな」
「それはどうも」
「褒めてるぜ」
「褒め言葉として処理しておきます」
男の声は平らだった。
だが目元だけ、少し疲れていた。
「同じ相談は増えていますか」
俺は聞いた。
男はすぐには答えなかった。
机の端の砂時計を見たわけではない。背後の棚を見たわけでもない。ただ目を伏せた。その沈黙は、隠すためのものではなかった。言える形を探すためのものだった。
「公開相談として処理された件は、先月より増えています」
「どのくらい」
「比率で言えば、およそ倍です」
「倍」
「ただし、母数は大きくありません」
ヴェスタが小さく笑った。
「母数が小さいってのは便利な言い方だな」
「便利です」
男は否定しなかった。
「便利な言葉は、便利なまま使うしかありません。便利でない言葉を使うと、相談者の名が見えます」
ヴェスタが口を閉じた。
カイも何も言わなかった。
俺も言えなかった。
その男は俺たちを庇っているのではない。ブルーノを庇っているのでもない。名前を出せない誰かを、手続きの薄い壁で庇っている。薄い壁だ。蹴れば破れる。勇者の名なら、たぶんもっと簡単に破れる。
だから破らない。
俺はその判断を、自分の内側に置いた。
「相談者の名は見ません」
男は一度だけ、俺を見た。
「助かります」
その一言は、礼ではなかった。
確認だった。
──────────────────────────────
依頼板の前は、照会机の奥とは別の明るさを持っていた。
人の声が戻る場所だった。依頼を選ぶ声。報酬を比べる声。仲間を呼ぶ声。誰かが笑う。誰かが舌打ちする。板の前で腕を組む者もいる。そこにはまだ、仕事を選べる者たちの熱があった。
白い依頼票は、その中でよく目立つ。
色のついた札は観光客向けに使われていた。高額依頼。劇場警備。婚礼船の夜間巡回。飾り罫がつき、報酬の数字も大きい。白い依頼票は実務のものだ。運搬。荷役。倉庫補助。短期雇用。絵も飾りもない。けれど数だけは多かった。
ヴェスタは一枚を剥がさなかった。
指先で端を押さえただけだ。爪の下に古い傷が見える。海で使い込まれた手だった。俺の手とは違う。剣を握る手とも違う。縄と曲刀と濡れた甲板を知っている手だ。
「短期荷役。夜明け前。南側倉庫列」
「また南側か」
「まだあるぜ」
彼の指が下へ滑る。
「武器携行不可。保証付き。未経験可」
最後の二語だけ、妙に白く見えた。
カイは依頼票そのものではなく、掲示板の下の木肌を見ていた。そこには古い釘穴がいくつも残っている。抜かれた跡。打ち直された跡。前に貼られていたものの黒い痕。新しい依頼票は白いが、板の奥は傷だらけだった。
「護衛の仕事は」
「剥がされた後だろうな」
ヴェスタは指を離した。
「親切な面してやがる。奪った後の飯まで置いてある」
「飯」
「仕事だよ。明日食う飯。明後日払う宿代。遠くの家に送る銭。そういうのを残す。だから文句が喉で止まる」
彼は別の白い票へ指を移した。
「倉庫補助。箱詰め。縄掛け。荷車押し」
そこで少しだけ眉を動かす。
「腰をやるな」
カイの目が動いた。
「腰ですか」
「海の護衛は足と目で食う。倉庫は腰と指で食う。使う身体が違うんだよ」
「同じ働くでも、傷つく場所が変わる」
「そういうことだ」
俺は依頼票へ目を落とした。
どれも普通の仕事に見える。町には荷が必要だ。倉庫には人手がいる。夜明け前に動かす荷もある。武器を持ち込めない場所もある。保証付きと書かれていれば、むしろ安心に見える。
一つ一つは、普通だ。
普通が重なると、道になる。
その道の先に、誰かの看板が落ちている。
掲示板の端では、若い男が白い票を見ていた。
俺より少し下に見える。肩幅はある。だが立ち方に迷いがある。腰には短剣があるのに、柄へ手を置く癖がない。昨日まで剣を持っていた者か、これから剣を持ちたい者か。どちらとも言えた。
男は荷役募集をしばらく見てから、隣の高額護衛依頼へ目を移した。
すぐ戻った。
高額護衛の札には条件がある。等級。経験年数。護衛実績。船上戦闘可。推薦状。白い荷役募集にはそれがない。未経験可。保証付き。短期。即日。
白い一枚は優しい。
優しい方へ、人を呼ぶ。
男はまだ迷っていた。誰かに相談するわけでもない。ただ目だけが、白い票と色付きの札を往復している。喉が動いた。唾を飲んだのだろう。手はまだ短剣に触れない。
「あれだ」
ヴェスタが低く言った。
「何が」
「剣を持ちてえ奴を、箱の方へ曲げる時の顔」
「助けられるか」
「何から?」
俺は答えられなかった。
ヴェスタは若い男を見ている。責める目ではない。港のどこかで何度も同じ顔を見てきた目だ。自分の過去を見ているのかもしれない。俺には分からない。ただ、彼の肩の力が少しだけ抜けていた。
「あいつはまだ何も失ってねえ。飯を選ぶかもしれねえし、剣を選ぶかもしれねえ。どっちを選んでも、今日の俺たちが口を出す筋じゃない」
「分かっている」
「分かってても顔に出る」
「顔に書いてあるか」
「大きかった字が、中くらいになった」
「それは褒めているのか」
「半分な」
前にも聞いた答えだった。
俺は何も言わず、掲示板の釘穴を見た。新しい票の下には、前の票を留めていた痕が残っている。白い面は取り替えられる。黒い穴は残る。板は何度も働かされて、何度も忘れた顔をする。
「勇者の兄ちゃん」
ヴェスタが呼んだ。
「何だ」
「ここで怒るのは簡単だぜ」
「ああ」
「怒るのが悪いって話じゃねえ。俺だって腹は立ってる。ただな、相手はたぶん怒鳴り声も使う」
「使う?」
「勇者様が騒いだ。港の秩序のために、危ない連中を整理する。そんな白い一枚が次に出る」
俺は依頼板を見た。
まだ貼られていない依頼票まで、目の奥に浮かんだ気がした。
「なら、どうする」
ヴェスタは少し笑った。
「まずは怒ってねえ顔で帰る」
「それだけか」
「それが難しいんだろ」
確かに難しかった。
歯の奥が痛む。拳を握りかけて、俺は革手袋の内側で指を開いた。剣は抜く練習より納める練習のほうが多い。教官の声が頭の奥で鳴った。今は剣ではない。けれど、納めるものは同じだ。
カイが依頼板の横へ歩いた。
そこには共助棚があった。水差し。清布。簡単な薬草包み。窓口へ相談するための木札。昨日も似た棚を見た。今日は、その横に薄い帳面が開かれている。
負傷相談の簡易受付。
名は書かない。
症状と希望する対応だけを書く。
カイは帳面に触れなかった。ただ見える範囲へ目を落とす。指先は布袋の紐に添えられている。祈りの前にロザリオへ触れる時と似た手つきだった。
「指の潰れ」
彼が言った。
依頼票を読む声より小さかった。
「縄擦れ」
次の行。
「膝の腫れ。腰痛。肩の痛み。手首の捻挫」
帳面は血を流さない。
だが、そこには身体があった。
剣で斬られた傷ではない。魔法で焼かれた傷でもない。戦場で受ける傷とも違う。箱を持ち上げる。縄を引く。荷車を押す。夜明け前の冷えた倉庫で、自分の身体を仕事に合わせて削る。
「戦いの傷ではありませんね」
カイが言った。
「ああ」
「けれど、戦いで負けた後の傷に似ています」
俺はカイを見た。
彼は帳面を見ている。責める顔ではない。悲しむだけの顔でもない。傷を前にした神官の顔だった。どこに手を置けば相手の痛みを増やさないか、まずそれを探している顔だ。
「立つ場所を変えられた人の傷です。前に立っていた人が、横へ、後ろへ、下へ動かされる。そのたびに使う身体が変わります」
カイは清布を一枚取った。自分のものではない。棚に置かれている共有の布だ。
指先で畳み目を確かめ、元の場所へ戻す。
「働けていることと、守られていることは同じではありません」
さっきも聞いた言葉だった。
けれど帳面の前で聞くと、重さが変わった。
白い面はまた喋った。
今度は声ではない。傷の場所で。
俺は依頼板へ戻った。白い票が面を埋めている。窓口の若い女が新しい依頼票を持ってきて、空いた釘穴へ重ねた。小さな釘が鳴る。
乾いた音だった。
カイは共助棚の前から、すぐには戻らなかった。
俺たちが近づくと、彼は帳面の横に置かれた木札を見ていた。相談希望者が手に取る札だ。札には数字だけが刻まれている。名前ではなく、番号で呼ぶ仕組みらしい。
「ここでは名前を呼ばないのですね」
カイが尋ねると、棚の近くにいた係が頷いた。
「希望があれば。港の者は、名前を出したくない相談もあります」
「怪我でも」
「怪我でも、です」
カイは木札を一枚だけ持ち上げた。
表面が摩耗している。何人も同じ場所を親指でなぞったのだろう。数字の溝だけが黒ずみ、周りの木は白っぽく乾いていた。
「祈りでは、名を呼びます」
カイが言った。
係は少しだけ困った顔をした。
「ここでは、呼ばないことで来られる方もいます」
「はい」
カイは札を戻した。
「どちらも、人のためですね」
係は答えなかった。
答えないまま、水差しの位置を直す。
その所作だけで十分だった。
俺は、カイがその棚の前に立つ理由を少しだけ受け取った気がした。彼は傷だけを見ているのではない。名前を伏せなければ来られない場所を見ている。祈りが名を呼ぶものなら、ここは名を伏せることで人を呼ぶ場所だ。
同じ救いではない。
だが、同じ方角を向いている。
──────────────────────────────
組合を出るころには、昼の光が少し傾いていた。
サルマンディアの街路は、まだ白い。菓子を抱えた観光客が笑う。婚礼船の鈴が遠くで鳴る。劇場の前では呼び込みが声を張る。白い花飾りをつけた馬車が坂を下っていく。
俺の懐には、さっきより薄い書面が増えていた。
照会表の写し。
個人の名はない。
団体の名もない。
代理業者の看板も一部は伏せられている。
残っているのは時刻と場所。処理の語。最後に保証欄。
「半分だな」
ヴェスタが言った。
「何が」
「分かったこと。半分」
「半分も分かったのか」
「半分も分かってねえとも言える」
「どちらだ」
「両方」
彼は肩をすくめた。
「港の悪さってのは、半分見えた時が一番嫌なんだよ。見えねえうちは気のせいで済む。全部見えりゃ殴るなり逃げるなりできる。半分だと、飯を食いながら考え続ける羽目になる」
「それは嫌だな」
「だろ」
カイが隣を歩きながら、街路の端へ目を向けた。小さな荷車を押す若者がいる。積まれた木箱は軽そうに見えた。だが車輪が石畳の溝にはまり、若者の肩が一瞬だけ沈んだ。
カイは足を止めかけた。
若者はすぐ持ち直した。通りの男が片手を貸す。荷車は動く。
カイはそのまま歩き続けた。
「今のも、手を出すべきか迷いました」
「俺もだ」
「レオンもですか」
「ああ」
「では、今日は迷う日ですね」
「祈りではどう扱う」
カイは少し考えた。
「迷いを消すのではなく、置く場所を作ります」
「置く場所」
「はい。手を出さなかったことを、なかったことにしない場所です」
俺は頷いた。
手を出さなかった。
ブルーノの名を使わなかった。古杭の護衛団の名を使わなかった。依頼票を剥がさなかった。荷車の若者にも駆け寄らなかった。
しなかったことが増えていく。
それは、何もしなかったこととは同じではないはずだ。
そうでなければ、喉の奥に残る酸味の置き場がない。
「レオン」
カイが呼んだ。
「はい」
俺は思わず返事をした。
カイが少しだけ笑う。
「疲れていますね」
「そうか」
「はい」
ヴェスタが横から言う。
「白い奴に殴られた顔してるぜ」
「書面は殴らない」
「殴る書面もある。今日のはそうだ」
俺は懐の上から写しを押さえた。
硬い。
薄いはずなのに、革鎧の内側で角だけが硬かった。歩くたびに胸へ当たる。小さな角だ。けれど、そこに視線が戻る。保証欄の白さまで戻ってくる。
白帆亭へ戻る道の途中、俺たちは水売りの屋台で足を止めた。
喉が渇いていた。カイに疲れていると言われたせいか、自分でも急に分かった。舌の付け根が重い。肩の力も抜けにくい。勇者のサッシュが、汗を吸って少しだけ肌へ貼りついていた。
ヴェスタは薄い果実水を三つ買った。
代金を払う時に、屋台の男へ軽く顎を上げる。
「勇者様の分は高くなるのか」
屋台の男は笑った。
「勇者様なら、むしろ安くしないと罰が当たる」
「じゃあ俺の分は?」
「元海賊みたいな顔の兄さんは倍だ」
「見る目があるじゃねえか」
ヴェスタは普通の値段を払った。
ほんの短い冗談だった。
それだけで空気が少し軽くなった。果実水は冷えていた。酸味が強い。舌の奥が目を覚ます。俺は半分ほど飲んでから、通りの向こうを見た。
白い街路。
白い壁。
白い依頼票。
明るいものばかりの街で、さっき見た保証欄の白だけが別の色に見えている。
「甘くねえな」
ヴェスタが果実水を見た。
「甘いものが欲しかったのか」
「いや。これぐらいでいい。甘すぎると、あとで口が重くなる」
カイは杯を両手で持っていた。
「今日の話に似ていますね」
「どこがだ」
「飲める。けれど甘くはない」
ヴェスタが一瞬だけ黙った。
それから、肩を揺らして笑った。
「カイの兄ちゃん、たまにえげつねえこと言うよな」
「えげつない」
「褒めてる」
「それは、どうも」
カイは少し困ったように笑った。
その笑いを見て、胸の奥がわずかに緩む。勇者一行はまだ壊れていない。負けた。間違えた。傷を負った。けれど、こうして果実水の酸味に顔をしかめることができる。
だからこそ、急いではいけない。
急いで壊すものがある。
俺は杯の残りを飲んだ。冷たさが喉を通り、胸の奥で熱に変わる。炎ではない。ただ身体が戻る熱だ。歩くための熱。踏み込む前に止まるための熱。
「ヴァローに見せる」
「それがいい」
「ガイウスにも」
「兄貴は寝ながら聞くな」
「寝ながらでも聞くのか」
「あの人は聞く。目を閉じてる方がむしろ聞いてる」
カイが頷く。
「ガイウスは、そうですね」
その言い方に、少しだけ温かさがあった。
勇者一行の全員が、完全には戻っていない。だが戻りつつある。港で傷を負った者がいる。報告書に埋まっている者もいる。祈りを置く者もいる。白い一枚に殴られた俺もいる。
「帰ろう」
俺は言った。
「ああ」
「はい」
三人で白帆亭へ向かった。
──────────────────────────────
白帆亭の入口に、白い外套の男が立っていた。
遠目にも分かった。
ルシアン・セーヴァ。
彼は宿の前の小さな日陰に立ち、宿の者と何か短く話していた。こちらに気づくと、すぐに笑う。人懐っこい笑みだった。いつもなら、その笑みは旅の疲れを少し薄める。
今日の俺には、少しだけ白く見えた。
「お帰りなさいませ」
ルシアンは軽く頭を下げた。
「レオン君、カイ神官、ヴェスタ殿。お疲れのところ恐縮ですが、ひとつお預かりしております」
「本部からですか」
カイが聞いた。
「いいえ」
ルシアンは首を横に振った。
「本部ではありません。私が中身を知る類のものでもない」
丁寧な言い方だった。
同時に、線を引く言い方でもあった。彼は組合の中で俺たちが何を見たか知らない。知らないまま、ここに立っている。だからこそ、その白い外套まで今日の話に混ぜてはいけない。
ヴェスタの目が細くなる。
「じゃあ、どこからだ」
ルシアンは白外套の内側から封筒を取り出した。
厚い紙だ。
照会表の写しとは違う。依頼票とも違う。手で漉いたような柔らかい厚みがある。光を受けても冷たくは見えない。けれど、封のところに置かれた蝋だけが濃かった。
薔薇の意匠。
深紅の封蝋。
白い昼の中で、そこだけが沈むように赤い。
「薔薇の館より、勇者一行の皆様へ」
ルシアンが言った。
カイの呼吸が、ほんの少しだけ変わった。
ヴェスタは「ああ」と短く言う。知っているものが来た、という声だった。
俺は封蝋を見た。
赤い。
深紅と言うべき色だった。
けれど、手に取る前に浮かんだのは冒険者組合の照会表だった。
右端の白い保証欄。
何度も同じ看板を置いていた、何も語らない白い欄。
白い写しの角が、胸の内側でまだ硬い。
その前に、深紅の封蝋が差し出された。




