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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
93/127

保証欄の白

 白い写しは、折られた形をまだ忘れていなかった。


 白帆亭の卓に広げると、懐で温まっていたはずの一枚はすぐに冷えた。角だけが少し浮いている。細い影がそこに溜まる。名はない。ブルーノ・カルデラの名も、古杭の護衛団の名も伏せられている。団員の欄は黒く塗られ、誰が誰かをたどれない。


 それでも、軽くはならなかった。


 名を伏せても、重さは残る。


「もう一度、確かめましょう」


 カイの声は静かだった。


 白帆亭の昼は、朝より人の気配が濃い。奥の食堂で皿が重なる。階段の向こうで荷を引く音がする。窓の外では白い石畳が光を跳ね返していた。婚礼都市の昼は明るい。その明るさが、卓の上の白い面にも容赦なく落ちる。


「この写しで、ブルーノさんの名前は出さない」


「はい」


「古杭の護衛団の名も出さない」


「はい」


「団員の名も」


「出しません」


 カイは一つずつ受け止めた。祈りを数える時と同じ手つきで、声の置き場をずらさない。


 ヴェスタは椅子の背にもたれていた。片足だけを少し前に投げ出している。歩けるところまでは戻っているが、動きはいつもより少ない。青と黄色のバンダナの端が、肩の上で小さく揺れた。


「何度も言うが、名を出さねえのは正解だぜ」


「分かっている」


「分かってる顔と、押し込みてえ顔は別物だ」


「押し込む?」


「勇者の印だよ。こう、ばんとやるやつ」


 ヴェスタは卓へ手のひらを落とす真似をした。けれど実際には触れない。風だけが浮いた角をわずかに動かした。


「押せば早いかもしれない」


「早いだけだな」


「……ああ」


 俺は白い面へ目を落とした。


 契約解除通知。


 荷損補填。


 違約相当額。


 字は整っている。線はまっすぐで、癖がない。怒った人間の字ではない。焦った人間の字でもない。泣きながら書いた跡もない。ただ決められた場所へ、決められた語が置かれている。


「急ぎたい」


 口に出してから、同じ言葉を何度も飲み込んできたことに気づいた。


 カイが俺を見た。


「はい」


「だが、急げば壊れるものがある」


 喉の奥が少し乾いた。


 今の言葉は、教官から借りたものではなかった。


 ヴェスタが口の端を上げる。


「悪くねえな。勇者の兄ちゃんの言葉って感じになってきた」


「褒めているのか」


「半分だな」


「残りは」


「これから見る白い奴次第」


 カイが小さく笑った。笑いはすぐに閉じる。彼は卓の端に置いた清布を畳み直し、布袋へしまった。昨日もその前の日も同じだった。祈りの前に呼吸を整える時の手順だ。


「ガイウスは」


「寝てろって言ってあります」


 ヴェスタが答えた。


「本人は」


「不満そうだった。だから寝るだろ」


「なぜそうなる」


「ガイウスの兄貴は、不満を言うだけ言ったら従う。山の男ってのはそういう作りなんじゃねえか」


 カイが少し眉を下げた。


「ヴァローは報告書ですね」


「ああ。朝から塔宛ての書面とにらめっこしている」


「今回のことは、ヴァローが見た方が早いのではありませんか」


「早いと思う」


 俺は写しを折らずに、板紙の間へ挟んだ。折り目を増やしたくなかった。名を消された人間に、さらに余計な線をつける気がしなかった。


「だが、まず俺たちが見る。俺の判断だ」


 カイは頷いた。


 ヴェスタは椅子から身を起こす。体重の移し方に、かすかな遅れがあった。それでも彼は顔に出さない。曲刀の位置だけを確かめて、いつもの調子を作った。


「なら行こうぜ。白い奴は足が遅いって言いたいとこだが、港じゃ夜逃げもする」


「書面が夜逃げするのか」


「するぜ。誰かの懐に入ってな」


 冗談だった。


 けれど笑えなかった。


 白帆亭を出る前、俺は一度だけ階段の上を見た。


 二階の廊下は静かだった。ガイウスの部屋の扉は閉じている。前には、カイが朝に置いた水差しと宿の女将が追加した果物皿があった。山の男は文句を言いながらも、ああいう小さな世話を無視しない。食べる。飲む。たぶん礼は言わず、皿だけをきちんと返す。


 ヴァローの部屋の扉の下からは灯りが漏れていた。昼なのに灯りをつけている。報告書の写し。塔への連絡。白真珠の塔とのつながり。彼は俺たちが戻った時、受け取ったものを線で分ける準備をしているはずだ。皮肉を言い、嫌な場所ほど正確に残す。


 俺たちは五人で一行だ。


 けれど、いつも五人で同じものを見るわけではない。


 誰かが前に出る日がある。部屋に残る日もある。剣を持つ朝がある。帳面を持つ昼もある。今日の俺は聖剣ではなく、名を消した写しを持っている。


 宿の扉を開けると、白い光が入ってきた。


 サルマンディアの昼は明るい。明るすぎるほどだった。白い壁。白い石畳。花を載せた馬車。海から来る薄い塩の匂い。露店の果実水から立つ酸味が、風に混じって喉を刺す。


 昨日見た依頼票も、こんな光の下で貼られていた。暗い場所で人を縛るなら、まだ分かりやすい。だがこの街の書面は、陽の当たる場所で人を縛る。


 俺はサッシュの位置を直した。


 勇者の深紅は、今日は少しだけ重い。


──────────────────────────────


 冒険者組合の照会机は、昨日の契約控え室よりさらに奥にあった。


 表の依頼板は相変わらず人が多い。剣を腰に下げた冒険者。荷役の札を探す若者。港の匂いをまとった船員。観光客向け護衛の値を見て首をひねる者。依頼票が壁を埋め、目が行を追う。誰かが選び、誰かが札を剥がす。


 照会机の周りは、そこから少しだけ空気が違った。


 声が低い。


 書きつけを置く音が目立つ。


 窓口にいたのは昨日の女性ではなかった。年配の男で、銀縁の眼鏡をかけている。こちらを見る目は、勇者一行への驚きより先に机上の手順へ戻った。そういう癖が染みている目だった。


「個別名を伏せた契約照会ですね」


「はい」


 俺は板紙を差し出した。


「この件と似た相談が、公開可能な範囲であるか確認したい」


「個人名、団体名、船主名、具体的な被害額は伏せます」


「構いません」


「相手方の代理業者名は、登録済みの公開情報に限り出せます」


「それでお願いします」


 男は頷いた。余計な質問はない。勇者として扱わないわけではない。だが勇者だからといって、机の上の線を飛び越えない。


 そのことに、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 一枚目が置かれた。


「発注元代理。ベローニ物流」


 知らない看板だった。


 ヴェスタが端の欄を見る。


「知らねえ名前だ」


「ご存じありませんか」


「知らねえ名前ってのは、港じゃ便利なんだよ。顔が浮かばねえ」


 男の指が次の行へ滑った。


「積み場変更通知。当日第四鐘。南倉庫列から西側仮置き場へ」


「当日?」


 俺が聞くと、男は頷いた。


 白い一行は、返事をしない。


 返事をしないまま、人を遅らせる。


 カイが小さく息を吐いた。


「間に合いませんね」


「間に合わねえように書いてある」


 ヴェスタが言った。


 男は何も言わない。指だけが次へ進む。


「不履行扱い。荷損補填。違約相当額」


 その三つは、昨日も見た。


 別の写しで見た。別の男の手元で見た。今は別の代理業者に紐づいている。だが順序は同じだった。冷えた刃を、布で包んで渡されたような感じがした。


「次を」


 俺は言った。


 年配の男が二枚目を出す。


 二枚目は、机に乗った音が違った。俺が触れたわけではない。ただ響きが違う。昨日の写しは少し厚く、何度も手元で折られた丸みがあった。今の一枚は薄い。棚から抜き取られたばかりの、冷えた白さを持っている。


 男は同じ調子で読み上げた。


「発注元代理。リーヴァ配送管理」


「また知らねえ名だ」


 ヴェスタの声は軽い。


 だが目は笑っていない。


 男の指が下りる。


「積み場変更通知。前日夕刻。北桟橋から南側倉庫列へ」


 南側倉庫列。


 昨日、依頼板の白い札にあった場所だ。


「不履行扱い。補填請求。ただし一部団員については、発注元側の斡旋により荷役業務へ移行」


「救済、ですか」


 カイが問う。


 男は眼鏡の奥で目を細めた。


「書面上は、そうです」


 書面上。


 その言葉は、机の上で冷えた。


 欄は救済を示す。その字が誰をどう救うかは、どこにも示されていない。働き口が残る。明日の飯が残る。だが、それだけで何かが守られたことになるのか。


 ヴェスタが指を鳴らしかけて、やめた。照会机で鳴らす音ではないと、自分で切ったのだろう。


「潰してんじゃねえな」


 彼は低く言った。


「違うのか」


「潰してたら分かりやすい。看板を砕いて、連中を路地に放り出す。誰が見ても悪さだ」


「これは」


「腹だけ残して、刃を抜いてる」


 ヴェスタは欄を見た。


「飯は残る。看板は消える。護衛は荷役になる。剣を握ってた手が、縄と箱を持つ。港じゃそれを救済って呼ぶ奴もいる」


 カイの手が、布袋の上に置かれた。


「働けていることと、守られていることは同じではありません」


 男の指が止まった。


 彼はカイを見た。


「その通りです」


 一瞬だけ、窓口の声から薄い膜が剥がれた。


 すぐ戻る。


 三枚目は、読み上げではなかった。男は俺たちの前に簡略の控えを置き、該当する行へ指を当てる。白い余白の中に、同じ形の文字がそろっていた。


 発注元代理。サンターニ商務代行。


 契約変更受付。前日第三鐘。


 積み替え地点、東側水門付近から南側倉庫列へ。


 履行遅延。補填請求。


 団員二名、倉庫補助へ移行。


 ヴェスタは何も言わなかった。灰緑の目だけが、最後の行に止まる。


 俺の手の下で、板紙の角が硬く感じられた。


 同じ歩幅で来る。


 違う肩書きが、同じ口で喋っている。


 四枚目は、男が声を出す前に息が止まった。もう流れが見えていたからだ。代理業者の看板が変わる。倉庫列の位置が少し変わる。通知時刻もずれる。補填の言葉も、履行遅延の言葉も揺れる。


 だが、進む先は同じだ。


「発注元代理。オルメッタ共同輸送」


 男の声は変わらない。


「契約変更受付。当日第一鐘。東桟橋から南側倉庫列へ」


 まただ。


「履行確認不能。代替人員斡旋。旧契約者より三名、倉庫補助へ移行」


「旧契約者」


 俺は思わず繰り返した。


「はい」


「護衛団ではなく」


「照会表では、その表記です」


 旧契約者。


 白い一行は、人間の仕事を古い契約に変える。古い契約になったものは、次の契約に置き換えられる。護衛団という呼び名はなくなる。団長も斥候も前衛も欄に収まる。船を守ってきた年月まで、古くなった枠へ押し込まれる。


 カイが帳面の端を見た。


 祈りの言葉を探しているようにも、祈りを出さない場所を選んでいるようにも見えた。


「保証欄は」


 俺が言うと、男は一瞬だけこちらを見た。


「保証欄」


「信用保証、または紹介元。公開できる範囲で」


 男は少し迷った。


 迷いは短かった。彼は机の下から別の一枚を取り出す。写しではない。照会用の簡略表だ。個人名や団体名は黒く伏せられている。代理業者の表示も、いくつかは頭文字だけになっていた。


 だが右端の欄だけは残されている。


 欄の上に信用保証の文字があった。


 一件目。


 白い保証欄。


「シローネ商会」


 男は告げた。


 二件目。


「シローネ商会」


 三件目。


「シローネ商会」


 声は変わらない。


 帳面も変わらない。


 それなのに、白い保証欄だけが机の上で大きくなる。


 シローネ商会。


 耳にしたことのある看板だった。町で噂になる看板。誰かが詳しく教えてくれたわけではない。サルマンディアにいる間、あちこちで薄く耳に入っていた名だ。蒼凪殿たちがどう見ているかは知らない。俺たちが見てきたのは、今ここにある白い欄だけだ。


「保証人ですか」


 カイが聞いた。


 男は首を振る。


「厳密には違います。信用保証、商流照会、支払能力の確認、紹介元。案件ごとに呼び方は違います」


「呼び方が違うだけか」


 俺の声が硬くなった。


 男は俺を見る。


「違います。呼び方が違えば、扱いも違います。法的には」


「法的には」


「はい」


 法的には。


 それもまた、白い面の言葉だった。


 俺は反論しなかった。ここで反論すれば、相手は窓口の男ではなく法の束になる。机の向こうにいる男が作ったものではない。彼はその中で、出せる線を選んでこちらに出している。


「ありがとうございます」


 俺は言った。


 男は少しだけ頷いた。


「これ以上は、正式な調査権限か、当事者からの委任が必要です」


「委任は取らない」


「その方がよろしいでしょう」


 即答だった。


 ヴェスタが男を見る。


「あんた、嫌いじゃねえな」


「それはどうも」


「褒めてるぜ」


「褒め言葉として処理しておきます」


 男の声は平らだった。


 だが目元だけ、少し疲れていた。


「同じ相談は増えていますか」


 俺は聞いた。


 男はすぐには答えなかった。


 机の端の砂時計を見たわけではない。背後の棚を見たわけでもない。ただ目を伏せた。その沈黙は、隠すためのものではなかった。言える形を探すためのものだった。


「公開相談として処理された件は、先月より増えています」


「どのくらい」


「比率で言えば、およそ倍です」


「倍」


「ただし、母数は大きくありません」


 ヴェスタが小さく笑った。


「母数が小さいってのは便利な言い方だな」


「便利です」


 男は否定しなかった。


「便利な言葉は、便利なまま使うしかありません。便利でない言葉を使うと、相談者の名が見えます」


 ヴェスタが口を閉じた。


 カイも何も言わなかった。


 俺も言えなかった。


 その男は俺たちを庇っているのではない。ブルーノを庇っているのでもない。名前を出せない誰かを、手続きの薄い壁で庇っている。薄い壁だ。蹴れば破れる。勇者の名なら、たぶんもっと簡単に破れる。


 だから破らない。


 俺はその判断を、自分の内側に置いた。


「相談者の名は見ません」


 男は一度だけ、俺を見た。


「助かります」


 その一言は、礼ではなかった。


 確認だった。


──────────────────────────────


 依頼板の前は、照会机の奥とは別の明るさを持っていた。


 人の声が戻る場所だった。依頼を選ぶ声。報酬を比べる声。仲間を呼ぶ声。誰かが笑う。誰かが舌打ちする。板の前で腕を組む者もいる。そこにはまだ、仕事を選べる者たちの熱があった。


 白い依頼票は、その中でよく目立つ。


 色のついた札は観光客向けに使われていた。高額依頼。劇場警備。婚礼船の夜間巡回。飾り罫がつき、報酬の数字も大きい。白い依頼票は実務のものだ。運搬。荷役。倉庫補助。短期雇用。絵も飾りもない。けれど数だけは多かった。


 ヴェスタは一枚を剥がさなかった。


 指先で端を押さえただけだ。爪の下に古い傷が見える。海で使い込まれた手だった。俺の手とは違う。剣を握る手とも違う。縄と曲刀と濡れた甲板を知っている手だ。


「短期荷役。夜明け前。南側倉庫列」


「また南側か」


「まだあるぜ」


 彼の指が下へ滑る。


「武器携行不可。保証付き。未経験可」


 最後の二語だけ、妙に白く見えた。


 カイは依頼票そのものではなく、掲示板の下の木肌を見ていた。そこには古い釘穴がいくつも残っている。抜かれた跡。打ち直された跡。前に貼られていたものの黒い痕。新しい依頼票は白いが、板の奥は傷だらけだった。


「護衛の仕事は」


「剥がされた後だろうな」


 ヴェスタは指を離した。


「親切な面してやがる。奪った後の飯まで置いてある」


「飯」


「仕事だよ。明日食う飯。明後日払う宿代。遠くの家に送る銭。そういうのを残す。だから文句が喉で止まる」


 彼は別の白い票へ指を移した。


「倉庫補助。箱詰め。縄掛け。荷車押し」


 そこで少しだけ眉を動かす。


「腰をやるな」


 カイの目が動いた。


「腰ですか」


「海の護衛は足と目で食う。倉庫は腰と指で食う。使う身体が違うんだよ」


「同じ働くでも、傷つく場所が変わる」


「そういうことだ」


 俺は依頼票へ目を落とした。


 どれも普通の仕事に見える。町には荷が必要だ。倉庫には人手がいる。夜明け前に動かす荷もある。武器を持ち込めない場所もある。保証付きと書かれていれば、むしろ安心に見える。


 一つ一つは、普通だ。


 普通が重なると、道になる。


 その道の先に、誰かの看板が落ちている。


 掲示板の端では、若い男が白い票を見ていた。


 俺より少し下に見える。肩幅はある。だが立ち方に迷いがある。腰には短剣があるのに、柄へ手を置く癖がない。昨日まで剣を持っていた者か、これから剣を持ちたい者か。どちらとも言えた。


 男は荷役募集をしばらく見てから、隣の高額護衛依頼へ目を移した。


 すぐ戻った。


 高額護衛の札には条件がある。等級。経験年数。護衛実績。船上戦闘可。推薦状。白い荷役募集にはそれがない。未経験可。保証付き。短期。即日。


 白い一枚は優しい。


 優しい方へ、人を呼ぶ。


 男はまだ迷っていた。誰かに相談するわけでもない。ただ目だけが、白い票と色付きの札を往復している。喉が動いた。唾を飲んだのだろう。手はまだ短剣に触れない。


「あれだ」


 ヴェスタが低く言った。


「何が」


「剣を持ちてえ奴を、箱の方へ曲げる時の顔」


「助けられるか」


「何から?」


 俺は答えられなかった。


 ヴェスタは若い男を見ている。責める目ではない。港のどこかで何度も同じ顔を見てきた目だ。自分の過去を見ているのかもしれない。俺には分からない。ただ、彼の肩の力が少しだけ抜けていた。


「あいつはまだ何も失ってねえ。飯を選ぶかもしれねえし、剣を選ぶかもしれねえ。どっちを選んでも、今日の俺たちが口を出す筋じゃない」


「分かっている」


「分かってても顔に出る」


「顔に書いてあるか」


「大きかった字が、中くらいになった」


「それは褒めているのか」


「半分な」


 前にも聞いた答えだった。


 俺は何も言わず、掲示板の釘穴を見た。新しい票の下には、前の票を留めていた痕が残っている。白い面は取り替えられる。黒い穴は残る。板は何度も働かされて、何度も忘れた顔をする。


「勇者の兄ちゃん」


 ヴェスタが呼んだ。


「何だ」


「ここで怒るのは簡単だぜ」


「ああ」


「怒るのが悪いって話じゃねえ。俺だって腹は立ってる。ただな、相手はたぶん怒鳴り声も使う」


「使う?」


「勇者様が騒いだ。港の秩序のために、危ない連中を整理する。そんな白い一枚が次に出る」


 俺は依頼板を見た。


 まだ貼られていない依頼票まで、目の奥に浮かんだ気がした。


「なら、どうする」


 ヴェスタは少し笑った。


「まずは怒ってねえ顔で帰る」


「それだけか」


「それが難しいんだろ」


 確かに難しかった。


 歯の奥が痛む。拳を握りかけて、俺は革手袋の内側で指を開いた。剣は抜く練習より納める練習のほうが多い。教官の声が頭の奥で鳴った。今は剣ではない。けれど、納めるものは同じだ。


 カイが依頼板の横へ歩いた。


 そこには共助棚があった。水差し。清布。簡単な薬草包み。窓口へ相談するための木札。昨日も似た棚を見た。今日は、その横に薄い帳面が開かれている。


 負傷相談の簡易受付。


 名は書かない。


 症状と希望する対応だけを書く。


 カイは帳面に触れなかった。ただ見える範囲へ目を落とす。指先は布袋の紐に添えられている。祈りの前にロザリオへ触れる時と似た手つきだった。


「指の潰れ」


 彼が言った。


 依頼票を読む声より小さかった。


「縄擦れ」


 次の行。


「膝の腫れ。腰痛。肩の痛み。手首の捻挫」


 帳面は血を流さない。


 だが、そこには身体があった。


 剣で斬られた傷ではない。魔法で焼かれた傷でもない。戦場で受ける傷とも違う。箱を持ち上げる。縄を引く。荷車を押す。夜明け前の冷えた倉庫で、自分の身体を仕事に合わせて削る。


「戦いの傷ではありませんね」


 カイが言った。


「ああ」


「けれど、戦いで負けた後の傷に似ています」


 俺はカイを見た。


 彼は帳面を見ている。責める顔ではない。悲しむだけの顔でもない。傷を前にした神官の顔だった。どこに手を置けば相手の痛みを増やさないか、まずそれを探している顔だ。


「立つ場所を変えられた人の傷です。前に立っていた人が、横へ、後ろへ、下へ動かされる。そのたびに使う身体が変わります」


 カイは清布を一枚取った。自分のものではない。棚に置かれている共有の布だ。


 指先で畳み目を確かめ、元の場所へ戻す。


「働けていることと、守られていることは同じではありません」


 さっきも聞いた言葉だった。


 けれど帳面の前で聞くと、重さが変わった。


 白い面はまた喋った。


 今度は声ではない。傷の場所で。


 俺は依頼板へ戻った。白い票が面を埋めている。窓口の若い女が新しい依頼票を持ってきて、空いた釘穴へ重ねた。小さな釘が鳴る。


 乾いた音だった。


 カイは共助棚の前から、すぐには戻らなかった。


 俺たちが近づくと、彼は帳面の横に置かれた木札を見ていた。相談希望者が手に取る札だ。札には数字だけが刻まれている。名前ではなく、番号で呼ぶ仕組みらしい。


「ここでは名前を呼ばないのですね」


 カイが尋ねると、棚の近くにいた係が頷いた。


「希望があれば。港の者は、名前を出したくない相談もあります」


「怪我でも」


「怪我でも、です」


 カイは木札を一枚だけ持ち上げた。


 表面が摩耗している。何人も同じ場所を親指でなぞったのだろう。数字の溝だけが黒ずみ、周りの木は白っぽく乾いていた。


「祈りでは、名を呼びます」


 カイが言った。


 係は少しだけ困った顔をした。


「ここでは、呼ばないことで来られる方もいます」


「はい」


 カイは札を戻した。


「どちらも、人のためですね」


 係は答えなかった。


 答えないまま、水差しの位置を直す。


 その所作だけで十分だった。


 俺は、カイがその棚の前に立つ理由を少しだけ受け取った気がした。彼は傷だけを見ているのではない。名前を伏せなければ来られない場所を見ている。祈りが名を呼ぶものなら、ここは名を伏せることで人を呼ぶ場所だ。


 同じ救いではない。


 だが、同じ方角を向いている。


──────────────────────────────


 組合を出るころには、昼の光が少し傾いていた。


 サルマンディアの街路は、まだ白い。菓子を抱えた観光客が笑う。婚礼船の鈴が遠くで鳴る。劇場の前では呼び込みが声を張る。白い花飾りをつけた馬車が坂を下っていく。


 俺の懐には、さっきより薄い書面が増えていた。


 照会表の写し。


 個人の名はない。


 団体の名もない。


 代理業者の看板も一部は伏せられている。


 残っているのは時刻と場所。処理の語。最後に保証欄。


「半分だな」


 ヴェスタが言った。


「何が」


「分かったこと。半分」


「半分も分かったのか」


「半分も分かってねえとも言える」


「どちらだ」


「両方」


 彼は肩をすくめた。


「港の悪さってのは、半分見えた時が一番嫌なんだよ。見えねえうちは気のせいで済む。全部見えりゃ殴るなり逃げるなりできる。半分だと、飯を食いながら考え続ける羽目になる」


「それは嫌だな」


「だろ」


 カイが隣を歩きながら、街路の端へ目を向けた。小さな荷車を押す若者がいる。積まれた木箱は軽そうに見えた。だが車輪が石畳の溝にはまり、若者の肩が一瞬だけ沈んだ。


 カイは足を止めかけた。


 若者はすぐ持ち直した。通りの男が片手を貸す。荷車は動く。


 カイはそのまま歩き続けた。


「今のも、手を出すべきか迷いました」


「俺もだ」


「レオンもですか」


「ああ」


「では、今日は迷う日ですね」


「祈りではどう扱う」


 カイは少し考えた。


「迷いを消すのではなく、置く場所を作ります」


「置く場所」


「はい。手を出さなかったことを、なかったことにしない場所です」


 俺は頷いた。


 手を出さなかった。


 ブルーノの名を使わなかった。古杭の護衛団の名を使わなかった。依頼票を剥がさなかった。荷車の若者にも駆け寄らなかった。


 しなかったことが増えていく。


 それは、何もしなかったこととは同じではないはずだ。


 そうでなければ、喉の奥に残る酸味の置き場がない。


「レオン」


 カイが呼んだ。


「はい」


 俺は思わず返事をした。


 カイが少しだけ笑う。


「疲れていますね」


「そうか」


「はい」


 ヴェスタが横から言う。


「白い奴に殴られた顔してるぜ」


「書面は殴らない」


「殴る書面もある。今日のはそうだ」


 俺は懐の上から写しを押さえた。


 硬い。


 薄いはずなのに、革鎧の内側で角だけが硬かった。歩くたびに胸へ当たる。小さな角だ。けれど、そこに視線が戻る。保証欄の白さまで戻ってくる。


 白帆亭へ戻る道の途中、俺たちは水売りの屋台で足を止めた。


 喉が渇いていた。カイに疲れていると言われたせいか、自分でも急に分かった。舌の付け根が重い。肩の力も抜けにくい。勇者のサッシュが、汗を吸って少しだけ肌へ貼りついていた。


 ヴェスタは薄い果実水を三つ買った。


 代金を払う時に、屋台の男へ軽く顎を上げる。


「勇者様の分は高くなるのか」


 屋台の男は笑った。


「勇者様なら、むしろ安くしないと罰が当たる」


「じゃあ俺の分は?」


「元海賊みたいな顔の兄さんは倍だ」


「見る目があるじゃねえか」


 ヴェスタは普通の値段を払った。


 ほんの短い冗談だった。


 それだけで空気が少し軽くなった。果実水は冷えていた。酸味が強い。舌の奥が目を覚ます。俺は半分ほど飲んでから、通りの向こうを見た。


 白い街路。


 白い壁。


 白い依頼票。


 明るいものばかりの街で、さっき見た保証欄の白だけが別の色に見えている。


「甘くねえな」


 ヴェスタが果実水を見た。


「甘いものが欲しかったのか」


「いや。これぐらいでいい。甘すぎると、あとで口が重くなる」


 カイは杯を両手で持っていた。


「今日の話に似ていますね」


「どこがだ」


「飲める。けれど甘くはない」


 ヴェスタが一瞬だけ黙った。


 それから、肩を揺らして笑った。


「カイの兄ちゃん、たまにえげつねえこと言うよな」


「えげつない」


「褒めてる」


「それは、どうも」


 カイは少し困ったように笑った。


 その笑いを見て、胸の奥がわずかに緩む。勇者一行はまだ壊れていない。負けた。間違えた。傷を負った。けれど、こうして果実水の酸味に顔をしかめることができる。


 だからこそ、急いではいけない。


 急いで壊すものがある。


 俺は杯の残りを飲んだ。冷たさが喉を通り、胸の奥で熱に変わる。炎ではない。ただ身体が戻る熱だ。歩くための熱。踏み込む前に止まるための熱。


「ヴァローに見せる」


「それがいい」


「ガイウスにも」


「兄貴は寝ながら聞くな」


「寝ながらでも聞くのか」


「あの人は聞く。目を閉じてる方がむしろ聞いてる」


 カイが頷く。


「ガイウスは、そうですね」


 その言い方に、少しだけ温かさがあった。


 勇者一行の全員が、完全には戻っていない。だが戻りつつある。港で傷を負った者がいる。報告書に埋まっている者もいる。祈りを置く者もいる。白い一枚に殴られた俺もいる。


「帰ろう」


 俺は言った。


「ああ」


「はい」


 三人で白帆亭へ向かった。


──────────────────────────────


 白帆亭の入口に、白い外套の男が立っていた。


 遠目にも分かった。


 ルシアン・セーヴァ。


 彼は宿の前の小さな日陰に立ち、宿の者と何か短く話していた。こちらに気づくと、すぐに笑う。人懐っこい笑みだった。いつもなら、その笑みは旅の疲れを少し薄める。


 今日の俺には、少しだけ白く見えた。


「お帰りなさいませ」


 ルシアンは軽く頭を下げた。


「レオン君、カイ神官、ヴェスタ殿。お疲れのところ恐縮ですが、ひとつお預かりしております」


「本部からですか」


 カイが聞いた。


「いいえ」


 ルシアンは首を横に振った。


「本部ではありません。私が中身を知る類のものでもない」


 丁寧な言い方だった。


 同時に、線を引く言い方でもあった。彼は組合の中で俺たちが何を見たか知らない。知らないまま、ここに立っている。だからこそ、その白い外套まで今日の話に混ぜてはいけない。


 ヴェスタの目が細くなる。


「じゃあ、どこからだ」


 ルシアンは白外套の内側から封筒を取り出した。


 厚い紙だ。


 照会表の写しとは違う。依頼票とも違う。手で漉いたような柔らかい厚みがある。光を受けても冷たくは見えない。けれど、封のところに置かれた蝋だけが濃かった。


 薔薇の意匠。


 深紅の封蝋。


 白い昼の中で、そこだけが沈むように赤い。


「薔薇の館より、勇者一行の皆様へ」


 ルシアンが言った。


 カイの呼吸が、ほんの少しだけ変わった。


 ヴェスタは「ああ」と短く言う。知っているものが来た、という声だった。


 俺は封蝋を見た。


 赤い。


 深紅と言うべき色だった。


 けれど、手に取る前に浮かんだのは冒険者組合の照会表だった。


 右端の白い保証欄。


 何度も同じ看板を置いていた、何も語らない白い欄。


 白い写しの角が、胸の内側でまだ硬い。


 その前に、深紅の封蝋が差し出された。

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