↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
92/129

助けを拒む者

 白帆亭の朝は白かった。


 窓枠に差す光も、卓布も、皿に残ったパン粉も白い。けれど白さの奥に、港の湿りが薄く入り込んでいた。焼きたてのパンの匂い。魚を炙った脂。洗った床板に残る石鹸と潮。


 食堂は思っていたより静かだった。


 ガイウスが下りてこないせいだ。彼は同じ建物の隣室にいる。寝台に腰を下ろして、カイが巻き直した清布の締め具合を確かめているはずだった。夜歩きの翌朝ほど悪くはない。けれど腹の傷と背中の痛みは、まだ彼の歩幅を決めている。


 ヴァローの席も空いている。あいつは朝食より紙を選んだ。塔宛ての報告書と白真珠の塔の賢者についての覚書を、昨日から何度も組み替えている。休めと言えば、休んでいると返す。紙の前に座って息をしているから休息だという理屈らしい。


 カイはそれを聞いて、昨夜は長く黙っていた。


 今朝、冒険者組合へ向かうのは俺とカイとヴェスタの三人になる。


 窓の外では婚礼宿の若い従業員が花冠を抱えて走っていた。向かいの店の女が硝子瓶を一つずつ布で拭いている。瓶の首が朝日に光る。菓子屋の奥から砂糖を煮る匂いが流れ、海風がそれをすぐ薄めた。


 街は戻り始めている。


 俺の身体も同じだった。昨日より息が深く入る。肩の奥の重さが少し引いた。椅子から立つ時に足裏が確かに床を掴む。


 良いことだ。良いことだからこそ、間違えたくなかった。


 動けることと、動いていいことは違う。


「軽活動の確認ですね」


 カイが薬湯の器を卓へ置いた。湯気は薄く、苦い草の匂いが鼻へ残る。


「ああ。街中で何かあった時に、誰に通せばいいかも聞いておきたい」


「昨日の来訪が気になっていますか」


「それもある」


 俺はパンを割った。外側は硬く、指先で砕けた皮が皿に落ちる。中はまだ温かかった。白帆亭のパンは噛むと甘みが遅れて来る。戦場の乾いた携行食を思うと、それだけで贅沢だ。


「合議の前に、こちらも街を見ておくべきだ。紙の上だけでは分からない」


「紙の上で分かることもあります」


「それはヴァローの領分だ」


「レオンも読む練習をしてください」


 カイの声は柔らかい。けれど逃がす気はない声だった。


 向かいでヴェスタが魚の塩漬けを骨から外した。指先が器用だ。骨を崩さず身だけを取る。海で覚えた手つきなのだろう。魚を扱っているのに、目は窓の外を見ていた。


「勇者の兄ちゃん。その顔で組合に行くと、受付の胃が荒れるぜ」


「どういう顔だ」


「火事を見つける前から袖をまくってる顔」


「袖はまくっていない」


「そういう話じゃねえよ」


「今日は確認だ」


「確認の足が一番速い。気づいた時には船縁を越えてる」


 カイが俺を見る。


「レオン」


「分かっている」


「その返事は、まだ半分です」


 俺は薬湯の器を見た。逃げ道はない。カイは声を荒げない。声を荒げないまま、俺の足の前に線を引く。


 ヴェスタが口の端を上げた。


「カイの兄ちゃん、朝から網の目が細かいな」


「こぼれやすいものがありますから」


「誰が魚だって?」


「魚とは言っていません」


「言ってねえのに釣れたな」


 カイは少し考えてから、まじめな顔で頷いた。


「釣ったつもりはありませんが、痛みがあるなら手当てします」


「俺じゃねえ。勇者の兄ちゃんの足だ」


「レオンの足も見ます」


「ほらな」


 ヴェスタは笑って、魚を口へ放り込んだ。軽口の底で、彼の目は通りを行く荷車を追っている。荷台の高さ。車輪の泥。押している男の肩。店先の白い上着。彼は食堂にいながら港の流れを読んでいた。


 俺は残りのパンを食べた。


 動ける。だが全員では動けない。


 聖剣を腰に置き、深紅のサッシュを整え、勇者として名乗れば街は俺を見る。俺が街を見るより先に、街の方がこちらを見つける。


 その視線は頼りにもなる。重荷にもなる。


 聖剣は重い。けれど、重いのは剣じゃない。


 喉の奥まで言葉が上がった。教官の受け売りではない。だからこそ、声にする前に止まった。


「行こう」


 俺は立ち上がった。


「今日のうちに、見られるものは見ておきたい」


──────────────────────────────


 冒険者組合サルマンディア支部は、外洋港区の入口にある。


 建物は前に来た時と同じだ。白い街の中で、そこだけ色が沈んでいる。潮。革。油。濡れた縄。人の汗。入口の板には修理跡が増え、敷居の傷に乾いた泥が詰まっていた。


 朝の組合は夜の酒場より静かだ。けれど無音にはならない。硬貨が皿へ当たる音。椅子の脚が床を噛む音。誰かの低い笑い。飲み込まれた悪態。羽根ペンが書類を走る乾いた音。


 扉の前で、ヴェスタが少し鼻を動かした。


「貼り替えたな」


「何をだ」


「紙だよ。昨日より糊が新しい」


 カイが扉横の掲示板を見た。


「匂いで分かるのですか」


「糊は湿ると鼻に来る。紙は乾けば黙るが、糊はしばらく喋る」


「喋る」


「鼻の話だぜ。耳で探すなよ」


「覚えておきます」


 カイが本当に覚える声で言ったので、ヴェスタが少しだけ眉を寄せた。


「神官の兄ちゃんは真顔で船底の穴を数えるから困るな」


「穴は数えた方がよいのでは」


「そうだけどよ」


 俺は扉を押した。


 視線が集まった。


 勇者を見る目。神官を見る目。組合の仲間を見る目。三つ目だけ、温度が違う。値踏みではない。どの海を踏んだか。どの喧嘩なら笑えるか。どの縄張りに顔が利くか。それを測る目だ。


 ヴェスタは肩を少し抜いた。その視線を浴びても、窮屈そうではない。むしろここでは呼吸が浅くならない。組合という場所は彼にとって、傷も含めて馴染んだ床なのだろう。


 受付には、前にヴェスタの継続雇用を通した女性がいた。髪を後ろでまとめ、袖口をきちんと留めている。手元の書類は多い。だがこちらを見る時の目は乱れなかった。


「レオン・ソル様。カイ・グレイス様。ヴェスタ・ロウさん」


 名が先に出た。


 この街では名前が速い。足より速い時がある。


「光神のご加護を」


 俺は頭を下げた。


「療養中に可能な軽活動の範囲を確認したい。それから街中の揉め事に遭遇した時の通報経路を、改めて伺いたい」


「承ります」


 受付の女は書類棚から薄い綴りを抜いた。


「現地依頼への正式参加は医師の許可と支部長確認が必要です。情報提出、職員への同行申請、危険区域外での聞き取り補助は、負傷状況を見て判断します」


「危険区域外とは」


「旧水路、封鎖倉庫区、夜間の港湾下層は除外です」


 俺は頷きながら、依頼板へ目を向けた。


 大きな板の前に朝の湿気が残っている。紙の端が細かく波打っていた。古い紙を剥がした跡が薄い四角で残り、そこへ新しい紙が重なっている。釘穴が黒い点になって散っていた。


 紙が鳴った。


 風ではない。誰かが板の前を通った時の空気で、端が擦れたのだ。乾いた小さな音だった。白い喉が鳴るような音。


 前に見た三枚は、同じ場所にはなかった。


 火薬筒不正持ち込みに関する情報提供は上へ移っている。新しい釘が光っていた。


 旧水路南口の夜間巡回補助は見当たらない。


 封鎖倉庫区の焦げ跡確認に似た紙はあった。けれど名が変わっている。港湾南側倉庫列の外壁点検。焦げ跡ではなく外壁損耗。下の方に小さく、夜間作業不可とある。


 そして護衛依頼の列に、白い紙が増えていた。


 白すぎる紙だった。


 潮文紙なら少し灰を噛む。使い込まれた羊皮紙なら黄ばむ。組合の紙は指の脂と湿気で端が丸くなる。だがその一角だけ、観光客向けの案内紙のように白い。周りの釘穴が余計に黒く見えた。


「白いですね」


 カイが言った。


「紙か」


「はい」


 けれどカイの目は紙ではなく、その下に立つ男たちを見ていた。護衛らしい二人。若い方は靴先を落ち着きなく動かしている。年上の方は右手の親指で左手の甲を押していた。


 痛むのだろう。


 治してくれと言う顔ではない。痛みを人目に出さないために、手で押さえている顔だった。


 俺は紙を見る。カイは人を見る。ヴェスタは板を見る。


 同じ依頼板の前で、三人の目は違う場所へ刺さっていた。


「古い釘穴が多いな」


 ヴェスタが板の端を顎で示した。


「貼り替えが多いということか」


「貼る奴は丁寧だ。剥がす奴は焦ってる。ほら、紙の下に残った繊維が荒い」


「そこまで見るのか」


「港の板はよく喋るんだよ。船主の嘘より正直だ」


「誰が剥がしたかまでは」


「そこまで分かったら俺は組合員じゃなくて占い師だな」


 ヴェスタは笑った。


「けど魚屋が古い魚を奥に回す時も、上に乗せる氷だけは綺麗にする」


 カイが静かに頷いた。


「魚の鮮度と紙の白さを見比べるのですね」


「紙の話だよ」


 受付の女が小さく咳をした。笑いかけたのを仕事の音で隠したのだと思う。


「依頼板の閲覧は自由です。ただし個別案件への関与は必ず職員を通してください」


 その言葉は前にも似た形で聞いた。


 白い看板の商会に関わる揉め事は、必ず組合職員を通すこと。


 俺は注意書きを探した。あった。


 前より少し下だ。目線を外すと見落とす高さ。文字は同じ。紙の端だけ新しい。


「この注意書きは、まだ有効ですか」


 俺が聞くと、受付の女は一瞬だけ羽根ペンを止めた。


「有効です」


「揉め事は増えていますか」


「件数は日によって違います」


 答えの形をした空白だった。


 ヴェスタが息だけで笑う。


「日によって、ねえ」


 受付の女が彼を見る。


「ロウさん。軽活動の範囲確認でしたね」


「そうだったな」


「奥で支部職員が対応します。書類を一枚確認しますので、少々お待ちください」


「俺の契約じゃねえよな」


「今回は違います」


「なら安心だ」


 安心と言いながら、ヴェスタは依頼板から目を離さない。


 その時、奥の扉の向こうから低い声が落ちてきた。


 怒鳴り声ではない。だから耳についた。声を荒げるのではなく、荒げないよう押さえた声。そういう声は、部屋の空気を薄くする。


「それでは、うちの若いのが食えません」


 年季のある男の声だった。


「カルデラさん、支部としても確認はしています。ただ、契約書上は荷損補填の扱いで」


「荷損じゃない。荷が届く前に、積み場が替わった」


「契約上の積み場変更は、発注元の権限内です」


「その変更通知が出航の半刻前だ」


「そこは不適切です」


「不適切で腹が膨れるなら、港の連中はみんな太ってる」


 ヴェスタの眉がわずかに動いた。


 受付の女が息を吸った。困った時の息だ。俺は彼女へ視線を戻す。


「今の方は」


「契約相談です」


「俺たちが聞いていいものではないな」


「本来は」


 そこで言葉が止まった。


 本来は。続きは出ない。港では、続きのない言葉の方が重い時がある。


 俺たちは奥へ通された。


──────────────────────────────


 契約控え室は、表の音から半歩だけ引いた場所にあった。


 壁には港湾地図。赤い紐でいくつかの航路が留められている。机は三つ。椅子は六つ。窓は小さいが風は入る。潮とインク。乾いた革。古い紙。机の脚元には縄を引きずったような擦れがあり、床板の隙間に白い砂が入り込んでいた。


 部屋の奥に、灰色の髪を短く刈った男が座っていた。


 大柄というほどではない。けれど座り方が崩れない。使い込まれた錨のような男だった。派手さはない。だが、一度海底を噛めば、船を流さないだけの重さがある。風も潮も来ただろうに、その重さだけは失っていない。


 肩幅は広い。首は太い。髭に白が混じる。鼻の上に古い傷。片耳の縁が少し欠けていた。左手の薬指は曲がったまま戻らない形で固まっている。革鎧は磨かれているが新しくはない。継ぎ当てと油の匂いが、持ち主の年数を語っていた。


 机の上には書類の束があった。


 契約解除通知。荷損補填。違約相当額。護衛団員名簿。


 最後の一枚だけ、離して置かれていた。他の紙の角が触れない場所。汚れないように。濡れないように。まるでそこだけ、紙ではなく誰かの背中だった。


「失礼します」


 俺は扉の前で足を止めた。


 男がこちらを見る。目は疲れている。けれど濁っていない。


「勇者様か」


 低い声だった。港の木箱を叩いた時のような音がある。


「レオン・ソルです。お話の途中で申し訳ありません」


「古杭の護衛団、ブルーノ・カルデラだ」


 彼は立とうとした。


 カイがすぐ一歩出た。


「そのままで」


 ブルーノはカイを見る。


「神官様にそう言われたら、座るしかありませんな」


「命令ではありません」


「なら、ありがたく座る」


 言葉は粗くない。むしろ礼を守るために丁寧に置かれている。だから机の紙だけが荒れて見えた。紙の端の反り。押された跡。何度も読み直された折り目。


 支部職員が俺たちを隣の机へ案内した。


「軽活動範囲の確認はこちらで行います。カルデラさんの件は別件です」


「分かっています」


 俺は答えた。


 分かっている。そう言ったのに、目は書類へ行く。


 ブルーノの手が紙の端を押さえた。


 手の甲には古い傷が多い。親指の付け根が腫れている。関節の形が硬い。剣か棒か。あるいは荷の角か。人と荷の前に立ち続けた手だった。


 カイの視線もそこへ落ちる。


 治せる傷ではない。少なくとも、今ここで光を当てて終わる痛みではない。痛みは骨と生活に染みている。


「カルデラさん」


 支部職員が言った。


「回答期限は今日の鐘三つ後です。支部としても、補填額の減額交渉は続けます。ただ、相手方が代理人を立てていますので」


「代理人」


 ヴェスタが小さく言った。


 ブルーノが彼を見る。


「ロウか」


「ヴェスタ・ロウ。ヴェラーナ港支部だ」


「名前は聞いたことがある。風を読む若いの」


「若いってほどでもねえです」


「俺から見りゃ若い」


 その一言だけ、ブルーノの声に少し人の温度が戻った。すぐ消えたが、確かにあった。


「代理人は、どこの」


 ヴェスタが聞いた。


 支部職員が咳払いをする。


「ロウさん」


「聞いただけだぜ」


「個別契約の当事者ではありません」


「今はな」


「今もです」


 カイが静かにヴェスタを見た。


「まずは最後まで聞きましょう」


 ヴェスタは肩をすくめた。


「はいよ」


 ブルーノの口元がわずかに動いた。笑いではない。けれど、張り詰めた縄が一筋だけ緩んだように見えた。


 俺は支部職員から紙を受け取った。


 療養中の行動範囲。危険区域。情報提出窓口。同行申請。緊急時の職員呼び出し。


 文字は整っている。制度も整っている。整った紙の隣で、別の紙が男一人の背筋を押さえつけていた。


「レオン」


 カイが低く呼んだ。


 俺は自分の手を見た。聖剣の柄には触れていない。だが足が半歩だけ前へ出ていた。床板がわずかに鳴った。自分の身体に先を越される。


「カルデラさん」


 俺は立った。


 支部職員が止めるより早く、ブルーノがこちらを見た。


「俺たちに、できることはありませんか」


 部屋が静かになった。


 紙の擦れる音まで止まったようだった。カイは何も言わない。ヴェスタも今は軽口を置かない。


 ブルーノは俺をまっすぐ見た。


「勇者様」


「はい」


「その言葉だけで救われる者はいるでしょう」


「なら」


「だが、俺は違う」


 拒む声だった。


 無礼ではない。礼を失わないまま、扉を閉める声。


「勇者様には頼みません。頼んだ時点で、俺の部下が食えなくなる」


 俺は返す言葉を見つけられなかった。


 ブルーノは続ける。


「勇者様に助けられた男を、明日から誰が雇う。教会を連れてきた護衛団だ。お上に泣いた団長だ。港はそう見ます」


「俺たちは、そういうつもりでは」


「分かっています」


 ブルーノの声は荒れない。


「だから怖い。あんたが善良だと分かるから怖い。悪党なら追い返せばいい。善意は断るこっちの顔を悪くする」


 胸の奥が熱くなった。


 怒りではない。たぶん恥だ。


 俺は助けたいと言った。勇者として。前に立つ者として。けれどその一言が、相手の足元に何を置くかを考える前に出た。


 俺の足は速い。剣を抜くより先に、身体が人の前へ出る。これまでそれで間に合ったこともある。けれど今は、その足音が誰かの明日の飯を散らすかもしれない。


 カイが一歩だけ近づいた。


「ブルーノさん」


「はい、神官様」


「お話を、最後まで聞かせてください。助けを求める言葉でなくても構いません」


 ブルーノはカイを見た。


 カイは祈りの形を取らない。手を合わせない。言葉を押しつけない。ただ座って聞ける場所を示している。


「聞くだけなら」


「はい」


「うちの団は古杭の護衛団といいます。大きな仕事は取れない。けれど小船主や小商人の積み替え護衛なら二十年やってきた」


 二十年。


 その数字で、机の紙の重さが変わった。


「先月から大口の荷運びが別筋へ移った。大口はいい。俺たちの器じゃない。だが大口が小口もまとめて持っていくようになった。船主は楽だ。窓口が一つで済む。安い。書類も綺麗だ」


 ヴェスタが低く言う。


「氷だけ新しい魚箱だな」


 ブルーノが彼を見る。


「ああ。下の魚は見えない」


「それで荷損補填か」


「積み場が替わった。通知が遅れた。うちの若いのが走った。間に合わなかった。荷は濡れたことになった」


「ことになった」


 俺は繰り返した。


 ブルーノは頷いた。


「俺たちは見ていない。積み場に着く前に契約違反の紙を受けた」


 支部職員の顔が苦くなる。


「組合としても、通知時刻の不備は問題視しています」


「ありがたい」


 ブルーノは本当に礼を言う声で答えた。


「だが、組合が問題視している間にも、うちの若いのは飯を食います」


 職員は反論しなかった。


 できないのだ。


 俺は契約解除通知の端を見た。代理業者の名がある。聞き覚えはない。印は妙に白く見えた。小さな帆のような意匠。文字は整いすぎていて、書いた人間の顔が浮かばない。


 あの白い看板の名はない。


 ないのに、前に見た荷札が頭をかすめる。濡れた紙片。黒い印。火薬の匂い。夜の冷え。


「団員は」


 俺は聞いた。


「何人ですか」


「俺を入れて九人。今動けるのは七人」


「その人たちは」


「別の下請けで使うと言われた」


「それなら」


「俺の団ではなくなる」


 ブルーノの指が、離して置かれた名簿の角を押さえた。


「あいつらの飯はつながる。俺の名は消える。古杭の看板は古いから、抜きやすいんでしょうな」


 その言い方には誇りがあった。


 古いと言われても折れていない。抜かれることを恐れているのではない。繋いできたものを、紙の都合で無かったことにされるのを恐れている。


 カイが口を開きかけて、閉じた。


 治療ではない。祈りでもない。ここに置ける言葉を探している。


 ヴェスタが椅子を少し引いた。


「カルデラの旦那。外の風を吸うか」


 ブルーノは彼を見る。


「俺を連れ出す気か」


「違う。勇者の兄ちゃんを冷ます気だ」


「俺は」


「熱い。顔だけで鍋が沸く」


 ヴェスタは俺を見ずに言った。


「火事場に入る顔だ」


 今度は否定できなかった。


──────────────────────────────


 組合裏の荷捌き口は狭かった。


 表より潮が濃い。樽が積まれ、縄が梁から垂れ、古い荷車が壁に寄せてある。革の端切れと濡れた麻縄の匂いが足元に沈んでいた。屋根の隙間から入る光が白い埃を浮かせている。遠くで釘を打つ音がした。乾いた木に鉄が刺さる音。


 港の方から鎖を引く音が来る。誰かが荷を数える声。鴎の鳴き声。樽の輪金がかすかに鳴る音。空気は明るいのに、ここだけは働く手の影が濃い。


 ブルーノは荷車の横に立った。


 歩き方は乱れていない。だが左足に少し重さがある。踏み込む前に、足が床へ許しを取っている。カイの視線がそこへ行った。


「足も痛みますか」


「古傷です。雨の前に騒ぐ」


「今日は晴れています」


「なら、俺の足の機嫌が悪いだけだ」


 カイは微笑んだ。


「清布を一枚、置いていってもよろしいですか」


「俺にですか」


「共有の棚に。誰が使ってもよい形で」


 ブルーノは少し困った顔をした。受け取るには近すぎる。断るには遠すぎる。カイはその距離を選んでいる。


「神官様は上手いですね」


「上手くありません。直接渡すと、受け取りづらいと思っただけです」


「それを上手いと言うんです」


 カイは答えなかった。答えないことで、押さない。


 ブルーノは負けたように息を吐いた。


「棚なら、誰かが使うでしょう」


「ありがとうございます」


 礼を言うのはカイの方だった。


 俺はその手つきを見ていた。


 助けを拒む人に、助けを置く方法がある。正面から渡さない。名前を付けない。誰のものでもない形で、そこに置く。必要な人が必要な時に取れる場所へ。


 俺にはまだできない手つきだ。


 ヴェスタは縄束に腰を預け、腕を組んでいた。


「代理の名、白すぎるな」


「見たのか」


「目がいいんでね」


「見なかったことにしろ」


「できたらな」


「ロウ」


 ブルーノの声が少し低くなる。


「若いのを巻き込むな」


「俺は二十七だぜ」


「十分若い」


「今日はそればっかだな」


 ヴェスタは笑った。目は笑っていない。


「旦那の若いのは、どこへ流される」


「倉庫列の南側だ。積み替えの下働き。護衛ではない」


「武器を持てる仕事から、荷を持つ仕事へ落とすのか」


「落ちても飯は食える」


「誇りは」


「飯の後だ」


 ブルーノは即答した。


 その声に、誰もすぐ言葉を返せなかった。


 誇りがないのではない。誇りを先に置かないだけだ。彼は部下の腹を見ている。看板よりも名よりも、今日の飯を見ている。


 ヴェスタの指が腰の曲刀の柄へ一瞬触れた。


 抜くためではない。確かめるためだ。たぶん彼にも、似た名がある。守りたかった背中。散った団。飯を分けた甲板。もう呼べない誰か。


 俺は白い看板かと聞きかけた。飲み込んだ。


 ブルーノが俺を見る。


「勇者様」


「レオンで構いません」


「ではレオン様」


「様も」


「そこは譲れません。俺の礼儀です」


 俺は頷いた。


「分かりました」


 ブルーノは荷捌き口の外を見た。白い街路の端が、狭い開口から少しだけ見えている。


「白い大きな看板は、港じゃよく見えます。見えるものへ皆が寄る。寄れば道ができます。道ができれば、小さな杭は抜かれる」


「杭」


「うちの団名です。古杭。古くても、船を繋ぐ役はあった」


「今もあります」


 ブルーノは笑った。


「勇者様はまっすぐだ」


 褒められたのではない。危ういと言われたのだ。


 まっすぐな剣は好きだ。けれど、まっすぐ振れば正しいわけじゃない。自分で何度もそう思ってきたはずなのに、身体はすぐ忘れる。


「俺は、あなたの名前を使いません」


 言葉が出た。


 今度は前へ出るための言葉ではなかった。足を止めるための言葉だった。


「今ここで、古杭の護衛団の名を使って動くことはしません」


 ブルーノの目が細くなる。


「なら、何をする」


「紙を見る」


 短い答えだった。けれど今はそれしかない。


「依頼板の変化、代理業者の名、契約変更の流れ。あなたの名を出さずに見られるものを見ます」


「それで何か変わりますか」


「分かりません」


 俺は正直に言った。


「ただ、今ここで俺が助けると言うよりは、間違えないはずです」


 カイが少しだけ目を伏せた。ヴェスタは何も言わない。


 ブルーノは長く息を吐いた。潮を含んだ息が、白い埃を少し揺らした。


「勇者様に、分かりませんと言われるとは思いませんでした」


「すみません」


「謝るところじゃない」


 ブルーノは初めて、少しだけ笑った。


「分からないと言えるなら、まだ信用できる」


 胸の奥の熱が形を変えた。


 助ける。守る。前に立つ。それだけでは足りない場面がある。前に立つことで、後ろにいる者の隠れ場所を壊すことがある。


 勇者ってのは肩書きじゃない。並び順だ。一番前に立つ順番のことだ。


 そう思ってきた。今もその思いは消えない。けれど前に立つなら、自分の影がどこまで伸びるか見なければならない時がある。


 ブルーノは支部職員へ顔を向けた。


「写しは出せるのか」


 職員は少し考えた。


「個人名と団員名を伏せた形なら。代理業者名と契約条項の一部は、公開相談扱いにできます」


「なら、それで」


「よろしいのですか」


「俺の名は使わないんでしょう」


 ブルーノは俺を見た。


「なら紙だけ歩かせろ。人間よりは目立たない」


 ヴェスタが鼻で笑った。


「港じゃ紙もよく歩くぜ」


「なら、お前が見張れ」


「報酬は」


「今はない」


「知ってる」


 二人の声に、少しだけ潮の温度が戻った。


 カイが布袋から清布を取り出した。畳まれた白い布は、朝の紙とは違う白さだった。糊ではなく洗った水の白さ。手の熱を受けた白さ。


「共有棚へお願いします」


 カイは支部職員へ渡した。


「承ります」


「それから、水も。できれば冷たいものを」


「すぐに」


 ブルーノが何か言いかけた。


 カイは微笑んだ。


「誰が飲んでも構いません」


「神官様」


「はい」


「あんたも、なかなか頑固だ」


「よく言われます」


「誰に」


「レオンに」


 俺は首を振った。


「言っていない」


「顔で言っています」


 ヴェスタが声を出して笑った。


「勇者の兄ちゃん、今日は顔で喋りすぎだ」


「気をつける」


「顔じゃねえ。足を気をつけろ。前に出る癖は足から漏れる」


 それはカイと違う注意だった。だが同じ場所を見ている。


 俺は足元を見た。


 荷捌き口の床には古い水の跡がある。人が何度も通り、荷を置き、縄を引き、踏み固めた跡だ。白い埃の下で、床は黒く光っていた。


 助けを拒む者は弱いから拒むのではない。


 守るものがあるから拒む。


 その上を踏まない歩き方を、俺はまだ知らない。


──────────────────────────────


 表の依頼板へ戻ると、白い紙がまた一枚増えていた。


 貼っていたのは若い職員だ。釘を打つ手つきは丁寧だった。紙の角を合わせ、下側を指で押さえ、風でめくれないよう留める。釘の頭が乾いた音で板へ沈む。


 コン、コン、と二度。


 その音は小さいのに、俺の胸に残った。


 板には前の依頼の跡がある。剥がされた紙の四角。糊の曇り。古い釘穴。指で擦ったような黒ずみ。白い紙はそこへ重なり、重なったことで余計に白く見える。


 火薬筒の情報提供。外壁点検。護衛依頼。積み替え補助。運搬人募集。


 同じ白さの紙が、違う名で並んでいた。


 俺は支部職員から個人名を伏せた写しを受け取った。薄い紙だ。端が軽い。だが懐へ入れると、形が残る。紙一枚が胸の布地を押す。


「これは、どこまで確認できますか」


 俺が聞くと、職員は羽根ペンを置いた。


「代理業者の登録先、契約変更の受付時刻、同様の相談件数。ただし個別名は伏せます」


「それでお願いします」


「正式調査ではありません」


「分かっています。情報の確認です」


「勇者様の名で問い合わせると、相手方に通知が行く場合があります」


 まただ。


 名。


 俺の名前は俺だけのものではない。勇者一行の旗。教会の書類。街の噂。商人の警戒。誰かにとっては光で、誰かにとっては火だ。


「では、組合の通常照会として」


 俺は言った。


 職員の目がわずかに動く。


「時間がかかります」


「構いません」


「結果が出ない場合もあります」


「それも構いません」


「急がないのですね」


「急ぎたい」


 本音が先に出た。


 俺は息を一つ整えた。


「ですが、急げば壊れるものがある」


 カイが隣で静かに頷いた。ヴェスタは依頼板から目を離していない。


「いいんじゃねえの」


「何がだ」


「剣は抜く練習より納める練習のほうが多いんだろ」


 俺は彼を見た。


「どこで聞いた」


「顔に書いてあった」


「書いていない」


「勇者の兄ちゃん、顔の字がでかいんだよ」


 カイが小さく笑った。職員も今度は少しだけ笑った。


 笑いは長く続かなかった。


 依頼板の紙が風で鳴ったからだ。白い端が浮き、釘の頭に当たって戻る。乾いた音。糊がまだ若い紙の音。


 ヴェスタが一枚を顎で示した。


「見ろ。これだ」


「運搬人募集」


「護衛じゃねえ。けど時間帯が護衛の穴に合ってる。夜明け前、南側倉庫列、積み替え補助。武器携行不可」


「古杭の団員が流される先か」


「かもしれねえ。決めつけるなよ。だが港で武器を持てる奴から武器を外す時は、だいたい誰かの懐が温まる」


「誰が」


「それを次に見るんだろ」


 次。


 その言葉で、道が細く前へ伸びた気がした。走る道ではない。足元を見ながら進む道だ。


 カイは受付の横の棚を見ていた。清布が一枚、そこに置かれている。誰のものでもない。けれど必要な人が手を伸ばせる高さにある。その横に水差しと杯が置かれた。冷たい水滴が器の外側を滑っている。


 俺の懐には名を伏せた契約書の写し。


 カイの清布は共有棚。


 ヴェスタの目は白い紙と古い釘穴。


 同じ場所に立っているのに、見ているものが違う。違うからこそ、見落とすものが減る。


 俺一人で前に出れば、ブルーノを助けるつもりで壊していたかもしれない。カイがいなければ、痛みを受け取る置き方を知らない。ヴェスタがいなければ、紙の白さの下にある港の流れを読めない。


「レオン」


 カイが呼んだ。


「今日はここまでにしましょう」


「まだ午前だ」


「だからです」


 声は柔らかい。だが退路はない。


 ヴェスタが片手を上げた。


「俺も賛成。紙は逃げねえ。人間は逃げるが、紙は足が遅い」


「さっき紙も歩くと言っただろう」


「歩く紙と走る人間なら、人間の方が早い」


「当たり前だ」


「当たり前のことを忘れる顔してたぜ」


 俺は反論しなかった。


 カイの言う通り、ここで止めるべきだ。


 今の俺たちは全員で動けない。ガイウスは宿で傷を休めている。ヴァローは報告書から離れられない。白い看板の名すら、まだ紙の奥で顔を隠している。


 ここで勇者の名で踏み込めば、こちらの足音だけが大きくなる。


「分かった」


 俺は写しを懐に入れ直した。


「戻ろう」


「いい判断です」


 カイが言った。


 俺は少し息を止めた。


「受け売りじゃない」


 自分で言って、胸の内側が詰まった。


 カイが俺を見る。何かを言おうとして、言わなかった。ただ穏やかに微笑んだ。


 ヴェスタは肩をすくめる。


「なら高く売れるな」


「何を」


「自分の判断」


「売らない」


「そりゃいい。勇者の兄ちゃんは、売り物にするより持ってた方がいい」


 軽口だった。


 けれど少しだけ胸に残った。


──────────────────────────────


 組合を出ると、白い街路は昼へ向かっていた。


 婚礼船の鈴が鳴る。観光客が菓子袋を抱えて笑う。港の方では荷車が坂を下り、車輪が石畳を叩いていた。香油の店から薔薇の匂いが流れ、海風がそれを薄めていく。


 街は明るい。


 明るいまま、紙で人を縛る。


 俺は懐の写しを押さえた。個人名は伏せられている。古杭の護衛団の名も、ブルーノ・カルデラの名もない。ないはずなのに、紙の角は胸に残る。まるで名だけを消しても、重さまでは消えないと言っているようだった。


「助けを断られるとは思わなかった」


 俺が言うと、カイは隣で頷いた。


「断れる方で、よかったのかもしれません」


「よかった」


「はい。断る力が、まだ残っていました」


 その見方は俺にはなかった。


 俺は断られたことを見ていた。カイは、断れたことを見ている。痛みだけではなく、残っている力を見ている。


 ヴェスタは少し前を歩きながら、白い通りの端を見ていた。屋根の影。荷車の轍。店先の男の手。彼の視線はいつも、港がどこで息をしているか探している。


「港じゃ、助けてくれって叫べる奴はまだいい」


 ヴェスタが言った。


「叫べねえ奴から沈む」


「ブルーノさんは」


「沈まねえように、口を閉じてる」


「苦しいな」


「海はそういうもんだ」


 彼は少し歩いてから、首を振った。


「いや、違うな。海に押しつけると海が迷惑だ。人間の商売だよ、あれは」


 白い紙が風に鳴った音を思い出す。


 勇者として助ける。その言葉は俺の中で消えていない。消してはいけない。けれど形を間違えれば刃になる。聖剣と同じだ。抜く練習より、納める練習の方が多い。


 教官の受け売りだった言葉が、今日は別の熱を持っていた。


「次は」


 俺は言った。


「仕組みを見る」


 ヴェスタが振り返る。


「いい言い方するじゃねえか」


「ヴァローの受け売りだ」


「正直だな」


「俺の言葉は、まだ足りない」


 カイが横で静かに言った。


「足りないなら、足していきましょう」


 それは祈りではない。


 けれど祈りに似た言葉だった。


 俺たちは白帆亭へ向かって歩き出した。背後の組合から、釘を打つ音が一度だけ聞こえた。


 白い紙だけが、風に鳴っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。