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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
91/128

祈りと潮の回廊

 港まで一人で歩けるようになった。


 それだけのことを、俺は小さく扱えなかった。


 薔薇の館を出たのは午前の遅い時間だった。陽は高すぎず、石畳の白さも目に刺さらない。庭の薔薇には水が打たれた後で、門の近くまで冷えた土の匂いが届いていた。


 アルフレッドさんは玄関先まで見送ってくれた。


「馬車を出しましょうか」


 一度だけだった。俺が首を振ると、それ以上は勧めなかった。代わりに港までの道を短く教えてくれた。坂のゆるい通り。日陰になる路地。途中で腰掛けられる噴水の位置。


 どれも実際に歩く人間へ向けた言葉だった。


 メリッサさんは水筒と小さな包みを渡してくれた。包みは軽い。中身は固めのパンと塩を利かせた肉だろう。歩くための食べ物だ。


 エヴァ様は椅子に腰掛けたまま扇を動かした。


「倒れるなよ」


「倒れません」


「倒れる奴は大体そう言う」


 それだけ言って、エヴァ様は扇の影に表情を隠した。心配の形を軽く削って投げる人だ。受け取る側が重くならないようにしている。


 蒼凪さんは書き物から顔を上げた。机の上には紙が重なっている。インクの匂いと乾きかけた筆の跡が、昨夜から続く思考の重さを残していた。


「一人で平気か」


「はい。港までですから」


「港までが一番油断する」


「気をつけます」


「水は持ったか」


「持ちました」


「途中で止まれ。歩けることと歩き切ることは違う」


「はい」


 蒼凪さんはそこでまた紙へ視線を戻した。止めはしない。送り出しもしない。その間の温度が、今は拾える。二年分の沈黙と呼吸と、何度も背中を預けた時間の形だった。


 俺は門を出た。


 白い石の道が朝の光を返している。靴底に返る感触は硬い。膝はまだ鈍い。坂の下から潮風が上がってきて、薔薇の匂いを少しずつ押し流していった。


 サルマンディアの街は今日も明るかった。


 白壁の家。薄青の庇。果物を積んだ籠。花を編み込んだ帽子をかぶる旅人。婚礼用の馬車の車輪が、石畳の継ぎ目を軽く跳ねる。


 ここへ来たばかりの頃、その明るさは遠かった。傷の熱と疲労の膜越しに見ていたからだ。


 今は違う。


 白さの奥に生活の音がある。荷車の軋み。布を張る縄の擦れる音。水桶を置く低い音。店先で硬貨を数える指先の音。笑い声の下にある急ぎ足。


 明るい街は、明るいままで働いている。


 路地の角で一度止まった。アルフレッドさんに教えられた噴水は、確かに日陰にあった。水面に落ちる光が細かく揺れている。俺は水筒を開けて一口飲んだ。喉を落ちる水の冷たさで、胸の奥がほどける。


 まだ万全ではない。


 右脇腹の奥が坂の途中で鈍く鳴った。痛みというより、身体の内側から叩かれる合図だった。左腰も歩幅を広げると熱を持つ。普段なら気にせず越える段差にも、足が一拍だけ確認を入れる。


 それでも前へ出る。


 潮鎚を背負っていないから、背中が軽かった。その軽さが落ち着かない。肩に重みがないだけで、後ろが空いている気がする。俺は何度か肩紐を直した。


 今日は戦いに行くわけではない。


 礼を言いに行くだけだ。


 それだけなのに、港へ近づくほど胸の奥が固くなった。カイさんに船の上で助けてもらった。あの時の俺は横になることしかできなかった。甲板の揺れ。潮と血と濡れた布の匂い。額に置かれた手の温度。


 祈りの光は強くなかった。


 痛みを消し去る光ではない。身体が手放しそうになるものを、必要な分だけこちらへ引き留める光だった。息をする場所を残す光。まぶたの裏から落ちそうになる意識を、細い糸で結び直す光。


 その礼を、まだ言えていない。


 サルマンディア港へ下りる道に出ると、海の匂いが強くなった。


 白い街の向こうで帆が揺れている。観光客を乗せる小舟は花飾りをつけていた。その隣では魚箱を積んだ実務の船が、濡れた縁を軋ませている。


 磨かれた桟橋。鱗の落ちた板。香油をつけた客の衣と、船腹から上がる匂い。


 サルマンディアは華やかだ。


 けれど海のそばまで来れば、華やかさの下にあるものが隠れない。濡れた麻縄。塩で硬くなった手袋。船底についた古い傷。仕事を終えた男の汗。戻ってくる者を待つ目。


 そこは少しだけ安心できた。


──────────────────────────────


 オルヴェリス教会サルマンディア支部は、港を見下ろす白い斜面の中腹に建っていた。


 正面から見ると、観光客にもわかりやすい清潔な建物だった。細い鐘楼。薄い金の聖印。入口の浄め鉢。花嫁が立てば絵になる場所で、怪我人が杖をついて入っても不自然ではない場所でもある。


 扉の近くでは若い見習いが帳面を抱えていた。巡礼らしい夫婦に祈祷の時間を伝え、次に漁師の腕の包帯を確かめている。白い袖口には薬草の薄い緑が染みていた。


 俺が受付でカイ・グレイスさんを訪ねると、見習いはすぐに顔を上げた。


「潮見回廊にいらっしゃいます」


「潮見回廊」


「支部の裏です。風が通りますので、長く立つ時は欄干におかかりください」


 最後の一言は俺の歩き方を見て足されたものだった。俺は礼を言った。見習いは柔らかく頭を下げ、白い廊下の奥へ先に立った。


 中へ入ると、正面の印象よりずっと実務の匂いがした。


 浄め水の棚。薬草の小瓶。折り畳まれた担架。水を張った桶。乾かされた包帯。壁には港の地図が貼られ、赤と青の印がいくつも打たれている。


 花と祈りの場所である前に、ここは港の怪我人と遺族を受ける場所だった。


 白い床を歩くたび、足音が短く返った。床は磨かれている。けれど入口に近い場所には薄い砂が残っていた。誰かが杖を引きずった跡。担架の脚がつけた細い擦れ。消毒に使う酒精の匂い。


 その奥に潮がある。


 見習いは途中で足を緩めた。


「こちらです。足元に段があります」


「ありがとうございます」


「カイ様から、港の方がお見えになったら案内するようにと言われていました」


「俺のことですか」


「おそらく」


 見習いはそこで小さく笑った。若かったが、笑い方には疲れが残っている。祭礼だけを見ている顔ではない。港の支部で働く人間の顔だった。


 裏手の扉を抜けると、潮の匂いが一段深くなった。


 白い柱が並ぶ半屋外の回廊だった。片側は支部の壁。もう片側は低い欄干と海。風は真正面からではなく、柱の間を選ぶように抜けてくる。海の音は遠い。けれど完全には消えない。


 鐘の音。魚箱を下ろす声。縄が柱を打つ音。海鳥の声。港のざわめきが白い石に吸われ、細く薄くなって届く。


 潮見回廊。


 名前の通り、海がよく見えた。


 欄干の向こうには港の全体が広がっている。観光用の桟橋は明るい。実務の岸壁は濃い。漁船の舳先が朝の光を割り、沖では白い帆が小さく揺れていた。風の向きが変わるたび、石柱の影が床の上で動く。


 カイさんは欄干の近くに立っていた。白い神官服の裾が潮風で揺れている。金の髪は整えられていたが、目元には疲れがまだ残っていた。胸元のロザリオに手が一度触れる。祈りの前か、祈りの後か。どちらにも見えた。


 その横に、レオンさんがいた。


 深紅のサッシュはいつもより緩く結ばれている。肩の動きにはまだ硬さがあった。こちらを見た瞬間、勇者としての顔になる前に怪我人の顔が覗いた。すぐに背筋が戻る。


 離れた柱にもたれて、ヴェスタさんが海を見ていた。


「おや」


 先に声を出したのはヴェスタさんだった。緑がかった目がこちらへ流れる。笑っているが、足元と呼吸は見ている。


「若い当代殿が、潮風浴びに教会まで来たか」


「カイさんに用があって来ました」


「真面目だな。俺なら礼は酒場で済ませる」


「まだ酒場は止められています」


「そっちも真面目か!」


 ヴェスタさんは肩を揺らした。軽口の奥に、船乗りが板のきしみを聞くような注意があった。俺がどこで足をかばったか。どの段で息を流したか。そういうものを見ている。


「いいか、当代殿。礼ってのは生ものだぜ。置いとくと足が早い」


「魚と一緒ですか」


「魚より早い。三日で『今さら行きづらい』に変わる」


 覚えがありすぎて、返す言葉が見つからなかった。


 カイさんがこちらへ歩いてきた。


「ヒュウマさん。お一人でここまで」


「はい。ここまでは歩けます」


「その言い方は危ういですね」


「蒼凪さんにも言われました」


 カイさんの目元がわずかに緩んだ。


「では私が重ねて言う必要はなさそうです」


「言ってもらっても構いません。たぶん俺は聞きます」


「では一言だけ。戻る体力も残してください」


「はい」


 レオンさんも近づいてきた。俺は一度頭を下げる。


「レオンさん。お邪魔します」


「邪魔ではありません。カイから、あなたが訪ねてくるかもしれないとは聞いていました」


「そうでしたか」


「船の上でずっと気にしていたようなので」


 カイさんがレオンさんを見る。


「レオン」


「悪い。言いすぎた」


 そのやりとりが自然で、俺は息を抜いた。勇者一行という言葉で見ると硬い。けれどここにいるのは、怪我人を見張る神官と見張られている勇者だった。離れた柱には、軽口で場を柔らかくする斥候がいる。


 俺はカイさんへ向き直った。


「船の上で助けていただいた礼を、ちゃんと言えていませんでした」


 潮風が柱の間を抜けた。白い神官服の裾が一度ふくらみ、静かに戻る。


 カイさんは急がずに聞いていた。


「あの時、俺はほとんど動けませんでした。カイさんの祈りがなければ、ここまで歩けていません」


「私は神官として当然のことをしました」


「それでも助けられました」


 言葉にすると、胸の奥が熱くなった。


 礼を言うのは得意ではない。役目を確認する方が簡単だ。負傷者を数える。潮を見る。縄を投げる。担ぐ。走る。そういうことなら迷わない。


 けれど今日は違う。


「ありがとうございます」


 カイさんはすぐには答えなかった。


 白い回廊の向こうで鐘が一度鳴った。遠い音だった。港の音がその後を追い、また薄く散った。


「ヒュウマさん」


「はい」


「私も、あなたに助けられたことがあります」


 予想していなかった返しだった。俺は目を上げる。


 カイさんは胸元のロザリオへ手を添えた。銀の輪が光を受けて、白い石の間で小さく揺れる。


「ヴェラーナで、遺族の家に伺った時です。あなたは海守りの儀礼と私の祈りについて、同じものを目指しているのかもしれないと言いました」


 俺はあの家を思い出した。


 青い扉。卓の上の茶。小さな手で握られた布切れ。眠っている子どもの息。蝋燭の橙。カイさんの低い祈り。壁際に控えた自分の手の置き場。


 何を言ってよくて、何を言ってはいけないかを選び続けた時間だった。


「そんな大したことを言った覚えはありません」


「大したことかどうかは、受け取った側が決めることもあります」


 カイさんは柔らかく言った。責める声ではない。けれど逃がさない声でもあった。


「私はあの時、救われました。教義の外にあるものが、教義を壊すばかりではないと知りました」


 レオンさんが静かに聞いていた。


 ヴェスタさんは柱にもたれたまま口を挟まない。軽口が来ると身構えていたので、それも意外だった。横顔は海へ向いている。けれど耳はこちらに残っている。


 俺は欄干の外へ視線を流した。海面の反射がまぶしい。目を細めると、光の粒が潮の上でばらけて見えた。


「俺は、そこまで考えていませんでした」


「だから届いたのかもしれません」


 カイさんの声は潮風より静かだった。


──────────────────────────────


 その時、回廊の入口で小さな声がした。


「カイ様」


 白い石の影から、年配の婦人が顔を出していた。肩に薄灰色のショールを掛けている。両手には小さな木札。包むように持つ指先が白くなっていた。裾には市場を歩いた後の砂が薄くついている。


 見習いの神官が後ろに立っていた。けれど婦人の目は、見習いではなくカイさんを探していた。


 カイさんはすぐにそちらへ向いた。


「どうぞ。こちらへ」


 婦人は足元を確かめながら歩いてきた。レオンさんが自然に一歩下がり、通る場所を空ける。ヴェスタさんも柱から身を離した。軽口の気配が引く。


 回廊の空気が仕事の形になった。


 婦人は木札を胸元で握っている。


「潮が変わる前に、置いておきたくて」


「お名前を伺っても」


「マリオ。マリオ・バッシです。甥でして」


 木札にはその名が刻まれていた。古い札ではない。新しい木に急いで彫った跡がある。刃が滑った線。削り残されたささくれ。端には濡れて乾いた跡が残っていた。紐を何度も撫でたのか、穴の周りだけ色が沈んでいる。


 俺は息を流した。


 戻らない者の名札。


 港にはそういう物がある。帰還を願うための物。諦めるためではなく、名を水に紛れさせないための物。船が戻っても人が戻らない時、家に置けず海にも投げられない物がある。


 誰かの手がそれを持って、支部や橋や海守りの詰所へ来る。


 華やかな港でも、それは生活の中にある。


 魚を売る声の隣。婚礼の鐘の下。干した網の陰。子どもが走る石段の途中。戻らない名だけが、木に彫られて手の中で温まる。


「戻られていないのですね」


 カイさんはそう言った。


 死んだとは言わなかった。


 婦人は頷いた。頷ききれないような、小さな動きだった。


「昨日の夜明け前に出て、それきりです。船は戻りました。けれどあの子だけが……」


 俺の身体が先に仕事の形を取った。


「船の名は」


 声を出してから、俺は一拍遅れてカイさんを見る。カイさんは小さく頷いた。婦人も俺を見た。


「あなたは」


「ヒュウマ・サルヴァトーレです。海守りです」


 婦人の目がわずかに大きくなった。サルヴァトーレの名は、ここでも通るらしい。そのことに胸の内が触れる前に、彼女は木札を握り直した。


「白鱗丸です。小さな漁船で」


「出たのは夜明け前。戻った時刻は」


「昼を過ぎてすぐでした」


「最後に見た場所は、外灯台の手前ですか」


 婦人は息を呑んだ。


「そうです。よく」


「あの時刻に潮が変わるなら、そこで網を扱う船が多い。潮は引きでしたか。満ち始めでしたか」


「満ち始めだと、船頭が」


「風は南から」


「ええ」


 俺は欄干に肘を置かずに立った。身体を預けると、仕事の声が崩れる気がした。婦人の手の中にある木札を見る。濡れた跡は端だけではない。紐を通す穴の周りが黒い。だが、それは海で濡れた跡ではない。握られ続けた跡だ。


「この木札は、船に残っていたものですか」


「いえ。あの子の部屋にあったものを、私が」


「承知しました」


 それ以上、木札から現場を拾うことはできない。俺は視線を上げた。


「同じ船に乗っていた方の名前は、わかりますか」


 婦人は二人分の名前を言った。俺は頭に入れる。紙を求める前に、ヴェスタさんが横から口を開いた。


「その船、網の右側に赤い布を結んでるやつか」


 婦人がヴェスタさんを見る。


「ええ。うちの兄が昔つけたもので」


「なら昨日の昼過ぎに西桟橋で見た。戻った時、右舷の縁綱が一度ほどけて結び直されてたな」


 ヴェスタさんの声から軽さが消えていた。


「急いで解いたんじゃねえ。濡れた手で結び直してる。指が震えてる時の結び方だ」


 俺はヴェスタさんを見た。ヴェスタさんは肩をすくめる。


「昔の癖だ。船を見る時は、まず縁を見る」


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いでもないさ」


 その言い方に、居心地の悪さが混ざった。海守りと元海賊。その間にあるものを、ヴェスタさんは軽口で隠している。けれど目は海の現場を見ていた。厄介な旗でも、必要な目なら避けない。


 カイさんは婦人の前に立った。


「ここで祈ってもよろしいですか」


 婦人は木札を差し出しかけて、途中で止めた。


「まだ、死んだとは」


「言いません」


 カイさんははっきり言った。


「戻る道にも、眠る道にも、光がありますように。そう祈ります」


 婦人の肩が小さく震えた。


 レオンさんが半歩だけ外側に立った。誰かが回廊へ入ってきても、祈りの場を乱さない位置だった。勇者として前に出るのではなく、カイさんの祈りの外側を守る位置だ。自然な動きだった。


 俺は離れた壁際に立った。


 ヴェラーナの遺族宅で、俺が立っていた場所と似ている。違うのは、ここが白い回廊で外にサルマンディアの海があることだ。


 カイさんは木札だけには触れなかった。婦人の手ごと、木札を包む。ロザリオが白い石の間で揺れた。


 祈りの言葉は短かった。


 光神オルヴェリスの名。帰る者の道。眠る者の安らぎ。待つ者の心が折れきらないための祈り。


 悲しみを消す祈りではない。


 悲しみが立っていられる場所を作る祈りだった。


 俺はその外側で、船名と潮と風を頭の中に置いた。白鱗丸。満ち始め。南風。外灯台手前。右舷の縁綱。濡れた手で結び直した跡。同乗者二名。


 生きているか死んでいるかは、まだ決まっていない。


 決まっていないからこそ、口にする形を間違えてはいけない。


 カイさんの祈りが終わった。


 婦人は木札を胸に抱き、何度も頭を下げた。カイさんは次に来る時の時間を伝え、見習いへそっと目配せした。見習いが婦人を支える。レオンさんが道を空ける。ヴェスタさんは海へ視線を送った。


 婦人が回廊を出た後、潮風が強くなった。


 誰もすぐには話さなかった。


 沈黙は重くない。ただ、さっきの祈りが終わるまで言葉を置かない方がいい時間だった。


「晩課は欠けた席のままで上げる決まりです」


「決まり、ですか」


「詰めてしまうと、帰る場所が消えますから」


「……海守りは沈んだ船の名を呼んでから潜ります。名前のない死体を上げるのは、嫌なので」


 カイさんが俺へ向き直る。


「ヴェラーナでも、あなたは同じように聞いていました」


「仕事ですから」


 口が先にそう返した。


 カイさんは静かに頷く。


「仕事の形で、誰かの悲しみを支える人もいるのだと知りました」


 俺は返事に迷った。


 レオンさんは俺を見ている。ヴェスタさんも、今度は笑わない。


「海守りは、祈るだけでは済みません」


「教会も、祈るだけでは済みません」


 カイさんが返した。


 その言葉は、胸の近いところに落ちた。


──────────────────────────────


 回廊の白い石に、海の反射が揺れていた。


 婦人の足音が消えた後も、港の音は変わらず届く。魚箱を下ろす声。遠い笑い声。濡れた板を踏む音。名札が置かれても、港は止まらない。


 止まらないから、支える場所がいるのだろう。


 先に口を開いたのはレオンさんだった。


「ヒュウマさん」


「はい」


「あなたとカイに、あのような接点があったことを知りませんでした」


「俺も、カイさんが覚えているとは考えていませんでした」


「覚えています」


 カイさんが言った。


「あの日の言葉は私の中に残りました。だからこそ、雨上がりの港で境界線を挟んだ時に揺れたのでしょう」


 桟橋。


 雨上がりのヴェラーナ港。蒼凪さんの隣に立った俺。境界線の外側にいたカイさん。視線が一瞬だけ合ったことを、俺も覚えている。


「あの時は……」


 言いかけて止まる。


 謝るのは簡単だ。けれど謝れば済む話ではない。あの時、俺は蒼凪さんの前に立つしかなかった。カイさんはレオンさんたちの側で祈るしかなかった。互いの正しさが、同じ場所に立てなかった。


「あの時は、蒼凪さんの前に立つしかありませんでした」


 俺はそう言った。


 カイさんは頷く。


「私もレオンの隣に立つしかありませんでした」


 レオンさんの目が動いた。


「俺は、剣を抜くしかないと見た」


 声は低かった。


「それであなた方を傷つけた。結果として、見えていないものが多かった」


「レオンさん」


「言い訳にはしません。ですが、あの時の俺はそうするしかなかった」


 レオンさんの言葉は謝罪よりも確認に近かった。勇者としての確認だ。自分の失敗を見ながら、それでもその時の足場を消さないための言葉だった。


 俺は短く頷いた。


「俺も似たことがあります。蒼凪さんの隣に立つ時、考える前に身体が動くことがあります」


「それは信頼ですか」


 レオンさんの問いは真っ直ぐだった。


 俺は息を整えた。


「信頼だけではありません。癖もあります。役目もあります。たぶん、怖さもあります」


「怖さ」


「蒼凪さんは俺よりずっと遠くを見ます。だから隣にいる俺が、足元を見ていないといけない時がある」


 言ってから、口の奥が止まった。


 蒼凪さんのことを勝手に渡すつもりはなかった。けれど今の言葉は過去の話ではない。俺が見ている現在の蒼凪さんの話だ。


 ヴェスタさんがそこで笑った。


「遠くを見てる、か。こっちはその遠くから力ひとつで転がされたわけだ」


「ヴェスタ」


 カイさんが名前を呼ぶ。


「責めてないさ。事実だろ」


 ヴェスタさんは欄干へ肘を置いた。海を見ているようで、こちらも見ている。


「古代神殿の時、あの賢者は怖かったぜ。強いだけじゃない。こっちの手札を使う前に、置き場所ごと変えられた感じだった」


 レオンさんは黙っていた。否定しない。


 カイさんもロザリオへ触れた。祈りを封じられた時の感覚が、指先に残っているのかもしれない。


「船上の話し合いでも、蒼凪さんは線を引いていました」


 カイさんが言った。


「冷たいというより、必要な線だけを置く方なのだと受け取りました」


「説明が下手なんです」


 俺が言うと、ヴェスタさんが吹き出した。


「賢者にそれ言うか」


「本人にも言っています」


「言うのかよ」


「はい」


 レオンさんの口元がわずかに緩んだ。カイさんも目元を和らげる。


 俺は続けた。


「蒼凪さんは、倒れた人を見捨てる人ではありません。ただ、それをわかりやすく口にするのが得意ではないんです」


「それは、ヒュウマさんが知る蒼凪さんですか」


 レオンさんが聞く。


「はい」


「俺たちが見た蒼凪さんとは違います」


「違います」


 俺は正直に言った。


「でも、どちらも蒼凪さんです」


 その先に言葉を足さなかった。


 俺が蒼凪さんの全部を知っているわけではない。二年一緒にいる。それでも、蒼凪さんの箱の全部を開けているわけではない。知らないものを知っている顔で渡すのは違う。


 カイさんはそれを受け止めるように頷いた。


「すべてを知らなくても、隣に立てることはあります」


「そうでしょうか」


「少なくとも私は、そう信じています」


 カイさんの声には柔らかさがある。けれど中心は硬い。祈りを置く人の声だ。わからないままでも手を合わせると、前に言った時と同じ芯がある。


 レオンさんは欄干の外へ一度目をやった。


「警戒が消えるわけではありません」


「承知しています」


「ですが、あなたが今話した蒼凪さんを聞きました」


 それは、きれいに収めるための言葉ではなかった。まだ剣を置かない人の言葉だった。それでも、こちらを見ている目は逸れていない。


「ありがとうございます」


 俺は短く返した。


 ヴェスタさんが鼻で笑った。


「礼まで言う。律儀が服着て歩いてるな」


「歩けるようになったので」


「そこは笑うところか、心配するところか迷う」


「両方でお願いします」


 ヴェスタさんは今度こそ声を出して笑った。


──────────────────────────────


 話題が緩んだところで、ヴェスタさんが俺を見た。


「そういえば、薔薇の魔女の屋敷にいるんだってな」


「はい」


 レオンさんとカイさんの視線も、自然にこちらへ来た。


 警戒ではない。けれど気にならないわけでもない。サルマンディアで薔薇の魔女という名は、街角の花飾りとは重さが違う。観光客の噂にも出る。広場の歌にも出る。婚礼都市の白い壁に、古い絵のように混ざっている名だ。


「俺たちは観光客が知る程度のことしか知りません」


 レオンさんが先に言った。


「サルマンディアの名士で、誰でも会える方ではない」


「俺も昔来た時に名前だけは聞いたな」


 ヴェスタさんが続ける。


「薔薇の魔女の祝福だの、契約だの。港の連中が酒の肴にしてた。まあ俺みたいなのが近づく場所じゃなかった」


「今も、誰でも入れる場所ではないと思います」


「だろうな。そこに療養で入ってる時点で、あんたら相当だぜ」


 俺は返事に困った。


 屋敷のことをどう渡せばいいのか、まだ自分の中で整えきれていない。街から見える華やかな輪郭。実際に過ごす静かな部屋。薔薇の匂い。高い天井。椅子に座ったエヴァ様が扇越しに見ているもの。


 言えることと、言わない方がいいことがある。


 何より、蒼凪さんの古い縁を俺の口で広げるべきではない。


 だから短く置いた。


「蒼凪さんの古い知人です。療養には十分すぎる場所です」


 カイさんは踏み込まないでこちらを見ていた。


「そこで皆さんの傷が癒えているなら、ありがたいことです」


「はい」


「ヒュウマさんも、歩けるようになりましたからね」


「まだ港までです」


「港までが一番油断するのでしたね」


「蒼凪さんとカイさんに言われました」


「では三度目は控えます」


 カイさんは静かに笑った。神官の笑い方なのに、どこか兄の顔も混ざっている。レオンさんが横で肩を落とした。いつもこうして見張られているのかもしれない。


 レオンさんは息を吐いた。


「合議の前に、蒼凪さんとも改めて話す必要があります」


「そのつもりです」


「今日あなたが来たのは、そのためでもありますか」


「それもあります。でも一番は、カイさんへの礼です」


 レオンさんはその答えを聞き、目を細めた。


 警戒の中に別のものが混ざる。相手を陣営の一人としてではなく、個人として測り直す目だった。


「あなたらしい理由なのでしょう」


「俺らしいですか」


「ええ。蒼凪さんの隣にいる時も、あなたは自分の足で立っているように見えます」


 その言葉は、予想より重く入ってきた。


 自分の足で立つ。


 床を踏めなかった時間を、身体はまだ覚えている。膝が沈む感覚。呼吸が足りなくなる夜。誰かの肩を借りなければ動けなかった悔しさ。立つことにこだわっていると認めるのは苦い。


 それでも今は港まで歩いてきた。


 礼を言うために、この白い回廊まで来た。


「そう見えるなら、ありがたいです」


「見えるだけでは困ります。合議では、本当に立ってもらうことになります」


 レオンさんらしい言い方だった。厳しい。けれど誠実だ。甘くしないことで相手を軽く扱わない。


「はい」


 俺は頷いた。


 ヴェスタさんがそこで軽く手を上げた。


「じゃあ俺からも一つ」


「はい」


「海守りの当代って聞いた時、正直身構えた。昔の俺なら、あんたの家の旗が見えた時点で帆を変えてる」


 カイさんがヴェスタさんを見る。


 ヴェスタさんは肩をすくめた。


「昔の話だ。今は真面目な船員だぜ」


「それは船員に確認が必要ですね」


 カイさんが静かに返したので、ヴェスタさんは大げさに胸を押さえた。


「カイの兄ちゃん、最近刺し方が上手くなってきたな」


「刺してはいません」


「言葉の刃先ってやつだよ」


「それなら反省します」


「本気で反省されるとこっちが困る」


 空気が柔らかくなる。


 俺はヴェスタさんへ向き直った。


「今ここで見るのは、昔の船ではありません。目の前のヴェスタさんです」


 ヴェスタさんの笑みが一瞬だけ止まった。


 止まって、すぐ戻る。


「律儀だなぁ、若い当代殿」


「よく言われます」


「だろうよ」


 ヴェスタさんは欄干の外へ視線を送った。潮風が黒に近い髪を揺らす。青と黄色のバンダナの端が、風に煽られて頬の横で跳ねた。


「海守りは厄介だ。役人より海を知ってるし、誤魔化しが利かない」


 声は軽い。けれど中身は軽くなかった。


「だが本当に船が沈んだ時に、最初に手を伸ばす連中でもある。だから嫌い切れないし、消えられても困る」


 俺は黙って聞いた。


 ヴェスタさんは横目で俺を見る。


「あんたはその匂いがする。海で人を拾う側の匂いだ」


 胸の奥に父さんの背中が一瞬だけ浮かんだ。濡れた上着。太い腕。縄を投げる時の声。すぐに奥へしまう。


 今はこの場の話だ。俺の父の重みを、ここにいる人たちに背負わせる必要はない。


「ありがとうございます」


「礼ばっかだな」


「今日は礼を言いに来たので」


「なるほど。筋が通ってる」


 ヴェスタさんは笑った。今度の笑いは軽いだけではない。海の現場にいる者同士が、ほんのわずかに距離を測り直した後の笑いだった。


──────────────────────────────


 カイさんが、ふと思い出したように言った。


「ラウリ殿は、その後いかがですか」


 レオンさんもこちらを見る。


 勇者一行にとって、ラウリさんは救出対象だった。ひどく削られ、家族を失いかけた人だ。合議の場で同行を願った巨躯の祭祀官を、彼らが気にするのは自然だった。


「だいぶ戻っています」


 俺は答えた。


「歩けますし、よく食べます」


「よく」


 カイさんの声に安堵が混ざった。


「はい。かなり」


 ヴェスタさんが笑う。


「食う方が戻ってるなら、ひとまず生きる方に傾いてるな」


「俺もそう見ています」


「どのくらい食うんだ」


「屋敷の人が、次の皿を出す前に相談するくらいです」


「相談してどうすんだ」


「出すそうです」


 レオンさんが小さく笑った。カイさんも目を伏せて笑みをこぼす。白い回廊に、人の生活の音が戻った気がした。


「それは、よいことです」


「はい。ただ、海鳥もよく来るようになりました」


「海鳥」


「ラウリさんは故郷へ定期的に伝言を送っています。今日も生きている、と」


 その言葉を出すと、場の空気が静かになった。


 今日も生きている。


 それは冗談ではない。ラウリさんにも彼の家族にも、毎日必要な報せだった。言葉が届くこと。空を渡る鳥が戻ること。生きているという短い知らせが、遠くの家の朝を支えること。


「屋敷の庭に鳥が来るので、使用人の方々の仕事は増えています」


 俺は軽く続けた。


 ヴェスタさんが吹き出す。


「はぁ、薔薇の魔女の庭に海鳥の糞か。そいつは贅沢な迷惑だ」


「屋敷の人たちは、淡々と処理しています」


「強いな、その人たち」


「強いです」


 本当に強い。あの屋敷は、誰もがそれぞれの形で強い。静かな手つき。素早い判断。余計なことを言わずに置かれる皿。そういうものが、療養する人間の身体をこちらへ戻していく。


 カイさんはロザリオへ手を添えた。


「食べ、眠り、生きていると伝えられる。それは回復の大事な線です」


「はい」


「祈りも、そういうものに似ているのかもしれません。大きく世界を変えるのではなく、今日を明日へ繋ぐための線です」


 カイさんの言葉に、俺はさっきの婦人の木札を思い出した。


 戻らない者の名札。まだ決まっていない。帰る道と眠る道の両方に置かれた祈り。ラウリさんの海鳥も、同じような線を引いているのだろう。


 こちらにいる。生きている。食べている。


 その短い知らせが、誰かの心を折れきらせない。


 レオンさんは静かに頷いた。


「ラウリ殿にも、いずれ直接お会いしたい。救出対象として見ていた方が、今どのように立っているのかを知っておくべきです」


「伝えておきます」


「お願いします」


 その返事は勇者としてのものだった。けれど奥に、ただ生きていてよかったと胸を撫で下ろす若い人間の温度もあった。


 ヴェスタさんが顎で海を示す。


「伝言を運ぶ鳥ってのは、戻ってくる場所を覚えてるから強いよな」


「船と同じですか」


「似てる。違うのは、鳥は文句を言わない」


「船も言いません」


「いや船は言う。きしみ方でな」


 俺は笑った。


「それはわかります」


「だろうな」


 ヴェスタさんは満足そうに頷いた。レオンさんにはよく通じなかったらしく、眉がかすかに動く。カイさんは二人のやりとりを静かに見ていた。


 その視線の中には、さっきの祈りと同じものがあった。


 違う言葉。違う仕事。違う過去。それでも、戻すために手を動かす者たちを見る目だった。


──────────────────────────────


 潮見回廊の鐘が、今度は二度鳴った。


 午前の祈りと昼の実務の間を知らせる鐘らしい。支部の中から足音が増え始める。見習いの神官が桶を運び、別の神官が浄め布を抱えて通り過ぎた。白い回廊は静かだが、止まっている場所ではない。


 薬草の匂いが風に混じる。水を替えた桶の冷たい匂い。洗った包帯の湿った匂い。潮風がそれらを薄くして、また港の声を運んでくる。


 俺も長居しすぎるわけにはいかなかった。


 傷の奥が、立ち続けた時間を数え始めている。右脇腹は鈍い。左腰は熱い。けれど倒れるほどではない。戻る体力は残っている。カイさんに言われたことは守れている。


「今日は、ありがとうございました」


 俺が言うと、カイさんは首を振った。


「こちらこそ。来てくださってよかった」


「合議の前に、一度話しておきたかったんです」


「ええ」


 レオンさんが一歩前へ出た。


「正式な場では、もう少しきちんと話したい」


「はい。俺も、そのために来ました」


「ヒュウマさん」


 レオンさんはわずかに迷った。それから言葉を置く。


「蒼凪さんへの警戒は消えません」


「承知しています」


「ですが、今日あなたがここへ来たことは覚えておきます」


 それは十分すぎる言葉だった。


 警戒を消したと言われたら、たぶん俺は困った。消えるものではないからだ。雨上がりの港で見たもの。古代神殿で起きたこと。船上で引かれた線。どれも簡単に水へ流せるものではない。


 だから、覚えておくという言葉の方が重かった。


「ありがとうございます」


 ヴェスタさんが欄干から身を起こす。


「帰りは大丈夫か、若い当代殿」


「大丈夫です」


「その大丈夫、カイの兄ちゃんなら信用しないやつだな」


 カイさんが俺を見る。


「休みながらお帰りください」


「はい」


「水分は」


「持っています」


「途中で痛みが強くなったら」


「支部か海守り支部へ寄ります」


「よろしいです」


 カイさんは満足したように頷いた。レオンさんが横で笑う。


 ヴェスタさんは腕を組んだ。


「海守り支部まで行く前に座れよ。歩ける奴ほど座る判断が遅い」


「ヴェスタさんも言うんですね」


「海の上じゃ、倒れてから休む奴は迷惑なんだよ」


「その通りです」


「素直だな。やりづらいぜ」


 軽口は最後まで軽口だった。けれど中身は現場の注意だ。カイさんの労りとは違う。レオンさんの厳しさとも違う。船の上で人を落とさないための言葉だった。


 勇者一行。


 その言葉でまとめるには、ここにいる三人の温度は違いすぎる。


 カイさんの祈り。レオンさんのまっすぐな警戒。ヴェスタさんの軽口と現場の目。船の上で敵味方の境目が曖昧になった夜から、個人の輪郭が見えるようになってきた。


 俺は回廊の海を一度見た。


 白い柱の間に青がある。祈りの場であり、実務の場でもある。まだ戻らない者の名を置く場所でもあった。ヴェラーナの青い扉とは違う。けれど、あの家で感じた蝋燭の橙と今日の潮風は同じ方角を向いている。


「カイさん」


「はい」


「あの時の言葉を、覚えていてくださってありがとうございます」


 カイさんは目を細めた。


「私も、今日のことを覚えておきます」


「はい」


「光神のご加護が、貴方の道にもありますように」


 その言葉は、前に聞いた時より近く聞こえた。


 俺の信じるものを奪う言葉ではない。カイさんが自分の手の中にあるものを、こちらの道へそっと置く言葉だった。


 俺は頭を下げた。


 カイさんへ。レオンさんへ。ヴェスタさんへも。


 三人はそれぞれの形で返してくれた。カイさんは祈りの前のような静かな会釈。レオンさんは勇者としての短い礼。ヴェスタさんは二本指を軽く上げるだけの雑な挨拶。


 回廊を出る時、潮風が背中を押した。


 来た時より、足元の石が目に入りやすくなっていた。


 橋ができたわけではない。


 ただ、合議の前に一つだけ石を置けた。


 支部の白い廊下を抜ける。表の入口へ戻る途中、港の音がまた大きくなった。魚箱の声。観光客の笑い声。鐘の余韻。海鳥の鳴き声。浄め布を畳む手の音。


 受付の見習いが俺を見た。


「欄干にはおかかりになりましたか」


「少しだけ」


「それならよかったです。帰りも坂の途中で休んでください」


「はい」


 今日は同じことを何度も言われる日らしい。けれど悪い気はしなかった。人に気遣われることに慣れているわけではない。気遣いを受け取るには、まだ練習がいる。


 俺は水筒を取り出し、一口飲んだ。


 冷たい水が喉を落ちる。胸の奥で痛みの熱とぶつかり、身体が今いる場所を思い出す。白い支部。潮の匂い。背中の軽さ。左耳のピアスに触れる風。


 まだ痛みはある。


 けれど足は前へ出る。


 薔薇の館へ戻ったら、蒼凪さんに報告しよう。カイさんへ礼を伝えられたこと。レオンさんが正式な場で話すと言ったこと。ヴェスタさんが昔なら海守りの旗を避けたと言ったこと。ラウリさんの食欲の話で、回廊に小さな笑いが起きたこと。


 たぶん蒼凪さんは、短く「ああ」と言う。


 その短さに、今日の回廊の潮風を足して聞ける気がした。


 俺は港から薔薇の館へ向かう坂を、ゆっくり上り始めた。

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