閑話休題:黒鋼を背負う日
葬列から三日が経つと、ロッカ村は泣く声を畳んだ。
泣かなくなったわけじゃない。泣き場所が変わっただけだ。戸の内側。水桶の底。山羊の脇腹へ額を押しつける短い間。そういう場所へ、声は小さく入っていった。
外へ出てきたのは別の音だった。
石を噛ませる音。焼けた梁を引きずる音。濡れた灰を掻く音。釘を打つ音。山羊小屋の柵へ若い枝を差し込む音。子供が腹を空かせてぐずる声。負傷者のいる家へ湯を運ぶ桶の揺れ。
朝は待たない。
尾根へ名を置いてきても、山羊の乳は張る。乳が張れば搾る。搾れば温める。火を起こせば炭が減る。炭が減れば薪を割る。生きている者の腹は、死者に遠慮して空腹をやめてはくれない。
山は泣かねえ。
慰めもしねえ。
だが岩の割れ目から水を出す。黒い土の奥から鉄を出す。痩せた斜面に、山羊が歯を立てられるだけの草を残す。それを取るかどうかは、人の手と足の仕事だった。
俺は穀倉前の石橋にいた。
橋の腹には灰谷衆の斧跡が入っている。石は割れていない。けれど継ぎ目を詰めていた土が抜けて、片側が指一本ぶん沈んでいた。水は浅い。落ちても死にはしない。だが足場が鳴れば、人は一瞬だけ遅れる。
その一瞬で、村は裂ける。
俺は膝をつき、指で継ぎ目の泥を掻いた。泥は冷たい。石の奥に残った夜の冷えが、爪の下へ入り込んでくる。水の音が近い。細くてしつこい音だ。昨日も聞いた。一昨日も聞いた。たぶん俺が眠っている間も鳴っていた。
コルヴが石を抱えてきた。
腕だけで抱えていない。胸と腹で支えている。前に落とした時よりはましだ。だが肩が上がっている。肩が上がればすぐ疲れる。
「ここか」
若い声だった。まだ底に沈みきらない。けれど無理に高くもない。三日前から、コルヴの声は少しだけ低くなった気がする。
「違う」
俺は橋の縁を靴先で叩いた。
「下だ」
「下って、ここ見えてるだろ」
「見えてる穴は罠だ。そこだけ詰めても抜ける。下へ噛ませろ」
コルヴは顔をしかめた。返事の代わりに息を吐く。石を置き直そうとして、角を自分の指へ当てた。赤い筋が皮の上へ出る。
「手袋はどうした」
「いらない」
「いる」
「素手の方が力が入る」
「血が出りゃ力は抜ける」
コルヴは俺を見た。
「戦士は素手でも持つ」
「戦士は明日の手を残す」
俺は腰紐から古い手袋を外した。革は硬くなっている。指先は少し潰れていた。昔の俺の手に合わせて伸びたものだ。投げると、コルヴは受け損ねた。胸に当たって土へ落ちる。
「拾え」
「……わかった」
「わかった、じゃない。拾うと言え」
コルヴは唇を噛んだ。
「拾う」
手袋を拾って、片方ずつ指を押し込んでいく。革がきついのか、爪先で引っ張っていた。まだ道具と喧嘩している手つきだ。
「ガイウス」
「何だ」
「あんた、村を出るのか」
橋の下で水がはねた。
返事をする前に、村の上手から槌が鳴った。一度だけ。薄い朝の空気を割るような鉄の音だった。ロッカでは珍しくない音だ。けれどその日は、胸骨の裏へまっすぐ入ってきた。
「まだだ」
「嘘だ」
「何が」
「昨日から鍛冶場ばっか見てる。マルコの煙を見る顔してる」
「お前は橋を見ろ」
「答えろよ」
俺はコルヴの額を指で弾いた。軽くはない。乾いた音がして、コルヴが額を押さえる。目だけは下げなかった。
「痛え」
「橋はもっと痛んでる」
「逃げるのか」
俺は詰めかけた石を押した。動く。まだ甘い。
「逃げる奴は、こんなところを直してる場合じゃねえよ」
コルヴの口が止まった。
「薄い石を持ってこい。上に大きいのを置くな。中で噛ませる」
「……ああ」
「ああ、で済ますな」
「持ってくる」
コルヴは石の山へ向かった。歩幅が大きすぎる。気持ちが先に行く歩き方だ。転ばないだけましになった。
村の下手で山羊の鈴が鳴った。
女たちが山羊を出している。草地と言っても、岩の間に短い草が貼りついているだけだ。山羊は前足を石にかけ、口で草の根元を探る。痩せた腹。硬い蹄。諦めを知らない首。
ロッカの民は山羊に似ている。
食えるものへ首を伸ばす。滑れば落ちる。落ちたら膝を打つ。それでも次の日には、また岩へ足をかける。そうしなければ冬は越せない。
コルヴが薄い石を持ってきた。
今度は下へ差し込む。指の動きはぎこちない。手袋のせいで余計に不器用だ。それでいい。道具は最初、身体の邪魔をする。邪魔を覚えてから、身体の一部になる。
「押せ」
コルヴは石を押した。
「もっと」
「割れる」
「割れる石なら捨てろ」
「くそ」
「声を使うな」
コルヴは黙って押した。石が奥で噛む。かすかな音が足裏へ来た。俺は立ち、橋の縁へ体重をかける。さっきより沈まない。
「まだ甘い。だが朝よりましだ」
コルヴは鼻で息をした。褒められた顔をしそうになって、すぐに引っ込める。
「どこ行くんだ」
「鍛冶場だ」
「俺も行く」
「橋」
「ここまでやった」
「まだだ」
コルヴの眉が寄る。
「俺だけ残して何する気だよ」
「石を残す」
「そうじゃない」
「俺が見ていなくてもできるようになれ」
その言葉で、コルヴは少し黙った。手袋の指先を見てから、橋の欠けを見た。
まだ子供だ。
だが落とした石を拾うことは覚えた。石を下へ噛ませることも、たぶん今日覚える。人はそうやって一つずつ、村の重みに近づいていく。
俺は橋を離れた。
背中はまだ軽い。軽すぎた。
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鍛冶場は村の上手にある。
近づく前から匂いで分かる。湿った土。古い炭。獣脂。焼けた革。汗の塩。炉に入る前の鉄が持つ、冷たくて薄い匂い。
戸口の石には朝のものが置かれていた。
赤土をひとつまみ。鉄粉をひとつまみ。黒パンの欠片。山羊乳を垂らした白い跡。酒はない。酒は減っている。マルコはそういうところを間違えない。
願いではない。
火を入れる前に、手の中のものがどこから来たか確かめる。火も鉄も水も、人の腹に入るパンも、村の外から勝手に歩いてきたわけじゃない。
俺は戸口で頭を下げた。
誰かに見せるためじゃない。身体が勝手にそうした。
中へ入ると、マルコ・フェッリが炉の前にいた。太い背中だ。古い樹の幹みたいな背中。白い髭の先に煤がつき、袖は肘までまくれている。腕の皮は厚く、細かい火傷の跡で斑になっていた。
マルコは俺を見ずに言った。
「遅い」
「橋だ」
「水に落ちたか」
「落ちてない」
「ならよし」
ふいごが鳴った。革が空気を吐く。火が奥で赤く起きる。炉の中の音は、眠っている獣が息を継ぐ音に似ていた。
台の上にブランの斧があった。
柄は外されている。焦げた木だけが壁に立ててある。刃は欠けていた。黒く焼けた縁に、火と土がこびりついている。斧はまだ斧の形をしている。なのにもう、ブランの手へは帰らない。
俺は足を止めた。
「見るなら見ろ」
マルコが言った。
「触るな」
「わかってる」
「その顔はわかってない」
俺は手を握った。指の関節が鳴る。
炉が弾けた。
その音で、肩の奥が固まった。木が折れる音に似ていた。ほんの少しだ。だが鼻の奥に別の匂いが来た。湿った石。古い粉。息の詰まる狭さ。土の下で腐りかけた木。
動くな。
声だけが残っている。
俺は目を開けたまま、炉の火を見た。ここはあの暗い場所じゃない。頭の上に潰れた梁はない。横にマルコがいる。火は生きている。空気はある。
マルコは何も言わなかった。
知らないのかもしれない。知っているのかもしれない。どちらでも同じだ。山の古い男は、言わないことを炉の灰みたいに扱う。
「ブランの家は」
俺は言った。
「妹が来た」
「母親は」
「寝たままだ」
マルコは斧から目を離さない。
「妹が言った。鉄を寝かせるなと」
息が胸の中で止まった。
ブランの妹の顔が浮かぶ。泣き腫らした目。こわばった顎。手の甲に残った黒い煤。斧を抱えて鍛冶場へ来るには、腕より先に腹へ力を入れなきゃならない。
「そうか」
それだけしか出なかった。
マルコは布を当て、斧の刃を持ち上げた。素手では触らない。死者のものだからではない。熱を入れる前の鉄にも、手の脂を嫌う時がある。
「斧としては終わりだ」
「ああ」
「だが鉄はまだ働ける」
「盾に混ぜるのか」
「混ぜる」
マルコはやっと俺を見た。
「嫌なら今言え」
「嫌じゃねえ」
「喜ぶならやめる」
「喜ぶ話でもねえよ」
「なら使える」
短い言葉だった。マルコの線はいつも硬い。慰めるために混ぜるのではない。死者を背負わせるためでもない。鉄がまだ働けるから、火に入れる。
俺にはその方がよかった。
マルコは斧を炉へ差し入れた。
火が一度暗くなる。すぐに赤く膨らむ。刃の黒い縁が熱でほどけ、古い焦げの匂いが立った。木ではない。革でもない。血の匂いとも違う。けれど身体が知っている匂いだった。
鍛冶場の奥には黒鋼の板が立てかけられていた。
盾になる板だ。
まだ革帯も持ち手もない。表面には槌目が残り、光を飲む黒をしている。炉の火が動くたび、内側に鈍い青が浮いた。夜の雪。濡れた石。山の影が水に沈む時の色。
「重いぞ」
マルコが言った。
「見える」
「目で量る重さじゃない」
ふいごの音が止まった。
「この村の腹は重い」
俺は黒鋼を見た。
石橋。穀倉。山羊小屋。尾根の石棚。薄い粥。湯を待つ負傷者。手袋をはめたコルヴ。ダリオの荒い息。ブランの斧。マルコの朝の鉄粉。
どれも盾に乗せるには重すぎる。
だが置いて外へ出るには、どれも小さすぎて痛い。
「盾だけじゃ腹は膨れない」
俺は言った。
マルコは火を見たまま答えた。
「腹を膨らませる場所まで行ける」
「そのための盾か」
「そのためのお前だ」
言い返す言葉はなかった。
炉の中で、ブランの斧が色を変えていく。斧だった形が火の中で緩み、鉄の顔になっていく。死者の道具が別の働きへ移る。その境目は静かだった。
マルコは槌を持った。
「手伝え」
「ああ」
「言っておく。死んだ奴を中に閉じ込めるんじゃない」
「わかってる」
「わかってない奴ほど、そう言う」
どこかで聞いたような言い方だった。俺は少しだけ喉を鳴らした。笑いにはならない。
マルコは斧の熱を見た。
「鉄を混ぜる。声は混ぜん。悔いも混ぜん。そこを間違えるな」
「ああ」
炉の赤が、俺の手の甲に揺れた。
山は奪う。山は出す。どちらも同じ岩の下から来る。人はその間で、火を入れたり水を汲んだりするしかない。
槌が落ちた。
鉄の音が鍛冶場に満ちた。
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商隊は昼前に着いた。
春の商隊と呼ぶには細い列だ。荷馬が四頭。男が五人。女が二人。塩の袋。粗麦の袋。乾いた豆。薬草の束。釘。油。布。革紐。いつもの荷だ。村が欲しがるものは毎年似ている。
違ったのは、外套の男がいたことだった。
山の民ではない。靴の底が硬すぎる。泥を踏む足の置き方も浅い。息が胸の上で止まる。けれど腰には短剣があり、鞄の革は上物だった。商人だけの目じゃない。人の腕と傷を値段で測る目だ。
男は村長の家へ入った。
俺は戸口の外で待った。呼ばれるまで入らない。戸の横には、昨日打ち直した板がある。節が粗くて、斧の跡がまっすぐではない。急いだ仕事だ。それでも風は少し止まる。
中から声が聞こえた。
金の話はよく通る。山の風よりまっすぐだ。
前金。護衛。南へ下る商道。中央の町。聖オルヴェリス教会に関わる荷。長い雇い。盾持ち。食事。傷の手当て。送金の取り次ぎ。契約。印。
乾いた言葉ばかりだった。
だが乾いた豆も、鍋に入れれば腹にたまる。祈りは湯にならない。言葉だけで傷は塞がらない。けれど紙があれば、外の町から塩が来ることもある。
俺は手の甲を見た。
古い傷。新しい擦り傷。石の角で割れた皮。ダリオの爪の跡。斧を受けた時の白い線。村の中ではどれも俺の身体の一部だ。外ではたぶん、銅貨と銀貨に変わる。
それで薬が買える。
塩が買える。
釘が買える。
麦を増やせる。
ブランは帰らない。尾根の石は減らない。古い石の文字も濃くならない。だが生きている者の粥は、少し濃くできる。
戸が開いた。
村長が出てきた。頬が落ちている。三日で年を取ったように見えた。隣に外套の男が立つ。男は俺の肩を見て、腕を見て、腰を見て、足を見る。荷の重さを測るような目だった。
「ガイウス・フェルムだな」
「ああ」
「盾を扱うと聞いた」
「扱う」
「人を倒せるか」
「必要なら」
「必要は多い」
「なら多い」
男の口元が少し動いた。
「守れるか」
「金が出るなら守る」
「金は出す」
「なら守る」
村長が俺を見る。何か言いたそうだった。俺は見なかった。ここで村長の顔を見ると、言葉が増える。言葉が増えると、腹の中で決めたものがぬるくなる。
外套の男は鞄から書付を出した。白い紙だった。ロッカの紙より薄く、指の下で軽い音がする。
「最初は商隊護衛だ。南へ下り、町へ出る。働き次第で中央の雇い口を紹介する。教会系の護衛もある。信心は問わん。逃げない盾が欲しい」
「盾を背負って逃げる気はない」
「いい返事だ」
「返事じゃない」
男の笑みが薄くなった。
「条件だ」
俺は村長を見ずに続けた。
「前金は村に置く。半分では足りない。薬と塩と釘を先に買う。送金は村長だけに預けるな。マルコ・フェッリと村長の二人で受ける形にしろ」
村長が息を飲んだ。
外套の男は俺を見直した。今度は腕ではない。目の奥を見る。商いの目だ。損をする相手かどうかを探っている。
「字は読めるか」
「少し」
「書けるか」
「遅い」
「誰に習った」
「もう、いない奴に」
男は追わなかった。
俺は紙へ目を落とした。黒い線が並んでいる。全部は読めない。だが金の数字と、送る先と、逃げた時の罰は分かる。外の紙は細かい。山の石より細かい。だが山の石より軽い。
軽いから遠くへ行く。
「盾を見てから決めたい」
男が言った。
「夕方まで待て」
「まだ出来ていないのか」
「ああ」
「出来ていない盾で、自分を売りに来たわけだ」
「出来たら、安くは売らない」
男は短く笑った。村長は笑わなかった。
「山の民は面倒だな」
「腹が減ってる」
「それはどこも同じだ」
「ここは塩から足りない」
男は笑うのをやめた。
「よかろう。前金は上げる。だが装備を見てからだ。使えない盾なら話は減る」
「見ればいい」
「送金の件も手配する。二名受け取りで書く」
「書け」
男は眉を上げた。
「命令か」
「条件だ」
しばらく間が空いた。戸の外で風が板を鳴らす。山羊の鈴が遠くで鳴る。村長の息が浅い。外套の男の指が紙の端を叩く。
「いいだろう」
男はそう言った。
俺は筆を持った。苦手だ。指が太く、線が潰れる。ガイウス・フェルム。山では呼べば足りる名を、紙の上へ置く。字は窮屈だった。俺の肩を狭い戸へ押し込めたみたいだった。
紙の上の名は軽い。
だが軽い名が、塩の袋を動かす。
俺は筆を置いた。
村長が小さく言った。
「ガイウス」
「何だ」
「すまん」
「謝るな」
それ以上は聞かなかった。村長が謝れば、俺は何か返さなきゃならない。返す言葉は持っていない。
外套の男は紙を畳み、革筒へ入れた。
「夕方だ」
「ああ」
外へ出ると、空は白く明るくなっていた。山の壁に日が当たり、雪の筋が細く光っている。山は取引を見ていない。見ていても何も言わない。
俺は鍛冶場の煙を見た。
火の匂いが、昼の風に混じっていた。
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夕方前、黒鋼の盾が立った。
マルコは完成とは言わなかった。
炉の火を弱め、台の上から盾を持ち上げ、土間の中央へ据えた。それだけだ。鍛冶場の中の空気が、盾の周りだけ重くなった気がした。
黒い盾だった。
丸くはない。上は肩を隠す幅があり、下は地面へ噛ませるために厚い。縁には別の鉄が巻かれている。磨きすぎていない。顔は映らない。火が揺れるたび、槌目の谷に青い光が沈む。
中央に細い線が走っていた。
ブランの斧から取った鉄だ。
飾りではない。祈りの印でもない。黒鋼の中に、少しだけ違う色が混ざっている。火を受けると、そこだけ赤茶に鈍く光った。ブランの髪の色に似ていると思った。口には出さなかった。
マルコが革帯を差し出す。
「背負え」
俺は盾の前へ立った。
見る重さと、持つ重さは違う。腰を落とす。両手で縁を掴む。冷たい。炉のそばにいたはずなのに、黒鋼の奥には山の朝みたいな冷えが残っていた。指の腹がすぐにしびれる。
息を入れる。
持ち上げた。
肩が沈む。肘が開きそうになる。すぐに腹へ力を落とす。腕で持つな。腰で受けろ。足裏へ逃がせ。昔どこかで聞いた言葉が、頭ではなく骨から出てきた。
盾は上がった。
背中へ回す。マルコが革帯を肩に掛ける。太い革が鎖骨へ食い込んだ。汗の残るシャツ越しに、黒鋼の冷えが背中へ貼りつく。腰の革紐を締めると、下腹まで重さが下りた。
足裏が土を押した。
鍛冶場の土間が低く鳴る。俺の体が、床に少し沈んだ気がした。重さが肩から腰へ行き、腰から膝へ行き、膝から足裏へ落ちる。
村が乗った。
そう思った。
思っただけだ。声にはしない。
マルコが俺の周りを回った。革帯のねじれを直し、背中の当たりを拳で叩く。盾が体へ近づく。逃げ場がなくなる。
「歩け」
一歩。
黒鋼が背中で鳴った。低く、短い音だ。
二歩。
革帯が肩の肉へ食い込む。痛みが形を持つ。
三歩。
腰が重さを覚えた。肩で受ければ潰れる。腕で支えれば震える。背で受け、腰へ落とし、足で地面へ返す。山で丸太を担ぐ時に似ている。だが丸太はこんなに黙っていない。
「どうだ」
マルコが聞いた。
「重い」
「それだけか」
「冷たい」
「ほか」
俺は息を吸った。革の匂いがした。火の匂い。鉄粉。自分の汗。
「逃げにくい」
マルコの髭の下がわずかに動いた。笑ったのだろう。声には出さない。
「良い盾だ」
「ああ」
「名は」
「つけない」
「ブランならつける」
「ブランが持つならな」
マルコは頷かなかった。ただ中央の赤茶の線を見た。
「鉄は混ぜた」
「ああ」
「死者を背負うな。背負うのは鉄だ」
「わかってる」
「何度でも言う。間違える奴が多い」
俺は盾の縁へ手を伸ばした。中央の線には触れない。触れれば、そこに何か別の意味を置いてしまいそうだった。
ブランは石棚にいる。斧は鉄になった。盾は盾だ。ひとつになったように見えて、ひとつではない。
石は石。
名は名。
鉄は鉄。
腹は腹。
悲しみは悲しみ。
混ざっても同じものにはならない。だから人は、何かを火へ入れられる。何もかも一緒なら、炉の前で立っていられない。
「外套の男に見せろ」
マルコが言った。
「高く売れ」
「俺をか」
「お前の背中だ」
「盾は売らない」
「盾を売ったら殴る」
「殴るのか」
「槌でな」
「やめとく」
マルコは炉へ向いた。もう終わりという背中だった。
「行け」
短い言葉だ。
俺は鍛冶場を出た。
外の空気が頬に当たる。火の中にいたせいで、夕方の風が冷たい。背中の黒鋼は、風より冷えていた。
戸口にコルヴがいた。
薪を抱えている。量は少ない。たぶん持てるぶんだけに減らしたのだろう。賢くなったのか、落として拾うのが面倒になったのか。どちらでもいい。
コルヴの目が俺の背中へ止まった。
「それ」
「盾だ」
「そんなの見れば分かる」
「なら聞くな」
「持たせてくれ」
「無理だ」
「持てる」
「持つだけならな」
コルヴは薪を置いた。急ぎすぎて一本転がったが、すぐに拾って積み直した。そこは見ておく。
俺は盾を下ろした。
下端が土へ噛む。鈍い音が足元から上がる。コルヴが手を伸ばしたので、その手首を掴んだ。
「手で行くな」
「じゃあ何で持つんだよ」
「腰だ」
「それは聞いた」
「聞いた顔をしてねえな」
俺は盾の横に立ち、膝を曲げた。
「腕で持つと腕が死ぬ。肩で受けると肩が潰れる。腹で止めて、腰へ落として、足に渡せ。足裏で地面を聞け」
コルヴが眉を寄せる。
「地面を聞くって何だよ」
「踏め」
俺は土を踏んだ。
「湿った土は沈む。凍った土は返す。石は滑る。木は鳴る。地面が嘘をつく場所で盾を立てるな」
「盾は前を守るんじゃないのか」
「前だけ見てる奴は後ろを抜かれる」
コルヴは黙った。
「盾は後ろを残す道具だ。後ろに誰もいないなら、ただの重い板だ」
コルヴの目が少し変わった。黒鋼の大きさを見ていた目から、盾の後ろに誰を置くか考える目になった。
「やってみろ」
俺は盾を傾けた。全部は渡さない。重さの端だけをコルヴの体へ預ける。
コルヴの腕が震えた。
「腕で持つな」
「分かってる」
「分かってない」
「うるさい」
「膝」
コルヴの膝が曲がる。
「足」
足幅が少し開く。
「腹」
息が止まる。
「息を止めるな」
「うるさいって」
「声を出すと抜ける」
コルヴは歯を食いしばった。今度は言い返さない。肩の力が少し落ちる。盾の重さが腕から腹へ移り、腹から腰へ落ちる。
ほんの短い間だった。
だがその短い間、コルヴは盾を持った。
俺は重さを引いた。
コルヴはその場に座り込んだ。膝が笑っている。手袋の指先に土がついていた。本人は立とうとしたが、足がすぐには聞かなかった。
「何だよ、これ」
「盾だ」
「重すぎる」
「村は重い」
コルヴは口を閉じた。
その沈黙は、朝のものとは違った。まだ短い。けれど中に石が入っている。
「俺がいない間」
俺は言った。
コルヴが顔を上げる。
「橋を見ろ。穀倉ばかり見るな。穀倉を見てる奴は、橋を抜かれる」
「あんたは」
「何だ」
「帰ってくるのか」
答えなかった。
帰ると言えば、紙の上の名が嘘をつく。帰らないと言えば、コルヴの中で何かが切れる。そのどちらも、今は使えない。
俺は盾を背負い直した。
革帯が同じ場所へ食い込む。痛みが、俺の返事の代わりになった。
「見てろ」
「何を」
「俺がいない間の山だ」
コルヴの顔が歪む。
「それだけかよ」
「足りなきゃ、お前が足せ」
コルヴは立ち上がった。膝はまだ頼りない。けれど立った。
「分かった」
声は小さかった。
「橋も見る。山羊小屋も見る。穀倉も、見すぎない」
「多いな」
「足すって言った」
「落とすなよ」
「落としたら拾う」
それでよかった。
外套の男が鍛冶場の前まで来て、盾を見た。目が細くなる。今度は人の体ではなく、道具の値を測っていた。
「それが盾か」
「ああ」
「重そうだ」
「重い」
「走れるか」
「走る仕事なら別を雇え」
「では何ができる」
俺は盾の下端を土へ噛ませた。黒鋼が低く鳴る。
「止まれる」
男はしばらく盾を見た。
「よかろう。前金は上げる」
それだけ言って、村長の方へ向かった。金の匂いのする歩き方だった。
コルヴは男の背を見てから、俺を見た。
「止まれるって、強いのか」
「強くなきゃ、止まることもできない」
コルヴは考える顔をした。
俺はそれ以上言わなかった。言葉を増やすより、盾の音を聞かせた方が早い時もある。
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ダリオは山羊道の脇にいた。
村の下手から少し外れた岩の上だ。弓を持っている。弦は張っていない。狩りに行く形ではない。ただ手に馴染むものを持っていないと、立ち方が決まらないのだろう。
俺が近づくと、ダリオは盾を見た。
口笛は吹かない。笑いもしない。目だけで上から下までなぞる。
「でかいな」
「ああ」
「邪魔だ」
「ああ」
「寝返りできないぞ」
「外す」
「頭いいな」
「お前よりは」
ダリオの口元が歪んだ。すぐ消えた。
岩から下りて、俺の前に立つ。俺より少し低い場所にいるのに、目は逃げない。山の獣が距離を測る時の目だ。寄るか、噛むか、放っておくか。まだ決めていない。
「行くんだな」
「金になる」
「それは聞いた」
「なら聞くな」
「聞きたいんだよ」
言ってから、ダリオは自分の顔をしかめた。口に合わないものを噛んだ顔だ。
「今のは、なしだ」
「遅い」
「忘れろ」
「考えとく」
ダリオは近づき、拳で俺の胸を叩いた。軽くはない。強くもない。昨日ついた痕の近くに当たり、鈍い痛みが返った。
「折れてねえな」
「しつけえ」
「返事」
「折れてねえ」
「よし」
ダリオは首を回した。風が下から上がる。針葉樹の匂い。山羊の毛。炉の煤。岩の冷え。ダリオの首筋には、薄い傷が残っていた。昨日、俺の歯が当たった場所だ。
隠していない。
俺の首にも痕がある。盾の革帯が近くを擦るたび、そこだけ熱い。
ダリオはそれを見た。何も言わない。指も伸ばさない。ただ見て、目を外した。
それで足りた。
「死ぬなとは言わない」
「言うな」
「死ぬ時は勝手に死ぬ」
「お前らしい」
「だから稼げ」
「ああ」
「塩。薬。釘。あと酒」
「酒は後だ」
「俺の分だ」
「なら最後だ」
「けちくせえ」
「酒じゃ腹は膨れない」
「気分は膨れる」
「気分じゃ冬は越せない」
ダリオは鼻で笑った。今度は少しだけ音になった。
少し沈黙が落ちた。
山の風は冷たい。春の気配はあるが、まだ冬の爪が岩の陰に残っている。村の下では商隊が荷を整えていた。革紐が鳴り、荷馬が鼻を鳴らす。外へ出る音だ。
ダリオが俺の肩を掴んだ。
指が盾の革帯の横へ食い込む。力は強い。だが引き止める力ではない。確かめる力だ。
「ガイウス」
珍しく名だけだった。
「何だ」
「山を嫌いになるなよ」
返事が遅れた。
ダリオは目を逸らさない。言いたくないことを無理に出した顔だった。甘い顔ではない。獣が傷口を見せた時の、短い嫌悪に似ていた。
「あいつは何もしてくれねえ」
「ああ」
「泣きもしない」
「ああ」
「でも水は出す」
「ああ」
「鉄も出す」
「ああ」
「山羊の草も出す」
「ああ」
「俺らはそれを食ってきた」
「ああ」
ダリオの指が少し強くなった。
「恨むなとは言わない。忘れるな」
俺は山の方を見た。
白い岩壁が夕方の光で鈍く光っている。あの壁の下に古い穴がある。古い石がある。動くな。その断片だけが、今もたまに胸を締める。
山は何も言わない。
何も返さない。
「忘れない」
俺は言った。
ダリオの手が離れた。かわりに拳が差し出される。掌ではない。握手でもない。俺たちはそういう手の出し方をしない。
拳を合わせた。
骨と骨が硬く当たった。
「稼いでこい」
「残ってろ」
「言われなくても残る」
「橋を見ろ」
「俺は橋じゃなくて獣を見る」
「獣も橋を渡る」
「うるせえ」
ダリオは背を向けた。
見送りの形を作らない。俺も呼び止めない。ダリオの背中は岩の間へ入っていく。歩き方は相変わらず荒い。けれど今日は、足音が少し低かった。
盾が背中で鳴った。
その音に、ダリオは振り返らなかった。
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出る前に尾根へ上がった。
一人で行った。
ダリオは下手にいる。コルヴは橋にいる。マルコは炉にいる。村長は紙と荷を見ている。ブランの妹の姿は見えない。見えない方がいい時もある。見えたら、俺は言葉を探してしまう。
尾根への道は細い。
石が露出し、土はところどころ凍っている。背中の盾が枝へ触れるたび、黒鋼が鈍く鳴った。鳥が一羽、針葉樹の奥で飛び立つ。羽音だけが聞こえた。
石棚は三日前と同じ場所にあった。
当たり前だ。
だが石が増えたぶん、風の通りが少し違って見えた。白い岩の張り出し。三本の針葉樹。積まれた石。乾いた山羊乳の跡。酒が染みた暗いくぼみ。風に少し散った鉄粉。黒パンの小さな欠片。
ブランの石はまだ新しい。
触らなかった。
触れば、許しをもらいに来たみたいになる。石は許すために積まれていない。死者も、山も、俺の用件を楽にするためにそこへいるわけじゃない。
俺は革袋を出した。
酒を一口ぶん、岩のくぼみへ落とす。酒は細い筋になり、白い石の上で広がった。黒パンを割り、欠片を置く。鉄粉を指先でつまみ、風に散りすぎない場所へ落とす。山羊の毛束を丸め、石の横へ挟んだ。
手順は考えなくても動く。
狩りの前。雪が深くなる前。子が生まれた時。誰かを尾根へ置いた時。山へ何かを頼むというより、自分が山のどこに立っているかを確かめる手つきだ。
俺は膝をついた。
盾は下ろさない。
膝をつくと、黒鋼の重さが肩へ寄る。革帯が鎖骨を押す。腰が遅れて痛む。足裏の感覚が、岩の冷たさを拾った。
風が吹いた。
石棚の奥に古い石がある。
誰の石か、俺は知っている。文字は削れている。供物も新しくない。だがその前を通る時、足が止まりかける。止まれば胸の奥で木が軋む。
本当に鳴っているのは針葉樹だ。
それでも耳の奥では、別の木が鳴った。暗い場所。湿った石。粉を吸った喉。足を動かそうとして動けない膝。動くなという声。
俺は目を閉じなかった。
閉じると暗くなる。暗くなれば声が近い。だから白い岩を見た。雪の薄い筋を見た。鉄粉が指の皺に残っているのを見た。
「借りていく」
声は低く出た。
誰へ言ったのかは分からない。
山か。石か。ブランか。古い石の下の誰かか。村か。背中の黒鋼か。
たぶん全部だ。
「村に要る」
それ以上は言わなかった。
祈ると、言葉が多くなる。誓うと、破れた時に石まで汚す。俺にできるのは用件を置くことだけだった。
借りていく。
村に要る。
それで足りる。
山から出た黒鋼を、村の外へ運ぶ。持ち去るわけではない。売るわけでもない。俺のものにするわけでもない。村が生きるために、しばらく背中へ預かる。
立ち上がる。
盾の重さが腰へ来た。膝が一瞬遅れる。足裏で岩を踏む。白い石は受けた。滑らない。靴底が岩肌へ噛む。
尾根から村が見えた。
石積みの家。細い煙。山羊小屋。鍛冶場。穀倉。石橋。水の筋。小さい村だ。外の町へ行けば、ロッカの名を知らない者の方が多いだろう。地図の端に乗るかどうかも怪しい。
それでも俺の背中の盾は、その小ささより重かった。
山は何も言わない。
言わないから、こちらで頭を下げる。言わないから、こちらで持つ。言わないから、歩く足を間違えないようにする。
俺は石棚へ頭を下げた。
長くはない。
深くもない。
身体が覚えている角度だった。
風が鉄粉を少し動かした。
返事ではない。
それでいい。
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商隊は昼を少し過ぎて動き出した。
荷馬の鈴が鳴る。革紐が軋む。塩の袋は一部が村へ降ろされた。粗麦も少し置かれた。薬草。釘。布。足りない。まるで足りない。
だが何もないよりはましだ。
村の入口には人が集まっていた。全員ではない。仕事を止められない者もいる。負傷者の家からは誰も出てこない。戸口の陰に誰かがいる気配はあった。見ると足が止まりそうで、見なかった。
マルコは鍛冶場の前に立っていた。
腕を組んでいる。何も言わない。炉の火は落ちているはずなのに、髭の端にはまだ煤がついていた。俺を見るというより、盾の収まりを見ている。最後まで鍛冶屋の目だ。
コルヴは石橋の横にいた。
橋の継ぎ目は朝よりましになっている。荒いが、噛んでいる。手には俺の古い手袋がある。片方の指先が破れ、赤い指が少し見えていた。
「ガイウス」
「何だ」
「見てる」
何を、とは聞かなかった。
「落とすな」
「落とさない」
「落としたら拾え」
「分かってる」
「分かってない時ほど、そう言う」
コルヴは怒りかけた。すぐに口を閉じる。
「拾う」
その言い直しは悪くなかった。
村長は外套の男と書付を確かめている。紙が畳まれ、革筒へ入る。俺の名もそこに入っている。紙の中の名は軽い。軽いものは風で飛ぶ。だが軽いものほど遠くへ運べる。
ダリオは少し離れた岩の上にいた。
手は振らない。弓も持っていない。腕を組み、こちらを見ている。目が合うと、顎を少し上げた。
それだけだった。
俺も顎を少し動かした。
それで足りた。
「出るぞ」
外套の男が言った。
商隊の先頭が歩き出す。荷馬の蹄が石を叩く。鈴が一度高く鳴り、それから山道の音に混じる。
俺も歩いた。
最初の一歩で、盾が背中で鳴った。黒鋼の低い音。革帯が肩へ食い込み、鎖骨の上の皮を引く。腰が重さを受ける。足裏が土を押す。痛みは邪魔ではない。どこに荷があるかを知らせる道具だ。
石橋を渡る。
三日前、ここで追わなかった。今日はここから出る。逃げるためではない。追いかけるためだけでもない。残すために出る。村の腹へ塩を入れるために出る。傷口へ薬を置くために出る。
橋の中央で足を止めた。
振り返る。
ロッカ村は白い岩壁の下にあった。家は小さい。煙は細い。山羊の鈴はもう遠い。針葉樹の黒い枝が、村の上に黙って立っている。尾根の石棚は見えない。見えない場所に名が積まれている。
俺は山へ頭を下げた。
長くはない。
深くもない。
身体に染みついた角度だった。
外套の男が振り返る。
「何か忘れたか」
「いや」
俺は頭を上げた。
「借りた」
男には分からない。分からなくていい。男は聞き返さず、商隊の列へ顔を向けた。金の話をする人間に、石棚の言葉は重すぎる。
山道へ入る。
下りだ。石が滑る。荷馬が鼻を鳴らす。細い道の右手は白い岩で、左手は灌木の斜面だった。盾が枝へ当たり、低く鳴る。黒鋼の音は背骨を通って腹へ落ちた。
村が少しずつ小さくなる。
煙が糸になる。人の形が点になる。コルヴの手袋も見えなくなる。マルコの煤も、ダリオの顎も、村長の白い髭も、岩の影へ沈む。
背中の盾は小さくならない。
重さの中に黒鋼がある。ブランの鉄がある。マルコの槌がある。コルヴのまっすぐすぎる目がある。ダリオの拳がある。村の薄い粥がある。塩の足りない冬がある。山羊乳の白い跡がある。石棚の風がある。
山に奪われたものがある。
山から受け取ったものがある。
どちらかだけを数えれば嘘になる。
俺は歩いた。
山は何も言わない。
水を出し、鉄を出し、草を出すだけだ。泣きはしない。手も伸ばさない。だから俺は、肩で革帯を受け、腰で黒鋼を支え、足裏で石を踏んだ。
盾が背中で鳴った。
その音を聞きながら、俺は村の外へ下りていった。




