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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
90/129

閑話休題:黒鋼を背負う日

 葬列から三日が経つと、ロッカ村は泣く声を畳んだ。


 泣かなくなったわけじゃない。泣き場所が変わっただけだ。戸の内側。水桶の底。山羊の脇腹へ額を押しつける短い間。そういう場所へ、声は小さく入っていった。


 外へ出てきたのは別の音だった。


 石を噛ませる音。焼けた梁を引きずる音。濡れた灰を掻く音。釘を打つ音。山羊小屋の柵へ若い枝を差し込む音。子供が腹を空かせてぐずる声。負傷者のいる家へ湯を運ぶ桶の揺れ。


 朝は待たない。


 尾根へ名を置いてきても、山羊の乳は張る。乳が張れば搾る。搾れば温める。火を起こせば炭が減る。炭が減れば薪を割る。生きている者の腹は、死者に遠慮して空腹をやめてはくれない。


 山は泣かねえ。


 慰めもしねえ。


 だが岩の割れ目から水を出す。黒い土の奥から鉄を出す。痩せた斜面に、山羊が歯を立てられるだけの草を残す。それを取るかどうかは、人の手と足の仕事だった。


 俺は穀倉前の石橋にいた。


 橋の腹には灰谷衆の斧跡が入っている。石は割れていない。けれど継ぎ目を詰めていた土が抜けて、片側が指一本ぶん沈んでいた。水は浅い。落ちても死にはしない。だが足場が鳴れば、人は一瞬だけ遅れる。


 その一瞬で、村は裂ける。


 俺は膝をつき、指で継ぎ目の泥を掻いた。泥は冷たい。石の奥に残った夜の冷えが、爪の下へ入り込んでくる。水の音が近い。細くてしつこい音だ。昨日も聞いた。一昨日も聞いた。たぶん俺が眠っている間も鳴っていた。


 コルヴが石を抱えてきた。


 腕だけで抱えていない。胸と腹で支えている。前に落とした時よりはましだ。だが肩が上がっている。肩が上がればすぐ疲れる。


「ここか」


 若い声だった。まだ底に沈みきらない。けれど無理に高くもない。三日前から、コルヴの声は少しだけ低くなった気がする。


「違う」


 俺は橋の縁を靴先で叩いた。


「下だ」


「下って、ここ見えてるだろ」


「見えてる穴は罠だ。そこだけ詰めても抜ける。下へ噛ませろ」


 コルヴは顔をしかめた。返事の代わりに息を吐く。石を置き直そうとして、角を自分の指へ当てた。赤い筋が皮の上へ出る。


「手袋はどうした」


「いらない」


「いる」


「素手の方が力が入る」


「血が出りゃ力は抜ける」


 コルヴは俺を見た。


「戦士は素手でも持つ」


「戦士は明日の手を残す」


 俺は腰紐から古い手袋を外した。革は硬くなっている。指先は少し潰れていた。昔の俺の手に合わせて伸びたものだ。投げると、コルヴは受け損ねた。胸に当たって土へ落ちる。


「拾え」


「……わかった」


「わかった、じゃない。拾うと言え」


 コルヴは唇を噛んだ。


「拾う」


 手袋を拾って、片方ずつ指を押し込んでいく。革がきついのか、爪先で引っ張っていた。まだ道具と喧嘩している手つきだ。


「ガイウス」


「何だ」


「あんた、村を出るのか」


 橋の下で水がはねた。


 返事をする前に、村の上手から槌が鳴った。一度だけ。薄い朝の空気を割るような鉄の音だった。ロッカでは珍しくない音だ。けれどその日は、胸骨の裏へまっすぐ入ってきた。


「まだだ」


「嘘だ」


「何が」


「昨日から鍛冶場ばっか見てる。マルコの煙を見る顔してる」


「お前は橋を見ろ」


「答えろよ」


 俺はコルヴの額を指で弾いた。軽くはない。乾いた音がして、コルヴが額を押さえる。目だけは下げなかった。


「痛え」


「橋はもっと痛んでる」


「逃げるのか」


 俺は詰めかけた石を押した。動く。まだ甘い。


「逃げる奴は、こんなところを直してる場合じゃねえよ」


 コルヴの口が止まった。


「薄い石を持ってこい。上に大きいのを置くな。中で噛ませる」


「……ああ」


「ああ、で済ますな」


「持ってくる」


 コルヴは石の山へ向かった。歩幅が大きすぎる。気持ちが先に行く歩き方だ。転ばないだけましになった。


 村の下手で山羊の鈴が鳴った。


 女たちが山羊を出している。草地と言っても、岩の間に短い草が貼りついているだけだ。山羊は前足を石にかけ、口で草の根元を探る。痩せた腹。硬い蹄。諦めを知らない首。


 ロッカの民は山羊に似ている。


 食えるものへ首を伸ばす。滑れば落ちる。落ちたら膝を打つ。それでも次の日には、また岩へ足をかける。そうしなければ冬は越せない。


 コルヴが薄い石を持ってきた。


 今度は下へ差し込む。指の動きはぎこちない。手袋のせいで余計に不器用だ。それでいい。道具は最初、身体の邪魔をする。邪魔を覚えてから、身体の一部になる。


「押せ」


 コルヴは石を押した。


「もっと」


「割れる」


「割れる石なら捨てろ」


「くそ」


「声を使うな」


 コルヴは黙って押した。石が奥で噛む。かすかな音が足裏へ来た。俺は立ち、橋の縁へ体重をかける。さっきより沈まない。


「まだ甘い。だが朝よりましだ」


 コルヴは鼻で息をした。褒められた顔をしそうになって、すぐに引っ込める。


「どこ行くんだ」


「鍛冶場だ」


「俺も行く」


「橋」


「ここまでやった」


「まだだ」


 コルヴの眉が寄る。


「俺だけ残して何する気だよ」


「石を残す」


「そうじゃない」


「俺が見ていなくてもできるようになれ」


 その言葉で、コルヴは少し黙った。手袋の指先を見てから、橋の欠けを見た。


 まだ子供だ。


 だが落とした石を拾うことは覚えた。石を下へ噛ませることも、たぶん今日覚える。人はそうやって一つずつ、村の重みに近づいていく。


 俺は橋を離れた。


 背中はまだ軽い。軽すぎた。


──────────────────────────────


 鍛冶場は村の上手にある。


 近づく前から匂いで分かる。湿った土。古い炭。獣脂。焼けた革。汗の塩。炉に入る前の鉄が持つ、冷たくて薄い匂い。


 戸口の石には朝のものが置かれていた。


 赤土をひとつまみ。鉄粉をひとつまみ。黒パンの欠片。山羊乳を垂らした白い跡。酒はない。酒は減っている。マルコはそういうところを間違えない。


 願いではない。


 火を入れる前に、手の中のものがどこから来たか確かめる。火も鉄も水も、人の腹に入るパンも、村の外から勝手に歩いてきたわけじゃない。


 俺は戸口で頭を下げた。


 誰かに見せるためじゃない。身体が勝手にそうした。


 中へ入ると、マルコ・フェッリが炉の前にいた。太い背中だ。古い樹の幹みたいな背中。白い髭の先に煤がつき、袖は肘までまくれている。腕の皮は厚く、細かい火傷の跡で斑になっていた。


 マルコは俺を見ずに言った。


「遅い」


「橋だ」


「水に落ちたか」


「落ちてない」


「ならよし」


 ふいごが鳴った。革が空気を吐く。火が奥で赤く起きる。炉の中の音は、眠っている獣が息を継ぐ音に似ていた。


 台の上にブランの斧があった。


 柄は外されている。焦げた木だけが壁に立ててある。刃は欠けていた。黒く焼けた縁に、火と土がこびりついている。斧はまだ斧の形をしている。なのにもう、ブランの手へは帰らない。


 俺は足を止めた。


「見るなら見ろ」


 マルコが言った。


「触るな」


「わかってる」


「その顔はわかってない」


 俺は手を握った。指の関節が鳴る。


 炉が弾けた。


 その音で、肩の奥が固まった。木が折れる音に似ていた。ほんの少しだ。だが鼻の奥に別の匂いが来た。湿った石。古い粉。息の詰まる狭さ。土の下で腐りかけた木。


 動くな。


 声だけが残っている。


 俺は目を開けたまま、炉の火を見た。ここはあの暗い場所じゃない。頭の上に潰れた梁はない。横にマルコがいる。火は生きている。空気はある。


 マルコは何も言わなかった。


 知らないのかもしれない。知っているのかもしれない。どちらでも同じだ。山の古い男は、言わないことを炉の灰みたいに扱う。


「ブランの家は」


 俺は言った。


「妹が来た」


「母親は」


「寝たままだ」


 マルコは斧から目を離さない。


「妹が言った。鉄を寝かせるなと」


 息が胸の中で止まった。


 ブランの妹の顔が浮かぶ。泣き腫らした目。こわばった顎。手の甲に残った黒い煤。斧を抱えて鍛冶場へ来るには、腕より先に腹へ力を入れなきゃならない。


「そうか」


 それだけしか出なかった。


 マルコは布を当て、斧の刃を持ち上げた。素手では触らない。死者のものだからではない。熱を入れる前の鉄にも、手の脂を嫌う時がある。


「斧としては終わりだ」


「ああ」


「だが鉄はまだ働ける」


「盾に混ぜるのか」


「混ぜる」


 マルコはやっと俺を見た。


「嫌なら今言え」


「嫌じゃねえ」


「喜ぶならやめる」


「喜ぶ話でもねえよ」


「なら使える」


 短い言葉だった。マルコの線はいつも硬い。慰めるために混ぜるのではない。死者を背負わせるためでもない。鉄がまだ働けるから、火に入れる。


 俺にはその方がよかった。


 マルコは斧を炉へ差し入れた。


 火が一度暗くなる。すぐに赤く膨らむ。刃の黒い縁が熱でほどけ、古い焦げの匂いが立った。木ではない。革でもない。血の匂いとも違う。けれど身体が知っている匂いだった。


 鍛冶場の奥には黒鋼の板が立てかけられていた。


 盾になる板だ。


 まだ革帯も持ち手もない。表面には槌目が残り、光を飲む黒をしている。炉の火が動くたび、内側に鈍い青が浮いた。夜の雪。濡れた石。山の影が水に沈む時の色。


「重いぞ」


 マルコが言った。


「見える」


「目で量る重さじゃない」


 ふいごの音が止まった。


「この村の腹は重い」


 俺は黒鋼を見た。


 石橋。穀倉。山羊小屋。尾根の石棚。薄い粥。湯を待つ負傷者。手袋をはめたコルヴ。ダリオの荒い息。ブランの斧。マルコの朝の鉄粉。


 どれも盾に乗せるには重すぎる。


 だが置いて外へ出るには、どれも小さすぎて痛い。


「盾だけじゃ腹は膨れない」


 俺は言った。


 マルコは火を見たまま答えた。


「腹を膨らませる場所まで行ける」


「そのための盾か」


「そのためのお前だ」


 言い返す言葉はなかった。


 炉の中で、ブランの斧が色を変えていく。斧だった形が火の中で緩み、鉄の顔になっていく。死者の道具が別の働きへ移る。その境目は静かだった。


 マルコは槌を持った。


「手伝え」


「ああ」


「言っておく。死んだ奴を中に閉じ込めるんじゃない」


「わかってる」


「わかってない奴ほど、そう言う」


 どこかで聞いたような言い方だった。俺は少しだけ喉を鳴らした。笑いにはならない。


 マルコは斧の熱を見た。


「鉄を混ぜる。声は混ぜん。悔いも混ぜん。そこを間違えるな」


「ああ」


 炉の赤が、俺の手の甲に揺れた。


 山は奪う。山は出す。どちらも同じ岩の下から来る。人はその間で、火を入れたり水を汲んだりするしかない。


 槌が落ちた。


 鉄の音が鍛冶場に満ちた。


──────────────────────────────


 商隊は昼前に着いた。


 春の商隊と呼ぶには細い列だ。荷馬が四頭。男が五人。女が二人。塩の袋。粗麦の袋。乾いた豆。薬草の束。釘。油。布。革紐。いつもの荷だ。村が欲しがるものは毎年似ている。


 違ったのは、外套の男がいたことだった。


 山の民ではない。靴の底が硬すぎる。泥を踏む足の置き方も浅い。息が胸の上で止まる。けれど腰には短剣があり、鞄の革は上物だった。商人だけの目じゃない。人の腕と傷を値段で測る目だ。


 男は村長の家へ入った。


 俺は戸口の外で待った。呼ばれるまで入らない。戸の横には、昨日打ち直した板がある。節が粗くて、斧の跡がまっすぐではない。急いだ仕事だ。それでも風は少し止まる。


 中から声が聞こえた。


 金の話はよく通る。山の風よりまっすぐだ。


 前金。護衛。南へ下る商道。中央の町。聖オルヴェリス教会に関わる荷。長い雇い。盾持ち。食事。傷の手当て。送金の取り次ぎ。契約。印。


 乾いた言葉ばかりだった。


 だが乾いた豆も、鍋に入れれば腹にたまる。祈りは湯にならない。言葉だけで傷は塞がらない。けれど紙があれば、外の町から塩が来ることもある。


 俺は手の甲を見た。


 古い傷。新しい擦り傷。石の角で割れた皮。ダリオの爪の跡。斧を受けた時の白い線。村の中ではどれも俺の身体の一部だ。外ではたぶん、銅貨と銀貨に変わる。


 それで薬が買える。


 塩が買える。


 釘が買える。


 麦を増やせる。


 ブランは帰らない。尾根の石は減らない。古い石の文字も濃くならない。だが生きている者の粥は、少し濃くできる。


 戸が開いた。


 村長が出てきた。頬が落ちている。三日で年を取ったように見えた。隣に外套の男が立つ。男は俺の肩を見て、腕を見て、腰を見て、足を見る。荷の重さを測るような目だった。


「ガイウス・フェルムだな」


「ああ」


「盾を扱うと聞いた」


「扱う」


「人を倒せるか」


「必要なら」


「必要は多い」


「なら多い」


 男の口元が少し動いた。


「守れるか」


「金が出るなら守る」


「金は出す」


「なら守る」


 村長が俺を見る。何か言いたそうだった。俺は見なかった。ここで村長の顔を見ると、言葉が増える。言葉が増えると、腹の中で決めたものがぬるくなる。


 外套の男は鞄から書付を出した。白い紙だった。ロッカの紙より薄く、指の下で軽い音がする。


「最初は商隊護衛だ。南へ下り、町へ出る。働き次第で中央の雇い口を紹介する。教会系の護衛もある。信心は問わん。逃げない盾が欲しい」


「盾を背負って逃げる気はない」


「いい返事だ」


「返事じゃない」


 男の笑みが薄くなった。


「条件だ」


 俺は村長を見ずに続けた。


「前金は村に置く。半分では足りない。薬と塩と釘を先に買う。送金は村長だけに預けるな。マルコ・フェッリと村長の二人で受ける形にしろ」


 村長が息を飲んだ。


 外套の男は俺を見直した。今度は腕ではない。目の奥を見る。商いの目だ。損をする相手かどうかを探っている。


「字は読めるか」


「少し」


「書けるか」


「遅い」


「誰に習った」


「もう、いない奴に」


 男は追わなかった。


 俺は紙へ目を落とした。黒い線が並んでいる。全部は読めない。だが金の数字と、送る先と、逃げた時の罰は分かる。外の紙は細かい。山の石より細かい。だが山の石より軽い。


 軽いから遠くへ行く。


「盾を見てから決めたい」


 男が言った。


「夕方まで待て」


「まだ出来ていないのか」


「ああ」


「出来ていない盾で、自分を売りに来たわけだ」


「出来たら、安くは売らない」


 男は短く笑った。村長は笑わなかった。


「山の民は面倒だな」


「腹が減ってる」


「それはどこも同じだ」


「ここは塩から足りない」


 男は笑うのをやめた。


「よかろう。前金は上げる。だが装備を見てからだ。使えない盾なら話は減る」


「見ればいい」


「送金の件も手配する。二名受け取りで書く」


「書け」


 男は眉を上げた。


「命令か」


「条件だ」


 しばらく間が空いた。戸の外で風が板を鳴らす。山羊の鈴が遠くで鳴る。村長の息が浅い。外套の男の指が紙の端を叩く。


「いいだろう」


 男はそう言った。


 俺は筆を持った。苦手だ。指が太く、線が潰れる。ガイウス・フェルム。山では呼べば足りる名を、紙の上へ置く。字は窮屈だった。俺の肩を狭い戸へ押し込めたみたいだった。


 紙の上の名は軽い。


 だが軽い名が、塩の袋を動かす。


 俺は筆を置いた。


 村長が小さく言った。


「ガイウス」


「何だ」


「すまん」


「謝るな」


 それ以上は聞かなかった。村長が謝れば、俺は何か返さなきゃならない。返す言葉は持っていない。


 外套の男は紙を畳み、革筒へ入れた。


「夕方だ」


「ああ」


 外へ出ると、空は白く明るくなっていた。山の壁に日が当たり、雪の筋が細く光っている。山は取引を見ていない。見ていても何も言わない。


 俺は鍛冶場の煙を見た。


 火の匂いが、昼の風に混じっていた。


──────────────────────────────


 夕方前、黒鋼の盾が立った。


 マルコは完成とは言わなかった。


 炉の火を弱め、台の上から盾を持ち上げ、土間の中央へ据えた。それだけだ。鍛冶場の中の空気が、盾の周りだけ重くなった気がした。


 黒い盾だった。


 丸くはない。上は肩を隠す幅があり、下は地面へ噛ませるために厚い。縁には別の鉄が巻かれている。磨きすぎていない。顔は映らない。火が揺れるたび、槌目の谷に青い光が沈む。


 中央に細い線が走っていた。


 ブランの斧から取った鉄だ。


 飾りではない。祈りの印でもない。黒鋼の中に、少しだけ違う色が混ざっている。火を受けると、そこだけ赤茶に鈍く光った。ブランの髪の色に似ていると思った。口には出さなかった。


 マルコが革帯を差し出す。


「背負え」


 俺は盾の前へ立った。


 見る重さと、持つ重さは違う。腰を落とす。両手で縁を掴む。冷たい。炉のそばにいたはずなのに、黒鋼の奥には山の朝みたいな冷えが残っていた。指の腹がすぐにしびれる。


 息を入れる。


 持ち上げた。


 肩が沈む。肘が開きそうになる。すぐに腹へ力を落とす。腕で持つな。腰で受けろ。足裏へ逃がせ。昔どこかで聞いた言葉が、頭ではなく骨から出てきた。


 盾は上がった。


 背中へ回す。マルコが革帯を肩に掛ける。太い革が鎖骨へ食い込んだ。汗の残るシャツ越しに、黒鋼の冷えが背中へ貼りつく。腰の革紐を締めると、下腹まで重さが下りた。


 足裏が土を押した。


 鍛冶場の土間が低く鳴る。俺の体が、床に少し沈んだ気がした。重さが肩から腰へ行き、腰から膝へ行き、膝から足裏へ落ちる。


 村が乗った。


 そう思った。


 思っただけだ。声にはしない。


 マルコが俺の周りを回った。革帯のねじれを直し、背中の当たりを拳で叩く。盾が体へ近づく。逃げ場がなくなる。


「歩け」


 一歩。


 黒鋼が背中で鳴った。低く、短い音だ。


 二歩。


 革帯が肩の肉へ食い込む。痛みが形を持つ。


 三歩。


 腰が重さを覚えた。肩で受ければ潰れる。腕で支えれば震える。背で受け、腰へ落とし、足で地面へ返す。山で丸太を担ぐ時に似ている。だが丸太はこんなに黙っていない。


「どうだ」


 マルコが聞いた。


「重い」


「それだけか」


「冷たい」


「ほか」


 俺は息を吸った。革の匂いがした。火の匂い。鉄粉。自分の汗。


「逃げにくい」


 マルコの髭の下がわずかに動いた。笑ったのだろう。声には出さない。


「良い盾だ」


「ああ」


「名は」


「つけない」


「ブランならつける」


「ブランが持つならな」


 マルコは頷かなかった。ただ中央の赤茶の線を見た。


「鉄は混ぜた」


「ああ」


「死者を背負うな。背負うのは鉄だ」


「わかってる」


「何度でも言う。間違える奴が多い」


 俺は盾の縁へ手を伸ばした。中央の線には触れない。触れれば、そこに何か別の意味を置いてしまいそうだった。


 ブランは石棚にいる。斧は鉄になった。盾は盾だ。ひとつになったように見えて、ひとつではない。


 石は石。


 名は名。


 鉄は鉄。


 腹は腹。


 悲しみは悲しみ。


 混ざっても同じものにはならない。だから人は、何かを火へ入れられる。何もかも一緒なら、炉の前で立っていられない。


「外套の男に見せろ」


 マルコが言った。


「高く売れ」


「俺をか」


「お前の背中だ」


「盾は売らない」


「盾を売ったら殴る」


「殴るのか」


「槌でな」


「やめとく」


 マルコは炉へ向いた。もう終わりという背中だった。


「行け」


 短い言葉だ。


 俺は鍛冶場を出た。


 外の空気が頬に当たる。火の中にいたせいで、夕方の風が冷たい。背中の黒鋼は、風より冷えていた。


 戸口にコルヴがいた。


 薪を抱えている。量は少ない。たぶん持てるぶんだけに減らしたのだろう。賢くなったのか、落として拾うのが面倒になったのか。どちらでもいい。


 コルヴの目が俺の背中へ止まった。


「それ」


「盾だ」


「そんなの見れば分かる」


「なら聞くな」


「持たせてくれ」


「無理だ」


「持てる」


「持つだけならな」


 コルヴは薪を置いた。急ぎすぎて一本転がったが、すぐに拾って積み直した。そこは見ておく。


 俺は盾を下ろした。


 下端が土へ噛む。鈍い音が足元から上がる。コルヴが手を伸ばしたので、その手首を掴んだ。


「手で行くな」


「じゃあ何で持つんだよ」


「腰だ」


「それは聞いた」


「聞いた顔をしてねえな」


 俺は盾の横に立ち、膝を曲げた。


「腕で持つと腕が死ぬ。肩で受けると肩が潰れる。腹で止めて、腰へ落として、足に渡せ。足裏で地面を聞け」


 コルヴが眉を寄せる。


「地面を聞くって何だよ」


「踏め」


 俺は土を踏んだ。


「湿った土は沈む。凍った土は返す。石は滑る。木は鳴る。地面が嘘をつく場所で盾を立てるな」


「盾は前を守るんじゃないのか」


「前だけ見てる奴は後ろを抜かれる」


 コルヴは黙った。


「盾は後ろを残す道具だ。後ろに誰もいないなら、ただの重い板だ」


 コルヴの目が少し変わった。黒鋼の大きさを見ていた目から、盾の後ろに誰を置くか考える目になった。


「やってみろ」


 俺は盾を傾けた。全部は渡さない。重さの端だけをコルヴの体へ預ける。


 コルヴの腕が震えた。


「腕で持つな」


「分かってる」


「分かってない」


「うるさい」


「膝」


 コルヴの膝が曲がる。


「足」


 足幅が少し開く。


「腹」


 息が止まる。


「息を止めるな」


「うるさいって」


「声を出すと抜ける」


 コルヴは歯を食いしばった。今度は言い返さない。肩の力が少し落ちる。盾の重さが腕から腹へ移り、腹から腰へ落ちる。


 ほんの短い間だった。


 だがその短い間、コルヴは盾を持った。


 俺は重さを引いた。


 コルヴはその場に座り込んだ。膝が笑っている。手袋の指先に土がついていた。本人は立とうとしたが、足がすぐには聞かなかった。


「何だよ、これ」


「盾だ」


「重すぎる」


「村は重い」


 コルヴは口を閉じた。


 その沈黙は、朝のものとは違った。まだ短い。けれど中に石が入っている。


「俺がいない間」


 俺は言った。


 コルヴが顔を上げる。


「橋を見ろ。穀倉ばかり見るな。穀倉を見てる奴は、橋を抜かれる」


「あんたは」


「何だ」


「帰ってくるのか」


 答えなかった。


 帰ると言えば、紙の上の名が嘘をつく。帰らないと言えば、コルヴの中で何かが切れる。そのどちらも、今は使えない。


 俺は盾を背負い直した。


 革帯が同じ場所へ食い込む。痛みが、俺の返事の代わりになった。


「見てろ」


「何を」


「俺がいない間の山だ」


 コルヴの顔が歪む。


「それだけかよ」


「足りなきゃ、お前が足せ」


 コルヴは立ち上がった。膝はまだ頼りない。けれど立った。


「分かった」


 声は小さかった。


「橋も見る。山羊小屋も見る。穀倉も、見すぎない」


「多いな」


「足すって言った」


「落とすなよ」


「落としたら拾う」


 それでよかった。


 外套の男が鍛冶場の前まで来て、盾を見た。目が細くなる。今度は人の体ではなく、道具の値を測っていた。


「それが盾か」


「ああ」


「重そうだ」


「重い」


「走れるか」


「走る仕事なら別を雇え」


「では何ができる」


 俺は盾の下端を土へ噛ませた。黒鋼が低く鳴る。


「止まれる」


 男はしばらく盾を見た。


「よかろう。前金は上げる」


 それだけ言って、村長の方へ向かった。金の匂いのする歩き方だった。


 コルヴは男の背を見てから、俺を見た。


「止まれるって、強いのか」


「強くなきゃ、止まることもできない」


 コルヴは考える顔をした。


 俺はそれ以上言わなかった。言葉を増やすより、盾の音を聞かせた方が早い時もある。


──────────────────────────────


 ダリオは山羊道の脇にいた。


 村の下手から少し外れた岩の上だ。弓を持っている。弦は張っていない。狩りに行く形ではない。ただ手に馴染むものを持っていないと、立ち方が決まらないのだろう。


 俺が近づくと、ダリオは盾を見た。


 口笛は吹かない。笑いもしない。目だけで上から下までなぞる。


「でかいな」


「ああ」


「邪魔だ」


「ああ」


「寝返りできないぞ」


「外す」


「頭いいな」


「お前よりは」


 ダリオの口元が歪んだ。すぐ消えた。


 岩から下りて、俺の前に立つ。俺より少し低い場所にいるのに、目は逃げない。山の獣が距離を測る時の目だ。寄るか、噛むか、放っておくか。まだ決めていない。


「行くんだな」


「金になる」


「それは聞いた」


「なら聞くな」


「聞きたいんだよ」


 言ってから、ダリオは自分の顔をしかめた。口に合わないものを噛んだ顔だ。


「今のは、なしだ」


「遅い」


「忘れろ」


「考えとく」


 ダリオは近づき、拳で俺の胸を叩いた。軽くはない。強くもない。昨日ついた痕の近くに当たり、鈍い痛みが返った。


「折れてねえな」


「しつけえ」


「返事」


「折れてねえ」


「よし」


 ダリオは首を回した。風が下から上がる。針葉樹の匂い。山羊の毛。炉の煤。岩の冷え。ダリオの首筋には、薄い傷が残っていた。昨日、俺の歯が当たった場所だ。


 隠していない。


 俺の首にも痕がある。盾の革帯が近くを擦るたび、そこだけ熱い。


 ダリオはそれを見た。何も言わない。指も伸ばさない。ただ見て、目を外した。


 それで足りた。


「死ぬなとは言わない」


「言うな」


「死ぬ時は勝手に死ぬ」


「お前らしい」


「だから稼げ」


「ああ」


「塩。薬。釘。あと酒」


「酒は後だ」


「俺の分だ」


「なら最後だ」


「けちくせえ」


「酒じゃ腹は膨れない」


「気分は膨れる」


「気分じゃ冬は越せない」


 ダリオは鼻で笑った。今度は少しだけ音になった。


 少し沈黙が落ちた。


 山の風は冷たい。春の気配はあるが、まだ冬の爪が岩の陰に残っている。村の下では商隊が荷を整えていた。革紐が鳴り、荷馬が鼻を鳴らす。外へ出る音だ。


 ダリオが俺の肩を掴んだ。


 指が盾の革帯の横へ食い込む。力は強い。だが引き止める力ではない。確かめる力だ。


「ガイウス」


 珍しく名だけだった。


「何だ」


「山を嫌いになるなよ」


 返事が遅れた。


 ダリオは目を逸らさない。言いたくないことを無理に出した顔だった。甘い顔ではない。獣が傷口を見せた時の、短い嫌悪に似ていた。


「あいつは何もしてくれねえ」


「ああ」


「泣きもしない」


「ああ」


「でも水は出す」


「ああ」


「鉄も出す」


「ああ」


「山羊の草も出す」


「ああ」


「俺らはそれを食ってきた」


「ああ」


 ダリオの指が少し強くなった。


「恨むなとは言わない。忘れるな」


 俺は山の方を見た。


 白い岩壁が夕方の光で鈍く光っている。あの壁の下に古い穴がある。古い石がある。動くな。その断片だけが、今もたまに胸を締める。


 山は何も言わない。


 何も返さない。


「忘れない」


 俺は言った。


 ダリオの手が離れた。かわりに拳が差し出される。掌ではない。握手でもない。俺たちはそういう手の出し方をしない。


 拳を合わせた。


 骨と骨が硬く当たった。


「稼いでこい」


「残ってろ」


「言われなくても残る」


「橋を見ろ」


「俺は橋じゃなくて獣を見る」


「獣も橋を渡る」


「うるせえ」


 ダリオは背を向けた。


 見送りの形を作らない。俺も呼び止めない。ダリオの背中は岩の間へ入っていく。歩き方は相変わらず荒い。けれど今日は、足音が少し低かった。


 盾が背中で鳴った。


 その音に、ダリオは振り返らなかった。


──────────────────────────────


 出る前に尾根へ上がった。


 一人で行った。


 ダリオは下手にいる。コルヴは橋にいる。マルコは炉にいる。村長は紙と荷を見ている。ブランの妹の姿は見えない。見えない方がいい時もある。見えたら、俺は言葉を探してしまう。


 尾根への道は細い。


 石が露出し、土はところどころ凍っている。背中の盾が枝へ触れるたび、黒鋼が鈍く鳴った。鳥が一羽、針葉樹の奥で飛び立つ。羽音だけが聞こえた。


 石棚は三日前と同じ場所にあった。


 当たり前だ。


 だが石が増えたぶん、風の通りが少し違って見えた。白い岩の張り出し。三本の針葉樹。積まれた石。乾いた山羊乳の跡。酒が染みた暗いくぼみ。風に少し散った鉄粉。黒パンの小さな欠片。


 ブランの石はまだ新しい。


 触らなかった。


 触れば、許しをもらいに来たみたいになる。石は許すために積まれていない。死者も、山も、俺の用件を楽にするためにそこへいるわけじゃない。


 俺は革袋を出した。


 酒を一口ぶん、岩のくぼみへ落とす。酒は細い筋になり、白い石の上で広がった。黒パンを割り、欠片を置く。鉄粉を指先でつまみ、風に散りすぎない場所へ落とす。山羊の毛束を丸め、石の横へ挟んだ。


 手順は考えなくても動く。


 狩りの前。雪が深くなる前。子が生まれた時。誰かを尾根へ置いた時。山へ何かを頼むというより、自分が山のどこに立っているかを確かめる手つきだ。


 俺は膝をついた。


 盾は下ろさない。


 膝をつくと、黒鋼の重さが肩へ寄る。革帯が鎖骨を押す。腰が遅れて痛む。足裏の感覚が、岩の冷たさを拾った。


 風が吹いた。


 石棚の奥に古い石がある。


 誰の石か、俺は知っている。文字は削れている。供物も新しくない。だがその前を通る時、足が止まりかける。止まれば胸の奥で木が軋む。


 本当に鳴っているのは針葉樹だ。


 それでも耳の奥では、別の木が鳴った。暗い場所。湿った石。粉を吸った喉。足を動かそうとして動けない膝。動くなという声。


 俺は目を閉じなかった。


 閉じると暗くなる。暗くなれば声が近い。だから白い岩を見た。雪の薄い筋を見た。鉄粉が指の皺に残っているのを見た。


「借りていく」


 声は低く出た。


 誰へ言ったのかは分からない。


 山か。石か。ブランか。古い石の下の誰かか。村か。背中の黒鋼か。


 たぶん全部だ。


「村に要る」


 それ以上は言わなかった。


 祈ると、言葉が多くなる。誓うと、破れた時に石まで汚す。俺にできるのは用件を置くことだけだった。


 借りていく。


 村に要る。


 それで足りる。


 山から出た黒鋼を、村の外へ運ぶ。持ち去るわけではない。売るわけでもない。俺のものにするわけでもない。村が生きるために、しばらく背中へ預かる。


 立ち上がる。


 盾の重さが腰へ来た。膝が一瞬遅れる。足裏で岩を踏む。白い石は受けた。滑らない。靴底が岩肌へ噛む。


 尾根から村が見えた。


 石積みの家。細い煙。山羊小屋。鍛冶場。穀倉。石橋。水の筋。小さい村だ。外の町へ行けば、ロッカの名を知らない者の方が多いだろう。地図の端に乗るかどうかも怪しい。


 それでも俺の背中の盾は、その小ささより重かった。


 山は何も言わない。


 言わないから、こちらで頭を下げる。言わないから、こちらで持つ。言わないから、歩く足を間違えないようにする。


 俺は石棚へ頭を下げた。


 長くはない。


 深くもない。


 身体が覚えている角度だった。


 風が鉄粉を少し動かした。


 返事ではない。


 それでいい。


──────────────────────────────


 商隊は昼を少し過ぎて動き出した。


 荷馬の鈴が鳴る。革紐が軋む。塩の袋は一部が村へ降ろされた。粗麦も少し置かれた。薬草。釘。布。足りない。まるで足りない。


 だが何もないよりはましだ。


 村の入口には人が集まっていた。全員ではない。仕事を止められない者もいる。負傷者の家からは誰も出てこない。戸口の陰に誰かがいる気配はあった。見ると足が止まりそうで、見なかった。


 マルコは鍛冶場の前に立っていた。


 腕を組んでいる。何も言わない。炉の火は落ちているはずなのに、髭の端にはまだ煤がついていた。俺を見るというより、盾の収まりを見ている。最後まで鍛冶屋の目だ。


 コルヴは石橋の横にいた。


 橋の継ぎ目は朝よりましになっている。荒いが、噛んでいる。手には俺の古い手袋がある。片方の指先が破れ、赤い指が少し見えていた。


「ガイウス」


「何だ」


「見てる」


 何を、とは聞かなかった。


「落とすな」


「落とさない」


「落としたら拾え」


「分かってる」


「分かってない時ほど、そう言う」


 コルヴは怒りかけた。すぐに口を閉じる。


「拾う」


 その言い直しは悪くなかった。


 村長は外套の男と書付を確かめている。紙が畳まれ、革筒へ入る。俺の名もそこに入っている。紙の中の名は軽い。軽いものは風で飛ぶ。だが軽いものほど遠くへ運べる。


 ダリオは少し離れた岩の上にいた。


 手は振らない。弓も持っていない。腕を組み、こちらを見ている。目が合うと、顎を少し上げた。


 それだけだった。


 俺も顎を少し動かした。


 それで足りた。


「出るぞ」


 外套の男が言った。


 商隊の先頭が歩き出す。荷馬の蹄が石を叩く。鈴が一度高く鳴り、それから山道の音に混じる。


 俺も歩いた。


 最初の一歩で、盾が背中で鳴った。黒鋼の低い音。革帯が肩へ食い込み、鎖骨の上の皮を引く。腰が重さを受ける。足裏が土を押す。痛みは邪魔ではない。どこに荷があるかを知らせる道具だ。


 石橋を渡る。


 三日前、ここで追わなかった。今日はここから出る。逃げるためではない。追いかけるためだけでもない。残すために出る。村の腹へ塩を入れるために出る。傷口へ薬を置くために出る。


 橋の中央で足を止めた。


 振り返る。


 ロッカ村は白い岩壁の下にあった。家は小さい。煙は細い。山羊の鈴はもう遠い。針葉樹の黒い枝が、村の上に黙って立っている。尾根の石棚は見えない。見えない場所に名が積まれている。


 俺は山へ頭を下げた。


 長くはない。


 深くもない。


 身体に染みついた角度だった。


 外套の男が振り返る。


「何か忘れたか」


「いや」


 俺は頭を上げた。


「借りた」


 男には分からない。分からなくていい。男は聞き返さず、商隊の列へ顔を向けた。金の話をする人間に、石棚の言葉は重すぎる。


 山道へ入る。


 下りだ。石が滑る。荷馬が鼻を鳴らす。細い道の右手は白い岩で、左手は灌木の斜面だった。盾が枝へ当たり、低く鳴る。黒鋼の音は背骨を通って腹へ落ちた。


 村が少しずつ小さくなる。


 煙が糸になる。人の形が点になる。コルヴの手袋も見えなくなる。マルコの煤も、ダリオの顎も、村長の白い髭も、岩の影へ沈む。


 背中の盾は小さくならない。


 重さの中に黒鋼がある。ブランの鉄がある。マルコの槌がある。コルヴのまっすぐすぎる目がある。ダリオの拳がある。村の薄い粥がある。塩の足りない冬がある。山羊乳の白い跡がある。石棚の風がある。


 山に奪われたものがある。


 山から受け取ったものがある。


 どちらかだけを数えれば嘘になる。


 俺は歩いた。


 山は何も言わない。


 水を出し、鉄を出し、草を出すだけだ。泣きはしない。手も伸ばさない。だから俺は、肩で革帯を受け、腰で黒鋼を支え、足裏で石を踏んだ。


 盾が背中で鳴った。


 その音を聞きながら、俺は村の外へ下りていった。

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