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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
89/128

閑話休題:追わなかった葬列

 山は泣かねえ。


 泣きもしないし、色も変えない。人が死んだ朝でもそうだ。穀倉の戸に斧の跡が残った朝でも、グラニト北嶺の尾根は白かった。


 雪を被っているわけじゃない。岩そのものが白い。朝日を受ける前から冷たく光り、村の煙を見下ろしていた。針葉樹の枝には霜が残っていた。


 黒い針の先に細い氷がついている。風が吹くとそれが鳴った。澄んだ音ではない。歯を合わせた時みたいな硬い音だった。


 村の脇には雪解け水が走っていた。岩の割れ目から出て、石の溝を伝う。山羊の柵の下を抜けて谷へ落ちる。水は昨日の火も血も知らない顔で流れていた。


 ロッカ村は石で出来ている。家の壁。小径の縁。炉の土台。山羊小屋の囲い。子供が座る段差。どれも山から割り出した石だ。


 人の手で積んであるのに、遠くから見ると岩肌の一部に見える。そういう村だった。その村から、いつもより細い煙が上がっていた。火を入れられない家がある。


 火を入れる者が減った家もある。薪を惜しむだけならいい。炉の前に座るはずの背中が一つないと、煙の出方まで変わる。


 葬列は村の上手へ伸びていた。


 ブラン・オルタは布に巻かれていた。厚い毛織りの布だ。灰色で、端に赤い糸が一本だけ通っている。村の戦士を運ぶ時に使う布だった。


 布の上には革紐がかけられていた。古くて脂が抜けた紐だ。何人も運んだ紐だ。老人はそれを送り紐と呼ぶ。


 俺はその呼び方が嫌いだった。送らなかったから死ぬ時がある。送ったから残る時もある。送った背中が誰かを生かすこともある。


 山で生きるなら、それくらいは知っているはずだ。だが今日は誰も言わなかった。足音だけが続いた。石の小径に靴底が当たる。


 乾いた音が風の中を流れる。誰かの杖が石を突く。山羊が遠くで鳴く。干し草小屋の前を通ると、焦げた木の匂いが喉へ入ってきた。


 火は消えていた。それでも煤は残る。石壁に黒く張りつく。指でこすっても簡単には落ちない。熱を吸った針葉樹の枝も黒ずんでいた。


 昨夜の火が、朝の中にまだ手を出しているみたいだった。


 俺は担ぎ手ではなかった。ブランの母親の隣にもいなかった。俺は列の少し後ろを歩いた。横にはコルヴがいた。


 あいつは誓い石を抱えていた。両腕で、胸へ押しつけるように抱えていた。十五か十六か。背は伸び始めている。


 だが肩はまだ細い。骨と意地だけで石を持っている。歩くたびに腕が震えた。石の角が服に食い込んでいた。


「重いか」


 俺が聞くと、コルヴはすぐに首を振った。


「重くない」


 声は低く作っていた。だが最後が乱れた。石だけが重いわけじゃない。そういう声だった。


 俺は返事をしなかった。コルヴの肘の下へ手を入れた。石の重さが少しだけ俺の掌へ移る。コルヴは気づいた。


 唇を噛んだ。悔しそうだった。けれど俺の手を払わなかった。それでいい。今は落とさなきゃいい。


 村の上手へ向かう道は狭い。右は白い岩壁だ。左は灌木と雪の残った斜面だった。灌木の根元には山羊の毛が引っかかっていた。


 昨日の騒ぎで柵を飛んだ一頭が、あそこを擦って逃げたのだろう。春は来ていた。だが北嶺の春は軽い。日差しが石の上を撫でるだけだ。


 芯までは届かない。山羊乳は薄くなる。粗麦は数えながら使う。塩は次の商い待ちだ。黒い鉄は山の腹にある。


 炉にくべる石炭もある。だが鉄は食えない。


 グラウ谷も同じだった。だから灰谷衆は来た。それがわかることと、ブランが軽くなることは別だ。


 尾根へ出ると風が強くなった。


 石棚はそこにある。神殿じゃない。屋根はない。香を焚く箱もない。白い岩の張り出しに、平たい石がいくつも積まれているだけだ。


 近くには針葉樹が三本立っていた。根が岩を割って入っている。強い風のたびに幹が軋む。村で死んだ者の名は、そこに預ける。


 山へ返すとは言わない。山は返されても困るだろう。山は食う。割る。雪を落とす。水を出す。


 俺たちは山に願いを投げるほど偉くない。


 ただ預ける。名。骨。悔い。言えなかった言葉。手からこぼれた仕事。誰かの息の重さ。


 それらを石の下へ置いて、村へ戻る。石には文字が少ない。刻める者が少ないからだ。刻めても北の風は文字を削る。


 だが村の老人は知っている。どの石が誰で、どの石の下に何が預けられたのかを。


 マルコ・フェッリが膝をついた。鍛冶屋の親父は革袋を開けた。太い指で中を探り、鉄粉をひとつまみ取る。


 赤土を少し置く。黒パンの欠片を置く。山羊乳を岩の窪みに垂らす。獣脂を小さく削る。酒を一口ぶんだけ落とす。


 酒はすぐ岩へ染みた。風が匂いを持っていった。鉄粉の乾いた匂い。乳の薄い甘さ。脂の重さ。黒パンの酸っぱい匂い。


 ブランの母親は立っていた。誰かに支えられていた。だが膝は折れていなかった。北嶺の女はそういう立ち方をする。


 倒れたい時ほど、踵を石へ噛ませる。


 長老が名を呼んだ。


「ブラン・オルタ」


 風が名の終わりを削った。


「ロッカの戦士。谷を見た者。火を止めた者。残る強さを知る者」


 息を飲む音がした。


 ブランはいつでも前へ出る男じゃなかった。前へ出る時は出た。山道で熊と向かい合ったこともある。斧を持たせれば、太い枝を割るみたいに相手の膝を砕いた。


 だがあいつは、追うことだけを強さにしなかった。


 残れ。


 前にそう言ったことがある。背中で誰かが息をしているなら、追うな。追って勝つより、残って減らさない戦がある。


 俺はそれを覚えていた。覚えていたから、昨夜の橋で足が止まった。


 コルヴが誓い石を持ち上げた。両腕が震えていた。石は白と灰が混ざっている。尾根の岩から割れたものだろう。


 掌より大きい。角が荒い。まだ雨にも風にも馴染んでいない。マルコは受け取らなかった。顎で俺を示した。


 俺はコルヴから石を受け取った。冷たかった。水に浸していたみたいに芯まで冷えていた。石棚の空いたところへ積む。


 硬い音がした。


 ただ石が石に触れただけの音だ。けれどその瞬間、俺の後ろで誰かが泣いた。声はすぐ殺された。北嶺では大声で死者を呼ばない。


 声が雪を動かすと老人は言う。本当かどうかは知らない。ただ、山は大きい声を嫌う気がした。


 ブランの妹は列の端にいた。名前は知っている。だが心の中で呼ぶ気になれなかった。呼べば、ブランが戻らないことまで輪郭を持つ。


 彼女は泣いていなかった。目の下だけが赤い。髪は布でまとめてあるが、こめかみのあたりがほどけて頬へ張りついていた。


 昨夜は負傷者の手当てをしていた。袖は替えてある。だが爪の間に黒い汚れが残っていた。血か煤か。たぶん両方だ。


 その目が俺を見た。責める言葉はなかった。何で追わなかったとも言わない。兄を返せとも言わない。ありがとうとも言わない。


 ただ見た。


 俺は何も返せなかった。追えばよかったのか。追っていれば、灰色の外套の男に斧を届かせられたかもしれない。


 背を割れたかもしれない。残りの連中が散ったかもしれない。しばらくは来なかったかもしれない。


 だが橋のこちらには負傷者がいた。子供がいた。穀倉があった。一つの息で選べるものは、一つだけだった。


 ブランの妹は何も言わなかった。その沈黙が、一番深く刺さった。


──────────────────────────────


 尾根を下りる途中で声が割れた。


「追えば終わった」


 若い戦士の声だった。昨夜、腕を切られていた。布が巻かれている。深い傷じゃない。だが血の出る傷は、口の中まで熱くする。


「あの頭を逃がした。また来るぞ」


「追ってたら穀倉が焼けてた」


 女が返した。幼い子を抱えている。あの子は昨夜、橋のこちら側にいた。今は母親の胸へ顔を埋めている。


 寝ているのか、力が抜けただけなのかわからない。


「ブランは死んだ」


「ブランだけじゃない」


「だから潰すんだろ」


「橋を抜かれたら、ここにいる半分は石棚だ」


 風より薄い声で、言葉が擦れた。どちらも外れていない。だから面倒だ。


 俺は歩いた。弁解しなかった。問われても頷かなかった。責められても振り向かなかった。黙っていると腹を立てる奴がいる。


 それはわかっている。だが口を開けば、俺が守った命を数えることになる。それはしたくなかった。


 子供三人。負傷者。粗麦の袋。豆の袋。塩。そんなふうに並べたら、ブランの名まで秤に乗る。


 そんなことはできない。


 コルヴが横で歩幅を上げた。


「ガイウス」


「何だ」


「昨日、俺も橋へ行けた」


「来るなと言った」


「けど」


「来るなと言った」


 二度目は低くなった。


 コルヴは唇を閉じた。喉が上下している。怒っている。悔しがっている。たぶん、自分の腕の細さにも腹を立てている。


「お前が来てたら、俺はお前を守る」


 俺はそれだけ言った。コルヴは黙った。それでいい。言葉は優しさじゃない。杭だ。次に同じような夜が来た時、あいつの足を止めるための杭だ。


 村へ下りる道から石橋が見えた。穀倉前の橋だ。荷車一台が通るだけの幅しかない。谷水を渡すための橋で、石の土台に木を噛ませてある。


 昨夜は縁が焼けた。今は焦げた板が外され、濡れた布が掛けられている。橋の向こうに穀倉がある。扉には斧痕が残っていた。


 板がささくれている。鉄の帯が歪んでいる。あの扉に手を当てて押さえた感触が、まだ掌にあった。熱。震え。木目の裂け。


 木が軋む音がした。実際には、下で誰かが焼けた梁を動かしただけだ。わかっている。わかっていても足が一拍遅れた。


 暗い場所で木が鳴る。石の粉が舌に乗る。息が薄くなる。


 動くな。


 どこかでそう聞こえた気がした。俺は奥歯を噛んだ。息を吐く。冷たい空気が胸へ刺さる。


 ここは穴の中じゃない。頭の上には岩の腹がない。白い空がある。針葉樹の先が揺れている。


「ガイウス」


 コルヴが見上げていた。


「何でもない」


 俺は歩いた。橋の方は見なかった。見なくても、足の裏が覚えていた。


──────────────────────────────


 昨夜、灰谷衆は西の尾根から来た。


 雪解けの時期は足跡が残る。普通なら見つけられる。だが連中は羊道を使った。山羊の足跡と人の足跡を混ぜる。


 石の上を踏む。草の寝る向きをずらさない。あとでダリオが舌打ちしていた。


 飢えた谷の連中でも、山を知らないわけじゃない。知らなければここまで来られない。来たからには、あいつらも同じ山に削られている。


 最初に焼けたのは干し草小屋だった。火は目印だ。村人の目をそちらへ寄せる。騒ぎで足を乱す。


 その間に反対側から穀倉へ入る。単純だ。単純なものは効く。冬越し前の村なら、穀倉に火が回るだけで腹が終わる。


 飢えは剣より長く人を殺す。


 俺は石橋にいた。持っていた盾は古い盾だった。今のような重い鉄はない。木を張り、縁だけを鉄で巻いた父の代からの盾だ。


 小さい。軽い。頼りない。だが手にあるものはそれだけだった。腰には斧がある。左肩には切り傷がある。


 右手の甲は誰かの歯で裂けている。口の中には煙と土の味があった。


 灰谷衆が五人、橋へ来た。その奥で、灰色の外套の男が振り返った。細い男だった。頬が落ちていた。


 目だけが明るかった。穀倉の戸が破れないと見るなり、あいつは手勢を残して尾根へ戻った。逃げる足は速い。


 俺なら追えた。追いつけば、背中に斧を入れられた。


 足が動きかけた。その時、背後で子供が息を吸った。泣いたんじゃない。泣く力もなかったのだろう。


 干した革が裂けるみたいな、小さく乾いた音だ。


 穀倉の横の石壁に負傷者が寄せられていた。腕の折れた女がいる。腹を押さえた老人がいる。目を開けたまま座り込んだ若いのがいる。


 顔に煤をつけた子供がいる。ブランもそこにいた。まだ息はあった。肩から胸まで血で濡れていた。


 斧の柄を握ったまま、俺を見ていた。


 行けとは言わない。残れとも言わない。ブランは言葉を使わなかった。あいつは俺へ仕事を残した。


 橋の下で木が鳴った。


 ぎしり。


 小さい音だ。それなのに背中を冷たいものが這った。暗い梁。割れる支柱。喉の奥を削る石の粉。背の上に落ちる重さ。


 動くな。


 声が骨の内側で鳴った。俺は足を止めた。灰色の外套は灌木へ消えた。


 橋のこちらへ、灰谷衆の一人が突っ込んできた。手斧を持っている。目は血走っている。殺しを楽しむ目じゃない。


 食うために殺す目だ。腹が空いた人間の目は、獣より始末が悪い。


「退け」


 そいつが言った。


「嫌だ」


 俺は盾を前へ出した。手斧が盾に食い込む。木が割れる。縁の鉄が鳴る。


 俺は盾ごと押した。相手の肩が妙な音を立てた。二人目が脇から入った。斧を抜く暇はない。


 俺は頭を振って、額でそいつの鼻を潰した。骨の砕ける感触が眉に残る。血が飛んだ。


 三人目が火のついた布を穀倉へ投げようとしていた。


「立て」


 足を踏み込んだ。言葉は短い。祈りではない。山へ向けて飾る暇もない。


 腹の底から、足の下へ言っただけだ。


 石橋の手前で土が盛り上がった。きれいな壁ではない。濡れた土と石が、獣の背中みたいに起き上がっただけだ。


 火の布はそこに落ちた。湿った土に吸われ、煙を細く上げて消えた。


 四人目が叫んだ。俺はそいつの喉を掴んだ。細かった。俺も若かった。今より軽かった。


 だがそいつよりは重い。橋板へ押しつけると、背中の下で木が鳴った。


 ぎしり。


 またあの音だ。


 動くな。


 俺は動かなかった。潰すのではなく塞いだ。追うのではなく残った。斧を振る代わりに、そこにいることを選んだ。


 灰色の外套の男は逃げた。ブランは夜明け前に死んだ。穀倉は焼けなかった。子供は三人、生きている。


 それが全部だ。


 どれか一つをやり直せと言われたら、俺はたぶん同じ足を置く。同じ場所で止まる。同じ顔で葬列を歩く。


 そういう重さもある。背負うと言えば、きれいすぎる。腹の奥に沈んで、歩くたびに少しずつ動く重さだ。


──────────────────────────────


 夕方まで村は片づかなかった。


 葬列が終わっても、死者の仕事は終わらない。生きている奴らの手が足りなくなるだけだ。焼けた梁を外す。穀倉の戸へ仮板を打つ。


 血のついた雪を削る。谷へ落とす。負傷者には湯がいる。子供には粥がいる。山羊には柵がいる。


 二頭の山羊が昨日の騒ぎで斜面へ逃げていた。山羊は利口だ。火と血の匂いがすれば、人間より早く足を使う。


 ダリオはそれを追いに行った。


「山羊の方が判断が早え」


 そう言って笑いもしなかった。獣皮の外套を揺らし、雪の残る斜面へ上がっていった。あいつの足は岩場に強い。


 靴底が石を掴む。村の道より、斜面の方が似合う男だ。


 俺は穀倉にいた。扉の前でマルコが板を押さえている。俺は釘を打った。槌を振るたび肩の傷が引きつる。


 痛みはある。だが腕は動く。なら問題じゃない。


 穀倉の中を見た。粗麦の袋が十七。乾いた豆の袋が四つ。塩袋が半分。獣脂の樽が二つ。


 春の商いが来るまで持つかは、口の数と雪の具合で変わる。


「灰谷はもっと空なんだろうな」


 俺が言うと、マルコは釘箱へ手を入れた。


「空だから来た」


「また来るか」


「腹が減れば来る」


 それだけだった。


 腹が減れば人は尾根を越える。知らない家の戸を蹴る。子供の粥へ手を伸ばす。灰谷衆は化け物じゃない。


 山に削られた人間だ。だからといって通す理由にはならない。


 マルコは戸板を叩いた。音が薄い。


「弱い」


「内側にもう一枚入れる」


「木が足りん」


「干し草小屋から取る」


「焦げてるぞ」


「焦げてても板だ」


 マルコは俺を見た。何か言いかけてやめた。鍛冶屋は余計な言葉を火に入れない。熱しすぎれば、鉄も言葉も曲がりすぎる。


 穀倉の外では女たちが粥を配っていた。


 ブランの妹もそこにいた。葬列の時とは違う目をしている。手元だけを見る目だ。鍋から粥をすくう。


 木椀へ移す。子供へ渡す。子供は椀を抱え、熱さに眉を寄せながら飲む。


 あの子は昨夜、俺の背後にいた。生きている。


 ブランの妹は次の椀を取った。一度だけ俺を見た。また何も言わなかった。責められれば、まだ受けられたかもしれない。


 礼を言われれば、もっと困ったはずだ。彼女はどちらも選ばず、薄い粥を渡し続けた。


 兄が死んだ日の夕方だ。兄を失った家の娘が、兄の死で残った子供へ粥を渡している。


 俺は釘を深く打ちすぎた。板が割れた。


「力を捨てろ」


 マルコが言った。


「釘は相手じゃない」


「わかってる」


「わかってない音だ」


 俺は釘抜きを取った。割れた板を外す。やり直しだ。戦場ではやり直せないことが多い。板ならまだやれる。


 コルヴが水桶を運んできた。歩き方が悪い。腕だけで持っている。桶の水が跳ね、靴を濡らしていた。


 顔が強ばっている。誓い石を運んだ疲れだけじゃない。泣けないものの重さもある。


「そこに置け」


 俺が言うと、コルヴは穀倉の奥へ運ぼうとした。意地になった顔だった。


「そこだ」


 低く言った。コルヴは足を止めた。桶を置く。水面が揺れ、夕方の光を細く映した。


「俺も戦える」


「まだだ」


「昨日は戦った」


「違う」


「斧を持った」


「斧を持つのと戦うのは違う」


 コルヴの頬が赤くなった。俺は板を外しながら言った。


「昨日お前が橋に来てたら、俺はお前を下げる」


「俺は子供じゃない」


「子供扱いが嫌なら、言われた場所に立て」


 コルヴは黙った。言いすぎる前に俺も黙った。


 戦いたい気持ちはわかる。大きくなりかけの身体は、いつも前へ行きたがる。腕に少し力がつくと、自分が何かを変えられる気がする。


 変えられないものの方が多いと知るまで、人はだいたい前へ出たがる。俺もそうだった。だが力は前へ出るためだけにあるわけじゃない。


 それを俺は言葉で習っていない。石と木と血で覚えた。


 また木が鳴った。一瞬だけ、暗い場所の匂いが鼻の奥を擦った。俺は息を吐き、釘を選び直した。


 短い釘ではない。太くて少し曲がった釘を取る。まっすぐな釘がいつでも一番強いわけじゃない。曲がった釘は、噛む場所を間違えなければ抜けにくい。


「見てろ」


 コルヴに言った。あいつは顔を上げた。


「槌は真上から入れる。だが板は真上に受けない。木目を見ろ。割れたがる方へ力が逃げる」


 打つ。今度は割れなかった。


 コルヴはじっと見ていた。目は赤い。だが呼吸はさっきより落ちていた。


「戦も同じだ」


 言ったあとで少し苦くなった。俺が教えられるほどわかっているのか、自分でも怪しかった。それでもコルヴは頷いた。


 軽い頷きではなかった。


 日が落ちかける頃、ブランの斧が家から運び出された。


 母親ではない。妹が持っていた。柄は長い。刃は欠けている。女の腕には重いはずだ。


 それでも彼女は両手で抱え、鍛冶場へ歩いた。途中で誰かが手を貸そうとした。彼女は首を振った。


 俺は穀倉の戸口から見ていた。彼女は鍛冶場の前で止まり、マルコへ斧を渡した。何か短く言った。


 風がさらって、俺には聞こえなかった。マルコは斧を受け取り、頭を下げた。


 斧は石棚へ積まれない。斧は腹を満たさない。だが鉄は残る。


 その時の俺は、残った鉄が何になるのか知らなかった。ただ刃の欠けを見て、ブランが最後まで握っていたことだけはわかった。


 それで十分ではなかった。十分じゃないものばかりが、ロッカの夕方には残っていた。


──────────────────────────────


 夜になっても村は眠らなかった。


 眠れるはずがない。負傷者の呻きが石壁に当たり、家から家へ薄く伝わる。炉の火を落とす家は少なかった。


 炭を惜しむ村でも、今夜だけは暗くするのが怖い。


 俺は薪小屋の裏にいた。山羊革を張った桶で手を洗っていた。爪の間の黒いものが落ちない。


 水は雪解けで、骨まで刺してくる。右手の甲の裂け目が開き、また血がにじんだ。


「洗いすぎだ」


 ダリオ・ヴァルカの声がした。


 振り向くと、そいつは獣皮の外套を肩に掛けて立っていた。片手には酒瓶がある。背は俺とそう変わらない。


 俺より細く見えるが、見えるだけだ。ダリオの身体は山道用だ。太い胸板。硬い腕。長く走れる脚。罠縄を引く背中。


 俺が正面で止める身体なら、あいつは斜面を横へ抜ける身体だ。


「落ちない」


 俺は言った。


「落ちると思うな」


 ダリオは瓶を掲げた。


「飲むぞ」


「気分じゃない」


「気分で飲ませに来てない」


 瓶を俺の胸へ押しつけてきた。乱暴だ。昔からそうだった。慰めの形をしていない。たぶん本人も慰める気はない。


 俺は瓶を受け取った。口をつける。山の酒だった。強い。喉が焼ける。空の腹へ落ちて、熱だけが残った。


「死んだ奴の話をしたか」


 ダリオが聞いた。


「誰と」


「誰でもいい」


「してない」


「だろうな」


 ダリオは薪小屋の戸を蹴って開けた。


 中は狭い。壁には獣皮が掛かっている。床には藁と古い布が積んである。炉はない。だが隣の鍛冶場から残り火の匂いが流れていた。


 戸を閉めれば、外よりはましだ。


「入れ」


「命令すんな」


「じゃあそこで凍れ」


 俺は舌打ちして中に入った。


 ダリオは戸を閉め、瓶を奪い返して飲んだ。口元を拭かない。酒が髭に残って光った。


「お前が追ってりゃ、灰色の奴は死んだ」


「ああ」


「追わなかったから、穀倉は残った」


「ああ」


「どっちも本当だ」


「知ってる」


「知ってる顔じゃない」


 ダリオが近づいた。


 俺は壁を背にした。逃げ場はない。だが逃げる気もなかった。ダリオの目は昼の誰の目とも違っていた。


 責めていない。庇ってもいない。生きているかを見ている。


「また黙って背負った顔してやがる」


 胸の奥が鈍く鳴った。ダリオは気づいたかもしれない。たぶん気づいた。こいつは気づいても、そこを言葉でほじらない男だ。


「俺は俺の顔だ」


「そうだよ」


 ダリオは笑わなかった。


 いきなり胸を叩かれた。拳ではない。だが軽くもない。厚い手が俺の胸板へ入り、乾いた音がした。


「息はあるな」


「ある」


 もう一度叩かれた。


「立ってるな」


「見りゃわかる」


「わからん時がある」


 声が少し低くなった。俺は瓶を奪って飲んだ。返す前に、ダリオが俺の手首を掴んだ。


 指が太い。弓弦と罠縄で硬くなった手だ。俺も掴み返した。骨の上へ指を沈める。


 止めるなら止められる。押し返すなら押し返せる。止めなかった。


 ダリオの身体が寄った。胸がぶつかる。腰がぶつかる。互いの重さで床板が鳴る。獣皮が肩へ触れた。


 乾いた毛の匂いが立つ。酒。血。汗。冷えた夜。


「嫌なら押せ」


 ダリオが言った。俺は手首を握ったまま、少し押した。押し返された。それで足りた。


 口を塞がれた。


 優しいものではない。歯が当たる。息の熱が移る。喉が詰まる。俺はダリオの肩を掴み、壁へ叩きつけた。


 壁板が鳴った。ダリオは喉で短く笑うような音を出した。俺の首筋に歯が当たる。痛みが来た。


 生きている痛みだった。


 俺はダリオの背中へ手を回した。厚い背中だ。掌が沈み、そこから獣みたいな力が返ってくる。ダリオの膝が俺の脚を押す。


 床板がまた鳴る。手が肩へ上がった。そこで一瞬止まった。確かめるみたいに力が抜ける。


 それから腰へ下りた。帯の上からだった。布越しの掌が、熱のある場所を探るみたいに押し当てられる。そこに手順はなかった。獣が傷の下でまだ息をしているかを嗅ぐような、乱暴な確認だけがあった。


 俺はその手首を掴んだ。止められた。止めなかった。


「生きてるな」


 ダリオが首筋で言った。


「しつけえ」


「答えろ」


 俺はダリオの胸を叩いた。さっきより強く。拳が肉に沈み、骨へ届く手前で止まる。


「お前もだ」


 ダリオの息が荒くなった。


 それから言葉は減った。瓶が倒れた。床へ酒の輪が広がる。獣皮が落ちる。肩の傷が開き、温かい血が冷えた肌を伝った。


 ダリオの顔が近い。額が当たる。血と酒の匂いが濃くなる。


 何度か壁へぶつかった。殴った。掴んだ。噛んだ。手を握った。


 指の骨が痛むほど強く握った。痛みで、今ここに身体があることがわかった。石棚へ置かれていないものだとわかった。


 まだ冷たい石の下へ預けられていないものだとわかった。


 慰めではなかった。慰めならもっと柔らかい。これは違う。


 俺たちは生き残ったことに腹を立てていた。生き残った身体がまだ熱を持っていることを、互いに叩いて確かめていた。ダリオの重さが来る。


 俺は返す。床板が鳴る。藁が潰れる。山の夜は冷えたままなのに、小屋の中だけが暑かった。


 外で風が針葉樹を鳴らした。屋根の端から雪解け水が落ちる音がする。遠くで山羊が一度鳴いた。村のどこかで負傷者が呻いた。


 時間はうまく繋がっていない。ただ、ダリオの歯が俺の肩の縁に当たったことは覚えている。傷ではない方の肩だった。


 痛みではない。確かめる動きだった。


 生きている。


 まだここにいる。


 俺の手はダリオの背中にあった。離さなかった。


──────────────────────────────


 朝になる前に目が覚めた。


 炉はない。だから火の消えた匂いはしないはずだった。それでも鼻の奥には灰が残っていた。隣の鍛冶場から流れてきたのか、髪や肌についたものかはわからない。


 床に倒れた瓶は空ではなかった。酒の輪は乾きかけていた。獣皮は半分だけ俺の腰に掛かっていた。


 肩が重い。首筋がひりつく。胸には鈍い痛みがある。昨日の傷とは違う。掌と拳の形をした痛みだ。どちらのものか分からない体液が、未だに肌の上に薄く残っていた。


 ダリオは背を向けて寝ていた。広い背中だった。肩甲骨のあたりに古い傷が二本ある。熊にやられたと聞いたことがある。


 本人は猪だと言い張っていた。どちらでもいい。生きている傷だ。


 俺は身体を起こした。藁が落ちる。冷気が肌へ戻る。小屋の隙間から薄い朝が入っていた。


 ダリオが目を閉じたまま言った。


「行くのか」


「斧を見る」


「ブランのか」


「ああ」


「勝手に背負うなよ」


 俺は答えなかった。


 ダリオもそれ以上は言わなかった。代わりに片手を後ろへ伸ばしてきた。指先に乾いた血がついている。


 俺の血か、あいつの血か、昨日の誰かの血かわからない。


 その手を握った。短く。すぐ離した。


 外へ出ると尾根が白み始めていた。ロッカ村の朝は昨日と同じように冷たい。石積みの家から煙が上がり始めている。


 誰かが山羊を小屋から出す。誰かが負傷者の水を汲みに行く。石の小径で桶が鳴る。


 葬列の後でも村は腹を空かせる。炉には薪が要る。子供には粥が要る。怪我人には布が要る。穀倉には板が要る。


 死者の名を石棚へ預けても、生きている者の仕事は減らない。


 鍛冶場の前にマルコがいた。太い腕を組み、戸口に立っていた。俺を見ると何も言わず、中を顎で示した。


 鍛冶場の奥にブランの斧が置かれていた。柄は黒く焦げている。刃には欠けがある。最後まで使われた痕だ。


 斧は死者と一緒に積まれない。家へ残る。手が使えなくなれば、鉄として残る。ロッカではそうする。


 武器は名を持たない。だが鉄には手の癖が残る。握った者の重さが、柄の曲がりや刃の擦れに残る。


 俺は斧の前に立った。触れなかった。まだ触るものではない気がした。


 マルコが低く言った。


「折れてない」


 斧のことか、俺のことかわからなかった。


「欠けてる」


 俺は言った。


「欠けた鉄は、混ぜれば粘る」


 マルコはそれだけ言って炉の方へ歩いた。火はまだ起きていない。黒い炭が、朝の薄明かりの中で眠っていた。


 外でコルヴの声がした。薪を落としたらしい。まだ下手だ。腕だけで持つから落とす。


 胸で持てと言えば、たぶん反発する。あとで言う。


 俺はブランの斧を見た。尾根の上には石が一つ増えた。穀倉は残った。灰色の外套の男は逃げた。


 俺の首筋には噛み跡がある。どれも朝の光では消えなかった。


 ブランの斧は、まだ盾の形をしていない。だが鉄はそこにあった。


 鍛冶場の外へ出ると、朝の空気が肺を刺した。石棚は村から見えない。見えない所にあるから、預けたものを毎日数えずに済む。


 だが風の向きが変わると、白い岩の冷たさだけが村まで下りてくる気がした。


 コルヴが薪を抱え直していた。今度は腕だけではない。胸で支えている。まだ下手だ。だが落としてはいない。


 俺は声をかけなかった。ダリオも出てこなかった。


 村の誰かが粥を煮始めた。薄い匂いが小径へ流れる。腹は膨れない。それでも生きている奴は食う。


 食って、板を打つ。山羊を追う。橋を直す。泣けないなら、手を動かす。


 ブランの斧の欠けた刃が、目の奥に残っていた。


 追わなかったことは、昨日で終わらない。


 残ったものを今日も守らなきゃならない。


 山は泣かねえ。


 だから泣かないものの代わりに、誰かが立つしかない。


 その時の俺はまだ、それを盾と呼ぶことを知らなかった。


 ただ足の裏だけが、もう場所を覚えていた。


 逃げるためではなく。


 送るためでもなく。


 残るために踏みしめる場所を。

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