閑話休題:追わなかった葬列
山は泣かねえ。
泣きもしないし、色も変えない。人が死んだ朝でもそうだ。穀倉の戸に斧の跡が残った朝でも、グラニト北嶺の尾根は白かった。
雪を被っているわけじゃない。岩そのものが白い。朝日を受ける前から冷たく光り、村の煙を見下ろしていた。針葉樹の枝には霜が残っていた。
黒い針の先に細い氷がついている。風が吹くとそれが鳴った。澄んだ音ではない。歯を合わせた時みたいな硬い音だった。
村の脇には雪解け水が走っていた。岩の割れ目から出て、石の溝を伝う。山羊の柵の下を抜けて谷へ落ちる。水は昨日の火も血も知らない顔で流れていた。
ロッカ村は石で出来ている。家の壁。小径の縁。炉の土台。山羊小屋の囲い。子供が座る段差。どれも山から割り出した石だ。
人の手で積んであるのに、遠くから見ると岩肌の一部に見える。そういう村だった。その村から、いつもより細い煙が上がっていた。火を入れられない家がある。
火を入れる者が減った家もある。薪を惜しむだけならいい。炉の前に座るはずの背中が一つないと、煙の出方まで変わる。
葬列は村の上手へ伸びていた。
ブラン・オルタは布に巻かれていた。厚い毛織りの布だ。灰色で、端に赤い糸が一本だけ通っている。村の戦士を運ぶ時に使う布だった。
布の上には革紐がかけられていた。古くて脂が抜けた紐だ。何人も運んだ紐だ。老人はそれを送り紐と呼ぶ。
俺はその呼び方が嫌いだった。送らなかったから死ぬ時がある。送ったから残る時もある。送った背中が誰かを生かすこともある。
山で生きるなら、それくらいは知っているはずだ。だが今日は誰も言わなかった。足音だけが続いた。石の小径に靴底が当たる。
乾いた音が風の中を流れる。誰かの杖が石を突く。山羊が遠くで鳴く。干し草小屋の前を通ると、焦げた木の匂いが喉へ入ってきた。
火は消えていた。それでも煤は残る。石壁に黒く張りつく。指でこすっても簡単には落ちない。熱を吸った針葉樹の枝も黒ずんでいた。
昨夜の火が、朝の中にまだ手を出しているみたいだった。
俺は担ぎ手ではなかった。ブランの母親の隣にもいなかった。俺は列の少し後ろを歩いた。横にはコルヴがいた。
あいつは誓い石を抱えていた。両腕で、胸へ押しつけるように抱えていた。十五か十六か。背は伸び始めている。
だが肩はまだ細い。骨と意地だけで石を持っている。歩くたびに腕が震えた。石の角が服に食い込んでいた。
「重いか」
俺が聞くと、コルヴはすぐに首を振った。
「重くない」
声は低く作っていた。だが最後が乱れた。石だけが重いわけじゃない。そういう声だった。
俺は返事をしなかった。コルヴの肘の下へ手を入れた。石の重さが少しだけ俺の掌へ移る。コルヴは気づいた。
唇を噛んだ。悔しそうだった。けれど俺の手を払わなかった。それでいい。今は落とさなきゃいい。
村の上手へ向かう道は狭い。右は白い岩壁だ。左は灌木と雪の残った斜面だった。灌木の根元には山羊の毛が引っかかっていた。
昨日の騒ぎで柵を飛んだ一頭が、あそこを擦って逃げたのだろう。春は来ていた。だが北嶺の春は軽い。日差しが石の上を撫でるだけだ。
芯までは届かない。山羊乳は薄くなる。粗麦は数えながら使う。塩は次の商い待ちだ。黒い鉄は山の腹にある。
炉にくべる石炭もある。だが鉄は食えない。
グラウ谷も同じだった。だから灰谷衆は来た。それがわかることと、ブランが軽くなることは別だ。
尾根へ出ると風が強くなった。
石棚はそこにある。神殿じゃない。屋根はない。香を焚く箱もない。白い岩の張り出しに、平たい石がいくつも積まれているだけだ。
近くには針葉樹が三本立っていた。根が岩を割って入っている。強い風のたびに幹が軋む。村で死んだ者の名は、そこに預ける。
山へ返すとは言わない。山は返されても困るだろう。山は食う。割る。雪を落とす。水を出す。
俺たちは山に願いを投げるほど偉くない。
ただ預ける。名。骨。悔い。言えなかった言葉。手からこぼれた仕事。誰かの息の重さ。
それらを石の下へ置いて、村へ戻る。石には文字が少ない。刻める者が少ないからだ。刻めても北の風は文字を削る。
だが村の老人は知っている。どの石が誰で、どの石の下に何が預けられたのかを。
マルコ・フェッリが膝をついた。鍛冶屋の親父は革袋を開けた。太い指で中を探り、鉄粉をひとつまみ取る。
赤土を少し置く。黒パンの欠片を置く。山羊乳を岩の窪みに垂らす。獣脂を小さく削る。酒を一口ぶんだけ落とす。
酒はすぐ岩へ染みた。風が匂いを持っていった。鉄粉の乾いた匂い。乳の薄い甘さ。脂の重さ。黒パンの酸っぱい匂い。
ブランの母親は立っていた。誰かに支えられていた。だが膝は折れていなかった。北嶺の女はそういう立ち方をする。
倒れたい時ほど、踵を石へ噛ませる。
長老が名を呼んだ。
「ブラン・オルタ」
風が名の終わりを削った。
「ロッカの戦士。谷を見た者。火を止めた者。残る強さを知る者」
息を飲む音がした。
ブランはいつでも前へ出る男じゃなかった。前へ出る時は出た。山道で熊と向かい合ったこともある。斧を持たせれば、太い枝を割るみたいに相手の膝を砕いた。
だがあいつは、追うことだけを強さにしなかった。
残れ。
前にそう言ったことがある。背中で誰かが息をしているなら、追うな。追って勝つより、残って減らさない戦がある。
俺はそれを覚えていた。覚えていたから、昨夜の橋で足が止まった。
コルヴが誓い石を持ち上げた。両腕が震えていた。石は白と灰が混ざっている。尾根の岩から割れたものだろう。
掌より大きい。角が荒い。まだ雨にも風にも馴染んでいない。マルコは受け取らなかった。顎で俺を示した。
俺はコルヴから石を受け取った。冷たかった。水に浸していたみたいに芯まで冷えていた。石棚の空いたところへ積む。
硬い音がした。
ただ石が石に触れただけの音だ。けれどその瞬間、俺の後ろで誰かが泣いた。声はすぐ殺された。北嶺では大声で死者を呼ばない。
声が雪を動かすと老人は言う。本当かどうかは知らない。ただ、山は大きい声を嫌う気がした。
ブランの妹は列の端にいた。名前は知っている。だが心の中で呼ぶ気になれなかった。呼べば、ブランが戻らないことまで輪郭を持つ。
彼女は泣いていなかった。目の下だけが赤い。髪は布でまとめてあるが、こめかみのあたりがほどけて頬へ張りついていた。
昨夜は負傷者の手当てをしていた。袖は替えてある。だが爪の間に黒い汚れが残っていた。血か煤か。たぶん両方だ。
その目が俺を見た。責める言葉はなかった。何で追わなかったとも言わない。兄を返せとも言わない。ありがとうとも言わない。
ただ見た。
俺は何も返せなかった。追えばよかったのか。追っていれば、灰色の外套の男に斧を届かせられたかもしれない。
背を割れたかもしれない。残りの連中が散ったかもしれない。しばらくは来なかったかもしれない。
だが橋のこちらには負傷者がいた。子供がいた。穀倉があった。一つの息で選べるものは、一つだけだった。
ブランの妹は何も言わなかった。その沈黙が、一番深く刺さった。
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尾根を下りる途中で声が割れた。
「追えば終わった」
若い戦士の声だった。昨夜、腕を切られていた。布が巻かれている。深い傷じゃない。だが血の出る傷は、口の中まで熱くする。
「あの頭を逃がした。また来るぞ」
「追ってたら穀倉が焼けてた」
女が返した。幼い子を抱えている。あの子は昨夜、橋のこちら側にいた。今は母親の胸へ顔を埋めている。
寝ているのか、力が抜けただけなのかわからない。
「ブランは死んだ」
「ブランだけじゃない」
「だから潰すんだろ」
「橋を抜かれたら、ここにいる半分は石棚だ」
風より薄い声で、言葉が擦れた。どちらも外れていない。だから面倒だ。
俺は歩いた。弁解しなかった。問われても頷かなかった。責められても振り向かなかった。黙っていると腹を立てる奴がいる。
それはわかっている。だが口を開けば、俺が守った命を数えることになる。それはしたくなかった。
子供三人。負傷者。粗麦の袋。豆の袋。塩。そんなふうに並べたら、ブランの名まで秤に乗る。
そんなことはできない。
コルヴが横で歩幅を上げた。
「ガイウス」
「何だ」
「昨日、俺も橋へ行けた」
「来るなと言った」
「けど」
「来るなと言った」
二度目は低くなった。
コルヴは唇を閉じた。喉が上下している。怒っている。悔しがっている。たぶん、自分の腕の細さにも腹を立てている。
「お前が来てたら、俺はお前を守る」
俺はそれだけ言った。コルヴは黙った。それでいい。言葉は優しさじゃない。杭だ。次に同じような夜が来た時、あいつの足を止めるための杭だ。
村へ下りる道から石橋が見えた。穀倉前の橋だ。荷車一台が通るだけの幅しかない。谷水を渡すための橋で、石の土台に木を噛ませてある。
昨夜は縁が焼けた。今は焦げた板が外され、濡れた布が掛けられている。橋の向こうに穀倉がある。扉には斧痕が残っていた。
板がささくれている。鉄の帯が歪んでいる。あの扉に手を当てて押さえた感触が、まだ掌にあった。熱。震え。木目の裂け。
木が軋む音がした。実際には、下で誰かが焼けた梁を動かしただけだ。わかっている。わかっていても足が一拍遅れた。
暗い場所で木が鳴る。石の粉が舌に乗る。息が薄くなる。
動くな。
どこかでそう聞こえた気がした。俺は奥歯を噛んだ。息を吐く。冷たい空気が胸へ刺さる。
ここは穴の中じゃない。頭の上には岩の腹がない。白い空がある。針葉樹の先が揺れている。
「ガイウス」
コルヴが見上げていた。
「何でもない」
俺は歩いた。橋の方は見なかった。見なくても、足の裏が覚えていた。
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昨夜、灰谷衆は西の尾根から来た。
雪解けの時期は足跡が残る。普通なら見つけられる。だが連中は羊道を使った。山羊の足跡と人の足跡を混ぜる。
石の上を踏む。草の寝る向きをずらさない。あとでダリオが舌打ちしていた。
飢えた谷の連中でも、山を知らないわけじゃない。知らなければここまで来られない。来たからには、あいつらも同じ山に削られている。
最初に焼けたのは干し草小屋だった。火は目印だ。村人の目をそちらへ寄せる。騒ぎで足を乱す。
その間に反対側から穀倉へ入る。単純だ。単純なものは効く。冬越し前の村なら、穀倉に火が回るだけで腹が終わる。
飢えは剣より長く人を殺す。
俺は石橋にいた。持っていた盾は古い盾だった。今のような重い鉄はない。木を張り、縁だけを鉄で巻いた父の代からの盾だ。
小さい。軽い。頼りない。だが手にあるものはそれだけだった。腰には斧がある。左肩には切り傷がある。
右手の甲は誰かの歯で裂けている。口の中には煙と土の味があった。
灰谷衆が五人、橋へ来た。その奥で、灰色の外套の男が振り返った。細い男だった。頬が落ちていた。
目だけが明るかった。穀倉の戸が破れないと見るなり、あいつは手勢を残して尾根へ戻った。逃げる足は速い。
俺なら追えた。追いつけば、背中に斧を入れられた。
足が動きかけた。その時、背後で子供が息を吸った。泣いたんじゃない。泣く力もなかったのだろう。
干した革が裂けるみたいな、小さく乾いた音だ。
穀倉の横の石壁に負傷者が寄せられていた。腕の折れた女がいる。腹を押さえた老人がいる。目を開けたまま座り込んだ若いのがいる。
顔に煤をつけた子供がいる。ブランもそこにいた。まだ息はあった。肩から胸まで血で濡れていた。
斧の柄を握ったまま、俺を見ていた。
行けとは言わない。残れとも言わない。ブランは言葉を使わなかった。あいつは俺へ仕事を残した。
橋の下で木が鳴った。
ぎしり。
小さい音だ。それなのに背中を冷たいものが這った。暗い梁。割れる支柱。喉の奥を削る石の粉。背の上に落ちる重さ。
動くな。
声が骨の内側で鳴った。俺は足を止めた。灰色の外套は灌木へ消えた。
橋のこちらへ、灰谷衆の一人が突っ込んできた。手斧を持っている。目は血走っている。殺しを楽しむ目じゃない。
食うために殺す目だ。腹が空いた人間の目は、獣より始末が悪い。
「退け」
そいつが言った。
「嫌だ」
俺は盾を前へ出した。手斧が盾に食い込む。木が割れる。縁の鉄が鳴る。
俺は盾ごと押した。相手の肩が妙な音を立てた。二人目が脇から入った。斧を抜く暇はない。
俺は頭を振って、額でそいつの鼻を潰した。骨の砕ける感触が眉に残る。血が飛んだ。
三人目が火のついた布を穀倉へ投げようとしていた。
「立て」
足を踏み込んだ。言葉は短い。祈りではない。山へ向けて飾る暇もない。
腹の底から、足の下へ言っただけだ。
石橋の手前で土が盛り上がった。きれいな壁ではない。濡れた土と石が、獣の背中みたいに起き上がっただけだ。
火の布はそこに落ちた。湿った土に吸われ、煙を細く上げて消えた。
四人目が叫んだ。俺はそいつの喉を掴んだ。細かった。俺も若かった。今より軽かった。
だがそいつよりは重い。橋板へ押しつけると、背中の下で木が鳴った。
ぎしり。
またあの音だ。
動くな。
俺は動かなかった。潰すのではなく塞いだ。追うのではなく残った。斧を振る代わりに、そこにいることを選んだ。
灰色の外套の男は逃げた。ブランは夜明け前に死んだ。穀倉は焼けなかった。子供は三人、生きている。
それが全部だ。
どれか一つをやり直せと言われたら、俺はたぶん同じ足を置く。同じ場所で止まる。同じ顔で葬列を歩く。
そういう重さもある。背負うと言えば、きれいすぎる。腹の奥に沈んで、歩くたびに少しずつ動く重さだ。
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夕方まで村は片づかなかった。
葬列が終わっても、死者の仕事は終わらない。生きている奴らの手が足りなくなるだけだ。焼けた梁を外す。穀倉の戸へ仮板を打つ。
血のついた雪を削る。谷へ落とす。負傷者には湯がいる。子供には粥がいる。山羊には柵がいる。
二頭の山羊が昨日の騒ぎで斜面へ逃げていた。山羊は利口だ。火と血の匂いがすれば、人間より早く足を使う。
ダリオはそれを追いに行った。
「山羊の方が判断が早え」
そう言って笑いもしなかった。獣皮の外套を揺らし、雪の残る斜面へ上がっていった。あいつの足は岩場に強い。
靴底が石を掴む。村の道より、斜面の方が似合う男だ。
俺は穀倉にいた。扉の前でマルコが板を押さえている。俺は釘を打った。槌を振るたび肩の傷が引きつる。
痛みはある。だが腕は動く。なら問題じゃない。
穀倉の中を見た。粗麦の袋が十七。乾いた豆の袋が四つ。塩袋が半分。獣脂の樽が二つ。
春の商いが来るまで持つかは、口の数と雪の具合で変わる。
「灰谷はもっと空なんだろうな」
俺が言うと、マルコは釘箱へ手を入れた。
「空だから来た」
「また来るか」
「腹が減れば来る」
それだけだった。
腹が減れば人は尾根を越える。知らない家の戸を蹴る。子供の粥へ手を伸ばす。灰谷衆は化け物じゃない。
山に削られた人間だ。だからといって通す理由にはならない。
マルコは戸板を叩いた。音が薄い。
「弱い」
「内側にもう一枚入れる」
「木が足りん」
「干し草小屋から取る」
「焦げてるぞ」
「焦げてても板だ」
マルコは俺を見た。何か言いかけてやめた。鍛冶屋は余計な言葉を火に入れない。熱しすぎれば、鉄も言葉も曲がりすぎる。
穀倉の外では女たちが粥を配っていた。
ブランの妹もそこにいた。葬列の時とは違う目をしている。手元だけを見る目だ。鍋から粥をすくう。
木椀へ移す。子供へ渡す。子供は椀を抱え、熱さに眉を寄せながら飲む。
あの子は昨夜、俺の背後にいた。生きている。
ブランの妹は次の椀を取った。一度だけ俺を見た。また何も言わなかった。責められれば、まだ受けられたかもしれない。
礼を言われれば、もっと困ったはずだ。彼女はどちらも選ばず、薄い粥を渡し続けた。
兄が死んだ日の夕方だ。兄を失った家の娘が、兄の死で残った子供へ粥を渡している。
俺は釘を深く打ちすぎた。板が割れた。
「力を捨てろ」
マルコが言った。
「釘は相手じゃない」
「わかってる」
「わかってない音だ」
俺は釘抜きを取った。割れた板を外す。やり直しだ。戦場ではやり直せないことが多い。板ならまだやれる。
コルヴが水桶を運んできた。歩き方が悪い。腕だけで持っている。桶の水が跳ね、靴を濡らしていた。
顔が強ばっている。誓い石を運んだ疲れだけじゃない。泣けないものの重さもある。
「そこに置け」
俺が言うと、コルヴは穀倉の奥へ運ぼうとした。意地になった顔だった。
「そこだ」
低く言った。コルヴは足を止めた。桶を置く。水面が揺れ、夕方の光を細く映した。
「俺も戦える」
「まだだ」
「昨日は戦った」
「違う」
「斧を持った」
「斧を持つのと戦うのは違う」
コルヴの頬が赤くなった。俺は板を外しながら言った。
「昨日お前が橋に来てたら、俺はお前を下げる」
「俺は子供じゃない」
「子供扱いが嫌なら、言われた場所に立て」
コルヴは黙った。言いすぎる前に俺も黙った。
戦いたい気持ちはわかる。大きくなりかけの身体は、いつも前へ行きたがる。腕に少し力がつくと、自分が何かを変えられる気がする。
変えられないものの方が多いと知るまで、人はだいたい前へ出たがる。俺もそうだった。だが力は前へ出るためだけにあるわけじゃない。
それを俺は言葉で習っていない。石と木と血で覚えた。
また木が鳴った。一瞬だけ、暗い場所の匂いが鼻の奥を擦った。俺は息を吐き、釘を選び直した。
短い釘ではない。太くて少し曲がった釘を取る。まっすぐな釘がいつでも一番強いわけじゃない。曲がった釘は、噛む場所を間違えなければ抜けにくい。
「見てろ」
コルヴに言った。あいつは顔を上げた。
「槌は真上から入れる。だが板は真上に受けない。木目を見ろ。割れたがる方へ力が逃げる」
打つ。今度は割れなかった。
コルヴはじっと見ていた。目は赤い。だが呼吸はさっきより落ちていた。
「戦も同じだ」
言ったあとで少し苦くなった。俺が教えられるほどわかっているのか、自分でも怪しかった。それでもコルヴは頷いた。
軽い頷きではなかった。
日が落ちかける頃、ブランの斧が家から運び出された。
母親ではない。妹が持っていた。柄は長い。刃は欠けている。女の腕には重いはずだ。
それでも彼女は両手で抱え、鍛冶場へ歩いた。途中で誰かが手を貸そうとした。彼女は首を振った。
俺は穀倉の戸口から見ていた。彼女は鍛冶場の前で止まり、マルコへ斧を渡した。何か短く言った。
風がさらって、俺には聞こえなかった。マルコは斧を受け取り、頭を下げた。
斧は石棚へ積まれない。斧は腹を満たさない。だが鉄は残る。
その時の俺は、残った鉄が何になるのか知らなかった。ただ刃の欠けを見て、ブランが最後まで握っていたことだけはわかった。
それで十分ではなかった。十分じゃないものばかりが、ロッカの夕方には残っていた。
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夜になっても村は眠らなかった。
眠れるはずがない。負傷者の呻きが石壁に当たり、家から家へ薄く伝わる。炉の火を落とす家は少なかった。
炭を惜しむ村でも、今夜だけは暗くするのが怖い。
俺は薪小屋の裏にいた。山羊革を張った桶で手を洗っていた。爪の間の黒いものが落ちない。
水は雪解けで、骨まで刺してくる。右手の甲の裂け目が開き、また血がにじんだ。
「洗いすぎだ」
ダリオ・ヴァルカの声がした。
振り向くと、そいつは獣皮の外套を肩に掛けて立っていた。片手には酒瓶がある。背は俺とそう変わらない。
俺より細く見えるが、見えるだけだ。ダリオの身体は山道用だ。太い胸板。硬い腕。長く走れる脚。罠縄を引く背中。
俺が正面で止める身体なら、あいつは斜面を横へ抜ける身体だ。
「落ちない」
俺は言った。
「落ちると思うな」
ダリオは瓶を掲げた。
「飲むぞ」
「気分じゃない」
「気分で飲ませに来てない」
瓶を俺の胸へ押しつけてきた。乱暴だ。昔からそうだった。慰めの形をしていない。たぶん本人も慰める気はない。
俺は瓶を受け取った。口をつける。山の酒だった。強い。喉が焼ける。空の腹へ落ちて、熱だけが残った。
「死んだ奴の話をしたか」
ダリオが聞いた。
「誰と」
「誰でもいい」
「してない」
「だろうな」
ダリオは薪小屋の戸を蹴って開けた。
中は狭い。壁には獣皮が掛かっている。床には藁と古い布が積んである。炉はない。だが隣の鍛冶場から残り火の匂いが流れていた。
戸を閉めれば、外よりはましだ。
「入れ」
「命令すんな」
「じゃあそこで凍れ」
俺は舌打ちして中に入った。
ダリオは戸を閉め、瓶を奪い返して飲んだ。口元を拭かない。酒が髭に残って光った。
「お前が追ってりゃ、灰色の奴は死んだ」
「ああ」
「追わなかったから、穀倉は残った」
「ああ」
「どっちも本当だ」
「知ってる」
「知ってる顔じゃない」
ダリオが近づいた。
俺は壁を背にした。逃げ場はない。だが逃げる気もなかった。ダリオの目は昼の誰の目とも違っていた。
責めていない。庇ってもいない。生きているかを見ている。
「また黙って背負った顔してやがる」
胸の奥が鈍く鳴った。ダリオは気づいたかもしれない。たぶん気づいた。こいつは気づいても、そこを言葉でほじらない男だ。
「俺は俺の顔だ」
「そうだよ」
ダリオは笑わなかった。
いきなり胸を叩かれた。拳ではない。だが軽くもない。厚い手が俺の胸板へ入り、乾いた音がした。
「息はあるな」
「ある」
もう一度叩かれた。
「立ってるな」
「見りゃわかる」
「わからん時がある」
声が少し低くなった。俺は瓶を奪って飲んだ。返す前に、ダリオが俺の手首を掴んだ。
指が太い。弓弦と罠縄で硬くなった手だ。俺も掴み返した。骨の上へ指を沈める。
止めるなら止められる。押し返すなら押し返せる。止めなかった。
ダリオの身体が寄った。胸がぶつかる。腰がぶつかる。互いの重さで床板が鳴る。獣皮が肩へ触れた。
乾いた毛の匂いが立つ。酒。血。汗。冷えた夜。
「嫌なら押せ」
ダリオが言った。俺は手首を握ったまま、少し押した。押し返された。それで足りた。
口を塞がれた。
優しいものではない。歯が当たる。息の熱が移る。喉が詰まる。俺はダリオの肩を掴み、壁へ叩きつけた。
壁板が鳴った。ダリオは喉で短く笑うような音を出した。俺の首筋に歯が当たる。痛みが来た。
生きている痛みだった。
俺はダリオの背中へ手を回した。厚い背中だ。掌が沈み、そこから獣みたいな力が返ってくる。ダリオの膝が俺の脚を押す。
床板がまた鳴る。手が肩へ上がった。そこで一瞬止まった。確かめるみたいに力が抜ける。
それから腰へ下りた。帯の上からだった。布越しの掌が、熱のある場所を探るみたいに押し当てられる。そこに手順はなかった。獣が傷の下でまだ息をしているかを嗅ぐような、乱暴な確認だけがあった。
俺はその手首を掴んだ。止められた。止めなかった。
「生きてるな」
ダリオが首筋で言った。
「しつけえ」
「答えろ」
俺はダリオの胸を叩いた。さっきより強く。拳が肉に沈み、骨へ届く手前で止まる。
「お前もだ」
ダリオの息が荒くなった。
それから言葉は減った。瓶が倒れた。床へ酒の輪が広がる。獣皮が落ちる。肩の傷が開き、温かい血が冷えた肌を伝った。
ダリオの顔が近い。額が当たる。血と酒の匂いが濃くなる。
何度か壁へぶつかった。殴った。掴んだ。噛んだ。手を握った。
指の骨が痛むほど強く握った。痛みで、今ここに身体があることがわかった。石棚へ置かれていないものだとわかった。
まだ冷たい石の下へ預けられていないものだとわかった。
慰めではなかった。慰めならもっと柔らかい。これは違う。
俺たちは生き残ったことに腹を立てていた。生き残った身体がまだ熱を持っていることを、互いに叩いて確かめていた。ダリオの重さが来る。
俺は返す。床板が鳴る。藁が潰れる。山の夜は冷えたままなのに、小屋の中だけが暑かった。
外で風が針葉樹を鳴らした。屋根の端から雪解け水が落ちる音がする。遠くで山羊が一度鳴いた。村のどこかで負傷者が呻いた。
時間はうまく繋がっていない。ただ、ダリオの歯が俺の肩の縁に当たったことは覚えている。傷ではない方の肩だった。
痛みではない。確かめる動きだった。
生きている。
まだここにいる。
俺の手はダリオの背中にあった。離さなかった。
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朝になる前に目が覚めた。
炉はない。だから火の消えた匂いはしないはずだった。それでも鼻の奥には灰が残っていた。隣の鍛冶場から流れてきたのか、髪や肌についたものかはわからない。
床に倒れた瓶は空ではなかった。酒の輪は乾きかけていた。獣皮は半分だけ俺の腰に掛かっていた。
肩が重い。首筋がひりつく。胸には鈍い痛みがある。昨日の傷とは違う。掌と拳の形をした痛みだ。どちらのものか分からない体液が、未だに肌の上に薄く残っていた。
ダリオは背を向けて寝ていた。広い背中だった。肩甲骨のあたりに古い傷が二本ある。熊にやられたと聞いたことがある。
本人は猪だと言い張っていた。どちらでもいい。生きている傷だ。
俺は身体を起こした。藁が落ちる。冷気が肌へ戻る。小屋の隙間から薄い朝が入っていた。
ダリオが目を閉じたまま言った。
「行くのか」
「斧を見る」
「ブランのか」
「ああ」
「勝手に背負うなよ」
俺は答えなかった。
ダリオもそれ以上は言わなかった。代わりに片手を後ろへ伸ばしてきた。指先に乾いた血がついている。
俺の血か、あいつの血か、昨日の誰かの血かわからない。
その手を握った。短く。すぐ離した。
外へ出ると尾根が白み始めていた。ロッカ村の朝は昨日と同じように冷たい。石積みの家から煙が上がり始めている。
誰かが山羊を小屋から出す。誰かが負傷者の水を汲みに行く。石の小径で桶が鳴る。
葬列の後でも村は腹を空かせる。炉には薪が要る。子供には粥が要る。怪我人には布が要る。穀倉には板が要る。
死者の名を石棚へ預けても、生きている者の仕事は減らない。
鍛冶場の前にマルコがいた。太い腕を組み、戸口に立っていた。俺を見ると何も言わず、中を顎で示した。
鍛冶場の奥にブランの斧が置かれていた。柄は黒く焦げている。刃には欠けがある。最後まで使われた痕だ。
斧は死者と一緒に積まれない。家へ残る。手が使えなくなれば、鉄として残る。ロッカではそうする。
武器は名を持たない。だが鉄には手の癖が残る。握った者の重さが、柄の曲がりや刃の擦れに残る。
俺は斧の前に立った。触れなかった。まだ触るものではない気がした。
マルコが低く言った。
「折れてない」
斧のことか、俺のことかわからなかった。
「欠けてる」
俺は言った。
「欠けた鉄は、混ぜれば粘る」
マルコはそれだけ言って炉の方へ歩いた。火はまだ起きていない。黒い炭が、朝の薄明かりの中で眠っていた。
外でコルヴの声がした。薪を落としたらしい。まだ下手だ。腕だけで持つから落とす。
胸で持てと言えば、たぶん反発する。あとで言う。
俺はブランの斧を見た。尾根の上には石が一つ増えた。穀倉は残った。灰色の外套の男は逃げた。
俺の首筋には噛み跡がある。どれも朝の光では消えなかった。
ブランの斧は、まだ盾の形をしていない。だが鉄はそこにあった。
鍛冶場の外へ出ると、朝の空気が肺を刺した。石棚は村から見えない。見えない所にあるから、預けたものを毎日数えずに済む。
だが風の向きが変わると、白い岩の冷たさだけが村まで下りてくる気がした。
コルヴが薪を抱え直していた。今度は腕だけではない。胸で支えている。まだ下手だ。だが落としてはいない。
俺は声をかけなかった。ダリオも出てこなかった。
村の誰かが粥を煮始めた。薄い匂いが小径へ流れる。腹は膨れない。それでも生きている奴は食う。
食って、板を打つ。山羊を追う。橋を直す。泣けないなら、手を動かす。
ブランの斧の欠けた刃が、目の奥に残っていた。
追わなかったことは、昨日で終わらない。
残ったものを今日も守らなきゃならない。
山は泣かねえ。
だから泣かないものの代わりに、誰かが立つしかない。
その時の俺はまだ、それを盾と呼ぶことを知らなかった。
ただ足の裏だけが、もう場所を覚えていた。
逃げるためではなく。
送るためでもなく。
残るために踏みしめる場所を。




