閲覧室の潮騒
評議会庁舎の本棟を抜けると、空気が変わった。
昨日の白い議事場にあった、乾いた石と磨かれた机の匂いではない。港湾棟には、紙と潮が同じ棚にしまわれているような湿りがあった。窓は細く、壁は厚い。外の港からは人の声も荷車の音も届いているはずなのに、廊下へ入った途端、それらは一枚ずつ布をかけられたみたいに遠くなった。
受付で出した許可証は、戻されるまでに三人の手を渡った。
最初の書記官が封を確かめ、次の書記官が評議会印を見て、奥から出てきた年かさの女が蒼凪さんの名と俺の身分を読み上げた。声は低い。読まれた文字だけが廊下の湿った空気へ沈んでいく。
「蒼凪殿。港湾棟閲覧室。旧水路、通行札、潮位観測記録の照合許可」
女はそこで俺を見た。
「海守り殿は補助閲覧者として記録します。原本への接触は閲覧室の指示に従ってください」
「はい」
俺が答えると、蒼凪さんが隣で少しだけ頷いた。
護衛としてではない。
傷が癒えかけた者として付き添うのでもない。補助閲覧者。海守り。帳面に残る行と行の間に、海が残した手触りを探すための立場だ。受付の硬い声でそう言われると、胸の奥へ小さな重さが落ちた。
許可証は薄い封筒に戻され、蒼凪さんの革鞄へ入った。身分証。書付。折り畳んだ手控え。薬湯の小瓶だけは外側の留め帯に差してある。万一こぼれても、帳面や写しを濡らさない位置だ。俺の肩掛けには包帯の替えと水筒だけが入っている。
受付を離れてすぐ、俺は革鞄へ手を伸ばした。
「持ちます」
蒼凪さんは首を横に振った。
「軽い」
「軽いものでも持ちます」
「ならお前の荷が増える」
「それは俺の荷です」
「俺の鞄だ」
「中身は評議会の許可証です」
蒼凪さんはそこで俺を見た。赤い髪は廊下の薄い光の中で、火というより濡れた銅に近い色をしていた。目元だけが柔らかい。口元は、いつも通り静かだった。
「言い方がうまくなったな」
「蒼凪さん相手なので」
「厄介だ」
「鞄を渡せば解決します」
「今日は閲覧だけだ」
「閲覧だけで済む人の顔ではないです」
「どんな顔だ」
「古い帳面を前にすると、追うものが増える顔です」
蒼凪さんは一拍置いた。
「否定しづらい」
否定しないんですか、と言いかけてやめた。言えば、たぶん別の言葉で返ってくる。俺は手を下ろし、代わりに肩掛けの紐を締め直した。
廊下の途中で、蒼凪さんの歩調がわずかに遅れた。
ほんの一歩だ。痛みに足を取られたのではなく、痛みを起こさないために体を先に整えた間だった。俺にはそれが見えた。見えてしまった。
「途中で止まります」
俺は声を落として言った。
「必要ならな」
「必要になる前です」
「予防か」
「はい」
「分かった」
早い返事だった。
俺は黙った。もっと短く斬られるつもりでいた。蒼凪さんは廊下の奥へ目を向けている。手は革鞄の留め具に近い。いつでも開けられる場所に指がある。
「納得していないな」
「していません」
「なぜだ」
「分かったと言うのが早すぎました」
「早いと疑われるのか」
「蒼凪さんの場合は」
「覚えておく」
「覚えないでください」
蒼凪さんのまぶたがわずかに下がった。笑ったのだろう。声にはならない。こういう小さな反応を見つけるのが、前より早くなった。
港湾棟の奥へ進むほど、足音が小さくなった。
廊下の左右には棚が続く。そこには収蔵函が収まっていた。背には年月と区域が書かれている。港湾台帳。水門補修。通行札。倉庫巡回。旧水路。潮位観測。短い字ばかりだ。短いのに、ひとつの函が何十日も、時には何年分も抱えている。
俺は歩きながら息を細くした。
海なら、目が先にいくつもの気配を拾う。濡れた綱の張り。魚箱から漏れる冷え。船縁に付いた新しい傷。水面の色。風向き。誰かの足跡。そういうものは体が勝手に受け取る。
ここでは全部が記録になる。
記録になると、気配は遠くなる。手を伸ばしても濡れない。潮気は薄い。けれど完全に消えたわけではない。古い帳面の奥に、ごく細い海が残っているような気がした。
「ヒュウマ」
「はい」
「閲覧室で見るのは、記録だけではない」
蒼凪さんは革鞄の上に手を置いた。
「俺は台帳を追う。お前は潮を見る」
その言葉が胸の奥へ落ちた。
「見えなかったら言います」
「それでいい」
「知ったふりはしません」
「それが一番困る」
「蒼凪さんもですか」
「俺もだ」
短かった。
けれど、その短さで十分だった。蒼凪さんは知らないものを嫌わない。嫌うのは、知らないまま形だけ整えたものだ。その線引きが静かにあるから、俺は自分の感覚を差し出せる。
案内の書記官が濃い木の扉の前で止まった。
白い扉ではない。そのことに息が楽になる。病室の白とは違う。ここは眠る場所ではなく、起こす場所だ。
書記官が扉を叩く。
「セヴェロ殿。蒼凪殿と海守り殿です」
中で鍵が鳴った。
「起こすのは何年ものですかな」
老人の声だった。
扉が開いた瞬間、古い綴りの湿りがまとまって流れてきた。
閲覧室は薄暗い。高い窓から細く光が落ちる。窓は大きく開かない。海風を入れすぎれば原本が傷むのだろう。壁には棚があり、棚には封の跡が残る収蔵函が詰まっていた。中央には大きな卓が一つ置かれている。
卓の上には手袋があった。押さえ。重し。砂時計。小さな刷毛。道具は少ないのに、どれも置かれる位置が決まっている。ずれればすぐ気づく部屋だ。
老人は卓の脇に立っていた。
細い。墨色の上着。白い髪。丸眼鏡。腰には鍵束。顔は厳しい。目だけが軽い。硬い表情の上で、波に浮く小舟みたいに動いている。
「セヴェロ・マルティです。港湾棟閲覧室の番をしております」
老人は流れるように礼をした。
「古いものを起こすご用件と聞いております」
「荒く起こすつもりはありません」
蒼凪さんが答えた。
「照合です」
「では、寝起きの悪いものから頁を出しましょう」
セヴェロさんは鍵束を鳴らした。
「閲覧条件を確認します。原本に素手で触れない。飲み物は閲覧卓に置かない。古地図は私が広げて畳む。写しは許可された範囲だけ。記録の上で咳をしない」
最後の一つで、俺は思わず背筋を伸ばした。
「咳もですか」
「古いものは、人の息を好みません」
「気をつけます」
「よろしい」
それ以上は言わず、セヴェロさんは棚へ向かった。
動きは遅い。けれど迷いがない。鍵束から一本を選び、封を確かめ、両手で小さな台へ載せる。古いものへ小言を言いながらも、扱う手つきは丁寧だった。手の中で歳月の重さを測っているように見える。
俺はその背中を見て安心した。
この人は話を広げるためにいるのではない。必要な函を開けるためにいる。場に余計な風を入れない人だ。
蒼凪さんが手袋をはめた。俺も真似をする。薄い手袋は海守りのものとは違った。握るためではない。触れすぎないためのものだ。指先の熱が一枚向こうへ退く。卓の木目まで遠くなる。
最初に旧水路台帳が置かれた。
綴じ紐の束が、低い音を立てた。
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蒼凪さんは頁を開くと早かった。
視線だけで紙面を渡っていく。指で追わない。必要な行へ目が落ち、すぐ次へ動く。俺も隣で覗き込んだが、文字の密度に一度押し返された。
年月。水門名。開閉時刻。通行理由。担当者。備考。
同じ顔の言葉が続いている。
波も遠目には同じに見える。けれど海に立てば違う。肩の立ち方。泡の切れ目。岩へ当たる音。船底を撫でる抵抗。帳面はそれを隠す。全部を同じ濃さの墨で寝かせてしまう。
「ここ三月で点検名目が増えている」
蒼凪さんが言った。
「封じられた水路なら、多いですか」
「多い。年に数度で足りる」
蒼凪さんは小さな紙片を一枚置いた。
「測量。換気。害獣確認。木箱撤去。臨時搬入」
ひとつずつ音にする。
「名目は散っている。だが触っている線が同じだ」
線。
俺は地図のないところに水路を浮かべた。古い街の裏を通る細い流れ。今は使わないはずの血管。表通りではない。荷を運ぶには面倒だ。けれど見られたくないものには、面倒な道の方が都合のいい時がある。
蒼凪さんは次の頁へ移った。
目が止まらない。息が浅くなる。集中している時の蒼凪さんは、呼吸を体の外へ置いてくることがある。本人に言えば、置いていないと返すだろう。
だから俺は言い方を変えた。
「肩掛けがずれています」
「ずれていない」
「端が落ちています」
「落ちていない」
「落ちかけています」
俺は後ろへ回って肩掛けの端を直した。
蒼凪さんは台帳から目を離さなかった。
「すまない」
「見てないでしょう」
「見ている」
「記録を」
「お前も視界には入っている」
「それは見ているに入りますか」
「入る」
短い返事だった。
いつもの調子で、安心した。台帳の中へ潜っていても、完全にこちらを切り離しているわけではない。蒼凪さんのそういう距離の取り方は、不意に胸へ触れる。
セヴェロさんが茶を持ってきた。
閲覧卓ではなく、離れた小台へ置く。湯気は薄く、香りも強くない。古い紙を驚かせないためなのだろう。老人は何も言わず棚へ戻った。
「飲んでください」
俺が言うと、蒼凪さんは頁の端へ目を残したまま答えた。
「この頁だけ」
「頁は逃げません」
「人は忘れる」
「蒼凪さんの体は先に逃げます」
その言葉で蒼凪さんの目がこちらへ来た。
まっすぐ見られると、喉が狭くなる。それでも俺は引かなかった。昨日までの自分なら、笑って流したかもしれない。今は流したくなかった。
蒼凪さんは茶器を取った。
「その言い方は効く」
「効くなら使います」
「だろうな」
一口。
茶器が戻りかけたので、俺は言った。
「二口」
「ヒュウマ」
「二口です」
蒼凪さんは眉をほとんど動かさずに俺を見た。
「強くなった」
「蒼凪さんの弱いところだけです」
「弱いところか」
「休まないところです」
「痛いな」
そう言って、蒼凪さんはもう一口飲んだ。
セヴェロさんは棚の前で次の綴りを探している。こちらを見ているのか、見ていないのか、鍵束の動きがさっきより遅い。たぶん聞いている。何も言わないところがありがたかった。
通行札控えは、拍子抜けするほど薄かった。
今の正規札は形が整っている。港湾部の印は濃く、角の落とし方も一定だった。紐を通す穴の位置も揃っている。偽の札を作るなら、まずそこを真似るはずだ。
けれど蒼凪さんが求めたのは、今使われている札ではなかった。
「古い非常時札の写しを」
セヴェロさんは別の薄い束を出した。
昔の制度だという。高潮。火災。港湾事故。婚礼期の大混雑。そういう時だけ、旧水路や臨時搬入口を通すための札。今は使われていない札だった。
写しを見た瞬間、俺の中で小さく引っかかった。
今の白札とは違う。
違うのに似ている。角の削り方。穴の位置。印の周りに残す余白。すべてが同じではない。けれど遠くから見たら、見慣れたものとして通り過ぎそうな近さがあった。
蒼凪さんが低く言った。
「この写しを見た者がいる」
「この札を覚えている人かもしれません」
「それもある」
「どちらも嫌ですね」
俺が言うと、棚の向こうで鍵束が小さく鳴った。
セヴェロさんが振り向かずに言う。
「閲覧室としては前者がたいへん困ります。棚番の顔がありませんので」
それだけだった。
軽いのに、部屋の空気を戻す一言だった。俺は肩の力が緩むのを感じた。蒼凪さんも、写しを置く手をほんのわずか遅くした。
「今の札にも、古い札にも寄せきっていない」
蒼凪さんは二つの写しを並べた。
「中間だ」
「下手ではないですね」
「下手ではない。だが完璧でもない」
「わざと隙を作ったのか」
「そこまでは追えない」
追えない、という声は平らだった。
不確かなところを無理に埋めない。その平らさがいい。胸の中の不安は消えない。けれど形のないものへ名前だけ貼るよりは、ずっといい。
次に封じられた倉庫の巡回簿が出された。
これは俺にも追いやすい。
年月。巡回者。欄の中の短い報告。備考。
同じ言葉が幾度も押されている。何も起きていない、と整った墨で言い続けている。海でそう決めつけた時ほど、足元の岩に藻が張っている。書類の上にも似た滑りがあった。
「ここ」
蒼凪さんの手が止まった。
三行だけ字が違う。同じ巡回者なのに、線の角が違った。止め方が違う。似せている。けれど似せきれていない。墨の濃さよりも、書いた人の呼吸が違う。
「代筆の可能性はあります」
俺は言った。
「ある。だが代筆欄は空だ」
「書いた人を隠した」
「または、巡回した者がいなかった」
その言葉で、余白の白さが急に冷たくなった。
抜けているならまだ分かる。誰も行かなかった。誰も書かなかった。そこに穴がある。けれどこれは違う。穴の上に板を置いてある。歩けばそのまま通れる。気づかずに。
蒼凪さんは巡回簿の横へ通行札控えを置いた。
さらに旧水路台帳から紙片を移す。卓の上に線ができていく。ばらばらの函から出されたものが、ひとつの水路へ流れ込むみたいだった。
俺はその線をまだ全部は追えない。
けれど線が生まれる瞬間は掴めた。蒼凪さんの目が深くなる。音のないところで錨が底へ触れた時のように、思考の重みが落ちる。
「ヒュウマ」
「はい」
「潮位表を見る」
蒼凪さんが一冊を俺の方へ押した。
「ここからは、お前の方が早い」
手袋の中で指が熱くなった。
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潮位表は、ほかの資料より体に近かった。
数字はただの数字ではない。俺にとって潮は、まず空気の湿りだ。次に重さだ。満ち始める水は、足元へ来る前に鼻の奥を変える。引く水は、綱の音を乾かす。狭い水路なら、舵へ来る抵抗が先に変わる。
俺は時刻を追いながら、頭の中に港の水を置いた。
旧南門。
第三支水門。
封じられた倉庫。
禁漁区の外縁。
昨日の議場で見た地図と、さっきから出てくる台帳の名前を重ねる。サルマンディアの港を体で覚えたとは言えない。けれど潮の向きと水位なら拾える。水がどこへ行きたがるかなら、ある程度は掴める。
旧水路は広い道ではないはずだ。
潮が満ちれば船腹を押す。引けば船底から水を抜く。櫓を差せば音が残る。舵を入れれば、狭い場所で抵抗が膨らむ。荷を積んでいれば、船は素直に曲がらない。
「この臨時搬入ですか」
「ああ」
蒼凪さんの返事は短い。
小型荷船一隻。旧南門から第三支水門へ。時刻は夜明け前。理由は搬入。備考は簡単すぎるほど簡単だった。
俺は潮位表の同じ時刻を見た。
胸の奥で波がぶつかった。
「この時間は、普通なら選びません」
自分の声が低くなった。
「理由は」
「潮が逆です」
俺は時刻の行を指した。
「水位は足ります。でも旧南門から入るなら、流れに押し返されます。空ならまだ動かせます。荷があるなら櫓も舵も重い。音も増えます」
「無理か」
「無理ではありません」
そこは切れない。
「ただ、わざわざこの時刻を選ぶなら理由があります。急ぎだったか、入口が記録と違うか」
蒼凪さんの手がすぐ別の台帳へ伸びた。
速かった。
思考の火が上がる時の速さだ。俺は手首ではなく肩を見た。無理の出方は、いつも肩から来る。
「蒼凪さん」
「今、つながった」
「つながったなら逃げません」
「記録は逃げない。人は忘れる」
「蒼凪さんの体は逃げます」
二度目だった。
蒼凪さんは俺を見た。さっきより長かった。目の奥にはまだ台帳の線が残っている。止まりたくないのだ。止まると線が濁る、と顔に出ている。
「それは俺に効く」
「効くなら使います」
「さっきも聞いた」
「何度でも使います」
「厄介だな」
「休憩です」
俺は小台の方へ立った。
「砂時計一つ分」
「長い」
「短いです」
「半分」
「一つ分です」
「ヒュウマ」
「一つ分です」
蒼凪さんは息を吐いた。
「強くなりすぎだ」
「蒼凪さん限定です」
「それは便利か」
「便利です」
「そうか」
不満そうだった。顔にはほとんど出ない。けれど目だけはまだ卓の上の線へ戻りたがっている。潮に乗りかけた船を桟橋へ戻すようで、申し訳なくなる。それでも戻す必要があった。
茶を置き、俺も椅子へ腰を下ろした。
肩が触れるほど近くはない。近すぎると俺の方が落ち着かない。少し離れたところで、同じ卓を見る。それくらいが今はちょうどよかった。
砂時計の砂が落ちる。
部屋は静かだ。古い綴りの湿り。高い窓から斜めに入る光。廊下の向こうで函を閉める音。鍵束が棚の奥で小さく触れ合う。港の風は窓の隙間だけを撫でて、それ以上は入ってこない。
蒼凪さんは茶を飲む。
俺は潮位表を見る。
黙っていても、離れている感じはしなかった。むしろ言葉を置かないぶん、同じものへ耳を澄ませている気がした。
蒼凪さんが俺の手元を見た。
「拾えるか」
「全部は無理です」
「それでいい」
「でも、この潮だけは変です」
「うん」
「台帳だけなら見落とします」
「だから連れてきた」
短すぎて、返事が遅れた。
胸の内側が熱い。海守りとして必要とされた。そういうのが少し怖くて、でも嬉しい。俺は潮位表へ目を落としてから答えた。
「……はい」
蒼凪さんは茶器を置いた。
「次を見るぞ」
砂時計の砂は、まだ残っている。
俺が目で示すと、蒼凪さんはほんの少しだけ不服そうに待った。ほんの数呼吸。けれどその数呼吸が、妙に嬉しかった。
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古地図は、卓の上で眠っているだけでも大きかった。
セヴェロさんが四隅へ重しを置く。俺は手を引いて距離を取った。蒼凪さんは地図の中央へ身を乗り出す。古い羊皮紙のような色の上に、今の港より細かい水の道が走っている。
「顔を近づけすぎませんように」
セヴェロさんが言った。
声は軽いが、目は本気だった。
蒼凪さんは「承知しました」と返し、身を引く。
古地図には、今の港にないものが残っていた。古い岸。埋められた溝。名前の変わった倉庫。細い水路。旧南門の横から伸びる、今の台帳では見えない筋。
蒼凪さんの指が止まる。
「ここだな」
「排水路ですか」
「今の地図にはない」
「塞がれているはずでは」
「記録上は」
今日、何度も聞いた言い方だった。
記録上は。
書面の上では。
台帳では。
どれも正しい顔をしている。けれど海は、正しい顔だけで動かない。塞がれた口でも水が抜けるなら、そこはまだ口だ。人が名前を消しても、潮は古い道を覚える。
蒼凪さんが俺の袖を軽く引いた。
「ヒュウマ、ここから見る」
袖を引かれただけだ。
戦いの中なら何度もあった合図だ。前へ。下がれ。右へ寄せろ。蒼凪さんの短い動きに合わせて、俺は考える前に体を動かす。けれど閲覧室で、古地図の上で、肩が触れる距離になると、同じ合図でも少し違う。
俺は一拍遅れて身を寄せた。
肩が触れた。
蒼凪さんは地図を見ている。気にしていないように見える。たぶん気づいている。気づいた上で、今はそこを地図の外へ置いている。俺だけが固まり、息を逃がしてから古い線へ目を戻した。
「この排水路が残っているなら、旧南門から入ったように記録できる」
「実際は別の口から入る」
「ああ」
「第三支水門の手前で線が合います」
「そうだな」
俺は地図を追った。
細い水路。倉庫の裏。今は封じられているはずの小水門。夜明け前の水位。潮の向き。頭の中で小船の底が低く鳴った。荷があるなら、底板の下で水が粘るはずだ。
「小型船なら通せます。荷は小分けにする必要があります」
「音は」
「出ます。でも旧南門を逆潮で進むより小さい」
「人手は」
「最低四人。重ければ六人です」
「慣れが要るか」
「要ります。暗いなら特に」
「港を知らない者には難しい」
「難しいです」
蒼凪さんは静かに頷いた。
「港を知る者。港を知る者を使える者」
その言葉で、昨日の議場の空気が戻った。
俺は地図から目を離さずに考える。港を知るだけでは足りない。古い形を知る。使われない路を知る。封じられた倉庫の巡回を書類でなぞる。現場の足と、記録の鍵が、どこかで重なる。
「蒼凪さん」
「何だ」
「現場を知っているだけでは無理です。古い記録も見られないと、この線には気づきません」
蒼凪さんの目が俺へ動いた。
肩はまだ触れている。俺は自分の声がうわずっていないか気になった。けれど蒼凪さんは地図と同じ真剣さで俺を見た。
「いい点だ」
耳の奥が熱くなった。
褒められたからだろう。けれどそれだけではない。俺が拾ったものが蒼凪さんの線に入った。隣にいる理由が、ただ支えるためではなくなった。それが熱になって残る。
蒼凪さんは低く言った。
「古い非常時札。今はない水路。封じられた倉庫の巡回記録」
三つの紙片を見比べる。
「現場だけでは足りない。記録も見ている」
「記録を見られる人間が、現場を使っている」
「または、両方をつなげる者がいる」
そこまで言って、言葉は止まった。
名前は出ない。
出せない。出した瞬間に、記録の見え方がその名前へ引っ張られる。俺にも少し掴めるようになってきた。潮の流れを読む前に、行き先を決めてはいけない。
蒼凪さんは禁漁区付近の通報綴りを開いた。
魚影調査。
小船の灯り。
漁師の通報。
魚の気配なし。
その一文で俺の指が止まった。
「魚影調査なのに、魚がいない」
「漁師の勘か」
「はい。断定はできません。でも魚がいない所で魚影を見るなら、見ているものは魚じゃない」
蒼凪さんは古地図の外縁へ紙片を置いた。
旧水路。封じられた倉庫。禁漁区。
別々の函から出てきた資料が、同じ潮回りへ寄っている。夜明け前の逆潮。小船の灯り。魚の気配がない水面。どれも書面の上では別件だ。けれど水の中では同じ方へ揺れる。
「記録上では別件だな」
「でも潮は同じです」
俺の声は自然に低くなった。
蒼凪さんはその声を聞いた。
「うん」
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
しばらく二人で黙っていた。
蒼凪さんは資料を見る。俺は潮位表を見る。どちらも同じ卓の上にある。なのに見ているものは少し違う。
台帳には整った時刻がある。
潮には動かしにくい時刻がある。
人は書面を整えられる。札の形を寄せられる。巡回欄を埋められる。けれど潮は人の都合で向きを変えない。水位は勝手に増えない。流れは嘘をつかない。嘘をつくのは、それをどの函に入れるか決める人間の方だ。
「セヴェロさん」
蒼凪さんが呼んだ。
老人が棚の前で顔を上げる。
「台帳は嘘をつきますか」
セヴェロさんは考えた。
丸眼鏡の奥で目が細くなる。答えは最初から決まっていたようにも見えた。けれど口に出す前に、記録へ失礼のない言い方を探しているようだった。
「台帳は嘘をつきません」
短く言った。
「嘘をつくのは、台帳に書かせる人間です」
それだけだった。
余計な言葉はない。だからこそ部屋に残った。古い綴りの湿りと並んで、その一文が卓の上へ置かれたようだった。
閲覧室はまた静かになる。
砂時計の砂だけが細く落ちる。廊下の遠くで革靴の音がした。すぐ消えた。窓の外から海鳥の声がかすかに入り、帳面の湿りに触れる前に薄くなる。
蒼凪さんが目を伏せた。
「現地を見る必要がある」
やっぱり来た。
俺はすぐ答えた。
「今日は行きません」
「まだ行くとは言っていない」
「言いました」
「現地を見る必要があると言った」
「蒼凪さんの場合、それは行く準備です」
「否定はしない」
「否定してください」
「できない」
俺は息を吐いた。
強く言ったつもりなのに、俺自身も現地を見たかった。旧水路の口。倉庫の裏。魚のいない水面。記録の上で重なったものを、自分の目で見たい。潮気を吸って、確かめたい。
蒼凪さんは俺の顔ではなく、胸元を見た。
包帯の位置だ。
「お前も今日はここまでだ」
「俺は大丈夫です」
「俺もそう言う」
「……ずるいです」
「正しい比較だ」
言い返せなかった。
自分の使った言葉を返されると弱い。俺は蒼凪さんの無理を止めたい。けれど自分の体を見送る理由にはならない。胸の鈍さはまだ残っている。長く歩けば熱が出る。深く息を吸えば、痛みの影が戻る。
「明日以降ですね」
「許可と段取りが要る」
「海守り支部にも話します」
「そうだな」
「それと今日は飯です」
蒼凪さんの眉がごくわずかに動いた。
「流れが急だな」
「潮目が変わりました」
「便利な言い方だ」
「使います」
蒼凪さんは小さく笑った。
声にはならない。けれど肩の力が抜けた。その瞬間、俺の胸も緩んだ。古い帳面と潮と疑いで詰まっていた空気に、ようやく息を入れられた気がした。
──────────────────────────────
記録を戻す作業は、追うことより時間がかかった。
セヴェロさんは収蔵函を一つずつ確かめる。端を揃え、押さえを外し、刷毛で薄い埃を払う。古地図だけは俺たちに触れさせなかった。四隅の重しを外し、折り目の癖に逆らわず、ゆっくり畳む。
その手には、さっきまでの軽さがなかった。
古いものに小言を言う人ではなく、残された寿命を預かっている人の手だった。俺はその動きを見ながら、海で網を直す年寄りの手を思い出した。破れた目を急がず拾う。明日の漁に必要なものを、壊さず生かす手。
「助かりました」
蒼凪さんが礼を言った。
「こちらこそ」
セヴェロさんは函に鍵をかけた。
「古いものどもも、たまには働かせねば、自分を飾りだと思い込みます」
それだけ言って、鍵束を腰へ戻す。
俺たちは手袋を外した。指先に古い帳面の湿りが残る。海の香りではない。けれど、どこかでつながっている。濡れた綱と乾いた綴り。潮の重さと墨の線。どちらも人の営みを残す。
「ヒュウマ」
「はい」
「飯にするか」
「します」
即答だった。
蒼凪さんが俺を見る。
「早いな」
「迷うと、蒼凪さんが別の箱を開けます」
「開けない」
「本当に?」
「……努力する」
「駄目です」
蒼凪さんは少しだけ目をそらした。
それで十分だった。
閲覧室を出る前に、俺はもう一度振り返った。棚が続いている。収蔵函が眠っている。高い窓から細い光が落ちている。ここには魚市場の声も、船大工の槌音も、濡れた網の湿りもない。
それでも潮騒が聞こえる気がした。
旧水路の暗い流れ。夜明け前に押し込まれた小船。魚のいない水面に浮く灯り。書面の上では別々の函に入れられたものが、潮の中では同じ方へ揺れている。
蒼凪さんは資料を追う。
俺は潮を追う。
二つを重ねた時だけ、港の奥がかすかに返事をする。そんな気がした。
「行くぞ、ヒュウマ」
「はい」
扉が閉まる。
古い綴りの湿りは背後へ退いた。
けれど潮騒だけは、まだ耳の奥に残っていた。




