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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
87/127

白い議事場にて

 薔薇の館の馬車は、白い門を静かに出た。


 午前の空はよく晴れていた。雨のあと数日を経たサルマンディアは、石畳の継ぎ目まで乾き始めている。薔薇庭園の湿った匂いが遠ざかる。かわりに潮と馬の汗、それから朝のパンを焼いた匂いが街の方から入ってきた。


 俺は馬車の向かいに座っていた。


 蒼凪さんは窓側に座り、膝の上へ薄い革鞄を置いている。中には今朝アルフレッドさんがそろえた写しがある。蒼凪さん自身の手控えも入っていた。見た目は軽い。けれど俺には、その革鞄が潮鎚より妙に重く見えた。


 傷は、だいぶ良くなっている。


 そう言えるようになった。けれど、良くなったという言い方は便利すぎる。胸の奥の痛みは残っている。長く歩くと脇腹が熱を持つ。朝に包帯を替えた時も、布を締める指の下で体が少しだけこわばった。


 蒼凪さんも同じだった。


 肩の熱は引いたが、完全には戻っていない。腕を上げる動きはまだ少し遅い。歩幅は整っているが、急に振り返る時の軸が前より慎重だった。本人はそれを顔に出さない。けれど隣にいれば、ローブの裾が揺れる半拍に残る。


「ヒュウマ」


「はい」


「今日の議場では、発言しなくていい」


 蒼凪さんは窓の外を見ながら言った。声はいつもの幅だった。俺にだけ届けばいい声だ。


「分かっています。護衛で行きます」


「護衛というより、付き添いだな」


「それは評議会の人に言わないでください」


「言わない」


 蒼凪さんは短く答えた。


 馬車はなだらかな坂を下っていく。屋敷のある高台を離れると、街の音が少しずつ濃くなる。婚礼宿の前では、白い布を抱えた若い男たちが走っていた。花屋の店先には、朝から薔薇と白百合が山のように積まれている。道の角では小さな鐘が鳴り、観光客らしい夫婦が潮真珠の飾りを見比べていた。


 サルマンディアは華やかだ。


 だが、今日はその華やかさが少し遠かった。馬車が進むにつれて、石壁の下へ書類の匂いが混じり始める。役所の区画へ入ったのだろう。店先の看板は少なくなった。かわりに印章屋と筆記具屋が軒を寄せていた。封蝋を扱う小さな店もある。


 封蝋の赤。帳簿の黒。乾いた書面の色。


 その色の並びに、さっきまでの華やかな通りとは違う気配を感じた。あちらは人を歩かせる明るさだった。今日の白は、人を座らせる色だ。


「蒼凪さん」


「何だ」


「今日呼ばれたのは、シローネ商会の件ですか」


「表向きはな」


「表向き」


 繰り返すと、蒼凪さんは少しだけこちらを見た。


「評議会は、不安の形を名前にしたがる。名前があれば会議に載せられるからな」


「シローネ商会、という名前を」


「出したがっている者と、出したくない者がいるはずだ」


 蒼凪さんは革鞄の留め具へ指を置いた。


「俺が見るのは、名前じゃない。動線だ」


「動線」


「誰が、どこを通り、何を避けたか。商会名は、その後でいい」


「先に名前を置くと、見落とすものがある」


「そういうことだ」


 短い返事だった。


 何かを知っている声だった。


 けれど、何を知っているのかまでは見えない。蒼凪さんは必要な話を必要な時まで箱にしまう。こちらが聞けば答えてくれることもある。聞いても、まだ早いと言われることもある。


 今回の箱は、まだ開かないらしい。


「ただ、俺が欲しいのは商会名ではない」


 蒼凪さんが言った。


「じゃあ、何を」


「記録だ」


「評議会の記録ですか」


「港湾台帳、旧水路台帳、海図の改訂履歴、禁漁区の通報記録、漂着物の記録。できれば、港湾改修前後の測量写しも欲しい」


 俺は少し黙った。


 出てきた名目が多い。しかも、シローネ商会を追うだけなら必要なさそうなものまで混じっている。


「それは、シローネ商会のためだけじゃないですよね」


「そうだ」


 蒼凪さんはあっさり認めた。


「療養中は遠くへ動けない。動けないなら、街の中で読める資料を読む。サルマンディアは古い港だ。ここには、航路と潮と石の記録が残っている」


「神殿探索に関係するかもしれないから」


「関係するとは限らない」


 否定は早かった。


「だが、関係しないと決める理由もない。見てから捨てる」


 その言い方が、ひどく蒼凪さんらしかった。


 見てから捨てる。


 俺なら、必要な資料を先に探す。蒼凪さんは違う。必要でないと決めるためにも見る。海で言うなら、救助の時に海面だけでなく岩の影や流れの裏まで見る時に近い。人の気配がなければ、その場所は捨てられる。捨てるために見る。


 馬車が白い石造りの大きな建物の前で止まった。


 サルマンディア評議会庁舎。


 正面には広い階段があった。婚礼広場のような飾りは少ない。だが、柱の上部には薔薇と波を組み合わせた古い彫刻がある。白い石は磨かれているのに、新しく削った石ほど滑らかではない。多くの靴が上り下りしたことで、階段の中央だけがわずかに丸くなっていた。


 石は冷たい。


 けれど、その奥から漂ってくる匂いは生きていた。古い台帳を開いた時の乾いた匂い。蝋を溶かした時の甘い匂い。何度も押された印章の油の匂い。港の魚臭さとは違うのに、ここにも海で飯を食う人間の生活が詰まっている。


 ここは、街の顔ではない。


 街の骨に近い場所だった。


──────────────────────────────


 庁舎の中は涼しかった。


 正面広間には高い天井があり、壁には古い海図が掛かっている。海図の隣には、新しい開発図面もあった。マーレ社の白い印が隅に押されている。古い潮の線と、新しい埋立予定線が同じ壁で向かい合っていた。


 俺はそれを見て、少しだけ息を整えた。


 海図は、見慣れたものに似ている。だがここにある海図は人の会議のために掛けられている。海へ出るためのものではなく、海をどう扱うか決めるためのものだ。線は少し硬く見えた。


 案内の書記官が俺たちを迎えた。


 細い男だった。灰色の上着に、真珠色の留め具。手には帳面。歩くたびに羽根筆が小さく揺れる。彼は蒼凪さんへ深く礼をし、それから俺にも同じ角度で礼をした。


「蒼凪殿。海守り殿。本日はご足労いただき、ありがとうございます」


「お招きいただきましたので」


 蒼凪さんの声が少し変わっていた。


 馬車の中の声ではない。まだ議場の中央に立つ声でもない。けれど、もう公的な場所のために削られ始めている。余分な柔らかさがなく、語尾が短い。


「議場ではなく、第二議事室へご案内いたします」


 書記官が言った。


「公開議事ではない、と」


「はい。港湾治安および契約照会を含むため、非公開の協議となります」


 その一言で、扉の内側と外側に線が引かれた。外から聞こえる話と、中で決まる話は違う。書記官の声が、その境目をはっきりさせた。


 廊下を歩く。


 石床はよく磨かれているが、音を吸わない。靴音がまっすぐ奥へ伸びる。壁際には背の低い棚が等間隔に置かれていた。封蝋済みの書類箱が、棚の奥で静かに白い腹を見せている。箱には日付と担当区が書かれていた。


 港湾。


 土地。


 婚礼儀礼。


 水路。


 治安。


 それぞれの文字が、きっちり同じ大きさで書かれていた。街の暮らしはばらばらなのに、ここへ来ると同じ箱に入れられる。俺には少し息苦しい。それでも、箱がなければ何も探せないのだろう。


 第二議事室の扉は、白ではなく薄い灰色だった。


 書記官が扉を開ける。中には長い楕円の卓があり、すでに数人が座っていた。港湾担当の評議員。治安担当の評議員。土地契約の書記官。海守り支部から来たらしい年配の男。マーレ関連の書類を抱えた事務官もいる。


 彼らの顔に歓迎はあった。


 同時に、疲労もあった。


 この街では、明るい場所ほどよく磨かれる。けれど磨く人間の疲れまでは消えない。事務官の指先はインクで少し黒く、治安担当の評議員の目元には寝不足の線があった。


「白真珠の塔の賢者、蒼凪殿」


 議長役の女性が立ち上がった。年は五十前後だろう。髪は黒に近い灰色で、首元に細い銀鎖をつけている。声は落ち着いている。卓の上に積まれた書類の数だけが、この場の穏やかでなさを示していた。


「お忙しいところ、感謝いたします」


 礼は丁寧だった。


 だが、丁寧な礼ほど逃げ道を塞ぐことがある。頭を下げた後で差し出される書類は、だいたい重い。


「こちらこそ」


 蒼凪さんは礼を返した。


「ただ、先に確認を。私は評議会の調査官ではありません。塔の賢者として、見解を述べるだけです」


 最初に線を引いた。


 俺にはそう見えた。


 議長役の女性は、ほんの少しだけ目を細めた。嫌がったわけではない。むしろ、そこを先に言ってくれる相手だと分かって安堵した顔だった。


「承知しております。本日は見解と、必要ならば照合の助言をいただきたい」


「分かりました」


 蒼凪さんは席へ着いた。俺は扉に近い壁際へ立つ。座るよう勧められたが、首を振った。


 護衛である。


 付き添いだとしても、座る場所ではない。


 部屋は大きくない。戦場ではない。だが出入口は一つ。窓は二つ。どちらも高く、外へ出るには向かない。卓の下には足元の余白がある。何かが起きたら、蒼凪さんを立たせるより先に卓を避けさせる必要がある。


 そんなことを考えている自分に、少しだけ苦笑した。


 議事場で何かが起きる可能性は低い。けれど低いから見ない、という仕事ではない。


「まず、港湾部の報告から」


 議長役の女性が言った。


 港湾担当の評議員が紙を一枚出した。太った男だったが、声は妙に細い。紙の端を持つ指が少し湿っている。


「夜明け前の朝市での騒ぎは、すでにご存じかと思います。魚箱の搬入時、出入り業者と名乗る者らが無登録の通行札を用い、競りの場所へ入り込もうとしました。館の関係者の介入で怪我人は出ておりません」


 館の関係者。


 アルフレッドさんのことだ。名を出さないところに、評議会の気遣いと恐れの両方が見えた。


「押収された小札は白木製。刻印は正規札に似せていますが、微細な差異があります。港湾部の札ではありません」


 白い小札が卓の上へ置かれた。


 本物ではない。だが雑でもない。遠目には分からないだろう。蒼凪さんはそれを手に取らず、まず目だけで見た。次に、紙へ視線を移す。


「同じ刻印は、他に」


「封鎖倉庫の近くで二枚。旧水路の南門で一枚。禁漁区に近い小船の係留具から、似た削りの札が一枚見つかっております」


 書記官が答える。


 旧水路。


 封鎖倉庫。


 禁漁区。


 言葉が部屋の中で別々に置かれた。どれも港の裏にある場所だ。観光客が歩く白い通りではない。荷を動かす人間と、潮の時間を知る人間だけが使う場所。


 治安担当の評議員が咳払いをした。


「同時に、火薬筒の痕跡が二件あります。爆発には至っておりません。焦げと硝煙の匂いだけです。倉庫脇と、旧水路北側の廃船置き場で確認されました」


「火薬筒」


 蒼凪さんが繰り返す。


「正規流通品ではありません。少なくとも、評議会へ届け出られたものではない」


「届け出られたものなら、用途が残る」


「はい」


「残っていない、と」


 治安担当の評議員は頷いた。


「港湾労働者への聞き取りは」


 蒼凪さんが問う。


「進んでおりません」


 港湾担当の男が言った。声がさらに細くなった。


「口が重い。いつもなら競り場の噂は半刻で広がります。今回は、広がる噂と閉じる噂がはっきり分かれている」


「閉じる噂」


「白い札の出どころです」


 部屋が少しだけ静かになった。


 シローネ商会の名はまだ出ない。出せない。けれど、出したい者の喉元まで来ている。


 議長役の女性は、手元の紙を一度閉じた。


「商会名をここで断じるつもりはありません」


「その方がいい」


 蒼凪さんはすぐに言った。


 少し早い返事だった。


 評議員たちの何人かが顔を上げる。助け舟を得た者の息と、警告を受けた者の沈黙が同じ卓に落ちた。


「名を先に置くと、記録が名に従います」


 蒼凪さんは卓の上の小札を見た。


「まず動線を見た方がいい」


 その声で、部屋の空気が変わった。


 議事場用の声になった。


──────────────────────────────


 蒼凪さんは小札をまだ手に取らなかった。


 かわりに、卓の中央に置かれていた港湾地図を自分の方へ寄せる。動きは静かだったが、誰も止めなかった。地図は大きい。港の表側と倉庫街がある。旧水路と封鎖区域もあった。禁漁区へ続く外縁まで描かれていた。


「印を」


 蒼凪さんが言った。


 書記官がすぐに赤い小片を出す。蒼凪さんはそれを受け取り、朝市の場所へ置いた。次に封鎖倉庫。旧水路南門。旧水路北側。禁漁区近くの係留地点。


 赤い点が五つ。


 離れているようで、港の裏側を半円に撫でていた。


「正面の道ではない」


 蒼凪さんは言った。


「裏の搬入路、旧水路、倉庫の影、禁漁区への抜け。観光区でも、評議会の正規導線でもない」


 指が地図の上を動く。


 線を引くわけではない。けれど、指が通った場所に細い道が浮いた。市場の騒ぎ。偽の札。火薬の匂い。口の重い労働者。禁漁区近くの小船。


 全部が別々の事件ではない。港の裏に沿って置かれた石のように、赤い点がひとつずつ重くなった。


「ここを使える者は限られます」


「港の者か」


 海守り支部の年配の男が言った。低い声だった。俺はその声に、少しだけ故郷の支部を思い出した。海を知る者の声は、場所が違っても底が似る。


「港を知る者。もしくは、港を知る者を使える者です」


 蒼凪さんは答えた。


「ただし、これだけでは商会名までは行けない」


「しかし、蒼凪殿」


 治安担当の評議員が身を乗り出した。


「白い札です。旧水路の通行に、近年便宜を得ている業者は多くありません。さらに、ここ三月で物流契約の名義替えが増えています。名を避ける方が不自然では」


「不自然です」


 蒼凪さんは認めた。


「だが、不自然と確定は違う」


 治安担当の評議員が口を閉じる。


「名前が同じでも、港ごとに手は違います」


 その一言で、部屋の温度が半歩下がった。


 俺も息を止めかけた。


 ここで押し返すのか。


 指が、腰の索具へ少しだけ近づいた。だが、蒼凪さんは名を足場にしなかった。むしろ、名前を置いたまま線だけを見ろと言っている。


「だから言います。名を急ぐべきではない。表の顔と、サルマンディアで動く手が同じとは限らない。商会は一枚の顔で動くものではありません」


「では、どうすれば」


 議長役の女性が問うた。


 蒼凪さんは地図から顔を上げた。


「記録を見ます」


 部屋の全員が、少しだけ身じろぎした。


 その一言を待っていた者の筆が動く。避けたかった者の手は、紙の端を押さえたまま止まった。


「白札の押収記録。正規通行札の控え。旧水路台帳。封鎖倉庫の巡回記録。火薬筒の回収報告。禁漁区近くの通報記録。港湾改修前後の測量記録。古い海図の改訂履歴。漂着物と沈礁、引き揚げ品の記録」


 列挙する声は淡々としていた。


 けれど、量が多い。


 評議員たちの顔がだんだん険しくなる。治安の話だったはずが、港湾史と考古資料にまで広がっていく。卓の下で、誰かの靴先が床を一度だけ擦った。これは、ただの犯人探しではない。


 俺にも、そこで少しだけ見えた。


 蒼凪さんは怪しい札を追っているだけではない。札が通った道を追っている。その道が昔からあったものなら、昔の図も要る。途中で埋められたなら、改修の記録も要る。海が何かを返した場所なら、漂着の記録も要る。


 一つの小札が、港の古い背骨に触れていた。


「そこまで必要でしょうか」


 港湾担当の評議員が言った。


「助言だけなら不要です」


 蒼凪さんはすぐに返した。


「港の裏側で線を引いている者がいる。現時点で言えるのはそれだけです」


「それだけでは、評議会として動けません」


「なら、記録が要ります」


 短い。


 だが強い。


 部屋の中で、何かが倒れたような気がした。音はしない。けれど、今まで評議員たちが手で支えていた板が一枚外れた。助言が欲しいだけなら、ここで終われる。だが動きたいなら、記録を出さなければならない。


 蒼凪さんは、そこへ持っていった。


 俺は壁際で見ていた。


 最初は、蒼凪さんが評議会に呼ばれて面倒事を押しつけられているように見えた。いや、半分はそうなのだろう。けれど今は違う。蒼凪さんは押されているのではない。相手が押してきた力を使って、別の扉へ手をかけている。


「蒼凪殿」


 議長役の女性が言った。


「それらの記録の閲覧は、評議会の承認が必要です。特に旧水路台帳と港湾改修前後の測量記録は、土地契約にも関わります」


「承知しています」


「閲覧の目的を、治安照合に限る形でなら」


「十分です」


 蒼凪さんの返答は早かった。


 早すぎるほどだった。


「ただし、照合には港湾史の記録も含めてください。旧水路は現在の道だけではなく、過去の塞ぎ方が重要になります。どこが塞がれ、どこが塞がれていないか。そこを見なければ、今の通行札だけ見ても意味が薄い」


 書記官が筆を走らせる。


「漂着物や引き揚げ品の記録は」


 土地契約の書記官が問うた。


「旧水路や禁漁区の近くに、不自然な回収物があるかを見るためです。人が使う道と、海が返す物は別に見えて重なることがある」


「考古資料を含む可能性があります」


「だからこそ正式な閲覧権限が要ります」


 蒼凪さんの声は変わらない。


「私が勝手に見れば、後で問題になります。評議会の照合依頼で見るなら、記録の扱いも明確になる」


 うまい。


 その言葉が喉の奥に出かけた。


 うまいという言い方で足りるかは怪しい。だが、他に近い言葉もない。蒼凪さんは自分が欲しいものを、評議会が必要だと言わざるを得ない形にしている。


 自分の調査のために必要な入口。


 それを、街の困りごとの中から取り出している。


「期限は」


 議長役の女性が聞いた。


「初回閲覧は三日以内。照合にはさらに数日」


「早いですね」


「早くなければ、口の重い者はさらに重くなる」


 治安担当の評議員が、そこで初めて小さく頷いた。


「また、閲覧室には私とヒュウマだけで入ります」


 蒼凪さんが言った。


 俺の肩が少し動いた。


「俺もですか」


 つい声が出た。発言しなくていいと言われていたのに、ここで反応してしまった。


 蒼凪さんは俺を見た。


 公的な場なのに、ほんの少しだけいつもの目になった。


「お前は港の言葉を拾える。紙にない違和感を見れば言え」


 それだけだった。


 その瞬間、部屋の中で俺の立ち位置が変わった。護衛ではなく、照合の一部にされた。海守りとして。紙の外側を読む者として。


「承知しました」


 俺は短く答えた。


 議長役の女性は少し考え、それから書記官へ目を向けた。


「仮承認とします。正式な閲覧許可は本日中に作成。対象記録は、蒼凪殿が今挙げた範囲。閲覧室は港湾棟の記録室。立ち会いは書記官一名、港湾部一名」


 筆の音が急に増えた。


 決まった。


 決まると、人は急に現実の動きを始める。誰が鍵を持つか。どの棚を開けるか。どの写しは出せるか。どの原本は閲覧のみか。言葉が細かくなる。


 蒼凪さんはその間、地図の上の赤い印を見ていた。


 表情は変わらない。欲しいものを得た顔ではない。まだ始まっていないものを見る顔だった。


 俺はその横顔を見た。


 海で戦う蒼凪さんを、俺はよく知っている。詠唱に入る時、手のひらが前に出る。声が潮の底へ沈む。背中の線が少し細くなる。その間、俺は前に立つ。


 でも今日の蒼凪さんは、紙の前で戦っていた。


 詠唱はない。海溝晶も出ない。水も動かない。けれど、部屋の中の道筋が変わった。評議会の扉が開いた。港の古い棚が、蒼凪さんの前に一つずつ鍵を出す。


 紙の上でも、この人は危ない。


 そう思った。


──────────────────────────────


 協議が終わる頃には、昼に近い光が窓の高いところへ移っていた。


 第二議事室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。中の空気は乾いていた。紙と封蝋と、言葉を選び続ける人間の喉の匂い。外の廊下には、まだ人が行き来する温度があった。


 書記官が深く礼をする。


「閲覧許可は午後までに薔薇の館へお届けいたします」


「お願いします」


 蒼凪さんは短く答えた。


 俺も礼を返す。庁舎の中では、動作がいつもより少し硬くなる。海守りの支部なら、もっと息が楽だ。ここでは、紙の角を踏まないよう歩く気分になる。


 廊下を少し進んだところで、俺は聞いた。


「蒼凪さん」


「何だ」


「最初から、記録閲覧が目的だったんですか」


 蒼凪さんは歩く速度を落とさなかった。


「半分は」


「半分」


「評議会の不安は本物だ。そこを軽く扱う気はない」


「でも、利用した」


「した」


 即答だった。


 少しもごまかさない。そこに俺は呆れたし、同時に安心もした。蒼凪さんが変に善人ぶっていれば、たぶん俺はもっと戸惑った。


「正義のためではないんですね」


「正義は評議会が掲げればいい」


 蒼凪さんは廊下の先を見る。


「俺が欲しいのは、追えるものを追うための入口だ」


「考古資料も」


「ああ」


「南西海域の古い記録と、ここの記録が繋がるとは限らない」


「限らない。だから見る」


 また、その言い方だった。


 見てから捨てる。見てから残す。見なければ、捨てることも残すこともできない。


「療養中なのに、結局仕事が増えてませんか」


「増えたな」


「そこは否定してください」


「否定はしない」


「でしょうね」


 俺がため息をつくと、蒼凪さんが少しだけ笑った。公的な場の廊下で、声にはしない。口元だけの笑いだった。


「無理はしない」


「それ、昨日も言ってました」


「昨日も守った」


「基準が甘いです」


「ヒュウマ」


「はい」


「お前も閲覧室に入る」


「今、話を逸らしましたね」


「逸らした」


 また即答だった。


 俺はもう一度ため息をついた。けれど、胸の奥では少しだけ熱があった。蒼凪さんは俺を護衛としてだけ連れてきたわけではない。紙にない港の匂いを拾えと言った。


 俺が海で覚えたものも、この人の調査の役に立つ。


 そのことが、少し嬉しかった。


 庁舎の中庭へ出る手前で、白い外套が見えた。


 見覚えのない男が、階段の下に立っていた。


──────────────────────────────


 初めて近くで見るその男は、遠目に見た時より白すぎなかった。


 白外套はよく手入れされている。けれど、マーレの白のように光を返すための白ではない。旅の埃がつけば目立つ。血がつけばもっと目立つ。そういう白だった。


 身長は俺より少し高い。鍛えられているが、ガイウスさんのような厚みではない。よく動くための体だ。灰青色の目は柔らかい。柔らかいのに、こちらが立ち止まる前から会釈の深さが決まっていた。


「蒼凪殿」


 彼は先に蒼凪さんへ礼をした。


「お初にお目にかかります。ルシアン・セーヴァです。聖オルヴェリス教会本部より、勇者一行の支援に入っております」


 声は明るい。近づきすぎない。遠すぎもしない。こちらが警戒すれば引ける距離で、こちらが話そうとすればすぐ返せる距離だった。


「蒼凪です」


 蒼凪さんが礼を返す。


「こちらはヒュウマ」


「ヒュウマ殿。お会いできて光栄です」


 ルシアンは俺へ向き直った。


「海守りの当代殿としても、お噂は聞いています。お身体の具合はいかがですか」


「歩ける程度には戻っています」


「それは何よりです。歩けるというのは、思ったより大きいことですから」


 聞き覚えのある言い方だった。


 カイさんにも似ている。けれど、少し違う。カイさんは傷そのものを見る。ルシアンは、傷を抱えた人間が次にどこへ置かれるかを見ているような声だった。


 俺はそれを、まだ言葉にはできなかった。


「こちらへは」


 蒼凪さんが問う。


「教会支部と評議会の連絡で、少し」


 ルシアンは軽く肩をすくめた。


「この街は、祈りだけでは回りません。契約書と印章の力もなかなか強い」


「サルマンディアらしいですね」


「ええ。嫌いではありません。人が真面目に現実を回そうとする場所は、見ていて勉強になります」


 言葉には落ち度がない。


 蒼凪さんは黙った。ほんの一拍だけ。


 俺はその一拍を見た。


 ルシアンの言葉が嫌だったわけではないはずだ。むしろ、何も間違っていない。だが蒼凪さんは、何かを測った。相手の立つ位置か。言葉の置き方か。俺の目では、そこまで追えない。


「勇者一行の皆様は」


 蒼凪さんが聞いた。


「少しずつ回復されています。レオン君は、相変わらず真面目すぎるくらいです。カイ神官がきちんと止めてくれていますので、そこは安心しています」


 ルシアンは笑った。


「ガイウス殿も、動ける範囲が広がってきました。ヴァロー殿は記録を増やし、ヴェスタ殿は街の値段に詳しくなっています」


「街の値段を」


 口が先に動いた。


 ルシアンの目が少しだけ俺へ戻る。


「面識はございましたね」


「港で、少し顔を合わせただけです」


「彼は面白い方です。見ていないようで、とてもよく見ている」


 そういう見方も、あるのだろう。


「勇者一行とは、後日に席を設ける必要があります」


 ルシアンは蒼凪さんへ向き直った。


「日取りはまだ詰めておりません。こちらから急かすつもりもありません。皆様が療養中であることは、レオン君も理解しています」


「お気遣い感謝します」


 蒼凪さんの声は丁寧だった。


 ただ、少しだけ平らだった。


「必要な席だとは思っています」


 ルシアンは続けた。


「同じものを追う方々が、同じ街にいる。なら、急がずとも、いつか同じ机に着くべきでしょう」


「その点は同意します」


「よかった」


 ルシアンは本当に安心したように笑った。


 本当に、かどうかは追えない。けれど笑い方は自然だった。あまりに自然で、自然に見えるよう整えられているのかと考えたくなる。


 俺はそこまで考えて、自分で少し苦笑した。


 疑いすぎかもしれない。カイさんが信用している相手だ。レオンさんたちの支援も実際にしている。宿も医者も報告の道筋も、この人が整えたと聞いている。


 礼儀正しい人。


 今の俺には、そう見えた。


「評議会の朝は、紙の匂いが濃いですね」


 ルシアンがふと廊下の奥を見た。


「教会本部も紙は多いのですが、ここは潮が混じる。土地が違えば、同じ書類でも匂いが変わる」


 議場の中身には触れていない。


 けれど、ここにいたことの輪郭だけを拾う言葉だった。外から見える範囲だけで、こちらの朝をなぞってくる。蒼凪さんの横顔が、またわずかに静かになる。


 中を覗いてはいない。


 それでも、扉の前に残った靴跡の数くらいは数えている。そんな声だった。


「紙に潮が混じると、保管が難しい」


 蒼凪さんが言った。


「賢者殿らしいご返答です」


「ただの事実です」


「事実をどこから拾うかで、人柄が出ます」


 ルシアンは穏やかに返した。


 俺はその会話を聞きながら、少しだけ落ち着かなかった。二人とも礼儀正しい。声を荒げない。言葉は丸い。なのに、卓の上に見えない小札が置かれているような感じがする。


「では、私はこれで」


 ルシアンが一歩下がった。


「蒼凪殿。ヒュウマ殿。どうかご無理なさらず。席の件は、正式に整えてから改めて」


「はい」


「ありがとうございます」


 俺は礼を返した。


 ルシアンは最後にもう一度笑い、中庭の向こうの廊下へ歩いていった。白外套が柱の影を抜ける。足音は軽く、庁舎の石床に長く残らない。


 俺はその背を見送った。


「礼儀正しい人ですね」


 そう言うと、蒼凪さんはすぐには返事をしなかった。


 中庭には小さな噴水がある。水音は細い。白い石の縁に光が反射し、壁に揺れる。遠くの窓から、事務官たちの声がかすかに聞こえた。書類箱を運ぶ音。封蝋の箱を置く音。


「そうだな」


 蒼凪さんはようやく言った。


「礼儀正しい」


 同じ言葉を繰り返しただけだった。


 けれど、その中に少しだけ別のものが混じっていた。俺にはそれが何か分からない。警戒か。違和感か。単に疲れか。


「蒼凪さん」


「何だ」


「何か気になりましたか」


 蒼凪さんは俺を見た。


 その目は、馬車の中のものに戻りかけていた。けれど完全には戻っていない。議場の白と、ルシアンの外套の白がまだ目の奥に残っていた。


「立つ位置が上手い」


「位置」


「話す前から、相手が返しやすい場所に立つ」


 俺はルシアンが立っていた位置を思い出した。


 階段の下。廊下の曲がり角。こちらの行く手を塞がない。けれど避けて通るには少し不自然な位置。確かに、あそこに立たれれば声をかけるのが自然になる。


「それは、礼儀では」


「礼儀でもある」


 蒼凪さんは言った。


「だから厄介だ」


 厄介。


 それは、嫌いという言葉ではなかった。危険とも違う。けれど、ただの好青年として箱に入れるには少し形が合わない。そんな感じだった。


「ヒュウマは、どう見た」


 急に聞かれた。


「礼儀正しい人でした。あと、カイさんたちをちゃんと見ています」


「うん」


「ただ、蒼凪さんが一拍黙ったので、何かあるのかと」


 蒼凪さんは短く息を吐いた。笑ったわけではない。けれど少しだけ柔らかかった。


「よく見てるな」


「いつも見てます」


 口に出してから、少しだけ気恥ずかしくなった。けれど言葉は戻らない。蒼凪さんは何も言わず、噴水の水面を見た。


「悪くない」


 その一言だけだった。


 俺は返事をせず、隣に立った。


──────────────────────────────


 庁舎を出ると、外の光はさらに白かった。


 昼前のサルマンディアは人が多い。広場の近くでは、婚礼用の馬車が列を作っている。評議会庁舎の階段を下りる人々も途切れない。契約書を抱えた商人がいる。港湾部の腕章をつけた男もいる。薔薇庭園の儀礼日程を確認しに来たらしい宿の支配人もいた。


 街は動いている。


 その動きの下に、今日見た赤い点がある。朝市。封鎖倉庫。旧水路。廃船置き場。禁漁区近くの小船。シローネ商会の名は、まだ紙の上で断じられていない。


 けれど、港の裏側に線は引かれた。


 蒼凪さんは階段の下で一度立ち止まり、庁舎を振り返った。


「午後には許可が届く」


「はい」


「明日か明後日、閲覧に入る」


「俺も行くんですよね」


「来い」


 短い言い方だった。


 命令のようで、頼みでもある。蒼凪さんはそういう時、言葉を飾らない。俺は頷いた。


「行きます」


 馬車は少し離れた場所で待っている。薔薇の館の御者がこちらに気づき、扉を開ける準備をした。白い馬車の側面に、薔薇の小さな紋が光っている。


 俺は歩き出しかけて、もう一度庁舎を見た。


 白い議事場。


 白い廊下。


 白い外套。


 同じ白でも、全部違う。


 評議会の白は、紙と石の色だった。マーレのそれは、舞台と光のためにあった。ルシアンの外套には、礼儀と道案内の匂いがした。薔薇の館の白だけが、扉の奥に赤を隠している。


 俺はまだ、それぞれの違いをうまく言葉にできない。


 でも、蒼凪さんはきっと箱に分けている。


 その箱の一つへ、今日の港の古い記録が入る。もう一つへ白い札が入る。別の箱へ、ルシアン・セーヴァという名前が入る。


「ヒュウマ」


「はい」


「飯を食ってから帰るか」


 意外な提案だった。俺は蒼凪さんを見る。


「いいんですか」


「お前が朝、少なかった」


「見てたんですか」


「見てた」


 蒼凪さんは平然と言った。


 俺は少し笑った。


「じゃあ、軽いものを」


「軽いものだな」


「蒼凪さんもです」


「分かっている」


「本当に?」


「努力する」


「それ、弱いやつです」


「では、食べる」


「それでいいです」


 御者に声をかける前に、俺たちは庁舎前の広場を少しだけ歩いた。白い石の上に、昼の光が落ちている。通りの向こうから、焼いた魚と香草の匂いがした。


 扉は開いた。


 けれど、開いた先の匂いはまだ海ではない。紙と石と、白い礼儀の匂いがした。


 それでも、俺たちはそこへ入る。


 蒼凪さんが読むために。


 俺が、紙にない港の息を拾うために。

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