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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
86/128

蜜蝋の帳面

 薔薇の館の朝は、表玄関の白い扉が開くより先に始まっている。


 朝露を受けた庭園も、円柱の並ぶ玄関広間も、訪れる者には屋敷の顔に見える。けれど屋敷が本当に目を覚ますのは、もっと火に近い場所だった。厨房の熱。洗い場の湯気。石床に吸われていく靴音。誰かがまだ眠っている部屋を起こさぬように歩く足の重さ。


 使用人詰所の長机には、朝の記録板が順に置かれていた。


 西館、主館、厨房、薔薇庭園、馬車庫、表門、夜番。蜜蝋で薄く磨かれた木札は、どれも角が取れている。長く手に触れられた道具だけが持つ艶があり、朝の光を反射するでもなく静かに受け止めていた。窓辺では蜂が一匹、硝子の向こうの冷えを確かめるように弧を描いた。


 メリッサ・セラは長机の端に立っている。


 左手には黒革の帳面。右手は頁の端を押さえていた。蜂蜜色の髪は乱れなくまとめられ、生成りのエプロンには淡い金糸の蜂が一匹だけ留まっている。顔立ちは柔らかく、肌にも若さが残る。それでも目元だけは、朝の光よりずっと古いものを見ていた。


 使用人たちは彼女の前で背筋を伸ばす。


 怖がっているのではない。ここで背を丸めることが、まだ火の入っていない炉に湿った薪を差すのと同じだと知っているだけだった。メリッサは声を荒げない。だからこそ、誰も彼女の静かな声を聞き逃さない。


「西館の朝食は昨日より軽くいたします。凪様は博物館からお戻りの後、肩の熱が戻っております。温かいものを少量ずつ。透真さんへは、白身魚の粥を薄めにと伝えてくださいませ」


 厨房係が一歩下がるほど深く頷いた。


「ヒュウマ様は海守り支部へお出かけです。包帯替えは出立前。戻りが遅れる時は門番へ一報を。薬湯は冷めますので、二度目を用意する前提で動きなさい」


 木札が一枚、隣へ滑った。軽い音だったが、その場にいる者の耳には今日の予定が一つ形を変えた音として届く。


「語り部殿は薔薇庭園で声を出されます。庭師へ、東側の剪定を半刻遅らせるように。鋏の音は悪くございません。けれど歌の近くへ置く必要はありません」


「承知しました」


「シレリオ殿の窓辺は昼前に一度確認。海鳥が来ます。来たものを追い払う必要はありません。ただし糞は残さないでください。鳥が悪いのではございません。窓を汚れたままにする者が悪いのです」


 詰所の端で、若い下働きが笑いを噛んだ。


 メリッサは見なかった。見ないまま帳面をめくる。許された笑いはそこで小さく息を吐き、すぐに朝の仕事の中へ戻った。紙の擦れる音だけが長机の上を薄く渡る。


「フェリ様の小皿は、骨を残さず。昨日は小骨が一本ございました」


 空気が締まった。


 誰かの喉が動く音まで聞こえそうな静けさだった。フェリ様の小皿を担当した者だけではない。皿を運んだ者。台に置いた者。片づけた者。その全員が、目に見えない線の内側へ立たされた。


「該当者を叱っているのではございません。止めております。次に喉へ残れば、困るのはフェリ様ではなく、あなた方です」


「はい」


 三人の返事が重なる。少し早く、少し硬い。メリッサはそれで十分だと判断した。過ぎた罰は作業の手を鈍らせる。足りない注意は命の近くへ落ちる。


「奥様は朝食前に煙管を持たれます。お止めしなくて結構です。ただし三口は召し上がっていただきます。皿を増やしてはいけません。皿の数で勝負する方は、奥様に負けます」


 今度は空気がわずかにほどけた。


 奥様相手に勝てる厨房など、この屋敷にはいない。勝てないと知ってなお、毎朝きちんと負けに行くのが厨房の仕事だった。若い者がそこまで理解するには時間がいる。古い者たちは口で教えず、焼き目の薄いパンを選び、皿の端を温め、湯を少し遅らせる。


 配膳口から湯気が流れてきた。


 焼いたパンの香り。薄い蜜。刻んだ香草。洗い立ての布。朝の屋敷は甘くない。甘さで人を起こせるほど、ここに眠る者たちは単純ではなかった。それでもところどころに蜂蜜色のものがある。窓枠に落ちる光。磨かれた木札。火口の赤を映した蜜蝋。メリッサの髪。


「ディーノさん」


「はい、メリッサ様」


 若いバトラーが一歩前へ出る。靴音は整っていた。だが右足だけ半拍早い。表門を任される緊張が、足首に出ている。


「表門の来客予定は」


「午前に評議会の使いが一名。昼過ぎに婚礼宿の支配人代理が一名。どちらも奥様への直接面会ではなく、書類預かりの予定です」


「結構でございます。評議会の使いには応接室を開けません。玄関脇の小間で受けてください。婚礼宿の件は薔薇庭園の儀礼日程です。書類を受けたら私へ」


「承知しました」


「それから、昨日の西館の寝具交換記録を」


 ディーノの後ろにいた若いメイドが小さく息を止めた。


 クララ・ヴィチーニ。十七か十八。屋敷に来てまだ半年にもならない。髪を留めるピンの位置は毎朝正しい。字も丁寧で、罫線をはみ出すことは少ない。ただ急ぐ時、人の名を縮める癖がある。メリッサはその癖を、入って三日目には見ていた。


 クララが記録板を差し出す。指先は白くなっていた。


 メリッサは受け取り、最初の行から最後の行まで視線を落とす。黒い睫毛が少し伏せられる。爪の先が木の端へ触れたまま止まった。


 沈黙は短い。


 けれど若い者にとって、叱責より長く感じる沈黙がある。湯の音も皿の触れる音も、今だけは隣の棟ほど遠くなった。


「クララさん」


「はい」


「ここです」


 メリッサは爪の先で一箇所を示した。


 庭師の補助として入った下働きの名が、頭文字だけで書かれている。欄の狭さに負けた字だった。悪意はない。悪意がないからこそ、そこで止めなければ同じことが明日も起きる。


「名前は略さないでくださいませ」


 クララの頬が赤くなる。


「申し訳ございません。欄が足りず」


「欄が足りない時は、板を替えます」


「はい」


「同じ名の者が三人いた年もございます。略せば、誰かが消えます」


 詰所の奥で湯が沸いた。短く丸い音だった。


 クララは唇を結び、頭を下げた。記録板を抱き直す時、木の角がエプロンへ小さく当たる。痛いほどではない。けれどその小さな衝撃は、きっと彼女の手に残る。


「書き直します」


「結構でございます。急ぎではありません。正しく」


「はい」


 メリッサは記録板を返した。


 叱責は終わっている。だが朝の中には一本の線が引かれた。


 名前を省かない。


 屋敷の規則であり、メリッサの癖であり、ここに入る者が最初に覚える礼だった。名は皿より軽い。口に出せばすぐ落ちる。紙に書けば小さく済む。だからこそ、皿より先に床へ落としてはならない。


──────────────────────────────


 朝会が解けると、使用人たちは水が流れるように散っていった。


 厨房へ向かう者。西館へ行く者。庭園側の道具置き場へ回る者。足音は増えたが、騒ぎにはならない。それぞれが自分の今日を手に取り、廊下へ運んでいく。ディーノは表門の予定札を持ち、右足の早さを少しだけ整えて玄関側へ歩いた。


 クララは記録板を抱えたまま、詰所の隅の机へ座る。替えの板と細い罫線引きが用意されていた。彼女は深く息を吸い、まず欄を引き直した。それから名前を書いた。急いではいない。正しく書く手は、少し遅く見える。


 メリッサは黒革の帳面を閉じ、配膳口へ視線を送った。


「奥様の三口は」


「蜂蜜入りの柔らかいパンを小さく切っております」


 厨房係が答える。


「薔薇蜜は薄く」


「はい」


「甘くすれば召し上がる、というものではございません。奥様は甘さに釣られる方ではありません」


「承知しました」


「ただし香りは少し立ててください。負けるにしても、厨房が手を抜いた負け方をしてはいけません」


 厨房係が一瞬だけ笑った。


 その笑いは許される場所にあった。メリッサは咎めない。配膳口の向こうで小皿が布に載せられ、湯気の中へ消えていく。パンの断面に蜜が薄く光り、火のそばで温まった陶器が淡く赤を帯びていた。


 詰所の奥には厚い扉がある。


 客人が通る場所ではない。奥様の書斎でもなく、契約のための部屋でもない。使用人たちはそこを帳面部屋と呼ぶ。正式には使用人記録室。薔薇の館で働いた者の名、持ち場、勤務年、給金、怪我、退職、死亡、縁者照会、封印に関わる異常までが年代ごとに納められている。


 扉の表には小さな蜂が彫られていた。


 派手な意匠ではない。目を凝らさなければ木目のうねりに紛れてしまう。けれど朝の光が低く差す時だけ、羽の線へ蜜色の陰影が浮かぶ。彫りの溝には磨き布の細かな繊維が残り、誰かが毎朝そこにも手を通していることを示していた。


 鍵はメリッサが持たない。


 鍵束はアルフレッドの職分である。


 記録はメリッサの職分である。


 扉を守る者と、扉の内側へ残す者。二つの手が同じ扉の前で重ならずに働くから、この屋敷は長く動いてきた。鍵が鳴り、紙が開き、名が乾いた行の上へ置かれる。そこに声は要らない。要るのは手順と、忘れないための根気だった。


 メリッサは帳面部屋の扉を見た。


 今日その扉を開ける予定はない。昨日の封蝋確認は済んでいる。新規使用人の登録もない。退職願も出ていない。死亡記録も、今日はない。


 今日はない。


 その言葉だけで胸の奥が少し軽くなる朝がある。軽くなった場所へ、厨房の湯気と蜜蝋の匂いが静かに入ってくる。火のそばに置かれた蝋は柔らかくなりすぎず、まだ形を保っていた。


「メリッサ様」


 表側から足音が近づいた。


 ディーノではない。もっと軽く、急いでいるのに石床を乱さない足音だった。玄関補助のメイドが詰所の入口で一礼する。走って来たのだろう。頬に色が差していたが、声を出す前に靴先を揃えるだけの余裕は残している。


「予定にない来客です」


 メリッサは帳面から顔を上げた。


「お名前は」


「リヴィア・カルミネ様と。お約束はないとのことです。ですが古い手紙をお持ちで……薔薇の館に勤めていた者の、記録を確認したいと」


 詰所の空気が変わった。


 朝の仕事は止まらない。湯は沸き、皿は運ばれ、布は畳まれる。それでもメリッサの周囲だけ、冷めた蜜蝋が形を決めるように静かになった。隅の机で書いていたクララの筆先も一度止まり、すぐにまた板の上へ戻った。


「手紙を」


 メイドは封筒を差し出した。


 古い紙だった。端は傷み、角には焦げ跡がある。保存が良いとは言えない。けれど粗末にされた紙でもなかった。幾度も包み直され、乾いた布に守られ、誰かの箪笥の奥で季節を越えてきた手紙だった。焦げた角に火の匂いはもう残っていない。それでも薄くなった紙は、指の腹へざらりと触れた。


 表に差出人の名がある。


 エレナ・カルミネ。


 メリッサの指が一拍だけ止まった。


 あまりに短い停止だった。若いメイドは気づかなかったかもしれない。けれど窓際を飛んでいた小さな蜂が、その瞬間だけ羽音を変えた。メリッサの喉の奥にも、古い紙をめくった時の乾いた音が戻る。


「奥様へお取次ぎいたします」


「応接室を」


「小応接室ではありません。東の応接室を開けてください」


 メイドは目を見開いた。


 東の応接室は、評議会の使いにも簡単には開けない。朝の光がよく入る部屋で、椅子の脚には白い布が当ててある。疲れた客の靴音を責めないための部屋だった。


「承知しました」


「それから茶は薄い薔薇茶ではなく、蜜入りの黒茶を。菓子は焼き菓子を三つ。甘すぎないものを」


「はい」


「リヴィア様には、まず手を温めていただきます。遠くからいらした手です」


 メイドは少し迷い、それから深く頷いた。


「承知しました」


 メリッサは封筒を両手で持った。


 軽い。


 紙はいつも軽い。


 そこに人一人の若い頃が入っていても、長い家族の不安が挟まっていても、火の気配を越えて残った名が眠っていても、手に載る重さはわずかである。


 だから人は紙を雑に扱う。


──────────────────────────────


 東の応接室は午前の光を柔らかく受ける部屋だった。


 壁は白ではなく、薄い蜂蜜色を帯びている。窓辺には赤い薔薇ではなく、小さな白薔薇が飾られていた。客を圧するための部屋ではない。緊張した者が、少しずつ肩を下ろせるように作られている。暖炉には火がなく、かわりに温めた石が陶器の籠へ入れられていた。


 リヴィア・カルミネは椅子に浅く腰を下ろしていた。


 二十代の終わり頃だろう。旅装は上等ではないが、よく手入れされている。手袋は古く、指先だけ布が薄い。膝の上には布包みがあり、その中に手紙と小さな木箱がある。靴には街道の乾いた土が残っていた。表門で落としきれなかったのだろう。


 メリッサはそれを見た。


 靴を見て、歩いた距離を読む。


 手袋を見て、手仕事の癖を読む。


 肩を見て、夜明け前に出た疲れを読む。


 そして若い手を見る。


 火傷の跡も、古い皺もない。手首の内側の皮膚は薄く、これからいくつもの季節に変わっていく余地を持っている。爪の端には洗っても落ちきらない土が少しだけあり、旅の前に急いで水を使ったことが分かった。


 眩しい手だった。


 メリッサは視線を戻し、礼をした。


「メリッサ・セラと申します。この屋敷の生活記録と使用人統括を預かっております」


 リヴィアは慌てて立とうとする。


「そのままで結構でございます」


 メリッサは静かに言った。


「長く歩かれた方は、先に座ってくださいませ」


「突然の訪問で、申し訳ありません」


 リヴィアの声は緊張していた。言葉を選ぼうとして、選びきれずに手元へ落としている声だった。


「薔薇の館には、紹介状もなく来るものではないと承知しております。ただ、祖母が亡くなりまして……墓碑に刻む名のことで、どうしても」


「伺います」


 メリッサは向かいに立ったまま、言葉を急がせなかった。


 茶器はまだ口元へ運ばれない。こういう時、先に温めるべきものは喉ではなく手である。手が温まれば、人は布包みをほどく力を取り戻す。


 リヴィアは布包みを開いた。


 古い手紙。小さな木箱。中には色褪せたリボンと、金属の小さな針入れが入っていた。針入れは磨かれている。蓋の縁だけが薄く黒ずみ、何度も開け閉めされた跡がある。針を失くさぬ人の道具だった。


「祖母はエレナ・カルミネと申しました。若い頃、この館で働いていたと聞いております。ただ村の古い台帳では、エレーナとも、カルミーネとも書かれていて。教区の墓碑には、その台帳に従うと言われました」


 最後の言葉が震えた。


「祖母は、自分の名をきちんと書く人でした。字がきれいで、私にも何度も教えてくれました。なのに最後に石へ刻まれる名が違うのは、嫌で」


 リヴィアは俯いた。


「屋敷に記録が残っていれば、証明になるかもしれないと母が申しました」


 メリッサは手紙の表を見る。


 エレナ・カルミネ。


 焦げ跡のある封筒。蜜蝋ではなく、安い赤蝋。けれど封の仕方は丁寧だった。押した親指の位置が、ほんの少し左へ寄っている。紙を惜しむ人の折り目。封を急がず押す指。昔の朝に見た癖が、そこに残っていた。


「お祖母様は、ご自分の名を、エレナ・カルミネと書かれていました」


 リヴィアが顔を上げる。


「ご存じなのですか」


「記録を確認いたします」


 メリッサはそう答えた。


 答えすぎない。来客がほしいのは慰めではない。正しい名である。だから布を一枚先に出し、濡れた指で手紙を持たなくてよい位置へそっと置く。木箱は針入れが揺れないよう、布の皺を指先でならした。


 扉の外で足音が止まった。


 次の瞬間、東の応接室の空気が変わる。


 エヴァンジェリーネが入ってきた。


 深紅ではなく、朝の薄い金のローブを羽織っている。金の髪は緩く流れ、指には薔薇の指輪が一つだけ。いつもの退屈そうな笑みはある。けれどそれは、来客を値踏みするための笑みではなかった。


 リヴィアは反射的に立とうとした。


「座れ」


 エヴァが言った。


「遠慮は礼ではない。足を使ってここまで来た者が、主の顔を見た途端に立つものではない」


 リヴィアは動きを止める。


「は、はい」


 エヴァは満足げに頷いた。


「リヴィア・カルミネ、と申したな」


「はい」


「妾の屋敷に勤めた者の縁者なら、妾の客である。急な来訪を詫びる必要はない。急に訪ねられて困るような屋敷なら、長く人など雇えぬわ」


 リヴィアの目が揺れた。


 彼女はサルマンディアの名士へ会いに来たのではない。魔女の屋敷を恐れて来たのでもない。ただ祖母の名を探しに来た。だが部屋に入ってきた若い女の姿をした魔女は、その目的を軽く扱わなかった。評議会の使いを立たせる部屋より良い椅子を与え、商人へは出さない白薔薇を窓辺に残している。


 メリッサは茶を置いた。


 黒茶。蜜を薄く。焼き菓子を三つ。


「まず、手を温めてくださいませ」


 リヴィアはカップへ両手を添える。


 手袋を外した指先が、陶器の熱に少しだけ緩んだ。指の関節に入っていた力がほどけ、爪の色が戻っていく。湯気に蜜の香りが混ざる。甘いというより、紙の乾きへ一滴だけ落とすための香りだった。


 エヴァは椅子へ腰を下ろし、メリッサを見る。


「帳面か」


「はい、奥様」


「何年だ」


「おそらく、百二十六年前から百二十一年前の間でございます」


 エヴァは目を細めた。


「ああ」


 その「ああ」には、長い記憶の棚を開ける音があった。


「足の速い娘がいたな。燭台の磨き方が上手かった」


 リヴィアの指がカップの上で止まる。


「祖母は、家でも燭台を磨いていました」


「であろうな。あれは癖になる」


 エヴァは少し笑った。喉で転がるほどではなく、光に触れた金の飾りがわずかに鳴る程度の笑みだった。


「メリッサ。帳面を」


「アルフレッドを呼んでおります」


「呼ぶ前に来るであろう」


 エヴァの言葉が終わる前に、扉が控えめに叩かれた。


「失礼いたします」


 アルフレッド・ダルマスが入ってきた。


 黒山羊頭の執事頭は、朝の応接室に入っても影の質を変えない。巨躯である。だが部屋を狭くしない。角の角度も、扉をくぐる歩幅も、椅子との距離も、すべてが長く繰り返された所作だった。


 リヴィアは息を呑んだ。


 驚きはある。恐れも少しある。けれどアルフレッドはそのどちらも拾い上げない。一礼の角度で十分に挨拶を済ませ、低い声を置いた。腰の鍵束がわずかに沈み、金属の重みだけが彼の職分を告げている。


「お館さま。メリッサ」


「アルフレッド。使用人記録室を開けます。百二十六年前から百二十一年前の帳面を」


「承知いたしました」


 アルフレッドは腰の鍵束へ手を伸ばした。


 鍵が鳴る。


 軽い音ではない。一つ一つの鍵が、開けてきた扉の重さを覚えている音だった。リヴィアはその音にもまた身を固くし、メリッサは茶器の位置を少しだけ彼女へ近づけた。


「リヴィア様」


 メリッサは来客へ向き直る。


「帳面部屋へご案内します。ただし中の記録は、当家の使用人に関わるものです。必要な箇所以外はお見せできません」


「もちろんです」


「お祖母様の名を探すために開けます。興味で開くものではございません」


「はい」


「では、参りましょう」


──────────────────────────────


 使用人詰所の奥の扉は、朝会の時と同じ場所にあった。


 ただ来客を連れて前に立つと、いつもより厚く見える。扉が変わったのではない。誰のために開くのかが変わると、同じ木目も違って見える。


 リヴィアは東の応接室からここまで歩く間、何度も周囲を見ていた。豪奢な屋敷の表ではなく、裏側の廊下である。洗濯籠を抱えたメイドが道を空ける。厨房から湯気が流れる。庭師が泥のついた靴を外で拭く。若いバトラーが帳場へ急ぐ。


 生活の音がある。


 魔女の館と聞いて想像するものとは違ったのだろう。


 メリッサはそれを説明しない。説明しなくても、見れば分かることがある。磨いた床に残る濡れた筋。壁際の替え靴。配膳口で布を広げる手。どれも客を驚かせるためではない。今日を昨日の続きにするために動いている。


 アルフレッドが鍵束から一本を選んだ。


 長い真鍮の鍵だった。持ち手には小さな薔薇の棘が彫られている。彼の白手袋の指が鍵を挟み、錠前の前で一拍だけ止まる。


「鍵束は、こちらに」


 低く告げて、鍵を差し込む。


 古い錠が鳴った。


 硬い音ではない。眠っていたものが、起こされることを許す音だった。メリッサはその音を聞くたび、紙がまだ無事であることを確かめるような気持ちになる。扉は守るために閉じる。記録は渡すために残す。その二つは似ているようで違う。


 扉が開く。


 中は暗くない。


 小さな高窓から直射ではない光が落ちている。棚は床から天井まで続き、黒革、濃茶、灰色の布張り、革紐で留めた古い帳面が年代順に並んでいた。背表紙には数字と棟名がある。主館。西館。庭園。厨房。馬車庫。外門。古いものほど字が手書きで、新しいものほど印章が整っている。


 退職者の束には淡い黄の封蝋。死者の束には白い封蝋。縁者照会済みには緑の封蝋が細く置かれていた。どれも大きく主張しない。けれど一度置かれた色は、年月を越えてそこに残る。


 匂いがあった。


 乾いた紙。


 古い布。


 磨いた木。


 蜜蝋。


 それからごく薄く、火を遠くへ閉じ込めたような匂い。棚の隅には湿気避けの灰袋が吊られ、乾燥させた小さな花が布の小袋に入れられている。花の香りはほとんど消えていた。ただ紙を腐らせないための手間だけが残っている。


 リヴィアが一歩、足を止めた。


「すごい数……」


「百五十年分ほどは、ここにございます」


 メリッサは答える。


「それ以前の記録は、別の保管になります」


「百五十年」


 リヴィアの声が部屋の紙に吸われた。


 メリッサは棚の右側へ進む。アルフレッドは奥の脚立を片手で動かした。巨躯の動作なのに、床はほとんど鳴らない。彼は上段の棚を見上げ、金の横長の瞳を細めた。


「その年代でしたら、奥から二列目でございます」


「西館勤務の可能性が高いです」


「左から三冊目と四冊目」


 二人の会話に余分な説明はない。


 どちらが上でも下でもない。鍵束と帳面。扉と記録。役割の違う二人が、同じ屋敷を別々の手で支えている。リヴィアはその間に立ち、声を挟まなかった。


 メリッサは脚立へ上らない。


 アルフレッドが棚から帳面を二冊下ろし、作業台へ置いた。


 古い黒革の帳面だった。角は丸く、背の金文字は薄れている。留め紐は取り替えられている。だが表紙の中央に押された蜂の印は残っていた。アルフレッドは留め紐へ手をかけず、置く向きだけを整えてから一歩下がる。


 メリッサは手袋を替えた。


 白い手袋ではなく、薄い灰色の布手袋。


 リヴィアはそれを見て、息を整えた。


「触れても」


「帳面には触れず、こちらの写しをご覧ください」


「はい」


「古い紙は、若い手の熱を喜びません」


 メリッサは何気なく言った。


 リヴィアは自分の手を見る。


 若い手。


 メリッサは頁を開いた。


 百二十六年前。


 春。


 雇用記録。


 文字はメリッサのものだった。


 今と少し違う。線が若い。整っているが、今ほど余白に息がない。罫線へ正しく収めようとする硬さがあり、筆圧の端に当時の未熟さが残っている。紙の縁には蜜蝋が薄く染み、火の近くで乾かした日の匂いがまだ眠っていた。


 メリッサはその字を見るたび、過去の自分の手を思い出す。


 若かったわけではない。


 その頃にはもう、彼女は普通の若さから外れていた。


 ただ今より、怒りの置き場を知らなかった。火口の赤を見ても手を止めず、焼けた紙の匂いを嗅いでも行を揃え、濡れた布で指先を冷やしながら名前を書いていた。声を荒げないやり方は知っていた。けれど、声を荒げずに守るやり方を覚えるには、まだいくつもの朝が要った。


「エレナ・カルミネ」


 メリッサは読み上げた。


 リヴィアの肩が小さく震える。


「春の十八日目、見習い勤務開始。年齢十六。出身、サルマンディア南街道沿い、カルミネ家。紹介人、洗濯係マルタ・ヴィチーニ。担当、主館廊下燭台、のち西館二階客室補助」


 リヴィアの目に光が滲む。


「祖母は、十六で」


「はい」


 メリッサは頁を追う。


──────────────────────────────


「初月、燭台の蝋受けを二度落としています。二度目は自分で申告。減給なし。理由、蝋受けの留めが緩んでいたため」


 メリッサは行を指で追いながら読んだ。


 古い紙の上で、布手袋の先がかすかに滑る。インクは少し茶に寄り、ところどころ線が痩せている。それでも名は読める。日付も読める。誰が失敗を隠さず告げたかも、誰が道具の不具合を確認したかも残っている。


 背後で、エヴァが小さく笑った。


「よく覚えておる。あれは燭台の方が悪かった」


 リヴィアが振り返る。


「本当に……」


「妾は燭台の不具合を覚えているわけではない。メリッサが三日、不機嫌だったことを覚えておる」


「奥様」


 メリッサは帳面から目を離さずに止めた。


 エヴァは肩をすくめる。金のローブが朝の光を薄く返した。


「事実であろう」


「事実でございますが、来客の前で三日と数える必要はございません」


「二日半であったか」


「奥様」


 今度はリヴィアが少し笑った。


 笑ってから、彼女は自分の声に驚いたようだった。魔女の屋敷で笑った。帳面部屋の中で笑った。祖母の名を探しに来た緊張の底へ、ほんの少し温かいものが差したらしい。肩がわずかに下り、木箱を握る指の節から白さが抜ける。


 メリッサはその変化を見た。


 見て、見なかったことにした。


 泣く前に笑えるなら、それは悪くない。泣いた後に笑えるなら、もっと悪くない。ただし笑いを救いにしすぎると、悲しみが行き場を失う。だからメリッサは頁へ戻り、次の行を静かに開いた。


「エレナさんは、燭台の磨きが上手でした。銀器よりも真鍮を好んでいます。理由、光が柔らかくなるため」


 リヴィアの表情が変わる。


「家でも同じことを言っていました」


 声が細くなった。今度の震えは恐れではない。


「銀は冷たい。真鍮は朝に似ている、と」


 メリッサの指が頁の端で止まる。


 朝に似ている。


 帳面には、その言葉がない。


 記録されなかった言葉が、百年以上を越えて戻ってくることがある。紙に残らなかった声が、別の喉で同じ温度を取り戻すことがある。メリッサはそれを何度か見てきた。けれど見るたび、胸の奥で古い紙が一枚めくれる。


 帳面はすべてを救えない。


 名を残せる。日を残せる。給金を残せる。怪我を残せる。誰が最後に東門を出たかも残せる。けれど声の湿りや、歩く時の癖や、泣く前に笑った顔までは残せない。残せないものは、時々こうして誰かの口から戻る。


「よい言葉でございます」


「祖母の言葉です」


「では、写しには入れません」


 リヴィアが瞬きをする。


 メリッサは顔を上げた。若い瞳が、なぜと問う前の形をしている。そこで急ぐと、紙の役割と家族の役割を混ぜてしまう。


「当家の記録にはございません。お祖母様の言葉として、あなたが覚えておくものです」


 リヴィアの唇が震えた。


「はい」


 メリッサはまた頁へ目を落とす。


 勤務は五年続いていた。


 失敗もある。


 成功もある。


 給金の増額。夜番から外した日。風邪で三日休んだ日。薔薇庭園で迷った客人を西門まで案内した日。厨房で蜂蜜壺を割り、半日かけて床を拭いた日。退職の申し出。理由、母親の病。最終勤務日。行の間には余白があり、そこに書かれなかった朝と夜が沈んでいる。


 メリッサはその余白を知っている。


 余白は空白ではない。書かなかったから無いのではない。書くべきものを選び、書いてはいけないものを退けた後に残る場所である。そこには泣き声も、笑い声も、誰かが扉の前で深呼吸した長さも沈む。紙は沈んだものを黙って支える。


「退職日は、夏の二十九日目」


 メリッサは読み上げた。


「最終担当、主館廊下燭台および東客間の花器確認。退職時、給金未払いなし。支給品返却済み。本人希望により、裁縫針入れの持ち出しを許可」


 リヴィアが木箱を見る。


 小さな針入れ。


 針入れは今もそこにある。蓋の縁が黒くなり、内側の布は色褪せている。けれど針を入れるという役目は失っていない。祖母の指から母の手へ。母の手からリヴィアの膝へ。金属は紙より重いが、紙よりも語らない。


「これです」


「はい」


 メリッサは帳面の下段を見る。


 短い追記があった。


 筆圧が少し違う。勤務記録とは別に、当時のメリッサが余白へ書き添えたものだった。雇用と退職の行より字が小さい。場所を作るために線を詰めた痕があり、少しだけインクが濃い。


 若い字だ。


 若くない手で書いた、若い字だった。


「見送り、東門。茶、黒茶。菓子、蜂蜜入りの硬い焼き菓子二つ。本人、泣かず。マルタ・ヴィチーニが泣く。エレナ・カルミネ、燭台を最後に一度磨く」


 リヴィアは声を出さなかった。


 出せなかったのだろう。喉が一度だけ動き、木箱を包む両手がその形のまま止まった。目を閉じることもできないように、彼女は帳面を見つめている。


 涙だけが落ちた。


 一粒目は頬を伝った。二粒目は手袋の甲へ落ちた。三粒目は木箱の角に触れそうになり、メリッサはそっと布を差し入れた。紙と木箱を濡らさない位置。泣く者が謝らずに済む位置。


 メリッサは帳面から目を離さない。


 涙を見ると、椅子を出したくなる。


 水を出したくなる。


 布を渡したくなる。


 それは同情ではない。先に布を出し、温かい茶を置き直し、濡れた指が紙へ触れない場所を作る。そうしておけば、泣いている者は自分の涙を迷惑だと思わずに済む。


「本当に、ここにいたんですね」


 リヴィアが言った。


「はい」


「祖母は、嘘をついていなかった」


「はい」


「名前も」


 メリッサは帳面を見た。


 エレナ・カルミネ。


 古い字の中で、その名はまだ少し若かった。十六歳の勤務開始。五年の勤め。東門。黒茶。硬い焼き菓子。泣かなかった最後の日。


「エレナ・カルミネです」


 メリッサは、今度ははっきりと言った。


「エレーナではございません。カルミーネでもございません。エレナ・カルミネ。当家の帳面には、その名で記録されております」


 リヴィアは両手で口元を押さえた。


 エヴァが静かに言う。


「メリッサが名を残したのなら、その者は確かにここにいた」


 アルフレッドも帳面の隣へ視線を落とした。


「西館二階の鍵を、一時預かっていた者です。記録と合います」


「鍵を、祖母が」


「三日だけでございます」


 メリッサが答える。


「当時の西館で、鍵番が一人熱を出しました。代わりに預けた記録があります」


「そんなことまで」


 リヴィアの声は、驚きと困惑の間にあった。


 メリッサは柔らかく首を振る。


「必要なことでございます」


 それ以上は言わない。


 必要だから書く。


 必要だから残す。


 必要だから名を省かない。


 その言葉の奥にあるものを、客人へすべて渡す必要はない。渡せるものと、渡してはいけないものがある。帳面部屋は、開くための部屋であると同時に閉じるための部屋でもあった。


 昔、紙の束が火の近くへ運ばれた夜があった。


 誰の家の誰、ではなく。


 誰かに近い者。


 魔女に近い者。


 都合の悪い者。


 そう呼ばれた人々の名は、紙の端から黒く縮んだ。インクは熱で歪み、指で拾おうとした灰は触れる前に崩れた。灰は軽い。紙より軽い。風に乗れば、どこへ落ちたかも分からない。


 メリッサは、そのことを話さない。


 話せば、来客の祖母の名より古い火の気配が前へ出る。


 それは違う。


 今日ここで開かれているのは、エレナ・カルミネの帳面である。


 メリッサの昔の紙ではない。


──────────────────────────────


 写しの作成には、半刻ほどかかった。


 メリッサは該当箇所だけを別紙へ書き写した。勤務開始日、退職日、正式名、出身、担当、退職理由。墓碑に必要な証明として余分のない範囲である。紙は厚手を選んだ。教区の窓口で何度持ち直されても、角がすぐ傷まないものにした。


 字は急がない。


 帳面の字をそのまま写すのではなく、今の手で読みやすく整える。線を太くしすぎず、古い名の形を崩さず、官吏の目が滑らないよう余白を取る。リヴィアは作業台の向こうで息を潜めていた。泣いた後の目は赤く、けれど紙を見る視線はしっかりしている。


 最後に一行だけ、別の紙へ写した。


 見送り、東門。茶、黒茶。菓子、蜂蜜入りの硬い焼き菓子二つ。本人、泣かず。


 その紙には、屋敷の証明印を押さない。


 証明ではない。


 家族へ返す記憶だった。


 アルフレッドが封蝋道具を用意した。


 小さな火口。赤い封蝋。蜜蝋を混ぜた柔らかい封材。印章は薔薇ではなく、使用人記録印だった。小さな蜂と細い鍵が交差した印。火口の傍には濡れ布が置かれ、紙の端が熱で反らないよう重しも添えられている。


 火は小さく保たれていた。


 大きな炎は要らない。紙を傷める熱も要らない。封蝋を柔らかくし、名を閉じずに守れるだけの火でいい。メリッサは火口の赤を見て、息を一つ置いた。赤はいつも同じではない。恐ろしい赤もある。けれど今日の赤は、紙のために小さく飼われている。


 エヴァは椅子に座り、退屈そうに頬杖をついている。


 退屈そうに見える。


 けれど目は一度もリヴィアを軽く扱わなかった。リヴィアが立ちかけるたびに、エヴァの指先が椅子の肘掛けを一度叩く。その音だけで、来客は座ったままでよいと伝わる。


「奥様」


 メリッサが証明書を差し出す。


「ご確認を」


「妾が見るより、お前が見た方が早かろう」


「奥様の屋敷の証明です」


「まったく。妾の屋敷では、妾より帳面の方が偉いことがある」


 エヴァは笑い、証明書へ目を通した。


 その笑いは薄い。だが紙を持つ指は丁寧だった。商人の契約書を見る時よりもゆっくりと、評議会の文書を流す時よりも長く行を追う。金の瞳が名の上で止まり、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「よい」


「では」


 アルフレッドが封蝋を落とす。


 赤い蝋が紙の上で丸く広がった。蜜蝋を含んだ赤は、ただ鮮やかなだけではない。少し柔らかく、光の奥に金色が沈んでいる。落ちた瞬間は水のようで、すぐに皮膜を作り始める。冷める前の短い時間だけ、蝋は誰の形にもなれる。


 メリッサが印章を押す。


 力は強すぎない。


 弱すぎない。


 蝋が印を受け入れる。


 蜂と鍵。


 名を閉じ込める印ではない。


 名を、開くための印だった。


「リヴィア・カルミネ様」


 メリッサは証明書と、もう一枚の写しを差し出した。


「こちらが当家の証明です。墓碑の件で教区へ提出する場合は、この封蝋を割らずにお持ちください。割れた場合は、再発行に確認が必要です」


「はい」


「こちらは、証明ではございません。お祖母様の最後の日の記録です。ご家族でお持ちください」


 リヴィアは二枚目を見た。


 読んだ。


 唇が震えた。


「祖母は、泣かなかったんですね」


「はい」


「強い人だったから」


 メリッサは少しだけ考えた。


 強い。


 人は泣かなかった者をすぐ強いと言う。


 泣けなかった者もいる。


 泣く暇がなかった者もいる。


 泣くと帰れなくなるから、泣かなかった者もいる。


 エレナ・カルミネがどれだったかは、帳面には書いていない。帳面にあるのは東門と黒茶と硬い焼き菓子で、最後に一度磨かれた燭台だけである。だから、メリッサは言えることだけを言う。


「背筋のまっすぐな方でした」


 リヴィアはその言葉を受け取り、両手で紙を抱いた。


 涙が落ちる。


 今度は止まらなかった。


 メリッサはすぐに椅子を引いた。


「涙は結構でございます。ですが、立ったまま泣くものではありません」


 リヴィアは、言われて初めて自分が立ち上がっていたことに気づいたようだった。


「座ってくださいませ」


「すみません」


「謝る必要はございません。泣く時に必要なのは、謝罪ではなく椅子と布です」


 メリッサは清潔な布を差し出した。


 リヴィアはそれを受け取り、顔を覆う。肩が揺れる。大きな声は出ない。出せないのではなく、ここでは出さなくてよいと体が少しずつ理解しているようだった。


 エヴァは黙っていた。


 アルフレッドも扉の前で動かない。


 帳面部屋の中には、紙の匂いがある。


 蜜蝋の匂いがある。


 遠くで厨房の鐘が鳴った。昼にはまだ早い。朝の二度目の茶の合図だろう。屋敷は、誰かが泣いている間も止まらない。


 止まらないから、救われることがある。


 涙が落ちても、湯は沸く。


 名が見つかっても、皿は洗う。


 亡くなった者の記録を開いても、今日眠る客人の寝台は整える。


 メリッサは、その順番を信じていた。信じるというより、毎日その順番へ手を置いている。布を畳み、茶を替え、紙を乾いた場所へ移し、泣く者の足元から小さな木箱を遠ざける。


──────────────────────────────


 リヴィア・カルミネが帰る頃、陽は少し高くなっていた。


 東の応接室で温め直した黒茶を飲み、焼き菓子を一つだけ食べ、彼女は証明書を布に包んだ。二枚目の写しは別の布へ入れた。墓碑に出す紙と、家族で持つ紙を混ぜないためだった。


 メリッサは包みの結び目を確かめる。


 封蝋の面が外へ擦れない向きに直し、紙が折れずに収まるよう角へ薄い板を添えた。リヴィアはその一つ一つを見ていた。最初に来た時よりも、目が少しだけ赤い。けれど歩くための力は戻っている。


「ありがとうございました」


 玄関脇で、リヴィアは深く頭を下げた。


「これで、祖母の名前を刻めます」


「道中、封蝋を濡らさないように」


 メリッサは言った。


「はい」


「教区で、もし名を略されそうになったら」


 リヴィアが顔を上げる。


 メリッサは少しだけ声を低くした。


「略さないよう、お伝えくださいませ」


 リヴィアは泣きそうな顔で笑った。


「はい。必ず」


 エヴァは玄関広間の奥に立っていた。


 見送りに出た、というほど前へは出ない。だが姿を隠しもしない。朝の金のローブは光を吸い、金の髪の巻きだけが白い壁に淡く映っている。


「リヴィア」


「はい」


「墓碑が立ったら、暇な時に知らせよ。花くらいは送る」


 リヴィアは目を見開いた。


「そんな、恐れ多いです」


「恐れ多いと思うなら受け取れ。妾が勝手に送るものを拒むには、少しばかり作法が要る」


 リヴィアは言葉に詰まり、それから深く礼をした。


「ありがとうございます」


「うむ」


 エヴァは軽く手を振った。


 メリッサは、その横顔を見る。


 奥様は気まぐれである。


 退屈を嫌い、面白いものを好む。人の愛を見物し、契約を試し、時に残酷なほど正確に心の弱いところを突く。


 けれど、屋敷で働いた者を背景にはしない。


 それが、この館の主である。評議会の使いを玄関脇の小間に留めても、かつての使用人の縁者には東の応接室を開ける。その差を、奥様は説明しない。説明しないまま、白薔薇を飾り、黒茶を出させ、花を送ると言う。


 門が開く。


 リヴィアは振り返り、もう一度礼をしてから白い道へ出ていった。


 馬車ではない。


 徒歩で、来た道を戻る。


 メリッサは彼女の背を見送る。


 若い背だった。


 これから老いる背だ。


 いつか曲がり、いつか誰かに支えられ、いつか椅子へ座るだけで息をつくようになる背。春の道を歩く今の姿には、そのすべての時間がまだ折り畳まれている。布包みを抱く腕も、石を避ける足先も、眩しいほど変わっていける。


 羨ましい、と思う。


 その言葉は胸の中で小さく、蜜蝋の粒のように固まった。


 妬ましいのではない。


 眩しいのだ。


 眩しいものを、雑に扱う者が嫌いなだけである。


──────────────────────────────


 帳面部屋へ戻ると、クララが扉の前で待っていた。


 両手で、朝の記録板を抱えている。先ほどより背筋が伸びていた。けれど完璧ではない。緊張で肩が上がり、爪先が少し内側を向いている。


「メリッサ様」


「はい」


「書き直しました」


 メリッサは受け取った。


 下働きの名は略されていなかった。姓名がきちんと書かれている。欄が足りなかった部分は、板を替えていた。字は少し震えているが読める。急いだ字ではない。行の終わりで無理に詰めた痕もない。


 メリッサは一行ずつ確認する。


 クララは息を止めて待っている。若い子は、こういう時に呼吸まで罰の一部にしてしまう。息を止めたから字が良くなるわけではないのに、体は勝手にそうする。


「結構でございます」


 その一言で、クララの肩が下がった。


「ありがとうございます」


「礼は不要です。正しく書くのは、あなたの仕事でございます」


「はい」


「ただし、よく直しました」


 クララの目が少しだけ明るくなる。


「はい」


 メリッサは記録板を返した。


「昼の帳面へ写す時も、同じように」


「承知しました」


 クララが去る。


 若い靴音が詰所の方へ戻っていく。足取りは軽くなっていた。軽くなりすぎないかとメリッサは耳で確かめ、石床へ落ちる音が仕事に戻れる範囲だと判断する。


 メリッサは帳面部屋へ入り、先ほど開いた二冊を棚へ戻した。


 年代順。棟名順。背表紙の蜂印が、他の帳面と同じ高さに揃う。封蝋の色も列から外れないよう確かめ、灰袋の紐が帳面の角へ触れていないことも見る。作業台には薄い紙粉が残っていた。布で一度払う。払った後に、蜜蝋を染み込ませた小片で端をなじませる。


 エレナ・カルミネ。


 その名は、今日もう一度外へ出た。


 墓碑に刻まれる。


 家族の口で呼ばれる。


 教区の台帳が直るかどうかは分からない。人は間違える。書類は古くなる。石も欠ける。名前は、またいつか別の誰かに省かれそうになるかもしれない。


 だから帳面は残る。


 残ることが、いつも幸福とは限らない。


 それでも残す。


 メリッサは扉の内側を見回した。


 黒革の背。布張りの背。革紐。封蝋。年号。棟名。蜂の印。誰かが若かった年。誰かが老いた年。誰かが辞めた日。誰かが帰らなかった夜。乾いた花の袋。湿気を吸った灰。開かれなかったまま今日を越える帳面。


 帳面は墓ではない。


 だが、祈りに似ている。


 メリッサは扉を閉めた。


 外側で、アルフレッドが鍵を受け取る。


 いつの間にか彼はそこにいた。足音はなかった。けれどメリッサは驚かない。帳面部屋の扉の前に、鍵束の者がいる。それは湯気の近くに布があるのと同じくらい自然だった。


「鍵束は」


「こちらに」


 アルフレッドが答え、鍵を閉める。


 金属音が静かに収まった。


「お館さまが、花を送ると」


 メリッサは言った。


「聞こえておりました」


「白薔薇がよろしいでしょうか」


「エレナ・カルミネは、真鍮を好んだのでしょう」


 アルフレッドの金の瞳が、わずかに細くなる。


「では、朝の色の薔薇を」


「奥様へ確認いたします」


「不要かと」


 メリッサは彼を見る。


 アルフレッドは、いつもの穏やかな声で言った。


「お館さまは、おそらく同じことを仰います」


 メリッサは少しだけ息を吐いた。


 笑いにはならない。


 けれど朝の帳面部屋の前で、その息は柔らかかった。アルフレッドの瞼が一枚下がる。声にはならない。長い屋敷では、その程度の動きで十分な返事になる。


「では、手配します」


「お願いいたします」


 アルフレッドは鍵束を収めた。


 メリッサは黒革の帳面を胸の前に抱え直す。詰所へ戻れば、昼の手順が待っている。西館の薬湯。奥様の二度目の茶。フェリ様の小皿。庭園の剪定。評議会の書類。婚礼宿の確認。クララの記録板。


 生活は続く。


 蜂が一匹、廊下の上の光を横切った。


 本物か、告げ蜂か。


 メリッサは確かめなかった。


 羽音は小さく、蜜蝋の匂いの中へ消えていった。

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