勇者様と王子様
白帆亭の朝は、いつもより早く白かった。
帳場には主人が立っていた。まだ客の多くが食堂へ降りてくる前の時刻なのに、帳面は開かれ、羽根筆は揃えられ、入口脇の花瓶には昨日までなかった白い花が挿してある。
魚のスープの匂いが廊下に残っていた。焼いたパンと薄い香草茶の湯気が漂い、そこへ清布と薬草の匂いが重なる。負傷者の宿になった白帆亭では、この数日の朝の匂いがそれだった。
療養十一日目。レオンは鏡の前に立ち、深紅のサッシュを結び直していた。
肩は動く。右腕も上がる。剣を抜けと言われれば抜ける。けれど鏡の中の自分は、昨日より立派には見えなかった。寝不足の目。浅い呼吸。胸の内側へまだ残る鈍い熱。
数日前の無茶の名残もある。
ガイウスと二人で宿を抜けた時間は短かった。短かったはずだ。港の夜風を吸い、白紐を売る露店を横目に通り、何も買わずに帰った。ただそれだけの外出でさえ、身体は律儀に覚えている。
傷は正直だ。歩ける。立てる。笑える。
その三つは、万全と同じ意味ではなかった。
「締めすぎです」
背後からカイが言った。レオンは鏡越しに見る。カイは白い清布と小瓶を持っている。神官服の袖口は乱れていない。襟も整っている。それなのに目の下だけが薄く影を帯びていた。
あれは自分の疲れではない。人の傷を見続けた顔だ。夜中に何度も起きて、包帯と熱と呼吸を確かめた者の顔だった。
「緩いと格好がつかない」
「格好より呼吸です」
カイは近づき、サッシュの端へ指を置いた。強く引かない。ただ布越しに肋骨の動きを確かめるような触れ方だった。
「ここを少し緩めてください。壇上で息が詰まると、見栄え以前に皆さんが心配します」
「壇上に上がるとは決まってない」
「上がらないなら、それで結構です。ですが、息が詰まる結び方をしてよい理由にはなりません」
柔らかい声だった。柔らかいまま、逃げ道の手前に椅子を置く声だ。
レオンは小さく息を吐いた。結び目を少しだけ緩める。胸の奥へ空気が入り、傷の内側が遅れて痛んだ。
カイはそれを見逃さない。
「痛みは」
「ある」
「場所は」
「肩の奥。あと脇腹」
「吐き気は」
「ない」
「以前よりは正直でよろしい」
「嘘をついても分かるだろ」
「ええ」
カイは短く答え、包帯の端を確かめた。肩から腕へ指を滑らせる。脇の布の浮き、湿り、結び目の硬さ。手際は静かで早い。祈る手ではなく、怪我人を逃がさない手だった。
部屋の隅ではガイウスが外套を肩へ引っかけていた。
厚い肩に布が乗る。背中の包帯に引っかかり、一度止まる。ガイウスは眉間へ皺を寄せたが、声には出さない。深夜に余計な足を使った名残も、まだ完全には抜けていない。
「式典に出る怪我人ってのは何だ」
低い声が部屋へ落ちた。
「見舞われる仕事だろ」
窓際のヴェスタが笑った。
彼は一番身軽だった。黒に近い濃い茶の髪を手櫛で雑に整え、腰の投擲短剣を一本ずついつもの位置へ戻している。青と黄色のバンダナが額で揺れた。海風に似合う男が、今日は妙に白い通りに馴染んでいた。
「仕事なら賃金が出るべきだ」
ガイウスが言う。
「出るんじゃねえか。白い花とか、ありがたい拍手とか」
「食えん」
「花はやめとけ。腹を壊すぜ」
「白い砂糖菓子なら別ですが」
ヴァローが机の上で紙を揃えながら言った。
「そこを真面目に拾うなよ」
ヴェスタが肩を揺らす。
ヴァローは深い灰色の外套を整え、薄い灰色の髪を紐で束ね直した。机には招待状の写しと、彼自身の控えが並んでいる。その字は細く整っていて、どの行も怒っているように見えた。
式次第の正式な写しはまだない。それが気に入らないのだろう。
「小式典という言葉は、便利です」
ヴァローは紙の角を合わせた。
「小さいのは規模か。責任か。説明の量か。観察できる範囲では、まだ判じられません」
「港湾安全祈願と負傷者慰問」
レオンはサッシュを押さえながら言った。
「それだけ分かっていれば十分じゃないのか」
「式典で十分という言葉を使う時は、大抵十分ではありません」
ヴァローは視線を紙から上げない。
「誰が祈るのか。誰が述べるのか。誰が記録するのか。誰が見ているのか。そこまでで式典です」
「飯より細けえな」
ガイウスが言う。
「飯は腹に入れば終わります。式典は終わった後も歩きます」
その言い方には、塔の魔導士らしい冷たさがあった。
レオンは鏡の中で自分の顔を見る。オレンジの瞳の輪郭が、少し濃い。疲れている時の色だ。孤児院で年下の子供たちに隠しきれなかった時と、同じ色。
表へ出れば、勇者の顔をしなければならない。そう思うほど、顔の奥が固くなる。
「レオン」
カイが名を呼んだ。責める声ではない。止める声でもない。ただ、今ここに戻すための声だった。
「食事は取りましたね」
「取った」
「半分です」
「パンは食べた」
「スープも半分です」
「魚が多かった」
「魚の町です」
ヴェスタが吹き出した。
「勇者の兄ちゃん、港町でそれ言うと敵が増えるぜ」
「魚は嫌いじゃない」
「じゃあ海が多かったんだな」
「味の話をしてるんだ」
「俺もしてる」
軽口が部屋に転がった。転がって、すぐに消える。消えた後へ、外の声が入り込んだ。
勇者様の快復祈願だよ。白紐。白花。白帆広場へ。
窓の外の露店は、昨日より一つ増えている。白い布を張った台に、細い紐と小さな札が並ぶ。札の文字は丸く柔らかい。怪我人を思う言葉に見える。商売の呼び声にも聞こえる。
どちらか一つなら、まだ楽だった。戸が叩かれたのは、その時だった。
白帆亭の主人が顔を出す。いつもの前掛けは洗い立てで、胸元に小さな白い布が結ばれていた。
「レオン様。ルシアン様がお越しです」
主人はそう告げてから、一拍だけ視線を泳がせた。
帳場の向こうで、誰かが足音を止めている。宿の客だろう。見送りたいのか、見ないふりをしたいのか、決めかねている気配だった。
レオンはサッシュを一度押さえた。呼吸は通る。
痛みもある。
「行こう」
短く言うと、カイが頷いた。ヴァローは紙を畳む。ガイウスは外套を肩へ馴染ませた。ヴェスタは窓の外の露店へ目をやり、口の端だけで笑った。
「白紐、ほんとに売り切れるな」
「買うなよ」
レオンが言う。
「買わねえよ。昨日より高え」
「見たのか」
「斥候だからな」
「値札を見る斥候か」
「生きるのに大事だぜ」
ガイウスが鼻を鳴らした。
「山なら紐は自分で編む」
「兄貴、そこ張り合うとこじゃねえよ」
笑いは小さかった。けれど、その小ささが今朝にはちょうどよかった。
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ルシアン・セーヴァは、白帆亭の入口で待っていた。
白外套は朝の光に触れても白すぎない。聖騎士の旅装は整っているが、マーレ社の白のような艶はない。華やかに見せるためではなく、汚れた時に分かるための白だった。
彼はレオンたちを見ると、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「おはようございます。歩けそうで何よりです」
「歩けるだけだ」
ガイウスが答える。
「それは大事です。歩ける方は、歩けない方より帰り道を選べます」
「今日は選べるのか」
「半分は」
ルシアンは悪びれない。ヴァローが目を細める。
「残り半分は、すでに整えられていると」
「さすがです」
「褒めていません」
「ええ。知っています」
ルシアンの背後には、白帆亭の馬車が用意されていた。宿の馬車だ。見覚えのある傷も車体に残っている。だが車輪には新しい白布が巻かれ、泥除けには潮真珠を模した小さな飾りが下がっていた。
馬の鬣にも白い紐が編み込まれている。レオンは眉を寄せた。
「宿の馬車か」
「宿の馬車です」
ルシアンが答える。
「ただし、今日だけ少し晴れの顔をしています」
「誰が整えた」
「宿の方が、自主的に」
ルシアンの言い方で、誰もそれ以上聞かなかった。自主的。
サルマンディアでは、その言葉に多くの手が隠れるらしい。
主人は帳場から深く頭を下げていた。女中が階段の影で手を握っている。厨房の少年は扉の隙間から覗き、目が合うと慌てて引っ込んだ。
レオンは彼らへ礼を返した。
「世話になっています」
「とんでもございません」
主人の声は少し上ずる。
「どうか、ご無理だけはなさらず」
「ありがとう」
その一言で、帳場の空気がわずかに揺れた。自分の声は、思ったより響いた。
レオンはそれを嫌でも感じる。宿の板壁へ当たり、階段へ上がり、厨房の奥まで届く。言葉が大きいのではない。受け取る者の耳が、すでに待っている。
馬車へ乗る時、傷の奥が熱を持った。足台へ片足を置く。腰を上げる。身体の重さが一瞬だけ右肩へ集まった。レオンは顔に出さず、手すりを握る。カイの視線が横から来た。
「大丈夫だ」
「まだ何も言っていません」
「言う顔だった」
「では、言う前に休んでください」
「馬車で座る」
「それで結構です」
カイの柔らかさは、こういう時ほど強い。
馬車の中は六人には狭い。ガイウスが座ると片側の板が低く鳴った。ヴェスタは向かいの端へ器用に腰掛ける。ヴァローは紙束を膝に置き、ルシアンは出口に近い位置を選んだ。
逃げ道を見る席だ。レオンはそれを見てから、自分の膝に手を置いた。
馬車が動き出す。白帆亭の前の通りが、いつもより広く見えた。人が自然に避けている。避けながら見ている。露店の布は白い。店先には小さな札が立っていた。
港湾安全祈願の日。勇者様ご快復祈願。
白帆広場へ。白紐一束、祈り札つき。
どれも柔らかい字だった。字だけなら祝祭の飾りだ。けれど同じ色の札が何度も続くと、道そのものが一つの文章になる。
レオンたちは、その文章の中を運ばれていた。
「広がるのが早いな」
レオンは窓の外を見ながら言った。
「早いですね」
ルシアンは隣で頷く。
「広げたのでしょう」
ヴァローが向かいから言った。
「噂には足がありますが、靴を履かせる者もいる」
「良い表現です」
「記録には入れません」
「残念」
ルシアンは笑った。その笑みは柔らかい。柔らかいまま、どこまで知っているのか分からない。レオンはまだ、この男の善意の形を測りきれないでいる。
道の両側では、子供たちが白い花を持って歩いていた。港の子だろう。日に焼けた頬。擦り傷のある膝。裸足に近い薄い靴。花を持つ手つきだけが不慣れだった。
一人が馬車に気づく。目が丸くなる。
次に、横の子へ何かを囁く。囁きは一瞬で列へ広がった。子供たちがこちらを見る。持たされた花が胸の前で揺れる。
「勇者様だ」
小さな声だった。馬車の輪の音より小さい。けれどレオンの耳には届いた。
ガイウスが窓から顔を離す。
「見世物だな」
「そうですね」
カイは静かに答えた。否定しなかった。
それがかえって重かった。
「ですが、あの子たちの顔は作り物ではありません」
レオンはもう一度、窓の外を見た。
子供たちは花を胸に抱えている。誰かに持たされた花だ。並ぶ場所も決められているだろう。だが、こちらを見る目の明るさまでは誰にも命じられない。
そこが厄介だった。悪意だけなら、もっと簡単に斬れる。
「花を売ってる大人の顔は作り物か」
ヴェスタが低く言った。いつもの軽さが少し薄い。
「半分だな。半分は稼ぎ時の顔だ」
「商売は悪ではありません」
カイが言う。
「分かってるよ、カイの兄ちゃん。俺も飯代は欲しい」
ヴェスタは笑うが、目は窓の外を離れない。
「ただ、稼ぐ奴と祈る奴が同じ列に立つと、潮目が読みにくい」
「読めない潮目は危険か」
レオンが聞く。
「危険ってほどじゃねえ。けど、舵を握る奴が誰かは見といた方がいい」
ヴァローが紙の端を指で叩いた。
「実用的な表現です。皮肉ではありません」
「お前さんにそう言われると落ち着かねえな」
馬車は白い札の並ぶ通りを進む。露店の一つでは、店主が白い紐を手早く結んでいた。客の女が銅貨を置く。店主は祈りの言葉を添える。女は目を伏せる。次の客がすぐに来る。
祈り。銅貨。白い紐。三つが同じ手の動きで流れていく。
レオンは自分の腰の聖剣に触れそうになり、途中で指を止めた。剣はまだ抜かない。
今日の敵が剣で斬れるものかも、まだ分からない。
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白帆広場は、港に向かって開いていた。
名前の通り、広場には白い帆を模した大布が張られている。帆柱のような飾り柱が数本立ち、風が入るたびに布がゆっくり膨らんだ。奥には海が見える。波は穏やかで、陽の光が細く砕けている。
小式典。そう聞いていた。
だが広場には、すでに人が多かった。
港の労働者。婚礼客。水上宿の客。店の主人。子供たち。白い腕章をつけたマーレ社の係員。サルマンディア評議会の使いらしい男。祈祷役の老人。紙と筆を持つ記録係。
そして、観客。明らかに式典そのものを見に来た者たちがいる。
「小さい、の定義が違うらしい」
ヴェスタが呟いた。
「サルマンディア基準でしょう」
ヴァローが返す。広場の席は、思った以上に整っていた。
壇上に近い正面には負傷者の椅子が並ぶ。背もたれには白布。肘掛けには小さな花。右手側には評議会の使いと商家の者らしい一団。左手側には港の労働者が立てる余白。子供たちは前列の少し低い位置に集められていた。
後方には見物客が囲むように立つ。そのさらに外側へ、露店が半円を作っていた。祈り札。白紐。白花。潮真珠飾り。魚の焼き串。香草水。どれも今日の言葉を添えて売られている。
式典は中央にある。商売は外側にある。
だが外側が中央を囲めば、見え方は変わる。馬車が止まると、白い礼服の係員がすぐに近づいてきた。礼の角度が揃っている。笑顔も揃っている。三人並ぶと、同じ教育の跡がある。
「勇者一行の皆様。本日はご臨席いただき、誠にありがとうございます」
先頭の男が言った。
「ご療養中と伺っておりますので、導線は短く整えております。控えの席から壇上までは十七歩。壇上滞在は式次第上、長くても半刻の四分の一ほどでございます」
「ずいぶん具体的だな」
レオンが言う。
「ご負担を最小限にするためです」
男は迷いなく答えた。負担を最小限にする。
ありがたい言葉だ。ありがたいから、断る時にこちらが悪く見える。
レオンはその形を、身体で感じた。傷に障らない道。短く済む手順。休むための椅子。それらが並ぶほど、こちらの拒み方は狭くなる。
ガイウスが低く息を吐く。カイは係員の説明を聞きながら、視線だけで壇上までの距離を測った。ヴァローはすでに記録係の数を数えている。
「記録係が三人」
ヴァローが言った。係員は笑顔のまま答える。
「式典記録と広報記録でございます」
「広報」
「本日の祈願を、後日お客様にもご覧いただけるように」
「なるほど。後で歩く式典ですね」
係員の笑みは一瞬だけ固まった。ルシアンが横で穏やかに笑う。
「ヴァロー殿、今日は少しだけ声を低く」
「私は低くしています」
「では、もう少しだけ」
「善処します」
「その言葉は便利ですね」
「お互い様でしょう」
ルシアンは否定しなかった。レオンは壇上を見る。
壇上は帆布の影に入っている。正面の席からよく見える高さだ。高すぎない。低すぎない。上がった者が偉く見えすぎず、それでも全員から見える高さ。
よく考えられている。
「式次第は」
ヴァローが聞いた。係員はにこやかに白い紙を差し出す。
「こちらでございます」
ヴァローは紙を手にする。目が一行で止まった。
「勇者様より、ご挨拶」
声は平らだった。レオンも紙を見る。
確かに書いてある。港湾安全祈願。
負傷者慰問。白花贈呈。
勇者様より、ご挨拶。
「聞いていない」
ガイウスが低く言った。係員の笑みは揺れない。
「もちろん、ご無理はなさらず。お言葉はほんの一言で結構でございます」
「一言なら勝手に置いていいのか」
ガイウスの声に棘が混ざる。係員は一瞬だけ固まった。
その隙間へ、ルシアンが柔らかく入った。
「確認不足ですね」
笑っている。だが声は少しだけ冷たい。
「勇者殿の体調次第では、項目を省いていただくことになります」
「もちろんでございます」
係員は深く頭を下げた。
「こちらの配慮が足りず、失礼いたしました」
謝罪は早い。早すぎるほど整っている。
謝られれば、こちらはそれ以上強く出にくい。謝罪の形まで導線に入っている。レオンはそう感じて、胸の奥が少し重くなった。
ヴァローが紙から目を離さずに、口元だけで息を吐いた。
「美しいですね」
「何がだ」
ガイウスが聞く。
「腹立たしいほどに」
レオンは式次第を見た。断る道はある。
紙を返して、体調を理由に壇上へ上がらなければいい。ルシアンも止めないだろう。カイは休めと言うかもしれない。ガイウスはそれでいいと言う。ヴァローは記録する。
だが広場の端では、白い花を持った子供たちが並んでいる。港の労働者たちが、こちらを見ている。
昨日まで顔を曇らせていたという負傷者が、椅子に座って待っている。膝に毛布を掛けた女。腕を吊った若い男。顔色の悪い老人。彼らの目には、式の手順とは別のものがある。
断る道にも、観客がいる。カイがそっと近づいた。
「レオン。言葉は短くて構いません」
「断れと言わないのか」
「断っても構いません」
カイは穏やかに言う。
「ですが、断ることと休むことは同じではありません。立つことと無理をすることも同じではありません」
柔らかい。やはり逃げ道を塞ぐ。
レオンは苦く笑いそうになった。
「カイ、お前は時々厳しいな」
「必要な時だけです」
「いつも必要だと思ってるだろ」
「少しだけ」
ヴェスタが横で小さく吹いた。
「カイの兄ちゃん、いい舵取りするな」
「舵取りではありません」
「似たようなもんだぜ。沈めないように曲げてる」
ルシアンが横へ立った。
「強引ですね」
彼は小さく言った。
「けれど、よくできています」
「褒めてるのか」
「評価です」
「お前の評価はたまに怖い」
「よく言われます」
ルシアンは笑った。その笑みの奥で、彼は広場全体を見ていた。出口。人数。係員の配置。観客の流れ。壇上の階段。レオンの目にも映る。彼は式典を楽しんでいるのではない。
整った場所の、崩れる場所を見ている。
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その男が現れた時、広場の音が少しだけ変わった。鐘が鳴ったわけではない。
誰かが号令をかけたわけでもない。ただ、白い礼服の係員たちの背筋が一斉に伸びた。花を持つ子供たちが手元を見直した。記録係が紙を押さえ、祈祷役の老人が杖を直した。
露店の男まで、鍋をかき混ぜる手を一度止めた。風が帆布を膨らませる。
その下を、黒髪の男が歩いてきた。黒曜石のような髪だった。
陽に触れても茶にはならない。深く艶を返す黒。白と薄金の接遇礼服の中で、その黒はかえって鮮やかに見えた。肩から落ちる布は舞台衣装のように美しいが、過剰ではない。
胸元にはマーレの徽章。細い金鎖。月桂冠を思わせる髪飾り。背は高い。
身体は戦士の厚みではない。舞踏家の線と剣士の芯を併せ持っている。歩幅に乱れがない。白い石畳の上を進むたび、靴音の間隔まで整っていた。
会釈の前に、指先がわずかに開く。次に閉じる。
それだけで、周囲の視線が彼の手へ集まった。係員が動く。椅子の位置が半歩直る。子供の列がきれいに詰まる。記録係の筆先が紙から少し浮く。
命令は聞こえない。それでも、広場は彼の登場に合わせて呼吸を整えた。
蜂蜜色の瞳がレオンを捉える。男は微笑んだ。
その笑みは温かい。温かいように、完璧に整えられていた。
「ようこそ、白帆広場へ」
声はよく通った。海風の中でも散らない。大きすぎず、低すぎない。近くの者にも遠くの者にも届く声だった。
「どうか肩の力を抜いてください。ここでは、快復を願うことも、私どもの仕事です」
レオンは一瞬、返事を忘れた。言葉の中身はありふれている。
だが言い方が違う。その声に乗せられると、広場に来たこと自体が正しい手順だったように響く。見舞われることも祈られることも、壇上へ置かれることも同じ場所へ収まる。
すべて客を安心させる接遇の一部に見える。
「アドニス・アレクシオスと申します」
男は胸に手を当て、レオンたちへ礼をした。
「マーレ・パラデイソスにて、祝祭と接遇を預かっております。本日はお越しいただき、光栄です」
アドニス。レオンはその名を知っていた。
街のチラシに刷られていた名だ。香油の瓶にも載っていた。劇場通りでは客がその名を噂していた。サルマンディアの王子。誓約劇の花婿。白い舞台の顔。
本人は、それらの噂より静かだった。そして噂より強かった。
「レオン・ソルです」
レオンは礼を返した。
「今日は招いていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。お身体の具合は」
「短い式典なら」
「では、短く美しく整えます」
アドニスは自然に言った。短く。
美しく。その二つが同じ意味で使われているように聞こえた。
ガイウスがほんの少し眉を動かす。ヴァローは見逃さなかった。カイはアドニスの声ではなく、彼が立つ位置を見ていた。ヴェスタは港の側へ目を流している。
ルシアンだけは、笑顔のまま一歩外にいた。
「ルシアン様も、ありがとうございます」
アドニスが言う。
「同行しただけです」
「それも大切なお仕事です」
「ええ。そうですね」
二人は柔らかく笑った。笑っているのに、間に白い線がある。
レオンはそれを感じた。同じ白でも、違う。
ルシアンの白は逃げ道を照らす。アドニスの白は逃げ道を舞台袖に変える。
どちらも親切で、どちらも少し怖い。
「それでは、こちらへ」
アドニスが手を差し出した。
その指先の角度に合わせて、係員が動く。椅子が引かれる。花を持つ列が少し下がる。壇上への道が開く。記録係が立ち位置を変える。観客の前列が自然に半歩下がる。
命令はない。それでも全員が動いた。
レオンは開いた道を見る。白い導線。
白い花。白い席。
その真ん中に、深紅のサッシュを巻いた自分が歩く。色が強すぎる。
そう思った瞬間、胸の奥に重さが戻った。勇者の色は、こういう場所では目印になる。目印は便利だ。遠くからでも見える。誰かがそこへ意味を結びつける。
自分の身体より先に、意味だけが壇上へ上がっていく気がした。
「レオン」
カイが隣で呼んだ。
「急がなくて大丈夫です」
「分かってる」
「分かっている顔ではありません」
「じゃあ、今分かった」
カイは少しだけ笑った。ガイウスが背後で低く言う。
「足元、見ろ」
「ああ」
レオンは一歩目を置いた。白い石畳は朝の光で温まっていた。
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式典は、祈りから始まった。広場の中央には、海水を入れた浅い器が置かれている。周囲には白い花と潮真珠。帆布の下に吊るされた小さな鐘が、風に触れて細く鳴った。
祈祷役の老人はオルヴェリスの神官ではない。
サルマンディアの海路安全を司る古い慣習の祈りだった。海へ出る者が戻るように。船の帆が破れぬように。荷が沈まぬように。婚礼船が潮に逆らわず進むように。負傷者の熱が引くように。
老人の声はかすれていた。けれど弱くはない。長く同じ言葉を言い続けた喉の声だ。式典用に磨かれた声ではなく、潮と酒と年齢で荒れた声だった。
カイは黙って聞いていた。祈りの言葉が終わると、彼は小さく言った。
「悪い祈りではありません」
「それが面倒か」
レオンが聞く。
「ええ」
カイは視線を器へ落とした。
「悪くないから、難しいのです」
鐘がもう一度鳴る。アドニスが壇上の端へ進んだ。
「本日、この白帆広場にお集まりの皆様」
その声で、広場が静まる。子供の足音も止まった。露店の男が鍋をかき混ぜる手を止める。港の労働者たちが腕を組み直す。記録係が筆を構えた。
「海は、私たちに道を与えます。同時に、試練も与えます。船が帰ること。働く者が家へ戻ること。傷ついた者が休めること。それらは、華やかな祝祭の下にある、もっとも大切な約束です」
上手い。レオンの胸に、そんな言葉が浮かんだ。
港湾安全祈願としても正しい。負傷者慰問としても外れていない。
マーレ社の式典としても、よくできている。何も外していない。
だからこそ、逃げ場がない。アドニスは続ける。
「本日は、サルマンディアに滞在中の勇者一行の皆様にもご臨席いただきました」
拍手が起こった。白い広場に、音が広がる。
それは温かい音だった。少なくとも、最初はそう聞こえた。負傷者の椅子からも手が鳴る。港の労働者が大きな掌を合わせる。子供たちは花を握ったまま、肘で隣をつつかれて慌てて拍手をした。
後方の観客は少し遅れて鳴らす。その遅れが、レオンには不思議に生々しかった。
見たから鳴らす者。空気に合わせて鳴らす者。
何かの記念として鳴らす者。同じ音の中に、違う手が混じっている。
レオンは一歩だけ前へ出る。隣でガイウスが大きな身体を起こした。カイは胸元のロザリオへ一度触れた。ヴァローは目だけで観客の位置を拾う。ヴェスタは笑わず、港の方を見た。
アドニスの手が静かに動く。白い花を持った子供たちが近づいてくる。
一人ずつ、花を差し出す。最初の子はレオンに。
小さな手だった。指の爪に土が残っている。茎を握りしめすぎて、白い花びらが少し潰れていた。
「ありがとうございます」
レオンは公的な声で言った。子供は息を止めたように頷く。
その頷きがあまりにも真剣で、レオンは次の言葉を選び直した。
「手、痛くないか」
子供は目を丸くした。広場の前列にいた何人かが、少しだけ身を乗り出す。記録係の筆が止まる。アドニスの笑みは動かない。ルシアンの視線だけが、レオンの横顔へ来た。
「だいじょうぶ」
子供が答える。声は小さい。
だが前列には届いた。
「ならよかった」
レオンは花を受け取った。その瞬間、拍手ではない小さなどよめきが港側へ流れた。大きな言葉ではない。誰かが隣の誰かへ囁き、それが帆布の影を伝って奥へ行く。
勇者様が。子供に。
手を。ばらばらの欠片だけが耳に触れる。
レオンの胸に、冷たいものが落ちた。たった一言が、もう別の形で歩き出している。
次の子はカイに花を渡した。カイは膝を少し折り、両手で受け取った。
「ご無理なさらず。重かったでしょう」
子供は首を振る。カイの声を聞いた女が、前列で目元を押さえた。カイはそれに気づき、深くは追わない。ただ花を胸元へ近づける。
三人目はガイウスの前で足を止めた。大きな男を前にして、手が震えている。花の茎も震える。目線はガイウスの胸元で止まり、さらに上へ行く勇気がない。
ガイウスは眉を寄せた。だが何も言わず、膝を少し折った。重い身体が、石畳に影を落とす。肩の外套がずれ、背中の包帯の位置で布が止まった。
「ありがとな」
低い声だった。子供は目を丸くし、花を渡した。
ガイウスはそれを手にする。手が大きすぎて、白い花が小さく見えた。広場のどこかで、誰かが息を吐いた。
それもまた、すぐに音になって歩き出す気配がした。
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ヴェスタが横で小さく笑った。
「似合うぜ、兄貴」
「黙れ」
声は低い。けれど怒ってはいない。ガイウスは花を握り潰さないよう、指の力を確かめていた。鉄の盾を持つ手が、細い茎一本に迷っている。その不釣り合いが広場へ届いた。
観客が笑った。
柔らかい笑いだった。作られた拍手より少し遅く、少し乱れて、だから耳に残った。前列の子供たちも笑う。緊張していた子の肩が落ち、花を渡し終えた手が胸の前でほどける。
マーレ社が用意した舞台の上で、予定していないものが少しだけ混ざった。ガイウスの不器用な礼。
子供の安堵。ヴェスタの茶化し。
そして、港の人々が自分の呼吸で笑う瞬間。
レオンはその笑いを聞きながら、胸の奥の痛みが別の形で動くのを感じた。傷が痛むのではない。何かが、まだ斬ってはいけないものとして目の前に置かれている。
アドニスはそれを見ていた。笑みは崩れない。
だが蜂蜜色の瞳が、ほんの少しだけ深くなったように見えた。照明を受ける役者の眼ではなく、舞台袖から客席の本音を拾う者の眼だった。
「よい空気です」
アドニスが小さく言った。レオンに向けたのか、広場に向けたのかは分からない。
ヴァローが横目で見る。
「予定外でも、ですか」
「予定外だからこそ、救われる場面もあります」
アドニスの声は完璧に柔らかい。完璧すぎて、どこまで本人の温度なのか分からない。
ガイウスは花を見下ろしたまま鼻を鳴らした。
「救いって顔じゃねえ」
「では、何に見えますか」
「持ちにくい」
ヴェスタがまた笑った。今度は広場の後ろまで笑いが移った。白い帆布が風を含み、その笑いを少しだけ遅らせて返す。港の朝に、予定表にはない隙間ができた。
──────────────────────────────
式典は滞りなく進んだ。滞りなく。
その言葉が、これほど冷たく聞こえたことはない。
負傷者の代表が紹介される。港で荷を落として足を痛めた男。火薬騒ぎの後始末で腕を焼いた若い女。船具職人の老人。彼らは壇上の下で椅子に座り、白い布を膝に掛けていた。
白布は清潔だった。清潔すぎて、傷の匂いを隠していた。
それでもレオンには分かる。薬草。膏薬。古い包帯。火傷の皮膚を冷ます水の匂い。白い花と潮真珠の飾りの下で、身体はまだ身体のまま痛んでいる。
マーレ係員が、それぞれの名前を間違えない。誰がどの順に立つかも間違えない。
拍手の間も整っている。花を渡す角度も、記録係が紙をめくる時機も乱れない。評議会の使いが頷く位置まで、あらかじめ線を引かれていたように見える。
「劇場だな」
ガイウスが低く言った。
「式典です」
ルシアンが隣で答える。
「違うのか」
「目的が違うだけで、手順は似ます」
「嫌なことを言う」
「すみません」
ルシアンは謝る。少しも悪びれていない声だった。
ヴェスタは壇上ではなく外周を見ていた。露店の女が、拍手に合わせて白紐を掲げる。見物客の一人が銅貨を出す。式典の中の音が、外側ですぐ売り物の合図になる。
「商いが早え」
ヴェスタが呟く。
「潮目に乗ってる」
「誰が舵を取っている」
レオンが聞く。
「一人じゃねえな。大きい船だ」
ヴェスタの目は笑っていない。
「それで沈まないように見えるのが、余計に厄介だぜ」
ヴァローが式次第を指で叩いた。
「次です」
レオンは紙を見る。勇者様より、ご挨拶。
その行が近づいていた。聞いていない。
そう言えば、まだ逃げられる。
体調を理由に断ることもできる。ここまで立って、座って、花を受け取っただけでも十分だと誰かが言うだろう。カイは止めない。ルシアンは整えてくれる。ガイウスは顔をしかめて頷く。
だが、十分という言葉が今朝からずっと信用できない。アドニスは壇上の中央へ戻り、広場へ向き直った。
「そして最後に」
声が少しだけ明るくなる。
「本日ご臨席いただいた勇者レオン様より、短くお言葉を頂戴できればと思います」
観客の視線が一斉にこちらへ向いた。短く。
できれば。頂戴できれば。
断れる言葉ばかりだった。断れない形で置かれていた。
レオンはアドニスを見る。
アドニスは完璧な笑みで、半歩だけ身を引いている。壇上の中央を空けるためだ。彼の手はレオンを招く形で止まっている。指先は美しい。主役を譲ることさえ、演目の一部であるかのようだった。
レオンは立った。右肩の奥が熱を持つ。
脇腹が遅れて引きつる。カイが小さく息を吸った。ガイウスが椅子の肘に指を置く。ヴァローは記録を止めた。ヴェスタの視線が、港側からレオンへ戻る。
ルシアンは何も言わない。壇上へ上がる十七歩は、係員の言った通りだった。
十七歩。一歩目で膝が少し重い。
二歩目で傷が体内から存在を主張する。三歩目で、前列の子供が花を握り直すのが見えた。
十歩目で、港の労働者たちの顔がはっきり見えた。十七歩目で、白い帆布の影がレオンの肩へ落ちた。
痛みはある。だが歩ける。
レオンは中央へ立った。
白い帆布の下で、広場がよく見えた。子供たち。負傷者。港の労働者。婚礼客。露店の女。記録係。マーレの白い腕章。ルシアンの白外套。アドニスの白と薄金。
その全部が、勇者様を見ている。勇者様。
レオン・ソルではなく。聖剣を持つ象徴。
安心のための顔。レオンは息を吸った。胸の奥へ空気が入る。傷が少し熱くなる。カイに緩められたサッシュが、かろうじて呼吸を通してくれた。
彼は口を開いた。
「俺たちは、まだ万全ではありません」
広場が少しだけ揺れた。用意された安心の言葉ではない。
レオンは続ける。
「ここに立てているのは、宿の人たちや医者や、手当てをしてくれた人たちのおかげです。だからまず、礼を言います」
頭を下げる。短く。
「ありがとうございます」
拍手が起こりかけた。レオンは顔を上げる。
その音を受け取る前に、言葉を前へ出した。
「海は、綺麗なだけじゃありません」
広場の外周で、誰かが鍋をかき混ぜる手を止める。
「船を返さない日もある。働く人を傷つける日もある。俺たちはそれを知っています」
港の労働者たちの顔が少し変わった。観光客向けの綺麗な海ではない。青い絵葉書の海でも、婚礼船の背景でもない。朝に網を上げ、夜に帆を畳み、時に仲間を担いで帰る海。
レオンはそれを口にした。自分がどこまで知っているかは分からない。
それでも、知らないふりはしたくなかった。
「だから、今日の祈りが本物なら、俺は嬉しい」
アドニスの笑みは動かない。
「海に出る人たちが戻れるように。傷ついた人たちが、傷を隠さず休めるように。怖かったと言える人が、そのまま明日も働けるように」
カイの視線を感じる。ガイウスの息を感じる。
ヴェスタも笑っていない。
「俺は、そのために剣を抜きます」
レオンは一度だけ、腰の聖剣に手を置いた。抜かない。
見せるだけだ。白銀の鞘が、帆布の影で薄く光る。観客の目がそこへ集まる。記録係の筆が走る気配がする。聖剣は重い。置いていけない重さだ。
「ただ、剣だけでは足りません」
レオンは手を離した。
「清布も薬も飯も要ります。港の道を直す手も要ります。今日ここにあるものが、本当に誰かのために使われるなら」
マーレの白い腕章が視界の端に入る。レオンはそちらを見なかった。
「俺はそれを、ありがたいと思います」
言い終える。今度は拍手が起こった。
さっきより大きい。用意された拍手かもしれない。
けれど港の男が大きく手を叩いていた。花を持っていた子供が、隣の子より遅れて拍手を始めた。負傷した若い女は、包帯の巻かれた腕を庇いながら片手で膝を叩いた。
全部が本物ではない。全部が嘘でもない。
そこが一番、苦しい。レオンは壇上を降りた。
十七歩を戻る間、拍手は背中に当たり続けた。音は温かい。温かいのに、背中の傷へ布を当てられるような怖さがあった。
アドニスが迎える。蜂蜜色の瞳が、ほんの一瞬だけレオンの顔を正面から捉えた。
「よいお言葉でした」
完璧な声だった。
「少し、式次第の形が変わりました」
「勝手に入れたのはそちらだろ」
レオンは小さく返す。アドニスの笑みは揺れない。
「はい。ですから、変えていただけて幸いです」
それは皮肉ではなかった。少なくとも、皮肉に聞こえないよう整えられていた。
レオンはその顔を見る。勇者様。
王子様。どちらも誰かが呼ぶ名だ。
レオンは自分の名を持っている。レオン・ソル。孤児院でカイに呼ばれた名。ガイウスに怒鳴られ、ヴァローに指摘され、ヴェスタに茶化される名。
アドニスにも、そう呼ばれない場所はあるのだろうか。だが今、この場で彼に向けられる視線はサルマンディアの王子を見ている。
そのことに、本人がどう感じているのか。レオンには掴めなかった。
掴めないまま、アドニスの礼は美しかった。
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式典が終わると、広場はすぐに別の形へ変わり始めた。
白い花の列がほどける。子供たちは残った花を配る。露店は快復祈願の菓子を売る。記録係は紙を巻き、マーレ係員は観客の流れを港側と宿泊区側へ分ける。
さっきの拍手は、もう商品になっていた。
「勇者様のお言葉、聞いたかい」
「剣だけじゃ足りないってさ」
「清布屋が喜ぶね」
「港道の修繕願いも出しやすくなる」
「白紐に一文足しておくか」
言葉が走っていく。走るたびに、少しずつ形が変わる。レオンが礼を言ったこと。海の怖さを言ったこと。清布と薬と飯を言ったこと。どれも間違ってはいない。
けれど、全部が同じ速さで売り声へ変わる。レオンは壇上脇の控えへ戻った。
肩が熱い。立っていただけなのに、予想以上に体力を持っていかれた。傷の奥で脈が打つ。膝にも疲れが落ちている。白い石畳の反射が、目の奥へ残っていた。
カイがすぐに水を渡す。レオンは杯を取り、少しずつ飲んだ。喉を急に冷やすと咳が出そうだった。カイはそこまで読んでいる顔で、何も言わずに杯の角度だけを見ている。
「無茶ではありませんでした」
カイが言う。
「ぎりぎりか」
「ぎりぎり未満です」
「細かい」
「大事です」
「カイ」
「はい」
「助かった」
カイは少しだけ目を伏せた。
「私は、隣にいます」
それだけを言う。逃げ道を塞ぐ声ではなかった。今度は、そこに立っている声だった。
ガイウスは花を手にしたまま、腕を組んでいた。
「悪くはなかった」
「花がか」
ヴェスタが聞く。
「違う」
「似合ってたぜ」
「黙れ」
ヴェスタは笑った。だがその笑いは軽すぎなかった。
「港の連中が笑ってた。そこだけは本物だ」
「そこだけ、か」
レオンが聞く。
「他は知らねえ。俺は港の顔しか読めねえからな」
ヴェスタは外周へ目をやった。
「商売人の顔は読める時もあるが、今日のは混ざりすぎだ。祈りと売り声と見物が同じ風に乗ってる」
ヴァローは控えの隅で式次第の余白に何かを書いている。
「記録にはどう残す」
レオンが聞く。
「マーレ社主催の港湾安全祈願に出席。予定外の挨拶を求められ、レオンが独自に発言。民衆反応は良好。式典導線は事前設計済み。アドニス・アレクシオスは、祝祭進行役として極めて高い統制力を示す」
「長いな」
「短くすると誤解が増えます」
「俺の挨拶は」
ヴァローは少しだけ目を上げた。
「悪くありませんでした」
「お前の悪くないは褒めてるのか」
「今日は褒めています」
ガイウスが鼻で笑う。
「雪でも降るか」
「この気候では難しいでしょう」
「真面目に返すなって」
ヴェスタがまた笑った。笑いの向こうから、アドニスが近づいてきた。
彼は式典の後でも乱れていない。礼服の裾に埃はない。髪飾りの角度も変わらない。額に汗が浮いても、汗でさえ光の一部に見える。彼の後ろで係員が二人、自然に距離を取る。
そこだけ、まだ舞台が続いていた。
「お疲れ様でした」
アドニスは言った。
「本当に短時間で済ませていただき、感謝します」
「こちらの台詞だ」
レオンは水の杯を置く。
「少し予定と違ったが」
「ええ」
アドニスはあっさり認めた。
「失礼いたしました。お詫びとして、と言うには不十分ですが、後ほど静かな席をご用意できればと思います」
ヴァローの筆が止まる。ルシアンの笑みが少し深くなる。
「静かな席」
レオンが言う。
「マーレ・パラデイソスの海上棟に、外の音が届きにくい応接室がございます。潮の音だけは入りますが、観客は入りません」
アドニスは柔らかく言った。
「本日のような場ではなく、落ち着いてお話しできる席です。もちろん、ご療養が優先ですので、日程は改めて」
次の招待。白い箱の次に、白い広場。
白い広場の次に、静かな応接室。道はもう置かれている。
強引ではない。ただ、こちらが歩けるように磨かれている。白く滑らかで、断る足音まで美しく聞こえる道だ。
レオンはすぐには答えなかった。カイも黙っている。
ガイウスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。ヴェスタは海上棟という言葉に少しだけ興味を示す。ヴァローは筆を置かず、アドニスの顔を見ていた。
ルシアンが一歩だけ前に出た。
「今日はここまでにしましょう」
明るい声だった。
「勇者一行は療養中です。式典出席だけでも十分に役目を果たされました」
アドニスはルシアンを見る。笑みは変わらない。
「もちろんです。私も、そのつもりでした」
「ええ」
ルシアンも笑う。
「そう見えました」
白い外套の聖騎士と、白い舞台の王子。二人は礼儀正しく笑い合っている。
レオンには、その間に置かれた線がやはり見えた。線は細い。けれど踏めば音が鳴る。どちらもそれを知っていて、踏まない位置に立っている。
アドニスは改めてレオンへ向き直る。
「レオン様」
「様はいらない」
口から落ちた。周囲の係員が一瞬だけ目を動かす。
アドニスは柔らかく瞬いた。
「では、レオン殿」
すぐに言い換える。完璧な切り替えだった。
「本日はありがとうございました。あなたの言葉は、広場へよく届きました」
「届いたならいい」
「ええ。舞台は、ときどき演者の言葉で形を変えます。よいことです」
その言い方だけ、少しだけ温度が違った。レオンは聞き返そうとした。
だがアドニスはもう礼をしていた。美しい角度。美しい沈黙。美しい引き際。
聞く場所ではない。今はまだ。
──────────────────────────────
帰りの馬車は、行きより静かだった。
広場の拍手は背中へ残っている。白い花の匂いも残っている。ガイウスの膝には、子供から渡された花が置かれていた。本人は捨てる気配を見せない。
ヴェスタがそれを見る。
「持って帰るのか」
「悪いか」
「悪くねえよ」
「なら見るな」
「見てねえ」
見ている。カイは笑わなかった。
だが目元が少しだけ緩んでいた。
ヴァローは紙に短く何かを書き足す。馬車の揺れでも筆跡はあまり乱れない。ルシアンは向かいで外を見ている。灰青色の瞳は、通りの人の流れを拾っていた。
馬車が広場を離れても、声は追ってきた。勇者様のお言葉。
清布と薬。剣だけでは。
戻れるように。
切れ切れの噂が、白い札の並ぶ通りへ流れていく。露店の女が新しい札を裏返す。そこにはまだ何も書かれていない。空いた白は、すでに何かを書かれる準備をしていた。
レオンはそれを見て、胃のあたりが重くなる。
「あの男」
レオンは言った。
「アドニスか」
ガイウスが聞く。
「ああ」
言葉が続かない。美しかった。
それだけではない。胡散臭かった。
それだけでもない。
「王子様って感じだったな」
ヴェスタが言った。軽い言い方だったが、外していない。
「サルマンディアの王子、でしたか」
カイが静かに言う。
「そう呼ばれているらしい」
ヴァローが答えた。
「本人の称号ではなく、観光都市が与えた愛称でしょう」
「勇者様と同じか」
レオンは言った。馬車の中が少し静かになった。
勇者様。王子様。
どちらも、本人の名ではない。どちらも、人が安心するために呼ぶ名だ。
「同じではありません」
カイが言った。レオンはカイを見る。
「同じではありません。ただ、似た痛みはあるかもしれません」
その言葉に、ルシアンが少しだけ目を動かした。ヴァローも筆を止める。
ガイウスは何も言わない。ヴェスタは窓の外へ視線を逃がした。バンダナの端が風で揺れる。彼はこういう時、軽口を選ぶこともできるはずだった。けれど今は選ばなかった。
レオンは窓の外へ目を向けた。白帆広場の帆布が遠ざかる。
風を含み、まだゆっくり膨らんでいた。式典は終わったのに、舞台は片づいていない。観客はまだ残っている。露店はまだ売っている。子供たちは花の残りを振っている。
あそこに立ったことは、もう街の中で別の形へ変わっていくだろう。勇者様が語った。
王子様が進行した。港は安心した。
マーレは礼を尽くした。どれも間違いではない。
間違いではないから、腹が立つ。レオンは膝の上で拳を握った。
聖剣の柄ではなく、自分の膝の布を掴む。深紅のサッシュの端が指に触れる。孤児院で自分の服を握って泣く子供たちを、何度も見たことがある。
今の手つきは、それに少し似ていた。
「次の招待は」
ヴァローが言った。
「受けるのですか」
「まだ決めない」
レオンは答えた。
「決めるなら、こっちの言葉で決める」
ルシアンが笑った。
「良いと思います」
「お前に良いと言われると不安になる」
「今日はよく言われますね」
「理由を考えろ」
「考えています」
ルシアンの声は柔らかい。柔らかいまま、何を考えているのか隠している。
ガイウスが花を膝から拾い上げた。大きな指で茎の折れた場所を少し直す。直ったわけではない。それでも花は、彼の手の中でまだ白かった。
「押し花にでもするか、兄貴」
ヴェスタが言う。
「やめとけ」
「俺は何もしてねえ」
「顔がしてる」
「顔まで読まれるのかよ」
「うるせえ」
今度はカイが少しだけ笑った。馬車の中に、小さな笑いが落ちる。
白帆亭の看板が見えてくる。そこへ戻れば、清布がある。薬がある。粥がある。痛みがある。仲間の顔がある。
勇者様ではなく、レオンと呼ぶ声がある。レオンはそのことに、少しだけ救われた。
白い花の匂いは、まだ残っている。王子様の声も、まだ耳に残っている。
だがその奥に、壇上で自分が置いた言葉の重さも残っていた。
誰かに用意された舞台でも。
そこに立つ足は、自分のものだ。




