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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
84/128

好奇の封蝋

 薔薇の館の朝は、十二日をかけて本来の重さを取り戻していた。


 静まり返ったわけではない。廊下には靴音が流れた。湯を運ぶ金属桶の縁がかすかに鳴り、洗濯場では濡れた布を絞る音が規則正しく続く。薬湯の匂いは苦く甘い。庭からは、雨で倒れた枝を結び直す麻紐の擦れる音がした。


 厨房では透真が鍋を動かしている。銅の底が竈に触れ、短く乾いた音を立てた。どこかでラウリが腹の虫を弁護していた。庭園の方ではイーリスが喉を起こしている。声は細いが芯があり、言葉になる前の息が湿った朝の空気にほどけていた。


 それらは騒ぎではなかった。


 日課だった。


 蒼凪は午前の小サロンにいた。窓辺の丸卓には朝の光が斜めに落ちている。光の縁は淡く金色で、白い紙の表面を薄く炙っていた。


 肩はまだ痛む。深く息を吸うと、傷の奥が遅れて熱を持った。腕を上げ続ければ筋がこわばる。腹の底には疲労が薄く残っている。それでも、寝台を出るたびに壁へ手を伸ばす日は過ぎた。


 その差は大きい。


 食事。睡眠。薬。歩数。包帯の締め具合。立て直しは、そうした小さなものの積み重ねだった。


 卓には白真珠の塔へ出す報告書が置かれていた。まだ短い。必要なことだけを書くつもりだったが、必要なことを選ぶ方に手間がかかる。昨夜エヴァンジェリーネが貸してくれた古い海図も広げてある。


 海図の材は羊皮紙ではない。乾いた魚皮を薄く削ったような銀色の面に、潮の筋が重ねられていた。大陸の学者が好む緯度と経度ではなく、星と季節風と海鳥の渡りを合わせる図法だ。


 隅にはヒュウマが支部へ持っていく書付があった。封蝋はまだ完全には乾いていない。落ち着いた藍に近い色で、朝の光を受けて鈍く光った。


 蒼凪は筆を置いた。


 窓の外にイーリスが立っている。


 灰緑の旅装の上に薄い布をかけ、薔薇の前で喉を低く鳴らしていた。歌ではない。弦を張る前に木を撫でるような音だった。


 小鳥が逃げない。


 枝の間にいた一羽が首を傾げている。イーリスの声は鳥を追い立てず、庭の湿った空気に溶けていた。


 その少し向こうで、ラウリが皿を持っていた。


 朝食は終わったはずだ。


 皿の上には香草入りの丸パンが二つある。彼はそのうち一つをかじった。もう一つを海鳥へ差し出すべきか、かなり真剣に迷っていた。


「やめておけ」


 蒼凪が窓越しに言った。


 声に反応して、ラウリがこちらを見る。褐色の大きな手がパンを胸元に引いた。海鳥が抗議するように鳴いたが、彼は聞こえなかったことにした。


「俺の分だ。たぶん」


「たぶんが弱い」


 蒼凪が返すと、ラウリは少し困ったように笑った。海鳥はさらに一歩寄る。ラウリは皿ごと体を横へずらした。巨体が枝を避ける動きは妙に丁寧だった。


「ラウリさん、鳥まで朝食に呼ぶ気ですか」


 ソファに腰を下ろしたヒュウマが苦笑した。彼は包帯を巻き直している。片腕では布の端が扱いにくいらしく、指の力が何度も逃げていた。


 回復は進んでいる。だがそれは、元がひどすぎたから言えることだった。胸から脇にかけて白い布が厚く巻かれている。少し身じろぎするだけで、頬の筋がかすかに硬くなった。


「ラウリは燃費が悪い」


 蒼凪は椅子に座ったまま言った。


「燃費で済みますかね。昨日の夜も皿が一枚ずつ増えてましたよ」


「海の民は食べる」


「便利ですね。その言葉」


「便利な言葉は使うべきだ」


「蒼凪さんが言うと、なおさら雑に聞こえます」


 ヒュウマは笑いながら包帯の端を歯で押さえた。笑った瞬間に傷へ響いたのか、眉間がわずかに寄る。


 蒼凪は立ち上がりかけた。


 その前に、扉の横からアルフレッドが動いた。大きな影が静かに伸びる。足音はほとんどない。白手袋の指がヒュウマの前で止まった。


「海守り殿、失礼いたします」


「あ、すみません」


「いえ」


 アルフレッドは包帯の端を受け取り、傷に触れない角度で布を整えた。指先の力は短い。強すぎず弱すぎない。布の緩みだけを拾い、痛みのある場所を避けていく。


 医師の手でもあり、武器を外す手でもあった。


「本日は海守り支部へ向かわれるご予定でございましたね」


「はい。サヴィーノさんに顔を出します。リオンにも確認したいことがありますし、連絡の扱いを詰めておきたいので」


「馬車をお使いください」


「助かります。帰りは少し歩けるかもしれません」


「その際はリオン様へお伝えください。海守り殿ご本人の判断のみでは、当館の医師が納得いたしません」


 ヒュウマは肩をすくめた。


「監視が厚いですね」


「療養でございます」


「言い方が強い」


「事実でございます」


 蒼凪は筆を持ち直した。報告書の末尾に一行を加える。


 ヒュウマは支部の実務へ戻る準備がある。イーリスは声を戻している。ラウリは食べている。自分はまだ紙と海図を往復している。


 十分だ。


 体調の報告としては、それで足りる。


 扉の向こうで靴音が止まった。


 アルフレッドの瞼がわずかに上がる。


「失礼いたします」


 若い使用人の声だった。


「どうぞ」


 許可の後、銀盆を持ったバトラーが入ってきた。盆の上には封書が一通ある。後ろには二人の使用人が続いた。白木の箱をそれぞれ抱えている。


 箱は軽そうではない。


 白木の肌に油が薄く染ませてあり、木目が濡れた骨のように滑らかだった。蓋には真珠色の紐がかかっている。結び目は正確で、ほどく手順まで美しく見える。


 封蝋は白かった。


 ただ白いだけではない。光にかざすと海の青が底から浮いた。乳白の丸い面に、波と光を組み合わせた印が押されている。印の下には細い金字があった。


 ルーチェ・デル・マーレ美術博物館。


 蒼凪は黙って目を通した。


 ヒュウマも見たらしい。包帯を押さえたまま、眉を少しだけ上げる。


「マーレですか」


「博物館からの見舞いという形でございます」


 アルフレッドの声は低く変わらない。


 それでも小サロンの空気はわずかに沈んだ。使用人たちは表情に出さない。ただ箱を置く手つきがいつもより正確になった。角度。距離。蓋の向き。全部が一拍ずつ整えられていく。


 薔薇の館に荷が入ることは珍しくない。


 評議会からの伺い。婚礼宿の支配人からの確認。土地契約の相談。名士であるエヴァンジェリーネへ向けた贈答。屋敷はそういうものを扱う場所でもある。


 だが客人を狙って来るものは違う。


 相手がマーレ社なら、なおさらだ。


「お館さまへ確認を」


 アルフレッドが言った。


 若いバトラーが一礼して下がる。


 数分も経たずに廊下の空気が変わった。


 薔薇の香りが先に来る。次に絹が床を撫でる音がした。エヴァンジェリーネが小サロンへ入ってきた。


 深紅の室内着に薄い羽織。金の髪は朝のまま緩くまとめてある。寝起きではない。公的な客を迎える姿でもない。境目の装いだった。


 視線が白木の荷へ落ちる。


 唇の端が上がった。笑みではない。刃を布で拭いたような形だった。


「ほう」


 その一音でヒュウマの背筋が伸びた。


「朝から白いものを並べおって。まこと、目に優しゅうない」


「マーレ社より、凪様ならびにご一行様へ見舞いの品でございます」


「妾の屋敷にいる客へ、妾を通して礼を尽くすか。躾だけはよいのう」


 エヴァンジェリーネは丸卓の前まで来た。白い封蝋を見下ろす。赤い室内着の色が、蝋の白へ薄く映っている。


「開けよ、アルフレッド」


「承知いたしました」


 アルフレッドは銀の封切りを取り出した。細く冷たい刃が紙の縁へ入る。封蝋そのものは砕かない。紙だけを傷めず切り、白い印をそのまま丸卓へ落とした。


 小さな音がした。


 軽い。


 だが軽いものほど足元に残る。


 蒼凪はその音を聞いていた。紙。封蝋。紐。箱の重さ。礼儀の形をした重み。


 マーレは針を隠していない。


 隠していないことまで、礼儀にしている。


──────────────────────────────


 封書の文面は清潔だった。


 療養中の客人へ過度な負担をかける意図はない。まずは見舞いの品だけを届ける。サルマンディア滞在が穏やかなものになるよう願う。もし体調が許すなら、ルーチェ・デル・マーレ美術博物館の特別展を高覧いただきたい。


 強制はない。


 面会の要求もない。返答の期限もない。館の主であるエヴァンジェリーネへ向けた敬意も形式として過不足なく置かれている。紙面の余白までよく計算されていた。


 白真珠の塔の賢者。


 その呼び名は一度だけ出た。


 一度で足りる。誰に届けばよいのかを示すには十分だった。二度あれば踏み込みすぎる。ゼロなら礼を欠く。そこを外していない。


「よく書けている」


 蒼凪は言った。


 エヴァンジェリーネの金の目が細くなる。


「褒めるでない」


「事実です」


「事実ならなお悪いわ」


 彼女はソファへ沈むように座った。長い脚を組む。羽織の裾が床へ落ち、赤い布が薔薇の影のように広がった。


「見舞いなら断れば妾の度量が狭く見える。招待なら断っても礼は保てる。だが受ければ、あちらは接点を得る。面会を願わず面会の場を作る。腹立たしいほど行儀がよい」


「釣りですね」


 ヒュウマが言った。


「釣りだな」


 蒼凪は頷く。


「針がよく磨かれている」


「磨いてある針なら噛んでいいわけじゃないですからね」


「飲み込まない」


「噛む前提で話さないでください」


 ヒュウマの声には呆れが混じった。痛みを避けるためか笑い方は小さい。


 蒼凪は封書の横にあった薄い冊子へ手を伸ばした。表紙は白ではなく青灰色だ。手触りはさらりとしている。中央に金で刷られた文字がある。


 西南海域古層展。


 下にルーチェ・デル・マーレ美術博物館と記されている。


 表紙をめくる。


 最初の頁にはサルマンディア南西の海域図があった。現在の航路と古い潮流記録を重ねている。線の引き方は見やすい。見やすいが、ただ観光客に見せるための簡略図ではなかった。


 次の頁には白鯨信仰に関する祭祀布の断片が精密画で示されている。織り目まで描かれていた。隣には鮫歯を組んだ護符。歯の根元を結ぶ紐の撚り方まで記録してある。


 さらに頁を進める。


 古代航海民が用いた星海儀の復元図。潮位を記した木簡の写し。貝殻に刻まれた婚礼歌の断片。交易の印として使われた青い石片。


 蒼凪の指が止まった。


 潮文碑片の拓本。


 説明の一段落に、古カモアラニ王国という語があった。


「……なるほど」


「よい顔をするでない」


 エヴァンジェリーネが低く言った。


 蒼凪は視線を上げる。


「出ていましたか」


「出ておる。餌を見た魚じゃ」


「魚ではありません」


「賢者が口を寄せる針なら、魚より始末が悪い」


 ヒュウマが小さく笑いかけた。すぐに傷が響いたらしく、口元がゆがむ。


「ヒュウマ、笑うな」


「蒼凪さんが言わせてるんです」


「俺ではない」


「だいたい蒼凪さんです」


 蒼凪は否定せず、冊子へ戻った。


 サルマンディアへ最後に来たのは四年前だ。


 数日だけ滞在した。調査のついでであり、長居する理由はなかった。港の倉庫街。古い市場。潮の匂いが壁に染みた路地。白い石畳。婚礼用の花を運ぶ小舟。覚えているものはいくつもある。


 だがルーチェ博物館の記憶はない。


 なかったのだ。


 建物が一つ増えること自体は珍しくない。サルマンディアは人を呼ぶ都市だ。劇場。婚礼宿。海辺の回廊。香水店。宝飾店。マーレ社の白い手が入った場所は、たいてい磨かれすぎた光を帯びている。


 この展示案内も美しい。


 美しいが、それだけではない。


 頁の注記に出土地がある。潮位差がある。採取した民間伝承の場所がある。拓本の保管状態も書かれている。近海遺構との関係を示す線も細いが引かれていた。


 浅くない。


 少なくとも浅く見せる気がない。


「四年前にはなかった」


 蒼凪が言うと、エヴァンジェリーネは頬杖をついた。


「近年できたものじゃ。海を光らせ、歴史を飾り、金を落とさせる。マーレが好むものをよく詰めた箱よ」


「展示の密度が高い」


「そこを喜ぶと思われておるのじゃろう」


「当たっています」


「認めるでない」


「見ないで判断する方が危険です」


「凪」


 声が一段低くなる。


 窓の外の薔薇が風で揺れた。白い印は卓の上で静かに光っている。


 蒼凪は紙面から目を離した。


「出どころを確認する必要があります」


「言うと思うておった」


 エヴァンジェリーネは苦い息を吐いた。


「わかっておる。わかっておるから腹が立つ。妾の館におる客が、妾の目の前で別の手に誘われておる。しかも餌が粗悪なら笑えるものを、妙に上等ときておる」


「上等ですね」


「凪」


「はい」


「その素直さを今だけしまえ」


 蒼凪は冊子を閉じなかった。


 エヴァンジェリーネは止めたいのだろう。だが止めれば理由が必要になる。理由があれば、蒼凪は掘る。掘られたくない場所ほど、彼女は笑って隠す。


 それに彼女は、蒼凪の好奇を殺すための保護者ではなかった。


「見舞いの品も確認いたしましょうか」


 アルフレッドが問うた。


「開けよ。どうせそこも白々しく上手くやっておる」


「承知いたしました」


 白木の蓋が開かれた。


 一つ目には見舞いの品が詰められている。香草茶。喉を潤す蜂蜜。柑橘の皮を砂糖で煮た菓子。滋養用の海藻と貝の乾燥スープ。傷の周りを温める香油。薄布に包まれた湿布材。眠りを妨げない香袋。


 見た目は美しい。


 だがそれ以上に、生々しいほど実用的だった。蜂蜜の瓶は小さく軽い。片手で開けられる栓になっている。香油の瓶には布が巻かれ、滑らないよう細い凹みが刻まれていた。乾燥スープには塩分を控えたものと濃いものが別に用意されている。


 療養中の者を見ている。


 そう言いたくなる品ぞろえだった。


 ただ、少しだけ外しているものもある。香袋に使われた花の香は、薔薇の館で夜に焚く香と似ていた。だが底に甘さが残りすぎる。ここで眠る者が好む香ではない。外から集めた情報を、丁寧に整えた跡だった。


「腹立たしいのう」


 エヴァンジェリーネが言った。


「間違っていない」


 蒼凪は蜂蜜の瓶を見た。


「だから腹が立つのじゃ」


 二つ目の箱には個別の小箱が並んでいた。名前の札が添えられている。紙は厚く、端は波形に裁たれていた。署名の墨は濃い。少しの揺れもない。


 イーリスの名が添えられた箱には、語り部の喉を気遣う蜜菓子が入っていた。楽士向けの喉茶もある。香りは柔らかい。甘草と柑橘が控えめに混じっている。


 ラウリの名がある箱には、白鯨と鮫の歯をかたどった砂糖菓子が入っていた。白い砂糖の艶がやけに本物めいている。歯の根元の凹みまで細かい。


 ヒュウマの箱には、海守りが航海時に使う携帯用の塩飴があった。疲労回復用の薬草包みも添えられている。包みの紐は片手でもほどける結び方だった。


 蒼凪の箱には本が一冊あった。


 薄い。だが表紙の紙がよい。


「研究者閲覧室案内」


 蒼凪は表紙を読んだ。


 エヴァンジェリーネが笑った。


「くっくっく。釣り竿まで添えてきおった」


「見事ですね」


「褒めるなと言うておる」


「褒めてはいません」


「今の声は褒めておった」


 蒼凪は否定しなかった。


 本は展示品の詳細目録ではない。博物館内に設けられた研究者向け閲覧室の利用案内だった。所蔵資料の分類。閲覧できる写し。申請の手順。閲覧時間。施設の理念。


 特別待遇を約束してはいない。


 公開されている範囲の案内に過ぎない。だがそれで十分だった。閲覧可能な写しの分類に、潮文資料がある。古い航海記録がある。祭祀具の採寸記録がある。


「これはまずいですね」


 ヒュウマが言った。


「何が」


「蒼凪さんの目が完全に塔の書庫で変な本を見つけた時の目です」


「変な本ではない」


「そこじゃないです」


「閲覧室の分類が整っている」


「ほら。もう行く前提になってる」


 ヒュウマはため息をついた。彼の手は自然に塩飴の小箱を押さえている。中身ではなく結び目を見ていた。片手でほどけるかどうかを確かめているのだ。


 礼儀正しい針だ。


 しかも相手の傷口を見ている。


 庭の方からイーリスの声が途切れた。


 少しして扉の外に足音が二つ重なる。一つは軽く整っている。もう一つは大きいが遠慮がある。イーリスとラウリだった。


 イーリスは戸口で一礼した。


「何かございましたか」


 ラウリはその横で皿を持っている。丸パンはまだある。おそらく三つ目だ。本人は隠す気がない。むしろパンの方が堂々としていた。


 蒼凪は青灰色の冊子を持ち上げた。


「招待状が届きました」


「まあ」


 イーリスの灰緑の目が表紙へ落ちる。


「ルーチェ博物館。海の光、という意味でございましょうか」


「正式には、ルーチェ・デル・マーレ美術博物館」


「美術と博物を同じ箱へ入れるのですね。詩人としては嫌いではございません」


 エヴァンジェリーネが鼻を鳴らした。


「長命の語り部まで餌の匂いを嗅ぎつけおったか」


「お館さまの薔薇の香りほど強くはございませんので、まだ冷静でいられます」


「口だけは達者じゃのう」


「仕事道具でございます」


 イーリスは柔らかく笑った。だが案内の冊子を手にすると、表情の奥が少しだけ引き締まる。語りの種を見る目だ。人を笑わせる時のそれではなく、残すべきものの厚みを測るまなざしだった。


 ラウリは白木の箱へ視線を落とした。


 自分の名が添えられた小箱を見つける。中の砂糖菓子を見た瞬間、深い青の目がわずかに丸くなった。


「鮫の歯」


「砂糖菓子ですね」


 ヒュウマが言った。


 ラウリは手を伸ばしかける。エヴァンジェリーネの視線に気づいた。手が空中で止まる。大きな指が非常に慎重に引っ込んだ。


「これは、俺が食べてもいいものか」


「毒は入っておらぬじゃろう」


 エヴァンジェリーネが言う。


「入れておれば面白みがなさすぎる」


「なら」


「待ってください」


 ヒュウマが止めた。


 ラウリは残念そうにパンを見た。次に砂糖菓子を見た。選ぶべきではない二択を前にした様子だった。


「俺は今、試されている気がする」


「食欲をな」


 蒼凪が言う。


「それはいつもだ」


「知っている」


 イーリスが小さく笑った。笑いはすぐに収まる。彼は展示名をゆっくり追った。


「白鯨信仰の祭祀布。鮫歯護符。潮文碑片。古代航海民の星海儀……。語りの種としても、ずいぶん濃いものでございますね」


「貴方も興味がありますか」


 蒼凪が尋ねる。


「ございます」


 イーリスは素直に頷いた。


「物語を飾る場所なら、見ておきたいところでございます。飾られた物語が何を失い、何を得るのかも」


──────────────────────────────


 エヴァンジェリーネは不機嫌を隠さなかった。


 隠す必要がない相手しかこの部屋にいない。彼女の指先が肘掛けを一度だけ叩く。音は小さい。だが使用人の一人が息を整えた。


「行きたい者が三人いる」


「三人ですか」


 ヒュウマが目を向ける。


「凪。長命の語り部。そこの腹の減った祭祀官」


「俺は菓子を見ていた」


 ラウリが言った。


「それを含めてじゃ」


「否定できない」


「する気も薄かろう」


 ラウリは困ったように笑った。皿の上の丸パンを半分に割り、香草の匂いがふわりと広がる。彼はそれを食べずに持っていた。視線は白鯨信仰の頁へ落ちている。


 蒼凪はその横顔を見た。


 ラウリの手首には化石のブレスレットがある。袖の下で小さく鳴った。菓子への興味だけではない。信仰の道具が展示物として飾られるということを、彼は彼の重さで抱えている。


「ラウリ」


 蒼凪は短く呼んだ。


「無理に見る必要はない」


「無理ではない」


 ラウリは紙面から視線を上げた。


「ただ、祖にまつわるものが飾られる時の顔は見たい。笑っているのか、澄ましているのか、商いの顔なのか。俺の島とは違うだろうからな」


「それは見る価値がございますね」


 イーリスが言った。


「語り部殿は何でも見る価値にする」


「それが仕事でございますので」


「いい仕事だ」


「ありがとうございます。食べる仕事よりは燃費がよろしいかと」


 ラウリは声を立てて笑いかけ、エヴァンジェリーネの視線にまた気づいて口を閉じた。


 小サロンの空気が少し和らぐ。


 それでも白い封蝋は卓に残っている。丸く冷えた印が、すべての会話の下に沈んでいた。


 蒼凪は研究者閲覧室案内をもう一度開いた。


 閲覧室の利用条件は礼儀正しい。紹介状があればよい。白真珠の塔の資格でも可。閲覧品は複写を中心とし、実物は特定日に限る。体調不良者には休憩室を用意する。付き添いは二名まで。


 付き添い。


 そこまで書くか。


「こちらの状態をかなり読んでいるな」


 蒼凪が言うと、ヒュウマが顔を上げた。


「付き添いですか」


「二名まで」


「俺を数に入れてますね」


「たぶん」


「蒼凪さん、俺は行くとは言ってません」


「行かないのか」


「行きたいですけど、今日は無理です」


「今日は支部だろう」


「はい。だから、そのかわり」


 ヒュウマは蒼凪を見た。茶色の目が真面目に据わる。傷の痛みで少し顔色が浅いのに、声だけはまっすぐだった。


「釣り針、飲まないでくださいよ」


「飲み込まない」


「噛み切ろうともしないでください」


「努力する」


「そこは断言してください」


「ヒュウマ、難しいことを言うな」


「難しくしてるのは蒼凪さんです」


 イーリスが口元を押さえた。ラウリは静かに笑った。エヴァンジェリーネだけが椅子に沈んだまま、蒼凪を長く見ている。


「凪よ」


「はい」


「行くなら妾の馬車を使え。正面から入れ。裏口へ回るような真似はするでない」


「目立ちます」


「すでに目立っておる」


 エヴァンジェリーネは扇も持たず、指先だけで白い封蝋を軽く弾いた。欠けた白が卓の上で小さく滑る。波と光の印が半分だけ残っていた。


「賢者が妾の館で療養しておる。そういう話はもう街へ出た。ならば隠れるより、誰の客として出入りしているかを見せた方がよい」


「エヴァ様の客として」


「そうじゃ」


 金の目が白い欠片から蒼凪へ移った。


「マーレに釣られて行くのではない。妾の客が、妾の許しを得て展示を見る。そこを忘れるな」


 蒼凪は姿勢を正した。肩の奥が鈍く熱を返す。痛みを表へ出すほどではないが、体はまだ完全ではないと知らせてくる。


「承知しました」


「それと」


「はい」


「好奇心を恥じるな。だが好奇心を免罪符にするな」


 その声だけは、怒りではなかった。


 蒼凪は青灰色の表紙に触れたまま沈黙した。


 白真珠の塔でも似た言葉を何度も聞いた。知りたいという衝動は足を前へ出す。だが足の下を見ない者は穴に落ちる。あるいは誰かを落とす。


 紙面は指の腹に冷たい。


「わかっています」


「ならよい」


 エヴァンジェリーネは背を預けた。


「アルフレッド。日取りを調整せよ。長居はさせるな。昼をまたぐなら軽食も用意せよ。ラウリには先に食わせておけ」


「承知いたしました」


「俺は食べる」


 ラウリが低く言った。


「先にも、後にも」


「そこは譲らぬのですね」


 イーリスが笑う。


「展示を見るには力が要る」


「本当か」


 ヒュウマが疑う。


「本当だ」


 ラウリは真顔だった。あまりに真顔なので、ヒュウマは二の句を探して失敗した。


 蒼凪は冊子を閉じた。


「明日でどうでしょう」


「早いですね」


 ヒュウマが言う。


「早い方がいい」


「針を見て、すぐ竿を握り返すんですか」


「相手が待つ時間も情報だ」


 エヴァンジェリーネが今度こそはっきり笑った。


「くっくっく。この朴念仁め。そういうところだけは昔から変わらぬ」


「昔からですか?」


 ヒュウマが反応した。


 蒼凪は視線を逸らす。


 エヴァンジェリーネは楽しげに片眉を上げたが、深く刺しには来なかった。刺せる場所を知っている者の手加減だった。


「昔からじゃ。気になる箱があると、開けずにはおれぬ。幼い頃など本当に箱へ頭を突っ込んだ」


「エヴァ様」


「事実であろう」


「今はしません」


「今はな」


 ヒュウマが肩を震わせる。笑えば痛むはずなのに、こらえきれていない。片手で脇を押さえたまま、息だけで笑っている。


「蒼凪さん、箱に頭を」


「忘れろ」


「無理です」


「ヒュウマ」


「はい。今は忘れます」


「今だけか」


「今だけです」


 ラウリは鮫歯護符の頁から白鯨信仰の頁へ視線を移した。何かを確かめるように唇を閉じる。イーリスは古代航海民の頁を見ている。部屋の中に、それぞれ違う静けさが降りた。


 白木から柑橘と蜂蜜の香りがする。


 見舞いとしては正しすぎる香りだった。甘く軽く、体の弱った者にやさしい。だからこそ断りにくい。


 蒼凪は白い封蝋の欠片を見た。


 礼儀正しい針。


 見えているのに、皮膚へ入る角度だけが美しい。


──────────────────────────────


 午後の早い時間に、アルフレッドは必要な確認を済ませた。


 ルーチェ・デル・マーレ美術博物館は海沿いの白い丘の上にあるという。婚礼宿と劇場街の中間。港からも馬車で向かいやすい。正面には海を望む石段があり、側面には研究者用の入口がある。


 薔薇の館の馬車で向かうなら、一般客とは別の導線が用意されるらしい。


 その報告には、館の外で拾った小さな噂も添えられていた。白真珠の塔の賢者が薔薇の館で療養していることは、婚礼宿の帳場にも薄く広がっている。港へ向かう辻馬車の御者も、その名を耳にしていた。


 誰も正面から口にしない。


 けれど薔薇の館へ向かう花屋の荷は増えた。古書商は古い海図を磨き直した。薬屋は滋養薬の札を店先へ移した。蜂蜜屋は療養向けの小瓶を棚の前へ出した。


 サルマンディアは華やかな都市だ。


 華やかであるために、噂の扱いにも慣れている。名のある客人そのものを商いの札にはしない。かわりに、その周囲の香りを商いへ変える。


 見舞いの蜂蜜。海図の複製。旅人に効く茶葉。白い花束。


 誰も嘘はつかない。


 誰も完全に無関係ではない。


 マーレ社の白い封書は、その流れの先端に置かれたものだった。


 見舞いの品は街の噂に混じるには上品すぎる。だが上品であるほど無下にしにくい。善意の形をしたものほど、拒む側に余計な言葉を要求する。


 報告を聞いたエヴァンジェリーネは露骨に不機嫌な顔をした。


「用意がよい」


「博物館側の返答は迅速でございました」


「そうであろうな。待っておったに決まっておる」


 アルフレッドは否定しなかった。


 蒼凪は小サロンから書斎へ移っていた。長卓の上には展示案内と閲覧室の本が並んでいる。窓から入る午後の光は午前より白い。紙面の金文字が浅く光った。


 肩の痛みは少し増している。


 長く座っていたせいだ。蒼凪は背筋を立て直し、呼吸を細く通す。胸郭の奥がゆっくり開く。熱。鈍さ。引きつれ。まだ動ける範囲。


 ヒュウマがこちらを見た。


「蒼凪さん」


「無理はしていない」


「聞く前に言うの、だいたい怪しいです」


「先に言っただけだ」


「そこが怪しいんです」


 蒼凪は黙った。


 イーリスは向かいで展示名を書き写していた。語り部らしく、彼は品名だけでは終わらせない。どの順で見せようとしているのか。どこで客を止めるつもりなのか。余白まで見ている。


 ラウリは窓辺に立っていた。


 外の海鳥へ小さな声で話している。すでに何羽かが庭へ来ていたが、今日は餌を与えていない。彼は真剣に、明日の予定を鳥へ説明しているらしかった。


「鳥に博物館の説明をしてるのか?」


 ヒュウマが言う。


「海鳥は、あのあたりを飛ぶ」


 ラウリは振り向かずに答えた。


「白い丘の上なら、見ている鳥もいるはずだ」


「なるほど」


 ヒュウマは一度納得しかけ、すぐに首を傾げた。


「いや、なるほどでいいのか?」


「よいのではないでしょうか」


 イーリスが笑う。


「旅には人の道と鳥の道がありますから」


 蒼凪は閲覧室案内の申請欄を追いながら、その言葉を聞いていた。


 人の道と鳥の道。


 マーレが敷いたのは人の道だ。白い石畳。案内板。上質な馬車。礼儀正しい招待状。誰が歩いても迷わないように整えられた善意の道。


 だが道を敷く者には目的がある。


 悪意でなくても目的はある。


「蒼凪殿」


 イーリスが呼んだ。


「この展示順ですが、海から始まり、人の暮らしを通って、最後に沈んだ王国へ向かっています。物語の形としては美しい」


「終点を先に作っている」


「はい。見た者がそこへ流れ着くように」


「上手いですね」


「上手いです」


 イーリスは少しだけ目を伏せた。


「だから、気をつけた方がよろしいかと」


 蒼凪は彼を見た。


「物語は人を運びます。望む場所へ運ぶことも、望まぬ場所へ運ぶこともできる。館の床よりも静かに」


 語り部の声だった。


 ただ美しいものを褒める声ではない。物語が心をどれほど自然に動かすかを知っている者の声だ。


 エヴァンジェリーネが満足そうに鼻を鳴らす。


「よい同行者を選んだな、凪」


「そう思います」


「もっとも、お主が選んだというより、三人まとめて針に寄ったようにも見えるが」


「否定はしない」


 ヒュウマが額を押さえた。


「蒼凪さん」


「何だ」


「今の返事、かなりまずいです」


「事実だ」


「事実でも言い方があります」


 蒼凪は少し考えた。


「三人で確認に行く」


「そう、それでいいです」


「釣り針を」


「足さないでください」


 イーリスがとうとう声を立てて笑った。ラウリも窓辺で肩を揺らす。外の海鳥がつられて鳴いた。


 エヴァンジェリーネは愉快そうに眺めていた。だがすぐに表情を引き締める。金の目が白い封蝋の欠片を捉えた。


「明日は、見たものをそのまま持ち帰れ。判断を急ぐな。相手がどれほど美しい額縁を用意しても、絵そのものと額縁は別じゃ」


「はい」


「それから、相手が誰であれ名をよく聞け」


「案内人の名ですか」


「そうじゃ。名乗る者は、名乗ることで何かを置く。名乗らぬ者は、名乗らぬことで何かを隠す」


 彼女は白い封蝋を指先で摘んだ。


 朝に封としての役目を終えた欠片だ。それでも机の上にある限り、まだ白い。真珠色の底に淡い青が残っていた。


「この封蝋も同じじゃ。砕かれても、自分の色を残しておる」


 蒼凪は欠片を見た。


 波と光の印は半分だけになっている。完全ではない。それでも由来は明らかだった。割れても消えないように押された印だ。


「好奇の封蝋ですね」


 イーリスが静かに言った。


 エヴァンジェリーネが目を細める。


「よい言葉じゃ」


「封じるためではなく、開かせるための封でございます」


「まさしく」


 ヒュウマはその白を見ていた。若い顔に、公的な場で見せる凛とした硬さが少し出ている。


「開けさせるなら、開けた後の道も用意しているはずです」


「そうだな」


 蒼凪は答えた。


「だから道の端を見る」


「真ん中じゃなくて?」


「真ん中は見せたいものだ」


「端は」


「整え残しが出る」


 ヒュウマは納得したように頷いた。すぐに別の心配を思い出したように、蒼凪の肩へ視線を落とす。


「端を見るのはいいですけど、歩きすぎないでください」


「わかっている」


「椅子があったら座る」


「必要なら」


「必要じゃなくても一度座る」


「条件が増えたな」


「増やします」


 エヴァンジェリーネがくっくっくと笑った。


「海守りの末裔よ。お主、なかなかよい縄を持つ」


「縄ですか」


「凪を岸へ引く縄じゃ」


 ヒュウマは一瞬だけ言葉を失った。からかわれたと分かっているのに、否定しきれない様子だった。


 蒼凪は紙面へ視線を落とす。


 西南海域古層展。


 白鯨信仰。鮫歯護符。潮文碑片。古代航海民の星海儀。古カモアラニ王国。


 それぞれは別の言葉に見える。だが線を引けばつながるかもしれない。つながらないかもしれない。つながらないことにも意味がある。


 その確認のために、明日の午前に薔薇の館を出る。


 マーレの白い道へ乗る。


 理解したうえで歩く。


 ヒュウマは支部へ向かうため別行動になる。イーリスは展示された物語を見る。ラウリは飾られた海の声を聞く。エヴァンジェリーネは不機嫌な保護者として、馬車と名を貸す。


 アルフレッドはその全部を、すでに手順へ落としている。


「凪様」


 アルフレッドが静かに言った。


「明朝は朝食を少し早めます。馬車は午前の風が変わる前に出します。戻りは昼前を目安に。長引く場合、私へ使いをお戻しください」


「承知しました」


「また、閲覧室へ入られる場合は申請内容を絞るべきかと」


「潮文碑片。星海儀。南西の海域図」


 蒼凪は即答した。


「白鯨信仰はラウリと相談する」


「結構でございます」


「俺は、鮫歯護符も見る」


 ラウリが言った。


「そして白鯨の布。できれば触れたいが、触れないなら近くで見る」


「申請へ加えましょう」


 アルフレッドは低く応じた。


 イーリスが筆を止める。


「わたくしは展示順と解説文を見ます。案内人がいるなら、言葉の運びも」


「頼みます」


 蒼凪が言う。


「はい。言葉は、飾る者の手跡でございますので」


 エヴァンジェリーネは椅子の背に沈み、長い吐息を落とした。


「まったく。釣り針を見つけた客人どもが、釣り人の手相まで見に行く顔をしておる」


「悪くないですね」


 蒼凪は言った。


「褒めるでない」


「今のはエヴァ様の比喩が」


「なお悪い」


 アルフレッドの瞼が一枚下がった。声はない。けれど蒼凪には、それが笑いだと分かった。十二年前から変わらない、ほとんど動かない笑いだった。


 昔の朝が一瞬だけよぎる。


 西の間の窓。半分だけ食べた粥。重すぎた木剣。アルフレッドの「凪様、もう一本」という声。エヴァンジェリーネの廊下の奥の気配。あの頃の蒼凪は自分の身体を他人のもののように扱っていた。


 今は違う。


 痛む肩も熱を持つ傷も、自分のものだ。


 だから運ぶ。壊さずに。使い切らずに。


 ヒュウマの視線がまたこちらへ来た。


「蒼凪さん、今なに考えました?」


「昔のこと」


「珍しいですね」


「そうでもない」


「俺に話す気は」


「今はない」


「今は、ですね」


「支部の用件を片づけろ」


「逃げましたね」


「先に行くぞと言う場面ではないからな」


 ヒュウマは呆れたように笑った。痛みに触れないよう、今度は息を浅くしている。


「帰ったら聞きます」


「覚えていたらな」


「覚えてます」


 短い応酬のあと、部屋の空気が少し静かになった。外では海鳥が翼を鳴らし、薔薇の枝が窓に影を落としている。蜂蜜の小瓶は厨房へ運ばれたはずなのに、甘い匂いだけがまだ残っていた。


 ラウリは砂糖菓子の小箱を見下ろしていた。


「これは、食う前に祈る」


「食べるのですね」


 イーリスが言った。


「食う。だが、こういうものは礼がいる」


「その一言だけで、すでに一節ございます」


「歌にするには早い」


「承知しております。早い物語ほど、遠くから見るのがよろしいのでございます」


「ならいい」


 ラウリは安心したように頷き、やはりまだ菓子には手を出さなかった。食欲の明るさと祭祀に触れた時の静けさが、同じ身体の中で入れ替わっている。


 ヒュウマは塩飴の小箱を手に取った。紐は片手でもほどける。彼は悔しそうに息を漏らす。


「本当に、よくできてますね」


「持っていけ」


 蒼凪が言った。


「支部へ行くなら使う」


「毒は」


「入っていないだろう。入っていたら趣味が悪い」


 エヴァンジェリーネが眉を上げる。


「妾の台詞を雑に使うでない」


「便利だった」


「まこと腹立たしい」


 ヒュウマは小箱を懐にしまった。実用品としては良すぎる。良すぎるから、拒む理由を奪われる。部屋に残った不快さは、まさにそこから来ていた。


 アルフレッドが箱の中身を一つずつ確認し、使用人へ指示を出す。香草茶は厨房へ。薬草包みは医師へ。菓子は検分後に客人へ。閲覧室案内は蒼凪の前へ戻された。


 手順が決まると部屋は少し軽くなった。


 ただしエヴァンジェリーネの不機嫌は残っている。彼女は白い封蝋を摘まみ、光へかざした。乳白の奥に青が揺れる。海の色を閉じ込めたような作りだった。


「綺麗じゃろう」


「はい」


 蒼凪は言った。


「そこも腹立たしい。下手なら踏み潰せるものを」


 彼女は欠片を卓へ戻した。音は小さい。


「返書を書く。アルフレッド」


「承知いたしました」


「文面は丁寧にせよ。丁寧すぎて、向こうが己の針を恥じる程度にな」


「お館さまのご意向通りに」


「くっくっく。いや、少しだけ妾の棘を混ぜよ」


「混ぜすぎますと美しくありません」


「わかっておるわ」


 アルフレッドの瞼が一枚下がった。彼は封書を銀盆へ移す。白い紙はそこで初めて荷物ではなく、処理すべき案件になった。


 蒼凪は青灰色の冊子を閉じたまま手の下に置いていた。


 紙越しに情報の熱がある。見たい。確認したい。比較したい。展示の配置。注記の精度。閲覧室の写し。古い潮の記録。飾られた信仰の扱い。


 好奇は静かに脈を打つ。


 肩の傷の痛みとは別の拍だった。


 ヒュウマがその手元を見ている。


「蒼凪さん」


「何だ」


「今日は支部です。博物館じゃないです」


「わかっている」


「本当に?」


「今日は行かない」


「今日は、ですね」


「明日行く」


「そこはもう決定なんですね」


「日取りを調整すると言った」


「明日という意味でしたか」


「早い方がいい」


 ヒュウマは額に手を当てた。


「なら条件を増やします。馬車。短時間。途中で座る。閲覧室に入るなら申請内容を絞る。飯は先。痛みが出たら戻る」


「多い」


「多くします」


「面倒だな」


「相談です」


 ヒュウマの声は譲らなかった。蒼凪は冊子から手を離した。ヒュウマが少しだけ安心したので、そこまで見られていたのかと息を吐く。


 エヴァンジェリーネがその様子を眺め、口元を隠して笑った。


「よいのう。釣り針より丈夫な縄がついておる」


「縄ですか」


 ヒュウマが困ったように言う。


「褒めておる」


「本当ですか」


「半分はな」


「残り半分は」


「妾の楽しみじゃ」


 ヒュウマは返答に迷った。蒼凪は短く笑った。肩に響かない程度に。


 窓の外では小鳥がまた鳴いている。ラウリがパンの欠片を見下ろし、今度は差し出さずに自分で食べた。海鳥は不服そうだったが、庭師が近づくとあっさり飛んでいった。


 イーリスは展示案内の表紙へ指を滑らせた。


「飾られた海は、海より静かでございます。ですが静かだからこそ、聞こえる音もある」


「詩にするのか」


 蒼凪が問う。


「まだでございます。見てからです」


「妥当だな」


「蒼凪殿にそう言われると、わたくしも針を噛んだ気分になりますね」


「噛むな」


「貴方が仰いますか」


 ヒュウマが即座に言った。


 蒼凪は黙った。


 エヴァンジェリーネが楽しそうに笑う。不機嫌は消えていない。それでも部屋の空気は朝へ戻りかけていた。湯の匂い。紙の匂い。香草茶の淡い苦味。白木の新しい匂い。


 そこに白い封蝋だけが残る。


 礼儀正しく冷たく、美しい。


 蒼凪はそれを見た。


 針は見えている。


 見えている針をどう扱うかは、魚ではなく手の問題だ。蒼凪は自分の手を一度開き、閉じた。傷の奥が少しだけ熱を返す。


 まだ完全ではない。


 だが筋は追える。


 それで十分ではないが、始める理由にはなる。


──────────────────────────────


 夕刻が近づく前、明日の段取りはほぼ固まった。


 朝食は少し早める。ラウリの分は通常の倍より多く用意する。イーリスには喉を冷やさない茶を持たせる。蒼凪のために馬車へ薄い背当てを入れる。博物館へはエヴァンジェリーネの名で返書を出し、訪問は療養中の客人として短時間に限る。


 ヒュウマはその場で支部へ向かう準備を整えていた。


 彼は包帯の上から外套を羽織り、塩飴の小箱を懐に入れ直す。紐の手触りを確かめる指は、まだ完全に力が戻っていない。それでも結びはほどける。使えるものは使う。彼はそういう実務の人間だった。


「ヒュウマ」


 蒼凪が呼ぶ。


「何ですか」


「支部では無理をするな」


 ヒュウマは一瞬、言葉を失った。


「それ、蒼凪さんが言いますか」


「俺が言う」


「説得力はないです」


「必要なことだ」


「それはそうですけど」


 ヒュウマは外套の前を整え、少しだけ肩を落とした。


「蒼凪さんも、明日は本当に無理しないでください。俺がいないから、余計に」


「ラウリとイーリスがいる」


「ラウリさんは食べ物と祭祀で忙しいです。イーリスさんは物語で忙しい。だから蒼凪さんが自分で止まってください」


「努力する」


「またそれですか」


「善処する」


「言い換えても弱いです」


 蒼凪は短く息を吐いた。


「戻る」


 ヒュウマの眉が少し動いた。


「それなら、まあ」


「支部の用件を片づけてこい」


「はい。蒼凪さんも、明日の用件を増やしすぎないでください」


「努力する」


「……帰ったら確認します」


「覚えていたらな」


「覚えてます」


 ヒュウマはアルフレッドに伴われて部屋を出た。廊下に足音が遠ざかる。途中で一度、包帯が擦れる乾いた音がした。


 蒼凪はそれを聞いていた。


 療養十二日目。


 立ち上がれる者は、少しずつ別の用件へ戻っていく。痛みを抱えたまま紙を持ち、馬車に乗って支部へ行く。止まっているだけでは傷は閉じない。けれど動き方を誤れば、閉じかけたものがまた開く。


 明日の自分も同じだ。


 イーリスが筆を置いた。


「蒼凪殿」


「はい」


「わたくしは、展示される物語が嫌いなわけではございません」


「わかっています」


「ただ、物語は飾られると、声の出どころが見えにくくなることがございます。誰が語ったのか。誰が黙ったのか。誰が並べ替えたのか。そこを見失うと、美しいものほど危ういのでございます」


「貴方がいてくれて助かります」


 イーリスは少しだけ目を細めた。


「そう言われますと、わたくしも釣られた甲斐がございますね」


「噛んだのか」


「まだでございます」


 エヴァンジェリーネが鼻で笑った。


「長命の語り部は、針を噛む前に針の歌を聞くか」


「ええ。音が悪ければ、噛まずに済みますので」


「言うのう」


「仕事道具でございます」


 ラウリは窓辺から戻り、胸元の首飾りへ指を触れた。


「俺は、海のものが飾られるのを見る。怒りに行くわけじゃない。でも、海を知らない者が海を語る時は、変な浅さが出る」


「浅ければわかるか」


 蒼凪が問う。


「たぶん。匂いが違う」


「匂いですか」


 イーリスが興味深そうに言った。


「言葉の匂いだ。俺の島の祈りには、飯の湯気と潮が混じっている。飾りだけなら乾く」


「よい一節でございます」


「歌にするなよ」


「まだ、でございます」


 ラウリは少し疑わしげに見たが、それ以上は言わなかった。代わりに小箱へ視線を落とす。


「これは、夕食の後に食う」


「先にも後にも食べるのではなかったか」


 蒼凪が言う。


「明日の話だ。今日は夕食の後だ」


「区別があるのか」


「ある。腹には順番がある」


 ヒュウマがいれば突っ込んだだろう。蒼凪は一拍置いてから頷いた。


「なら尊重する」


「ありがとう」


 ラウリは真剣に礼を言った。イーリスが笑いをこらえ、エヴァンジェリーネが肩を揺らす。張り詰めていた白い贈り物の気配が、少しだけ人の暮らしへ混じった。


 それでも消えはしない。


 白い封蝋は、まだ長卓の上にある。


 エヴァンジェリーネはそれを指先で押した。


「土産話は妾に一番に寄越せ」


「もちろんです」


「もちろん、か。まったく」


 彼女は呆れたように笑った。


「釣られる魚の顔をしておきながら、戻った時には網の目を数えておる。お主は昔から、そういう面倒な子であった」


 蒼凪は返す言葉を探した。


 見つからなかった。


 代わりに封蝋の欠片を一つだけ手に取る。軽い。朝に聞いた音と同じく、驚くほど軽い。指先に残るのは蝋の硬さと、白の冷たさだけだ。


 けれど、それを置いた者の手は軽くない。


 蒼凪は欠片を卓へ戻した。


 割れた白が、薔薇の館の赤い木目の上で小さく光る。


「明日、行きます」


 誰に確認するでもなく言った。


 イーリスが頷く。ラウリが胸元の首飾りへ指を触れる。アルフレッドはすでに次の手順へ意識を移している。


 エヴァンジェリーネだけが、少し長く蒼凪を見ていた。


「行ってこい。妾の客としてな」


「はい」


「そして凪よ」


「はい」


「戻ってこい。話はそれからじゃ」


 蒼凪は短く息を吸った。肩の奥が熱を返す。痛み。鼓動。好奇。三つが同じ身体の中で別々に鳴っていた。


「戻ります」


 そう答えた。


 窓の外で海鳥が一羽鳴いた。


 明日、その白い丘の上で何を見るのか。


 まだ、誰も知らなかった。

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