善意の封蝋
白帆亭の朝食室には、清布の匂いが残っていた。
パンの焼ける匂いもある。薄く煮た魚のスープもある。香草と塩で整えた卵の匂いも、窓の外から入り込む潮に混ざっていた。
それでも、いちばん先に鼻へ触れるのは清布だった。
清め水で湿らせた布。薬草を潰した軟膏。寝台の横で一晩かけて乾いた包帯。その匂いが、勇者一行の席だけに薄く集まっている。
療養八日目の朝だった。
レオンは椅子へ座る時、肩を少しだけ遅らせた。顔は平静に作っている。白い旅装の前も整っている。深紅のサッシュは腰に戻っていた。聖剣も左にある。
だが右肩の動きだけは、昨夜より半拍重い。
ガイウスはさらに分かりやすかった。大きな身体を椅子へ沈める時、卓の脚が短く鳴った。本人はいつも通りの顔で水を取ったが、器を持つ手が一度だけ脇腹を避ける。
カイは二人を見た。 見ただけだった。
「今朝は滋養粥を多めにしました」
白帆亭の給仕がそう告げ、二人の前にだけ深い器を置いた。白い粥の上に、細く裂いた魚肉と香草が載っている。油は少ない。胃に負担が出ないよう作られた療養食だった。
レオンが器を見る。
ガイウスも見る。
二人がほぼ同時にカイを見た。 カイは自分の茶を注いでいた。
「お二人とも、昨夜はよく眠れましたか」
柔らかな声だった。 柔らかすぎた。
ヴェスタが窓際で肩を震わせた。笑いを噛み殺している。彼は皿のパンを千切りながら、視線だけを器用に横へ流した。
「眠れた」
レオンは言った。
「そうですか」
カイは頷いた。
「では、清布が二組なくなっていたのは、寝返りのせいですね」
ガイウスが水を飲む音だけが響いた。
「寝返りが派手だったんだろ」
ガイウスは低く言った。
「宿の廊下まで歩く寝返りは、珍しいですね」
「山にはある」
「山は便利ですね」
ヴァローが紙束から顔を上げた。
「月読みの塔にはありません。記録しておきましょうか」
「やめろ」
ガイウスが短く返す。
レオンは器に匙を入れた。粥は湯気を立てている。味は淡いが、魚の出汁が深い。身体にはありがたい。昨夜の港で荒くれ五人を転がして帰ってきた者には、妙に腹へ沁みる味だった。
カイはそれ以上何も言わなかった。
それが一番痛い。
叱責なら返せる。説教なら耐えられる。祈りなら、レオンは黙って受けるしかない。けれど清布を用意して朝に粥を増やす兄のような神官は、逃げ道を残さない。
ヴェスタがとうとう小さく笑った。
「勇者の兄ちゃんとガイウスの兄貴が、夜の港で何をしてきたかは聞かねえよ」
「聞かないなら言うな」
レオンが顔をしかめる。
「聞かないって言っただけだぜ。想像は自由だ」
「ヴェスタ」
カイが名を呼ぶ。
「はいはい。神官の兄ちゃん、俺は朝飯に集中します」
ガイウスが粥を一口飲み込んだ。
「悪くねえ」
それだけ言う。
カイの目元が少し緩んだ。レオンも匙を動かした。粥は薄い。けれど味は弱くない。傷に障らない朝食というものは、戦場から帰った身体にとってひとつの命綱だった。
窓の外では、朝のサルマンディアが白く光っている。
白帆亭の前の通りは、すでに人で動き始めていた。婚礼客の馬車。港へ向かう荷車。朝市帰りの女たち。宿泊客を呼び込む少年。白い石畳に、色の薄い影が重なる。
その影の間で、やけに元気な声が響いた。
「勇者様も召し上がった滋養粥、朝の一杯だよ!」
レオンの匙が止まった。 ガイウスも止まった。
ヴァローは紙束から視線だけを窓へ向けた。
「興味深いですね」
「俺は食ってない」
ガイウスが言う。
「今、食べています」
「あれは違う粥だろ」
「言葉の上では、非常に柔軟な商売です」
窓の外では、薄い白布をかけた露店が湯気の立つ椀を並べていた。看板には赤い文字で「勇者様ゆかり」と書かれている。ゆかりの範囲は広い。白帆亭の前に店を出しているだけでも、売り文句としては十分なのだろう。
隣の露店では、白い組紐が小箱に入れられている。
「勝利祈願の白紐だ。旅の護りに、怪我の快復に!」
さらに向こうでは、小瓶を並べた女が客へ香油を嗅がせていた。
「海路の疲れに効くよ。勇者一行もご療養中だ。今のうちに買っておきな」
レオンは窓を見ていた。
怒りではない。
怒りならまだ分かりやすかった。偽りの名で商売をするなと言えばいい。実際、勇者一行はその粥を食べていない。香油を使ったわけでもない。白紐を配ったこともない。
だが、街は嘘だけで動いているわけではなかった。
勇者一行が負傷して白帆亭に滞在していることは本当だ。療養していることも本当だ。白帆亭から清布と薬草の注文が増えたことも、本当なのだろう。
その本当の周りに、商売が咲く。 花のように軽く、黴のように早く。
「止めますか」
カイが聞いた。
レオンは少しだけ考えた。
「今はいい」
「いいのですか」
「俺たちの名前で人を騙しているなら止める。だが、今はまだ売り文句だ」
「寛大ですね」
ヴァローが言う。
「迷っているだけだ」
レオンはそう返した。 その短い言葉に、ヴァローは目を細めた。皮肉を重ねることもできたが、しなかった。
ヴェスタが窓の外を眺める。
「噂が早いな。港の潮より早い」
「潮は戻ります」
ヴァローが言った。
「噂は戻りません。形を変えるだけです」
ガイウスが粥をもう一口飲む。
「ありがたくねえな」
「ありがたいものも混ざっています」
カイは自分の器へ視線を落とした。
「この粥は、本当にありがたい」
「それが厄介なんだろ」
ガイウスの言葉に、カイはすぐには答えなかった。
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白い木箱が運び込まれたのは、その少し後だった。
朝食の後、レオンが椅子から立とうとした時に宿の帳場が急に静かになった。外の通りの声が消えたわけではない。むしろ通りは相変わらず賑やかだった。
けれど宿の中だけ、空気が細く張る。
白帆亭の主人が、いつもより背を伸ばして食堂へ入ってきた。後ろには給仕が二人。さらにその後ろへ、白い上着の運び手が三人並んでいる。
運び手たちは、港の荷役夫とは違った。
肩で荷を担がない。足音を乱さない。白い木箱を見せるように運ぶ。持ち手の位置も揃っている。箱が置かれる前から、箱そのものが部屋の視線を集めていた。
ヴェスタが小さく口笛を吹いた。
「見られる荷だな」
「見られる荷?」
レオンが聞く。
「港の商人の運びじゃねえ。婚礼宿か劇場の扱いに近い。箱を運んでるんじゃなくて、箱が届いた場面を運んでる」
ヴァローが頷く。
「観察できる範囲では、同意します」
白い箱の正面には、真珠色の封蝋が押されていた。
丸い印章。波を模した曲線。その上に小さな帆。下には古い海の語 mare を意匠化した文字が細く入っている。
マーレ社。
その名は今、白い箱と封蝋をまとって食堂の真ん中に置かれていた。
「勇者一行の皆様へ、マーレ社よりお見舞いのお品でございます」
運び手の一人が頭を下げた。 声は通る。低すぎず高すぎず、宿の中でちょうどよく響く訓練を受けた声だった。
白帆亭の主人が緊張した顔でレオンを見た。
「レオン様。こちら、当宿でお預かりしてよろしいでしょうか」
その言葉は、預かるかどうかの確認に見える。
だが本当は、通すかどうかの確認だった。
食堂の他の客が、ちらちらとこちらを見る。廊下の奥で給仕が足を止めている。帳場の少年まで背伸びをしていた。
レオンは箱を見た。 白い。
きれいだ。 そして、逃げ場がない。
「一度、こちらで確認する」
レオンは言った。
「承知いたしました」
運び手はまた頭を下げた。
箱は食堂奥の長卓へ置かれた。置かれる音は軽い。だが部屋に残った意味は軽くない。
ヴァローが席を立つ。
「封を切る前に、荷札を見せてください」
運び手は嫌な顔をしなかった。
「もちろんでございます」
ヴァローは荷札を手にして、書かれた文面を目で追った。紙は厚い。文字は整っている。サルマンディアの商業書式に近いが、どこか婚礼契約書の余白に似た美しさがある。
ヴェスタは箱の底を見ていた。
「濡れてねえな」
「ええ」
運び手は笑う。
「朝の港を通りましたが、箱は濡らさぬよう手配しております」
「手配がいいな」
「お褒めにあずかり光栄です」
ヴェスタはそれ以上言わない。だが目は靴へ移った。運び手の靴底はきれいだった。港から来たなら、石畳の水や魚箱の泥が少しはつく。ついていない。
港を通ってきたのではなく、港を通ったように整えられた荷だ。
「この箱、開ける前から仕事してる」
ヴェスタは低く呟いた。 ガイウスが腕を組む。
「白いな」
「ええ、白い」
カイが言った。
その声に、ほんの少し慎重さが混ざる。 白いものは、カイにとって馴染み深い。神官服。清布。祈りの蝋燭。聖堂の壁。光神オルヴェリスの象徴色。
けれど、マーレ社の白は教会の白ではない。
祈りのためではなく、見られるために磨かれた白だった。
レオンは封蝋を見ていた。 真珠色の封蝋は、朝の光を柔らかく返す。剣の銀とも、教会の聖印の白とも違う。海を商売に変える街の色だった。
「開けよう」
レオンが言う。 運び手が丁寧に封を切った。
箱の中には、さらに白い薄紙が敷かれていた。薄紙を一枚ずつ外すと、品物が順に現れる。
まず果物だった。傷みにくいよう藁で守られた淡い橙色の実。サルマンディア近郊の丘で取れるものだと、給仕が小声で言った。次に蜂蜜。小瓶の中で金色が重く光っている。香草茶は紙包みで、薬草のような苦みの匂いは少ない。療養者でも飲みやすく調えたものだろう。
焼き菓子もあった。
砂糖を控え、木の実を細かく砕いて練り込んでいる。怪我人に重すぎず、それでいて贈答品として貧相に見えないぎりぎりを選んでいた。
最後に、小瓶が三つ。
香油だった。 ガイウスが顔をしかめる。
「包帯巻いてる奴に香り物を贈るか、普通」
「薬用香油です」
カイが瓶の封を見た。
「炎症を抑える配合ですね。香りは、痛み止めの薬草臭を隠すためでしょう」
「ありがたいのが腹立つな」
ガイウスは本気で嫌そうに言った。
ヴェスタが笑う。
「兄貴、使うだろ」
「毒じゃねえならな」
「毒なら、こんな白く運ばねえよ」
「分からんぞ。白い毒もある」
「山にはあるのか」
「ある」
「山、怖えな」
レオンは二人のやり取りに少しだけ息を抜いた。だが箱の底に置かれていた白い封筒を見つけると、その軽さは消えた。
封筒にも、真珠色の封蝋。 マーレ社の印。
ヴァローが先に視線を落とす。
「文面を」
レオンは封筒を開いた。中の紙は一枚ではない。見舞い状と招待状が分けられている。
見舞い状の文字は、丁寧だった。
勇者一行の皆様。 海路のお疲れと当地でのご療養を伺い、心ばかりの品を届ける。
サルマンディアでの滞在が、少しでも穏やかなものとなることを願う。
皆様のご無事と、速やかなご快復を祈る。 ロドルの名はない。
深淵の徒もない。
撤退もない。
何も知らない文面だった。 だからこそ、外していない。
レオンは紙を持つ指に力が入るのを感じた。文面は間違っていない。悪意も見えない。むしろ礼儀正しい。自分たちがどのように傷を負ったのかには踏み込まず、噂で知れる範囲だけを拾っている。
だが、その範囲の取り方が正確だった。 白帆亭にいること。
療養中であること。 海路の疲れという言い方なら、港へ来た理由を知らなくても成立すること。
勇者一行という名に、祈りと見舞いを結びつければ、誰もそれを失礼とは言えないこと。
「彼らは何も断定していない」
ヴァローが言った。
「だから外していない」
カイは文面を見つめる。
「祈りの言葉としては、悪いものではありません」
「商売の文としても悪くねえ」
ヴェスタが言った。
「そこが面倒だな」
招待状はさらに整っていた。
三日後、サルマンディア港湾区の白帆広場で港湾安全祈願と負傷者慰問の小式典を行う。海路の安全を願い、今回の滞在で傷を負った者たちへの快復を祈る場としたい。
よろしければ、勇者一行の皆様にも短いご臨席を賜りたい。
長時間の出席は求めない。
療養を妨げないよう配慮する。 市民へ安心を届けるため、顔を見せていただければ十分である。
レオンは文面を終わりまで追い、紙を卓に置いた。
紙は軽い。 だが、置いた音がやけに大きく聞こえた。
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ルシアン・セーヴァが白帆亭へ現れたのは、招待状が卓の上に置かれてからほどなくしてだった。
狙ったような時機だった。 ただし、彼は狙ったような顔をしない。
白外套の裾を軽く払って食堂へ入り、宿の主人に笑って挨拶をする。淡い金髪は朝の光を受けてやわらかく見えた。薄い灰青の瞳は箱と封筒を拾った。続いてレオンたちの座る位置へ動く。開いた窓と運び手の靴も拾う。
それを見ていない顔で、彼は笑った。
「おはようございます。顔色、悪くないですね」
ルシアンはレオンを見て言った。
「朝はそれだけで半分勝ちです。残り半分は朝食ですが、もう召し上がったようで」
ガイウスが低く唸るような声を出した。
「来るのが早いな」
「夜明けの支部は書類が少ないんです。昼になると増えます」
「そういう意味じゃねえ」
「ええ。分かっています」
ルシアンは悪びれない。
ヴァローの目が細くなる。
「偶然ですか」
「半分は」
「残り半分は」
「サルマンディアでは、白い箱が動くと人の目も動きます」
ルシアンは卓の白い箱を見た。
「私の耳にも届きました」
「耳が早いですね」
ヴァローの声には皮肉があった。
「職業病です」
ルシアンは笑う。
「迷子も噂も、足が速いほど早めに見つけた方がいい」
その言い方に、ヴァローはそれ以上踏み込まなかった。気に入ったわけではない。踏み込めば、言葉の道をルシアンに整えられる気配があった。
レオンは招待状を指で押さえた。
「説明を聞きたい」
「もちろんです」
ルシアンは席を勧められる前に、立ったまま少しだけ身を引いた。 座らない。
同席しすぎない距離だった。
「まず、マーレ社は、あなた方がどこで何と遭遇したかまでは知りません」
その言葉で、カイが少しだけ目を上げた。
ルシアンは続ける。
「知っているのは、勇者一行がサルマンディアに滞在していること。負傷し、療養していること。白帆亭に医薬品と清布が入っていること。市民の間で話題になっていること。その程度でしょう」
「その程度にしては、外していない」
ヴァローが言う。
「外さない言葉だけを選んでいますから」
ルシアンは穏やかに返した。
「マーレ社は、そういう言葉を選ぶのが上手い」
ガイウスが腕を組み直した。
「何の会社だ」
「ひとことで言えば、サルマンディアを便利にしている会社です」
「ひとことじゃ足りねえ」
「ええ」
ルシアンは頷いた。
「港湾の荷回し。観光船。婚礼宿への人の流れ。劇場の興行。土産物の卸。新しい宿泊区画の整備。白い馬車の手配。港の案内人。最近では療養客向けの香油や、巡礼者向けの軽食まで」
言葉が並ぶたび、白い箱の意味が少しずつ重くなった。 港。
観光。 婚礼。
劇場。
宿。 祈願。
どれもサルマンディアの表の顔だ。
その表の顔に、マーレ社の白い手が触れている。
「街の血管のようなものです」
ルシアンは言った。
「切れば、街は不便になる」
「悪い会社なのか」
レオンが聞いた。 ルシアンはすぐには答えなかった。
その沈黙は答えを濁すためではなく、簡単に答えないためのものに見えた。
「悪意で動いているわけではありません」
「では善意か」
「それもあります」
ルシアンは微笑む。
「サルマンディアでは、善意も帳簿に載ります」
カイの指が、ロザリオへ触れた。
「帳簿に載るなら、善意ではないのでしょうか」
「いいえ」
ルシアンはカイを見る。
「帳簿に載るからといって、善意でないとは限りません。施療院を建てるには金が要る。清布を運ぶにも馬車が要る。孤児にパンを配るにも、誰かが粉を買わなければならない」
その言葉は、カイを責めていない。
むしろ、彼の信じる善行を肯定している。 だからこそ、カイの顔に影が落ちた。
「善意が商売に混ざること自体は、罪ではありません」
カイは静かに言った。
「ですが、祈りの形をした取引には、少し慎重であるべきです」
「その通りです」
ルシアンは頷く。
「慎重であるべきです。拒絶すれば清い、というほど簡単でもありません」
ヴェスタが招待状を指で軽く弾いた。
「こいつは接点作りだな」
「ええ」
ルシアンはあっさり認めた。
「マーレ社が勇者一行を見舞った。勇者一行がマーレ社の見舞いを受け取った。この二つの事実だけで、街には十分な意味が生まれます」
「買収じゃないのか」
ガイウスが言う。
「買収にしては安い」
ヴァローが言った。
「見舞い品の質は高いが、勇者一行を買える値段ではありません。これは所有ではなく、接触の記録です」
「さすがヴァロー殿」
ルシアンが楽しそうに言う。
「言葉が正確だ」
「褒める時に評価の匂いを混ぜる癖、直した方がいい」
「すみません。職業病が多くて」
ヴァローは小さく息を吐いた。
ガイウスが香油の瓶をつまみ上げる。指の太さに対して、小瓶はずいぶん小さく見えた。
「で、受け取る義務はあるのか」
「ありません」
ルシアンはすぐに答えた。
「完全に退けても構いません」
「なら返すか」
ガイウスの言葉は半分本気だった。
ルシアンは首を傾ける。
「ただ、完全に退ければ、それもまた街には伝わります」
レオンはその言葉を胸へ置いた。
拒むこともまた、意味になる。
マーレ社からの見舞いを勇者一行が拒んだ。 その噂は、朝の露店より早く広がるだろう。マーレ社の顔が潰れた。勇者一行が街の善意を嫌った。教会がマーレ社を警戒した。あるいは勇者一行の傷は噂より重い。
何にでも変わる。
通せば、接点が生まれる。
返せば、拒絶が生まれる。 どちらにも商売の道がある。
「地獄への道は善意で舗装されている」
ヴァローがふと、塔の書物を読むような声で言った。
カイが目を伏せる。
ガイウスは意味を量る顔をした。 ヴェスタは少しだけ笑う。
ルシアンは否定しなかった。
「ええ」
彼は白い箱を見た。
「ただ、善意で舗装された道が、必ず地獄へ向かうとも限りません」
「天へ向かうとも限らない」
ヴァローが返す。
「その通りです」
ルシアンは笑った。
「だから歩く人が、どこへ向かう道なのか確かめる必要がある」
その言葉は穏やかだった。
穏やかなのに、レオンの胸には重く落ちた。
歩く人。 勇者。
顔を出す者。
名前を使われる者。 剣で道を切り開く時よりも、こういう時の方が重い。敵がいない。刃を向ける相手がいない。善意の形をしたものに、剣は抜けない。
レオンは招待状を見た。
港湾安全祈願。
負傷者慰問。 市民へ安心を届けるため。
どれも間違っていない。
あの海で傷を負った者たちだけではない。港には不安がある。どこかの末端が火薬の匂いを残した。偽聖印も出た。サルマンディアは白く笑っているが、その白の下には焦げ跡がある。
市民が勇者の顔を見て安心するなら、それは役目なのかもしれない。
だが、その安心がマーレ社の信用にもなる。
それも事実だった。
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話し合いは長くなった。
白帆亭の主人は途中で食堂の戸を閉めた。宿の他の客の視線を切るためだ。だが戸の向こうに、人の気配が残っている。
見たいのだ。
勇者一行が白い箱をどうするのか。
レオンはそれを責められなかった。自分も街角で何かが起きれば見てしまう。噂は人の弱さだけではない。安全を確かめるためにも、人は見る。
「招待へ出るかは、別に考えたい」
カイが言った。
「負傷者慰問という形自体は、否定できません。実際に傷ついた方々がいるなら、祈りは必要です」
「だが、怪我人を看板にする気配もある」
ガイウスが言う。
「そこが気に食わん」
「看板になるのは、レオンだけではありません」
ヴァローは招待状を指で押さえた。
「勇者一行という単位です。神官、魔導士、盾の戦士、海事斥候。全員が並べば、マーレ社は幅広い層へ見せられる」
「俺もかよ」
ヴェスタが顔をしかめる。
「海事斥候は、港湾安全祈願には相性がいい」
「最悪だな。俺の顔まで商売にするのか」
「すでにされている可能性はあります」
「言うなよ」
ヴェスタは椅子の背へ身体を預けた。
「けどまあ、港の人間が怪我人見て安心するなら、顔出す意味はあるかもしれねえ。海の上じゃ、旗が見えるだけで人が持ち直す時もある」
レオンはその言葉を聞いた。
旗。
ガイウスも昨夜、似たようなことを言った。最初に会った時、レオンを白い旗だと思ったと。旗は自分で歩かない。だがレオンは歩いた。
今、マーレ社はその旗を見舞い品の隣へ置こうとしている。
旗は振られる。
なら、どちらへ向けて振られるのかを自分で決めるしかない。
「ルシアン」
レオンが言う。
「はい」
「マーレ社に、俺たちの返答はどのくらいで届く」
「今日中には」
「早いな」
「白い箱は、帰り道も早いんです」
ルシアンは軽く笑った。
「急ぐ必要はありません。ですが、遅らせれば遅らせた意味も街に出ます」
ヴァローが指でこめかみを押さえた。
「便利すぎる街は、遅延にも意味を与える」
「不便な街でも、噂は意味を作りますよ」
ルシアンは言う。
「サルマンディアは、その意味に値札をつけるのが上手いだけです」
カイは黙っていた。
彼の指はロザリオから離れている。代わりに、見舞い状の端を見ていた。そこには、勇者一行の快復を祈る文がある。
祈りは、確かに祈りだった。
マーレ社の人間が本心で祈っているかは判然としない。文面を整えた書記は、仕事として祈りの形を作ったのかもしれない。それでも、見舞い品は役に立つ。香油は炎症を抑える。蜂蜜は体力を戻す。香草茶は眠りを助ける。
助かる人がいる善意を、善意ではないと言い切ることはできない。
だからカイは苦しい。
レオンはそれを見た。 勇者として判断するということは、カイの苦しさも背負うということだった。ガイウスの苛立ちも来る。ヴァローの警戒も、ヴェスタの現場感覚も同じ場所へ来る。
聖剣の柄より軽い紙が、今日は剣より重い。
「受け取る」
レオンは言った。
食堂の空気が止まる。
「だが、礼状は俺が書く」
ガイウスが腕を組んだまま、少しだけ眉を上げた。
ヴァローは頷く。
カイは静かに息を吐いた。 ヴェスタは口の端を上げる。
ルシアンは笑みを深めた。
「よい判断だと思います」
「褒めるなら後にしてくれ」
レオンは招待状を手に取った。
「見舞い品は受け取る。礼も返す。だが式典に出るかは、内容を見てからだ。港湾安全祈願と負傷者慰問が本当に市民のための場なら、顔を出す意味はある」
「誰の安心なのかは見る」
ヴァローが付け足す。
「ああ」
レオンは頷いた。
「勇者の名を使われるなら、俺の言葉も混ぜる」
その言葉は、強い宣言ではなかった。
怒りでもない。
だが、卓の上の白い箱へ一本の線を引いた。 マーレ社の善意を通す。
ただし、勇者の名を白い箱の中へ丸ごと入れはしない。
レオンは宿の主人へ紙と筆を頼んだ。主人はすぐに動く。動きが早すぎて、彼自身もこの返答を待っていたのだと伝わってくる。
ルシアンはその様子を見ていた。
人懐っこい顔のまま。
だが薄い灰青の瞳は、レオンがペンを持つ手とカイが見舞い状を畳む指を順番に拾っている。ヴァローの視線が招待状の余白へ落ちるところも見逃さない。
彼は何も言わなかった。
言わなくても、観察は残る。
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礼状を書くのは、剣を振るより遅かった。
レオンは紙の前に座り、しばらく筆を持ったまま止まっていた。聖剣は腰にある。けれど今、重いのは左腰ではなく右手だった。
文面は礼でなければならない。
警戒を滲ませすぎれば、拒絶になる。喜びすぎれば、取り込まれたように見える。勇者として軽すぎてもいけない。教会の代弁者になりすぎても違う。
自分の言葉を混ぜる。
言うのは簡単だった。
実際に混ぜるには、どの言葉が自分のものなのかを選ばなければならない。
カイは少し離れた席で香油を確認していた。香りを嗅ぎ、瓶の底の沈殿を見る。宿の清布と合わせて使えるかを考えている。彼はマーレ社の意図に引っかかりながらも、薬としての価値を捨てない。
ガイウスは蜂蜜の瓶を見ていた。
「これは使える」
「何にですか」
カイが聞く。
「粥」
「喉には良いですね」
「酒にも入る」
「今は駄目です」
「今はな」
ヴェスタが笑った。
ヴァローは招待状の写しを作っている。月読みの塔宛てではなく、勇者一行の控えだ。彼は余白に小さく書き込んだ。断定なし。接触記録。噂の収束点。
ルシアンは窓際に立ち、外の通りを見ていた。
白帆亭の外では、もう別の声が上がっている。
「マーレ社の見舞いが届いたってよ!」
誰かが言った。
声は近くない。けれど窓から入るには十分だった。
別の声が続く。
「勇者様が受け取ったらしい」
「じゃあ本当に快復祈願だ」
「白紐、もう一束出しておくれ」
レオンの筆が止まった。
まだ礼状は書き終わっていない。
なのに噂はもう外へ出ている。 事実より早く、返答より早い。街の中で次の形へ変わっていく。白い封蝋は切られた瞬間から仕事を終えていない。むしろ、そこから仕事を始めている。
レオンは窓を見た。
ルシアンが振り向く。
「早いでしょう」
「早すぎる」
「サルマンディアですから」
「理由になっているのか」
「半分は」
レオンは筆を持ち直した。
怒りではない。
苛立ちはある。使われている感覚もある。けれど今、外で白紐を買う誰かはたぶん安心したいだけなのだ。勇者が無事でいてほしい。街が安全であってほしい。明日の船が出てほしい。婚礼が滞らず、港が燃えないと思いたい。
そのために勇者の名が使われる。
ならば、名だけを持っていかせるわけにはいかない。
レオンは紙に書き始めた。 マーレ社よりの厚意に感謝する。
見舞い品は、療養中の仲間と共に慎んで預かる。
港湾安全祈願と負傷者慰問については、趣旨を確認したうえで返答する。 勇者一行は、サルマンディアの市民と海路の安全を願っている。
ただし、その願いはどの商号のものでもない。傷ついた者と、港で日々を営む者へ向けられる。
そこまで書いて、レオンは一度手を止めた。
少し硬い。 ヴァローなら余計な熱がないと言うだろう。カイなら誠実だと言うかもしれない。ガイウスは長いと言う。ヴェスタは、いいんじゃねえのと笑う。
レオンは最後に一行を足した。
光神のご加護が、海へ出るすべての者にありますように。
それは教会の言葉だった。 だがレオンの言葉でもあった。
書き終えると、右肩が鈍く痛んだ。筆を握るだけでも傷は主張する。剣ではないものでも、身体は役目の重さを覚えるのだと思った。
カイが近づいた。
「見せてもらっても」
レオンは頷き、紙を渡した。
カイは文面へ目を通し、静かに目を細めた。
「良いと思います」
「祈りの形をした取引になってないか」
「祈りの形をした返答です」
カイは少しだけ微笑んだ。
「取引になるかは、相手の受け取り方でしょう。ですが、これはレオンの言葉です」
ガイウスが横から覗いた。
「長い」
「やっぱりか」
「だが、悪くねえ」
ヴェスタも覗く。
「勇者の兄ちゃん、意外と文が硬いな」
「意外か」
「もっと熱いかと思った」
「熱い礼状は危ないだろ」
「分かってるじゃねえか」
ヴァローは最後に紙を手にし、数秒だけ目を走らせた。
「結構。相手に利用余地を残しつつ、こちらの主語を残している」
「褒めてるのか」
「観察です」
「それは褒めてないな」
「皮肉でもありません」
ルシアンが笑った。
「皆さん、本当に良い一行ですね」
ヴァローが即座に言う。
「その言い方は評価が過ぎます」
「すみません」
ルシアンは少しも反省していない顔で謝った。
レオンは礼状へ封をした。
白帆亭の主人が、宿の赤い封蝋を持ってくる。宿の印で封じるか。教会の印で封じるか。少し迷う空気があった。
レオンは自分の小さな聖印を取り出した。
勇者一行の正式な大印ではない。旅の護符と同じ、小型の銀板だ。光神オルヴェリスの紋章が彫られている。
それを封蝋へ押す。
白ではなく、淡い赤の封蝋だった。
マーレ社の真珠色の封蝋とは違う。白帆亭のものでもない。教会本部の大仰な印でもない。 小さな、勇者自身の返答。
封蝋が冷えるまで、レオンは指を離さなかった。
外ではまだ声が動いている。
勇者一行が預かった。 マーレ社の見舞い。
快復祈願。 白紐。
香油。
港湾安全。
言葉は次々に別の形へ変わっていく。 レオンはそのすべてを止められない。
だが、ひとつだけ自分の言葉を載せた。
剣ではなく、筆で。 聖剣の柄ではなく、小さな聖印で。
ルシアンは封じられた礼状を見た。
「では、お預かりします」
「頼む」
レオンが渡す。
ルシアンは両手で預かった。礼儀正しい所作だった。人懐っこい笑みのまま、彼は一歩下がる。
「三日後の件は、内容を確認してからで構いません。無理はなさらず」
「無理をするな、と言われると怪しいな」
ガイウスが言う。
「昨夜歩き回った方には、特に言っておきます」
ルシアンが笑顔で返した。
食堂の空気が一瞬止まった。
レオンとガイウスが同時にカイを見る。 カイは茶を飲んでいた。
「私は何も申し上げていません」
「顔が言ってる」
レオンが言う。
「レオン。それは私の台詞です」
ヴェスタが机に突っ伏しそうになった。
ヴァローも、ほんの少しだけ口元を押さえた。
ガイウスは低く唸る。
「白猟官、耳が早すぎる」
「サルマンディアですから」
ルシアンは朝と同じ調子で言う。
「半分は」
その半分が何なのか、誰も聞かなかった。
ルシアンは礼状を白い革袋へ入れ、白帆亭の主人へ挨拶をしてから食堂を出た。扉が閉まる。白外套の端が最後に消える。
残された卓の上には、白い箱と見舞い品があった。
蜂蜜。果物。香草茶。焼き菓子。薬用香油。
どれも役に立つ。 どれも、もう意味を持ってしまった。
レオンは窓の外を見た。
朝のサルマンディアは、相変わらず白く明るい。 白い道を、人が行き交っている。善意で舗装された道なのか、商売で磨かれた道なのかは判然としない。たぶん、その両方なのだろう。
その道の先がどこへ向かうのか。
歩く者が、確かめるしかない。
レオンはもう一度、卓の上の招待状を見た。 三日後。
白帆広場。
港湾安全祈願と負傷者慰問。 そこへ行けば、マーレ社の白は箱ではない。人の拍手と視線になる。
レオンは招待状を畳んだ。
「内容を見よう」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、全員が聞いた。
カイは静かに頷いた。 ヴァローは控えへ一行を足した。
ガイウスは香油の瓶を懐へ入れた。
ヴェスタは窓の外の露店を見て、苦笑した。
「白紐、売り切れるな」
「買うなよ」
レオンが言う。
「買わねえよ。高そうだしな」
外でまた声が上がった。
勇者様の快復祈願だよ。
その声は、白い通りを軽く走っていく。 白帆亭の中で、レオンは聖剣の鞘に指を置いた。
剣はまだ抜かない。
今はまだ、封蝋の冷えた感触の方が手に残っていた。




