負け犬どもの夜歩き
眠れねえ夜は、足の裏が先に起きる。
白帆亭の寝台は悪くなかった。布は乾いていた。枕も臭くない。飯も腹に入る。窓の外は静かで、下の階から聞こえる酒の声も夜半を過ぎると細くなる。それでも眠れねえ。
傷が疼くからじゃない。いや、それもある。脇腹の奥が息を吸うたびに鈍く鳴る。肩の皮膚は包帯の下で熱を持っている。寝返りを打てば、骨の近くで小さく火が散る。身体は正直だ。昼間に平気な顔をしていた分だけ、夜になると勘定を取りに来る。
宿の天井を見ていると、余計なものまで浮いてくる。ロドルの立ち方。蒼凪の目。ヒュウマの踏み込み。カイが清布を裂く音。ヴァローが書き物に沈む横顔。どれも今は部屋にないのに、夜だけは勝手に戻ってきやがる。
だが、それだけなら寝られる。戦士は痛みの横で眠る。本当に眠れねえ時は、痛みより胸の方がうるさい。
俺は寝台の端に座り、足を床へ下ろした。床板は冷たい。山の石ほどじゃない。けれど足の裏に夜の硬さがあった。
背中へ手を伸ばしかけて、やめる。盾は壁に立ててある。
重盾はいつも俺の背中にある。なくても重さを覚えている。背負っていない時でも、背中の肉が勝手に場所を空ける。長い付き合いだ。女房より長い。女房はいないがな。
あいつを持てば、俺は役目へ戻れる。前へ出る奴の横を埋める。後ろへ通すべきものと通しちゃならねえものを分ける。単純でいい。だが今夜は、その単純さが少しだけ息苦しかった。
今夜は持っていかない。散歩に盾はいらねえ。
そう言い聞かせて、俺は扉を開けた。同時に向かいの扉も開いた。レオンが立っていた。白い旅装の上に外套だけ引っ掛けている。深紅のサッシュはない。腰も軽い。左にあるはずの聖剣がない。
目が合った。互いに一拍、黙った。
「散歩だ」
レオンが言った。
「俺もだ」
「偶然だな」
「ああ。最低の偶然だ」
レオンの口の端が少しだけ上がる。
笑いとしては下手だ。だが、今夜はそれでいい。俺は廊下へ出た。レオンも出る。二人分の足音が、寝静まった宿の板に低く乗った。
廊下の奥にカイの部屋がある。俺たちは何も言わずにそこで止まった。中から物音はしない。
レオンの息が半分だけ止まる。俺の息も止まる。いい歳した男二人が、神官の部屋の前で盗人みたいに立っている。
馬鹿だ。
馬鹿だが、こういう馬鹿は嫌いじゃない。何も起きなかった。俺たちはまた歩き出す。
階段を降りる時、レオンがほんの少しだけ手すりへ指を置いた。肩が痛むんだろう。口には出さない。俺も言わない。
二年も三年も前で並んでいれば、相手の強がりは音で分かる。レオンの足音は、いつもより少し軽い。軽い時ほど、あいつは無理をしている。
俺の足音が重くなった時、レオンは何も言わずに歩幅を落とす。そういうところだけは、勇者より戦友に近い。昔はそれも分からず前へ行った。今は分かる。分かってなお前へ出るから、こいつは面倒だ。
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白帆亭を出ると、夜のサルマンディアは昼より白かった。
昼の白は商売の色だ。壁も階段も看板も、客へ向けて明るく磨いてある。婚礼の花も、劇場の紙も宿の窓布もそうだ。全部が見られるために白い。
夜の白は違う。星の光を受けた壁が、骨みたいに静かに見える。灯りの落ちた窓は黒い。装飾の薔薇も、月が細いせいで棘の方が目立つ。
坂を下る。港へ向かう道は眠っていなかった。遠くで荷車の軸が鳴る。夜番の男が角灯を持って歩く。風に混じって、潮と油と古い酒の匂いが上がってくる。
「剣はどうした」
俺は聞いた。
レオンは前を向いたまま答える。
「置いてきた」
「勇者が聖剣なしで夜歩きか」
「散歩だ。戦じゃない」
「負け犬の散歩にはちょうどいい」
レオンが横を見た。
「負け犬か」
「違うか」
「否定しろよ」
「負けたろ」
レオンは黙った。
足音が二つ、坂を下りていく。俺の足音は重い。レオンの足音は軽い。軽いくせに、芯だけは妙に硬い。
聖剣なし。大盾なし。今夜の俺たちは、看板を宿へ置いてきた。勇者でもない。盾でもない。少なくとも街の人間からは、そう見える。
白い服を着た若い男と、でかい怪我人。それだけだ。悪くねえ。
ガイウス・フェルムが聖オルヴェリス教会の戦闘員募集に応じた時、勇者なんざ紙の上の言葉でしかなかった。中央の傭兵団を経由して、教会の雇い仕事へ流れた。理由は簡単だ。金になる。
村へ送る金が要った。山の冬は遠慮しねえ。飯も薪も薬も、金があれば少しはましになる。信仰で来たわけじゃない。光神の説教を聞きに来たわけでもない。
雇われたから盾を持った。それだけだ。
教会の飯は悪くなかった。金払いも、傭兵団の口約束よりはずっとましだ。祈りの言葉は長くて耳に残らなかったが、契約書の数字はよく見えた。俺はそこだけ覚えていればよかった。
最初にレオンを見たのは、教会本部の訓練場だ。
白い服。金の髪。目立つ若造。周囲が勝手に道を空ける。あの時の俺は、こいつを旗だと思った。
教会が立てた白い旗。風が吹けば目立つ。人が見れば手を合わせる。戦場では敵の目も引く。便利だが、旗は自分で歩かねえ。
そう思った。
訓練場の端には、俺より若い聖騎士候補が何人もいた。みんなレオンを見る。憧れた目もあった。値踏みする目も混じる。こいつが倒れたら自分が次だと思っている目もあった。
レオンは、その全部を見ていた。
見ていたくせに、見ていない顔をする。今なら分かる。あれは平気な顔じゃない。平気でいたい顔だ。
ところが、旗のくせに前へ出た。
初めての実戦で、レオンは馬鹿みたいに前へ出た。敵の刃筋を見ているようで、自分の背中を見ていなかった。俺は横を塞いだ。盾で拾った。あいつは礼を言う前に、次の敵へ踏み込もうとした。
危なっかしい。腹が立つ。少しだけ気に入った。
その後も同じだ。こいつは前へ出る。出るなと言っても出る。だが、ただ突っ込むだけの若造ならとっくに見限っている。レオンは倒れた奴を背に置く。後ろを振り向くのは下手だが、背中へ乗った重さを忘れねえ。
だから俺は横を埋めた。雇い賃だけなら、そこまでしねえ。
「何を笑ってる」
レオンが言った。
「昔のことだ」
「昔?」
「初めて会った時、お前は細かった」
レオンが眉を寄せる。
「今も細いか」
「あの頃よりはマシだ」
「褒めてるのか」
「山の男なら、褒めてる」
「分かりにくい」
「慣れろ」
レオンは短く息を吐いた。
笑ったのかもしれない。夜で顔はよく見えなかった。
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港に着くと、空が広くなった。
サルマンディアの港は、昼間なら白と金と青で人を酔わせる。旗は多い。看板も多い。水路の橋には花が掛かり、婚礼客と商人と船乗りが同じ石畳を踏む。
深夜は違う。白い飾りは遠くなる。船腹に当たる波の音が近くなる。ロープが軋む。倉庫の影が太い。魚箱を洗った水が、石の溝をゆっくり流れている。
星が多かった。山で見る星とは違う。山の星は上から落ちてくる。海の星は水にもいる。水面に割れて揺れる。踏めもしないくせに、妙に近く見える。
夜番の灯りが遠くで揺れた。縄を肩にかけた男が、倉庫の戸を閉め直している。船腹を叩く波の音に混じって、魚箱を洗う水の匂いがする。昼の港は客へ向くが、夜の港は働いた者の背中を見せる。
俺はその背中の方が信用できる。
「広いな」
レオンが言った。
「山の方が高い」
「張り合うな」
「事実だ」
港の石段へ腰を下ろす。俺は下りる時に少しだけ脇腹が鳴った。レオンが何も言わず、歩幅を落とした。こいつのそういうところは、勇者より戦友に近い。
レオンが足元の小石を拾った。海へ投げる。石は一度も跳ねずに沈んだ。
「下手だな」
「石投げの勇者じゃない」
「聖剣を置いてきたら、石も跳ねねえか」
「うるさい」
レオンはもう一つ拾った。今度は二度跳ねた。小さな音がして、三つ目の星の下で沈む。
「勝ったな」
「石にか」
「一投目の自分にだ」
「小さい勝利だな」
「今の俺たちには合ってる」
俺は鼻で笑った。
小さい勝利。悪くねえ。
子供の頃、山の川でも石を投げた。川幅は狭く、流れは速い。よく跳ねる石を選ぶには、手で重さを見る。平たいだけじゃ駄目だ。軽すぎても沈む。重すぎても沈む。ちょうどいい重さを探す。
人も似たようなもんだ。勇者という言葉は軽すぎると風に飛ぶ。重すぎると沈む。レオンはその真ん中を探している。探しているくせに、誰にも探しているとは言わねえ。
レオンが石段へ肘を置いた。肩を庇っている。白い外套の下に包帯がある。勇者様も、包帯を巻けばただの怪我人だ。
「蒼凪たちのことか」
俺が言うと、レオンの目が少しだけ細くなった。
「何がだ」
「負け犬の話だ」
海の音が間へ入った。
「誤解だ」
レオンは言った。
「ああ」
「あの場で剣を向けたのは、俺たちだ」
「ああ」
「だから負けたことを、誤解のせいにはできない」
「できねえな」
レオンは三つ目の石を拾う。握ったまま投げなかった。
「蒼凪殿は、俺たちを殺す気じゃなかった」
「そうだな」
「ヒュウマもだ」
あの海守りの男を思い出す。前に出る目をしていた。守る奴の目だ。盾持ちでもないのに、背中の後ろへ何を置くか決めている目をしていた。俺はああいう目を知っている。山でも、戦場でも盾の横でも見る。
気に食わねえ目だ。嫌いじゃない。
「あの海守り」
俺は言った。
「前に出る目をしてた」
「ああ」
「守る奴の目だ」
レオンが石を投げる。
今度は一度だけ跳ねた。
「気に食わないな」
「同族嫌悪か」
「うるさい」
さっき俺が言われた言葉を、そのまま返された。
俺は笑った。胸の奥が少しだけ軽くなる。勝っていない。何も取り返していない。それでも、負けを口にしても崩れねえならまだ立てる。
「腹立つか」
俺は聞いた。
レオンはすぐ答えた。
「腹立つ」
「なら大丈夫だ」
「そういうものか」
「負けて腹が立つうちは、まだ噛める」
「負け犬だからか」
「そうだ」
レオンがまた笑い損ねた。
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桟橋へ移った。
板が濡れている。海風が低い。遠くの酒場から笑い声が漏れている。夜番の灯りが倉庫の角で揺れた。船員が甲板で毛布にくるまり、口を開けて寝ている。
港は寝ていない。昼の顔を落としても、腹の底は動いている。魚箱。縄。錨。酒。油。汗。女の香水じゃなく、働いた男の手に残る匂いだ。
山の方がマシだ。そう思ったが、今夜の海は少しだけ悪くなかった。
レオンは水面を見ていた。星が割れている。
綺麗だ、と言いかけた口の形をした。だが声にはしない。今の胸で、綺麗なものを綺麗と言うのは難しい。
俺も拾わなかった。男が黙る時には理由がある。黙って横にいる方が、役に立つ夜もある。
カイなら拾ったかもしれない。
綺麗ですね、と言うか。あるいは、綺麗なものを綺麗だと言えない夜もありますと言うか。あいつはそういう柔らかい刃を持っている。切るつもりはないのに、触れたところが開く。
今夜の俺たちは、それを避けている。祈りから逃げた。手当てからも少し逃げた。レオンは勇者の顔から逃げた。俺は盾の重さから逃げた。逃げた先が深夜の港なら、まだ上等だ。
「ロドル」
レオンが言った。
名前が出た瞬間、夜の空気が一段重くなった。
あいつの気配は、まだ身体に残っている。大きい敵は何度も見た。強い敵も見た。だがロドルは違った。押しても動かない岩じゃない。向こうから歩いてくる火山だ。盾を置いても、足元の地面ごと持っていかれる。
俺はあの時、大盾を持っていた。構えた。踏ん張った。地面へ重さを落とした。山で覚えた通りに、身体を岩へ寄せた。だが、それでも足りなかった。盾は割れなかった。腕も残った。けれど戦場の形を、あいつに決められた。
それが腹立たしい。盾持ちにとって、押されること自体は負けじゃない。押されても止めればいい。だが、逃げる形まで相手に決められた時は別だ。あれは俺の仕事を取られたに近い。
「撤退は正しい」
レオンが言った。
「ああ」
「正しい判断だ」
「ああ」
「それでも、胸糞悪い」
俺は短く笑った。
「やっとまともなこと言ったな」
「今までは何だ」
「勇者様の報告」
レオンは黙る。怒ったわけではない。たぶん、図星だ。
「撤退は正しい」
俺は言った。
「正しいことと、胸糞悪いことは両立する」
「お前もそう思うか」
「思わなきゃ、こんな夜に歩かねえ」
レオンが桟橋の端へ出る。
足元の板が少し鳴った。
「俺は、まだあいつの前に立てる気がしない」
弱音じゃない。確認だ。山の戦士も、戦場へ戻る前に地面を踏む。地面が崩れるかどうか、足の裏で確かめる。レオンの今の言葉はそれに近い。
「なら立てるようにする」
俺は答えた。
「俺らはそれしかねえ」
「簡単に言うな」
「簡単だろ」
「簡単じゃない」
「難しくして勝てるなら、俺も難しく言う」
レオンがこちらを見る。
それから短く息を吐いた。
「ガイウスらしいな」
「褒めてるのか」
「俺の国なら、褒めてる」
「どこの国だ」
「知らない」
くだらねえ。くだらねえが、少しだけ助かる。
「次に会ったら」
レオンが言う。
「まず一歩、引かない」
「逃げるなら」
俺は続けた。
「逃げると決めて逃げる。押し出されて逃げるのは御免だ」
「ああ」
レオンは頷いた。
それで十分だ。
レオンはそれ以上、自分を責める言葉を吐かなかった。
こいつは自己卑下を声にしない。胸の中へ沈める。沈めたものは外から見えないが、重さだけは歩き方に出る。今夜の足音が軽いのは、沈めたものを落とさないようにしているからだ。
俺はそのやり方を、上手いとは思わない。だが、無理に引きずり出す気もない。男には、まだ名前をつけたくない痛みがある。
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酒場裏へ回ると、夜の匂いが少し変わった。
表の酒場はまだ灯っている。歌声はない。笑い声と椅子を引く音だけがある。裏へ回れば、吐いた酒と魚油と安い煙草が混じる。
倉庫の壁際で、男が五人いた。港の荒くれだ。服はばらばら。腕に縄の擦れ跡がある奴もいる。船乗り崩れか、荷役崩れか。どちらでもいい。立ち方が悪い。酔っている。目だけは金を探している。
一人がこちらを見た。包帯を見た。白い服を見た。聖剣がない腰を見た。
俺の体格で一度迷ったが、人数を数えて迷いを捨てた。
馬鹿だな。数は大事だ。数だけで決めると、もっと大事なものを見落とす。
「兄ちゃんら」
先頭の男が笑った。
「夜の港は初めてか」
レオンが足を止める。
俺も止まる。
「散歩だ」
レオンが答えた。
「怪我人が二人で散歩とは景気がいいな」
別の男が言う。
「その白い服、汚したくねえだろ」
俺は一歩前へ出た。
「汚れは落ちる」
男たちの笑いが少し止まる。
「骨は戻りが遅いぞ」
レオンが横で小さく息を吐いた。
「脅すな」
「親切だ」
「やめておけ」
レオンは男たちへ言った。
公的な声じゃない。住民相手の勇者の声でもない。夜の港で、面倒を避けたい男の声だ。相手には届かなかった。
先頭の男が近づく。右手が外套へ伸びる。刃物はない。拳だ。酔っているくせに、狙いだけは悪くない。レオンの負傷した肩を見ている。
俺は横から肩を入れた。男の身体が倉庫の壁へ潰れる。空気が抜ける音。一人目。
「やるか」
俺は言った。
レオンの顔が変わる。
勇者の顔じゃない。前衛の顔だ。
二人目が殴りかかる。レオンは半歩引いて躱す。肩を庇っているせいで踏み込みが小さい。だが足は生きている。相手の足首を払う。男が板の上へ転がる。
三人目が俺の脇へ入ろうとする。甘い。盾がなくても、俺の身体は盾だ。
肘を落とす。男の肩が沈む。膝で腹を止める。殺さない。壊しすぎない。だが立てない程度には落とす。
脇腹が鳴った。包帯の下で熱が滲む。
「ガイウス」
レオンが呼んだ。
「見てる」
四人目がレオンへ突っ込む。レオンは拳を入れた。速い。だが途中で痛みが噛んだ。腕が少し止まる。
俺が間へ入る。肩で相手をずらす。レオンが遅れて膝を入れる。
声は掛けていない。それで合った。二年も三年も前で並んでいれば、呼吸で分かる。
五人目が逃げるか迷う。
迷うなら遅い。レオンが右へ回る。俺が左を塞ぐ。男は後ろへ下がる。そこは倉庫の壁だ。自分で逃げ道を潰した。
俺は胸倉を掴んだ。
「終わりだ」
壁へ座らせる。座らせたというより、落とした。男はうめいた。残りは立ち上がらない。
終わり。派手な勝ちじゃない。聖剣もない。大盾もない。魔法もない。怪我人二人が、酔った荒くれ五人を転がしただけだ。
だが拳は動いた。足も動いた。息も切れた。それが今夜は大事だ。身体は嘘をつかない。
心は嘘をつく。口はごまかす。報告書なら、もっと上手く整えられる。撤退。接敵。負傷。継戦不能。言葉へ変えれば、胸の中で暴れているものも少しは整った顔になる。
だが、身体は誤魔化せねえ。
拳が動くか。足がついてくるか。痛みが来た時に息を止めずにいられるか。相手の肩が落ちた瞬間、横へ入れるか。今夜の俺たちは、それを確かめに来ていたのかもしれない。
相手が港の荒くれ五人でよかった。ロドルじゃない。蒼凪でもない。旧き神でもない。ただの酔った男どもだ。それくらいでしか測れない夜もある。山なら、怪我明けの戦士に丸太を担がせる。担げたところで戦場に勝てるわけじゃない。だが、丸太を担げない男は戦場へ戻れねえ。
「勝ったな」
レオンが言った。
声のあとで咳き込む。
「雑魚にだ」
「それでも勝ちは勝ちだ」
「負け犬が尻尾振るには、ちょうどいい勝ちだな」
レオンは笑った。今度は少しまともに笑った。その直後、膝が落ちかける。
俺は拳でレオンの胸を叩いた。支えるには乱暴だ。だが、抱えるよりましだ。
「立て」
レオンが顔をしかめる。
「痛い」
「生きてる証拠だ」
「それ、カイの前で言うなよ」
「言うかよ。清布が倍になる」
レオンが拳を返してきた。俺の胸へ当たる。強くはない。だが、ちょうど傷へ響いた。
「痛え」
「生きてる証拠だろ」
「覚えてろ」
「忘れない」
そういうところだけは、こいつは律儀だ。
荒くれどもが、転がったままこちらを見ている。
一人がようやく気づいたように、レオンの顔と白い服を交互に見た。
「まさか、勇者……」
「違う」
レオンが即答した。
「今夜は散歩中だ」
俺は笑った。
低く、腹の底で。
男たちはそれ以上何も言わなかった。
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夜明け前の港は、星が少し薄くなっていた。俺たちは石段へ戻った。座る時、二人とも同じように小さく息を漏らした。
情けねえ音だ。だが、同じ音なら笑える。
少し離れたところで、夜番の男がこちらを見ていた。何か言いたそうにして、結局やめる。港の連中は、面倒の終わった喧嘩へ後から手を突っ込まない。賢い。俺はそういう賢さが嫌いじゃない。
レオンの袖に、倉庫の埃がついていた。
俺の外套にも魚油の匂いが移っている。白帆亭へ戻れば、カイが気づく。気づかないわけがない。あいつは傷の湿りも、歩き方の変化も見る。祈る前に見る。そこが一番困る。
それでも今はまだ、怒られる前の時間だ。子供の頃に、山の貯蔵小屋から干し肉を盗んだ朝を思い出した。見つかる前の腹は妙に温かい。見つかると分かっていても、一口目の塩気だけは勝ちだ。今夜も少し似ている。
「負け犬だな」
レオンが言った。
「ああ」
「否定しろよ」
「負けたろ」
「そこは否定しないのか」
「嘘つくほど落ちぶれてねえ」
レオンは海を見た。
水面の星は、朝に近づくほど弱くなる。消えるわけじゃない。見えなくなるだけだ。
「負け犬ってのは」
俺は言った。
「負けた奴のことじゃねえ」
「何だ」
「負けたまま吠えるしかねえ奴だ」
「俺たちは?」
「吠えられる。まだ喉はある」
レオンは少し考える顔をした。
考えすぎるな、と言おうとしてやめた。
考えるのはこいつの仕事でもある。まっすぐ進むだけの男に見えて、胸の奥へ沈めるものは多い。
カイなら受け止めるだろう。だが、今夜は違う。
カイの祈りは柔らかい。柔らかいものは、硬い傷に触れると妙に痛い。俺たちはそれから逃げた。
逃げた先で、荒くれを五人転がした。悪くねえ夜だ。褒められた夜じゃないがな。
レオンは膝に両肘を置いていた。肩を庇う姿勢だ。本人は気づいていないつもりだろうが、ああいう姿勢はすぐ分かる。俺も似たようなものだ。脇腹を庇って、腰の角度がいつもより浅い。
負け犬どもが、互いの傷を見ないふりで座っている。滑稽だ。だが、滑稽なまま隣にいられる相手はそう多くない。
「カイに言ったら」
レオンが言う。
「説教されるな」
「あいつは説教じゃなくて祈る」
「だから困る」
「ああ」
朝の気配が港の端へ乗る。荷役の早い連中が動き始める前の、短い隙間だ。街が息を吸う前の間。こういう時間は山にもある。獣も人も、まだ音を選んでいる。
俺は立ち上がった。
「帰るか」
「カイに怒られる前に」
「怒られるのは確定だろ」
レオンも立つ。
立ち上がる時、足元が少し揺れた。俺は見ないふりをした。
「なら、胸張って怒られよう」
「胸はもう痛え」
「生きてる証拠だ」
「それ、さっき聞いた」
「覚えがいいな」
「忘れないと言った」
くだらねえ。本当にくだらねえ。だが、来た時より背中は少し軽い。
盾を置いてきた背中が、軽すぎて落ち着かなかった。今は違う。盾がなくても前に出られる。聖剣がなくても、レオンは前に出る。
こういう確認は、昼にはできない。
昼のレオンは勇者だ。俺は盾だ。カイは神官で、ヴァローは観察者だ。ヴェスタは雇用契約の線を引いた斥候になる。役目は必要だ。役目がなければ一行は動かねえ。
だが、役目ばかり着ていると身体の方が先に腐る。
今夜は服を一枚脱いだだけだ。聖剣を置いた。大盾を置いた。祈りから逃げた。だから、自分の足がまだ自分のものか少し分かった。
それで十分だ。
朝になれば、誰かがまた役目を呼ぶ。勇者殿。盾の戦士。神官殿。魔導士。斥候。名前より先に役目が来る日もある。それでも、今夜はレオンがレオンとして歩き俺は俺として横を歩いた。たぶん、それで息ができた。負けた夜には、それくらいの隙間が要る。湿った港の夜でも、それは乾いた火種になる。消えなければいい。まだ温い。まだ残る。
それでいい。勇者は明日の朝、また聖剣を帯びればいい。俺はまた盾を背負えばいい。今夜は負け犬でいい。朝に戻れれば、それでいい。
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白帆亭へ戻る坂は、下りよりきつかった。当然だ。帰りは上りだ。
傷も熱を持っている。足は重い。口の中に血の味が少しある。レオンの外套には、酒場裏の壁で擦った汚れがついていた。
「白い服、汚れたな」
俺が言う。
「落ちるんだろ」
「たぶんな」
「骨は?」
「戻りが遅い」
「知ってる」
二人で短く笑った。
宿の扉を開ける。廊下はまだ暗い。階段を上がる時、二人とも足音を殺した。もう遅い気もしたが、悪ガキは最後まで悪ガキらしくするもんだ。
部屋の前へ着いた。
レオンの扉の前に、清布が置いてあった。
小さな薬瓶もある。
俺の扉の前にも同じもの。
白い布は綺麗に畳まれていた。薬瓶の口には紙が巻かれている。字はない。説教もない。祈りの言葉もない。
ただ、必要なものが置いてある。それだけで、カイがどこまで見ていたか分かる。
清布は二枚ずつ。片方は広く、片方は細い。俺の脇腹とレオンの肩で必要な幅が違う。薬瓶も同じに見えて、紙紐の結びが少し違う。俺の方はきつく、レオンの方は緩い。片手でも開けやすいようにしてある。
腹が立つくらい丁寧だ。こういう丁寧さは、拳より効く。拳なら返せる。怒鳴り声なら笑える。祈りなら逃げられる。だが、黙って置かれた清布は逃げ場がない。使わなければ傷が悪くなる。使えば、見逃されたことを認める。
俺たちは、まんまと認めるしかない。
レオンがそれを見下ろす。
俺も見下ろす。
しばらく、誰も喋らなかった。
「見逃されてたな」
レオンが言った。
「最初からな」
「怒ってるか」
「怒ってるだろ」
「祈られるよりましだ」
俺は清布を拾った。
「いや」
レオンが言う。
「祈られてる」
俺は薬瓶を拾った。軽い。だが、妙に重い。
カイは多分、廊下へ出ていない。
出ていないはずだ。少なくとも、俺たちは気配を拾わなかった。だが、あいつは朝までにこれを置いた。二人分を用意して、音を立てず俺たちが帰るより先に扉の前へ置いた。
戦場で後衛に置くには柔らかすぎる男だ。けれど、ああいう柔らかさが後ろにあるからレオンは前へ出る。俺も盾を構える。柔らかいものは邪魔だ。邪魔で、痛くて時々どうしようもなく必要になる。
「困るな」
「ああ」
「柔らかい」
レオンは清布を持ったまま、少しだけ黙った。
「痛いな」
「傷か」
「いや」
それ以上は言わない。俺も聞かない。男同士の夜歩きには、持ち帰らない言葉もある。
俺たちは清布を分け、薬を持ちそれぞれの扉へ手をかけた。
朝になれば、レオンは勇者に戻る。俺は盾に戻る。カイは何も言わずに包帯を替えるだろう。ヴァローはたぶん呆れる。ヴェスタは笑うかもしれない。
それでいい。負け犬どもの夜歩きは、勝者になるための道じゃない。朝に戻るための道だ。
俺は扉を開けた。部屋の中はまだ暗い。盾は壁に立っていた。
俺はその重さを背中で思い出しながら、清布を机の上へ置いた。外で、港へ向かう早い荷車の音がした。
朝が来る。




