ロサ・テンプスの午後
午後の屋敷は、朝よりも静かでございます。静かという言葉は便利です。音がない、という意味ではございません。むしろ音は増えている。
西館の廊下では布を畳む音があり、階下では硝子の器を置く音がある。庭では水が石へ触れる音がございます。ただ、それらが互いの邪魔をしない。
エヴァンジェリーネ様の館は、音にも席を与える屋敷なのでございましょう。
ヒュウマ殿とシレリオ殿は午前のうちに港へ出られました。海守り支部へ行くのだと聞いております。ヒュウマ殿は歩ける程度に戻り、シレリオ殿は食べられる程度に戻った。いえ、後者は戻ったというより元からそういう方なのかもしれません。
わたくしは西館の窓辺で楽器の弦を緩めておりました。喉は、だいぶ戻っている。
蜂蜜水の効能か、御厨殿の膳の柔らかさか。あるいはこの館が声を急かさないからか。まだ高い音を長く伸ばすと、奥で薄く擦れる感覚がございます。けれど物語を一つ置く程度なら、もう問題はない。
問題があるとすれば、歌いたくなる場所に呼ばれるかどうかです。
扉の外で、足音が止まりました。
大きな足音ではございません。むしろ小さい。けれど小ささの奥に、扉一枚分の重さがある。アルフレッド殿の足音でございました。
「語り部殿」
「はい」
扉を開けると、黒山羊の執事頭が白手袋の指を揃えて立っておられました。午後の光が角の後ろへ回り、灰銀の毛を細く照らしている。礼は深すぎず、浅すぎない。こちらが客であることと、ここが彼の屋敷であることを同時に示す角度でございます。
「お館さまがお茶をご一緒に、と」
「わたくしでよろしいのでしょうか」
「お館さまは、語り部殿にと仰せでございます」
その返答には逃げ道がありません。
魔女の招きは契約ではない。けれど断るには理由が要る。理由のない拒絶は無礼になり、無礼は物語の始まりにしては少々棘が多い。
「喜んで」
わたくしは楽器を抱えました。
「楽器もお持ちください」
「歌え、ということですか」
「お館さまは、聞くとも聞かぬとも仰せではございません」
「なるほど。魔女の茶席らしいお誘いでございますね」
アルフレッド殿の瞼が、ほんの少しだけ下がりました。
笑ったのだと、わたくしは受け取りました。
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ロサ・テンプスへ向かう道は、館の中からでも少しだけ外れております。
大広間からまっすぐ出れば庭に入る。構造だけを言えば、それだけです。けれどこの館では、まっすぐという言葉がいつもより薄くなる。廊下は直線でありながら、進むほど光の色が変わる。壁の薔薇の彫りは同じ意匠なのに、一本ずつ違う影を落とす。
時間が、廊下の途中で細く折り重なっている。わたくしの耳は、それを音として拾います。
昼の水音。朝の掃除布。夜の燭台。遠い日の靴音。どれも今のものではないのに、今の床板に薄く残っている。
ロサ・テンプスとは時の薔薇。名は飾りではないのでございましょう。
庭園の入口には、蒼凪殿が立っておられました。
白と青のローブ。赤い髪。深海のような青い目。顔色は最初に館へ着いた日よりもずっと良い。けれど立つ姿勢には、まだ身体の奥を庇う薄い線がありました。
「蒼凪殿」
「イーリス」
蒼凪殿は短く頷きました。
「貴方も呼ばれましたか」
「ええ。魔女の茶席に、語り部として」
「災難だな」
「光栄、と言うべき場面では」
「言いたければ言っていい」
「では、光栄でございます」
蒼凪殿は少しだけ目を細めました。
笑った、とまでは言いません。蒼凪殿の笑いは、音になる前に視線の角度で済まされることが多い。語り部泣かせの方です。とはいえ、観察者としては面白い。
アルフレッド殿が庭園の小道へ一歩進みました。
「凪様。お席は東屋に」
「また勝手に決めたな」
「風向きと日差しを拝見いたしました」
「俺の返事は」
「不要かと」
蒼凪殿は否定しませんでした。
それは、ただの給仕ではございません。身体の限界を知っている者の所作です。どの角度の椅子なら長く座れるか。どの光なら目が疲れないか。どの茶なら喉ではなく胃へ落ちるか。アルフレッド殿はそれらを問わない。
知られている、というのは温かいことです。
同時に、少しだけ怖い。
わたくしはその二つを同じ足元に置き、庭へ入りました。
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ロサ・テンプスは、やはり庭というより時間でございました。
春の赤い薔薇がある。初夏の白い薔薇がある。雨の後の淡い黄があり、秋の深い紫がある。同じ午後の陽に照らされているのに、花弁の厚みも香りも違う。
蜂が一輪の周りを回る。
次の一輪では、まだ蕾が固い。
小道の石は乾いているのに、枝の影だけが雨の後のように濃い。棘は光を拾うものと、光を拒むものに分かれていた。
わたくしは楽器を抱え直しました。
歌いたくなる。
同時に、まだ歌うべきではないと分かる。
歌い手には、声を置いてよい場所がございます。声を置く前に耳を伏せるべき場所もある。ここは後者です。少なくとも最初の一歩は。
東屋は白い石で組まれておりました。
屋根には蔓薔薇が這い、柱の陰に小さな卓が置かれている。丸卓ではなく、少し細長い卓です。向かい合うのではなく、同じ庭を斜めに見る席の置き方でございました。
エヴァンジェリーネ様は、すでに座っておられました。
白いドレス。金の髪。金の瞳。髪には深紅の小さな薔薇が一輪だけ挿されている。華やかでありながら、装飾が場を越えていない。彼女が庭に合わせているのではない。庭が彼女を含むように咲いている。
「来たか、長命の語り部」
「お招き、恐れ入ります。エヴァンジェリーネ様」
「ふむ。恐れ入ると言いながら、目はよく動くのう」
「職業病でございます」
「病ならば治すか?」
「治りましたら食い扶持を失います」
エヴァンジェリーネ様は、喉の奥で笑いました。
「くっくっく。よい。語り部はそれでなくてはつまらぬ」
蒼凪殿は彼女の向かいではなく、斜めの席へ腰を下ろしました。アルフレッド殿が椅子を引く。動きは静かです。けれど椅子の脚が石を擦る音だけ、妙に遠い。
わたくしの席には、蜂蜜水が置かれておりました。
薄い薔薇茶ではなく、喉に優しい蜂蜜水。横には木の実を細かく砕いて焼いた小菓子がある。わたくしの耳と喉と種族を、先に読まれている。
「語り部殿には、蜂蜜水を」
アルフレッド殿が言いました。
「ありがとうございます」
「声をお使いになる場合に備えました」
「使わせる気はある、ということですね」
「私は給仕でございます」
言外を語らない。
それもまた、語りの一種でございます。
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最初の茶は、何も語らないまま進みました。
エヴァンジェリーネ様は薔薇茶を飲み、蒼凪殿は薄い塩気のある水を口にする。わたくしは蜂蜜水を喉へ落としました。重くない。香りも強すぎない。声の通り道へ薄い膜を作るような甘さです。
菓子は小さい。
薔薇蜜の小菓子。柑橘皮の砂糖漬け。薄い焼き菓子。蜂蜜と乳酪の小さなタルト。木の実の菓子は、わたくしの前にだけ多く置かれている。
「食べぬのか」
エヴァンジェリーネ様が問います。
「味わう順番を考えております」
「嘘じゃな。庭を見ておる」
「半分だけ」
「残り半分は?」
「貴女を見ております」
「ほう」
金の瞳が面白そうに細くなりました。
「妾を茶菓子の順番に入れるか。長命の語り部よ、そなたはなかなか礼儀を知っておる」
「礼儀とは、相手に相応しい位置を与えることかと」
「うふふ。よい返しじゃ」
蒼凪殿が小さく息を吐きました。
「二人でやっていてくれ」
「凪よ、お主も茶席の一部じゃ」
「俺は飾りではない」
「飾りにしては不機嫌すぎるのう」
「昔からだろ」
エヴァンジェリーネ様は笑います。
「そうじゃな。昔からじゃ」
その短いやり取りで、庭の香りが少し変わりました。
過去が混じった。
わたくしはそう感じました。香りは薔薇のままです。けれど一瞬だけ、湿った土と古い紙の匂いが奥から上がる。蒼凪殿がこの館で暮らしていた時間が、庭の根に触れられたようでした。
「さて」
エヴァンジェリーネ様が、こちらへ視線を戻しました。
「語り部。妾の庭で何を語る」
「求められる題によります」
「そなたの題でよい」
「では、短いものを」
「短いのか」
「長いものは、庭に許可を取る必要がございますので」
エヴァンジェリーネ様は一拍置いて、くっくっくと笑いました。
「庭に許可を取るか。面白いのう」
わたくしは楽器を膝に置きました。
弦は鳴らしません。
今日は歌ではなく、語りから始めるべきです。声だけで置く。音をつければ花が早く反応しすぎる気がしたからでございます。
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「昔、種を待つ木がございました」
そう始めると、薔薇の葉が一枚だけ揺れました。
風ではない。
少なくとも、わたくしの耳が拾った風とは別のものです。
「その木は、百年に一度だけ花を咲かせます。花は美しいのですが、誰もその姿を覚えませんでした。なぜなら花の季節に居合わせた者は、次の花を見る前に土へ戻るからでございます」
蒼凪殿は茶器へ視線を落としたまま聞いています。
エヴァンジェリーネ様は微動だにしない。けれど金の瞳だけが、わたくしの声を捕まえていました。
「ある年、一人の子が花を見ました。その子は花を歌にしました。歌は村に残りました。子は老い、村は場所を変えました。森は一度焼けました。けれど歌だけは、別の子の口へ移りました」
焼けた。
その言葉を置く時、喉の奥がわずかに乾く。
わたくしは蜂蜜水を飲みませんでした。ここで水を飲めば、乾いた場所を隠したことになる。語り部は時に、自分の乾きをそのまま音にする必要がございます。
「百年後、別の子がその歌を歌いました。木はもうありません。切り株も残っていない。けれど歌を聞いた別の森で、一つの種が芽を出しました。その種は、元の木の子ではございません。ただ、歌が花の時を覚えていた」
庭が静かになる。
水音が遠のいたのではありません。
聞く側に回ったのです。
「長命の者は、しばしば木の側に立ちます。短命の者は花を見る。長命の者は、花を見た者がいなくなるのを見ます。けれど本当は、木も花も歌も同じものを別の時間で運んでいるだけなのかもしれません」
そこで一度、言葉を切りました。
弦には触れない。
触れれば、これは歌になる。
今日はまだ歌ではない。
エヴァンジェリーネ様が目を細めました。
「世界樹の話か」
蒼凪殿の指が、茶器の側面で止まります。
わたくしは微笑みました。
「世界樹の話であり、そうでない話でございます」
「便利な答えじゃ」
「語り部の仕事ですので」
「そなたらエルフは、失われたものを歌にして持ち歩く。魔女から見れば、なかなか酔狂な種族じゃ」
「魔女は契約にして持ち歩くのでしょう」
「くっくっく」
エヴァンジェリーネ様の笑いは、今度は少し深かった。
「違いない」
アルフレッド殿が、静かに新しい茶を注ぎました。
その時だけ、エヴァンジェリーネ様は彼を見ませんでした。けれど彼の手が止まることはない。白手袋が茶器を支え、琥珀色の茶が細く落ちる。
「アルフレッド」
「はい、お館さま」
「そなたから見て、あの頃はどうであった」
あの頃。
言葉は短い。
けれど庭の温度が一段変わりました。世界樹を指す問いなのでしょうか。神話時代へ触れたのでしょうか。あるいは、魔女がまだ今の魔女ではなかった頃のことかもしれません。
わたくしには分かりません。分からないままにしておくべきだと、耳の奥が先に知りました。
アルフレッド殿は茶を注ぎ終えてから、わずかに瞼を伏せました。
「あの頃は大変な時代でございました」
それだけでした。
一言。けれどその一言に、門が閉まる音がありました。
それ以上を問うのは、無礼ではなく危険でございます。物語には、開けてはならない扉があります。歌い手がそれを見誤ると、歌だけでなく聞き手も傷つける。
わたくしは頭を下げました。
「貴重なお言葉を」
「語り部殿のお役に立つほどのものではございません」
「いいえ。一行だけ残る記録ほど、後に効くものでございます」
アルフレッド殿は返事をしませんでした。
その沈黙もまた、記録でございました。
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ロサ・テンプスが反応したのは、その後です。
東屋の外。初夏の白い薔薇の隣で、まだ固いはずの濃紫の蕾が一つだけ開きかけました。
季節が合わない。
けれどこの庭では、季節の不一致は異常ではない。ただし、今の開き方は返事でした。花弁が一枚、内側からゆっくりほどける。そこから立った香りは薔薇ではなく、ほんの一瞬だけ森に寄った。
湿った樹皮。
古い種。
雨の後の根。
わたくしの胸の奥が、静かに痛みました。
「聞いておるな」
エヴァンジェリーネ様が満足そうに言いました。
「この庭は、ずいぶん耳がよい」
「妾の庭じゃ。当然よ」
「所有を主張なさる」
「契約の領域で、所有を曖昧にする魔女がどこにおる」
「おりませんね」
「そなたも、森を所有しておったであろう」
その問いは、軽くありません。
わたくしは一瞬だけ、木の実の菓子を見ました。小さく砕かれ、蜂蜜で固められた菓子です。種は形を変えても、種の味を残す。
「森は、所有するものではございません」
わたくしは答えました。
「ただ、歌が戻る場所ではありました」
エヴァンジェリーネ様は追いませんでした。
蒼凪殿も追わない。
アルフレッド殿は茶器を置く音すら少しだけ柔らかくした。
それで十分です。
失われた森。焼け残った歌。その二つだけを、この午後に置けばよい。根の場所や火の名前まで渡す必要はありません。
「歌は戻るか」
エヴァンジェリーネ様が問います。
「戻ることもございます。戻らないこともございます」
「随分と弱い答えじゃ」
「歌は万能ではございませんので」
「語り部がそれを言うか」
「だからこそ、申し上げます」
わたくしは楽器の弦に指を添えました。
まだ鳴らさない。
「歌は物語を運びます。ですが、運んではならない話もございます。運ぶと軽くなるもの。運ぶと形が壊れるもの。誰かの胸に置かれているからこそ、かろうじて保っているもの」
蒼凪殿が、わたくしを見ました。
深海の青い目。
この方は、自分の過去を箱へしまう方です。箱に入れれば整う。整えば扱える。けれど箱に入れたものは、誰かが開けるまで暗いまま残る。
「蒼凪殿」
わたくしは声を少し落としました。
「わたくしは、先日の談話室の話を歌にはいたしません」
蒼凪殿は一拍だけ黙りました。
「頼んだ覚えはない」
「頼まれずとも、言っておくべきかと」
「……そうか」
短い返事です。
しかし短い返事の中に、安堵がありました。ほんの少し。水面に落ちた針ほどの波紋です。見逃してもよい波紋。ですが、わたくしは見てしまう。
見たからといって、歌にする必要はない。
「歌わぬ語り部もいるのか」
エヴァンジェリーネ様が言いました。
「歌わぬことで残る物語もございます」
「くっくっく。そなた、長生きするのう」
「その予定でございます」
「よいぞ。長命とは、語らぬものを増やしてなお笑える者のことじゃ」
その定義は、魔女のものです。
エルフの定義とは少し違う。けれど遠くはない。
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蒼凪殿が、庭の奥を見ました。
正確には、見かけて止めた。
視線が中心へ向かう前に、薄く折れる。彼はその動きを意識している。意識して、なお止めている。ロサ・テンプスの奥には、まだ語られないものがある。
わたくしも、そこを見ないことにしました。
中心へ続く小道はございます。白い石が緩やかに曲がり、濃い薔薇の影の中へ入っていく。道はある。けれど歩けるとは限らない。先ほどの庭でラウリ殿がいれば、潮の話をしたかもしれません。
エヴァンジェリーネ様は、こちらを見ていました。
「見ぬのか、長命の語り部」
「物語には、聞かぬ方がよい一節もございます」
「そなた、妾の楽しみを心得ておるな」
「怖いものを避ける技術は、長生きの基本でございます」
「くっくっく。よい」
エヴァンジェリーネ様は、それ以上中心の話をしませんでした。
ただ、金の瞳の奥で笑いが少しだけ落ちる。ほんの少し。薔薇の棘が影の中へ沈む程度の変化です。
ロサ・エテルナ。
その名を、わたくしはまだ聞いておりません。
けれど庭の中心に、永遠を名乗るものがあると分かる。ロサ・テンプスが時の薔薇なら、中心にあるものは時に逆らう薔薇でございましょう。
永遠。
長命の者ほど、その言葉の軽さと重さを知っている。
わたくしは見ません。
見ないことを、今日の礼にいたしました。
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「凪」
エヴァンジェリーネ様が呼びました。
蒼凪殿の眉が少しだけ動く。
「今度は何だ」
「昔の話をしてやれ」
「俺が?」
「そなたの話じゃろう」
「あなたの庭だ」
「妾の庭でそなたの話をする。何も矛盾しておらぬ」
「矛盾はしていない。面倒なだけだ」
「面倒はよい。退屈よりよほどましじゃ」
蒼凪殿は諦めたように茶器を置きました。
軽い音です。けれど指の動きが慎重でした。まだ完全には戻っていない。
身体が痛む時、人は言葉の手前で余計な力を使います。蒼凪殿はそれを嫌う方に見える。だから話す前に、余分な力を切っている。
「昔、この庭で迷った」
蒼凪殿は言いました。
「迷うような道ではなかった。入口から東屋までの道だ。今よりずっと短く感じたはずなのに、途中で戻れなくなった」
「見えている道と、歩ける道は違うからの」
エヴァンジェリーネ様が楽しそうに言います。
蒼凪殿は彼女を見ました。
「あの時も同じことを言った」
「妾は真理を何度でも言う」
「性格が悪い」
「今さらじゃ」
わたくしは木の実の菓子を一つ取りました。
甘さは控えめです。噛むと、砕いた種の油がゆっくり広がる。話を聞くにはよい菓子でした。甘すぎると、悲しみの輪郭が鈍る。
「その時は、アルフレッドに戻された」
蒼凪殿が続けます。
アルフレッド殿は沈黙したまま、次の茶を用意している。
「歩けると思っていた。実際、足は動いた。ただ、途中でどこへ向かっているか分からなくなった。庭の中心へ行きたかったのか、入口へ戻りたかったのか。それも分からない」
「凪様は、東屋の手前でお座りになりました」
アルフレッド殿が静かに補足しました。
蒼凪殿が顔を上げます。
「覚えているのか」
「はい」
「忘れていい」
「承りかねます」
一言だけ。
慰めではない。記録の応答です。
蒼凪殿は少しだけ目を伏せました。
「あの時、ここで何をした」
「お茶をお持ちいたしました」
「飲んだ覚えがない」
「お飲みにはなりませんでした」
エヴァンジェリーネ様が肩を揺らしました。
「くっくっく。茶を出されて飲まぬ客ほど始末に負えぬものはない」
「客ではなかった」
蒼凪殿の声は淡い。
しかし庭が少しだけ沈みました。
客ではなかった。
それは重い言葉です。保護された者。戻される途中の者。自分の名を持っていても、自分の身体の内側に戻りきっていない者。客と呼ぶには、まだ立ち位置が足りない。
「今は客だ」
エヴァンジェリーネ様が言いました。
「そういうことにしておく」
「可愛げのない返事じゃ」
「昔よりはあるだろ」
「それはそうじゃな」
彼女は笑いました。
笑いながら、目は少しだけ優しい。
魔女の優しさは、人間の優しさと形が違う。包むのではなく、形を保たせる。崩れた者を抱きしめるのではなく、崩れた者が自分で立つまで領域を貸す。
それが優しさと呼べるかは、聞く者次第です。
わたくしは、少なくとも今はそう呼んでよいと思いました。
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「本の話もしてやれ」
エヴァンジェリーネ様は、さらに言いました。
蒼凪殿が今度こそ面倒そうな顔をする。
「なぜそこまで話す」
「語り部がいるからじゃ」
「歌わないと言った」
「歌わぬからこそ話せることもある。そうであろう、長命の語り部」
わたくしに振られました。
「その通りでございます」
「味方が増えたぞ、凪」
「増えていない」
蒼凪殿は茶を飲みました。
薄い塩気のある水です。茶ではない。傷の残る身体には、香りの強いものよりそちらがよいのでしょう。アルフレッド殿が黙って替えの杯を置く。
「昔、この館の本棚に訳本があった」
蒼凪殿は言いました。
「東方の出の作者と聞いた。原語では読めなかったから、訳で読んだ。青い深海へ降りる話だ」
わたくしの指が、弦の上で止まりました。
青い深海。
それだけで、物語の匂いが変わる。
「主人公は海の底から届く呼び声を聞く。降りていくたびに、海だけではなく陸の形も分かっていく。深い場所を見れば、世界の輪郭が浮かぶ。そういう話だ」
蒼凪殿の声は低い。
語っているというより、記憶の背をなぞっている声です。
「戦う話ですか」
わたくしは問いました。
「戦う場面もあった。だが、俺が覚えているのはそこじゃない」
「では」
「底へ降りるほど、上にある街や国や人の関係が見える。深い場所ほど、遠いものが繋がる。そういう構造が面白かった」
蒼凪殿らしい答えです。
この方は物語を読む時も、まず構造を読む。
けれど、その答えの奥に別のものがありました。青い深海へ降りる旅。世界の輪郭が浮かび上がる物語。呼び声。沈んだもの。名のない夜明け。
その本は、子供を慰めるための本ではなかったのでしょう。
壊れた青年を、世界へ戻すための本だったのでしょう。
「その本は、今も本棚にありますか」
わたくしが問うと、アルフレッド殿が静かに答えました。
「ございます」
「場所まで覚えているのか」
蒼凪殿が言います。
「凪様がよく手に取られた棚でございますので」
「本当に忘れていい」
「承りかねます」
同じ応答。
今度は蒼凪殿も、それ以上言いませんでした。
エヴァンジェリーネ様が薔薇茶を揺らします。
「あの本は妾が選んだのではない。アルフレッドが置いた」
蒼凪殿がアルフレッド殿を見る。
「そうなのか」
「はい」
「なぜ」
アルフレッド殿は少しだけ間を置きました。
「凪様は、浅い物語をお嫌いでした」
「嫌った覚えはない」
「お読みになりませんでした」
「……そうか」
「深く降りる本ならば、手に取られるかと」
蒼凪殿は黙りました。
エヴァンジェリーネ様が、実に楽しそうに笑います。
「くっくっく。凪よ、身体も本棚もアルフレッドに作り直されておるではないか」
「笑うな」
「笑うとも。妾の屋敷で、妾の執事が妾の客を本で釣ったのじゃぞ」
「客ではなかったと言った」
「では、戻る途中の者を釣った」
「もっと悪い」
「結果は悪くなかろう」
蒼凪殿は返事をしませんでした。
それは否定ではありません。
庭の白い薔薇が一輪、陽を受けて薄く光った。
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わたくしは、その本の話を歌にできると思いました。
青い深海へ降りる旅。
底へ行くほど世界の輪郭が浮かぶ物語。
東方から来た名の知れぬ作者。訳された言葉。薔薇の魔女の館の本棚。壊れた青年が、その背を何度もなぞる。
歌になります。
間違いなく。
けれど、歌にしない方がよい。
なぜなら、その本はまだ終わっていないからです。蒼凪殿が今も旅をしている以上、昔読んだ本は過去の小道具ではありません。今の彼の足元に、まだ薄く敷かれている。
物語の核は、そこではなく。
いえ。
今は核を取りに行く時ではない。
わたくしは弦から指を離しました。
エヴァンジェリーネ様が、それを見ていました。
「弾かぬのか」
「ええ」
「歌になるぞ」
「だからでございます」
「ほう」
「歌にすると、形が早く決まってしまいます。今はまだ、蒼凪殿の中で動いている話です」
蒼凪殿がこちらを見ます。
「俺の中で?」
「ええ。貴方が昔読んだ本は、まだ本棚に戻っておりません」
「本棚にはある」
「紙の本は」
蒼凪殿は黙りました。
エヴァンジェリーネ様が満足そうに目を細める。
「長命の語り部よ。そなた、やはり面白い」
「ありがとうございます」
「妾の庭で、歌わぬ判断をするとはな」
「庭が聞き上手すぎますので」
「くっくっく。褒め言葉として受け取ろう」
ロサ・テンプスの香りが、また少し変わりました。
薔薇の甘さの下に、森の匂いがほんの一筋だけ混じる。先ほど開きかけた濃紫の薔薇が、今度は完全に開いていました。
季節違いの花。
世界樹の話を聞いた庭。
蒼凪殿の昔の本を聞いた庭。
どちらに反応したのかは分かりません。
おそらく、どちらにも。
──────────────────────────────
午後の茶は、ゆっくり終わりへ向かいました。
エヴァンジェリーネ様は飽きたとは言いませんでした。飽きていないからでしょう。魔女は退屈を嫌う。けれど退屈していない時ほど、言葉が少しだけ余裕を持つ。
「語り部」
「はい」
「そなたは、凪の話をいずれ歌うか」
蒼凪殿は何も言いません。
聞いている。
けれど止めない。
「いずれ」
わたくしは答えました。
「許可があれば」
「許可がなければ?」
「歌いません」
「世界が求めてもか」
「世界はしばしば無礼ですので」
エヴァンジェリーネ様は声を立てて笑いました。
「カカカ。よい。よいぞ。世界を無礼と言い切る語り部か」
「観客には礼儀を求めます」
「では、妾の庭はどうじゃ」
わたくしは開いた濃紫の薔薇を見ました。
「よい聞き手でございました」
「ならば、また呼ぶ」
「喜んで」
「今度は歌え」
「庭が許すなら」
「庭は妾のものじゃ」
「では、貴女が許すなら」
エヴァンジェリーネ様は、満足げに頷きました。
「許すかどうかは、その時の退屈次第じゃ」
蒼凪殿が小さく息を吐く。
「面倒な許可だな」
「面倒な魔女の庭に来ておるのじゃ。諦めよ、凪」
「昔から諦めている」
「ならば上出来じゃ」
アルフレッド殿が、最後の茶器を下げました。
その時、庭の中心へ向かう小道から微かな香りが来ました。
薔薇。
ただしロサ・テンプスの薔薇ではない。
もっと濃く、もっと静かでどこか血に近い赤を思わせる香り。わたくしは見ませんでした。見ないと決めたものを、香りだけで歌にするのは礼に反します。
エヴァンジェリーネ様も何も言わない。
蒼凪殿は、やはり中心を見ない。
アルフレッド殿だけが、ほんのわずかに立つ位置を変えました。客と中心の小道の間に、自然と身体が入る。守るというほど大きな動きではない。茶器を下げるために半歩動いたようにも見える。
門番の所作。
わたくしはそれも歌にしません。
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東屋を出る頃、午後の光は少し傾いておりました。
ヒュウマ殿とシレリオ殿は、まだ戻っていない。海沿いを歩き、支部で話している。たぶん何か食べてもいる。シレリオ殿なら、鮫の印を見つけて立ち止まるかもしれません。そう考えると少し笑えました。
蒼凪殿はゆっくり立ち上がりました。
アルフレッド殿が手を差し出す。
蒼凪殿は一瞬それを見て、結局借りませんでした。借りないことを咎められるほど弱くはない。借りずに済むことを誇れるほど強くもない。その中間を、彼は選ぶ。
「戻れるか」
エヴァンジェリーネ様が聞きました。
「戻る」
「聞いたのは可否じゃ」
「答えたのは意志だ」
「可愛げが育たぬのう」
「育てる気がなかっただろ」
「少しはあったぞ」
「嘘だな」
「くっくっく」
二人の声は軽い。
けれど庭はそれを、軽いものとしてだけは聞いていないようでした。薔薇の葉が遅れて揺れる。時の庭は、今の会話の奥に昔の足音を重ねている。
わたくしは一礼しました。
「エヴァンジェリーネ様。よい午後でございました」
「そなたの歌はまだ聞いておらぬ」
「次の午後へ残しておきます」
「贅沢な語り部じゃ」
「物語を長持ちさせる工夫でございます」
彼女は笑いました。
ロサ・テンプスの午後は、歌にならないまま閉じていく。
けれど残らないわけではない。
蜂蜜水の甘さ。季節違いに開いた濃紫の薔薇。世界樹の焼け残った歌。蒼凪殿が昔手に取った、青い深海へ降りる訳本。中心へ向かう小道から来た、まだ名を持たない赤い香り。
わたくしはそれらを、歌ではなく沈黙の棚に置きました。
語り部の荷物は、歌だけではございません。
歌わない午後もまた、いつか誰かの物語を支えることがある。
庭の出口で振り返ると、ロサ・テンプスの花々は同じ午後の中で違う時間を咲かせていました。
その中心を、わたくしは最後まで見ませんでした。




