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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
79/127

白鯨と鮫の歯

 屋敷を出たのは、朝食から少し時間を置いた頃だ。


 陽はもう白い壁の上まで来ている。薔薇庭園の葉に残った露は乾き、噴水の音だけが涼しさを保っていた。サルマンディアへ着いてから、だいたい一週間になる。


 身体はかなり戻った。全快ではない。左の脇腹は深く息を入れるとまだ引っかかるし、腰の奥には重い鈍さが残っている。けれど歩ける。走るのは駄目だ。潮鎚を振るうのはもっと駄目だ。そこは蒼凪さんにもアルフレッドさんにも同じ顔で釘を刺された。


「支部まで歩くだけです」


 俺がそう言うと、アルフレッドさんは白手袋の指で懐中時計の蓋を閉じた。


「歩くだけで済む方々でしたら、私は何も申し上げません」


 反論しにくい言い方だ。


 玄関広間にはラウリさんも立っていた。濃紺のローブを羽織り、長い黒髪を後ろで結んでいる。大きい。何度見ても大きい。屋敷の天井は高いのに、そこだけ島の岩が歩いているように見える。


「俺は海を見に行くだけだ」


 ラウリさんが笑った。


「それも、皆様が言うと少々広い意味になります」


 アルフレッドさんは淡々と返した。


 その横で蒼凪さんが小さく息を吐く。


 蒼凪さんも、外出許可は出ている。昨日の午後には薔薇庭園を端まで歩いた。歩幅はまだ小さく、長く立っていると顔色が落ちる。それでも、最初に館へ入った日とはまるで違う。


 ただ、今日は来ない。


「俺は留守番だ」


「本当に?」


 思わず聞き返した。


 蒼凪さんは俺を見る。


「何を疑っている」


「いや。蒼凪さんなら、気づいたら港にいることがあるので」


「否定はしない」


「してください」


 ラウリさんが低く笑った。イーリス様は二階の回廊からこちらを見下ろし、声を立てずに肩だけを揺らしている。


 蒼凪さんは薄く笑った。昨日より顔色はいい。けれど、立って話しているだけでも指先に少し力が入る。屋敷の人たちはそれを見逃さないし、俺ももう見逃せなくなっている。


「今日はお前とラウリ殿の用事だ。海守り支部なら、お前が見た方がいい」


 その言い方に、少しだけ背筋が伸びる。


 海守りの用事。それは俺の足で行くべきものだ。蒼凪さんといると、いつの間にか神殿や深淵の徒の話へ引っ張られる。けれど俺は海守りの当代で、その名前で見られる場所がある。


「ただし、無理はしないこと」


「分かっています」


「支部で何かあっても、走らないこと」


「分かっています」


「ラウリ殿を止める役が必要になった場合は、まず諦めること」


「それは……分かりたくないですね」


 ラウリさんが胸の前で手を合わせた。


「賢者殿、俺はそんなに手のかかる男ではない」


「食事の場では?」


「それは別だ」


 即答だ。


 アルフレッドさんが小さく咳払いをした。


「道中で何か召し上がる場合は、こちらを」


 差し出されたのは、薄い木札だ。薔薇の紋と、屋敷の印が焼き入れられている。


「エヴァ様の屋敷の名で通る店がいくつかございます。軽食や茶でしたら、そちらで」


「ありがとうございます」


 俺は受け取った。


 軽食。その言葉をラウリさんが聞いた。聞いた瞬間、深い青の目が少し明るくなる。俺は木札を見て、少しだけ嫌な予感がした。アルフレッドさんは何も言わず、ただ俺の手の中の木札を見た。あれはたぶん、使い方まで含めて見抜いている顔だ。


──────────────────────────────


 屋敷から港までは歩いて一刻ほどかかる。


 馬車を出すこともできた。けれど今日はリハビリを兼ねて歩くことにした。サルマンディアの白い街は坂が多い。急な坂ではない。海へ向かって、ゆるく長く下りていく。石畳はきれいに磨かれ、両脇には白壁の邸宅や小さな店が並んでいた。


 薔薇の鉢。硝子の風鈴。婚礼客の乗る小さな辻馬車。朝のサルマンディアは、まだ観光地の顔をしている。道の先に海が見え、遠くのラグーンはターコイズブルーに光っていた。初めて来た人なら、たぶん足を止める。


 俺は海の縁を見る。観光客が笑っている場所のすぐ下に、滑りやすい石段がある。波返しの高さは十分か。酔った客が夜に座り込むなら、どこが危ないか。小舟が客を乗せる時、誰が手を貸すのか。海守りの目はどうしてもそちらへ行く。


 坂を下るほど、街の音が変わった。薔薇の香水と焼き菓子の匂いが薄くなり、潮と魚箱と油の匂いが混じってくる。白い街は白いままだが、足元に落ちている水の色が違う。観光港から実務港へ近づく合図だ。


 俺の身体も、そこで少しだけ重さを思い出した。長く下ると腰の奥が鈍く鳴る。ラウリさんは歩幅を合わせてくれている。合わせていると分かるほど、普段の一歩が大きい。


「ヒュウマ」


 ラウリさんが隣で言った。


「あの白い石段、潮が満ちたら見えなくなるな」


「ええ。満潮の時は下二段が消えると思います」


「酔った者が落ちる」


「落ちますね」


「拾う者は大変だ」


「だから海守り支部が忙しいんでしょう」


 ラウリさんは頷いた。


 俺たちは笑っている観光客の横を通り過ぎた。


 ラウリさんは、街で目立つ。


 身長もそうだが、ただ大きいだけではない。濃紺のローブの下に身体の厚みがある。袖口からは祭祀の刺青が覗き、首元では鮫の歯の化石が揺れていた。道行く人が一度は目を向ける。何人かは見物人の顔をした。


 ラウリさんは気にしていないように歩く。


 けれど、気づいていないわけではない。


 海鳥が一羽、屋根の上から鳴いた。


 ラウリさんが顔を上げる。


「あれは、港の鳥だ」


「分かるんですか」


「鳴き方が違う。屋敷の庭へ来る鳥より、魚箱の匂いを知っている」


「なるほど」


 分かるような、分からないような話だ。


 俺にとって海鳥は、風と魚群と天気の目印だ。ラウリさんにとっては、それより少し近い相手に見える。


「海守りは、鳥と話すのか」


「話すというより、見る方です。どこに飛ぶか、どの高さを回るか。急に鳴き方が変われば、潮か風が変わったと見ます」


「俺たちも見る。だが、たまに頼む」


「頼む?」


「遠くへ行く鳥は、遠くの海を知っているからな」


 ラウリさんはそう言って、屋根の上の鳥に短く指を上げた。


 鳥がもう一度鳴く。


 偶然かもしれない。


 けれど、ラウリさんは少しだけ笑った。


──────────────────────────────


 港へ近づく頃には、腹が少し減っていた。


 屋敷で朝食は食べている。透真さんの粥と魚の汁は怪我人にも優しく、ちゃんと力になる。けれど一刻歩けば、身体は別のものを欲しがる。


 俺は小さな屋台で済ませるつもりでいた。


 薔薇塩を振った白身魚の串。あるいは柑橘水。屋敷の木札を使うのも少し気が引ける。軽く買って、支部へ向かう。それで十分だ。


 ラウリさんが足を止めた。


 視線の先に、店がある。


 白い壁。青い布の日除け。入口の上には、丸く図案化された鮫の看板がある。目が大きく、歯は可愛らしい三角だ。尾びれには薔薇の飾りがついていた。


 観光客向けの店だ。


 店先には、磨かれた黒板が立っている。


 本日の海の祝福皿。


 薔薇塩仕立て。


 珊瑚硝子の小杯つき。


 値段は軽食ではない。


 俺は見なかったことにしようとした。


 ラウリさんは看板を見ていた。


 かなり真剣に見ていた。


「ヒュウマ」


「はい」


「鮫だ」


「鮫ですね」


「入ろう」


「理由が鮫だけでは?」


「十分だ」


 十分ではない。鮫の絵が可愛いから入る、という判断を海の祭祀官がしていいのか。俺には分からない。ただラウリさんの顔は、神殿の扉を前にした時と同じくらい真剣だ。


 俺はアルフレッドさんの木札を思い出した。軽食や茶と飲み物程度。たしかそう言っていた。目の前の店は軽食というより観光用の昼食だ。しかも高い。


「アルフレッドさんに怒られませんか」


「許可はもらっている」


「軽食と言っていました」


「歩いた。だから軽くはない」


「理屈が強引です」


「腹が減ると、理屈は海へ流れる」


 ラウリさんは真面目な顔で言った。


 店員が入口から出てくる。俺たちを見ると、鮫のロゴが入った前掛けを整えて営業用の笑顔を浮かべた。


「お二人様ですか」


「二人だ」


 ラウリさんは答えた。


「鮫の皿を頼む」


「はい、当店の海の祝福皿でございますね」


 完全に観光料理の名前だ。


 俺は木札を握ったまま、心の中でアルフレッドさんに謝った。


 店の中は涼しい。窓からラグーンが見え、白い卓布の上に小さな貝殻の飾りが置かれている。隣の席では、婚礼客と思しき二人が珊瑚硝子の小杯を合わせていた。


 ラウリさんは椅子に座る前に、鮫の看板へ軽く頭を下げた。


「それは、礼ですか」


「鮫の印があるからな」


「かなり可愛い鮫ですが」


「可愛くされても、鮫は鮫だ」


 怒ってはいない。


 むしろ少し面白がっているように見えた。


 料理はすぐに来た。


 薔薇塩を振った焼き魚。小さな魚介の串焼き。柑橘を絞った貝のスープ。魚のすり身揚げ。薄く切った薔薇塩パン。珊瑚硝子の小杯には、冷たい果汁が入っている。


 見た目は上品だ。


 量は、観光客向けにほどほどだ。


 ラウリさんは一皿目を丁寧に食べた。


 本当に丁寧だ。魚の身を崩しすぎず、塩の粒を見て香りを確かめる。スープを口にする前に短く目を伏せる。海から来たものへの礼がある。


 それから顔を上げた。


「もう一つ頼もう」


「え」


「これは良い。もう一つだ」


「同じものを?」


「別の鮫の皿はあるか」


 店員は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに営業用の笑顔へ戻った。


「でしたら、外洋魚の薔薇塩焼きと貝の香草蒸しがございます」


「それを」


「ラウリさん」


「ヒュウマも食うか」


「俺はまだ一皿目が半分残っています」


「怪我人はよく噛む。良いことだ」


 違う。


 そういう問題ではない。


 二皿目が来た。三皿目も来た。ラウリさんは食べる。速い。けれど雑ではない。焼き魚の骨をきれいに外し、貝の汁をパンで受ける。串焼きの焦げた端まで無駄にしない。食べ物への敬意はある。量に遠慮がない。


 四皿目は、店員の方から勧められた。薔薇塩パンに魚の肝を薄く塗り、柑橘の皮を散らしたものだという。ラウリさんは説明を聞き終える前に頷いた。俺は水を飲んだ。木札が懐で重くなる。


「食える時に食う。海に出る者の作法だ」


 ラウリさんは言った。


「海に出る予定は」


「支部へ行く」


「それは海に出るとは言いません」


「海の近くへ行く」


「広いですね」


「海は広い」


 言い返せなかった。


 木札を出す時、俺は少し手が重かった。


 店員は薔薇の紋を見て、さらに丁寧な笑顔になった。


「エヴァンジェリーネ様のお屋敷でございますね。承っております」


 承っている、ということになる。


 本当に?


 俺は心の中でもう一度アルフレッドさんに謝った。


 ラウリさんは満足そうに水を飲んでいた。鮫の歯の化石が、窓の光を受けて黒く光る。


 可愛い鮫の看板と、その歯はまるで違う。


 それでも、同じ鮫という言葉で繋がっている。


 サルマンディアのやり方だと思った。古いものを白く磨き、可愛くして売る。ラウリさんは怒らない。ただ、少しだけ遠い目をしていた。島の祈りが看板になることを面白がっているのか。あるいは、どこかで線を引いているのか。俺にはまだ分からなかった。


──────────────────────────────


 サルマンディア海守り支部は、外洋港と内海の観光港の間にあった。


 白い石造りの建物だ。正面だけを見れば、役所か小さな倉庫に見える。けれど近づくと、匂いが違う。濡れた綱。乾ききらない救命布。油を塗った木製担架。潮で黒ずんだ櫂。そういうものの匂いが、白い壁の中から滲んでいる。


 俺は少しだけ息を深くした。


 海守りの拠点の匂いだ。


 カラヴェラとも、オルヴィナとも違う。けれど同じ匂いがある。


 入口の上には、小さな白鯨の印が刻まれていた。観光客向けの鮫看板とは違う。線は古く、簡素で飾りがない。白い鯨が海と陸の境を泳ぐように彫られている。


 中へ入ると、壁に潮位札が並んでいた。今日の潮。内海側の満ち引き。外洋側の波高。祝福船の運航予定。遭難者名札の棚。簡易寝台。白い壁の外側より、ここはずっと海に近い。


 カラヴェラの支部はもっと荒い。濡れた長靴と網の匂いが前に出る。サルマンディアの支部は磨かれていて、観光客に見られることを前提にしていた。それでも救命布の端に残る塩や担架の傷は隠せない。ここも人を戻す場所だ。


 支部の奥で、若い声がした。


「綱は右に寄せろ。そこに置くと客が踏む」


 リオンだった。


 海守りの戦闘服を着て、帳面を片手に若手へ指示を出している。俺に気づくと、すぐに顔を上げた。目が一瞬だけ俺の歩き方を見る。


 左足。腰。脇腹。痛みの残りを数えた顔だ。


「ヒュウマさん」


「リオン」


「歩いて来たんですか」


「リハビリがてらな」


「リハビリにしては距離があります」


「言われると思った」


 リオンはそれ以上言わなかった。言いたいことはある顔だ。けれどここは他支部で、俺は客でもあり当代でもある。リオンは立場の側に立つ。


 その視線がラウリさんへ移った。


「シレリオ殿。ようこそ」


「世話になる」


 ラウリさんが大きな手を胸に当てて軽く礼をする。リオンも短く礼を返した。


 奥から、太い声が来た。


「おう、噂の当代殿が来たか」


 出てきたのは、四十代半ばほどの男だ。日に焼けた顔。短く刈った髪。腕は太いが、腹は少し出ている。観光客相手なら笑顔で道案内をしそうな柔らかさがある。同時に、海へ落ちた人間を迷わず引き上げる手をしていた。


「サヴィーノだ。ここの当直頭をやってる」


「サルヴァトーレ家のヒュウマです」


 俺は背筋を伸ばした。


「お世話になります」


「こっちこそ。サルヴァトーレの当代が支部に来るなら支部長を呼ぶべきなんだろうが、あいにく今日は祝福船の会合でな。俺で勘弁してくれ」


「いえ。こちらこそ突然ですので」


 サヴィーノさんは俺の顔をまっすぐ見た。


 それから少しだけ目を細める。


「似てるな」


 胸の奥が止まった。


「父を、ご存じですか」


「一度だけだ。あんたが当代になる前だな。先代サルヴァトーレ殿がこの支部へ寄った」


 支部の音が少し遠くなる。


 リオンがこちらを見たのが分かった。ラウリさんも黙っている。


「どんな用事で」


「西寄りの潮を見に来た。サルマンディアの外洋側は、年に何度か変な返りをする。こっちは観光船ばかり見てると見落とす。先代はそれを嫌がってな」


 サヴィーノさんは壁の潮位札へ顎を向けた。


「あの人は、札を見る前に海を見た。海を見てから札を直した。支部の若いのが驚いてたよ。サルヴァトーレ家はやっぱり違うって」


 サヴィーノさんは、古い潮位札の端を指で叩いた。今使っている札ではない。退役した札が記念品のように壁の上へ掛けられている。小さく欠けた角に、細い焼き印があった。修理した者の印だという。


「その日、外洋側は妙に静かでな。港の中だけ明るくて、外が黙っていた。先代は一目見て、札の基準が一段ずれてると言った。俺たちは笑えなかったよ。半日後に戻り潮が来て、古い防波段を二つ飲んだ」


 父の姿が、知らない支部の中に立つ。


 俺の記憶にある父は、家の窓辺で白鯨の小像に頭を下げる背中だ。港で救助具を点検する手だ。けれど俺の知らない場所にも、父の足跡はある。


 サルマンディアの白い支部。


 西寄りの潮。


 直された潮位札。


「……父は、何か言っていましたか」


「戻る潮は先に音が消える、と言っていた」


 息が止まりかけた。


 戻る潮。


 音が消える。


 オルヴィナで聞いた言葉と、遠く重なる。


 サヴィーノさんは俺の顔を見て、少しだけ声を落とした。


「悪い。何かまずい話だったか」


「いえ」


 俺は首を振った。


「父らしいです」


 それは嘘ではない。


 父らしい。


 そして、父が何を見ていたのか俺はまだ知らない。


 ラウリさんが静かに言った。


「先代は、海の戻りをよく見ていたのだな」


「ああ。俺たちの支部じゃ、今でもあの話は残ってる。サルヴァトーレ家の当代が札を直した日、ってな」


 サヴィーノさんはそこで笑った。


「だから、あんたが若いからって舐める奴はいない。サルヴァトーレの名は、海守り衆なら知ってる」


 その言葉は、重かった。


 名が知られていることは、誇りだけじゃない。


 父の背中も、俺の今も同じ名で見られる。


 俺は胸の中で一度だけ息を整えた。


「名前に負けないようにします」


 サヴィーノさんは笑った。


「そういう顔も似てる」


 似ている。


 嬉しいのか、痛いのかまだ分からなかった。


──────────────────────────────


 サルマンディア支部の仕事は、カラヴェラと少し違った。


 もちろん、海で人を救うことは同じだ。けれどこの街では、救う相手の半分が観光客になる。婚礼客。祝福船の客。記念写真を撮りたくて波打ち際へ下りる人。酒を飲んだまま夜の桟橋へ出る人。


 壁の帳面には、そういう記録が並んでいた。


 祝福船、浅瀬接触。


 新郎、夜間転落。


 新婦の親族、貝採り禁止区域へ侵入。


 俺は思わず眉を寄せた。


「多いですね」


「多い」


 サヴィーノさんは即答した。


「幸せな人間は、海を甘く見る」


 かなり身も蓋もない言い方だ。


 リオンが帳面を開いた。


「今朝も祝福船の座礁未遂が一件ありました。内海側です。潮位の読み違いと、船頭の見栄です」


「見栄?」


「客に近道を見せようとしたそうです」


「それは駄目だ」


「はい。駄目です」


 リオンの声は短い。


 俺は帳面を覗いた。船底の擦過。怪我人なし。救助不要。支部から警告。観光船組合へ連絡。処理はきれいだ。


「リオン、助かってるぞ」


 サヴィーノさんが言った。


「カラヴェラの若いのは手が早い。船の修繕記録も見てくれるし、ロドルの件の控えも整理してくれる」


 リオンは少しだけ目を伏せた。


「ヒュウマさんが療養中ですので」


 それ以上は言わない。


 俺が動けない分を、リオンが支部で埋めている。船の係留。修繕。記録。連絡。俺が寝ている間にも、海守りの仕事は続いていた。


「ありがとう」


 そう言うと、リオンは一瞬だけ返事に詰まった。


「……いえ。俺の仕事です」


 立場の側に立つ声だ。


 ラウリさんは壁の白鯨小像を見ていた。


 小像は手のひらほどの大きさで、潮で少し白がくすんでいる。俺の家の窓辺にあるものとは形が違う。けれど、頭を下げたくなる感じは同じだ。


「白鯨の祈りか」


 ラウリさんが言った。


「はい。海守りの支部には、だいたいあります」


「懐かしい。だが、俺の家の祈りとは少し違う」


「ラウリさんの家は、鮫ですか」


「鮫の王だ。白鯨とは別の海を泳ぐ」


 サヴィーノさんがラウリさんの首元を見た。


 鮫の歯の化石。それから刺青の覗く手首へ視線を移す。


「シレリオ殿、シャーク・コーラーズの方だと聞いてます」


「そう呼ぶ者もいる」


 ラウリさんは穏やかに答えた。


「うちの若いのが、土産屋の絵葉書で見たとか言って騒いでな。失礼があったら許してくれ」


 ラウリさんは笑った。


「絵葉書になっているのか」


「鮫に乗って嵐を呼ぶ島の神官、だそうだ」


「俺は鮫には乗らない」


「だろうな」


 サヴィーノさんも笑った。


 俺は少しだけ困った。


 観光地は何でも絵にする。薔薇。白鯨。鮫。祝福。契約。古い祈りも可愛い看板になる。ラウリさんの家の重みも、どこかでは土産物になっている。


 ラウリさんは怒らなかった。ただ、白鯨小像の前で少しだけ背筋を伸ばした。そこにあるのは抗議ではない。自分の海の名を、雑に扱わないための姿勢に見えた。


「俺たちは、海の中で声を聞く。海守りは、海と陸の境で戻す。違うが、遠い親戚のようなものだ」


 その言葉は、俺の胸に落ちた。


「分かれた兄弟、みたいなものですか」


 俺が言うと、ラウリさんは俺を見た。


「そうだな。何代も前に分かれた兄弟だ」


 何代も前。


 それがどれほど前なのか、俺にはまだ分からない。


 けれど、白鯨の小像と鮫の歯が同じ窓の光を拾っていた。


──────────────────────────────


 昼過ぎの支部は急に忙しくなった。


 まず、祝福船組合の使いが来た。


 今朝の座礁未遂の件だ。船頭の処分をどうするか。客への説明をどうするか。波が悪かったことにできないか。そういう話である。


 サヴィーノさんの顔が笑顔のまま動かなくなる。


「波のせいにするなら、海に謝ってからにしろ」


 使いは黙った。


「船頭が浅瀬を読まずに入った。客に怪我はない。だから今回は警告で済ませる。次は船を止める」


 観光客相手の柔らかさと、海守りの硬さが同じ声に入っていた。


 使いは何度か言葉を変えた。祝福の日に傷をつけたくない。客も騒ぎを望んでいない。評判に響く。サヴィーノさんは全部聞いた上で、潮位表を一枚机へ置いた。そこには船底が擦った時刻と潮の高さが書かれている。言い逃れの余地は紙の上で消えた。


 次に、漁師が来た。


 外洋側の魚群の動きがおかしいという相談だ。普段なら昼前に寄る小魚が、今朝は沖へ逃げた。海鳥の降り方も低い。網を入れるべきか迷っている。


 俺とラウリさんは顔を見合わせた。


「場所は」


 俺が訊くと、漁師は港の外側を指した。


「西の禁漁区の手前だ。正確には外だが、あの辺りに小舟がいたって話もある」


「小舟?」


「シローネの小札をつけた荷舟だそうだ。見間違いかもしれん」


 数日前の朝市で聞いた港の荒れが、頭をよぎる。


 サヴィーノさんの顔から笑みが消えた。


「禁漁区には入ったのか」


「そこまでは」


「なら、まだ噂だな」


 言い方は慎重だ。


 大きく動く話ではない。けれど支部の帳面には残すべき話だ。リオンがすでに筆を取っている。噂のまま置けば、後で誰も拾えなくなる。海の事故はいつも、そういう小さな見落としから始まる。


 ラウリさんが支部の裏手の扉を見た。


「海を見てもいいか」


 サヴィーノさんは一瞬だけ目を細めた。


「もちろん」


 俺たちは裏手の桟橋へ出た。


 外洋港の風が強くなる。観光港の甘い香りは薄れ、潮と油と魚の匂いが前に出る。海面は明るいが、沖の方だけ少し色が沈んでいた。


 ラウリさんは桟橋の端まで歩いた。


 大きな身体が、風の中で静かになる。


 袖を少し上げ、刺青のある手首を海へ向ける。声は出さない。ただ、喉の奥で低い音が一度だけ鳴った。


 祈りというより、挨拶に近い。海鳥が二羽、支部の屋根から降りてきた。海面に小さな魚影が寄る。若い支部員が息を呑んだ。


 サヴィーノさんがその肩を軽く叩く。


「騒ぐな」


 ラウリさんは海を見たまま笑った。


「呼んだのではない。挨拶を返してもらっただけだ」


 それでも十分すごい。


 俺はそう思ったが、口には出さなかった。


 ラウリさんの目は、沖の暗い色を見ている。


「魚は逃げた。だが、怯え方は浅い」


「浅い?」


「大きな捕食者ではない。水の底を嫌がったのだろう。船の影か、油か音か」


「禁漁区の方は」


「入った者がいるなら、海は覚えている。だが今は薄い」


 サヴィーノさんが顎に手を当てた。


「帳面に残す。巡回を一つ増やすか」


「俺も見ます」


 そう言いかけて、脇腹が少し引きつった。


 リオンがすぐにこちらを見た。


「ヒュウマさん」


「分かってる。走らない」


「巡回にも出ません」


「先に言うな」


「言わないと行きそうなので」


 正しい。


 俺は黙った。


 サヴィーノさんが笑う。


「いい若いのがいるな、当代」


「ええ」


 リオンは少しだけ困った顔をした。


──────────────────────────────


 支部を出る前に、ラウリさんはもう一度白鯨小像の前へ立った。


 小像の隣には、潮位札がある。


 白鯨。


 潮位。


 遭難者名札。


 海守りの支部は、戻すための場所だ。


 溺れた人を戻す。迷った船を戻す。潮を読む。危ない場所を記録する。死んだ人の名も、忘れないように棚へ戻す。


 ラウリさんの首元で、鮫の歯の化石が揺れた。


 白鯨の小像と鮫の歯が、同じ窓の光を拾う。


 同じ海ではない。


 けれど、同じ光に見えた。


「ラウリさん」


 俺は言った。


「さっきの鳥に、何か頼むんですか」


 ラウリさんは少し驚いたように俺を見た。


 それから、笑った。


「よく分かったな」


「分かるようになってきました」


「海守りの当代だな」


 そう言われると、どう返していいか分からない。


 ラウリさんは支部裏の桟橋へもう一度出た。


 海鳥はまだ屋根にいた。


 一羽が首を傾ける。


 ラウリさんはその鳥へ、低く短い声を向けた。言葉というより、潮の中へ置く音だ。俺には意味は分からない。けれど最後の一文だけは、普通の言葉で届いた。


「シレナへ、今日も生きていると伝えてくれ」


 風が吹いた。


 海鳥が翼を広げる。


 すぐに飛び立つわけではない。屋根の端を二歩歩き、こちらを見てそれから外洋側へ向かった。


 定期連絡みたいなものだ。そう思った。初めてではない。


 ラウリさんは、きっと何度も同じことを頼んでいる。今日も生きている。昨日も生きていた。明日も、たぶん伝える。遠くの島へ、母や祖母や残った人たちへ。


 それは勝利の報告ではない。無事の証明でも、全部を片づけたという知らせでもない。ただ今日という日を越えたという、小さな印だ。海に生きる者には、その小さな印がいる。


 俺は父のことを思った。


 父がこの支部で潮位札を直した日。


 父の言葉が、俺の知らない支部に残っていたこと。


 戻る潮は、先に音が消える。


 海守りは戻す。


 シーシャーマンは伝える。


 違う。けれど遠くない。


 ラウリさんがこちらへ戻ってきた。


「腹が減ったな」


「さっき、かなり食べましたよね」


「歩いた」


「支部の中だけです」


「話した」


「それは腹が減る理由になりますか」


「なる」


 ラウリさんは当然のように頷いた。


 リオンが支部の扉の前で、わずかに笑いをこらえている。サヴィーノさんはもう笑っていた。


 俺は木札を見た。


 アルフレッドさんに、どう説明しよう。


 白鯨の小像の前で、鮫の歯がもう一度光った。


 その光は、サルマンディアの午後の白さの中で妙にまっすぐだった。

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