白鯨と鮫の歯
屋敷を出たのは、朝食から少し時間を置いた頃だ。
陽はもう白い壁の上まで来ている。薔薇庭園の葉に残った露は乾き、噴水の音だけが涼しさを保っていた。サルマンディアへ着いてから、だいたい一週間になる。
身体はかなり戻った。全快ではない。左の脇腹は深く息を入れるとまだ引っかかるし、腰の奥には重い鈍さが残っている。けれど歩ける。走るのは駄目だ。潮鎚を振るうのはもっと駄目だ。そこは蒼凪さんにもアルフレッドさんにも同じ顔で釘を刺された。
「支部まで歩くだけです」
俺がそう言うと、アルフレッドさんは白手袋の指で懐中時計の蓋を閉じた。
「歩くだけで済む方々でしたら、私は何も申し上げません」
反論しにくい言い方だ。
玄関広間にはラウリさんも立っていた。濃紺のローブを羽織り、長い黒髪を後ろで結んでいる。大きい。何度見ても大きい。屋敷の天井は高いのに、そこだけ島の岩が歩いているように見える。
「俺は海を見に行くだけだ」
ラウリさんが笑った。
「それも、皆様が言うと少々広い意味になります」
アルフレッドさんは淡々と返した。
その横で蒼凪さんが小さく息を吐く。
蒼凪さんも、外出許可は出ている。昨日の午後には薔薇庭園を端まで歩いた。歩幅はまだ小さく、長く立っていると顔色が落ちる。それでも、最初に館へ入った日とはまるで違う。
ただ、今日は来ない。
「俺は留守番だ」
「本当に?」
思わず聞き返した。
蒼凪さんは俺を見る。
「何を疑っている」
「いや。蒼凪さんなら、気づいたら港にいることがあるので」
「否定はしない」
「してください」
ラウリさんが低く笑った。イーリス様は二階の回廊からこちらを見下ろし、声を立てずに肩だけを揺らしている。
蒼凪さんは薄く笑った。昨日より顔色はいい。けれど、立って話しているだけでも指先に少し力が入る。屋敷の人たちはそれを見逃さないし、俺ももう見逃せなくなっている。
「今日はお前とラウリ殿の用事だ。海守り支部なら、お前が見た方がいい」
その言い方に、少しだけ背筋が伸びる。
海守りの用事。それは俺の足で行くべきものだ。蒼凪さんといると、いつの間にか神殿や深淵の徒の話へ引っ張られる。けれど俺は海守りの当代で、その名前で見られる場所がある。
「ただし、無理はしないこと」
「分かっています」
「支部で何かあっても、走らないこと」
「分かっています」
「ラウリ殿を止める役が必要になった場合は、まず諦めること」
「それは……分かりたくないですね」
ラウリさんが胸の前で手を合わせた。
「賢者殿、俺はそんなに手のかかる男ではない」
「食事の場では?」
「それは別だ」
即答だ。
アルフレッドさんが小さく咳払いをした。
「道中で何か召し上がる場合は、こちらを」
差し出されたのは、薄い木札だ。薔薇の紋と、屋敷の印が焼き入れられている。
「エヴァ様の屋敷の名で通る店がいくつかございます。軽食や茶でしたら、そちらで」
「ありがとうございます」
俺は受け取った。
軽食。その言葉をラウリさんが聞いた。聞いた瞬間、深い青の目が少し明るくなる。俺は木札を見て、少しだけ嫌な予感がした。アルフレッドさんは何も言わず、ただ俺の手の中の木札を見た。あれはたぶん、使い方まで含めて見抜いている顔だ。
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屋敷から港までは歩いて一刻ほどかかる。
馬車を出すこともできた。けれど今日はリハビリを兼ねて歩くことにした。サルマンディアの白い街は坂が多い。急な坂ではない。海へ向かって、ゆるく長く下りていく。石畳はきれいに磨かれ、両脇には白壁の邸宅や小さな店が並んでいた。
薔薇の鉢。硝子の風鈴。婚礼客の乗る小さな辻馬車。朝のサルマンディアは、まだ観光地の顔をしている。道の先に海が見え、遠くのラグーンはターコイズブルーに光っていた。初めて来た人なら、たぶん足を止める。
俺は海の縁を見る。観光客が笑っている場所のすぐ下に、滑りやすい石段がある。波返しの高さは十分か。酔った客が夜に座り込むなら、どこが危ないか。小舟が客を乗せる時、誰が手を貸すのか。海守りの目はどうしてもそちらへ行く。
坂を下るほど、街の音が変わった。薔薇の香水と焼き菓子の匂いが薄くなり、潮と魚箱と油の匂いが混じってくる。白い街は白いままだが、足元に落ちている水の色が違う。観光港から実務港へ近づく合図だ。
俺の身体も、そこで少しだけ重さを思い出した。長く下ると腰の奥が鈍く鳴る。ラウリさんは歩幅を合わせてくれている。合わせていると分かるほど、普段の一歩が大きい。
「ヒュウマ」
ラウリさんが隣で言った。
「あの白い石段、潮が満ちたら見えなくなるな」
「ええ。満潮の時は下二段が消えると思います」
「酔った者が落ちる」
「落ちますね」
「拾う者は大変だ」
「だから海守り支部が忙しいんでしょう」
ラウリさんは頷いた。
俺たちは笑っている観光客の横を通り過ぎた。
ラウリさんは、街で目立つ。
身長もそうだが、ただ大きいだけではない。濃紺のローブの下に身体の厚みがある。袖口からは祭祀の刺青が覗き、首元では鮫の歯の化石が揺れていた。道行く人が一度は目を向ける。何人かは見物人の顔をした。
ラウリさんは気にしていないように歩く。
けれど、気づいていないわけではない。
海鳥が一羽、屋根の上から鳴いた。
ラウリさんが顔を上げる。
「あれは、港の鳥だ」
「分かるんですか」
「鳴き方が違う。屋敷の庭へ来る鳥より、魚箱の匂いを知っている」
「なるほど」
分かるような、分からないような話だ。
俺にとって海鳥は、風と魚群と天気の目印だ。ラウリさんにとっては、それより少し近い相手に見える。
「海守りは、鳥と話すのか」
「話すというより、見る方です。どこに飛ぶか、どの高さを回るか。急に鳴き方が変われば、潮か風が変わったと見ます」
「俺たちも見る。だが、たまに頼む」
「頼む?」
「遠くへ行く鳥は、遠くの海を知っているからな」
ラウリさんはそう言って、屋根の上の鳥に短く指を上げた。
鳥がもう一度鳴く。
偶然かもしれない。
けれど、ラウリさんは少しだけ笑った。
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港へ近づく頃には、腹が少し減っていた。
屋敷で朝食は食べている。透真さんの粥と魚の汁は怪我人にも優しく、ちゃんと力になる。けれど一刻歩けば、身体は別のものを欲しがる。
俺は小さな屋台で済ませるつもりでいた。
薔薇塩を振った白身魚の串。あるいは柑橘水。屋敷の木札を使うのも少し気が引ける。軽く買って、支部へ向かう。それで十分だ。
ラウリさんが足を止めた。
視線の先に、店がある。
白い壁。青い布の日除け。入口の上には、丸く図案化された鮫の看板がある。目が大きく、歯は可愛らしい三角だ。尾びれには薔薇の飾りがついていた。
観光客向けの店だ。
店先には、磨かれた黒板が立っている。
本日の海の祝福皿。
薔薇塩仕立て。
珊瑚硝子の小杯つき。
値段は軽食ではない。
俺は見なかったことにしようとした。
ラウリさんは看板を見ていた。
かなり真剣に見ていた。
「ヒュウマ」
「はい」
「鮫だ」
「鮫ですね」
「入ろう」
「理由が鮫だけでは?」
「十分だ」
十分ではない。鮫の絵が可愛いから入る、という判断を海の祭祀官がしていいのか。俺には分からない。ただラウリさんの顔は、神殿の扉を前にした時と同じくらい真剣だ。
俺はアルフレッドさんの木札を思い出した。軽食や茶と飲み物程度。たしかそう言っていた。目の前の店は軽食というより観光用の昼食だ。しかも高い。
「アルフレッドさんに怒られませんか」
「許可はもらっている」
「軽食と言っていました」
「歩いた。だから軽くはない」
「理屈が強引です」
「腹が減ると、理屈は海へ流れる」
ラウリさんは真面目な顔で言った。
店員が入口から出てくる。俺たちを見ると、鮫のロゴが入った前掛けを整えて営業用の笑顔を浮かべた。
「お二人様ですか」
「二人だ」
ラウリさんは答えた。
「鮫の皿を頼む」
「はい、当店の海の祝福皿でございますね」
完全に観光料理の名前だ。
俺は木札を握ったまま、心の中でアルフレッドさんに謝った。
店の中は涼しい。窓からラグーンが見え、白い卓布の上に小さな貝殻の飾りが置かれている。隣の席では、婚礼客と思しき二人が珊瑚硝子の小杯を合わせていた。
ラウリさんは椅子に座る前に、鮫の看板へ軽く頭を下げた。
「それは、礼ですか」
「鮫の印があるからな」
「かなり可愛い鮫ですが」
「可愛くされても、鮫は鮫だ」
怒ってはいない。
むしろ少し面白がっているように見えた。
料理はすぐに来た。
薔薇塩を振った焼き魚。小さな魚介の串焼き。柑橘を絞った貝のスープ。魚のすり身揚げ。薄く切った薔薇塩パン。珊瑚硝子の小杯には、冷たい果汁が入っている。
見た目は上品だ。
量は、観光客向けにほどほどだ。
ラウリさんは一皿目を丁寧に食べた。
本当に丁寧だ。魚の身を崩しすぎず、塩の粒を見て香りを確かめる。スープを口にする前に短く目を伏せる。海から来たものへの礼がある。
それから顔を上げた。
「もう一つ頼もう」
「え」
「これは良い。もう一つだ」
「同じものを?」
「別の鮫の皿はあるか」
店員は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに営業用の笑顔へ戻った。
「でしたら、外洋魚の薔薇塩焼きと貝の香草蒸しがございます」
「それを」
「ラウリさん」
「ヒュウマも食うか」
「俺はまだ一皿目が半分残っています」
「怪我人はよく噛む。良いことだ」
違う。
そういう問題ではない。
二皿目が来た。三皿目も来た。ラウリさんは食べる。速い。けれど雑ではない。焼き魚の骨をきれいに外し、貝の汁をパンで受ける。串焼きの焦げた端まで無駄にしない。食べ物への敬意はある。量に遠慮がない。
四皿目は、店員の方から勧められた。薔薇塩パンに魚の肝を薄く塗り、柑橘の皮を散らしたものだという。ラウリさんは説明を聞き終える前に頷いた。俺は水を飲んだ。木札が懐で重くなる。
「食える時に食う。海に出る者の作法だ」
ラウリさんは言った。
「海に出る予定は」
「支部へ行く」
「それは海に出るとは言いません」
「海の近くへ行く」
「広いですね」
「海は広い」
言い返せなかった。
木札を出す時、俺は少し手が重かった。
店員は薔薇の紋を見て、さらに丁寧な笑顔になった。
「エヴァンジェリーネ様のお屋敷でございますね。承っております」
承っている、ということになる。
本当に?
俺は心の中でもう一度アルフレッドさんに謝った。
ラウリさんは満足そうに水を飲んでいた。鮫の歯の化石が、窓の光を受けて黒く光る。
可愛い鮫の看板と、その歯はまるで違う。
それでも、同じ鮫という言葉で繋がっている。
サルマンディアのやり方だと思った。古いものを白く磨き、可愛くして売る。ラウリさんは怒らない。ただ、少しだけ遠い目をしていた。島の祈りが看板になることを面白がっているのか。あるいは、どこかで線を引いているのか。俺にはまだ分からなかった。
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サルマンディア海守り支部は、外洋港と内海の観光港の間にあった。
白い石造りの建物だ。正面だけを見れば、役所か小さな倉庫に見える。けれど近づくと、匂いが違う。濡れた綱。乾ききらない救命布。油を塗った木製担架。潮で黒ずんだ櫂。そういうものの匂いが、白い壁の中から滲んでいる。
俺は少しだけ息を深くした。
海守りの拠点の匂いだ。
カラヴェラとも、オルヴィナとも違う。けれど同じ匂いがある。
入口の上には、小さな白鯨の印が刻まれていた。観光客向けの鮫看板とは違う。線は古く、簡素で飾りがない。白い鯨が海と陸の境を泳ぐように彫られている。
中へ入ると、壁に潮位札が並んでいた。今日の潮。内海側の満ち引き。外洋側の波高。祝福船の運航予定。遭難者名札の棚。簡易寝台。白い壁の外側より、ここはずっと海に近い。
カラヴェラの支部はもっと荒い。濡れた長靴と網の匂いが前に出る。サルマンディアの支部は磨かれていて、観光客に見られることを前提にしていた。それでも救命布の端に残る塩や担架の傷は隠せない。ここも人を戻す場所だ。
支部の奥で、若い声がした。
「綱は右に寄せろ。そこに置くと客が踏む」
リオンだった。
海守りの戦闘服を着て、帳面を片手に若手へ指示を出している。俺に気づくと、すぐに顔を上げた。目が一瞬だけ俺の歩き方を見る。
左足。腰。脇腹。痛みの残りを数えた顔だ。
「ヒュウマさん」
「リオン」
「歩いて来たんですか」
「リハビリがてらな」
「リハビリにしては距離があります」
「言われると思った」
リオンはそれ以上言わなかった。言いたいことはある顔だ。けれどここは他支部で、俺は客でもあり当代でもある。リオンは立場の側に立つ。
その視線がラウリさんへ移った。
「シレリオ殿。ようこそ」
「世話になる」
ラウリさんが大きな手を胸に当てて軽く礼をする。リオンも短く礼を返した。
奥から、太い声が来た。
「おう、噂の当代殿が来たか」
出てきたのは、四十代半ばほどの男だ。日に焼けた顔。短く刈った髪。腕は太いが、腹は少し出ている。観光客相手なら笑顔で道案内をしそうな柔らかさがある。同時に、海へ落ちた人間を迷わず引き上げる手をしていた。
「サヴィーノだ。ここの当直頭をやってる」
「サルヴァトーレ家のヒュウマです」
俺は背筋を伸ばした。
「お世話になります」
「こっちこそ。サルヴァトーレの当代が支部に来るなら支部長を呼ぶべきなんだろうが、あいにく今日は祝福船の会合でな。俺で勘弁してくれ」
「いえ。こちらこそ突然ですので」
サヴィーノさんは俺の顔をまっすぐ見た。
それから少しだけ目を細める。
「似てるな」
胸の奥が止まった。
「父を、ご存じですか」
「一度だけだ。あんたが当代になる前だな。先代サルヴァトーレ殿がこの支部へ寄った」
支部の音が少し遠くなる。
リオンがこちらを見たのが分かった。ラウリさんも黙っている。
「どんな用事で」
「西寄りの潮を見に来た。サルマンディアの外洋側は、年に何度か変な返りをする。こっちは観光船ばかり見てると見落とす。先代はそれを嫌がってな」
サヴィーノさんは壁の潮位札へ顎を向けた。
「あの人は、札を見る前に海を見た。海を見てから札を直した。支部の若いのが驚いてたよ。サルヴァトーレ家はやっぱり違うって」
サヴィーノさんは、古い潮位札の端を指で叩いた。今使っている札ではない。退役した札が記念品のように壁の上へ掛けられている。小さく欠けた角に、細い焼き印があった。修理した者の印だという。
「その日、外洋側は妙に静かでな。港の中だけ明るくて、外が黙っていた。先代は一目見て、札の基準が一段ずれてると言った。俺たちは笑えなかったよ。半日後に戻り潮が来て、古い防波段を二つ飲んだ」
父の姿が、知らない支部の中に立つ。
俺の記憶にある父は、家の窓辺で白鯨の小像に頭を下げる背中だ。港で救助具を点検する手だ。けれど俺の知らない場所にも、父の足跡はある。
サルマンディアの白い支部。
西寄りの潮。
直された潮位札。
「……父は、何か言っていましたか」
「戻る潮は先に音が消える、と言っていた」
息が止まりかけた。
戻る潮。
音が消える。
オルヴィナで聞いた言葉と、遠く重なる。
サヴィーノさんは俺の顔を見て、少しだけ声を落とした。
「悪い。何かまずい話だったか」
「いえ」
俺は首を振った。
「父らしいです」
それは嘘ではない。
父らしい。
そして、父が何を見ていたのか俺はまだ知らない。
ラウリさんが静かに言った。
「先代は、海の戻りをよく見ていたのだな」
「ああ。俺たちの支部じゃ、今でもあの話は残ってる。サルヴァトーレ家の当代が札を直した日、ってな」
サヴィーノさんはそこで笑った。
「だから、あんたが若いからって舐める奴はいない。サルヴァトーレの名は、海守り衆なら知ってる」
その言葉は、重かった。
名が知られていることは、誇りだけじゃない。
父の背中も、俺の今も同じ名で見られる。
俺は胸の中で一度だけ息を整えた。
「名前に負けないようにします」
サヴィーノさんは笑った。
「そういう顔も似てる」
似ている。
嬉しいのか、痛いのかまだ分からなかった。
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サルマンディア支部の仕事は、カラヴェラと少し違った。
もちろん、海で人を救うことは同じだ。けれどこの街では、救う相手の半分が観光客になる。婚礼客。祝福船の客。記念写真を撮りたくて波打ち際へ下りる人。酒を飲んだまま夜の桟橋へ出る人。
壁の帳面には、そういう記録が並んでいた。
祝福船、浅瀬接触。
新郎、夜間転落。
新婦の親族、貝採り禁止区域へ侵入。
俺は思わず眉を寄せた。
「多いですね」
「多い」
サヴィーノさんは即答した。
「幸せな人間は、海を甘く見る」
かなり身も蓋もない言い方だ。
リオンが帳面を開いた。
「今朝も祝福船の座礁未遂が一件ありました。内海側です。潮位の読み違いと、船頭の見栄です」
「見栄?」
「客に近道を見せようとしたそうです」
「それは駄目だ」
「はい。駄目です」
リオンの声は短い。
俺は帳面を覗いた。船底の擦過。怪我人なし。救助不要。支部から警告。観光船組合へ連絡。処理はきれいだ。
「リオン、助かってるぞ」
サヴィーノさんが言った。
「カラヴェラの若いのは手が早い。船の修繕記録も見てくれるし、ロドルの件の控えも整理してくれる」
リオンは少しだけ目を伏せた。
「ヒュウマさんが療養中ですので」
それ以上は言わない。
俺が動けない分を、リオンが支部で埋めている。船の係留。修繕。記録。連絡。俺が寝ている間にも、海守りの仕事は続いていた。
「ありがとう」
そう言うと、リオンは一瞬だけ返事に詰まった。
「……いえ。俺の仕事です」
立場の側に立つ声だ。
ラウリさんは壁の白鯨小像を見ていた。
小像は手のひらほどの大きさで、潮で少し白がくすんでいる。俺の家の窓辺にあるものとは形が違う。けれど、頭を下げたくなる感じは同じだ。
「白鯨の祈りか」
ラウリさんが言った。
「はい。海守りの支部には、だいたいあります」
「懐かしい。だが、俺の家の祈りとは少し違う」
「ラウリさんの家は、鮫ですか」
「鮫の王だ。白鯨とは別の海を泳ぐ」
サヴィーノさんがラウリさんの首元を見た。
鮫の歯の化石。それから刺青の覗く手首へ視線を移す。
「シレリオ殿、シャーク・コーラーズの方だと聞いてます」
「そう呼ぶ者もいる」
ラウリさんは穏やかに答えた。
「うちの若いのが、土産屋の絵葉書で見たとか言って騒いでな。失礼があったら許してくれ」
ラウリさんは笑った。
「絵葉書になっているのか」
「鮫に乗って嵐を呼ぶ島の神官、だそうだ」
「俺は鮫には乗らない」
「だろうな」
サヴィーノさんも笑った。
俺は少しだけ困った。
観光地は何でも絵にする。薔薇。白鯨。鮫。祝福。契約。古い祈りも可愛い看板になる。ラウリさんの家の重みも、どこかでは土産物になっている。
ラウリさんは怒らなかった。ただ、白鯨小像の前で少しだけ背筋を伸ばした。そこにあるのは抗議ではない。自分の海の名を、雑に扱わないための姿勢に見えた。
「俺たちは、海の中で声を聞く。海守りは、海と陸の境で戻す。違うが、遠い親戚のようなものだ」
その言葉は、俺の胸に落ちた。
「分かれた兄弟、みたいなものですか」
俺が言うと、ラウリさんは俺を見た。
「そうだな。何代も前に分かれた兄弟だ」
何代も前。
それがどれほど前なのか、俺にはまだ分からない。
けれど、白鯨の小像と鮫の歯が同じ窓の光を拾っていた。
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昼過ぎの支部は急に忙しくなった。
まず、祝福船組合の使いが来た。
今朝の座礁未遂の件だ。船頭の処分をどうするか。客への説明をどうするか。波が悪かったことにできないか。そういう話である。
サヴィーノさんの顔が笑顔のまま動かなくなる。
「波のせいにするなら、海に謝ってからにしろ」
使いは黙った。
「船頭が浅瀬を読まずに入った。客に怪我はない。だから今回は警告で済ませる。次は船を止める」
観光客相手の柔らかさと、海守りの硬さが同じ声に入っていた。
使いは何度か言葉を変えた。祝福の日に傷をつけたくない。客も騒ぎを望んでいない。評判に響く。サヴィーノさんは全部聞いた上で、潮位表を一枚机へ置いた。そこには船底が擦った時刻と潮の高さが書かれている。言い逃れの余地は紙の上で消えた。
次に、漁師が来た。
外洋側の魚群の動きがおかしいという相談だ。普段なら昼前に寄る小魚が、今朝は沖へ逃げた。海鳥の降り方も低い。網を入れるべきか迷っている。
俺とラウリさんは顔を見合わせた。
「場所は」
俺が訊くと、漁師は港の外側を指した。
「西の禁漁区の手前だ。正確には外だが、あの辺りに小舟がいたって話もある」
「小舟?」
「シローネの小札をつけた荷舟だそうだ。見間違いかもしれん」
数日前の朝市で聞いた港の荒れが、頭をよぎる。
サヴィーノさんの顔から笑みが消えた。
「禁漁区には入ったのか」
「そこまでは」
「なら、まだ噂だな」
言い方は慎重だ。
大きく動く話ではない。けれど支部の帳面には残すべき話だ。リオンがすでに筆を取っている。噂のまま置けば、後で誰も拾えなくなる。海の事故はいつも、そういう小さな見落としから始まる。
ラウリさんが支部の裏手の扉を見た。
「海を見てもいいか」
サヴィーノさんは一瞬だけ目を細めた。
「もちろん」
俺たちは裏手の桟橋へ出た。
外洋港の風が強くなる。観光港の甘い香りは薄れ、潮と油と魚の匂いが前に出る。海面は明るいが、沖の方だけ少し色が沈んでいた。
ラウリさんは桟橋の端まで歩いた。
大きな身体が、風の中で静かになる。
袖を少し上げ、刺青のある手首を海へ向ける。声は出さない。ただ、喉の奥で低い音が一度だけ鳴った。
祈りというより、挨拶に近い。海鳥が二羽、支部の屋根から降りてきた。海面に小さな魚影が寄る。若い支部員が息を呑んだ。
サヴィーノさんがその肩を軽く叩く。
「騒ぐな」
ラウリさんは海を見たまま笑った。
「呼んだのではない。挨拶を返してもらっただけだ」
それでも十分すごい。
俺はそう思ったが、口には出さなかった。
ラウリさんの目は、沖の暗い色を見ている。
「魚は逃げた。だが、怯え方は浅い」
「浅い?」
「大きな捕食者ではない。水の底を嫌がったのだろう。船の影か、油か音か」
「禁漁区の方は」
「入った者がいるなら、海は覚えている。だが今は薄い」
サヴィーノさんが顎に手を当てた。
「帳面に残す。巡回を一つ増やすか」
「俺も見ます」
そう言いかけて、脇腹が少し引きつった。
リオンがすぐにこちらを見た。
「ヒュウマさん」
「分かってる。走らない」
「巡回にも出ません」
「先に言うな」
「言わないと行きそうなので」
正しい。
俺は黙った。
サヴィーノさんが笑う。
「いい若いのがいるな、当代」
「ええ」
リオンは少しだけ困った顔をした。
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支部を出る前に、ラウリさんはもう一度白鯨小像の前へ立った。
小像の隣には、潮位札がある。
白鯨。
潮位。
遭難者名札。
海守りの支部は、戻すための場所だ。
溺れた人を戻す。迷った船を戻す。潮を読む。危ない場所を記録する。死んだ人の名も、忘れないように棚へ戻す。
ラウリさんの首元で、鮫の歯の化石が揺れた。
白鯨の小像と鮫の歯が、同じ窓の光を拾う。
同じ海ではない。
けれど、同じ光に見えた。
「ラウリさん」
俺は言った。
「さっきの鳥に、何か頼むんですか」
ラウリさんは少し驚いたように俺を見た。
それから、笑った。
「よく分かったな」
「分かるようになってきました」
「海守りの当代だな」
そう言われると、どう返していいか分からない。
ラウリさんは支部裏の桟橋へもう一度出た。
海鳥はまだ屋根にいた。
一羽が首を傾ける。
ラウリさんはその鳥へ、低く短い声を向けた。言葉というより、潮の中へ置く音だ。俺には意味は分からない。けれど最後の一文だけは、普通の言葉で届いた。
「シレナへ、今日も生きていると伝えてくれ」
風が吹いた。
海鳥が翼を広げる。
すぐに飛び立つわけではない。屋根の端を二歩歩き、こちらを見てそれから外洋側へ向かった。
定期連絡みたいなものだ。そう思った。初めてではない。
ラウリさんは、きっと何度も同じことを頼んでいる。今日も生きている。昨日も生きていた。明日も、たぶん伝える。遠くの島へ、母や祖母や残った人たちへ。
それは勝利の報告ではない。無事の証明でも、全部を片づけたという知らせでもない。ただ今日という日を越えたという、小さな印だ。海に生きる者には、その小さな印がいる。
俺は父のことを思った。
父がこの支部で潮位札を直した日。
父の言葉が、俺の知らない支部に残っていたこと。
戻る潮は、先に音が消える。
海守りは戻す。
シーシャーマンは伝える。
違う。けれど遠くない。
ラウリさんがこちらへ戻ってきた。
「腹が減ったな」
「さっき、かなり食べましたよね」
「歩いた」
「支部の中だけです」
「話した」
「それは腹が減る理由になりますか」
「なる」
ラウリさんは当然のように頷いた。
リオンが支部の扉の前で、わずかに笑いをこらえている。サヴィーノさんはもう笑っていた。
俺は木札を見た。
アルフレッドさんに、どう説明しよう。
白鯨の小像の前で、鮫の歯がもう一度光った。
その光は、サルマンディアの午後の白さの中で妙にまっすぐだった。




