閑話休題:黄色い旗が踊る夜
白羊の尾は、夕暮れの光を受けて白く浮いていた。
遠目には綺麗な船に見えた。
白い帆。磨かれた舷側。左右に護衛船を置いた、金持ちの商船団の顔。荷を守るために金を払い、雇われた剣を乗せ交易路を大きく使う。港の役人に見せるなら、何もおかしくない姿だ。
けれど船足が重い。
目録の重さじゃない。
風は北東から来ていた。昼前にナマズ穴を出た俺たちは、日が傾くまで帆を殺し島影と潮目を使って白羊の尾の風上へ回った。海の色は青から鉛へ変わり、夕日だけが帆の縁を赤く舐めている。
旗はまだ上げない。
青地に黄色まだらの布は、帆柱の根元で畳まれていた。船首の馬鹿でかいナマズの口も、夕影の中では黒い穴に見えるだけだ。船の上の男たちは、朝の水場で笑っていた連中と同じ顔をしていなかった。
誰も大声で笑わない。誰も無駄に刃を抜かない。
腰布を結び直した奴らが、革帯を締め短剣の柄を一度だけ撫でる。飯番は鍋の蓋を縛り、怪我人は帆布の陰へ移される。下品な息が、少しずつ船の息になる。
船は、踊る前に息を止める。
俺はその静けさが好きだ。
ナマズ穴の馬鹿騒ぎも嫌いじゃない。むしろ体のどこかは、あの湿った下品さを家だと思っていた。だが旗を上げる前の船には、別の顔がある。誰もがカシラの背中を見て、次に自分の手を見る。
刃を持つ手。縄を握る手。帆を待つ手。
そういう手が、がらの悪い男の集まりではなく一つの船になる瞬間があった。
「左の護衛が早い」
俺は帆柱の影で言った。
「右は鈍い。舵が重い。あっちから剥がせる」
セルジオ・ヴェントラが、指先の火を細く潰した。
火は消えない。赤い筋になって、風の形を示す。あいつはそれを見て、煙草の吸い殻でも噛むみたいに舌を鳴らした。口は粗い。頬は痩せている。目だけが、いつも計算している。
「右を止める。左は追わせる。商船は真ん中に残る」
「帆は焼きすぎるな」
カシラが言った。
「分かってる。金を灰にする趣味はねえ」
「人がいたら」
セルジオの手が一拍止まった。
「その時は、その時だ」
その言い方が、俺は嫌いだ。
だがカシラは、そこで責めなかった。責めるより先に船を動かす人だ。怒りを先に置けば、海では間に合わない。カシラはそれを知っていた。
「ヴェスタ」
「へい」
「腹を見ろ」
「見ます」
「無理に食うな。お前は船の目だ」
その言葉が、背中から胸へ入った。
船の目。
俺は、そう呼ばれるのが好きだ。
好きだと言ったことはない。言ったら負けみたいな気がした。けれどカシラの声で役目を渡されると、俺はいつも少しだけ足元が軽くなる。
それは褒美じゃない。役目だ。だが俺には、褒美より重かった。
家族というものを知らなかった俺は、たぶんそういうものを全部同じ箱へ入れていた。飯を食わせてもらうこと。名を呼ばれること。船の一部として数えられること。
カシラは優しくしすぎない。
だから、余計に効いた。
「旗は」
俺が訊くと、カシラは前だけを見た。
「上げろ」
畳まれていた布が解かれる。
青地に黄色まだら。
夕暮れの風を受けて、馬鹿みたいな色が一気に空へ立った。
踊るナマズの旗だ。
船の上の男たちが吠える。下品な声だ。母親に聞かせるもんじゃない。生きている母親がいる奴がどれだけいたかは知らないが、とにかく聞かせるもんじゃなかった。
だが、足は乱れない。
舫いも、索具も乱れない。短剣の位置も、誰も間違えない。馬鹿みたいに吠えながら、手だけは仕事をしている。
白羊の尾の護衛船が乱れた。
ふざけた旗を見たからじゃない。
あの旗を見て、生きて戻った船乗りの話を知っていたからだ。
踊るナマズは、綺麗な名前じゃない。
けれど海の上で名前が残るには、理由がいる。逃げ足。襲い方。引き際。何を奪い、何を奪わないか。そういうものが噂になって、旗より先に敵の腹へ届く。
「左が針路を寄せるぞ」
見張り台から声が落ちた。
「寄せさせろ」
カシラが返す。
「噛ませるな。歯だけ見せろ」
舵の男が短く笑った。
「歯だけなら得意ですぜ」
「噛むのは合図してからだ」
下品な返事が返る。
それでも船は静かに傾いた。帆が一枚だけ角度を変え、船腹の水音が低くなる。護衛船にこちらを追わせる。追わせて、商船から少しだけ剥がす。慌てた護衛は、守りたいものの横腹を開ける。
俺はその開き方を見ていた。
白羊の尾の船員が右往左往している。だが甲板の騒ぎ方が、金貨や香辛料を守る商船のものじゃない。荷を見ない。船倉口を見る。船長の顔を見る。逃げ道を見る。
守る者がある船は、積み荷を庇う。
隠す者がある船は、穴を庇う。
白羊の尾は、穴を庇っていた。
「カシラ」
「見えてる」
返事は早かった。
それだけで、俺の胸は軽くなる。俺が見たものを、カシラも見る。見ていなければ、俺の声で見る。そこに疑いがない。
あの頃の俺は、それを信頼と呼ぶことを知らなかった。
ただ、腹の底で温かくなるものがあった。
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セルジオの火が走った。
火は矢みたいに飛ばない。波の上も跳ねない。帆の端へ細く絡み、索具だけを噛み切る。右の護衛船の白い帆が、破れた喉みたいに風を吐いた。
燃え上がらない。沈まない。ただ、走れなくなる。
あれがセルジオの嫌なところだ。
殺す火より、殺さず止める火の方が難しい。奴はそれを分かっていて、涼しい顔でやる。粗野な口の奥に、整った術式が沈んでいる。そこが腹立たしい。
「相変わらず嫌な火だな」
俺が言うと、セルジオが笑った。
「褒めるな」
「褒めてねえ」
「なら黙って飛べ」
「言われなくても」
俺は帆桁へ足をかけた。
「乗れ ── 《疾風走り / Wind Stride》」
風が足裏へ噛む。
甲板の板が遠くなる。索具が近くなる。俺は船の揺れを蹴り、帆柱の横を走った。下では団員たちが鉤縄を投げている。左の護衛がこちらへ寄る。白羊の尾の甲板から、弓手が三人顔を出した。
「散れ ── 《飛刃乱風 / Whirling Throw》」
短剣が五本、風に乗って散った。
一本は弓を弾く。一本は手首を裂く。一本は操舵の男の帽子を飛ばした。残り二本は甲板へ刺さる。殺すためじゃない。顔を上げさせないためだ。
「斥候頭が行ったぞ」
誰かが下で笑った。
「遅れた奴は飯抜きだ」
「それはカシラに言え」
「言えるか馬鹿」
声が跳ねる。
俺は笑わなかった。
船足がまだ重い。白羊の尾の腹は、風の上でも沈んでいる。甲板の人数は少ない。少なすぎる。護衛をつけた商船なら、見せる人数を増やす。怯えた商船なら、余計にそうする。
あの船は、見せたくないものを下に押し込んでいた。
商船の甲板へ飛び移った瞬間、甘い匂いが鼻へ来た。
薬草だ。
眠らせるための甘い草。腐りかけの水を隠す匂い。人の汗を消すための香り。高い荷を運ぶ船にしては、妙に生臭い甘さがある。
「腹にいる」
俺は叫んだ。
「カシラ、船倉だ」
白羊の尾の船長らしい男が、甲板の奥で怒鳴っていた。
「火を入れろ。下を開けるな」
その言葉で、俺の体が先に動いた。
考えるより早く、足が板を蹴っていた。
甲板の上は、狭い。
海の上の戦いは広く見えて、実際には足一つ分の取り合いになる。樽。縄。倒れた帆布。血で滑る板。そこへ敵味方の足が入る。風を読むより先に、踏んでいい板と踏んだら死ぬ板を読む。
俺は白羊の尾の甲板を一度だけ見渡した。
船倉口までの道。船長までの距離。弓手の残り。護衛船から飛んでくる鉤縄。セルジオの火が届く範囲。カシラが踏み込む余地。
全部が一息で入る。
入らなければ、斥候頭なんて名乗れない。
「左、舷側を空けろ」
俺は叫んだ。
「カシラが入る」
「へい」
ナマズの一人が敵を押し込む。もう一人が滑車の綱を切った。垂れた縄が敵の足に絡む。罵声。転ぶ音。そこへ俺が走る。
殺すためじゃない。
道を作るためだ。
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白羊の尾の用心棒は、商船員の顔をしていなかった。
刃を抜くのが早い。目が荷ではなく、人を数えている。こいつらは守っているんじゃない。隠している。
曲刀を抜く。
俺の曲刀は、カシラのアズリウムじゃない。普通の鋼だ。海で錆びるし、手入れをしないとすぐ機嫌を悪くする。けれど俺の手には馴染んでいた。安い刃には安い刃の、遠慮のなさがある。
一人目の刃を受ける。重い。
足をずらし、肩で流す。二の太刀で短剣を抜き、相手の太腿へ入れる。倒れた男の向こうで、火種を持った奴が船倉口へ走った。
「逸らせ ── 《風払い / Windward Guard》」
弓矢が風に流れる。
俺は甲板を蹴った。
「火種持ちを止めろ」
団員が二人、右から入る。
「船倉口を開ける。縄を寄越せ」
「積み荷は」
誰かが言った。
俺は睨んだ。
「後だ」
自分の声が思ったより低かった。
船倉口の鍵は外から落とされていた。鉄の棒が二本。内側から開けられないよう、わざわざ重いものを噛ませてある。普通の荷に、そんなことはしない。
「楔を抜け」
「硬えぞ」
「硬いなら折れ」
団員が悪態をつきながら棒へ鉤をかける。敵が寄る。俺は短剣を投げ、膝へ入れる。殺すより倒す。倒すより道を開ける。
その方が早い。
船倉口が開いた。
甘い匂いが濃くなる。
階段を降りる。
船倉の空気は、外より重かった。甘い薬草の匂い。古い汗。乾いた喉の音。板が軋む音の下に、人が息を殺している重さがあった。荷の匂いじゃない。腹を空かせた人間の匂いだ。
樽の奥に、縄で繋がれた若い男たちがいた。
漁師だ。
手を見れば分かる。網で切れた指。潮で硬くなった掌。爪の間の黒い汚れ。俺が昔、持っていた手と同じだ。
膝を抱えた小さな子もいた。
年は十か、少し下か。
声を出さないように、自分の口を両手で押さえている。
俺は一瞬だけ、息を忘れた。
海の上で息を忘れるのは悪い癖だ。けれど忘れた。若い漁師の手が見えたからだ。縄で擦れた手。網で切った跡。俺が昔、どこかの小舟で握っていた手と同じに見えた。
「生きてるか」
若い漁師の一人が頷いた。
声は出ない。
「水は」
首を振る。
喉が腫れている奴もいた。目が焦点を結ばない奴もいた。薬草で眠らされていたのか、揺れに酔ったのか。ただ水を抜かれたせいか。全部かもしれない。
「火を入れられる。動ける奴は動け。動けねえ奴は、俺が引く」
小さな子が俺を見た。
怖がっている。
そりゃそうだ。
俺は青と黄色の馬鹿みたいな布を額に巻いた海賊だ。助けに来た顔なんてしていない。刃も持っている。血もついている。
「泣くな」
俺は言った。
すぐに違うと思った。
「いや、泣いてもいい。声だけは今は飲め」
子供は頷いた。
俺は縄を切った。
縄は新しかった。
潮で硬くなった古縄じゃない。港で買ったばかりの、まだ油の匂いが残る縄だ。人を縛るために用意されたものだと、触っただけで分かる。手首を傷つけすぎない太さ。逃げようとすれば皮を持っていく締まり方。
胸の奥が冷えた。
怒りじゃない。
怒りは後から来る。最初に来るのは、冷えだ。冷えたまま手を動かさないと、人は助からない。
「何人だ」
俺は若い漁師に訊いた。
男は唇を動かした。
声にならない。
指を立てる。
三本。
それから、奥を指した。
樽の陰にもう一人いた。片腕が不自然に曲がっている。足元には、空の水袋が転がっている。そいつの隣で、年かさの男が歯を食いしばる。たぶん、動けない者を隠していた。
「置いていかねえ」
俺は言った。
誰に言ったのかは分からない。
若い漁師が、そこで初めて俺をまともに見た。
海賊を見る目じゃなかった。
助けを信じた目でもない。
ただ、信じるしかない場所に追い込まれた人間の目だ。
その目は重い。
刃より重い。
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甲板へ戻ると、火の匂いが強くなっていた。
白羊の尾の船長が船倉口の横で叫んでいる。喉が潰れかけているのに、命令だけはまだ高い。
「下は積み荷だ。焼け。証文も消せ」
その言葉を聞いたセルジオが、こちらを見た。
奴の目は、先に火を見る。次に金を見る。最後に人を見る。
「カシラ、時間がねえ。積み荷を出してる暇は」
言い終わる前に、カシラの声が落ちた。
「人を積み荷と呼ぶな」
甲板の音が止まる。
一瞬だけ、波まで黙った気がした。
セルジオの顔は動かない。けれど火は揺れた。
あの火が揺れたことを、俺は覚えている。
セルジオが怯えたわけじゃない。悔いたわけでもない。ただ、カシラの線に触れた。触れたものが切れる前の、一瞬の震えだ。
「……敵の言い方を拾っただけだ」
「拾うな」
カシラは前へ出た。
腰のアズリウム曲刀が抜ける。
夕暮れの光を吸った刃は、青でも銀でもなかった。海の底で光る魚の腹みたいな色だ。刃が動くたび、周りの空気だけが少し冷たくなる。
「金は後だ。息してる奴を先に出せ」
その命令で、ナマズたちが動く。
文句を言う奴はいない。言いかけた奴はいたかもしれない。だがカシラの背中の前で、言葉は喉へ戻る。
俺も動いた。
船倉から若い漁師を引き上げる。団員へ渡す。縄を投げる。小さな子を抱えた男がよろける。俺はその肩を掴む。焦るな、と言いかけて飲み込んだ。
焦らない方がおかしい。
「ナマズの船へ渡れ。落ちるなよ」
「あんたら、海賊じゃ」
「そうだよ」
俺は短く言った。
「だから走れ」
甲板の向こうへ声を飛ばす。
「右舷、縄を二本。子供を先に渡せ。若い漁師は立てる奴から手伝え」
「へい、斥候頭」
「短剣を抜くな。怖がらせる」
そう言うと、団員の一人が黙って刃を鞘へ戻した。
俺の言葉で人が動く。
それも、カシラが俺に渡したものだ。
背後で刃が鳴った。
振り返る。
カシラが船長の護衛と斬り合っていた。
斬り合いというより、終わらせていた。
敵の長剣が振られる。カシラの曲刀が受ける。刃が滑る。次の瞬間、敵の手首から力が抜けた。深く斬りすぎない。殺すより早く、戦えなくする。
だが船長が短銃を抜いた。
火花。
「カシラ」
俺は叫んだ。
「逸らせ ── 《風払い / Windward Guard》」
風が弾を横へ押す。
完全には止まらない。弾はカシラの肩の布を裂き、後ろの樽を割った。
カシラは振り返らなかった。一歩だけ前へ出る。
アズリウムの曲刀が、船長の短銃を持つ手を叩き落とした。次の一拍で、柄が鳩尾へ入る。船長は声もなく膝をついた。
速いのに、荒れていない。
カシラの刃は、怒りで走らない。必要な分だけ走る。俺がいくら風を読んでも、あの間合いだけはまだ読めなかった。人の足がどこへ逃げるかは分かる。けれどカシラがどこまで踏み込むかは、いつも最後まで分からない。
「証文を押さえろ」
カシラが言った。
「生きてる奴もだ」
その声を聞いた時、胸の奥が熱くなった。
この人は、金を捨てる。でも船を捨てない。船の中にいる人を、物として数えない。
俺はその背中を見ていた。
見ている暇なんてなかったのに、見ていた。
たぶん、その瞬間も俺は家族を勘違いしていた。守られることじゃない。命じられること。同じ線の内側に立たされること。
俺にとって、それは家族にかなり近かった。
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火が船倉へ落ちた。
敵の誰かが投げた油壺だ。床を舐めた火が、薬草の袋へ移ろうとする。甘い匂いが一気に苦くなった。船倉に残った人々がざわめく。
セルジオが舌打ちした。
「面倒な燃え方しやがって」
奴の火が、階段の上から降りた。
敵を焼く火じゃない。燃え広がる火の首を掴む火だ。赤い線が床を這い、油の上で細く輪を作る。燃えようとする火が、その輪の中で縮んでいく。
「斥候頭」
セルジオが叫ぶ。
「三十数える間だけ止める。遅れたら焼けるぞ」
「三十もありゃ十分だ」
「お前の十分は信用ならねえ」
「火を信用しろよ」
「俺の火だ。信用してる」
嫌な奴だ。だが有能だ。
俺は船倉へ飛び込む。
「動ける奴は前へ。動けねえ奴を担げ。子供を先に出せ」
若い漁師が一人、小さな子を抱えた。足が震えている。船の揺れのせいじゃない。
「名前は」
俺は訊いた。
「ニーノ」
「よし、ニーノ。あの青と黄色の馬鹿みてえな船が見えるか」
子供は頷いた。
「あそこまで行け。怖けりゃ旗だけ見てろ。あれが一番馬鹿だから」
子供の口元が少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
その瞬間、俺はなぜか助かった気がした。
「散れ ── 《飛刃乱風 / Whirling Throw》」
短剣を投げる。
船倉の奥で油壺を持っていた男の手から、壺が落ちる。割れる前に団員が蹴り飛ばした。火の輪の外へ転がり、セルジオが罵声を上げる。
「馬鹿、そっちへ蹴るな」
「うるせえ。燃やすな」
「燃やしてねえ。止めてる」
「どっちでも怖えんだよ」
こんな時でもナマズはうるさい。
だから、まだ大丈夫だと思えた。
残り十を数える頃には、船倉の奥の縄はほとんど切れていた。歩ける若い漁師が、歩けない男を肩にかける。ニーノを抱えた男は、片足を引きずりながらも階段へ向かう。
「顔を上げるな」
俺は言った。
「煙を吸う。俺の背だけ見てろ」
俺の背なんて、たいした目印じゃない。
けれど他に言えるものがなかった。
船倉を出た瞬間、海風が顔を叩いた。夜の手前の風だ。火と血と薬草の匂いを、少しだけ薄める。
「渡せ」
ナマズの団員が手を伸ばす。
「落とすなよ」
「落としたら拾う」
「最初から落とすな」
そう言いながら、男はニーノを抱き取った。刃物だらけの腕なのに、手つきだけは妙に柔らかかった。
俺はそれを見て、また少しだけ胸が変な具合になった。
ナマズ穴の連中は、優しい人間じゃない。
だが、カシラの線の内側では優しくないまま人を落とさない。
甲板へ上げられた漁師たちは、すぐには立てなかった。
膝が折れる。息を吐く。水を求めて手を伸ばす。誰かが革袋を渡そうとして、カシラに止められた。
「少しずつだ」
「喉が」
「だから少しずつだ。溺れさせるな」
その言い方が、ひどくカシラらしかった。
優しい言葉はない。
けれど死なせないための手順はある。
ナマズの団員が、言われた通り水を一口ずつ含ませる。さっきまで敵の鼻を折っていた手が、今は革袋の口を押さえていた。手つきは不器用だ。何度もこぼす。こぼしながら、それでも急がせない。
ニーノは旗を見ている。
若い漁師の一人が、その肩へ手を置いていた。自分も立つのがやっとのくせに、子供の肩だけは離さない。
俺はそれを見て、奥歯を噛んだ。
こういうものを積み荷と呼ぶ奴がいる。
そう思うと、冷えが遅れて熱になった。
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白羊の尾から人を移す頃には、空はほとんど夜に沈んでいた。
俺たちは積み荷の半分も取れなかった。
香辛料の袋はいくつか。薬酒の箱を少し。染料の樽は重すぎて捨てた。証文と帳簿はカシラが押さえ、船長と中核の男たちは縛った。
金勘定だけなら、ひどい仕事だ。
団員の一人が、樽を見て唸った。
「あれだけで一月は飲めたな」
カシラが見た。
「酒が欲しけりゃ港で買え」
「金が」
「息してる奴を海へ捨てて買う酒は、まずい」
団員は黙った。
俺はそのやり取りを横で聞いていた。
カシラは綺麗な人じゃない。
奪う。殴る。斬る。嘘もつく。敵に情けをかけすぎる人でもない。縛った船長を海へ放らなかったのは、帳簿ごと売れる相手がいたからかもしれない。
それでも、線がある。
その線の内側に入れてもらうことが、俺には家族に似ていた。
ナマズの船へ移した人々は、甲板の端で固まっていた。若い漁師たちはまだ立てる。小さな子は、ニーノという名前を俺に教えた後ずっと旗を見ていた。
黄色まだらの旗。
夜の風を受けて、馬鹿みたいな布が揺れている。
怖いはずだ。それでも、ニーノは目を逸らさなかった。
「怖えだろ」
俺が言うと、子供は小さく頷いた。
「俺も最初は怖かった」
「あんたも?」
「ああ。今でもたまに怖え」
「海賊なのに」
「海賊だって怖えよ。怖くねえ奴から先に沈む」
それはカシラの言葉だ。
勝手に使った。使ってから気づいた。少しだけ、嬉しかった。
「あの人も怖い?」
ニーノがカシラを見た。
「怖い」
俺は即答した。
「でも、怖いだけじゃねえ」
「じゃあ、何」
言葉に困った。
カシラは父親じゃない。親分と呼ぶには近すぎる。家族と言うには、俺の方が家族というものを知らなすぎた。
「飯を食わせる人だ」
結局、そう言った。
ニーノは少しだけ考えて、頷いた。
子供には、それで足りたのかもしれない。
俺にも、たぶん足りていた。
帰りの海は静かだ。
静かすぎて、かえって白羊の尾の船倉の音が耳から離れない。乾いた喉。縄が擦れる音。子供が声を飲む気配。海風がそれを剥がしてくれればいいのに、剥がれないものもある。
セルジオは船尾で帳簿を読んでいた。
火の明かりを指先に灯し、濡れた紙を乾かしながら目を走らせる。口元は不機嫌だ。損の計算をする顔だ。
「そんな顔するなよ」
俺が言うと、セルジオは目を上げた。
「お前は計算をしなさすぎる」
「してるさ。生きてる奴は一、死んだ奴は戻らねえ」
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
セルジオは鼻で笑った。
「分かりやすいものほど高くつく」
「カシラに言え」
「言ったら殴られる」
「分かってるじゃねえか」
俺たちはそこで黙った。
嫌いな奴でも、同じ船に乗っている時は同じ方向を見る。少なくとも、その夜のセルジオは火を消さなかった。船倉の火を止め、濡れた帳簿を乾かす。救った連中が寒がれば、帆布の端に小さな火を置いた。
優しさじゃない。たぶん、効率だ。それでも火は暖かかった。
救った漁師たちは、火を見ても最初は身を縮めた。
無理もない。あの船では、火は証拠を消すものだ。人を黙らせるものだ。白羊の尾の船倉で見た赤と、セルジオの指先にある赤は色だけなら同じに見える。
けれどニーノは、しばらくして両手を火へ近づけた。
セルジオは何も言わない。
子供を慰める顔なんて、あいつには似合わない。ただ、火を少しだけ低くした。熱が強すぎないように、帆布へ燃え移らないように風で消えないように。
俺はそれを見て、少しだけ腹が立った。
嫌な奴は、嫌な奴のまま役に立つ。
その事実もまた、船の一部だ。
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ナマズ穴へ戻った時、夜はすっかり岩礁の上に降りていた。
洞口の黒い口が開く。吊り灯の火が見える。水が船腹を叩く。濡れた桟橋に舫いが飛び、男たちが降りる。朝と同じ穴なのに、帰ってくる時だけは少し違って見えた。
腹を空かせた獣が、口を開けて待っているみたいに見える。
下品な穴だ。
酒臭い。湿っている。壁には馬鹿な落書きがある。水場では誰かがまた裸で騒いでいる。救ったばかりの人間を連れて帰ってきても、穴の下品さは変わらない。
けれどその夜、ナマズ穴の大鍋は最初に助けた連中へ回った。
豆と魚の塩煮。薄い粥。水。固いパン。
豪勢なもんじゃない。けれど、先に器を渡された奴は生きている。
若い漁師たちは、器を両手で持って黙って食った。ニーノは最初、匙を持つ手が震えていた。飯番の男が「熱いぞ」と言うと、子供は小さく頷いた。
周りのナマズたちは相変わらずうるさい。
「俺の短剣が一本ねえ」
「またかよ、ダリオ」
「今日は本当にねえ」
「船長の尻に刺さってんじゃねえの」
笑い声が洞穴を揺らす。
助けられた連中は、その笑いにびくつく。けれど飯は食う。食えるなら、まずはそれでいい。ナマズ穴では、泣くのも怒るのも後だ。腹に何か入れてからにしろと決まっていた。
年かさの漁師が、器を置いて頭を下げようとした。
カシラは手を上げて止めた。
「礼は港で言え。ここで頭を下げるな」
「だが」
「ここは海賊の穴だ。礼儀正しくする場所じゃねえ」
そう言われて、漁師は困った顔をした。
飯番が横からパンをもう一切れ置く。
「食え。頭を下げるより腹へ入れろ」
その言い方に、漁師の肩が少しだけ落ちた。
たぶん、泣きそうに見えた。
ナマズ穴では、そういう顔も見ないふりをする。
見ないふりをして、器だけをもう一つ置く。
それがナマズ穴で許された、いちばん不器用な礼だった。
綺麗な言葉より、そっちの方がこの穴には似合っていた。
カシラは桟橋の端に立っていた。
肩の布は裂けている。血は少しだけ。大した傷じゃないと言う顔だ。実際、大した傷じゃなかったのかもしれない。けれど俺は、その裂け目を見るたびに腹が冷えた。
「見るな」
カシラが言った。
俺は顔をしかめた。
「見てません」
「嘘が下手だ」
「カシラほどじゃない」
カシラは笑った。
それだけで、また胸の奥が変な具合になる。
「覚えたか」
「何をです」
「人を積み荷と呼ぶな」
俺は肩をすくめた。
「耳にタコができるくらいには」
「ならいい」
カシラはそれ以上言わなかった。
その横に立つことを、カシラは止めない。
船の上でも、桟橋でも同じだ。ナマズ穴の飯の匂いの中でも変わらない。近づきすぎれば殴られる。離れすぎれば呼ばれる。俺の立つ位置は、いつもカシラの声が届く場所にあった。
説教はない。抱きしめることもない。頭を撫でることもない。
ただ、隣に立つことを許す。
俺にはそれで足りていた。
黄色まだらの旗は、まだ濡れていた。
洞穴の風が吹くたびに、布の端が少しだけ揺れる。昼の海で立った時より小さく、けれど確かに踊っている。
その夜、ナマズ穴は騒がしかった。
酒臭くて、下品で笑い声が途切れない。
けれど船倉から出した連中だけは、しばらく静かに飯を食っていた。
俺はカシラの横で、それを見ていた。
船の一部として。家族みたいなものの一部として。
黄色い旗は、夜の洞穴でまだ踊っていた。




