閑話休題:踊らない朝のナマズ
ナマズ穴の朝は、潮が引いてから始まる。
朝と言っても、太陽はもう岩礁の肩を越えていた。無人島の外側だけを見れば、そこはただの黒い岩の塊に見えた。海鳥が糞を落とし、波が白く砕ける。風が岩肌の穴を鳴らす。人が住む場所には見えない。
けれど潮が引くと、岩の腹に低い口が開く。
そこが俺たちの家だ。
踊るナマズ海賊団の本拠地。正式な名なんざない。船乗りの噂では潮裏の洞だの、黄色い巣だのと呼ばれていたらしい。けれど俺たちはだいたい、ナマズ穴と呼んでいた。
下品で、湿っていて酒臭い。どうしようもなく俺たちの穴だ。
洞口を抜けると、海蝕洞の奥で水が暗く光る。岩壁の下半分は潮に舐められて黒く濡れ、上半分には吊り灯が並ぶ。古い油の匂い。干しかけの網。積み上げた木箱。割れた樽。盗品の布。修理中の帆。
青地に黄色まだらの布が、あちこちに垂れていた。
あの色は、晴れた海の上だと妙に紛れる。ふざけた色だが、カシラがそう言った。だから、みんなそう信じていた。信じているうちに、本当にそう見えてくる。海の上では、思い込みも技のうちだ。
桟橋には俺たちの船が腹を休めていた。
大きすぎず、小さすぎない。逃げ足が速く、腹に物も人も詰める。船首に彫られたナマズは、口だけが馬鹿みてえにでかかった。昼の光がまだ洞の奥まで届かないから、その顔は水の反射でゆらゆら踊って見える。
そのくせ、朝のナマズは踊らない。
踊る前の船は、いつも獣みたいに静かだ。
洞穴の奥では男たちが息をしていた。寝床の布に染み込んだ汗。酒をこぼした板。潮で硬くなった革鎧。皮脂のついた帯。魚の骨。消えかけた火。そういうものが全部、船の腹の中みたいに温まっている。
外の海は広い。
だが俺たちの朝は、いつもその狭い腹から始まった。
ナマズ穴は、誰かの家みたいに人を迎えない。
入ってきた奴をまず濡らす。次に臭わせる。それから笑いものにする。それでも残った奴だけが、飯の鍋の前に座れる。俺もそうしてこの穴に馴染んだ。馴染んだ頃には、潮の匂いと男の匂いの境目が分からなくなっていた。
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水場の方から、低い笑い声が響いた。
濡れた足音。桶の倒れる音。誰かが罵った。別の誰かが笑った。ナマズ穴の水場は、岩を削っただけの広い窪みだ。天井から落ちる淡水を溜めて使っていた。洗うのは体だけじゃない。革帯も、刃も洗う。血のついた布も、たまに盗んだ銀皿までそこで洗う。
もちろん、まともな場所じゃない。
腰布一枚で歩く奴がいる。腰布すら結び忘れたまま、股間を桶で隠した気になっている奴もいる。肩も背も、日に焼けた皮膚が湿って光っていた。剃らない髭。古い傷。塩で白く浮いた髪。水を浴びた胸毛。腿の内側に残った砂。
岩壁にもたれて、一人で慰めを済ませている馬鹿もいた。本人は隠しているつもりだろうが、あの姿勢で何を隠せると思っていたのか。今でも分からねえ。周りも周りで、見て見ぬふりをするでもない。今日の飯の味みたいに雑に受け流している。
少し奥では、二人組が肩を寄せていた。
何をしているかを、わざわざ言う奴はいない。言わなくても分かる。片方は壁に背をつけ、もう片方は濡れた髪を後ろへ払って笑っている。桶が足元で倒れ、淡水が岩の窪みに広がっていた。二人とも隠す気がない。見せたいわけでもない。ただ、ここではそういうことも飯前の欠伸と同じ場所に置かれていた。
「おい、後で俺の番も取っとけよ」
誰かが言った。
「順番札を買え」
「いくらだ」
「酒一杯」
「高え」
「じゃあ見張り一回」
「そっちの方が高えだろ」
笑い声が岩壁へ跳ねた。
二人組の片方が、手近な桶を蹴った。水が跳ね、からかった男の脛を濡らす。怒号が上がる。だが本気じゃない。こういう冗談は、ナマズ穴では火打石みたいなものだ。擦ればすぐ火が出る。けれど、燃え広がる前に誰かが足で踏む。
俺はそこを横目で見た。
若い頃の俺は、そういう開けっぴろげさを嫌いじゃなかった。
恥ずかしいとか、慎みとか。そういう言葉はこの穴では潮に流される。
体は体だ。欲は欲だ。
眠ければ寝る。腹が減れば食う。相手がいるなら笑って肩を貸す。いなければ一人で済ませる。
ただ、下品と無秩序は違う。
カシラはそこだけ厳しかった。嫌がる奴に手を出したら指が折れる。酔った勢いで泣かせたら、次の日の見張りは一番寒い岩棚だ。金で買った相手の名前を笑いものにした奴は、一度船から降ろされたことがある。
だからナマズ穴の水場は、汚いまま妙に線があった。
誰かの肌に触れる手と、船の縄を握る手は同じだ。力加減を間違えた奴は、どちらでも信用されない。
「朝っぱらから元気だな」
俺が言うと、そいつは片手を上げた。
「斥候頭、見張りか?」
「見張りなら、もう少しマシなもんを見る」
周りがどっと笑った。
奥の二人組まで笑う。片方が顔だけこちらへ向けて、悪びれもせずに顎を上げた。若い甲板員がそれを見て、鼻を鳴らす。
「斥候頭、今日はあっちの見張りも替えますか」
「替えたら船が出ねえ」
「出ますよ。二人とも足は速い」
「腰は遅そうだ」
また笑いが起きた。
俺も笑った。若かったし、そういう匂いに慣れすぎていた。男の体と汗と欲が、洞穴の湿気に混じっている。ナマズ穴じゃ、それは飯の湯気や酒の匂いと同じものになる。気まずがる方が負ける。
ただ、見慣れているのと何も感じないのは別だ。
濡れた肩が動く。腰の筋が伸びる。膝の裏に水が伝う。誰かが水をかぶるたび、皮膚の熱と潮の匂いが立つ。そういうものは目に入る。入ったものは、体のどこかで一度だけ熱になる。
けれど斥候頭の仕事は、熱を抱えてぼうっとすることじゃない。
俺は目の使い方を覚えていた。
欲に向ける目と、仕事に向ける目は違う。前者は引きずる。後者は拾う。濡れた肩を見るなら、そこについた古傷を見る。腰の動きを見るなら、次に甲板で踏める足かどうかを見る。そうやって俺は、若い体を若いまま仕事へ戻していた。
「昼の見張りを替われ。西の岩棚に二人だ」
俺は水場の入口で足を止めずに言った。
「まだ洗ってねえ」
「その臭え体のまま行け。敵の方が先に逃げる」
また笑いが起きた。
この穴は下品だ。どうしようもなく下品な場所だ。けれど、不思議と腐ってはいなかった。
水場の隣では、飯番が大鍋をかき混ぜる。豆と魚の塩煮。昨日の残りの固いパン。酒を入れすぎた奴のために薄い粥も作っていた。怪我人の寝床では、包帯を巻く手がある。刃物台では、短剣の刃が順に研がれる。帆布を縫う針も止まらない。
女を買った話を大声でする奴もいれば、男に抱かれた方が寝つきがいいなどと笑う奴もいる。賭けの札には、次の見張り番だの酒樽の栓だのが並ぶ。誰かの下着まで混じる。
買った話にも、妙な具体がある。
どこの港の二階が安い。どこの裏通りは酒を薄める。どの店の男は膝に乗せる前に靴を脱がせる。どの女は客より先に飯を食う。どの年増は金を数える手が早すぎる。どの若いのは笑い方が下手だ。そういう話を、連中は魚の値段みたいに並べる。
いやらしい話ではある。
だが、ただの自慢だけでもない。港で誰と寝たかは、港で誰に財布を抜かれたかと同じくらい大事な情報になる。酔わせて荷札を盗る店。刃物を預かるふりをして売る店。軍船の下働きが通う店。金持ちの船長が口を滑らせる店。寝床の話は、海の上では航路の話と繋がる。
「東の港の赤い暖簾はやめとけ」
飯番の横で、片目のロッソが言った。
「なんでだ」
「尻まで値段に入ってる」
「いいじゃねえか」
「違う。椅子の話だ。座っただけで銅貨を取られる」
「そりゃひでえ」
「そのくせ酒は薄い」
「最悪だな」
下品な笑いが、また起きる。
水場の二人組は、もう何事もなかったみたいに桶を拾っていた。片方が相手の肩を叩く。もう片方は腰布を結び直し、何食わぬ顔で刃物台へ向かう。さっきまで触れ合っていた手が、次には短剣の柄を確かめる手になる。
それでいい。
ナマズ穴では、体の熱も朝の仕事も同じ場所に置かれる。どちらかだけを綺麗にしまっておけるほど、俺たちは上品じゃない。
水場の奥で、古参が濡れた手を叩いた。
「終いだ。鐘が鳴る前に腰布を結べ」
誰かが不満そうに唸る。
「もう鳴ったのか」
「鳴る前だ。耳まで寝てんのか」
笑いながらも、男たちは動く。
一人で慰めを済ませていた奴は、桶を頭からかぶって息を吐いた。二人で肩を寄せていた連中も、片方は帆桁の方へ向かい片方は砥石の前にしゃがむ。さっきまで熱を持っていた手が、次には縄の湿りを確かめる手になる。
その切り替わりが、俺には妙に好きだった。
欲はある。恥もない。けれど、船が動くとなれば体は戻る。
尻の軽さも口の汚さも、朝の水場では隠されない。だが舫いを外す時に手を抜く奴は、そこで初めて本当に笑われる。ナマズ穴で一番みっともないのは、裸を見られることじゃない。船の前で役に立たないことだ。
新入りは、たいていそこで目を泳がせる。
俺も最初はそうだった。
どこを見ればいいか分からない。どこまで笑えばいいかも分からない。誘いの熱とただの挨拶の境目も読めなかった。
水場で裸に近い男たちが平然と腰を洗う。隣で飯番が鍋をかき混ぜる。その横で港の寝床の値段を話している。
そんな場所に放り込まれると、人間はまず自分の育ちの方を疑う。
だがナマズ穴では、目を逸らしすぎる奴も信用されない。
見たくないものを見ない奴は、波の変化を落とす。人の怪我も見落とす。仲間が無理をしている顔にも気づけない。
だから古参は、新入りが水場でどこを見るかをよく見ていた。
いやらしい意味だけじゃない。
恥じらいが残っているか。怖がりすぎていないか。笑いに合わせようとして無理をしていないか。
そういうものが、裸に近い場所ではすぐ出る。
「お前、昨日の港で逃げたろ」
誰かが、鍋の横で若い甲板員を突いた。
「逃げてねえ」
「あの金髪の姐さんに腕を掴まれた瞬間、顔が白くなってた」
「高かったんだよ」
「値切れ」
「値切れる顔じゃなかった」
「じゃあ払え」
「払える金がなかった」
「最初から負けてんじゃねえか」
また笑いが起きる。
別の男が言った。
「俺はあの店の親父が怖え。客より先に服を見る」
「服?」
「金か刃か逃げ足だ。あいつは客を寝床へ案内する前に、出口までの距離を測ってやがる」
「いい店じゃねえか」
「いい店だ。だから高え」
港のそういう話は、全部が猥談にはならない。半分は財布の話だ。半分は危険の話だ。残りの半分は、自慢と嘘だ。数が合わねえと言うなら、海賊の勘定なんてそんなものだ。
俺はそういう話を聞きながら、誰がどこの港を知っているかを覚える。
南の港で男を買う奴は、たいてい酒場の裏手まで知る。女の店へ通う奴は、香油や布の値に詳しい。年増の話を好む奴は、長く生き残っている店を知っている。若い相手の話ばかりする奴は、だいたい金を無駄にする。笑い話の中に、航路より役に立つ地図が混じることもあった。
それに、買った話は体の話だけで終わらない。
朝方に追い出された奴は、どの宿の裏戸が早く開くかを知っている。金を払わず逃げた馬鹿は、どの路地に犬がいるかを覚えて帰ってくる。恋人面をして長居した奴は、港役人の愚痴まで聞いてくる。
生々しい話ほど、嘘を混ぜにくい。
誰の息が酒臭かった。誰の手が震えていた。どの部屋の壁が薄かった。そういうどうでもいい細部の中に、たまに船の名や積み荷の値段が落ちている。
その日の朝も、誰かが港でもらった青い紐を手首に巻いていた。
誰も茶化さなかった。
船に乗る前の迷信みたいなものだ。
そういう印は笑いの種にもなる。だが海へ出る前だけは少し違う。戻る場所を一つ余分に持っている奴は、死に急ぎにくい。
ナマズ穴では、色っぽい自慢話を最後まで笑って聞ける奴ほど意外と耳がいい。
セルジオはそういう話を嫌がる。
「臭え情報だ」
あいつは前にそう言った。
俺は言い返した。
「臭え方が残るだろ」
紙に書いた情報は濡れれば終わる。
だが、誰がどの店で騙されたかは穴に残る。どの裏口から逃げたかも残る。どの寝床で船の名を聞いたかも、笑い話になって残る。
ナマズ穴の記録は、だいたい酒と汗と欲に濡れていた。
その汚さを、俺は嫌いになれなかった。
それでも、舫いは二度見る。飯は全員に回る。怪我人は寝かせる。見張りは立つ。
カシラがそう決めていた。
だからナマズ穴は、穴のまま家でいられた。
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「おい、俺の短剣が一本足りねえぞ」
桟橋の手前で、揉め声が上がった。
見ると、赤髭のダリオが濡れた腰布のまま立っていた。若い甲板員の胸ぐらを掴んでいる。甲板員の方も引く気がない。片手にパンを持ったまま、顎を突き出している。
「知らねえよ。お前が賭けで負けて置いてったんだろ」
「俺が短剣を賭けるか」
「昨日は靴を賭けた」
「靴と短剣は別だ」
「どっちもなくすなよ」
周りが笑う。
俺は溜息をついた。
「ダリオ」
「あ?」
「その短剣なら、刃物台だ。お前が酔って錆びさせたから、オリーヴォが研いでる」
ダリオの手が止まった。
「……そうか?」
「そうだ。胸ぐらを掴む前に、自分の頭を探せ」
甲板員が吹き出した。
ダリオの眉が動く。まずい、と思うより先に低い声が洞穴の奥から来た。
「黙れ」
音が止まった。
波の音だけが残る。
カシラが桟橋の奥から歩いてきた。まだ上着の前を開けていたが、腰の曲刀はもう吊っている。深い藍と銀の間みたいな刃。アズリウムの片手曲刀だ。鞘に収まっていても、その重さは分かった。
背は飛び抜けて高いわけじゃない。けれど、肩が前に出るだけで周りの男たちが少し下がる。日に焼けた肌。短く刈った髪。笑えば気安い。怒れば、海の上の嵐より早い。
俺たちは本名を知っていた。
けれど、誰もそう呼ばなかった。
カシラはカシラだ。
「飯を食う手と、刃を研ぐ手は止めるな」
カシラはダリオを見た。
「短剣一本で騒ぐなら、今日は短剣なしで乗れ」
「いや、カシラ。それは」
「嫌なら黙って研ぎ場へ行け」
ダリオは胸ぐらから手を離した。
「へい」
「お前も笑うな」
甲板員がパンをくわえたまま背筋を伸ばした。
その一声で、洞穴は別の音になる。
飯番の柄杓が鍋底をこする。砥石が刃を噛む。帆布に針が通る。誰かが腰布を結び直す。水場の笑いは半分に落ち、桟橋の足音は倍になる。さっきまで欲と眠気でだらしなく広がっていた男たちが、船の部品みたいに自分の場所へ戻っていく。
カシラの声は、怒鳴り声じゃない。
けれど洞穴の天井に当たる前に、人の手足へ届く。
下品な穴が、船に戻る。
カシラは俺を見た。
「ヴェスタ」
「へい、カシラ」
「西の見張りは」
「二人替えました。外の風は北東。昼過ぎには少し落ちる。出るならその前がいい」
「鳥は」
「南の潮目に寄ってます。魚群は深い。商船が通るなら、岩礁の外側を大きく取るはずです」
カシラは少しだけ笑った。
俺は、その笑いを見るといつも胸の奥が変な具合になった。
褒められたわけじゃない。頭を撫でられたわけでもない。ただ、聞かれて答える。その答えが船の判断に入る。それだけだ。
けれど俺には、それが十分すぎた。
家族なんてものを、俺はよく知らなかった。だから船の上で役目をもらうことと、飯を分けられることの区別が下手だ。名を呼ばれることも同じ箱に入れていた。
カシラは、それを知っていたのかもしれない。
カシラは誰にも優しくしすぎなかった。
優しくしすぎると、船の上では人が死ぬ。怒鳴りすぎても、人が死ぬ。カシラはその中間を知っていた。飯を食わせ、役目を渡す。間違えたら殴る。その順番を、絶対に逆にしない人だ。
「上へ来い。セルジオが紙の上で船を動かしてやがる」
「紙の上なら、沈まなくていいですね」
「本人に言え」
「嫌ですよ。火をつけられる」
カシラは声を出して笑った。
それだけで、水場の連中が少しだけこちらを見た。カシラが笑うと、ナマズ穴は安心する。俺も同じだ。
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作戦卓は、洞穴の奥の乾いた岩棚にあった。
乾いていると言っても、ナマズ穴基準だ。まともな屋敷の床なら、一日で黴が生える。古い帆布を敷き、その上に海図と木片と石を並べる。島影。潮目。岩礁。標的の推定航路。盗んだ銀杯の底に油を入れ、小さな火がいくつも置かれていた。
火の線が、海図の上を走っている。
セルジオ・ヴェントラは、その火線を指で折り曲げていた。
魔導士と言うには、口が悪い。海賊と言うには、火の扱いが綺麗すぎる。伸ばした無精髭。痩せた頬。片耳の銀輪。目だけが、いつも計算している。
副船長。参謀。火使い。
俺はあの男が嫌いだ。
ただし、有能ではあった。
「遅えぞ、斥候頭」
セルジオは顔を上げずに言った。
「水場の猿どもを見張りに戻してた」
「猿に見張りが務まるなら、お前はいらねえな」
「猿よりは高く登れる」
「そのうち落ちる」
「落ちても風で戻るさ」
セルジオの口の端が少し動いた。笑ったのか、苛立ったのかは分からない。
火線が細く伸びる。
あいつの火は、船乗りの焚き火とは違う。熱いくせに、手つきは冷たい。火がどこへ流れ、どこで曲がるかを分かっている。どこで消えるかも、あらかじめ知っているみたいに動かす。言葉は荒い。けれど火の線だけは、やけに整っていた。
火は小さな蛇みたいに海図を這った。
セルジオの指が動くと、赤い線は帆を避ける。岩礁をなぞり、潮目の外側で止まる。奴は口を開けば海賊そのものだが、火だけは違う場所で教わった顔をしていた。俺はその顔も嫌いだった。
「標的はこの商船だ。船名は白羊の尾。護衛二隻。北西の港から出て、南の交易路へ入る。目録は高級染料と香辛料。薬草と薬酒もある。馬鹿みてえに金になる」
海図の上で、火の点が三つ並んだ。
中心が商船。左右が護衛。火は赤いのに、セルジオの手元だけは冷たく見える。
「護衛は」
カシラが訊いた。
「雇われ兵だな。船足は鈍い。武装はあるが、軍船じゃねえ。正面から殴り合う必要はない。風下から追って、外側の護衛を一隻剥がす。火で帆を舐めて止める。沈めはしない」
「沈めるな」
「分かってる」
セルジオは不機嫌そうに言った。
「沈めたら積み荷が濡れる。俺は金を燃やす趣味はねえ」
カシラは返事をしなかった。
俺は海図を覗き込んだ。
白羊の尾。聞いたことのある船名だ。香辛料を運ぶ商船は、だいたい匂いが強い。染料は樽で積む。薬草は乾き物。薬酒は重いが、目録の量なら船の腹を沈めるほどじゃない。
「喫水は見たのか」
俺が言うと、セルジオが目だけでこちらを見た。
「報告にある」
「報告じゃなくて、見たのか」
火線が一瞬だけ揺れた。
「斥候の小舟が見てる。船足はこの程度だ」
セルジオは木片を動かした。
俺は首を振った。
「その船足なら、腹が重すぎる」
「水樽を積み増したんだろ」
「水なら舳先がもう少し素直に上がる。染料と香辛料なら、風を受けた時に尻が遅れねえ」
「風は読めるもんじゃねえ。計算するもんだ」
セルジオの声は粗い。
だが、言っている中身は紙と術式の言葉だ。火線の角度。船と船の距離。帆の張り。潮の時間。あいつの頭の中には、海を測る物差しが入っている。俺にはないものだ。
だから腹が立つ。
あいつも、俺に腹を立てていた。
「お前の勘は使える」
セルジオは言った。
「だが、勘だけで船を賭ける趣味はねえな」
「勘じゃねえよ。風がそう言ってんだ」
「風が喋るなら、酒場で芸にしろ。稼げるぞ」
「お前の火線よりは笑いが取れる」
「燃やすぞ」
「やっぱりな」
カシラが短く笑った。
その笑いで、口喧嘩は終わった。
カシラは海図に片手を置く。
指の節が太い。爪の間に黒い汚れがある。海賊の頭の手だ。綺麗な書類に判を押す手じゃない。けれどその手が海図に触れると、紙の上の船が本物になる。
「セルジオ、計算は聞いた」
「へい」
「だが海は紙の上だけで動かねえ」
セルジオの眉がわずかに寄った。
カシラは俺を見た。
「ヴェスタ」
「はい」
「お前は腹が重いと言う」
「言います」
「何を積んでる」
俺は答えられなかった。
それが嫌だ。
風は万能じゃない。潮も、鳥も同じだ。船足も、答えをそのままくれるわけじゃない。くれるのは、いつも違和感だけだ。
「分かりません」
俺は言った。
「けど、目録の腹じゃない。甲板の人数も少なすぎる。護衛をつけた商船なら、見せる人数をもう少し増やすはずです。風上に逃げる癖もない。逃げたくないか、逃げられないものを抱えてる」
カシラは頷いた。
「なら、そう動く」
セルジオが舌打ちした。
「作戦を変えるのか」
「変える」
「斥候の鼻でか」
カシラの視線が、セルジオへ動いた。
それだけで、火線が細くなる。
「俺はこいつの鼻も目も買ってる」
洞穴の奥が、少し静かになった。
俺は、何も言えなかった。
団員の前で褒められると、どうしていいか分からない。嬉しい。けれど嬉しがる顔を見せるのは癪だ。特にセルジオの前では。
だから俺は、いつもの顔で肩をすくめた。
「高くつきますよ」
「飯は食わせてる」
「酒が足りねえ」
「仕事してから言え」
カシラはそう言って、海図の上の木片を二つずらした。
「正面から食わねえ。風上を取る。商船の腹を見る。おかしなものがあれば、積み荷より先にそっちを押さえる」
「おかしなもの、ね」
セルジオが火線を引き直す。
「分かったよ、カシラ。火は絞る。帆だけ焼く。腹までは入れねえ」
「それでいい」
「だが、利が減る」
カシラは笑わなかった。
「利は、生きて戻ってから数えろ」
セルジオは黙った。
その沈黙は、従った沈黙だ。
納得した沈黙じゃなかった。
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出航前のナマズ穴は、急に忙しくなる。
さっきまで腰布で笑っていた男たちが、革鎧を着ける。寝床でいびきをかいていた奴が、目を開けるなり刃を掴む。飯番は鍋を火から下ろし、粥を小さな器へ分ける。怪我人にも一杯。船に乗らない奴にも一杯。乗る奴は立ったまま飲む。
下品な穴が、船になる。
俺は甲板へ上がり、帆の縫い目を見た。舫いを二度見る。滑車の軋みを聞く。右舷側の板が少し鳴る。昨日直したところだ。問題はない。
「斥候頭」
若い甲板員が駆けてきた。
「外、潮が引ききりました」
「岩棚は」
「見えています」
「鳥は」
「南です。けど、さっきより低い」
低い。
俺は洞口の方を見た。
風が入ってきている。潮の匂いの奥に、薬草の乾いた匂いが一筋だけ混じった気がした。まだ遠い。標的の船から来るには遠すぎる。だから多分、記憶が先に匂いを作っただけだ。
それでも、体は覚える。
船が嫌なものを抱えている時、風は少し鈍くなる。
それは音にも出る。
空荷の船は軽く鳴る。酒樽の船は腹の底で転がる。染料の船は重いが、諦めが早い。人を隠した船は、鳴らない場所がある。板も縄も帆も動いているのに、そこだけ息を止める。
俺は青地に黄色まだらのバンダナを結び直した。
「帆を急がせろ。出たら風上だ」
「へい」
「あと、ダリオに短剣を返してやれ。短剣なしで乗せたら、あいつは歯で噛む」
甲板員が笑って走っていった。
桟橋でカシラが船に乗る。
その瞬間、誰かが黄色まだらの旗を手に取った。まだ掲げない。あれは戦う時の顔だ。洞穴を出るまでは、船はただの影でいい。
セルジオは最後に乗った。
片手に細い火を巻いている。煙草に火をつけるみたいな軽さで、あいつは火を持つ。けれど、その火は風に煽られても消えない。むしろ風を測るように、細く伸びた。
「斥候頭」
セルジオが言った。
「落ちるなよ」
「落ちたら拾え」
「沈むまで待つ」
「性格が悪い」
「褒めるな」
口は悪い。
だが、セルジオの火はもう帆の端を見ていた。燃やすためじゃない。湿り具合と風の抜けを測るためだ。嫌な奴でも、船を動かす時には使える。ナマズ穴では、それだけで席があった。
カシラが舳先の方へ立った。
「出すぞ」
声が洞穴に響いた。
桟橋の舫いが外れる。船腹が水を押す。洞壁の黒い水が揺れ、吊り灯の火が一つずつ後ろへ流れていく。
ナマズ穴が口を開けた。
外の光が、細い刃みたいに船首へ刺さる。
眩しさに目を細めた時、カシラの声が背中から来た。
「ヴェスタ。風上を取れ」
俺は振り返らなかった。
振り返る必要はなかった。
「へい、カシラ」
洞口を抜ける。
海が開く。
昼前の光は白く、波はまだ荒れていない。北東の風が頬を叩く。帆が膨らむ。船が腹の底で唸る。
遠くに、三つの帆影があった。
中心が商船。左右が護衛。
まだ小さい。細部は見えない。けれど船は、遠くにいても嘘をつく。嘘のつき方で、腹の中身が分かる時がある。
白羊の尾は、目録より重く沈んでいた。
染料の樽でも、香辛料の袋でもない。薬酒の瓶でもない重さがあった。
俺は舌で奥歯を押した。
風が帆を鳴らす。
その音の下に、まだ声ではないものが混じっている気がした。
人の気配。
船倉の暗がりで、息を殺しているものの重さ。
「潮目が悪くねえ」
俺は軽く言った。
軽く言わなければ、胸の奥が先に沈みそうになる。
カシラが後ろで笑う。
セルジオの火が、風の中で細く傾く。
踊るナマズは、まだ旗を上げていない。
朝のナマズは、まだ踊らない。
けれど海の上ではもう、踊る前の一拍が始まっていた。




