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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
76/128

薄灰色の聖印

 白帆亭の朝は、音を小さくして始まった。


 私は盆の上で包帯の数を確かめた。清布が六枚。薬草を包んだ紙袋が二つ。小瓶が三つ。熱を下げる薬湯の粉末。祈祷用の細い蝋燭。どれも支部から借りたものだった。


 返すものと、補うものを分ける。


 窓の外では、焼きたてのパンの匂いが潮に薄く混じっていた。白帆亭の厨房は早い。けれど廊下に広がる朝食の匂いも、今日はどこか遠い。怪我人の部屋では、食事より先に痛みが目を覚ます。


 そうしている間にも、隣の部屋からガイウスの呼吸が聞こえた。深い。けれど底の方で痛みがひっかかる。寝ている身体が、まだ傷を数えている音だった。


 レオンの部屋からは、寝台のきしむ音がした。


 私は盆を持ち上げる前に扉の方を見た。


「レオン」


「起きてる」


 返事は早かった。早い返事ほど信用できない時がある。


 扉を開けると、レオンは上体を起こしていた。上着の前を留めようとして、途中で手を止めている。顔色は昨日より悪くない。だが肩の線が硬い。聖剣の鞘は壁に立てかけられたまま、彼の視線の先にあった。


「今日は出ませんよ」


「まだ何も言ってない」


「顔が言っています」


 レオンは口を閉じた。少年の頃から、言い返せない時は同じ顔をする。真面目で、少しだけ悔しそうで、それでも無理に笑おうとする顔だ。


「支部へ行くんだろ」


「清布と香油の確認です。経過報告もあります」


「俺も」


「行きません」


 言葉は柔らかく置いた。柔らかく置いたからといって、譲るつもりはなかった。


 レオンは眉を寄せる。


「歩ける」


「歩くことと、歩いていいことは違います」


「カイも怪我してる」


「だからゆっくり歩きます」


 彼は痛いところを突かれたように黙った。私の左手首にはまだ包帯がある。袖で隠していたつもりだったが、レオンはそういう所だけよく見る。


「一人で行くのか」


「支部までです。人通りもあります」


「それでも」


 扉の外で、椅子が軋んだ。


「勇者の兄ちゃんが行ったら、支部の連中がもっと休めって言うだろ」


 ヴェスタだった。廊下の壁に背を預け、片足だけを軽く浮かせている。腹の傷を庇っているのが見えた。本人は暇そうに見せているが、昨日よりも動きが少ない。


「カイの兄ちゃんだけなら、まあ、神官の用事って顔で通れる」


 レオンは渋い顔をする。


「お前も休んでろ」


「休んでる。廊下でな」


「それは休んでない」


「じゃあ見張りだ」


 ヴァローが向かいの部屋から顔を出した。黒髪はまだ整えきれていない。手には紙束がある。月読みの塔へ送るものではなく、宿の帳場へ預ける控えだろう。


「カイ、道は分かっていますか」


「ええ。支部の方から地図もいただきました」


「地図がある時ほど、実際の道は曲がります」


「貴方が言うと、忠告に聞こえますね」


「忠告です」


 ヴァローは紙束を整えた。視線が私の袖口へ落ちる。すぐに戻った。彼の観察は鋭い。けれど、カイの包帯を指摘するほど無遠慮ではない。


「無理はしないでください」


「はい」


「それと、親切すぎる案内には気をつけて」


 レオンがヴァローを見る。


「親切すぎる案内ってなんだ」


「親切すぎる案内です」


 ヴェスタが笑った。


「分かるようで分からねえ」


 私は盆の上へ経過記録を載せた。ガイウス。レオン。ヴェスタ。ヴァロー。私。全員の体温と睡眠、痛みの出方、薬の量。数字にすると、人の身体は薄くなる。けれど薄くしなければ、遠くへ伝えられないものもある。


「昼までには戻ります」


 レオンがまだ何か言いたげにしていた。


 私は彼の寝台へ近づき、布団の端を整えた。


「レオン」


「何だ」


「私は神官です」


 彼は目を瞬いた。


「知ってる」


「支部へ行くのも務めです。留守を頼みます」


 それでようやく、彼の肩が少し下がった。


「分かった」


 兄として言えば反発する。神官として言えば、彼は受け取る。そういうところは、昔から変わらない。


 私は小さく頭を下げて部屋を出た。


 廊下の窓から、サルマンディアの白い朝が見えた。


 白は清潔に見える。


 けれど、白いから軽いとは限らない。


──────────────────────────────


 オルヴェリス教会サルマンディア支部は、朝の光の中でも控えめだった。


 中央大陸の聖堂のような高い尖塔はない。空へ向かって祈りを伸ばす形ではなく、白い壁と青い瓦で低く街へ伏せている。入口の上には小さなオルヴェリスの紋章があり、その横に評議会の許可印が掲げられていた。


 私はその二つを見上げた。


 紋章と許可印。


 どちらが先に目へ入るかで、この街における教会の位置が分かる気がした。


「光神のご加護を」


 入口の神官が迎えてくれた。年配の女性だった。白い神官服の袖は短く留められ、手首には薬草の匂いが残っている。祈祷より施療の時間が長い人の手だった。


「光神のご加護を。カイ・グレイスです」


「お待ちしておりました。負傷者の皆様の経過記録を」


 私は紙束を渡した。


 彼女はすぐ中へ通してくれた。支部の廊下は清潔だった。白い石の床に水が打たれ、薬草と蜜蝋の匂いが混じる。祈祷室からは低い声が聞こえた。けれど人は少ない。


 婚礼都市の支部なのに、婚姻の窓口は静かだった。


 小さな机。古い帳簿。中央式婚姻の手順を書いた札。そこには薔薇の花飾りも、金のリボンもない。横の棚には白布と香油が整然と並んでいる。


 祈祷室の蝋燭は短かった。長く燃えるための太いものではない。朝の施療の前に、手を合わせるだけの細い火だ。その火が壁の紋章を揺らし、すぐに静まる。


「中央式を選ぶ方は、あまり多くないのですね」


 私が言うと、年配の神官は苦くもなく笑った。


「この街では、契約の証人と薔薇庭園の祝福印が好まれます」


「神の前で誓うより、契約として残す方を」


「ええ。祈りを嫌っているわけではありません。ただ、皆さん形に残るものがお好きです」


 彼女は棚から清布を取り出す。畳み方が丁寧だった。


「支部は施療と救貧で頼られます。婚姻は、宿と契約所と庭園が主役です」


 言葉に棘はない。


 それでも胸の奥へ小さなものが落ちた。


 私は教会で育った。孤児院の食事も、神学校の灯りも、誰かの寄進で保たれていた。祈りはただではない。建物には石が要り、薬には金が要る。清布も聖油も、誰かが作って運ぶ。


 だから私は、祈りに値札がつくことを単純には責められない。


 それでも。


 この街では、祈りは少しだけ脇へ置かれている。


「カイ神官」


 聞き慣れた声がした。


 振り向くと、ルシアン・セーヴァが廊下の向こうに立っていた。


 白い外套の縁には細い黒が走っている。淡い金髪は朝の光をやわらかく拾い、薄い灰青の瞳は笑っていた。肩の聖印徽章は磨かれている。腰には片手剣。背には白い盾。


 昨日見た時と同じ、感じのよい本部の人だった。


 ただ、彼の視線は挨拶の前に廊下の奥と窓と出入口をなぞった。誰かを探すというより、そこにあるものを一度だけ数えるような目だった。


「おはようございます。顔色、昨日よりいいですね」


「おはようございます、ルシアン。おかげさまで」


「いえいえ。カイ神官が眠ったからですよ。眠りはだいたいの薬に勝ちます」


 彼は年配の神官へ軽く礼をした。


「祝福商店街へ清布と香油の確認に行かれるとか」


「ええ。支部の方に案内をお願いする予定でした」


「ちょうど私もそちらへ。よろしければ、ご一緒します」


 自然だった。


 あまりに自然で、私はすぐには返事をしなかった。


 年配の神官は安堵したように頷く。


「ルシアン様がご一緒なら安心です。近道もご存じですから」


 近道。


 その言葉が、ヴァローの声を思い出させた。


 親切すぎる案内には気をつけて。


 けれど目の前のルシアンは、ただ柔らかく笑っている。私の手首の包帯へ視線を落とし、すぐに目を戻した。


「歩幅は合わせます」


「ありがとうございます」


 断る理由はなかった。


 理由がないことが、少しだけ落ち着かなかった。


──────────────────────────────


 婚礼通りは、支部から二つ角を曲がっただけで色を変えた。


 白い壁に薔薇の飾り。青い日除け。金色の文字。宿の看板には「永遠」「祝福」「証人」「契約」の語が踊っている。どれも美しい字だった。美しい字は、人の迷いを少し急がせる。


 石畳まで磨かれていた。朝の水がまだ残り、白い壁と青い布と赤い薔薇を足元で薄く映している。歩く人々の靴がその上を踏み、誓いの言葉の前に小さな波紋を作った。


 通りの入口には評議会認可の契約紙を売る店があった。


 隣には香油店。


 その隣に小さな祈祷札の露店。


 さらに奥には、薔薇庭園の儀礼日程を写した掲示板がある。若い男女がそれを見上げ、宿の支配人らしい男が丁寧に説明していた。


「神前式もできますよ。ただ、薔薇庭園の祝福印を添えた方が、遠方のご親族には喜ばれます」


 その声が風に乗った。


 私は足を止めかけた。


 ルシアンは止まらない。けれど歩幅は少し遅くなった。私が聞いたことを、聞いた上で合わせている。


「この街では、あの言い方が多いです」


「神前式が軽く扱われているわけではないのでしょう」


「ええ。軽んじるのではなく、棚の並びが違う」


 棚の並び。


 その言葉は少し痛かった。


 ルシアンは謝らない。慰めもしない。ただ前を見ている。


「サルマンディアでは、誓いは美しく包まれます。契約書は厚い紙で、証人は礼服で、祈りは香油で。どれも、人を安心させるための形です」


「形は大切です」


「そうですね」


 彼は小さく笑った。


「教会も形を持ちます。聖印。清布。香油。寄進箱。巡礼証明。罪を祈りへ移すには、手順が必要です」


 私は返事をしなかった。


 寄進箱。


 その言葉を聞くと、孤児院の食堂を思い出す。薄い豆のスープ。焼きたてではないパン。冬の終わりに届いた毛布。寄進者の名が読まれた日、院長は子供たちを立たせ、光神へ祈りを捧げた。


 あの毛布は温かかった。


 あの温かさに金が混じっていたとして、私はそれを汚れとは呼べない。


 通りの向こうで、小さな鐘が鳴った。


 香油店の店先には、白い小瓶が並ぶ。薔薇。柑橘。乳香。海風の香りという札まであった。香りを瓶へ入れることができるなら、人は記憶まで買いたがるのかもしれない。


「カイ神官」


 ルシアンの声が少し近い。


「疲れていますか」


「いいえ」


「嘘ですね」


 私は思わず彼を見た。


 ルシアンは人懐っこく笑っていた。


「足ではなく、眉間です。痛む時より考えすぎる時の皺ですよ」


「失礼しました」


「謝ることではありません。考える神官は、貴重です」


「祈る神官ではなく」


「祈る神官はもっと貴重です」


 その返しは柔らかかった。けれど、どこか道の端に杭を打つような音がした。


 考えてもよい。


 祈るところへ戻りなさい。


 そう言われた気がした。


 私は胸元のロザリオへ指を触れた。銀の小さなオルヴェリス紋章は、服の下で温まっている。


 その時、屋根の上を黒いものが渡った。


 黒猫だった。


 白い壁の縁を、影が滑る。普通の猫より少し大きく見えた。毛並みは光を吸い、目だけが緑がかった金に見える。猫は屋根の端で一度止まり、下の通りを見た。


 黒猫が横切ると不運が起きる。


 中央大陸でも、港町でも、子供が先に覚える古いジンクスだ。


 孤児院の子供たちもよく言っていた。黒猫が井戸の前を横切ったから水桶を落とした。黒猫が窓にいたから試験に落ちた。そう言って、失敗の置き場所を作っていた。


 私はそのたびに、猫に罪はないでしょう、と言った。


 今もそう思う。


 黒猫は屋根から天幕へ降りた。


 ルシアンも見ていた。


 笑みは消えていない。けれど薄い灰青の瞳だけが、ほんの少し細くなった。猫を珍しがる目ではない。道の先に置かれた石を確認するような目だった。


 黒猫は鳴かなかった。


 尾が一度だけ揺れる。


 黒い尾の先が、白い天幕の縁をなぞった。布は揺れたようにも、ただ朝風を受けただけにも見えた。


 触れたのか、触れていないのか分からない。


 露店の紐がほどけた。


──────────────────────────────


 白い護符の束が、ぱらぱらと崩れた。


 店主が慌てて手を伸ばす。けれど一枚だけ、赤い小袋から滑り出て通りへ落ちた。薄い金属音がした。


 音は小さい。だが不思議に澄んでいた。香油店の鈴より低く、契約紙をめくる音より冷たい。


 それを拾ったのは、年配の女性だった。


 彼女は小さな布袋を胸に抱えている。服は上等ではない。だが袖口は丁寧に縫い直され、髪には新しい白いリボンが結ばれていた。袋の口から、白糸で結んだ小さな紙片が覗いている。婚礼の日取りと、娘の名を控えたものだろう。


 娘の婚礼を前にした人だと、私はすぐに思った。


「あら」


 女性は落ちた護符を返そうとして、裏を見た。


 手が止まる。


「これは……」


 店主の顔色が変わった。


「奥さん、そちらは見本でして」


「見本?」


「ええ。表へ出す前の。こちらの袋入りが祝福済みです」


 店主は素早く別の袋を差し出す。


 私は女性の手元を見た。


 聖印は薄灰色だった。


 正規のオルヴェリスの聖印は、乳白色に近い白を残す。銀に光らせても、中心だけは白く沈む。これは違う。白く見せようとして、灰が混じった色だった。表の形は似ている。けれど裏刻印の線が粗い。認可番号の桁も合わない。聖人名の頭文字が、古い巡礼札のものと混ざっていた。


 見慣れていない人なら、分からない。


 分からないまま、持ち帰る。


 娘の衣装箱か、婚礼の枕元か、新しい家の壁へ。


 そう思った時、胸の奥が冷えた。


「これはオルヴェリス式の祝福済みと書かれていますね」


 私の声に、店主がこちらを見た。


「神官様。いらっしゃいませ。こちらは婚礼のお守りでして。皆さん買っていかれますよ」


「支部の認可印ですか」


「もちろんです」


 店主は笑った。笑い慣れた顔だった。観光客へ向ける顔。迷う人の背を、買う方へ少し押す顔。


「中央教会式の護符でございます。夫婦の光と旅の安全を」


 年配の女性が私を見る。


 助けを求める顔ではなかった。


 ただ、分からないから教えてほしいという顔だった。


 その顔が一番重い。


 私はすぐに言えなかった。


 祈りに値段がつくことを、私は知っている。祝福品が売られることも知っている。巡礼証明も、香油も、蝋燭も、清布も、みな誰かの手で作られる。寄進箱がなければ孤児院は冬を越せなかった。


 本物と偽物の差は、どこにあるのか。


 認可番号か。


 支部の帳簿か。


 祈った神官の名か。


 それとも、買う人の願いを嘘にしないことか。


「カイ神官」


 ルシアンの声が横から来た。


 柔らかい。


 柔らかいまま、逃げ道がない。


「祈りを売ること自体は、この街では珍しくありません」


 店主がほっとした顔をした。


 私の胸は逆に沈んだ。


 ルシアンは店主を見ていない。私を見ていた。


「問題は、誰の印で売るかです」


「ルシアン」


「本山の話ではありません。寄進の話でも、祝福品の是非でもありません」


 彼は一歩だけ横へずれた。


 年配の女性が見える位置だった。


「今、その印を持ち帰る方がいます」


 白い通りの音が遠くなった。


 宿の呼び込み。香油店の鈴。馬車の車輪。笑い声。薔薇庭園の掲示を読む人々のざわめき。


 その全部が、薄い布の向こうへ落ちた。


 私は女性の手元を見た。


 薄灰色の聖印。


 白ではない。


 けれど、彼女がそれを白だと信じれば、家へ白として置かれる。


「では、あなたは見逃されますか」


 ルシアンの声は責めていなかった。


 だからこそ、重かった。


 私は息を吸った。


 ロザリオへ触れていた指を離す。


「奥様」


 女性が顔を上げる。


「それは、オルヴェリス教会が祝福したものではありません」


 店主がすぐ口を開いた。


「神官様、言いがかりは困ります。こちらは仕入れ先が」


「黙ってください」


 自分でも驚くほど、声は荒くなかった。


 静かだった。


 静かだから、店主は止まった。


 私は女性へ向き直る。


「持ち帰る前に、気づけてよかった」


 女性の目が揺れた。


「娘の婚礼にと思って」


「はい」


「光神様のものなら、遠い土地へ嫁いでも守っていただけるかと」


 女性は布袋の口を握った。白糸の結び目が指の間でつぶれる。


「あの子、海の向こうへ行くんです。私が持たせられるものは、多くありませんから」


 胸が痛んだ。


 祈りは、こういうところへ置かれる。


 高い聖堂の天井ではない。帳簿の中でもない。母親の手の中で、小さな布袋として握られる。


「支部で正規の祝福を受けられます。高価なものではありません。必要なら、私がご案内します」


「よろしいのですか」


「もちろんです」


 私は薄灰色の聖印を受け取った。


 軽い。


 軽すぎる。


 金属の重さではなく、祈りの重さがなかった。


 店主が笑い直そうとした。


「いや、神官様。お客が望んで買うものですから。本物も偽物も、気持ちの問題でしょう。教会だって、寄進を受けるじゃありませんか」


 その言葉は私を刺した。


 少しだけ。


 刺さるだけの真実が混じっていたからだ。


 私は店主を見た。


「寄進は、祈りを支えるためのものです」


「同じようなもんでしょう」


「違います」


 声が少しだけ低くなった。


「祈りは、買った方の願いを軽くするためにあるのではありません」


 店主の口が閉じた。


「光神の名を使うなら、少なくとも、その方の願いを嘘にしないでください」


 黒猫は天幕の上にいなかった。


 気づくと、通りの向こうの屋根にいた。尾を一度だけ揺らし、白い壁の影へ溶けるように歩いていく。


 不運が起きたのは、誰だったのだろう。


 店主か。


 それとも私か。


 少なくとも、女性の手に薄灰色の聖印が残らなかったことだけは、幸運だった。


──────────────────────────────


 その後の処理は、驚くほど早かった。


 ルシアンは店主へ怒らなかった。


「露店許可証を」


 それだけだった。


 店主は渋った。だがルシアンが白外套の内側から支部の照会札を出すと、手が止まった。さらに彼が評議会巡回員の詰所の場所を告げると、店主の肩が落ちた。


「同行していただきます」


「ちょっと待ってくれ。俺だけじゃない。こういうのは他にも」


「その話は、支部と評議会の前で」


「商売を潰す気か」


「いいえ」


 ルシアンは笑っていた。


「帳簿へ戻すだけです」


 その言い方に、私は小さく息を止めた。


 帳簿へ戻す。


 処罰でも救済でもない。乱れた札を、所定の棚へ戻すような声だった。


 店主は逃げられない。


 ルシアンは手を掴んでいない。剣も抜いていない。盾にも触れていない。ただ、露店の横に立つ位置がうまかった。背後は壁。左には巡回員が来る通り。右には私と年配の女性。前にはルシアン。


 出口はある。


 けれど、逃げる道はない。


 やがて評議会の巡回員が来た。白い上着に青い帯を巻いた二人組だった。ルシアンは短く事情を説明し、薄灰色の聖印の束を支部預かりにする手続きを整えた。


 店主は巡回員と共に歩いていく。


 ルシアンは最後まで声を荒げなかった。


 私はそれをありがたいと思った。


 同時に、少しだけ怖いとも思った。


 年配の女性は、まだ布袋を胸に抱えていた。


「神官様」


「はい」


「支部まで、お願いできますか」


「もちろんです」


 私は答えた。


 ルシアンが一歩下がる。


「私は巡回員へ控えを渡してから追います。カイ神官、先にどうぞ」


「分かりました」


 女性と並んで歩き出す。


 婚礼通りの白は変わらない。香油の瓶は光り、契約紙は美しい。薔薇の掲示には人が集まっている。誰かが笑い、誰かが値段を尋ね、誰かが永遠という言葉を口にする。


 街は止まらない。


 祈りが薄く混じっていても、街は進む。


 女性は歩きながら、娘の話をしてくれた。遠い港へ嫁ぐこと。船乗りの家へ入ること。本人は強い子だが、母親の方が心配で眠れないこと。


 私は相槌を打った。


 話を急がせない。


 祈りは、答えを持つ者だけのものではない。


 支部の入口が見えた時、女性は少し立ち止まった。


「高いでしょうか」


 私は首を振る。


「いいえ。必要な分だけで大丈夫です」


「寄進は」


「できる時に。できる形で」


 そう言ってから、胸の奥が少し痛んだ。


 寄進は必要だ。


 けれど、今この人には先に祈りがいる。


 私は扉を開けた。


 支部の中の空気は、婚礼通りより静かだった。薬草の匂い。蜜蝋の光。白布。古い帳簿。小さなオルヴェリスの紋章。


 薄い。


 この街では、確かに薄い。


 けれど薄いから、ないわけではない。


 細い蝋燭の火が、女性の横顔を少しだけ明るくした。彼女は布袋を膝に置き、両手をそこへ重ねている。先ほどまで白糸を潰していた指が、今はゆっくりほどけていた。


 年配の支部神官が女性を迎えた。私は事情を短く伝え、薄灰色の聖印を小皿へ置いた。正規の聖印とは並べない。混ざらないように、布を一枚かける。


 ルシアンは少し遅れて戻ってきた。


「無事に」


「はい」


「よかった」


 彼は本当にそう思っているように見えた。


 そのことがまた、少しだけ分からなくなる。


「カイ神官」


「はい」


「先ほどは、よい言葉でした」


「そうでしょうか」


「ええ。組織を守る言葉ではなく、人を守る言葉でした」


 私は答えられなかった。


 ルシアンは笑う。


「神官は、それでよいのだと思います」


 慰めではなかった。


 ほめ言葉にも、少し違う。


 配置を確かめる声だった。


 あなたはそこに立ちなさい。


 そう言われた気がした。


 私は胸元のロザリオを握った。


 銀は温かい。


 けれど、いつもより軽く感じた。


──────────────────────────────


 白帆亭へ戻る道で、ルシアンは途中まで同行した。


 人の流れが少ない道を選んでくれた。階段の少ない路地を通り、車輪の多い大通りを避ける。私は助かった。左手首は痛み、脇腹の奥も少し熱を持っている。


 親切だった。


 本当に親切だった。


 だから、分かりにくい。


「無理をさせましたね」


 ルシアンが言った。


「いいえ。歩いた方がよいと言われています」


「歩くことと、歩かされることは違います」


 私は彼を見た。


 彼は前を向いたままだ。


「失礼。言葉遊びです」


「ルシアンは、時々怖いことを言いますね」


 口にしてから、言い過ぎたと思った。


 けれどルシアンは楽しそうに笑った。


「よく言われます」


「よく言われるのですか」


「ヴァロー殿には、たぶん毎回思われています」


 それは否定できなかった。


 少し笑ってしまう。笑うと脇腹に響いた。私は足を緩めた。


 ルシアンも同じだけ緩める。


「カイ神官」


「はい」


「教会が常に清らかだとは、私も言いません」


 その言葉に、私は足を止めた。


 通りの向こうで、婚礼宿の窓飾りが風に揺れている。白い布に金の糸。遠くで鐘が鳴る。祈りの鐘ではなく、宿の朝の合図だった。


「それでも、祈る人が清らかであることはできます」


 ルシアンは続けた。


「少なくとも、その一場面では」


 私はすぐに返事をしなかった。


 その言葉は優しい。


 優しいのに、足元へ線を引く。


 私はその線の上に立っている。


「私は、清らかでしょうか」


「それを私に聞くのは、少し危ない」


 ルシアンは肩をすくめた。


「私は、人が立っている場所を先に見ます。清らかかどうかは、その次です」


「では、私はどこに」


「神官の場所に」


 答えは早かった。


 早すぎるほどだった。


「それが、今日のあなたには一番よく似合っていました」


 私は胸元のロザリオを握り直した。


 白帆亭の看板が見えた。


 ルシアンはそこで足を止める。


「ここからはお一人で大丈夫ですね」


「はい。ありがとうございました」


「こちらこそ。後ほど支部から控えを届けます」


 彼は軽く礼をした。


 白い外套が朝の光を返す。


 眩しいはずなのに、その縁の黒だけが妙にはっきり見えた。


 私は見送った。


 ルシアンは人混みへ消える直前に、通りの屋根を一度だけ見た。


 私もつられて見上げる。


 黒猫はいなかった。


 ただ白い壁の上に、影が細く残っているように見えた。


 風が吹くと、その影も消えた。


 白帆亭へ戻ると、レオンが階段の途中で待っていた。


「カイ」


「レオン。寝ているはずでは」


「階段までは歩いていいだろ」


「誰が言いましたか」


 彼は目を逸らした。


 ヴェスタの笑い声が上から聞こえる。


「勇者の兄ちゃん、そこで捕まるって言ったろ」


 ヴァローのため息も重なった。


 私は肩の力を少し抜いた。


「戻りました」


 レオンの視線が私の手元へ落ちる。


「何かあったのか」


「少しだけ」


「少しだけって顔じゃない」


 私はロザリオを服の上から押さえた。


 薄灰色の聖印の軽さが、まだ指に残っている。


「あとで話します。まず、ガイウスの包帯を替えましょう」


 レオンは何か言いたげにした。


 けれどうなずいた。


 私は階段を上がる。


 聖印は軽かった。


 けれど薄いから、ないわけではない。


 軽いからこそ、握っていなければならないのだと思った。


 白い街では、祈りも時々薄くなる。


 それでも私は、手の中の銀を離さなかった。

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