薄灰色の聖印
白帆亭の朝は、音を小さくして始まった。
私は盆の上で包帯の数を確かめた。清布が六枚。薬草を包んだ紙袋が二つ。小瓶が三つ。熱を下げる薬湯の粉末。祈祷用の細い蝋燭。どれも支部から借りたものだった。
返すものと、補うものを分ける。
窓の外では、焼きたてのパンの匂いが潮に薄く混じっていた。白帆亭の厨房は早い。けれど廊下に広がる朝食の匂いも、今日はどこか遠い。怪我人の部屋では、食事より先に痛みが目を覚ます。
そうしている間にも、隣の部屋からガイウスの呼吸が聞こえた。深い。けれど底の方で痛みがひっかかる。寝ている身体が、まだ傷を数えている音だった。
レオンの部屋からは、寝台のきしむ音がした。
私は盆を持ち上げる前に扉の方を見た。
「レオン」
「起きてる」
返事は早かった。早い返事ほど信用できない時がある。
扉を開けると、レオンは上体を起こしていた。上着の前を留めようとして、途中で手を止めている。顔色は昨日より悪くない。だが肩の線が硬い。聖剣の鞘は壁に立てかけられたまま、彼の視線の先にあった。
「今日は出ませんよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っています」
レオンは口を閉じた。少年の頃から、言い返せない時は同じ顔をする。真面目で、少しだけ悔しそうで、それでも無理に笑おうとする顔だ。
「支部へ行くんだろ」
「清布と香油の確認です。経過報告もあります」
「俺も」
「行きません」
言葉は柔らかく置いた。柔らかく置いたからといって、譲るつもりはなかった。
レオンは眉を寄せる。
「歩ける」
「歩くことと、歩いていいことは違います」
「カイも怪我してる」
「だからゆっくり歩きます」
彼は痛いところを突かれたように黙った。私の左手首にはまだ包帯がある。袖で隠していたつもりだったが、レオンはそういう所だけよく見る。
「一人で行くのか」
「支部までです。人通りもあります」
「それでも」
扉の外で、椅子が軋んだ。
「勇者の兄ちゃんが行ったら、支部の連中がもっと休めって言うだろ」
ヴェスタだった。廊下の壁に背を預け、片足だけを軽く浮かせている。腹の傷を庇っているのが見えた。本人は暇そうに見せているが、昨日よりも動きが少ない。
「カイの兄ちゃんだけなら、まあ、神官の用事って顔で通れる」
レオンは渋い顔をする。
「お前も休んでろ」
「休んでる。廊下でな」
「それは休んでない」
「じゃあ見張りだ」
ヴァローが向かいの部屋から顔を出した。黒髪はまだ整えきれていない。手には紙束がある。月読みの塔へ送るものではなく、宿の帳場へ預ける控えだろう。
「カイ、道は分かっていますか」
「ええ。支部の方から地図もいただきました」
「地図がある時ほど、実際の道は曲がります」
「貴方が言うと、忠告に聞こえますね」
「忠告です」
ヴァローは紙束を整えた。視線が私の袖口へ落ちる。すぐに戻った。彼の観察は鋭い。けれど、カイの包帯を指摘するほど無遠慮ではない。
「無理はしないでください」
「はい」
「それと、親切すぎる案内には気をつけて」
レオンがヴァローを見る。
「親切すぎる案内ってなんだ」
「親切すぎる案内です」
ヴェスタが笑った。
「分かるようで分からねえ」
私は盆の上へ経過記録を載せた。ガイウス。レオン。ヴェスタ。ヴァロー。私。全員の体温と睡眠、痛みの出方、薬の量。数字にすると、人の身体は薄くなる。けれど薄くしなければ、遠くへ伝えられないものもある。
「昼までには戻ります」
レオンがまだ何か言いたげにしていた。
私は彼の寝台へ近づき、布団の端を整えた。
「レオン」
「何だ」
「私は神官です」
彼は目を瞬いた。
「知ってる」
「支部へ行くのも務めです。留守を頼みます」
それでようやく、彼の肩が少し下がった。
「分かった」
兄として言えば反発する。神官として言えば、彼は受け取る。そういうところは、昔から変わらない。
私は小さく頭を下げて部屋を出た。
廊下の窓から、サルマンディアの白い朝が見えた。
白は清潔に見える。
けれど、白いから軽いとは限らない。
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オルヴェリス教会サルマンディア支部は、朝の光の中でも控えめだった。
中央大陸の聖堂のような高い尖塔はない。空へ向かって祈りを伸ばす形ではなく、白い壁と青い瓦で低く街へ伏せている。入口の上には小さなオルヴェリスの紋章があり、その横に評議会の許可印が掲げられていた。
私はその二つを見上げた。
紋章と許可印。
どちらが先に目へ入るかで、この街における教会の位置が分かる気がした。
「光神のご加護を」
入口の神官が迎えてくれた。年配の女性だった。白い神官服の袖は短く留められ、手首には薬草の匂いが残っている。祈祷より施療の時間が長い人の手だった。
「光神のご加護を。カイ・グレイスです」
「お待ちしておりました。負傷者の皆様の経過記録を」
私は紙束を渡した。
彼女はすぐ中へ通してくれた。支部の廊下は清潔だった。白い石の床に水が打たれ、薬草と蜜蝋の匂いが混じる。祈祷室からは低い声が聞こえた。けれど人は少ない。
婚礼都市の支部なのに、婚姻の窓口は静かだった。
小さな机。古い帳簿。中央式婚姻の手順を書いた札。そこには薔薇の花飾りも、金のリボンもない。横の棚には白布と香油が整然と並んでいる。
祈祷室の蝋燭は短かった。長く燃えるための太いものではない。朝の施療の前に、手を合わせるだけの細い火だ。その火が壁の紋章を揺らし、すぐに静まる。
「中央式を選ぶ方は、あまり多くないのですね」
私が言うと、年配の神官は苦くもなく笑った。
「この街では、契約の証人と薔薇庭園の祝福印が好まれます」
「神の前で誓うより、契約として残す方を」
「ええ。祈りを嫌っているわけではありません。ただ、皆さん形に残るものがお好きです」
彼女は棚から清布を取り出す。畳み方が丁寧だった。
「支部は施療と救貧で頼られます。婚姻は、宿と契約所と庭園が主役です」
言葉に棘はない。
それでも胸の奥へ小さなものが落ちた。
私は教会で育った。孤児院の食事も、神学校の灯りも、誰かの寄進で保たれていた。祈りはただではない。建物には石が要り、薬には金が要る。清布も聖油も、誰かが作って運ぶ。
だから私は、祈りに値札がつくことを単純には責められない。
それでも。
この街では、祈りは少しだけ脇へ置かれている。
「カイ神官」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、ルシアン・セーヴァが廊下の向こうに立っていた。
白い外套の縁には細い黒が走っている。淡い金髪は朝の光をやわらかく拾い、薄い灰青の瞳は笑っていた。肩の聖印徽章は磨かれている。腰には片手剣。背には白い盾。
昨日見た時と同じ、感じのよい本部の人だった。
ただ、彼の視線は挨拶の前に廊下の奥と窓と出入口をなぞった。誰かを探すというより、そこにあるものを一度だけ数えるような目だった。
「おはようございます。顔色、昨日よりいいですね」
「おはようございます、ルシアン。おかげさまで」
「いえいえ。カイ神官が眠ったからですよ。眠りはだいたいの薬に勝ちます」
彼は年配の神官へ軽く礼をした。
「祝福商店街へ清布と香油の確認に行かれるとか」
「ええ。支部の方に案内をお願いする予定でした」
「ちょうど私もそちらへ。よろしければ、ご一緒します」
自然だった。
あまりに自然で、私はすぐには返事をしなかった。
年配の神官は安堵したように頷く。
「ルシアン様がご一緒なら安心です。近道もご存じですから」
近道。
その言葉が、ヴァローの声を思い出させた。
親切すぎる案内には気をつけて。
けれど目の前のルシアンは、ただ柔らかく笑っている。私の手首の包帯へ視線を落とし、すぐに目を戻した。
「歩幅は合わせます」
「ありがとうございます」
断る理由はなかった。
理由がないことが、少しだけ落ち着かなかった。
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婚礼通りは、支部から二つ角を曲がっただけで色を変えた。
白い壁に薔薇の飾り。青い日除け。金色の文字。宿の看板には「永遠」「祝福」「証人」「契約」の語が踊っている。どれも美しい字だった。美しい字は、人の迷いを少し急がせる。
石畳まで磨かれていた。朝の水がまだ残り、白い壁と青い布と赤い薔薇を足元で薄く映している。歩く人々の靴がその上を踏み、誓いの言葉の前に小さな波紋を作った。
通りの入口には評議会認可の契約紙を売る店があった。
隣には香油店。
その隣に小さな祈祷札の露店。
さらに奥には、薔薇庭園の儀礼日程を写した掲示板がある。若い男女がそれを見上げ、宿の支配人らしい男が丁寧に説明していた。
「神前式もできますよ。ただ、薔薇庭園の祝福印を添えた方が、遠方のご親族には喜ばれます」
その声が風に乗った。
私は足を止めかけた。
ルシアンは止まらない。けれど歩幅は少し遅くなった。私が聞いたことを、聞いた上で合わせている。
「この街では、あの言い方が多いです」
「神前式が軽く扱われているわけではないのでしょう」
「ええ。軽んじるのではなく、棚の並びが違う」
棚の並び。
その言葉は少し痛かった。
ルシアンは謝らない。慰めもしない。ただ前を見ている。
「サルマンディアでは、誓いは美しく包まれます。契約書は厚い紙で、証人は礼服で、祈りは香油で。どれも、人を安心させるための形です」
「形は大切です」
「そうですね」
彼は小さく笑った。
「教会も形を持ちます。聖印。清布。香油。寄進箱。巡礼証明。罪を祈りへ移すには、手順が必要です」
私は返事をしなかった。
寄進箱。
その言葉を聞くと、孤児院の食堂を思い出す。薄い豆のスープ。焼きたてではないパン。冬の終わりに届いた毛布。寄進者の名が読まれた日、院長は子供たちを立たせ、光神へ祈りを捧げた。
あの毛布は温かかった。
あの温かさに金が混じっていたとして、私はそれを汚れとは呼べない。
通りの向こうで、小さな鐘が鳴った。
香油店の店先には、白い小瓶が並ぶ。薔薇。柑橘。乳香。海風の香りという札まであった。香りを瓶へ入れることができるなら、人は記憶まで買いたがるのかもしれない。
「カイ神官」
ルシアンの声が少し近い。
「疲れていますか」
「いいえ」
「嘘ですね」
私は思わず彼を見た。
ルシアンは人懐っこく笑っていた。
「足ではなく、眉間です。痛む時より考えすぎる時の皺ですよ」
「失礼しました」
「謝ることではありません。考える神官は、貴重です」
「祈る神官ではなく」
「祈る神官はもっと貴重です」
その返しは柔らかかった。けれど、どこか道の端に杭を打つような音がした。
考えてもよい。
祈るところへ戻りなさい。
そう言われた気がした。
私は胸元のロザリオへ指を触れた。銀の小さなオルヴェリス紋章は、服の下で温まっている。
その時、屋根の上を黒いものが渡った。
黒猫だった。
白い壁の縁を、影が滑る。普通の猫より少し大きく見えた。毛並みは光を吸い、目だけが緑がかった金に見える。猫は屋根の端で一度止まり、下の通りを見た。
黒猫が横切ると不運が起きる。
中央大陸でも、港町でも、子供が先に覚える古いジンクスだ。
孤児院の子供たちもよく言っていた。黒猫が井戸の前を横切ったから水桶を落とした。黒猫が窓にいたから試験に落ちた。そう言って、失敗の置き場所を作っていた。
私はそのたびに、猫に罪はないでしょう、と言った。
今もそう思う。
黒猫は屋根から天幕へ降りた。
ルシアンも見ていた。
笑みは消えていない。けれど薄い灰青の瞳だけが、ほんの少し細くなった。猫を珍しがる目ではない。道の先に置かれた石を確認するような目だった。
黒猫は鳴かなかった。
尾が一度だけ揺れる。
黒い尾の先が、白い天幕の縁をなぞった。布は揺れたようにも、ただ朝風を受けただけにも見えた。
触れたのか、触れていないのか分からない。
露店の紐がほどけた。
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白い護符の束が、ぱらぱらと崩れた。
店主が慌てて手を伸ばす。けれど一枚だけ、赤い小袋から滑り出て通りへ落ちた。薄い金属音がした。
音は小さい。だが不思議に澄んでいた。香油店の鈴より低く、契約紙をめくる音より冷たい。
それを拾ったのは、年配の女性だった。
彼女は小さな布袋を胸に抱えている。服は上等ではない。だが袖口は丁寧に縫い直され、髪には新しい白いリボンが結ばれていた。袋の口から、白糸で結んだ小さな紙片が覗いている。婚礼の日取りと、娘の名を控えたものだろう。
娘の婚礼を前にした人だと、私はすぐに思った。
「あら」
女性は落ちた護符を返そうとして、裏を見た。
手が止まる。
「これは……」
店主の顔色が変わった。
「奥さん、そちらは見本でして」
「見本?」
「ええ。表へ出す前の。こちらの袋入りが祝福済みです」
店主は素早く別の袋を差し出す。
私は女性の手元を見た。
聖印は薄灰色だった。
正規のオルヴェリスの聖印は、乳白色に近い白を残す。銀に光らせても、中心だけは白く沈む。これは違う。白く見せようとして、灰が混じった色だった。表の形は似ている。けれど裏刻印の線が粗い。認可番号の桁も合わない。聖人名の頭文字が、古い巡礼札のものと混ざっていた。
見慣れていない人なら、分からない。
分からないまま、持ち帰る。
娘の衣装箱か、婚礼の枕元か、新しい家の壁へ。
そう思った時、胸の奥が冷えた。
「これはオルヴェリス式の祝福済みと書かれていますね」
私の声に、店主がこちらを見た。
「神官様。いらっしゃいませ。こちらは婚礼のお守りでして。皆さん買っていかれますよ」
「支部の認可印ですか」
「もちろんです」
店主は笑った。笑い慣れた顔だった。観光客へ向ける顔。迷う人の背を、買う方へ少し押す顔。
「中央教会式の護符でございます。夫婦の光と旅の安全を」
年配の女性が私を見る。
助けを求める顔ではなかった。
ただ、分からないから教えてほしいという顔だった。
その顔が一番重い。
私はすぐに言えなかった。
祈りに値段がつくことを、私は知っている。祝福品が売られることも知っている。巡礼証明も、香油も、蝋燭も、清布も、みな誰かの手で作られる。寄進箱がなければ孤児院は冬を越せなかった。
本物と偽物の差は、どこにあるのか。
認可番号か。
支部の帳簿か。
祈った神官の名か。
それとも、買う人の願いを嘘にしないことか。
「カイ神官」
ルシアンの声が横から来た。
柔らかい。
柔らかいまま、逃げ道がない。
「祈りを売ること自体は、この街では珍しくありません」
店主がほっとした顔をした。
私の胸は逆に沈んだ。
ルシアンは店主を見ていない。私を見ていた。
「問題は、誰の印で売るかです」
「ルシアン」
「本山の話ではありません。寄進の話でも、祝福品の是非でもありません」
彼は一歩だけ横へずれた。
年配の女性が見える位置だった。
「今、その印を持ち帰る方がいます」
白い通りの音が遠くなった。
宿の呼び込み。香油店の鈴。馬車の車輪。笑い声。薔薇庭園の掲示を読む人々のざわめき。
その全部が、薄い布の向こうへ落ちた。
私は女性の手元を見た。
薄灰色の聖印。
白ではない。
けれど、彼女がそれを白だと信じれば、家へ白として置かれる。
「では、あなたは見逃されますか」
ルシアンの声は責めていなかった。
だからこそ、重かった。
私は息を吸った。
ロザリオへ触れていた指を離す。
「奥様」
女性が顔を上げる。
「それは、オルヴェリス教会が祝福したものではありません」
店主がすぐ口を開いた。
「神官様、言いがかりは困ります。こちらは仕入れ先が」
「黙ってください」
自分でも驚くほど、声は荒くなかった。
静かだった。
静かだから、店主は止まった。
私は女性へ向き直る。
「持ち帰る前に、気づけてよかった」
女性の目が揺れた。
「娘の婚礼にと思って」
「はい」
「光神様のものなら、遠い土地へ嫁いでも守っていただけるかと」
女性は布袋の口を握った。白糸の結び目が指の間でつぶれる。
「あの子、海の向こうへ行くんです。私が持たせられるものは、多くありませんから」
胸が痛んだ。
祈りは、こういうところへ置かれる。
高い聖堂の天井ではない。帳簿の中でもない。母親の手の中で、小さな布袋として握られる。
「支部で正規の祝福を受けられます。高価なものではありません。必要なら、私がご案内します」
「よろしいのですか」
「もちろんです」
私は薄灰色の聖印を受け取った。
軽い。
軽すぎる。
金属の重さではなく、祈りの重さがなかった。
店主が笑い直そうとした。
「いや、神官様。お客が望んで買うものですから。本物も偽物も、気持ちの問題でしょう。教会だって、寄進を受けるじゃありませんか」
その言葉は私を刺した。
少しだけ。
刺さるだけの真実が混じっていたからだ。
私は店主を見た。
「寄進は、祈りを支えるためのものです」
「同じようなもんでしょう」
「違います」
声が少しだけ低くなった。
「祈りは、買った方の願いを軽くするためにあるのではありません」
店主の口が閉じた。
「光神の名を使うなら、少なくとも、その方の願いを嘘にしないでください」
黒猫は天幕の上にいなかった。
気づくと、通りの向こうの屋根にいた。尾を一度だけ揺らし、白い壁の影へ溶けるように歩いていく。
不運が起きたのは、誰だったのだろう。
店主か。
それとも私か。
少なくとも、女性の手に薄灰色の聖印が残らなかったことだけは、幸運だった。
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その後の処理は、驚くほど早かった。
ルシアンは店主へ怒らなかった。
「露店許可証を」
それだけだった。
店主は渋った。だがルシアンが白外套の内側から支部の照会札を出すと、手が止まった。さらに彼が評議会巡回員の詰所の場所を告げると、店主の肩が落ちた。
「同行していただきます」
「ちょっと待ってくれ。俺だけじゃない。こういうのは他にも」
「その話は、支部と評議会の前で」
「商売を潰す気か」
「いいえ」
ルシアンは笑っていた。
「帳簿へ戻すだけです」
その言い方に、私は小さく息を止めた。
帳簿へ戻す。
処罰でも救済でもない。乱れた札を、所定の棚へ戻すような声だった。
店主は逃げられない。
ルシアンは手を掴んでいない。剣も抜いていない。盾にも触れていない。ただ、露店の横に立つ位置がうまかった。背後は壁。左には巡回員が来る通り。右には私と年配の女性。前にはルシアン。
出口はある。
けれど、逃げる道はない。
やがて評議会の巡回員が来た。白い上着に青い帯を巻いた二人組だった。ルシアンは短く事情を説明し、薄灰色の聖印の束を支部預かりにする手続きを整えた。
店主は巡回員と共に歩いていく。
ルシアンは最後まで声を荒げなかった。
私はそれをありがたいと思った。
同時に、少しだけ怖いとも思った。
年配の女性は、まだ布袋を胸に抱えていた。
「神官様」
「はい」
「支部まで、お願いできますか」
「もちろんです」
私は答えた。
ルシアンが一歩下がる。
「私は巡回員へ控えを渡してから追います。カイ神官、先にどうぞ」
「分かりました」
女性と並んで歩き出す。
婚礼通りの白は変わらない。香油の瓶は光り、契約紙は美しい。薔薇の掲示には人が集まっている。誰かが笑い、誰かが値段を尋ね、誰かが永遠という言葉を口にする。
街は止まらない。
祈りが薄く混じっていても、街は進む。
女性は歩きながら、娘の話をしてくれた。遠い港へ嫁ぐこと。船乗りの家へ入ること。本人は強い子だが、母親の方が心配で眠れないこと。
私は相槌を打った。
話を急がせない。
祈りは、答えを持つ者だけのものではない。
支部の入口が見えた時、女性は少し立ち止まった。
「高いでしょうか」
私は首を振る。
「いいえ。必要な分だけで大丈夫です」
「寄進は」
「できる時に。できる形で」
そう言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
寄進は必要だ。
けれど、今この人には先に祈りがいる。
私は扉を開けた。
支部の中の空気は、婚礼通りより静かだった。薬草の匂い。蜜蝋の光。白布。古い帳簿。小さなオルヴェリスの紋章。
薄い。
この街では、確かに薄い。
けれど薄いから、ないわけではない。
細い蝋燭の火が、女性の横顔を少しだけ明るくした。彼女は布袋を膝に置き、両手をそこへ重ねている。先ほどまで白糸を潰していた指が、今はゆっくりほどけていた。
年配の支部神官が女性を迎えた。私は事情を短く伝え、薄灰色の聖印を小皿へ置いた。正規の聖印とは並べない。混ざらないように、布を一枚かける。
ルシアンは少し遅れて戻ってきた。
「無事に」
「はい」
「よかった」
彼は本当にそう思っているように見えた。
そのことがまた、少しだけ分からなくなる。
「カイ神官」
「はい」
「先ほどは、よい言葉でした」
「そうでしょうか」
「ええ。組織を守る言葉ではなく、人を守る言葉でした」
私は答えられなかった。
ルシアンは笑う。
「神官は、それでよいのだと思います」
慰めではなかった。
ほめ言葉にも、少し違う。
配置を確かめる声だった。
あなたはそこに立ちなさい。
そう言われた気がした。
私は胸元のロザリオを握った。
銀は温かい。
けれど、いつもより軽く感じた。
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白帆亭へ戻る道で、ルシアンは途中まで同行した。
人の流れが少ない道を選んでくれた。階段の少ない路地を通り、車輪の多い大通りを避ける。私は助かった。左手首は痛み、脇腹の奥も少し熱を持っている。
親切だった。
本当に親切だった。
だから、分かりにくい。
「無理をさせましたね」
ルシアンが言った。
「いいえ。歩いた方がよいと言われています」
「歩くことと、歩かされることは違います」
私は彼を見た。
彼は前を向いたままだ。
「失礼。言葉遊びです」
「ルシアンは、時々怖いことを言いますね」
口にしてから、言い過ぎたと思った。
けれどルシアンは楽しそうに笑った。
「よく言われます」
「よく言われるのですか」
「ヴァロー殿には、たぶん毎回思われています」
それは否定できなかった。
少し笑ってしまう。笑うと脇腹に響いた。私は足を緩めた。
ルシアンも同じだけ緩める。
「カイ神官」
「はい」
「教会が常に清らかだとは、私も言いません」
その言葉に、私は足を止めた。
通りの向こうで、婚礼宿の窓飾りが風に揺れている。白い布に金の糸。遠くで鐘が鳴る。祈りの鐘ではなく、宿の朝の合図だった。
「それでも、祈る人が清らかであることはできます」
ルシアンは続けた。
「少なくとも、その一場面では」
私はすぐに返事をしなかった。
その言葉は優しい。
優しいのに、足元へ線を引く。
私はその線の上に立っている。
「私は、清らかでしょうか」
「それを私に聞くのは、少し危ない」
ルシアンは肩をすくめた。
「私は、人が立っている場所を先に見ます。清らかかどうかは、その次です」
「では、私はどこに」
「神官の場所に」
答えは早かった。
早すぎるほどだった。
「それが、今日のあなたには一番よく似合っていました」
私は胸元のロザリオを握り直した。
白帆亭の看板が見えた。
ルシアンはそこで足を止める。
「ここからはお一人で大丈夫ですね」
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ。後ほど支部から控えを届けます」
彼は軽く礼をした。
白い外套が朝の光を返す。
眩しいはずなのに、その縁の黒だけが妙にはっきり見えた。
私は見送った。
ルシアンは人混みへ消える直前に、通りの屋根を一度だけ見た。
私もつられて見上げる。
黒猫はいなかった。
ただ白い壁の上に、影が細く残っているように見えた。
風が吹くと、その影も消えた。
白帆亭へ戻ると、レオンが階段の途中で待っていた。
「カイ」
「レオン。寝ているはずでは」
「階段までは歩いていいだろ」
「誰が言いましたか」
彼は目を逸らした。
ヴェスタの笑い声が上から聞こえる。
「勇者の兄ちゃん、そこで捕まるって言ったろ」
ヴァローのため息も重なった。
私は肩の力を少し抜いた。
「戻りました」
レオンの視線が私の手元へ落ちる。
「何かあったのか」
「少しだけ」
「少しだけって顔じゃない」
私はロザリオを服の上から押さえた。
薄灰色の聖印の軽さが、まだ指に残っている。
「あとで話します。まず、ガイウスの包帯を替えましょう」
レオンは何か言いたげにした。
けれどうなずいた。
私は階段を上がる。
聖印は軽かった。
けれど薄いから、ないわけではない。
軽いからこそ、握っていなければならないのだと思った。
白い街では、祈りも時々薄くなる。
それでも私は、手の中の銀を離さなかった。




