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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
75/129

夜明け前の魚箱

 夜明け前の魚箱には、飾らない顔がある。


 透真は昔からそう考えていた。


 花束は人の目へ向けて作られる。傷んだ葉を落とす。茎を切りそろえ、明るい色だけを前へ出す。魚箱はそうはいかない。木に染みた潮。氷の下で曲がった尾。腹をこすった痕。どれも箱の底で黙っている。


 黙っているものほど、嘘は下手だった。


 だから透真は箱を見る。


 屋敷の厨房はまだ眠りの底にあった。竈の灰は黒く湿り、奥に残った熱だけが指先へほのかに返る。吊られた銅鍋は窓の青白さを細く拾い、壁の影をゆっくり伸ばしていた。


 透真は帳面を閉じた。


 朝餉の献立は八割まで決まっている。豆の粥。薄く澄ませた汁。若葉の苦味を油でやわらげた小鉢。粥に添える塩は少しだけ粗くする。噛まずに舌へ残る味がいる朝だった。


 主菜だけは空欄のまま残した。


 海守り殿には軽く。


 凪様には塩を逃がしすぎない。


 語り部殿には香りを先へ置く。


 シレリオ殿には海を思い出させすぎない。懐かしさは皿になるが、痛みまで盛ってはいけない。


 透真は短い鉛筆で余白に印を足した。汀州で身につけた符牒だった。魚名ではない。温度。脂。喉を通る順。眠りから戻りかけた身体へ何を先に入れるか。そのための小さな印。


 厨房の扉が低く鳴った。


 透真は振り向く前に来客を知った。足音はない。床板も鳴らない。それでも空気の上のほうだけが狭くなる。棚の影がわずかに濃くなり、梁が誰かの背丈を測るように見えた。


 戸口にアルフレッド・ダルマスが立っていた。


 黒い燕尾服。硬い白襟。白手袋。銀鎖の懐中時計。黒山羊の頭は戸口の上を当然のように越え、反った角の先だけが梁の暗がりへ沈んでいる。


「おはようございます、料理長」


「おはようございます、ダルマス様」


 透真は前掛けの紐を結び直した。布が腹の前で小さく鳴る。


「市場へ出ます。いつもより半刻ほど早く。馬車は裏に回してあります」


「承知しております」


 アルフレッドは戸口から動かなかった。


 見送る者ならば、そこで道を空ける。用を告げる者ならば、次の言葉が来る。けれど彼はただ立っていた。黒と白と古い金でできた壁のように。


 透真は布袋を開いた。竹箸。味見椀。塩包み。匂いを見る白い小皿。腹を確かめる小刀。帳面。全部を入れてから顔を上げる。


「ダルマス様もですか」


「はい」


「魚を買うだけです」


「存じております」


「朝市は人が多いですよ」


「人が多い場所ほど、道は狭くなります」


 透真は少し黙った。


 港の様子がおかしいことは厨房にも入ってきている。油の値が一日で変わる。干物の包み紙に違う店の紐が使われる。いつもなら余りを笑って押しつけてくる乾物屋が、最近は数だけを言って帰る。


 厨房は街の胃袋だ。


 胃袋は先に不調を嗅ぐ。


「俺は戦う人間ではありません」


 言ってから透真は舌の位置を間違えたと思った。


 客の前では私と言う。屋敷の人間の前でもそうする。だが夜明け前の厨房は汀州に似ていた。水。刃物。眠り残りの火。そういうものがそろうと、昔の言葉が先に出る。


 アルフレッドの金の瞳がほんの少し細くなった。


「そのために、私が参ります」


「市場にですか」


「はい」


「魚箱の前で揉めるほどのことにはならないと思います」


「お館さまの朝餉に遅れが出ることは、揉め事として十分でございます」


 透真は息だけで笑った。


 厨房の奥ではまだ休んでいる者がいる。声を立てる時間ではない。


「魚が聞いたら身が締まりそうですね」


「結構なことです。締まった身は扱いやすい」


 アルフレッドは瞼を一枚だけ下げた。それが笑いだと分かるまでに、透真は少し遅れた。


 裏庭へ出ると夜気が前掛けの裾を冷やした。


 西館の搬入口に荷馬車が待っていた。空の魚箱が二つ。蓋つきの籠が三つ。湿らせた布袋。厚い木桶。乾物用の紙包み。香草をつぶさないための浅籠。


 馬は黒鹿毛だった。鼻先から白い息がほどけ、石畳へ落ちる前に消える。


 御者台の馬丁はアルフレッドを見るなり背を伸ばした。それから透真を見ると、少しだけ肩をゆるめる。


「料理長。今日は早いですね」


「魚に起こされた」


「魚がですか」


「良い魚は人を待たない」


「へい」


 アルフレッドは荷台へ回った。巨躯が乗るには狭いはずだった。だが片手を縁に添えただけで、音もなく身を収める。黒い角が薄い空を一度切った。荷馬車の影が屋敷の壁へ長く伸びた。


 透真は御者台の横に座った。


 門が開く。


 馬車が動き出す。


 背後で屋敷の門が静かに閉じた。


 サルマンディアの白い街は、まだ目を開けていなかった。


 昼の街は白すぎる。壁も石も窓枠も光を返す。婚礼宿の庇には花が下がり、観光客の声が階段へ跳ねる。けれど夜明け前の白は冷たい。水を吸った石灰の白。閉じた店先の白。潮に濡れて骨のようになった壁の白。


 車輪が石畳を噛んだ。


 パン屋の裏から粉と酵母の匂いが漏れる。牛乳壺を抱えた少年が路地を走る。花屋の女が桶の水を替え、まだ眠っている薔薇へ指先で水を払う。婚礼宿の夜番は椅子に沈み、首だけを船のように揺らしていた。


 透真は汀州を思い出した。


 汀州の朝は声から始まる。魚より早く値が飛び、鍋より早く喧嘩が鳴る。ここは違う。人の流れは太いのに、白い観光都市の皮が生活の音を一枚下へ押し込めている。


 けれど港へ近づけば隠せない。


 潮が強くなった。


 濡れた縄。古い樽。麻袋。魚の血。砕けた氷。夜の沖で冷えた板。すべてが混じり合い、透真の鼻の奥を叩いた。


 腹の底が起きる。


「よい顔をなさいます」


 荷台からアルフレッドの声がした。


「顔に出ていますか」


「少し」


「悪い匂いもあります」


「港ではそれも品目に入りますか」


「入ります」


 透真は前を見たまま答えた。


「悪いものが悪い匂いをしているうちは、まだ見えます。よくない時は隠します。香で塗る。氷で覆う。箱を替える。そうなると魚より先に人を見ないといけない」


「今朝は」


「まだ魚の匂いが勝っています」


 そう言ってから、透真は港へ下りる坂の先を見た。


 灯籠の火が不揃いに揺れている。市場の端だけが妙に暗い。人はいる。声もある。それなのに息を吸う場所が狭い。


「ただ、少し詰まっています」


「承知いたしました」


 アルフレッドはそれだけ言った。


──────────────────────────────


 港の朝市はすでに動いていた。


 魚箱が並び、氷が青く光る。網の目から落ちた小魚が石畳の溝で銀を返す。競り台の男が眠そうな顔で数字を吐き、周囲の指がそれを受けて跳ねた。


 声は大きい。


 けれど遊びの騒ぎではなかった。


 本気の市場は余分な声を好まない。手の角度。箱を寄せる幅。目線の速さ。指の本数。言葉が追いつく前に値が変わる。


 透真は馬車を端へ止めてもらった。


 降りた途端、いくつもの視線がこちらへ来た。


 東方の白い前掛け。薔薇の館の荷馬車。後ろに立つ黒山羊頭の執事頭。


 市場の空気がわずかに姿勢を正した。


「おはようございます」


 透真は魚屋の親方へ頭を下げた。


「おう料理長。夜に寝てねえ魚みたいな時間に来たな」


「魚が寝る前に見たくて」


「口だけは一人前だ」


 親方は笑った。笑いの終わりで視線だけがアルフレッドへ動く。


「今日はまた、でけえ影を連れてる」


「荷が多くなるかもしれません」


「そうかい」


 親方はそれ以上を飲み込んだ。


 市場では言わないことも値札になる。


 透真は最初の箱の前にしゃがむ。


 まず札は見ない。値も聞かない。目の澄み方を見る。鰓の色を見る。腹を見る。尾の張りを見る。氷がどこから溶けているかを見る。箱の木がどれだけ水を吸ったかを見る。船を下りてからここへ来るまでの時間が、魚の顔と合っているかを見る。


 一尾を持ち上げた。


 白身の魚。身は締まっている。腹も悪くない。だが下段の二尾だけ押されている。氷の角が腹へ当たる置き方だった。


「上は朝餉に使えます。下は汁へ」


「早えな」


「見れば分かります」


「見ただけか」


「触りました」


「撫でただけだろ」


「撫で方にも仕事があります」


 親方は鼻で笑い、足で別の箱を寄せた。


「じゃあこれは」


 蓋を開けると小ぶりの赤い魚が並んでいた。目に力がある。脂もある。香りも悪くない。けれど朝の怪我人には強すぎる。体を起こす前に味が勝つ。


「半箱ください。使用人衆の昼へ回します。あらは汁に」


「客には出さねえのか」


「朝には強いです」


「贅沢だな」


「贅沢ではありません。順番です」


 親方の笑いが少し引いた。


「まだ寝込んでるのか」


「戻っています」


 透真は魚へ目を落としたまま言った。


「戻っているから、急がせない皿にします」


 身体には戻る順番がある。


 胃を起こす。喉を開く。熱を入れる。塩を少し戻す。痛みを抱えた身体は食べたい量を間違えることがある。食べたいと言う口と、受け取れる腹が別々に目を覚ますからだ。


 料理人がそこを急がせると、親切な皿が疲れになる。


 透真は白身を二箱選び、赤い魚を半箱だけ押さえた。


 次は小魚だった。粥の出汁に使う。干し貝の戻し汁と合わせるなら香りが強すぎないものがよい。小さいから雑に見ていいわけではない。小さいものほど逃げる味が速い。


 競り台で声が上がった。


 数字が飛び、手が上がる。


 透真は通路の向こうの箱を見た。


 氷の角が丸すぎた。


 魚はそこまで悪くない。目も残っている。けれど氷が先に疲れている。夜明け前の市場で日なたに置かれたはずはない。それでも角だけが甘い。運ぶ途中で熱のある場所を通ったか、誰かが順番を入れ替えたか。


「あれは」


 透真が小さく指すと、親方の顎が固くなった。


「やめとけ。今は触るな」


「魚は死んでいません」


「話がついてる」


 その声は木箱の軋みより低かった。


 アルフレッドは少し離れて立っている。動いていない。市場の者は彼の前を通る時だけ、無意識に道幅を広く取った。まるでそこに見えない敷居があるようだった。


 透真は箱から視線を外した。


 今は触れない。


 魚の通りを抜けて香草の並びへ行く。


 朝市は匂いの層でできている。魚の血の隣に濡れた葉がある。土の匂いがある。さらに奥には乾物。塩。油。酢。柑橘。豆。樽の内側に染みた古いオリーブ。


 香草売りの老婆が束を三つ差し出した。


「料理長。今日はこっちだ。苦いよ」


「苦いのは助かります」


「若いのに変なことを言う」


 透真は束を受け取った。


 葉の裏は冷たい。茎の切り口には水が残っている。香りは尖っているが、油に落とせば角が丸くなる。朝には半分で十分だ。


「半分ください」


「一束じゃないのかい」


「夜なら一束です」


「夜にまた来るかい」


「夜は厨房で湯気を見ています」


 老婆は歯を見せて笑った。


 透真は柑橘を二つ選んだ。皮が薄い。指で押すと香りがすぐ立つ。酸は明るいが強すぎない。蒸した魚へ一筋。語り部殿の皿には香りだけ。海守り殿には皮を外す。凪様には少し。シレリオ殿の汁には一滴だけ落として、海の匂いの角を取る。


「お館さまなら、この香りを面白がりそうです」


 アルフレッドが箱を見下ろした。


「お館さまは勝つ香りもお嫌いではございません」


「朝に勝たせたら、海守り殿の腹が閉じます」


「では夜へ」


「夜へ」


 それだけで献立の端が決まった。


 乾物屋では干し貝を少し買った。値は張る。だが戻し汁がよい。薄い粥に入れると水分が体へ入りやすい。干し魚は見送った。塩が強く、今朝には前に出すぎる。


 豆を一袋。


 白い根菜を少し。


 粗塩を小袋で二つ。


──────────────────────────────


 荷馬車の籠が埋まり始めた頃、魚市の向こうで音が落ちた。


 大声が上がったのではない。


 逆だった。


 声が止まった。


 市場で一番目立つのは沈黙だ。包丁の音。氷の音。濡れた箱を置く音。それらの間にある人の息が、いっせいに細くなる。


 透真は振り向いた。


 さきほどの箱だった。


 男が三人いる。白っぽい上着。新しい布。袖口の小さな札。荷役にしては足の置き方が乱暴で、商家の者にしては肩に品がない。


 一人が魚箱の端を持ち上げていた。


 箱が傾く。


 魚の腹が氷へ押される。


 透真の足は考えるより先に動いた。


「その箱、傾けないでください」


 大きな声ではなかった。


 それでも止まった市場にはよく通った。


 男の一人がこちらを見る。


 若い。透真より年下かもしれない。けれど目だけが自分より大きな名をかぶっていた。自分の力ではないものを腰に差している目だった。


「なんだ」


「腹が潰れます」


「買うのか」


「買う前に魚が駄目になります」


 男の口が歪んだ。


 周囲の魚屋たちは目を伏せた。親方だけが透真を見る。止めたい顔をしている。けれど声を出さない。出せないのではなく、出した後に続くものを知っている顔だった。


 箱の反対側で荷運びの少年が固まっていた。指が木の縁にかかったまま白い。爪の下に魚の鱗が光っている。


「先に話はついてる」


 別の男が言った。


 少年の指が木の縁へ残っている。


 透真は箱へ近づいた。


「話がついているなら、なおさら丁寧に運んでください」


「料理人が口を出すな」


「料理人だから口を出しています」


 男の額に熱が上がった。


 肩が動く。


 押してくる。


 透真には見えた。汀州の市場にもこういう肩はあった。魚を見ずに人を動かそうとする肩。濡れた床で足を滑らせる前の肩。


 避けることはできる。


 だが避ければ少年に当たる。


 透真は足を止めた。


 次の瞬間、白手袋の指が男の手首へ触れた。


 触れただけに見えた。


 男の腕が止まる。


 アルフレッドは透真の横にいた。いつ移動したのか分からない。巨躯の影が魚箱を覆い、黒い角が灯籠の火を細く切った。金の横長の瞳が男を静かに見下ろしている。


「市場で刃物を抜くのは、おすすめいたしません」


 透真はそこで初めて、男のもう片方の手が腰へ向かっていたことに気づいた。


 白手袋の親指が手首の内側へ沈む。


 沈むと言ってもわずかだった。豆を押すより浅い。けれど男の膝から力が抜けた。声が出る前に腕だけが先に負け、膝が石畳へ落ちる。


 二人目が横から踏み込む。


 アルフレッドの杖が床を鳴らした。


 小さな音だった。


 銀頭の杖は男の足首の前に置かれていた。踏み出した足は行き先をなくし、膝が内へ折れる。男の身体が魚箱へ倒れかける。


 透真は反射で箱を押さえた。


 魚の腹を守るためだった。


 男の肩は箱へ触れなかった。アルフレッドの肘がそこへ置かれ、身体の向きを変えた。次の瞬間、男は通路の端に座らされていた。


 倒されたのではない。


 置かれた。


 椅子の位置を直すような動きだった。


 三人目が一歩引く。


 市場の誰かが息を飲んだ。


「シローネの……」


 その名は潮と血の匂いにまぎれるほど小さかった。


 アルフレッドは聞こえたのか聞こえなかったのか分からない。瞼の角度だけが変わらず、一歩だけ前へ出る。


 走らない。


 それだけなのに三人目の逃げ道は消えた。背後は魚箱。右は競り台。左は荷運びの少年。前には黒山羊頭の執事頭。


「通路を塞いでおります」


 アルフレッドは低く言った。


「お退きください」


 三人目の唇が動いた。


 言葉は出ない。


 アルフレッドの角の影が男の胸へ落ちた。礼をする前のような、わずかな上体の傾き。それだけで男の喉が鳴った。


「……分かった」


「結構でございます」


 アルフレッドは一礼した。


 礼が終わる頃には、男は半歩下がっていた。


 手首を押さえた男は膝をついたまま息を荒くしている。もう一人は足首を庇い、立つことを諦めている。骨は折れていない。けれど走ることはしばらく無理だろう。


 アルフレッドは白手袋を見た。


 汚れはない。


 それから透真へ視線を移す。


「料理長。魚箱をお改めください」


 透真はうなずいた。


 心臓が速い。


 怖かったのかと問われれば怖かった。自分へ向いた怒りより、市場が慣れている顔をしたことのほうが怖かった。誰も叫ばない。誰も驚ききらない。早く済めという顔だけが並んでいた。


 そういう顔は帳面へ残る。


 透真は箱の蓋を開けた。


 白身の魚が並んでいる。上の三尾は無事。下の一尾は腹が少し潰れていた。使えないほどではない。けれど客の皿には出せない。骨と頭を洗えば汁へ回せる。皮も焼けば香りになる。


 魚は悪くない。


 悪いのは箱を傾けた手だ。


 透真は親方の顔を見た。


 売れるかどうかは、この人の首の角度で決まる。


「これは買います」


 透真は親方へ言った。


「潰れた分は引いてください。下の一尾は出汁にします」


 親方はしばらく黙った。


 それから鼻から息を出す。


「強情だな」


「食べられます」


「そういう話じゃねえ」


「俺にはそういう話です」


 親方は口を歪めた。笑おうとしてやめた顔だった。


「分かった。持ってけ」


「払います」


「払え。そこまで甘くねえ」


「ありがとうございます」


 市場は拍手しなかった。


 それでいい。


 拍手は祭りの音だ。朝市には要らない。魚屋が声を戻し、競り台の男が数字を吐き直す。荷運びの少年は箱の持ち方を変えた。香草売りの老婆は何も見ていなかったように紐を結び直す。


 ただ音の戻り方は少し荒かった。


 止められた血が流れ直す時、最初の拍だけ強くなる。


 透真は魚箱を荷馬車へ運ばせた。自分も端を持った。冷たさが指の腹へ入る。木箱の重みは厨房までの責任そのものだった。


 シローネの札をつけた男たちは港の端へ退かされた。


 アルフレッドは誰かを呼びつけなかった。市場の通路を塞がない位置へ移しただけだった。その先を港の見張りがどうするかは分からない。決められるのかも分からない。


 透真はそこを見ない。


 見ないことと忘れることは違う。


 最後に氷を買った。厚い木桶へ入れる。魚箱の温度を保つためだ。柑橘の籠には濡れ布をかける。香草は別の浅籠へ。干し貝は紙包みのまま湿気を避ける。


「荷は以上ですか」


 アルフレッドが訊いた。


 透真は荷台を見回した。


 白身の箱。赤い魚。香草。柑橘。豆。根菜。干し貝。粗塩。あらに回す分。朝の汁へ入れる小魚。


「以上です」


「では、戻りましょう」


「はい」


──────────────────────────────


 馬車が動き出す頃、港の空が白み始めた。


 朝日はまだ出ていない。けれど海の縁だけが薄くなり、船の帆が一枚ずつ形を取り戻していく。夜明け前の市場は日の差す直前にすべての汚れを見せる。石畳の水。鱗。血。踏まれた葉。割れた氷。


 その上を今日の魚が運ばれていく。


 透真は御者台で手を握り、また開いた。


 指先に震えが残っていた。


「痛めましたか」


 荷台からアルフレッドの声が来る。


「いいえ」


「では、怒っておいでですか」


 透真はすぐには答えられなかった。


 馬の蹄が坂を上る。車輪が石の継ぎ目で揺れる。荷台の魚箱が低く鳴った。氷の中で魚が眠り直すような音だった。


「魚を雑に扱われるのは、腹が立ちます」


「人ではなく」


「人にも立ちます」


 透真は自分の手を見た。


 包丁傷の細い痕。火傷の薄い色。短く切った爪。魚の冷たさを覚えた指。


「でも人に腹を立てたまま包丁を持つと、切るものを間違えます」


 アルフレッドは少し黙った。


「よい心得です」


「汀州で叩き込まれました」


「どなたに」


「兄と姉と叔母です。あと港の魚屋全員」


「それは、よく叩き込まれたことでしょう」


 透真は小さく笑った。


 笑うと胸の硬さが少しほどけた。


 街は起き始めている。


 婚礼宿の扉が開く。花屋が表へ桶を並べる。白い壁が朝の光を拾う。さきほどまで湿った骨に見えた街は、もう観光都市の顔へ戻りつつあった。


 港の荒れは白い壁のこちら側から見えにくくなる。


 見えにくくなるだけだ。


──────────────────────────────


 屋敷へ戻ると厨房は起きていた。


 下働きが湯を沸かし、若い厨房番が竈へ薪を足す。壁にはメリッサが残した伝達板がかかっている。西館へ出す膳の順番。医者の来訪時刻。薬湯の支度。小皿に骨を残さないようにという注意。


 透真は前掛けを替えた。


 市場の匂いをそのまま厨房へ入れない。手を洗う。指の股まで。爪の間まで。手首まで。水は冷たい。あの男の手首を透真は触っていない。見ただけだ。けれど水が流れると、白手袋の親指が沈んだ場所を思い出した。


 包丁台へ立つ。


 魚箱を開ける。


 夜明け前の暗さが底に少し残っているように見えた。


 透真は最初の白身を取り上げる。


 目は澄んでいる。


 鰓もよい。


 腹も無事だ。


「よし」


 短く言って柳刃を抜いた。


 刃が朝の光を受ける。


 若い厨房番が近づく。


「料理長。あらは」


「洗って弱火。沸かすな。泡を見る」


「はい」


「干し貝は小鍋で戻す。戻し汁は捨てない。豆は先に水へ。根菜は薄く。香草は半分だけ」


「半分ですか」


「朝は半分。残りは夜」


 指示を出すと厨房が動いた。


 竈の火。水の音。包丁の軽い拍。木杓子が鍋肌へ当たる音。魚箱の蓋が壁に立てかけられる音。どれも朝の仕事へ戻っていく。


 透真は潰れた一尾を最後に取った。


 腹の形は悪い。客の皿には出せない。だが骨は使える。頭も使える。皮も焼けば香りが立つ。


 魚は悪くない。


 透真はもう一度思った。


 悪い朝だったとは言わない。


 朝は朝だ。


 港で起きたことは形を変えて食卓へ届く。ならば届く前に整える。荒れを荒れのまま盛らない。怖さを塩で隠さない。腹立ちを刃へ移さない。


 それが料理人の仕事だった。


 水で洗う。


 塩を打つ。


 しばらく置く。


 余分な水が出るのを待つ間に、透真は柑橘の皮を薄く剥いた。白い部分は残さない。苦味は若葉に任せる。柑橘は香りだけでいい。


 鍋の中で干し貝の戻し汁が色を出し始める。


 薄い黄金色だった。


 夜明け前の魚箱から、朝の膳へ。


 透真は包丁を構え直した。


 港の荒れを、皿の上で荒れさせないために。

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