動きやすい白道
支部の扉が背中で閉まった瞬間、外の白が目に刺さった。
眩しい。
朝日だけのせいではない。石畳も壁も日除けも光を返していた。港から吹く風が花輪を揺らし、観光客の笑い声が乾いた鈴みたいに鳴る。
俺は一度だけ息を吸った。
支部の中で報告書に置いた言葉が、喉の奥から身体へ戻ってくる。
撤退。
討伐未達。
敵幹部への接近。
白真珠の塔の賢者との接点。
紙面では整っていた。書記の手で欄に収まり、報告の体裁を持っていた。だが外へ出ると、語の重みはまた骨へ沈む。右肩の奥が熱を持ち、鞘の重さが腰の左で沈んだ。
昨日、俺たちは退いた。
その事実は陽光の下でも軽くならない。
カイの袖口が風で揺れていた。神官服の端に薄い金糸が光る。包帯の下で腕を庇っている。本人は表に出さない。だから余計に目に入る。
ガイウスはいつも通りに見えた。背中の盾。重い足音。広い肩。だが歩幅は半歩だけ狭い。俺に合わせているのではない。全員の傷へ合わせている。
ヴァローは短杖を握ったまま、街路を目だけで測っていた。眩しさが不得手なのだろう。灰色の瞳の周りに疲れが残っている。
ヴェスタは鼻を動かした。
海の気配を探る者の仕草だった。
「こちらです」
ルシアンが先に立った。
外套の裾が光の中で揺れる。黒い縁取りは細い線になり、街の明るさに溶け込まない。彼は歩く速度を落としすぎなかった。遅いと負傷者扱いになる。速いと痛みが出る。その中間を最初から選んでいる。
「宿までは五分ほどです。段差の少ない道を選びました」
「選んだんですね」
ヴァローが返した。
ルシアンは振り向かずに笑う。
「怪我人がいる時は道も薬の一部です」
「便利な薬ですね」
「効き目は地味です」
「副作用は」
「多くはないと思います」
「ないとは言わない」
「どんな薬にもありますから」
ヴァローは鼻で息を吐いた。皮肉の形をしているが、歩調は乱さない。言葉で刺しながら、その薬に足を預けている。
俺は足もとへ目を落とした。
確かに歩きやすい。
石畳の継ぎ目は浅い。雨水の溝は脇へ寄せてある。店先の木箱は路面へ出ていない。小さな橋には低い手すりがあり、橋の前後に段差がなかった。荷車の轍も浅い。
誰かの身体が躓かないよう、先回りして整えられた足もと。
助かる。
肩がそう認めた。膝も認めた。昨日の疲労を残した足裏も、黙ってそれを認めている。
同時に胸の奥が詰まった。
歩きやすいということは、歩く先を決めやすいということでもある。
「レオン君」
ルシアンが横へ退いた。
「ここから誓約広場が見えます」
白い先で海が開けた。
広場は水に抱かれていた。浅いラグーンは青というより、光を溶かした緑に近い。婚礼船がいくつも浮かび、舳先には布と花輪が結ばれている。布は風を孕み、船縁に座った若い女が声を上げて笑った。
笑い声が水面で跳ねる。
広場の中央には低い台がある。皿には塩が盛られていた。塩の中へ赤い花弁が混じる。近くの店から薔薇の香りが流れ、硝子瓶の蓋に結ばれた珊瑚色の紐が揺れていた。
「薔薇塩か」
カイが低く言った。
その声は穏やかだった。祈祷の前に灯りを整える時の声に似ている。
「サルマンディアの婚礼ではあれを分けます」
ルシアンが答えた。
「同じ食卓を持つ誓いです。中央式の婚姻証書より、こちらではずっと人気があります」
「中央式は不人気ですか」
カイの肩がわずかに下がる。責めた声ではない。傷ついた声でもない。ただ、知らない土地の重心に触れた音だった。
「不人気というより主役ではありません」
ルシアンは足を止めない。
「ここでは海の前で誓う方が自然です」
「土地の祈りが先にある」
「ええ。オルヴェリスの祈りは、その後ろで記録を支えます」
「記録ですか」
「暮らしには要ります。祝福だけでは翌月の家賃は払えませんから」
カイは小さく笑った。
「それは神官にも耳が痛いですね」
「私にも痛いです」
ルシアンも笑う。
ヴェスタは薔薇塩の瓶を眺めていた。買う顔ではない。手に取る客の層。店番の目。小瓶の数。逃げ道。全部を一度に探っている。
「塩まで洒落た瓶に詰めるか」
「売れますから」
「祈りも商売になる街だな」
「商売にならない祈りは長く残りにくいのです」
「白い兄ちゃん、さらっとすげえこと言うな」
「本部の人間は会計にも詳しくなります」
「嫌いじゃねえよ。そういう身も蓋もねえところ」
ルシアンは笑みを崩さなかった。
広場の向こうに案内板が立っていた。
青い文字が揃っている。誓約広場。海神祠。水上宿。珊瑚硝子通り。薔薇塩回廊。細い矢印は美しく、迷う前に足が向くよう作られていた。板の縁まで磨かれ、潮風の錆は見えない。
同じ意匠の腕章をつけた係が、観光客へ小舟の時刻を教えていた。若い夫婦が礼を言い、桟橋へ向かう。係は笑顔を崩さない。笑う角度まで訓練されているようだった。
「マーレの案内板ですね」
ヴァローが言った。
ルシアンが頷く。
「マーレ・パラデイソス・リゾーツ特許会社。通称マーレです。宿泊区と婚礼導線の整備を担っています」
「導線」
ヴァローがその語を舌の上に置いた。
「迷子を減らすためですか」
「それもあります」
「迷う余地も減りますね」
「観光客には喜ばれます」
「観光客には」
ヴァローの目が案内板から広場へ移る。人の流れが矢印に沿って滑っていく。誰も命令されていない。誰も急かされていない。それなのに、みな同じ橋へ吸い込まれていく。
人は安心すると、整えられた流れを疑わない。
俺も今、その流れに助けられている。
「勇者様だ」
小さな声がした。
通りすがりの子供が俺の鞘を見て、母親の袖を引いていた。母親は慌てて頭を下げる。俺は笑って返した。勇者として。笑うために肩を動かした瞬間、右肩の奥が鈍く痛む。
痛みは笑みの裏へ沈めた。
婚礼衣装の男が帽子を取る。薔薇塩の店番が手を止める。水上宿へ向かう女が胸に手を当てた。人波が静かに割れる。日除けと衣装の間に、俺たちのための細い隙間ができる。
昨日は退いた。
今日は人波が開く。
その二つが胸の中でうまく噛み合わない。
「勇者様」
花輪を抱えた少女が一歩近づいた。
母親がそっと肩を抱く。叱るのではなく、近づきすぎないよう守る手だった。少女の指には花粉がついている。赤と白の花輪を、潰さないように抱えていた。
俺は膝を曲げなかった。
曲げたら立つ時に出る。
「良い式になるといい」
「うん」
少女は花輪を強く抱いた。笑った頬が朝日に光る。
その花の香りが過ぎたあと、別のものが鼻へ触れた。
苦い。
香油ではない。焼き菓子でもない。塩でも海藻でもない。もっと乾いている。舌の裏に砂を置かれたような、ざらつく気配だった。
俺は足を止めた。
ほぼ同時にヴェスタが横を向く。
「火薬だ」
低い声だった。
ガイウスの左手が腰へ落ちる。カイは周囲の人へ目を走らせた。ヴァローは案内板から視線を外し、路肩の端を追う。ルシアンだけが半歩前で静かに止まった。
壁があった。
その一角だけが新しい。塗り直された石灰が乾ききっておらず、陽を鈍く返している。同じ色に見せているのに、周囲とは違った。足もとの石畳は水で洗われている。けれど継ぎ目には黒い粒が残っていた。
近くには壊れた屋台の板が束ねられ、布で覆われていた。布の端から焦げた木の気配が滲む。観光客が寄らないよう、花鉢が不自然な位置に置かれている。
マーレの腕章をつけた係が、笑顔で人の流れを変えていた。
「あちらの橋からですと水上宿の眺めがよく見えます」
声は明るい。
明るすぎるほどだった。
子供が黒い粒へ手を伸ばしかけた。母親が素早く手首を掴む。何も言わない。強くも叱らない。ただ、そのまま手を引いて橋へ連れていく。子供は不満げに振り返ったが、母親の横顔を見て黙った。
「昨夜か」
ヴェスタが言った。
「今朝なら水の気配が勝つ。これは一晩置いた火薬だ」
「港湾下層の揉め事です」
ルシアンの声は変わらない。
「観光客の方へ広がるものではありません」
「広がる前に畳んだんだろ」
「広げないことも治安の仕事です」
「何を畳んだ」
ヴェスタの目が壁の端へ落ちた。
水を吸った荷札の切れ端がある。文字はにじんでいた。だが黒い印だけは残っている。
シローネ商会。
拾えたのはそこだけだった。
「物流の名は街のどこにでもあります」
ルシアンが言った。
「この街では特に」
「便利な答えだな」
「正確な答えでもあります」
ヴェスタは屈みかけてやめた。
触れば踏み込む。踏み込めば理由が要る。今の俺たちに、その理由はまだない。少なくとも、ここで刃を抜く理由ではない。
壁の近くで店主らしい男が戸板を直していた。手は早い。頭は上げない。釘を打つ音が短く響く。
ヴァローが近づいた。
「失礼。昨夜こちらで何か」
男は手を止めなかった。
「済んだことです」
「怪我人は」
カイが聞いた。
その時だけ男の手が止まった。
釘の頭が曲がる。
「派手な音のわりにはたいしたことはありませんでした。治安隊も来た。水も撒いた。もう済んだ」
済んだ。
二度目の言葉は固かった。済んだことにしたい者の固さだった。
香油の店から濃い薔薇の香りが流れてくる。店員が瓶の蓋を開け、客へ試させていた。甘さがあたりへ広がる。火薬の苦さは薄くなる。
だが消えない。
奥へ押し込まれているだけだ。
「普通の喧嘩じゃねえ」
ヴェスタが言った。
「火薬を使う連中は見せたいか消したいかのどっちかだ」
「今回はどちらですか」
カイが聞く。
「消したい奴がいる。見せたい奴もいる」
「混じっていると」
「火薬の気配は消したい。けど火薬を使えるってことは見せたい。そういう手つきだな」
ルシアンがヴェスタを見た。
灰青の瞳がわずかに細くなる。
「君は現場を見る目がある」
「褒めてもらうために生きてねえよ」
「でしょうね」
ルシアンは怒らない。笑みを深くもしない。ただ、先へ視線を移した。
「この件は治安隊と組合が扱っています。勇者一行が今ここで背負う必要はありません」
必要。
その言葉で線が引かれた。
俺たちは昨日、ロドルとの戦いから退いた。今日、支部で報告を終えた。これから宿へ行き、医者に診てもらうべきだ。知らない街の火薬の痕跡へ、負傷した仲間を連れて踏み込む理由はない。
筋は通っている。
通っているから胸が重い。
俺は塗り直された壁を見た。乾ききらない石灰。焦げの黒。片づけられた屋台。子供を止める親。笑顔の係。薔薇の香油。
「行こう」
俺は言った。
ヴェスタがこちらを見る。
「いいのか」
「今は、だ」
「今はね」
ヴェスタは口の端を上げた。
「そういう言い方なら嫌いじゃねえ」
カイは何か言いかけて飲み込んだ。ガイウスは腰の手を戻す。ヴァローは最後に壁を見てから、短杖の先を下げた。
ルシアンは何も言わなかった。
俺たちは白い流れへ戻った。
歩きやすさはすぐ戻ってくる。塗り直された壁は後ろへ流れた。婚礼船の鈴が鳴る。案内板の青い文字がまた行き先を示す。観光客の声が広場を満たしていく。
珊瑚硝子通りへ入ると光の色が変わった。
店先の棚に青緑の瓶が並んでいる。丸い瓶。細い香水瓶。誓約証を入れる筒。灯花蝋の芯を収める小さな器。どれも海の水を小さく固めたように光っていた。
職人が炉の横で砂を指差している。観光客が歓声を上げる。子供が硝子の魚を欲しがり、父親が値札を見て眉を寄せた。
「見事ですね」
カイが言った。
その目は素直だった。綺麗なものを綺麗だと言える目だ。俺はそれを見て息を吐く。カイがそういう目をするだけで、周りの明るさは柔らかくなる。
「サルマンディアは綺麗なものを作るのが上手い街です」
ルシアンが言った。
「綺麗に見せるのも上手い」
ヴァローが返す。
「その二つは違いますか」
「違うでしょう」
「重なることもあります」
「だから厄介なんです」
ルシアンは軽く笑った。
「ヴァロー殿は観光に向きませんね」
「月読みの塔に観光客は来ません」
「それは残念です」
「本気で言っていますか」
「ほんの少しだけ」
「それで十分です」
軽い会話だった。
けれどヴァローの目は止まらない。案内板。曲がり角。マーレの腕章。治安隊の位置。店の陰で煙草を揉み消す若い男たち。整った服。汚れた靴底。
ガイウスも気づいていた。
「右の二人」
俺にだけ聞こえる声だった。
「見た」
「逃げるなら細い坂だ」
「戦うな」
「まだな」
短い返事。
まだ。
その言葉が喉の奥に残る。
橋を渡ると宿が見えた。
高すぎない建物だった。壁は明るく、瓦は青い。入口には薔薇ではなく潮真珠を模した丸い飾りが下がっている。看板には小さく《白帆亭》と書かれていた。観光客向けの華美な宿ではない。けれど安宿でもない。港にも支部にも組合にも出やすい場所だった。
「こちらです」
ルシアンが入口へ入る。
──────────────────────────────
宿の主人は待っていた。
待っていたことを隠さない。帳面。鍵束。清潔な布。用意された水差し。奥からは煮込みの香りがした。肉も入っている。
ガイウスの目が動いた。
ルシアンが先に言う。
「柔らかい煮込みです。香辛料は控えめにしてあります」
「肉はあるな」
ガイウスが確かめる。
「あります」
「十分だ」
「明日以降は増やしましょう」
「約束だぞ」
「はい」
宿の主人が笑いを堪えた。
カイはすでに部屋割りを見ている。
「二階ではないのですね」
「中庭側の一階です」
ルシアンが答える。
「窓から風が入ります。通りの音は少ない。医者を呼ぶ時も裏口から入れます」
「助かります」
カイは素直に言った。
俺も同じだった。
助かる。
部屋は近い。水場も近い。食事もある。医者も来る。支部へ戻るにも、組合へ向かうにも近い。負傷した俺たちにとって申し分ない配置だった。
だからこそ腹の底に重さが落ちる。
逃げ道まで用意されている。
それは親切だ。間違いなく親切だ。だが決まりすぎた親切は、時々扉の形をした檻に似る。
「組合へは」
ヴェスタが聞いた。
「歩いて七分ほどです」
ルシアンはすぐ答えた。
「測ったような距離ですね」
ヴァローが言う。
「測りました」
「隠さないところが厄介です」
「隠すと余計に気にするでしょう」
「気にしています」
「では隠さなくて正解でした」
ヴァローは返事をしなかった。
主人が鍵を出す。五つ。俺たちの部屋と、物置に使える小部屋。カイは薬湯を作れるか聞いた。ガイウスは台所の扉を見ている。ヴェスタは中庭の出口を確かめた。足が二度だけ動く。距離を測る癖だ。
「ここなら夜でも動ける」
ヴェスタが言った。
「動かないでください」
カイが即座に返す。
「たとえばの話だって」
「あなたのたとえばは翌朝には現実になることがあります」
「信用ねえな」
「あります。だから止めています」
ヴェスタは笑った。
その笑いは支部の中で見せたものより楽だった。宿の空気が人を緩めるのかもしれない。煮込み。焼いたパン。洗った布。水差し。中庭の土。
「荷は先に入れておきましょう」
ルシアンが言った。
「その後、冒険者組合へ。ヴェスタ君の継続雇用手続きを済ませます。今後の同行に必要です」
ヴェスタの笑いが消えた。
「必要な確認ってやつか」
「今回は君のためでもあります」
「俺のため」
「教会の管理下に置く書類ではありません。ヴェラーナ港支部からの継続契約として、サルマンディア支部で受け直します」
ヴェスタは黙った。
軽口が止まると、彼の輪郭には海風で削られた線が出る。額のバンダナ。鼻筋の古い跡。左眉の傷。曲刀を吊るす腰の角度。
「組合の仕事としてか」
「はい」
「俺は教会の人員じゃねえ」
「その方が自然でしょう」
ルシアンの声は静かだった。
ヴェスタは俺を見た。
俺は頷く。
「そのままでいい。俺たちはヴェスタに同行を頼んでいる」
「雇ってる、だろ」
「雇っている」
「ならいい」
ヴェスタは肩を軽く回した。
「紙に縛られるのは好きじゃねえ。けど書類がねえと余計に縛られるのも知ってる」
「助かります」
カイが言った。
「あなたが安心して同行できる形がいい」
「カイの兄ちゃんにそう言われると背中がむずむずするな」
「では慣れてください」
「容赦ねえ」
ガイウスが煮込みの香りを吸い込んだ。
「組合が先か。飯が先か」
ルシアンは一拍置いた。
「軽く食べてからにしましょう。空腹の契約は揉めます」
「わかってるじゃねえか」
ガイウスの声が満足へ寄った。
俺たちは宿で短く休んだ。
短い休みだった。荷を置く。水を飲む。パンと薄い煮込みを腹に入れる。カイが俺の肩を見ようとする。俺は逃げようとして失敗する。ガイウスは椀を手にしたまま、肉の少なさを黙って数えていた。
ヴァローは部屋の机で報告書の写しを広げていた。目の下の疲れは濃い。だが手は止まらない。支部で置いた言葉を、まだ自分の中で組み替えているのだろう。
ヴェスタは窓から中庭を見ていた。屋根へ上がれそうな場所を見つけた目だ。口にしないだけで、もう二つは逃げ筋を測っている。
俺は寝台へ座らなかった。
座れば立ち上がれなくなる気がした。
代わりに窓のそばで水を飲む。中庭には井戸と柑橘の木がある。木の葉は明るい壁の中で濃く見えた。観光区とは違う。洗濯物を干す紐がある。欠けた鉢がある。踏まれて固まった土もあった。
生活の気配だ。
ここは良い宿だ。
誰かが、俺たちにとって良い宿を選んだ。
ありがたい。
ありがたいのに重い。
「レオン」
カイが呼んだ。
「座ってください」
「すぐ出る」
「すぐ出るから座るんです」
俺は負けた。
椅子に腰を下ろす。右肩の力が抜ける。抜けた瞬間に痛みが追いついた。隠したつもりだったが、カイが眉を寄せた。
「やはり腫れています」
「歩ける」
「歩けるかどうかだけで決めないでください」
「わかってる」
「本当に」
「本当に」
カイはまだ疑っていた。俺も、疑われるだけの顔をしたのだろう。
ヴァローが写しを畳む。
「行きましょう。契約は早い方がいい」
「珍しく積極的だな」
俺が言うと、ヴァローは眼鏡の位置を直した。
「書類が曖昧なまま人だけ動くのは危険です」
「魔導士の考えか」
「書記の考えです」
「お前、いつから書記になった」
「誰かがやらないとあなたは全部背負おうとします」
返す言葉がなかった。
ヴェスタが口笛を吹いた。
「勇者の兄ちゃん、今日はよく刺されるな」
「昨日も刺された」
「そっちは笑えねえ」
「俺も笑ってない」
「悪かった」
ヴェスタはすぐ謝った。
その素直さに笑ってしまう。笑うと肩が痛む。痛むが歩ける。今はそれで十分にするしかない。
俺たちは宿を出た。
今度の道筋はさっきより港に近い。
観光区の縁をなぞるように進む。左手には香油の店と小さな菓子屋。右手には倉庫へ続く細い坂。白布を積んだ荷車が横切り、車輪には港の黒い泥がついていた。
一歩ごとに街の明るさが変わる。
広場では祝福だった。
宿では休息だった。
──────────────────────────────
港へ近づくと、仕事を隠す布に見えた。
「この先です」
ルシアンが言った。
冒険者組合サルマンディア支部は外洋港区の入口にあった。
明るい建物だが、観光区のものではない。壁には潮と革と油の気配が染みている。入口の板は何度も修理され、敷居には靴底の傷が重なっていた。中から笑い声が漏れる。怒鳴り声。硬貨の音。羽根ペンが紙を擦る音。
ヴェスタの肩が下がった。
「やっと息がしやすい」
「ここがですか」
カイが驚いたように言う。
「香油より汗と革の方が信用できる」
「あなたらしいですね」
「褒めてるか」
「ほんの少し」
「じゃあもらっとく」
扉を開けると視線が集まった。
勇者を見る目。
神官へ向く目。
魔導士を量る目。
山の戦士で止まる目。
そしてヴェスタを見る目。
最後のものだけ種類が違う。値踏みではない。知っている気配を確かめる目だった。どこの支部か。どの船に乗れるか。どこまで潜れるか。酒場で揉めるか。背中を預けられるか。
ヴェスタは視線を流した。
嫌がっていない。
ここでは彼も、ただの余所者ではなかった。
「サルマンディア支部へようこそ」
受付の女が頭を上げた。
年は三十手前ほど。髪を後ろで結び、指にはインクの跡がある。笑顔は早いが、目は書類を先に見ていた。組合の受付だ。人と書類の重さを同時に量る者の目だった。
ルシアンが一歩前へ出た。
「ヴェラーナ港支部所属、ヴェスタ・ロウの継続雇用手続きをお願いします。雇用主はレオン・ソル。同行目的は調査支援と現地案内補助。既存契約の写しはこちらに」
「伺っています」
受付の女は帳面を開いた。
伺っています。
今日、何度も聞いた。
俺は周囲を見た。
壁には依頼板がある。羊皮紙と潮文紙が混ざっていた。護衛。運搬。沈没物の回収。ラグーン外縁の海獣警戒。水上宿の夜間巡回。釘で留められた依頼が風に揺れ、古い跡が板に残っている。
その中に別の三枚があった。
旧水路南口、夜間巡回補助。
封鎖倉庫区、焦げ跡確認。
火薬筒不正持ち込みに関する情報提供。
その下に小さな注意書きが貼られている。
シローネ商会関係者との揉め事は必ず組合職員を通すこと。
ヴェスタの目もそこへ留まっていた。
「街の体温計みたいな板だな」
ルシアンが言う。
「熱がありますね」
ヴァローが返した。
「わずかに」
「そのわずかでこの数ですか」
「港町ですから」
「便利な言葉が多い」
「便利ですから」
受付の女が咳払いした。笑いを飲んだ音だった。
「ヴェスタ・ロウさん」
「おう」
「ヴェラーナ港支部の写しと照合します。等級、任務履歴、違約記録の確認を行います」
ヴェスタの笑みが消えた。
受付の女はすぐ続ける。
「ただし過去所属の再審査ではありません。今回の契約に必要な範囲のみです」
ルシアンは受付の手元を見ている。こちらを見ない。
さっき宿で彼が言ったことが、もう受付の口に乗っていた。
必要な確認。
過去を掘る書類ではない。
ヴェスタは息を吐いた。
「わかった。必要な範囲で頼む」
「承ります」
その言葉で書類が前へ滑ってくる。
この街の手続きはよく整っている。整いすぎているほどに。
俺は受付台の前に立った。
ペンを渡される。雇用主の欄。同行期間。報酬。負傷時の責任分担。秘密保持。依頼の範囲外行動。細かい文字が紙面を埋めていた。
聖剣より重くはない。
だが別の重さがある。
「レオン君」
ルシアンが横から声をかけた。
「教会の書類ではありません。組合の契約です。君が雇う形になります」
「わかっている」
「だから君の判断で書けます」
その言い方はずるい。
支部では、俺たちは整えられた報告の流れに乗った。ここでは、俺が自分の名でヴェスタを雇う。自分で決める形だ。だがその場を用意したのもルシアンで、その書類をここまで通したのもルシアンだった。
助けられている。
同時に導かれている。
どちらかだけにはできない。
俺はペンを取った。
「ヴェスタ」
「何だ」
「報酬はヴェラーナの契約と同じでいいか」
「危険増しだろ」
「そうだな」
「なら上げろ」
カイが小さく笑った。
「当然の交渉ですね」
ヴェスタが肩をすくめる。
「俺は善意だけで刃の前に出るほど若くねえ」
「若く見えますよ」
「カイの兄ちゃん、そういう不意打ちはやめろ」
「褒めたつもりです」
「だから困るんだよ」
ガイウスが横から低く言った。
「上げてやれ。働いた」
「ガイウスの兄貴に言われると断りにくいな」
「断るな」
「断らねえよ」
ヴァローが帳面を覗き込む。
「上乗せ分は危険手当として明記しましょう。曖昧にすると揉めます」
「お前、本当に書記になれるな」
「なりません」
「惜しいな」
「惜しくありません」
会話が転がる。
組合の中の視線が柔らかくなった。勇者一行という固まりではなく、一人ずつの声が聞こえたからかもしれない。俺たちは絵に描かれた看板ではない。疲れて腹が減る。肩も痛む。契約の前で値段を決める人間だった。
俺は報酬欄を書き直した。
危険手当を加える。
同行目的は調査支援、現地案内、港湾事情の助言。戦闘参加は状況に応じる。教会所属ではない。雇用主はレオン・ソル。契約仲介は冒険者組合サルマンディア支部。
受付の女が内容を確かめ、書類をヴェスタへ向ける。
「問題ありませんか」
ヴェスタは書類に目を落とす。
全部を長く追うわけではない。けれど自分の名前の位置だけは、きちんと確かめた。
「俺の名はそこだな」
「はい」
「教会の欄には」
「ありません」
「いい」
ヴェスタはペンを取った。
彼の字は意外に整っていた。ヴェスタ・ロウ。線は速いが崩れない。揺れる船の上でも読める字だ。書類を押さえる指に古い傷があり、爪の横に黒い汚れが残っている。
受付の女が印を取る。
赤い蝋ではない。青い組合印だった。丸い印面が書類へ下りる。
どん、と鈍い音がした。
それだけでヴェスタの同行が街の中で形を持った。
「これで継続雇用は成立です」
受付の女が言う。
「写しは雇用主、同行者、支部保管で一部ずつ。ヴェラーナ港支部へも連絡を入れます」
「助かる」
ヴェスタが短く答えた。
声の底が軽い。さっきよりも呼吸が通っている。
ルシアンが微笑んだ。
「これで動きやすくなりましたね」
動きやすく。
その言葉が、朝から歩いた白い線と重なった。
段差の少ない道。案内板。宿。医者。食事。支部。組合。報告経路。契約書。写し。印。
全部が動きやすくするためにある。
本当にそうだ。
俺たちは負傷している。土地勘もない。勇者として動くには支援が要る。ヴェスタが教会管理ではなく組合契約で同行できるのは良い。宿と支部と組合が近いのも良い。マーレの案内板も、観光客には良い。
良いものばかりだ。
それでも、どこへでも行ける感触にはならない。
行きやすい場所へ向かわされている感触が残る。
「レオン?」
カイが呼んだ。
俺は目を上げる。
「大丈夫だ」
「本当に」
「今日は本当に多いな」
「あなたが大丈夫ではない顔をするからです」
「気をつける」
「顔をではなく身体を」
ヴェスタが笑った。
「カイの兄ちゃん、やっぱり容赦ねえ」
「手当ては別です」
「名言みたいに使うなよ」
ガイウスが依頼板を見上げたまま言う。
「火薬筒」
一言だけだった。
俺たちも依頼板を見る。
火薬筒不正持ち込みに関する情報提供。
封鎖倉庫区、焦げ跡確認。
旧水路南口、夜間巡回補助。
三枚の依頼は同じ風で揺れていた。釘の頭は新しい。貼られてからそう時間は経っていない。
「火薬の気配は街のこっちにも来てる」
ヴェスタが言った。
「組合が扱っているなら、表へ出る前に止めたい案件ですね」
ヴァローの声は低い。
ルシアンは否定しなかった。
「勇者一行が今すぐ背負う必要はありません」
「また必要ですか」
「便利な言葉です」
「便利すぎる」
「ただし必要になれば話します」
ヴァローがルシアンを見る。
「その判断は誰が」
「現地と君たちの状態を見て」
「つまりあなたが」
「私も含めて」
含めて。
言葉は滑らかに整えられる。
俺は依頼板から目を離した。今、ここで火薬筒の依頼を剥がすことはできる。勇者として名乗り、調査を申し出ることもできる。けれどそれは、負傷した仲間を連れて旧水路へ踏み込むということだ。
できない。
すべきではない。
それを判断できる程度には、昨日の退き際がまだ身体に残っている。肩の痛み。カイの袖口。ガイウスの歩幅。ヴァローの目の下。ヴェスタの軽口の揺れ。
「今は休む」
俺は言った。
「ただ火薬の件は覚えておく」
ヴェスタが頷く。
「それでいい。忘れる街じゃねえ。消す街だ」
「消す街」
カイが繰り返した。
ヴェスタは肩をすくめる。
「綺麗に消す。だから残った匂いが目立つ」
ルシアンは受付台の写しを手にした。
「宿へ戻りましょう。医者もそろそろ来る頃です」
「また手配済みか」
ヴェスタが言う。
「はい」
「隠せよ、ちったあ」
「隠すと余計に気にするでしょう」
「それもそうだ」
ヴェスタは笑った。
本気にも見える。諦めにも見える。けれど青い組合印の写しを持つ手は、確かに軽かった。
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組合を出ると白い街路が広がっていた。
外洋港へ向かう明るさと、宿泊区へ戻る明るさ。二つの白が同じ場所で分かれている。港の方からは荷車の音が来る。宿泊区からは鈴と笑い声が来る。風は海から吹き、薔薇香油の甘さを運んでいた。
その奥に火薬の匂いが残っている。
薄い。
だが消えていない。
ヴェスタの契約書の写しは俺の懐にある。紙の端はまだ温かい。青い印は乾ききっていない。これで彼は同行者として動ける。俺たちは宿を持った。支部を持った。組合の窓口も持った。
動きやすくなった。
それは間違いない。
俺はその先を見る。
広い道だった。人がすれ違える。荷車も通れる。怪我人も歩ける。案内板がある。手すりがある。迷わず戻れる。人が安心するように整えられた白だった。
ただ、その白い道の端には目があった。
俺たちが足を向ける前から置かれていた目だ。
香油の奥で、火薬の匂いがまだ消えずに残っていた。




