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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
70/127

動きやすい白道

 支部の扉が背中で閉まった瞬間、外の白が目に刺さった。


 眩しい。


 朝日だけのせいではない。石畳も壁も日除けも光を返していた。港から吹く風が花輪を揺らし、観光客の笑い声が乾いた鈴みたいに鳴る。


 俺は一度だけ息を吸った。


 支部の中で報告書に置いた言葉が、喉の奥から身体へ戻ってくる。


 撤退。


 討伐未達。


 敵幹部への接近。


 白真珠の塔の賢者との接点。


 紙面では整っていた。書記の手で欄に収まり、報告の体裁を持っていた。だが外へ出ると、語の重みはまた骨へ沈む。右肩の奥が熱を持ち、鞘の重さが腰の左で沈んだ。


 昨日、俺たちは退いた。


 その事実は陽光の下でも軽くならない。


 カイの袖口が風で揺れていた。神官服の端に薄い金糸が光る。包帯の下で腕を庇っている。本人は表に出さない。だから余計に目に入る。


 ガイウスはいつも通りに見えた。背中の盾。重い足音。広い肩。だが歩幅は半歩だけ狭い。俺に合わせているのではない。全員の傷へ合わせている。


 ヴァローは短杖を握ったまま、街路を目だけで測っていた。眩しさが不得手なのだろう。灰色の瞳の周りに疲れが残っている。


 ヴェスタは鼻を動かした。


 海の気配を探る者の仕草だった。


「こちらです」


 ルシアンが先に立った。


 外套の裾が光の中で揺れる。黒い縁取りは細い線になり、街の明るさに溶け込まない。彼は歩く速度を落としすぎなかった。遅いと負傷者扱いになる。速いと痛みが出る。その中間を最初から選んでいる。


「宿までは五分ほどです。段差の少ない道を選びました」


「選んだんですね」


 ヴァローが返した。


 ルシアンは振り向かずに笑う。


「怪我人がいる時は道も薬の一部です」


「便利な薬ですね」


「効き目は地味です」


「副作用は」


「多くはないと思います」


「ないとは言わない」


「どんな薬にもありますから」


 ヴァローは鼻で息を吐いた。皮肉の形をしているが、歩調は乱さない。言葉で刺しながら、その薬に足を預けている。


 俺は足もとへ目を落とした。


 確かに歩きやすい。


 石畳の継ぎ目は浅い。雨水の溝は脇へ寄せてある。店先の木箱は路面へ出ていない。小さな橋には低い手すりがあり、橋の前後に段差がなかった。荷車の轍も浅い。


 誰かの身体が躓かないよう、先回りして整えられた足もと。


 助かる。


 肩がそう認めた。膝も認めた。昨日の疲労を残した足裏も、黙ってそれを認めている。


 同時に胸の奥が詰まった。


 歩きやすいということは、歩く先を決めやすいということでもある。


「レオン君」


 ルシアンが横へ退いた。


「ここから誓約広場が見えます」


 白い先で海が開けた。


 広場は水に抱かれていた。浅いラグーンは青というより、光を溶かした緑に近い。婚礼船がいくつも浮かび、舳先には布と花輪が結ばれている。布は風を孕み、船縁に座った若い女が声を上げて笑った。


 笑い声が水面で跳ねる。


 広場の中央には低い台がある。皿には塩が盛られていた。塩の中へ赤い花弁が混じる。近くの店から薔薇の香りが流れ、硝子瓶の蓋に結ばれた珊瑚色の紐が揺れていた。


「薔薇塩か」


 カイが低く言った。


 その声は穏やかだった。祈祷の前に灯りを整える時の声に似ている。


「サルマンディアの婚礼ではあれを分けます」


 ルシアンが答えた。


「同じ食卓を持つ誓いです。中央式の婚姻証書より、こちらではずっと人気があります」


「中央式は不人気ですか」


 カイの肩がわずかに下がる。責めた声ではない。傷ついた声でもない。ただ、知らない土地の重心に触れた音だった。


「不人気というより主役ではありません」


 ルシアンは足を止めない。


「ここでは海の前で誓う方が自然です」


「土地の祈りが先にある」


「ええ。オルヴェリスの祈りは、その後ろで記録を支えます」


「記録ですか」


「暮らしには要ります。祝福だけでは翌月の家賃は払えませんから」


 カイは小さく笑った。


「それは神官にも耳が痛いですね」


「私にも痛いです」


 ルシアンも笑う。


 ヴェスタは薔薇塩の瓶を眺めていた。買う顔ではない。手に取る客の層。店番の目。小瓶の数。逃げ道。全部を一度に探っている。


「塩まで洒落た瓶に詰めるか」


「売れますから」


「祈りも商売になる街だな」


「商売にならない祈りは長く残りにくいのです」


「白い兄ちゃん、さらっとすげえこと言うな」


「本部の人間は会計にも詳しくなります」


「嫌いじゃねえよ。そういう身も蓋もねえところ」


 ルシアンは笑みを崩さなかった。


 広場の向こうに案内板が立っていた。


 青い文字が揃っている。誓約広場。海神祠。水上宿。珊瑚硝子通り。薔薇塩回廊。細い矢印は美しく、迷う前に足が向くよう作られていた。板の縁まで磨かれ、潮風の錆は見えない。


 同じ意匠の腕章をつけた係が、観光客へ小舟の時刻を教えていた。若い夫婦が礼を言い、桟橋へ向かう。係は笑顔を崩さない。笑う角度まで訓練されているようだった。


「マーレの案内板ですね」


 ヴァローが言った。


 ルシアンが頷く。


「マーレ・パラデイソス・リゾーツ特許会社。通称マーレです。宿泊区と婚礼導線の整備を担っています」


「導線」


 ヴァローがその語を舌の上に置いた。


「迷子を減らすためですか」


「それもあります」


「迷う余地も減りますね」


「観光客には喜ばれます」


「観光客には」


 ヴァローの目が案内板から広場へ移る。人の流れが矢印に沿って滑っていく。誰も命令されていない。誰も急かされていない。それなのに、みな同じ橋へ吸い込まれていく。


 人は安心すると、整えられた流れを疑わない。


 俺も今、その流れに助けられている。


「勇者様だ」


 小さな声がした。


 通りすがりの子供が俺の鞘を見て、母親の袖を引いていた。母親は慌てて頭を下げる。俺は笑って返した。勇者として。笑うために肩を動かした瞬間、右肩の奥が鈍く痛む。


 痛みは笑みの裏へ沈めた。


 婚礼衣装の男が帽子を取る。薔薇塩の店番が手を止める。水上宿へ向かう女が胸に手を当てた。人波が静かに割れる。日除けと衣装の間に、俺たちのための細い隙間ができる。


 昨日は退いた。


 今日は人波が開く。


 その二つが胸の中でうまく噛み合わない。


「勇者様」


 花輪を抱えた少女が一歩近づいた。


 母親がそっと肩を抱く。叱るのではなく、近づきすぎないよう守る手だった。少女の指には花粉がついている。赤と白の花輪を、潰さないように抱えていた。


 俺は膝を曲げなかった。


 曲げたら立つ時に出る。


「良い式になるといい」


「うん」


 少女は花輪を強く抱いた。笑った頬が朝日に光る。


 その花の香りが過ぎたあと、別のものが鼻へ触れた。


 苦い。


 香油ではない。焼き菓子でもない。塩でも海藻でもない。もっと乾いている。舌の裏に砂を置かれたような、ざらつく気配だった。


 俺は足を止めた。


 ほぼ同時にヴェスタが横を向く。


「火薬だ」


 低い声だった。


 ガイウスの左手が腰へ落ちる。カイは周囲の人へ目を走らせた。ヴァローは案内板から視線を外し、路肩の端を追う。ルシアンだけが半歩前で静かに止まった。


 壁があった。


 その一角だけが新しい。塗り直された石灰が乾ききっておらず、陽を鈍く返している。同じ色に見せているのに、周囲とは違った。足もとの石畳は水で洗われている。けれど継ぎ目には黒い粒が残っていた。


 近くには壊れた屋台の板が束ねられ、布で覆われていた。布の端から焦げた木の気配が滲む。観光客が寄らないよう、花鉢が不自然な位置に置かれている。


 マーレの腕章をつけた係が、笑顔で人の流れを変えていた。


「あちらの橋からですと水上宿の眺めがよく見えます」


 声は明るい。


 明るすぎるほどだった。


 子供が黒い粒へ手を伸ばしかけた。母親が素早く手首を掴む。何も言わない。強くも叱らない。ただ、そのまま手を引いて橋へ連れていく。子供は不満げに振り返ったが、母親の横顔を見て黙った。


「昨夜か」


 ヴェスタが言った。


「今朝なら水の気配が勝つ。これは一晩置いた火薬だ」


「港湾下層の揉め事です」


 ルシアンの声は変わらない。


「観光客の方へ広がるものではありません」


「広がる前に畳んだんだろ」


「広げないことも治安の仕事です」


「何を畳んだ」


 ヴェスタの目が壁の端へ落ちた。


 水を吸った荷札の切れ端がある。文字はにじんでいた。だが黒い印だけは残っている。


 シローネ商会。


 拾えたのはそこだけだった。


「物流の名は街のどこにでもあります」


 ルシアンが言った。


「この街では特に」


「便利な答えだな」


「正確な答えでもあります」


 ヴェスタは屈みかけてやめた。


 触れば踏み込む。踏み込めば理由が要る。今の俺たちに、その理由はまだない。少なくとも、ここで刃を抜く理由ではない。


 壁の近くで店主らしい男が戸板を直していた。手は早い。頭は上げない。釘を打つ音が短く響く。


 ヴァローが近づいた。


「失礼。昨夜こちらで何か」


 男は手を止めなかった。


「済んだことです」


「怪我人は」


 カイが聞いた。


 その時だけ男の手が止まった。


 釘の頭が曲がる。


「派手な音のわりにはたいしたことはありませんでした。治安隊も来た。水も撒いた。もう済んだ」


 済んだ。


 二度目の言葉は固かった。済んだことにしたい者の固さだった。


 香油の店から濃い薔薇の香りが流れてくる。店員が瓶の蓋を開け、客へ試させていた。甘さがあたりへ広がる。火薬の苦さは薄くなる。


 だが消えない。


 奥へ押し込まれているだけだ。


「普通の喧嘩じゃねえ」


 ヴェスタが言った。


「火薬を使う連中は見せたいか消したいかのどっちかだ」


「今回はどちらですか」


 カイが聞く。


「消したい奴がいる。見せたい奴もいる」


「混じっていると」


「火薬の気配は消したい。けど火薬を使えるってことは見せたい。そういう手つきだな」


 ルシアンがヴェスタを見た。


 灰青の瞳がわずかに細くなる。


「君は現場を見る目がある」


「褒めてもらうために生きてねえよ」


「でしょうね」


 ルシアンは怒らない。笑みを深くもしない。ただ、先へ視線を移した。


「この件は治安隊と組合が扱っています。勇者一行が今ここで背負う必要はありません」


 必要。


 その言葉で線が引かれた。


 俺たちは昨日、ロドルとの戦いから退いた。今日、支部で報告を終えた。これから宿へ行き、医者に診てもらうべきだ。知らない街の火薬の痕跡へ、負傷した仲間を連れて踏み込む理由はない。


 筋は通っている。


 通っているから胸が重い。


 俺は塗り直された壁を見た。乾ききらない石灰。焦げの黒。片づけられた屋台。子供を止める親。笑顔の係。薔薇の香油。


「行こう」


 俺は言った。


 ヴェスタがこちらを見る。


「いいのか」


「今は、だ」


「今はね」


 ヴェスタは口の端を上げた。


「そういう言い方なら嫌いじゃねえ」


 カイは何か言いかけて飲み込んだ。ガイウスは腰の手を戻す。ヴァローは最後に壁を見てから、短杖の先を下げた。


 ルシアンは何も言わなかった。


 俺たちは白い流れへ戻った。


 歩きやすさはすぐ戻ってくる。塗り直された壁は後ろへ流れた。婚礼船の鈴が鳴る。案内板の青い文字がまた行き先を示す。観光客の声が広場を満たしていく。


 珊瑚硝子通りへ入ると光の色が変わった。


 店先の棚に青緑の瓶が並んでいる。丸い瓶。細い香水瓶。誓約証を入れる筒。灯花蝋の芯を収める小さな器。どれも海の水を小さく固めたように光っていた。


 職人が炉の横で砂を指差している。観光客が歓声を上げる。子供が硝子の魚を欲しがり、父親が値札を見て眉を寄せた。


「見事ですね」


 カイが言った。


 その目は素直だった。綺麗なものを綺麗だと言える目だ。俺はそれを見て息を吐く。カイがそういう目をするだけで、周りの明るさは柔らかくなる。


「サルマンディアは綺麗なものを作るのが上手い街です」


 ルシアンが言った。


「綺麗に見せるのも上手い」


 ヴァローが返す。


「その二つは違いますか」


「違うでしょう」


「重なることもあります」


「だから厄介なんです」


 ルシアンは軽く笑った。


「ヴァロー殿は観光に向きませんね」


「月読みの塔に観光客は来ません」


「それは残念です」


「本気で言っていますか」


「ほんの少しだけ」


「それで十分です」


 軽い会話だった。


 けれどヴァローの目は止まらない。案内板。曲がり角。マーレの腕章。治安隊の位置。店の陰で煙草を揉み消す若い男たち。整った服。汚れた靴底。


 ガイウスも気づいていた。


「右の二人」


 俺にだけ聞こえる声だった。


「見た」


「逃げるなら細い坂だ」


「戦うな」


「まだな」


 短い返事。


 まだ。


 その言葉が喉の奥に残る。


 橋を渡ると宿が見えた。


 高すぎない建物だった。壁は明るく、瓦は青い。入口には薔薇ではなく潮真珠を模した丸い飾りが下がっている。看板には小さく《白帆亭》と書かれていた。観光客向けの華美な宿ではない。けれど安宿でもない。港にも支部にも組合にも出やすい場所だった。


「こちらです」


 ルシアンが入口へ入る。


──────────────────────────────


 宿の主人は待っていた。


 待っていたことを隠さない。帳面。鍵束。清潔な布。用意された水差し。奥からは煮込みの香りがした。肉も入っている。


 ガイウスの目が動いた。


 ルシアンが先に言う。


「柔らかい煮込みです。香辛料は控えめにしてあります」


「肉はあるな」


 ガイウスが確かめる。


「あります」


「十分だ」


「明日以降は増やしましょう」


「約束だぞ」


「はい」


 宿の主人が笑いを堪えた。


 カイはすでに部屋割りを見ている。


「二階ではないのですね」


「中庭側の一階です」


 ルシアンが答える。


「窓から風が入ります。通りの音は少ない。医者を呼ぶ時も裏口から入れます」


「助かります」


 カイは素直に言った。


 俺も同じだった。


 助かる。


 部屋は近い。水場も近い。食事もある。医者も来る。支部へ戻るにも、組合へ向かうにも近い。負傷した俺たちにとって申し分ない配置だった。


 だからこそ腹の底に重さが落ちる。


 逃げ道まで用意されている。


 それは親切だ。間違いなく親切だ。だが決まりすぎた親切は、時々扉の形をした檻に似る。


「組合へは」


 ヴェスタが聞いた。


「歩いて七分ほどです」


 ルシアンはすぐ答えた。


「測ったような距離ですね」


 ヴァローが言う。


「測りました」


「隠さないところが厄介です」


「隠すと余計に気にするでしょう」


「気にしています」


「では隠さなくて正解でした」


 ヴァローは返事をしなかった。


 主人が鍵を出す。五つ。俺たちの部屋と、物置に使える小部屋。カイは薬湯を作れるか聞いた。ガイウスは台所の扉を見ている。ヴェスタは中庭の出口を確かめた。足が二度だけ動く。距離を測る癖だ。


「ここなら夜でも動ける」


 ヴェスタが言った。


「動かないでください」


 カイが即座に返す。


「たとえばの話だって」


「あなたのたとえばは翌朝には現実になることがあります」


「信用ねえな」


「あります。だから止めています」


 ヴェスタは笑った。


 その笑いは支部の中で見せたものより楽だった。宿の空気が人を緩めるのかもしれない。煮込み。焼いたパン。洗った布。水差し。中庭の土。


「荷は先に入れておきましょう」


 ルシアンが言った。


「その後、冒険者組合へ。ヴェスタ君の継続雇用手続きを済ませます。今後の同行に必要です」


 ヴェスタの笑いが消えた。


「必要な確認ってやつか」


「今回は君のためでもあります」


「俺のため」


「教会の管理下に置く書類ではありません。ヴェラーナ港支部からの継続契約として、サルマンディア支部で受け直します」


 ヴェスタは黙った。


 軽口が止まると、彼の輪郭には海風で削られた線が出る。額のバンダナ。鼻筋の古い跡。左眉の傷。曲刀を吊るす腰の角度。


「組合の仕事としてか」


「はい」


「俺は教会の人員じゃねえ」


「その方が自然でしょう」


 ルシアンの声は静かだった。


 ヴェスタは俺を見た。


 俺は頷く。


「そのままでいい。俺たちはヴェスタに同行を頼んでいる」


「雇ってる、だろ」


「雇っている」


「ならいい」


 ヴェスタは肩を軽く回した。


「紙に縛られるのは好きじゃねえ。けど書類がねえと余計に縛られるのも知ってる」


「助かります」


 カイが言った。


「あなたが安心して同行できる形がいい」


「カイの兄ちゃんにそう言われると背中がむずむずするな」


「では慣れてください」


「容赦ねえ」


 ガイウスが煮込みの香りを吸い込んだ。


「組合が先か。飯が先か」


 ルシアンは一拍置いた。


「軽く食べてからにしましょう。空腹の契約は揉めます」


「わかってるじゃねえか」


 ガイウスの声が満足へ寄った。


 俺たちは宿で短く休んだ。


 短い休みだった。荷を置く。水を飲む。パンと薄い煮込みを腹に入れる。カイが俺の肩を見ようとする。俺は逃げようとして失敗する。ガイウスは椀を手にしたまま、肉の少なさを黙って数えていた。


 ヴァローは部屋の机で報告書の写しを広げていた。目の下の疲れは濃い。だが手は止まらない。支部で置いた言葉を、まだ自分の中で組み替えているのだろう。


 ヴェスタは窓から中庭を見ていた。屋根へ上がれそうな場所を見つけた目だ。口にしないだけで、もう二つは逃げ筋を測っている。


 俺は寝台へ座らなかった。


 座れば立ち上がれなくなる気がした。


 代わりに窓のそばで水を飲む。中庭には井戸と柑橘の木がある。木の葉は明るい壁の中で濃く見えた。観光区とは違う。洗濯物を干す紐がある。欠けた鉢がある。踏まれて固まった土もあった。


 生活の気配だ。


 ここは良い宿だ。


 誰かが、俺たちにとって良い宿を選んだ。


 ありがたい。


 ありがたいのに重い。


「レオン」


 カイが呼んだ。


「座ってください」


「すぐ出る」


「すぐ出るから座るんです」


 俺は負けた。


 椅子に腰を下ろす。右肩の力が抜ける。抜けた瞬間に痛みが追いついた。隠したつもりだったが、カイが眉を寄せた。


「やはり腫れています」


「歩ける」


「歩けるかどうかだけで決めないでください」


「わかってる」


「本当に」


「本当に」


 カイはまだ疑っていた。俺も、疑われるだけの顔をしたのだろう。


 ヴァローが写しを畳む。


「行きましょう。契約は早い方がいい」


「珍しく積極的だな」


 俺が言うと、ヴァローは眼鏡の位置を直した。


「書類が曖昧なまま人だけ動くのは危険です」


「魔導士の考えか」


「書記の考えです」


「お前、いつから書記になった」


「誰かがやらないとあなたは全部背負おうとします」


 返す言葉がなかった。


 ヴェスタが口笛を吹いた。


「勇者の兄ちゃん、今日はよく刺されるな」


「昨日も刺された」


「そっちは笑えねえ」


「俺も笑ってない」


「悪かった」


 ヴェスタはすぐ謝った。


 その素直さに笑ってしまう。笑うと肩が痛む。痛むが歩ける。今はそれで十分にするしかない。


 俺たちは宿を出た。


 今度の道筋はさっきより港に近い。


 観光区の縁をなぞるように進む。左手には香油の店と小さな菓子屋。右手には倉庫へ続く細い坂。白布を積んだ荷車が横切り、車輪には港の黒い泥がついていた。


 一歩ごとに街の明るさが変わる。


 広場では祝福だった。


 宿では休息だった。


──────────────────────────────


 港へ近づくと、仕事を隠す布に見えた。


「この先です」


 ルシアンが言った。


 冒険者組合サルマンディア支部は外洋港区の入口にあった。


 明るい建物だが、観光区のものではない。壁には潮と革と油の気配が染みている。入口の板は何度も修理され、敷居には靴底の傷が重なっていた。中から笑い声が漏れる。怒鳴り声。硬貨の音。羽根ペンが紙を擦る音。


 ヴェスタの肩が下がった。


「やっと息がしやすい」


「ここがですか」


 カイが驚いたように言う。


「香油より汗と革の方が信用できる」


「あなたらしいですね」


「褒めてるか」


「ほんの少し」


「じゃあもらっとく」


 扉を開けると視線が集まった。


 勇者を見る目。


 神官へ向く目。


 魔導士を量る目。


 山の戦士で止まる目。


 そしてヴェスタを見る目。


 最後のものだけ種類が違う。値踏みではない。知っている気配を確かめる目だった。どこの支部か。どの船に乗れるか。どこまで潜れるか。酒場で揉めるか。背中を預けられるか。


 ヴェスタは視線を流した。


 嫌がっていない。


 ここでは彼も、ただの余所者ではなかった。


「サルマンディア支部へようこそ」


 受付の女が頭を上げた。


 年は三十手前ほど。髪を後ろで結び、指にはインクの跡がある。笑顔は早いが、目は書類を先に見ていた。組合の受付だ。人と書類の重さを同時に量る者の目だった。


 ルシアンが一歩前へ出た。


「ヴェラーナ港支部所属、ヴェスタ・ロウの継続雇用手続きをお願いします。雇用主はレオン・ソル。同行目的は調査支援と現地案内補助。既存契約の写しはこちらに」


「伺っています」


 受付の女は帳面を開いた。


 伺っています。


 今日、何度も聞いた。


 俺は周囲を見た。


 壁には依頼板がある。羊皮紙と潮文紙が混ざっていた。護衛。運搬。沈没物の回収。ラグーン外縁の海獣警戒。水上宿の夜間巡回。釘で留められた依頼が風に揺れ、古い跡が板に残っている。


 その中に別の三枚があった。


 旧水路南口、夜間巡回補助。


 封鎖倉庫区、焦げ跡確認。


 火薬筒不正持ち込みに関する情報提供。


 その下に小さな注意書きが貼られている。


 シローネ商会関係者との揉め事は必ず組合職員を通すこと。


 ヴェスタの目もそこへ留まっていた。


「街の体温計みたいな板だな」


 ルシアンが言う。


「熱がありますね」


 ヴァローが返した。


「わずかに」


「そのわずかでこの数ですか」


「港町ですから」


「便利な言葉が多い」


「便利ですから」


 受付の女が咳払いした。笑いを飲んだ音だった。


「ヴェスタ・ロウさん」


「おう」


「ヴェラーナ港支部の写しと照合します。等級、任務履歴、違約記録の確認を行います」


 ヴェスタの笑みが消えた。


 受付の女はすぐ続ける。


「ただし過去所属の再審査ではありません。今回の契約に必要な範囲のみです」


 ルシアンは受付の手元を見ている。こちらを見ない。


 さっき宿で彼が言ったことが、もう受付の口に乗っていた。


 必要な確認。


 過去を掘る書類ではない。


 ヴェスタは息を吐いた。


「わかった。必要な範囲で頼む」


「承ります」


 その言葉で書類が前へ滑ってくる。


 この街の手続きはよく整っている。整いすぎているほどに。


 俺は受付台の前に立った。


 ペンを渡される。雇用主の欄。同行期間。報酬。負傷時の責任分担。秘密保持。依頼の範囲外行動。細かい文字が紙面を埋めていた。


 聖剣より重くはない。


 だが別の重さがある。


「レオン君」


 ルシアンが横から声をかけた。


「教会の書類ではありません。組合の契約です。君が雇う形になります」


「わかっている」


「だから君の判断で書けます」


 その言い方はずるい。


 支部では、俺たちは整えられた報告の流れに乗った。ここでは、俺が自分の名でヴェスタを雇う。自分で決める形だ。だがその場を用意したのもルシアンで、その書類をここまで通したのもルシアンだった。


 助けられている。


 同時に導かれている。


 どちらかだけにはできない。


 俺はペンを取った。


「ヴェスタ」


「何だ」


「報酬はヴェラーナの契約と同じでいいか」


「危険増しだろ」


「そうだな」


「なら上げろ」


 カイが小さく笑った。


「当然の交渉ですね」


 ヴェスタが肩をすくめる。


「俺は善意だけで刃の前に出るほど若くねえ」


「若く見えますよ」


「カイの兄ちゃん、そういう不意打ちはやめろ」


「褒めたつもりです」


「だから困るんだよ」


 ガイウスが横から低く言った。


「上げてやれ。働いた」


「ガイウスの兄貴に言われると断りにくいな」


「断るな」


「断らねえよ」


 ヴァローが帳面を覗き込む。


「上乗せ分は危険手当として明記しましょう。曖昧にすると揉めます」


「お前、本当に書記になれるな」


「なりません」


「惜しいな」


「惜しくありません」


 会話が転がる。


 組合の中の視線が柔らかくなった。勇者一行という固まりではなく、一人ずつの声が聞こえたからかもしれない。俺たちは絵に描かれた看板ではない。疲れて腹が減る。肩も痛む。契約の前で値段を決める人間だった。


 俺は報酬欄を書き直した。


 危険手当を加える。


 同行目的は調査支援、現地案内、港湾事情の助言。戦闘参加は状況に応じる。教会所属ではない。雇用主はレオン・ソル。契約仲介は冒険者組合サルマンディア支部。


 受付の女が内容を確かめ、書類をヴェスタへ向ける。


「問題ありませんか」


 ヴェスタは書類に目を落とす。


 全部を長く追うわけではない。けれど自分の名前の位置だけは、きちんと確かめた。


「俺の名はそこだな」


「はい」


「教会の欄には」


「ありません」


「いい」


 ヴェスタはペンを取った。


 彼の字は意外に整っていた。ヴェスタ・ロウ。線は速いが崩れない。揺れる船の上でも読める字だ。書類を押さえる指に古い傷があり、爪の横に黒い汚れが残っている。


 受付の女が印を取る。


 赤い蝋ではない。青い組合印だった。丸い印面が書類へ下りる。


 どん、と鈍い音がした。


 それだけでヴェスタの同行が街の中で形を持った。


「これで継続雇用は成立です」


 受付の女が言う。


「写しは雇用主、同行者、支部保管で一部ずつ。ヴェラーナ港支部へも連絡を入れます」


「助かる」


 ヴェスタが短く答えた。


 声の底が軽い。さっきよりも呼吸が通っている。


 ルシアンが微笑んだ。


「これで動きやすくなりましたね」


 動きやすく。


 その言葉が、朝から歩いた白い線と重なった。


 段差の少ない道。案内板。宿。医者。食事。支部。組合。報告経路。契約書。写し。印。


 全部が動きやすくするためにある。


 本当にそうだ。


 俺たちは負傷している。土地勘もない。勇者として動くには支援が要る。ヴェスタが教会管理ではなく組合契約で同行できるのは良い。宿と支部と組合が近いのも良い。マーレの案内板も、観光客には良い。


 良いものばかりだ。


 それでも、どこへでも行ける感触にはならない。


 行きやすい場所へ向かわされている感触が残る。


「レオン?」


 カイが呼んだ。


 俺は目を上げる。


「大丈夫だ」


「本当に」


「今日は本当に多いな」


「あなたが大丈夫ではない顔をするからです」


「気をつける」


「顔をではなく身体を」


 ヴェスタが笑った。


「カイの兄ちゃん、やっぱり容赦ねえ」


「手当ては別です」


「名言みたいに使うなよ」


 ガイウスが依頼板を見上げたまま言う。


「火薬筒」


 一言だけだった。


 俺たちも依頼板を見る。


 火薬筒不正持ち込みに関する情報提供。


 封鎖倉庫区、焦げ跡確認。


 旧水路南口、夜間巡回補助。


 三枚の依頼は同じ風で揺れていた。釘の頭は新しい。貼られてからそう時間は経っていない。


「火薬の気配は街のこっちにも来てる」


 ヴェスタが言った。


「組合が扱っているなら、表へ出る前に止めたい案件ですね」


 ヴァローの声は低い。


 ルシアンは否定しなかった。


「勇者一行が今すぐ背負う必要はありません」


「また必要ですか」


「便利な言葉です」


「便利すぎる」


「ただし必要になれば話します」


 ヴァローがルシアンを見る。


「その判断は誰が」


「現地と君たちの状態を見て」


「つまりあなたが」


「私も含めて」


 含めて。


 言葉は滑らかに整えられる。


 俺は依頼板から目を離した。今、ここで火薬筒の依頼を剥がすことはできる。勇者として名乗り、調査を申し出ることもできる。けれどそれは、負傷した仲間を連れて旧水路へ踏み込むということだ。


 できない。


 すべきではない。


 それを判断できる程度には、昨日の退き際がまだ身体に残っている。肩の痛み。カイの袖口。ガイウスの歩幅。ヴァローの目の下。ヴェスタの軽口の揺れ。


「今は休む」


 俺は言った。


「ただ火薬の件は覚えておく」


 ヴェスタが頷く。


「それでいい。忘れる街じゃねえ。消す街だ」


「消す街」


 カイが繰り返した。


 ヴェスタは肩をすくめる。


「綺麗に消す。だから残った匂いが目立つ」


 ルシアンは受付台の写しを手にした。


「宿へ戻りましょう。医者もそろそろ来る頃です」


「また手配済みか」


 ヴェスタが言う。


「はい」


「隠せよ、ちったあ」


「隠すと余計に気にするでしょう」


「それもそうだ」


 ヴェスタは笑った。


 本気にも見える。諦めにも見える。けれど青い組合印の写しを持つ手は、確かに軽かった。


──────────────────────────────


 組合を出ると白い街路が広がっていた。


 外洋港へ向かう明るさと、宿泊区へ戻る明るさ。二つの白が同じ場所で分かれている。港の方からは荷車の音が来る。宿泊区からは鈴と笑い声が来る。風は海から吹き、薔薇香油の甘さを運んでいた。


 その奥に火薬の匂いが残っている。


 薄い。


 だが消えていない。


 ヴェスタの契約書の写しは俺の懐にある。紙の端はまだ温かい。青い印は乾ききっていない。これで彼は同行者として動ける。俺たちは宿を持った。支部を持った。組合の窓口も持った。


 動きやすくなった。


 それは間違いない。


 俺はその先を見る。


 広い道だった。人がすれ違える。荷車も通れる。怪我人も歩ける。案内板がある。手すりがある。迷わず戻れる。人が安心するように整えられた白だった。


 ただ、その白い道の端には目があった。


 俺たちが足を向ける前から置かれていた目だ。


 香油の奥で、火薬の匂いがまだ消えずに残っていた。

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