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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
69/127

勇者の報告

 港に降りた瞬間、白さが目に刺さった。


 白い石畳。白い日除け。白く塗られた手すり。船着き場の杭には淡い花輪が結ばれていた。海風に揺れるたび小さな影が足もとを渡る。


 朝の海は静かだった。


 静かすぎて、昨日の刃音が耳の奥から戻ってきた。金属を擦る音。骨へ食い込む衝撃。誰かが息を詰める気配。沈みきらなかったものが港の明るさに押し上げられる。


「足もとにお気をつけください」


 役人が前で立ち止まった。


 俺は頷いた。頷くだけなら痛まない。だが一歩を踏み出すと右肩の奥が遅れて軋む。傷そのものより、受け損ねた衝撃がまだ身体の中にある。骨の隙間に昨日が残っていた。


 歩ける。


 剣も抜ける。


 だから俺は背筋を伸ばした。


 白と深紅のサッシュを直す。胸もとのオルヴェリスの紋章が朝日を返した。腰の左で聖剣の鞘が鳴る。その音に、婚礼船へ向かう一団がこちらを見た。


 笑い声が一拍だけ薄くなる。


 若い女が帽子の縁を押さえた。年配の男が俺の腰を見る。子供は聖剣の鞘を見つけて目を丸くする。名前を知らなくても、何を見ているかは体が先に決めていた。


 勇者。


 その目が俺の背中を支える。支えるのに痛い。


 俺たちは勝っていない。


 ロドル・ヴァシレフを討てなかった。止められなかった。あの場に立っていられた者たちも、最後は退くしかなかった。負けを口にしなくても身体が覚えている。右肩。左腿。喉の奥に残る血の味。握りすぎた柄の熱。


 それでも港の人は道を開けた。


 俺が前を歩くからだ。


 カイは半歩後ろにいた。白い装束は整っている。けれど袖口の下に新しい包帯が見えた。薬草と清め水の匂いが薄く漂う。彼は港の人と目が合うたび、柔らかく頭を下げる。いつもの所作だ。肩の線だけが硬い。


「レオン。歩幅を落としてください」


 小声だった。


「落としてる」


「普段の怪我人よりは速いです」


「勇者だからな」


「怪我人です」


 言い返せなかった。


 カイはそれ以上責めない。責めないまま俺の背中を見ている。その視線があるから倒れずに歩ける。そう口にしたら足が止まりそうだった。


 ヴァローは後ろで灰色のローブを片手で押さえていた。顔色は港の白に負けている。月読みの塔の魔導士は、明るい場所へ立つほど影の輪郭が濃くなる男だ。だが目は鋭い。役人の手元。通行札。港湾庁の印章。婚礼船へ運ばれる書類束。


「綺麗な港ですね」


 褒めている声ではなかった。


「そう見せる努力は、相当なものです」


「皮肉か」


「観察です」


「港の人が聞いたら喜ぶぞ」


「喜ばせるための観察ではありません」


 いつもの調子だった。皮肉が出るなら、ヴァローもまだ立っている。


 ガイウスは列の外側を歩いていた。右腕は吊っていない。吊れば港の人に見えるからだ。重盾は船に残してきた。大きな体はいつもより片側だけ軽く見える。それでも床板は彼の足の下で低く鳴った。


「腕は」


 俺が聞くと、ガイウスは短く鼻を鳴らす。


「つながってる」


「答えになってない」


「なら問題ねえ」


 それも答えではなかった。


 ヴェスタは最後尾で周囲を読んでいた。青と黄色のまだらのバンダナが白い港で目立つ。革鎧には昨日の傷が残ったままだ。彼は海風の向きと屋根の高さと役人の足取りを拾う。軽く歩いているのに、腰の曲刀へ手が届く距離だけは崩さない。


「白すぎて落ち着かねえな」


 ヴェスタが言った。


「ヴェラーナよりか」


「ヴェラーナは潮と酒と魚の匂いがある。ここは香油が勝ってる」


「婚礼の街だ」


「船に花を積む街は信用できる。血の匂いまで花で消す街は上品すぎる」


 役人が聞こえないふりをした。足の運びが一瞬だけ速くなる。


「勇者ご一行はこちらです」


 役人は明るく言った。


 勇者ご一行。


 その響きは港に慣れていた。婚礼客。商人。役人。船員。いくつもの肩書きがこの白い場所を通るのだろう。俺たちもその一つとして扱われる。特別でありながら、手順の中にある。


「まずオルヴェリス教会サルマンディア支部へご案内します。お怪我の確認と報告のお部屋は整っております」


 整っている。


 その一語だけが石畳に転がった。


 昨日の俺たちは整っていなかった。剣も祈りも魔法も盾も斥候の足も、最後にはばらばらにほどけた。それを入れる部屋がもう用意されているという。


「手配が早いですね」


 ヴァローが言った。


 役人は振り返って笑う。


「港から知らせを上げておりますので」


「教会へ」


「はい」


「誰の指示で」


 声は丁寧だった。丁寧だから逃げ道がない。


 役人の笑みが淡くなる。嘘をつく顔ではない。どこまで言ってよいか測る顔だった。


「本部からお越しの聖務官様です」


──────────────────────────────


 本部。


 その一語で潮風の匂いが遠のいた。


 孤児院の朝の食堂。磨かれた床。長い祈り。聖剣の試練で膝をついた石の冷たさ。白い廊下の窓から差す光。中央大陸の記憶が俺の中で一斉に顔を上げる。


 サルマンディアは海洋同盟の街だ。教会の街ではない。ここでは海神祠の婚姻が強く、中央式の誓いは脇へ置かれると聞いていた。


 それでも本部の人間が先にいる。


 俺たちが港に着く前から。


「レオン」


 カイが呼んだ。


「大丈夫だ」


 俺は答えた。


 何が大丈夫なのか、自分でも掴めなかった。体か。報告か。本部の人間に会うことか。どれも大丈夫ではない気がする。だが声にすれば背筋だけは保てた。


 外洋港区を抜けると道幅が変わった。


 倉庫の影が後ろへ流れ、店先の色が増える。珊瑚硝子の小瓶。青い飾り紐。白い日除け。海神祭へ向けた小さな旗。魚を焼く匂いは薄くなり、香油と焼き菓子の甘さが風に混じった。


 婚礼客が多い。


 男たちは白い帽子をかぶり、女たちは淡い布を肩に掛けている。石畳を踏む靴は新しい。まだ足に馴染んでいない歩き方だ。花を持つ子供たちが列を作り、教えられた通りに笑っている。


 その中を負傷した俺たちが進む。


 場違いではなかった。


 むしろ道が開く。勇者が歩くなら、祝いの街は明るさを一段上げる。俺たちの敗退を知らないまま、そこに期待だけを置く。俺の腰の聖剣は、その期待を受けるためのものに見える。


 見えるだけだ。


 俺は手を下ろし、鞘の近くで拳を握った。


「オルヴェリスのご加護を」


 通りすがりの老婆が胸に手を当てた。


「オルヴェリスのご加護を」


 俺も返す。


 声はまっすぐ出た。老婆は安堵した顔で頷き、市場の籠を抱え直す。俺の傷も敗退も知らないまま、彼女は自分の朝へ戻っていった。


 勇者はこういう時にいる。


 少なくとも、そう信じたい。


 ヴァローが隣まで来た。


「今のは良かったです」


「皮肉か」


「今回は違います」


 珍しく、彼は短く言い切った。


 俺は前を向く。港の白さが目の縁で揺れる。


 美しい街だ。


 その美しさは包帯に似ていた。傷を治すわけではない。だが血を直接見せないよう包んでくれる。清潔で柔らかい。必要なものだ。ただし下に何があるかを忘れた瞬間、傷は悪くなる。


 俺たちはロドルを討てなかった。


 それは忘れない。


 けれどこの街は、俺たちがまだ歩いていることを人に見せてくれる。勇者として歩くなら、俺はその見方を裏切れない。


 道の先に低い白壁の建物が現れた。


「こちらです」


 役人が足を止める。


 オルヴェリス教会サルマンディア支部は、中央の聖堂とはまるで違っていた。


 塔はない。高い尖塔もない。門の飾りも控えめだ。白い壁に青い瓦。入口の上に小さなオルヴェリスの紋章。その横にはサルマンディア評議会の許可印が掲げられている。


 教会の建物だ。


 同時に、この街に許された建物でもある。


 そこが中央と違う。中央では教会が街の骨格だった。ここでは白い建物が通りの端にきちんと置かれている。大きな心臓ではない。祈りと書類と手当てを同じ棚に置く窓口だ。


 入口の前を婚礼客が通り過ぎた。


 海神祠へ向かう一団だ。誰も中へ入らない。若い男がちらりと紋章を見るだけで、花を抱えた女へ歩調を合わせる。彼らにとって誓いは海の前にあるのだろう。


 一人だけ、信徒らしい老婆が扉の前で胸に手を当てた。


 短い祈り。短い沈黙。それから彼女は市場の籠を持ち直して去る。祈りは生活の途中に置かれていた。


──────────────────────────────


 扉が内側から開いた。


 薬草の匂いが来る。


 それだけでカイが一歩前に出た。神に仕える者の体が先に動いたのだと思う。


 中は広すぎなかった。


 白い壁。低い天井。長椅子。包帯の束。水差し。乾かしている清布。開いた帳面。羽根ペン。小さな祈祷室の灯り。壁ぎわには婚姻登録の紙箱があり、隣に浄化水の箱と怪我人用の椅子があった。


 祈りと実務が同じ床を使っている。


 中央の聖堂なら分けるものが、ここでは肩を寄せ合っていた。誰かが祈る横で誰かが帳面をめくる。誰かが傷を洗う横で婚姻の許可印が乾く。小さな場所だからではない。この街ではそうしなければ回らないのだ。


「レオン様ご一行ですね」


 若い白衣の係が立ち上がった。


 様。


 呼ばれるたび、体の中で一拍遅れる。昨日までならまっすぐ頷けたかもしれない。今はその一拍の間にロドルの刀が入る。


「はい。レオン・ソルです。こちらはカイ・グレイス。ヴァロー・ノヴァ。ガイウス・フェルム。ヴェスタ・ロウ」


 名を一つずつ置く。


 若い係は慌てず頷いた。もう一人の年配の男が帳面に目を落とし、俺たちの名を確認している。


「お待ちしておりました。怪我の確認をすぐに。報告の席も奥へ用意してあります」


 お待ちしておりました。


 港の役人と似た響きでも重さが違った。ここには水がある。清布も羽根ペンもある。待つための物がそろっている。


 カイが袖を押さえて前へ出た。


「私も手伝います。聖水と流しの道具はどちらに」


「祈祷室の奥です。清布はこちらの棚へ。薬草は港のものもあります」


「ありがとうございます。まず強い痛みのある者から見ましょう」


 カイは自然に場へ入った。


 その姿を見ると胸が楽になる。教会が何であれ、カイの手は人を助けるために動く。それを見ている間だけは、難しいことを脇へ置けた。


 ヴェスタが長椅子へ手をかける。


「これ動かしていいか」


「あ、こちらで」


「いいって。ガイウスの兄貴を座らせるなら幅が要る」


「俺は座らん」


 ガイウスが低く言った。


 ヴェスタは椅子を引きずりながら笑う。


「右腕をかばって歩く男が言う台詞じゃねえだろ」


「かばってねえ」


「かばってる。潮の上なら三歩でばれる」


「ここは陸だ」


「じゃあ俺にもばれるな」


 ガイウスは黙った。黙ったまま長椅子の端に腰を下ろす。椅子が小さく軋んだ。


「ほらな」


「うるせえ」


 二人のやり取りで部屋の空気が緩む。若い係が肩の力を抜いた。俺も笑いかける。


 その時、奥の扉が開いた。


 部屋の温度が変わったわけではない。


 薬草の匂いも水音もそのままだ。だが働いていた者たちの動きが止まる。若い係は帳面を胸の前へ寄せ、年配の男は水差しを置いて姿勢を正した。


 命じられていない。


 それでも通り道が空く。


 白い外套の男がそこにいた。


 最初に目へ入ったのは外套の縁だった。白い布の端に細い黒が走っている。港の白とは違う白だ。潮に晒された白ではない。よく払われ、形を保った白。肩には燭騎士団の聖印徽章が光っていた。


 腰には片手剣。


 反対側には盾。


 剣は飾りではない。長すぎず、抜きやすい位置にある。盾は小ぶりで、白い面に門の意匠が刻まれていた。どちらも見せるためではなく使うためにある。


 男の髪は淡い金色だった。


 俺の金髪より白に近い。朝の光を薄く溶かしたような色だ。清潔に整えられ、乱れがない。顔立ちは柔らかい。笑えば人に好かれる顔だ。年は俺より上に見える。二十五か二十六、そのあたりだろう。


 薄い灰青の瞳がこちらを向いた。


 俺の右肩。左腿。聖剣の鞘。カイの袖口。ヴァローの短杖。ガイウスの右腕。ヴェスタの足の角度。窓。扉。書記机。部屋にいる者の数。


 一息で全部を通した。


 それでも笑みは崩れない。


「来てくれて助かりました」


 第一声は柔らかかった。


 待つ側の上からの声ではない。こちらの足を労う声だった。けれどその一言で、場の中心が彼の周りへ寄った。


「聖オルヴェリス教会本部、特任聖務官のルシアン・セーヴァです。燭騎士団にも籍を置いています」


 白外套が軽く揺れた。


「レオン君。長い道でしたね」


 レオン君。


 初対面の本部の人間にそう呼ばれ、喉の奥が構えた。だが声の温度は妙に近い。孤児院で年長の者から水を渡された時のような、最初から怒らないと決めている温度だった。


 俺は礼を返す。


「レオン・ソルです。ご手配に感謝します」


「こちらの仕事です。君たちは生きて港へ着いた。それを迎える者が要る」


 勝って着いたとは言わなかった。


 生きて着いた。


 その言い方で、肩の奥に残っていた力が動いた。慰めではない。事実を外さない声だった。


 ルシアンはカイへ向く。


「カイ神官。祈祷室の奥に聖水と清布があります。ここの者が君の手順へ合わせます。君が全部抱える必要はありません」


「恐れ入ります」


 カイの礼は深い。本部の聖務官へ向ける礼であり、同じ信仰に立つ者への礼でもあった。


「無理をしないでください。君の袖口も手当てが要る」


「後ほど」


「今ほどではなくてもいい。忘れないでください」


 柔らかい。だが忘れさせない声だった。


 次にルシアンはヴァローを見た。


「ヴァロー殿。記録机はこちらです。月読みの塔の書式は用意できませんでしたが、白紙と黒インクは十分にあります」


 ヴァローの眉がわずかに動く。


「私の名と出自まで把握済みですか」


「船からの先触れが優秀でした。港湾庁の写しも早かった」


「先触れと港湾庁で、私の塔まで届くとは考えにくいですね」


「本部の手紙は長いのです。必要な時ほど」


「便利な手紙ですね」


「ええ。運ぶ者は大変です」


 ルシアンは笑う。


 ヴァローは笑わない。だが目は逸らさなかった。


「ガイウス殿」


 ルシアンは大きな男へ向かった。


「右腕を見せてください。盾を持つ側でしょう」


「ああ」


「足も休ませた方がいい。立ち上がる時に、左へ逃がしています」


 ガイウスの緑の目が細くなる。


「見てたのか」


「見えました」


「戦場に立つ目だな」


「時には立たされます」


「盾は」


「持ちます。ただし君ほど長くは構えられない」


 ガイウスは短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。


「なら知ってるな。腕より腰だ」


「ええ。だから座ってください」


「もう座ってる」


「良い判断です」


 ガイウスはそれ以上言わなかった。


 最後にルシアンはヴェスタへ向く。


「ヴェスタ・ロウ殿」


「俺にも殿がつくのかよ」


「勇者一行の契約戦闘員です。敬意は要ります」


「教会の人間に敬意を払われると背中が痒い」


「薬草を塗りましょう」


 ヴェスタは一瞬だけ黙った。


 カイが小さく咳をする。笑いを隠す咳だった。


 ルシアンはその間に、部屋の者へ目だけで合図を送った。水が運ばれる。椅子が足される。扉が閉められる。奥から書記が出てくる。誰も走っていない。なのに場の向きが変わっていく。


 助かる。


 それは本当だ。


 だがいつの間にか、俺たちは報告するための席へ収まっていた。


「まず水を」


 ルシアンが言った。


「報告はその後でいい。喉が乾いた人間は、事実を短くしすぎます」


「短い方が報告書には向きます」


 ヴァローが言う。


「短すぎる報告は、誰かの痛みを落とします」


 ルシアンは即座に返した。


 ヴァローは黙った。


 俺は杯を手にする。水は冷たかった。喉を通ると、昨日から残っていた血の味が薄くなる。


「では」


──────────────────────────────


 ルシアンは書記の隣へ座った。


 自分が上座には座らない。俺の正面でもない。斜めだ。責める位置ではなく、横から聞く位置だった。


「ロドル・ヴァシレフとの接触について、レオン君の声で聞かせてください。必要なら私が本部向けに整えます」


 本部向け。


 俺は杯を置いた。


「撤退です」


 最初にそう言った。


 カイの手が止まる。祈祷室の方で清布を畳んでいた係がこちらを向いた。


「俺たちはロドルを討てませんでした。戦線を保てず、負傷して退きました」


 声にすると、あの場の重さが小さくなる。


 刀の残像。吸い込まれる感覚。ガイウスが膝をつく音。ヴェスタが低く吐いた罵声。カイの祈りの光。白真珠の塔の賢者が傷を負った瞬間。隣で立とうとして立てなかった者の姿。


 全部が、撤退という二文字に入る。


 入りきるはずがない。


 それでも報告はそこから始まる。


「討伐未達」


 ヴァローが静かに言った。


「ただし敵幹部と思われる個体に接近。名を確認。戦闘様式、力の質、武器の概要、撤退時の発言を記録」


 ルシアンは頷く。


「良い整理です」


「良いかどうかは結果次第です」


「記録の良し悪しは勝敗とは別です。少なくとも次に残る」


 次に。


 ルシアンは敗北という語を使わない。慰めるために避けているのではない。次の手順へ移すために置かないのだ。


「敵は、俺たちが追っているものに近い力を使いました」


 俺は続けた。


「こちらが追う深淵の神の線と、白真珠の塔の賢者が追う線が重なっています」


 ルシアンの羽根ペンが止まった。


 ほんの一拍だけだ。


「白真珠の塔」


「蒼凪・マリヴェル。塔の賢者です」


 名前を口にすると、夜の甲板が戻る。寝たままの賢者。傷だらけの仲間たち。互いの名を置いた合議。ロドル戦の刃音とは別の静けさだった。


「彼らも同じ影を追っています。今後、深淵の神討伐へ向けて共闘の合議を行う予定です。ただし現時点では、同じ街で傷を癒やして情報を整えるところまでです」


 ルシアンは笑っていた。


 笑ったまま、目だけが細くなった。


 その変化は声には出ない。書記も気づかなかったかもしれない。カイは俺の包帯を見ていた。だが俺は見た。


 人ひとりに反応した目ではない。


 道がつながったことへ反応した目だった。


「それは重要な接点ですね」


 ルシアンは言った。


「深淵の神を追う勇者一行。白真珠の塔の賢者。海洋同盟内の現地勢力。別々の線が一つの街に寄った」


「寄っただけです」


 ヴァローが言った。


「合流ではありません」


「もちろん」


 ルシアンは柔らかく頷く。


「接点と合流は違います。だからこそ接点は丁寧に扱うべきです」


「本部向けの表現ですね」


「現地向けでもあります」


「便利な言い方だ」


「便利なものを嫌いすぎると、不便な真実しか残りません」


 ヴァローの視線が冷える。


 俺は二人の間へ息を置いた。


「ルシアン殿」


「ルシアンで構いません。レオン君」


「では、ルシアン。俺たちは何を本部へ報告すべきですか」


 聞いてから悔しくなった。


 何を報告するかくらい、俺が決めるべきだ。勇者なら。隊の先頭に立つなら。


 だが今回は軽くない。


 負けた。生き残った。敵へ接近した。別の勢力と線がつながった。どれを前に置くかで、次の命令が変わる。


 ルシアンはすぐには答えない。


 俺の顔を見る。次に聖剣の鞘へ視線を落とす。それから机の白紙へ戻した。


「事実を落とさず、役目を折らない表現で」


「役目」


「君は勇者です」


 その声は、港の人が俺を見る目より静かだった。


「撤退は撤退として書く。討伐未達も書く。負傷も書く。ですが敵幹部への接近、名の確認、白真珠の塔との接点、共闘合議予定も同じ紙に置く。敗れた報告ではなく、次に進むための報告にします」


「それは負けを薄めることになりませんか」


 俺の声は思ったより低かった。


 カイがこちらを見た。


 ルシアンは俺から目を逸らさない。


「薄める必要はありません。熱すぎる痛みは、次の判断を焼きます。紙は痛みを消すためではなく、持ち運ぶためにあります」


 持ち運ぶ。


 昨日の戦いはまだ熱い。触れれば足がすくむ。だが報告書に置けば、熱がなくなるわけではなく次の場所へ運べる。本部へ。現地へ。白真珠の塔との合議へ。俺たち自身の明日へ。


 ありがたい声だった。


 ありがたいのに息苦しい。


 こちらが自分で足場を探す前に、白い石が敷かれていく気がした。


「わかりました」


 俺は言った。


 言ってから、別の言い方を探した。認めたのではない。飲み込んだのだ。


「撤退。討伐未達。敵幹部への接近。白真珠の塔の賢者との接点。共闘合議予定。この内容で報告します」


「十分です」


 ルシアンは書記へ目を向ける。


「第一報はこの形で。本部への転送は私が確認します。写しは勇者一行へ一部。控えは帳面へ」


「承知しました」


 書記の羽根ペンが走る。


 紙の上に語が置かれていく。


 撤退。


 討伐未達。


 接近。


 接点。


 合議予定。


 一つずつ置かれるたび、昨日の戦いが冷える。痛みは消えない。ただ触れる場所が変わる。ロドルの刀音よりはるかに小さな音なのに、羽根ペンの擦れは逃げ場なく耳へ入った。


「宿は」


 ガイウスが短く聞いた。


 ルシアンはすぐ答える。


「ここから歩いて五分ほどです。階段が少ない裏口から細い通りへ出られます。ここへ戻るにも近い。部屋は二階ではなく中庭側を押さえました。食事は消化の良いものを先に頼んでいます」


「肉は」


「明日以降がいいでしょう」


 ガイウスの眉が動く。


 ヴェスタが笑った。


「ガイウスの兄貴から肉を奪うとは、白い兄ちゃんも度胸あるな」


「奪いません。延期します」


「延期の方が厄介な時もあるぜ」


「では柔らかい煮込みを添えます」


「交渉が早い」


「怪我人は空腹だと不機嫌になりますから」


 ガイウスが低く言った。


「俺は不機嫌じゃねえ」


「腹が減ってからの話です」


「もう減ってる」


 ルシアンは笑った。


「では宿に着いたらすぐ運ばせます」


 会話は軽い。


 だがヴェスタの目は笑いきっていなかった。


「なあ、ルシアン」


「はい」


「港に着く前から決まってたみてえだな。宿も飯もこの席も」


「船影が見えた時点で港湾庁から知らせが来ました」


「船影だけで怪我人向けの飯まで決めるのか」


「勇者一行がロドル・ヴァシレフと接触した可能性がある。そういう報が先に入っていました」


 空気が止まった。


 薬草の匂いが急にはっきりする。水差しを持つ若い係の手が止まる。ヴァローの指が短杖の近くへ落ちる。カイは何も言わず、俺の方を見る。


 ルシアンは笑っている。


 笑っているが、さっきより静かだった。


「誰からです」


 ヴァローが聞いた。


「本部経由です」


「本部はどこまで把握しているのですか」


「知っていることと、確認できていることは違います」


「答えになっていません」


「ええ。答えにしていません」


 柔らかい声だった。


 柔らかいから壁のように聞こえる。


 ヴァローの指が短杖に触れた。魔法を使う動きではない。苛立ちを置くための動きだ。ガイウスの視線がその手を一度だけ見る。ヴェスタは出口の距離を測るように足の角度を変えた。


 カイが息を吐く。


「ヴァロー」


「心得ています」


 ヴァローは短杖から手を離した。


 ルシアンはその動きを責めなかった。責めないことが、余計に場をきれいに整えてしまう。


「現時点で、君たちを縛る権限はありません」


 ルシアンは俺へ向き直る。


「君たちは休み、治療し、合議に備える。その上で今後の報告は一度こちらを通してください。本部への転送、現地照会、補給、治療、宿の変更、いずれも私が担います」


 必要なことばかりだった。


 俺たちは土地勘がない。負傷している。ロドルへ接近した。白真珠の塔の賢者とも合議を予定している。連絡の窓口は要る。ここは教会の施設であり、評議会の許可もある。宿も治療も補給も手配できる。


 必要なものだけが目の前に置かれている。


 だからこそ、断る声が出ない。


「助かります」


 俺は言った。


「今後の報告はここを通します」


「ありがとうございます。こちらも動きやすくなります」


 ルシアンは自然に返した。


 俺たちが助けられる流れであり、同時にルシアンが集める流れでもある。その両方が同じ声の中にあった。


 ヴァローが低く言う。


「ここを通す。つまり帳面にも残る」


「はい」


「本部への転送記録も」


「当然です」


「現地照会も」


「必要なら」


「便利ですね」


「便利なものは使い方次第です」


 また火花が散る。


 本当に燃え上がる前に、カイが俺の肩へ手を伸ばした。


「レオン。あなたも確認します」


「後でいい」


「今です」


「報告が」


「報告は待ちます。腫れは待ちません」


 カイの声は柔らかい。柔らかいまま動かない。


 俺は降参して椅子に座り直した。


 ルシアンが笑う。


「カイ神官の言うことは聞いた方がいい。彼は君の痛みを、君より先に数えている」


「昔からです」


 カイが答えた。


 その声に孤児院の朝が混じる。俺より早く起きて祈りを済ませ、俺の皿を見ていたカイ。稽古で肘を打った時に何も言わず包帯を持ってきたカイ。聖剣の試練から戻った夜、扉の外にいたカイ。


「カイ」


「何ですか」


「強く巻きすぎるな」


「痛むなら言ってください」


「言ったら緩めるのか」


「必要なら」


「必要じゃなかったら」


「我慢してください」


 ヴェスタが吹き出した。


「カイの兄ちゃん、意外と容赦ねえな」


「容赦はします。手当ては別です」


「それが一番怖え」


 ガイウスが低く言う。


「椅子にも負けとけ、レオン」


「まだ負けてない」


「椅子は退かねえ。強いぞ」


「山の戦士が言うと重いな」


「重いのは椅子じゃねえ。お前の意地だ」


 今度こそ笑いが起きた。


 部屋の者もつられて笑う。書記は口元を引き締めたが、羽根ペンの動きが一瞬だけ乱れた。ルシアンも人懐っこく笑っている。綺麗な笑い方だ。場の角を削り、人を安心させる。


 その笑いの間に、報告書の端へ名が書かれていく。


 レオン・ソル。


 カイ・グレイス。


 ヴァロー・ノヴァ。


 ガイウス・フェルム。


 ヴェスタ・ロウ。


 文字になった名は動かない。


 俺たちはさっきまで港の白を歩いていた。痛みを抱え、背筋を伸ばす。民衆の視線も浴びる。だが紙の上に置かれた名は歩かない。そこに留まり、あとから来る誰かの目を待つ。


 水音がした。


 祈祷室で清布を絞る音だ。外からは婚礼客の笑い声が薄く入る。鈴の音。小舟の櫂が水を打つ音。遠くで案内人が高い声を出している。サルマンディアは変わらず明るい。


 明るさの中で、俺たちの撤退は報告になった。


「宿へ向かう前に、写しを確認していただきます」


 ルシアンが言った。


「その後は休みましょう。歩ける者だけで動く必要はありません。歩けるからこそ、歩く順番を選べます」


 ヴァローがすかさず言う。


「それも本部向けの言い方ですか」


「いいえ」


 ルシアンは穏やかに答えた。


「これは怪我人向けです」


「便利な区別だ」


「便利でしょう」


 ヴァローは鼻で息を吐いた。反論はしない。


 書記が報告書を読み上げた。


 撤退。


 討伐未達。


 敵幹部への接近。


 ロドル・ヴァシレフの名。


 戦闘情報の記録。


 白真珠の塔の賢者との接点。


 深淵の神討伐へ向けた共闘合議予定。


 負傷者あり。


 継続調査。


 本部転送は当地確認の上で行う。


 一つずつ声になるたび、昨日の現実がまた別のものへ変わった。声に乗ると、紙より温度が戻る。だが戦場そのものではない。俺の中にある熱と、書記の冷静な声。その間で現実がようやく息をし始める。


「この内容でよろしいですか」


 ルシアンが聞いた。


 俺はカイを見る。カイは小さく頷く。


 ヴァローは写しを手に取り、目で行を追った。


「敵の力の質については別紙にします」


「お願いします」


「私が観測できた範囲では、断定できない点が多い」


「断定しない記録は貴重です」


「本部がそう読むとよいのですが」


「読ませます」


 ルシアンは笑った。


 その一言に、ヴァローの目が動く。皮肉を返すか迷った顔だった。結局、彼は紙へ視線を戻した。


 ガイウスは報告書を細かく読まない。だが自分の名の位置だけ確認し、短く頷いた。


 ヴェスタは紙を覗き込んで顔をしかめる。


「俺の名もそこに残るんだな」


「契約上の同行者ですから」


 ルシアンが答える。


「今後も必要な確認はここから行います」


「必要な確認、ね」


「ええ。過去を掘る書類ではありません」


 ヴェスタの目が一瞬だけ細くなった。


「そこまで言うか」


「言わないと君が気にするでしょう」


「白い兄ちゃん、性格悪いって言われねえか」


「時々」


「だろうな」


 軽口の形だった。だがヴェスタの肩から力が抜ける。ルシアンは踏み込みすぎない。踏み込んでいるのに、足跡だけ水で流して見せる。


 俺はそれを見ていた。


 助けだ。


 目の前にある動きは間違いなく助けだった。水を出す。椅子を用意する。怪我を見て、宿を押さえる。報告を整える。どれも必要な支えだった。俺たちだけでは、ここまで早く動けなかった。


 ありがたい。


 疑うだけなら簡単だ。だが助けられている事実は消えない。


「レオン君」


 ルシアンが俺を呼ぶ。


「はい」


「ここを通す流れについて、君の声で一度確認してもらえますか。隊の中で齟齬がないように」


 逃げ道を狭める声だと思った。


 命令ではない。確認だ。俺が言えば、俺たちの決定になる。ルシアンの指示ではなく、勇者一行の合意になる。


 悪意ではない。


 むしろ丁寧すぎる善意だ。必要な席を先に作り、その中へ俺たちを無理なく座らせる。座ってしまえば楽になる。楽になるから、立ち上がる時に重い。


 俺は息を吸った。


「今後の報告は、オルヴェリス教会サルマンディア支部を通します。本部への転送、現地照会、治療、補給、宿の調整はルシアンが担う。白真珠の塔との合議についても、必要な範囲で共有します」


「必要な範囲で」


 ヴァローが言った。


 俺は頷く。


「必要な範囲で、だ」


 ルシアンは満足そうに頷いた。


「十分です」


 カイが俺の肩の包帯を留める。


「今日は動きすぎないでください」


「宿へ行くだけだ」


「宿へ行くのも動くことです」


「心得た」


「では背筋を緩めてください」


「それは難しい」


「難しくありません」


 ヴェスタがまた笑う。


「勇者の兄ちゃん、ここへ来て一番苦戦してるな」


「椅子と包帯が強い」


「ほら負けてる」


「負けてない」


 ガイウスが立ち上がる。


「負けを認めねえ奴から沈む。海じゃそうなんだろ」


 ヴェスタが目を丸くした。


「兄貴、俺の台詞取るなよ」


「使いやすい」


「山の男に海の教えを使われると妙な気分だぜ」


「悪くねえ」


 その声でまた空気が緩む。


 部屋の者たちが片付けを始めた。水差しが戻される。清布が畳まれる。報告書の写しが乾かされる。祈祷室の灯りはそのままだ。婚姻登録の紙箱の横に、俺たちの報告書が置かれる。誰かの誓いと、誰かの撤退。同じ机の上にある。


 外の明るさが扉の縁に差していた。


「宿までご案内します」


 ルシアンが立ち上がる。


 白外套の裾が音もなく揺れた。黒い縁取りが光を拾う。


「そこまでしていただかなくても」


 俺が言うと、彼は笑った。


「私は現地支援役です。支援は必要なところで止めると、ただの途中放棄になります」


 声は軽い。


 けれど支援の終わる場所を決めるのが、俺たちだけではないようにも聞こえた。


 ヴァローが写しを丁寧に折る。


「宿までの道も記録済みですか」


「もちろん。段差が少ない道を選びました」


「観光案内としては有能ですね」


「婚礼客にも評判です」


「皮肉の受け方が上手い」


「本部は皮肉の多い場所です」


「それは興味深い」


 二人は笑わない。


 だが会話は続く。火花が散りながらも、燃え上がらない距離をルシアンが保っていた。


 カイは部屋の者へ礼を述べた。


「手当てを手伝っていただき、ありがとうございました」


「こちらこそ。カイ神官の手順は学ぶところが多く」


「私も港の薬草を見せていただけて助かりました。香りが違いますね」


「海風で乾かすので」


「なるほど」


 カイの声は柔らかい。白衣の者たちの緊張が解けていく。こういう場面を見ると、教会という名の重さの下に実際に働く手があることを思い出す。


 ガイウスは低い台を元の位置へ戻した。


「この台、借りた」


 年配の男が慌てる。


「あ、こちらで」


「動かしたのはこっちだ」


「ありがとうございます」


 ガイウスは頷くだけだった。


 ヴェスタは長椅子を戻しながら、壁ぎわの婚姻登録の箱を見た。


「ここでも婚礼を扱うのか」


 若い係が答える。


「中央式を望まれる方には。ただ、サルマンディアでは海神祠での誓いが多いです」


「だろうな。海の街だ」


「こちらは後日の登録や中央大陸出身の方が多く」


「祈りも土地で潮目が変わるってわけだ」


 係は迷ってから笑った。


「そうかもしれません」


 ルシアンがそのやり取りを聞いていた。


「良い表現ですね。潮目」


「使う気か」


 ヴェスタが聞く。


「報告書には向きません」


「つまんねえな」


「会話には向きます」


「なら許す」


 ヴェスタは軽く手を振った。


 俺たちは扉へ向かった。


 ルシアンは扉の横に立つ。通す者の位置であり、見送る者の位置だ。白外套の黒縁が扉の白に重なる。彼がそこにいると、ただの小さな入口が別の門のように見えた。


 外へ出る前に、俺は振り返った。


 白い壁。


 小さなオルヴェリスの紋章。


 サルマンディア評議会の許可印。


 長椅子。水差し。書記机。婚姻登録の箱。祈祷室の灯り。乾きかけた報告書。帳面。


 避難所のようだった。


 実際、俺たちは助けられた。水を飲んだ。傷を見られた。報告を整えてもらった。宿も食事も手配されている。今日の俺たちに必要なものは、ほとんどこの白い場所から出てきた。


 ありがたい。


 間違いなく、ありがたい。


 その上で、帳面の上に残った俺たちの名が目に入る。


 紙の内側へ置かれた名は、扉の外へ一緒には歩かない。俺たちが宿へ向かう。傷を癒やす。次の合議へ進む。それでも、この中には今日の俺たちが残る。撤退。討伐未達。接点。合議予定。レオン・ソル。カイ・グレイス。ヴァロー・ノヴァ。ガイウス・フェルム。ヴェスタ・ロウ。


──────────────────────────────


 扉が閉まりかける。


 白い扉は大きな音を立てなかった。


 ただ静かに、俺たちの名前を内側に残した。

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