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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
68/127

薔薇の魔女の館

 馬車の扉が内側から閉じた瞬間、港の音が遠のいた。


 声も鈴も櫂の水音も丸くなる。白い石を踏んだ車輪が動き出し、最初の揺れが胸の包帯を押した。


 右肩から胸の上へ鈍い輪が締まる。俺は息を浅くした。痛みを消すのではない。胸の中央から肩の外へ逃がす。背中へ流す。そうしているうちに、革と磨かれた木の匂いが鼻に入った。薄い薔薇。港から紛れた塩。


 向かいにはエヴァ様が座っている。


 金の巻き毛が窓の光を浴びていた。毛先だけが赤く燃える。膝には金細工の杖。指輪の縁が彫りに当たり、かすかな音を立てた。


 若い女の姿だ。


 そう見える。


 だが近くにいるほど、その若さは薄い膜になる。人の年齢では量れないものが奥にある。街の誰もがそれを知るから、彼女をただの貴婦人として扱わない。


 俺の隣にはヒュウマが座った。


 左腰を庇っている。背を座面に預けきらず、立てる余白を残していた。癖ではない。海で人を引き上げる者の身体は、休む時にも半分だけ待機している。潮鎚は膝の横。右手の指が柄へ添えられ、馬車の揺れを道具へ逃がしていた。


 反対側にはイーリスとラウリがいる。


 イーリスは楽器の包みを膝より上へ置いた。弦を守る角度だった。車体が揺れるたび、箱の中で木が小さく鳴る。彼はその音だけで位置を直した。


 ラウリは槍を馬車の内側へ丁寧に留めた。巨躯が狭い箱に収まるよう、肩と膝の角度を細かく変えている。濃紺のローブの下で首飾りが胸に当たり、乾いた骨に似た音が一度した。


 アルフレッドは御者台の横へ回った。


 馬車が港を離れる。


 珊瑚石の岸壁。花を巻いた小舟。税関に掲げられた青い旗。婚礼島へ向かう人々の白い帽子。水先人が腕を振ると、袖口の銀糸が朝日に光った。


「凪」


 エヴァ様が呼んだ。


「顔が忙しいぞ」


「顔は仕事を選べません」


「ならば口は選べるか」


「時と相手によります」


「妾相手にそれを言うか。くっくっく、以前より図太くなったのう」


「鍛えられましたから」


「誰にじゃ」


「この屋敷の関係者に」


 エヴァ様は杖の先を膝で止めた。


 金の瞳が笑った。口元より先に目が動く。俺に向いていた視線が、次にヒュウマの指へ落ちた。潮鎚の柄を押さえる手がわずかに固まっている。


「海守りの末裔よ。そう身構えるでない」


「身構えていましたか」


「わずかにな」


「すみません」


「謝ることではない。妾の言葉は半分が戯れじゃ」


 ヒュウマは一拍置いた。


「残りは」


「本気じゃな」


「承知しました」


「早いのう。素直な若者は扱いやすい」


「俺は素直ですか」


「そなたは素直に警戒する。そこがよい」


 ヒュウマは返事に困った顔をした。


 俺は窓へ視線を逃がした。エヴァ様はからかっている。だが測ってもいる。傷。姿勢。俺との距離。視線の戻り方。全部を記憶に入れていく。


「凪の連れにしては、隠し方が下手じゃ」


「俺は隠すのが上手いんですか」


「お主は隠す先を間違える」


「ひどい評価ですね」


「正確な評価じゃ」


 言い返す前に、馬車は港の大通りへ出た。


 視界が広がる。


 白い。


 最初に来たのは、その感覚だった。


 四年前もサルマンディアは白かった。珊瑚石の壁。漆喰の外壁。日除けの天幕。海風と塩に負けないための、生活から生まれた白だ。古びても明るい。欠けても清潔。働くために塗り直される色だった。


 今の白は別物だ。


 通りの両側に張られた日除けの高さが揃っている。縁についた飾り紐まで同じ長さだった。看板の下辺は一直線に連なり、香油屋の瓶は窓辺で同じ角度を向く。婚礼衣装店の前には白い花籠が三つ。隣の店も三つ。その先も三つ。


 綺麗だ。


 そう言える。


 言えるからこそ、背中を冷たいものが走った。


 馬車の窓枠の下を、水路の蓋が過ぎていく。新しい真鍮の蓋だ。薔薇と波の模様が彫られている。古い排水の匂いはしない。だが蓋の周囲の石だけ、沈み方が違った。上だけ替えた道の癖だ。


 案内人が角に立っていた。


 白地に薄青の上着。襟には小さな貝の刺繍。片手は胸の前。もう片手は通りの奥を示す。三人が違う客へ同じ手つきで道を教えている。指の高さ。笑顔の深さ。半歩退く間。


「綺麗な街ですね」


 ヒュウマが言った。


 声は素直だった。


 目は素直だけではない。橋の欄干を見て、水までの高さを測る。小舟の間隔を追い、落ちた人間を拾える岸を探す。祝福の旗を見ながら、濡れた足で滑る石を見ている。


「道に砂がありません。海が近いのに」


「掃いておる」


 エヴァ様が答えた。


「客人は靴の中の砂を嫌う。楽園へ来たつもりで、足裏に現実が入ると腹を立てるのじゃ」


「楽園にも砂は入ります」


「それを売る者が困る」


 イーリスが窓の外へ耳を向けた。


「声の高さが揃っておりますね」


「何の声ですか」


 ヒュウマが聞く。


「案内人。店先の呼び込み。船頭の掛け声。荷車が曲がる時の鈴。少しずつ同じ拍へ寄せられております」


「拍か」


「ええ。歌にしやすい街でございます。ただし、歌にしやすすぎる街は用心がいります」


 エヴァ様が口の端を上げた。


「長命の語り部は耳がいやらしいのう」


「お褒めにあずかり光栄でございます」


「褒めておらぬ」


「では、記録に留めます」


 イーリスはにこやかに言った。楽器の包みへ置いた指は、まだ街の音を数えている。


 ラウリは黙っていた。


 彼は白い花も日除けも否定しない。道端の礼拝堂の屋根飾りへ目を置く。婚礼船の鈴も同じように見る。ただその視線は時々低くなる。水路蓋の縁。花棚の足。古い井戸を覆う木枠。隠されたものの周囲に残る石の疲れを、彼は拾っていた。


「この街は、息が細いな」


 ラウリが呟いた。


「息ですか」


 ヒュウマが振り向く。


「見えるものはよく咲いている。けれど下の水が窮屈そうだ」


 エヴァ様が杖を膝の上で軽く転がした。


「シレリオ殿もよい眼を持つ」


 ラウリは困ったように笑った。


「俺は海の近くで育った。水の通りが悪いと、魚より先に人が疲れる」


 その言葉で、四年前の街が胸の奥に戻った。


 一度この街へ寄った時、ここはここまで揃っていなかった。水上宿の建設は始まり、婚礼船の数も増えた。誓約広場の周囲には磨きがかかっていた。それでも旧水路へ降りる石段はむき出しだった。魚の荷台は通りに匂いを残した。昼過ぎには砂が店の床に入り、店主が客と笑いながら箒を動かしていた。


 今は、笑う前に掃かれている。


「早いな」


 俺は口にしていた。


 エヴァ様がこちらを見る。


「覚えておったか」


「四年前と違いすぎる」


「違うとも」


──────────────────────────────


 馬車はラグーン沿いへ出た。


 水上宿が連なっている。白い柱が水面に立ち、低い屋根が橋でつながる。薄いカーテンが風で膨らみ、窓辺の鉢から花弁が落ちる。小舟は宿の間を静かに滑った。船頭は笑顔で説明し、客は水面へ手を伸ばす。


 さらに奥に建設中の足場があった。


 足場は白い幕で覆われていた。工事の木組みは見えない。槌の音だけが響く。働いているのに、働く姿は隠されている。


「マーレじゃ」


 エヴァ様が言った。


 ヒュウマが俺を見る。


「マーレ・パラデイソス。観光開発の特許会社だ」


「会社ですか」


「水上宿。婚礼船。景観整備。客の導線。街全体を商品として扱う」


「合法じゃぞ」


 エヴァ様が杖の先で床を叩いた。


「評議会の承認もある。雇用も増える。税も入る。客人は喜ぶ。妾が苦言を呈せば、古い女の難癖に聞こえる」


「多少は難癖も入っています」


「凪」


「はい」


「お主は以前から、正しい時ほど腹が立つ」


「自覚はあります」


「直せ」


「努力します」


「それは直さぬ者の返事じゃ」


 ヒュウマが小さく息を漏らした。笑いかけて、脇腹を忘れた顔になる。


 エヴァ様はそれも見逃さない。


「楽園という名は美しいじゃろう」


「名前は美しいですね」


「人は美しい名に弱い」


「俺は整っているものに弱いだけです」


「同じ庭の違う小径じゃ」


「違います」


「なら違うことにしておいてやる」


 白い橋を渡る花嫁が見えた。


 実際の婚礼か、見せるための衣装かは判然としない。裾が風に揺れ、二人の案内人が同じ歩幅で付き添う。花嫁は美しかった。だが石橋の下で、水面が澱む音がした。浅い水が戻り道を探している。


「街を舞台にしたいのか」


 俺は言った。


「向こうは楽園を造ると言うておる」


「舞台のほうが正直です」


「くっくっく。そう言うと思った」


 エヴァ様は窓へ視線を戻した。


「妾は美しいものが嫌いではない。薔薇も飾りも、誓いの天幕もな。されど、古い石の皺まで白く塗る必要はあるまい」


「止めないんですか」


 ヒュウマが問う。


 口にしてから、失礼だったと気づいた顔になった。


 エヴァ様は怒らなかった。


「妾の屋敷は妾のものじゃ。街は街のもの。すべてに手を入れれば、それは統治であろう?」


「すみません」


「よい。若者は素直に聞くほうがましじゃ」


「聞くのは得意です」


「それはよい。凪は聞いている顔で別の箱を組む」


「悪い癖みたいに言わないでください」


「悪い癖じゃ」


 イーリスが静かに口元を隠した。


 馬車は中心部を抜けていく。


 白い宿が減り、果物の籠が増えた。魚の荷台が横道へ入る。そこだけ古い匂いが残る。塩。鱗。濡れた木箱。人が働いた後の息。白い幕の足場はまだあるが、隙間から古い石段が顔を出していた。


 エヴァ様が急に言った。


「便りは来る」


 嫌な方向へ話が曲がった。


「エヴァ様」


「だが少ない。気まぐれにしか戻らぬ。戻ったと思えば、だいたいどこか壊しておる」


「壊しているわけではありません」


「壊れて帰るなら同じことじゃ」


 ヒュウマの視線が俺の包帯へ落ちる。


「客人の前です」


「客人の前で隠すような上品な話ではない」


「上品さの問題ではないです」


「なら何の問題じゃ」


「俺の立場です」


「今さらか」


 エヴァ様は喉の奥で笑った。


「妾を退屈させぬ人間は少ない。お主はその一人じゃ」


「娯楽扱いですか」


「娯楽なら飽きる」


 金の瞳が細くなった。


「魔女は退屈を嫌う。お主は退屈から遠い。そこは誇ってよいぞ」


「怪我人相手に楽しそうですね」


「生きて戻った怪我人は、喜んでよいものじゃ」


 返事が遅れた。


 エヴァ様はそこを見ていた。軽口の下に、別のものがあった。俺が帰ってきたことを喜んでいる。傷を見て数えている。数えた上で笑う。笑わなければ、もっと古い顔になるからだ。


「奥様は退屈を嫌われますが」


 御者台の方からアルフレッドの低い声が入った。


「退屈でないからといって、客人の傷を増やす必要はございません」


「アルフレッド。妾は増やしておらぬ」


「今のところは」


「冷たいのう」


「職務でございます」


 馬車の中が緩んだ。


 エヴァ様は不満そうに杖を撫でる。だが目は笑っている。アルフレッドは見えない位置にいるのに、笑いの間だけは同じ部屋に座っているようだった。


 街の外れに出る。


 海の匂いに土と草が混じった。白い壁は残るが、磨かれた観光の白ではない。雨筋がうっすら残り、漆喰のひびを隠していない。赤い屋根が丘の上に見えた。


──────────────────────────────


 屋敷だ。


 エヴァ様の館。


 胸の奥が狭くなった。痛みとは別の狭さだった。


 坂道の両側には薔薇が植えられている。港の飾り薔薇とは違う。枝は好きな方向へ伸び、棘は遠慮なく突き出していた。手入れされているのに、飼いならされていない。


 白い門柱が見えた。


 門扉は開いている。


 車寄せの左右に使用人たちが列を作っていた。年齢も背丈もばらばらだ。だが手の位置と衣服の折り目だけは揃っている。馬車が止まる前に、扉を開けるための空白ができた。


 アルフレッドが降りる。


 馬車の扉が開いた。


「お着きでございます」


 エヴァ様が最初に降りた。


 次に俺が促される。段へ足をかけると、白手袋の手が近くにあった。支えるためではない。必要になれば届く位置。あの頃から変わらない距離だ。


 俺は手を借りずに降りた。


「凪様」


「問題ありません」


「承知いたしました」


 その声は、問題がないとは言っていない。記録しただけだ。


 ヒュウマが降りる時、アルフレッドは半歩近かった。ヒュウマは一瞬迷い、手すりを選ぶ。


「海守り殿。左足からでございます」


「はい」


「よい運びでございます」


 ヒュウマは驚いた顔をした。足の運びだけで見られたことに気づいた顔だ。


 イーリスは楽器の包みを胸へ寄せて降りた。ラウリは槍を外し、車寄せの石を踏む前に屋敷へ礼を置いた。丘の風が彼の濃紺のローブを揺らす。


 屋敷は白かった。


 街の白とは違う。


 磨き上げられた白ではない。雨を吸い、塩を抱え、何度も塗られて生き延びた白。円柱の根元には欠けがある。階段の中央は靴の重みで浅く沈んでいる。赤い屋根瓦も一枚ずつ色が違う。


 住まわれてきた白。


 玄関前に、一人の女が立っていた。


 蜂蜜色の髪を後ろでまとめている。光を浴びると金ではなく蜜の濃淡に見えた。こめかみに細い銀が混じっている。黒に近い濃紺の服。生成りのエプロン。胸元に小さな蜜蝋印。腰には帳面と封蝋道具が収まっていた。


 瞳は暗い琥珀色。


 若い顔に、若くない静けさがある。


 メリッサ・セラ。


 名前は知っている。会うのは久しぶりだった。けれど彼女の周りには、久しぶりという言葉を軽くする匂いがあった。乾いた紙。洗い立ての衣類。薄い蜜蝋。生活が丁寧に積まれた匂い。


「奥様」


 メリッサはエヴァ様へ礼をした。


「お帰りなさいませ」


「メリッサ。凪がまたボロで戻ったぞ」


「見れば分かります」


 即答だった。


 エヴァ様がくふっと笑う。


「冷たいのう」


「冷たくはございません。湯は温めてございます」


「それは冷たくない」


「はい」


 メリッサの視線が俺へ移る。


 目が胸の包帯を見た。次に肩。足の置き方。呼吸の浅さ。顔色。全部を見て、声は柔らかいままだった。


「凪様。お帰りなさいませ」


「ただいま、でいいんですか」


「この屋敷へお入りになるなら」


 迷わせない返答だった。


 メリッサはあの頃からそうだ。感情は丁寧に扱う。だが生活の手順は曲げない。立っている者には椅子。乾いた喉には水。迷っている者には、まず手を洗わせる。


 彼女は俺の後ろへ向き直った。


「メリッサ・セラと申します。この屋敷の生活記録と使用人統括を預かっております。まずは手を洗ってくださいませ」


 ヒュウマが真面目に頭を下げた。


「サルヴァトーレ家のヒュウマです。海守り衆の当代です」


「ヒュウマ様。お疲れでございました」


 メリッサの目が一度だけヒュウマの左腰へ落ちる。包帯。手の冷え。立ち方。彼女の帳面には、もういくつか項目が増えたはずだ。


「医者を呼んでおります。強く歩かないでくださいませ」


「はい。ありがとうございます」


 イーリスが礼をした。


「イーリスと申します。旅の語り部でございます。屋敷の作法をご教示いただければ従います」


「イーリス様。作法は難しくございません。使用人の名を覚えていただければ、半分は足ります」


「それはよい作法でございますね」


 イーリスの声が一段柔らかくなった。


 メリッサは最後にラウリを見る。


 ラウリは胸に手を当てた。


「シレリオ家のラウリ・シレリオ。客人として礼を尽くします」


「シレリオ殿。遠路、お疲れでございました」


「礼を受け取ります」


 短いやり取りで、敷居の前の空気が整った。


 屋敷側は三人の名を知らなかったわけではない。港で名乗りは済んでいる。だがここでは、名を生活の側へ置く必要がある。メリッサはそのために立っている。


「奥様」


 メリッサがエヴァ様へ向き直る。


「客人の方々を玄関前に立たせ続ける趣味は、この屋敷にはございません」


「妾の趣味の話か?」


「奥様の趣味は別帳で管理しております」


「また帳面か」


「奥様のせいでございます」


 エヴァ様は楽しそうに笑った。アルフレッドの瞼がわずかに下がる。声にはしないが、あれは笑いだった。


 玄関の扉が開く。


 大広間へ入った。


 空気が切り替わる。


 海風の明るさが背後へ退き、石と花の匂いが前へ出た。大理石の床。赤い絨毯。正面の大階段。左右へ伸びる回廊。壁に掛けられた古い肖像。薔薇の意匠を彫った柱と燭台。金具には古い艶がある。


 豪奢だ。


 だが見せるためだけの空間ではない。


 奥で足音が動いている。湯桶を運ぶ音。寝具を替える音。医者への使いが廊下を小走りで抜ける気配。階段下の机には帳面が開かれ、到着時刻と客人の名が書き込まれていた。


 屋敷は迎えている。


 同時に働いている。


 そこが街と違った。


 街は見られるために整っていた。ここは眠る者と起きる者のために整っている。人が倒れれば手が動く。客が来れば水が出る。傷があれば医者が呼ばれる。美しさの前に手順がある。


「凪」


 エヴァ様が声を落とした。


「ふらつく前に言え」


「言わなかったことがありますか」


「ある」


 即答だった。


 アルフレッドとメリッサが同時にこちらを見る。


「以前の話です」


「今も大差ございません」


 メリッサが淡々と言った。


「凪様は、眠れない夜に水を飲み忘れます」


 ヒュウマの視線が俺へ向いた。


「メリッサ」


「事実でございます」


「今は忘れません」


「では確認はヒュウマ様へお願いします」


「なぜですか」


「凪様より信用できるためです」


 ヒュウマが目を丸くした。


 エヴァ様が喉の奥で笑う。アルフレッドは何も言わない。だが沈黙が完全に同意だった。


「俺の立場がない」


「立場はございます。水差しの横です」


 イーリスが口元を押さえた。ラウリは真剣に頷いた。


「水は大事だ」


「ラウリまで」


「海の者は水を軽く見ない」


「そういう話ではない」


 軽い会話だった。


 それでも足元の石が記憶に変わる。あの頃の俺を知る人間がいる。食べなかった朝。眠れなかった夜。机に置いたまま封を切らなかった手紙。そういうものが、たぶん帳面のどこかに残っている。


 それを責めない。


 だから逃げ道がない。


「西館へご案内いたします」


 アルフレッドが言った。


「医者は半刻以内に参ります。軽食は客間へ。夕餉まではお休みください」


「軽食は何ですか」


 ヒュウマが聞く。


 声は平静だった。だが腹が空いた時の音が混じっていた。


 よかった。


 メリッサが答えた。


「薔薇塩を使った白身魚の薄焼き。香草の粥。冷やした果実水を少し。重いものは出しません」


「ありがとうございます」


「食べられない場合は残してくださいませ。記録いたします」


「記録ですか」


「理由を探すためでございます」


 ヒュウマは真面目に頷いた。


 エヴァ様が杖で床を軽く叩く。


「夕餉はもう少し面白いぞ。近頃、厨房が東方の膳に凝っておる」


 俺は視線だけを向けた。


「前の料理長は」


「歳で退いた。悪い扱いはしておらぬ」


「ならいいです」


「まずそこを聞くのが、お主らしいのう」


「気になります」


「今の料理長は若いが手はよい。胃に優しいものなどと言い出すのが玉に瑕じゃ」


「エヴァ様が胃に優しいものを」


「妾の胃ではない。客の胃じゃ」


「なら納得です」


「お主も客じゃぞ」


「俺は客では」


「凪様」


 メリッサが名前だけで止めた。


「はい」


「今日は客でございます」


 その言い方に、俺は抵抗をやめた。


 エヴァ様は満足そうに笑う。メリッサはもう使用人へ目配せしていた。盆の数。湯の順番。医者を通す廊下。笑いの間にも生活は進む。


 俺たちは回廊を進んだ。


 大広間の奥から中庭へ出る。


 中央薔薇庭園。


 ロサ・テンプス。


 名を知っている。道も知っている。だが知っているから安全という庭ではない。足を踏み入れた瞬間、空気の重さが変わる。


 季節が混ざっていた。


 春の赤。初夏の白。雨の後の淡い黄。秋に近い濃紫。花弁の厚さも香りも違う。棘の長さも違う。庭師の手は入っているが、揃えられた感じはない。


 香りは一つに混ざらない。


 甘い花の奥に青い葉がある。湿った土。古い石。雨の気配。近い枝の棘は陽を浴びて薄く光り、奥の棘は影の中で黒い。風が吹いても、花は同じ速度で揺れない。遅れるもの。先に震えるもの。まったく動かないもの。


 時間が細かくずれている。


 そう見えた。


 ヒュウマが足を止めかけた。


「これは」


「妾の庭じゃ」


 エヴァ様が軽く言った。


「言われた道だけ歩け。花に見惚れて棘に捕まるでないぞ」


「迷うんですか」


「人による」


「道はあります」


「道があることと、歩けることは同じではない」


 ラウリの首飾りが小さく鳴る。


「潮の筋に似ている」


 エヴァ様が彼を見る。


「シレリオ殿。続けよ」


「見えている水面と、通れる潮は違う。進めそうに見えても、舟底を持っていくところがある」


「よいな。花は水面。棘は潮じゃ」


「なら、礼をして歩きます」


 ラウリは本当に短く庭へ礼を置いた。


 イーリスは静かだった。


 耳が動いている。庭師の鋏。水の落ちる音。蜂の羽音。どれも近いようで遠い。音が枝を通るたび、時間を遅らせるようだった。彼は歌にする顔をしていない。まだ聞くだけにしている。


「長命の語り部」


 エヴァ様が呼んだ。


「歌わぬのか」


「今は歌えば花の邪魔になります」


「よい返しじゃ」


「恐れ入ります」


 中心の方へ目を向けかけた。


 やめた。


 今は見ない。見たところで、俺が言葉にできるものではない。身体が今日は余計なところへ手を伸ばすなと言っていた。


「凪」


 エヴァ様は気づいていた。


「見ぬのか」


「今日は客なので」


「便利な盾じゃな」


「使える時に使います」


「つまらぬ」


「退屈してください」


「嫌じゃ」


 その声音は子供のようだった。だが金の瞳だけは古い。薔薇の香りが服へ移る。白い街の香油とは違う。薄く残って、すぐには消えない匂いだった。


 庭を抜けて回廊へ戻る。


 西館は本館より静かだった。


──────────────────────────────


 客間の並びは広く取られている。窓は庭園の外側へ向かい、海は直接見えない。けれど光の色に水の近さがあった。廊下には新しい花がわずかに活けてある。多すぎない。匂いが傷に障らない量だ。


「海守り殿のお部屋はこちらでございます」


 アルフレッドが示した。


「凪様の部屋とは少し離れております。お呼びの際は、廊下の鈴を」


 ヒュウマは一度だけ俺を見た。


「蒼凪さん」


「休め」


「はい」


「医者の言うことを聞け」


「蒼凪さんもです」


「聞く」


「本当ですか」


「たぶん」


「たぶんは困ります」


 同じやり取りになりそうで、俺は息を抜いた。


「今回は聞く」


 ヒュウマは頷いた。完全には信じていない顔だった。


「飯も食ってください」


「お前もな」


「俺は食べます」


「ならいい」


「蒼凪さんもです」


「しつこいぞ」


「役目です」


 そう言われると返しにくい。


 イーリスは案内の若いメイドへ名を尋ねていた。メリッサの言葉をもう作法へ入れている。メイドは驚き、それから嬉しそうに名乗った。


 ラウリは部屋の前で深く礼をした。


「世話になります」


「ごゆっくりお休みくださいませ」


 メイドの声は緊張していた。シレリオの当主をただの客としては見ていない。それでも手順は乱れない。メリッサの屋敷だった。


 軽食は客間へ運ばれていく。


 魚の薄焼きの香りが通り過ぎた。油は少ない。薔薇塩の匂いが淡い。香草の粥は湯気の立ち方まで優しい。ヒュウマの肩から力が抜けた。食べられるなら、回復は早い。


 医者の馬車が遠くで止まる音もした。


 夕餉まで休む。


 その手順が廊下全体に行き渡っていた。


 俺だけが別の導線へ進む。


 本館から見れば同じ西館だ。だが客間の並びから少し離れる。廊下の幅が変わる。窓の高さが低くなる。床板の軋みが記憶に近い音を立てた。


 アルフレッドが先を歩く。


 メリッサが少し後ろにいる。


 エヴァ様は来ない。


 それでいい。


──────────────────────────────


 扉の前でアルフレッドが止まった。


「西館の私室でございます」


 以前はそう呼ばなかった。


 ただの部屋だった。


 俺の部屋。逃げ込む部屋。眠れない部屋。本を積む部屋。開けない手紙を置く部屋。身体を作り直すために、アルフレッドに廊下へ連れ出された部屋。


「鍵は変えておりません」


 アルフレッドが言う。


「ただし、開く者は限っております」


「知っています」


「はい」


 メリッサが小さな鍵を差し出した。


「凪様がお開けください」


 俺は鍵を取った。


 金属が冷たい。


 鍵穴へ差す。回す。音は記憶より軽い。油が差されている。放置された部屋の音ではない。


 扉を開けた。


 空気は古かった。


 だが埃の匂いはしない。


 窓辺の薄いカーテンが揺れている。机は以前と同じ位置。椅子も同じ。壁の小さな傷。寝台の向き。引き出しの取っ手。窓枠の角。床板の色が一枚だけ違うところ。


 十年以上、何も変わっていないように見えた。


 見えただけだ。


 水差しは新しい。珊瑚硝子の表面に淡い赤が入っている。寝具は以前より厚く、肩が沈みすぎない高さに整えられていた。机の上には薬と包帯。湯の用意を知らせる小さな札。灯りの芯は切り揃えられ、火口箱は手の届く位置へ移されている。


 あの頃の俺なら置かなかったものがある。


 今の俺が必要とするものだ。


 変わっていないのではない。


 変わらないように、変え続けられていた。


「以前と同じではございません」


 メリッサが静かに言った。


「今の凪様が眠れるよう、整えてございます」


「……ありがとうございます」


 声が少し遅れた。


 メリッサは礼を収める角度で頭を下げる。


「医者が参りましたらお呼びします。湯はその後で」


 アルフレッドが扉の外で一礼した。


「必要があれば鈴を」


「承知しました」


 二人は出ていった。


 扉が閉まる。


 一人になった。


 静かだった。


 遠くで屋敷の足音がする。客間の方で寝具を運ぶ気配。庭園の水音が窓の隙間から細く入る。港の喧騒はもう来ない。白い街の拍も、ここまでは入ってこない。


 俺は机へ触れた。


 指先が木目を覚えていた。


 小さな傷がある。以前、羽根ペンを落として焦げた跡だ。消されていない。磨かれてはいる。指に引っかからない程度に整えられ、けれどなかったことにはされていない。


 窓辺へ行く。


 庭の外れが見える。薔薇ではなく、低い香草の花壇だった。夜にここを見ていたことがある。何を考えていたかは覚えていない。覚えないようにしたのかもしれない。


 椅子の背をなぞった。


 背板の角が以前より滑らかだ。誰かが何度も拭いたのだろう。引き出しには触れなかった。まだ早い。


 寝台の横には小さな台が置かれていた。水差し。杯。痛み止め。清潔な手巾。鈴。すべて右手で取れる位置にある。以前の配置なら左手を伸ばす必要があった。今の傷を見て変えたのだ。


 胸の包帯がまた鈍く軋んだ。


 俺は立ったまま息を整える。


 戻ってきた。


 そう言うのは簡単だ。だがこの部屋は、帰ってきた俺に合わせて先に動いていた。俺が扉を開ける前から、今の身体を知っているように道具が置かれている。


 本棚の前で足が止まった。


 埃はない。


 一冊ずつ背表紙が拭かれている。順はあの頃のままだった。海洋史。白真珠の塔の古い論文写し。潮位記録。植物図鑑。婚姻契約に関する薄い本。読みかけで置き、そのまま最後まで読まなかった物語集。


 そして、その中に好きだった航海譚があった。


 青い装丁の背。


 題名の金箔は薄くなっている。けれど剥げてはいない。湿気と虫から守られ、何度も拭かれた背だった。戻るかどうか分からない人間のために、十年以上手を入れられていた。


 指を伸ばす。


 背表紙に触れた。


 冷たくなかった。


 街は変わっていた。


 港も道も姿を替えた。宿も案内人の声も、四年前とは違う形へ白く整えられていた。


 この部屋は変わっていない。


 そう言いかけて、指先で違うと知った。


 変わらないように、誰かが毎日変えてきた。


 俺は埃のない本棚の前で、好きだった航海譚の背をゆっくりとなぞった。

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