薔薇の魔女の館
馬車の扉が内側から閉じた瞬間、港の音が遠のいた。
声も鈴も櫂の水音も丸くなる。白い石を踏んだ車輪が動き出し、最初の揺れが胸の包帯を押した。
右肩から胸の上へ鈍い輪が締まる。俺は息を浅くした。痛みを消すのではない。胸の中央から肩の外へ逃がす。背中へ流す。そうしているうちに、革と磨かれた木の匂いが鼻に入った。薄い薔薇。港から紛れた塩。
向かいにはエヴァ様が座っている。
金の巻き毛が窓の光を浴びていた。毛先だけが赤く燃える。膝には金細工の杖。指輪の縁が彫りに当たり、かすかな音を立てた。
若い女の姿だ。
そう見える。
だが近くにいるほど、その若さは薄い膜になる。人の年齢では量れないものが奥にある。街の誰もがそれを知るから、彼女をただの貴婦人として扱わない。
俺の隣にはヒュウマが座った。
左腰を庇っている。背を座面に預けきらず、立てる余白を残していた。癖ではない。海で人を引き上げる者の身体は、休む時にも半分だけ待機している。潮鎚は膝の横。右手の指が柄へ添えられ、馬車の揺れを道具へ逃がしていた。
反対側にはイーリスとラウリがいる。
イーリスは楽器の包みを膝より上へ置いた。弦を守る角度だった。車体が揺れるたび、箱の中で木が小さく鳴る。彼はその音だけで位置を直した。
ラウリは槍を馬車の内側へ丁寧に留めた。巨躯が狭い箱に収まるよう、肩と膝の角度を細かく変えている。濃紺のローブの下で首飾りが胸に当たり、乾いた骨に似た音が一度した。
アルフレッドは御者台の横へ回った。
馬車が港を離れる。
珊瑚石の岸壁。花を巻いた小舟。税関に掲げられた青い旗。婚礼島へ向かう人々の白い帽子。水先人が腕を振ると、袖口の銀糸が朝日に光った。
「凪」
エヴァ様が呼んだ。
「顔が忙しいぞ」
「顔は仕事を選べません」
「ならば口は選べるか」
「時と相手によります」
「妾相手にそれを言うか。くっくっく、以前より図太くなったのう」
「鍛えられましたから」
「誰にじゃ」
「この屋敷の関係者に」
エヴァ様は杖の先を膝で止めた。
金の瞳が笑った。口元より先に目が動く。俺に向いていた視線が、次にヒュウマの指へ落ちた。潮鎚の柄を押さえる手がわずかに固まっている。
「海守りの末裔よ。そう身構えるでない」
「身構えていましたか」
「わずかにな」
「すみません」
「謝ることではない。妾の言葉は半分が戯れじゃ」
ヒュウマは一拍置いた。
「残りは」
「本気じゃな」
「承知しました」
「早いのう。素直な若者は扱いやすい」
「俺は素直ですか」
「そなたは素直に警戒する。そこがよい」
ヒュウマは返事に困った顔をした。
俺は窓へ視線を逃がした。エヴァ様はからかっている。だが測ってもいる。傷。姿勢。俺との距離。視線の戻り方。全部を記憶に入れていく。
「凪の連れにしては、隠し方が下手じゃ」
「俺は隠すのが上手いんですか」
「お主は隠す先を間違える」
「ひどい評価ですね」
「正確な評価じゃ」
言い返す前に、馬車は港の大通りへ出た。
視界が広がる。
白い。
最初に来たのは、その感覚だった。
四年前もサルマンディアは白かった。珊瑚石の壁。漆喰の外壁。日除けの天幕。海風と塩に負けないための、生活から生まれた白だ。古びても明るい。欠けても清潔。働くために塗り直される色だった。
今の白は別物だ。
通りの両側に張られた日除けの高さが揃っている。縁についた飾り紐まで同じ長さだった。看板の下辺は一直線に連なり、香油屋の瓶は窓辺で同じ角度を向く。婚礼衣装店の前には白い花籠が三つ。隣の店も三つ。その先も三つ。
綺麗だ。
そう言える。
言えるからこそ、背中を冷たいものが走った。
馬車の窓枠の下を、水路の蓋が過ぎていく。新しい真鍮の蓋だ。薔薇と波の模様が彫られている。古い排水の匂いはしない。だが蓋の周囲の石だけ、沈み方が違った。上だけ替えた道の癖だ。
案内人が角に立っていた。
白地に薄青の上着。襟には小さな貝の刺繍。片手は胸の前。もう片手は通りの奥を示す。三人が違う客へ同じ手つきで道を教えている。指の高さ。笑顔の深さ。半歩退く間。
「綺麗な街ですね」
ヒュウマが言った。
声は素直だった。
目は素直だけではない。橋の欄干を見て、水までの高さを測る。小舟の間隔を追い、落ちた人間を拾える岸を探す。祝福の旗を見ながら、濡れた足で滑る石を見ている。
「道に砂がありません。海が近いのに」
「掃いておる」
エヴァ様が答えた。
「客人は靴の中の砂を嫌う。楽園へ来たつもりで、足裏に現実が入ると腹を立てるのじゃ」
「楽園にも砂は入ります」
「それを売る者が困る」
イーリスが窓の外へ耳を向けた。
「声の高さが揃っておりますね」
「何の声ですか」
ヒュウマが聞く。
「案内人。店先の呼び込み。船頭の掛け声。荷車が曲がる時の鈴。少しずつ同じ拍へ寄せられております」
「拍か」
「ええ。歌にしやすい街でございます。ただし、歌にしやすすぎる街は用心がいります」
エヴァ様が口の端を上げた。
「長命の語り部は耳がいやらしいのう」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
「褒めておらぬ」
「では、記録に留めます」
イーリスはにこやかに言った。楽器の包みへ置いた指は、まだ街の音を数えている。
ラウリは黙っていた。
彼は白い花も日除けも否定しない。道端の礼拝堂の屋根飾りへ目を置く。婚礼船の鈴も同じように見る。ただその視線は時々低くなる。水路蓋の縁。花棚の足。古い井戸を覆う木枠。隠されたものの周囲に残る石の疲れを、彼は拾っていた。
「この街は、息が細いな」
ラウリが呟いた。
「息ですか」
ヒュウマが振り向く。
「見えるものはよく咲いている。けれど下の水が窮屈そうだ」
エヴァ様が杖を膝の上で軽く転がした。
「シレリオ殿もよい眼を持つ」
ラウリは困ったように笑った。
「俺は海の近くで育った。水の通りが悪いと、魚より先に人が疲れる」
その言葉で、四年前の街が胸の奥に戻った。
一度この街へ寄った時、ここはここまで揃っていなかった。水上宿の建設は始まり、婚礼船の数も増えた。誓約広場の周囲には磨きがかかっていた。それでも旧水路へ降りる石段はむき出しだった。魚の荷台は通りに匂いを残した。昼過ぎには砂が店の床に入り、店主が客と笑いながら箒を動かしていた。
今は、笑う前に掃かれている。
「早いな」
俺は口にしていた。
エヴァ様がこちらを見る。
「覚えておったか」
「四年前と違いすぎる」
「違うとも」
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馬車はラグーン沿いへ出た。
水上宿が連なっている。白い柱が水面に立ち、低い屋根が橋でつながる。薄いカーテンが風で膨らみ、窓辺の鉢から花弁が落ちる。小舟は宿の間を静かに滑った。船頭は笑顔で説明し、客は水面へ手を伸ばす。
さらに奥に建設中の足場があった。
足場は白い幕で覆われていた。工事の木組みは見えない。槌の音だけが響く。働いているのに、働く姿は隠されている。
「マーレじゃ」
エヴァ様が言った。
ヒュウマが俺を見る。
「マーレ・パラデイソス。観光開発の特許会社だ」
「会社ですか」
「水上宿。婚礼船。景観整備。客の導線。街全体を商品として扱う」
「合法じゃぞ」
エヴァ様が杖の先で床を叩いた。
「評議会の承認もある。雇用も増える。税も入る。客人は喜ぶ。妾が苦言を呈せば、古い女の難癖に聞こえる」
「多少は難癖も入っています」
「凪」
「はい」
「お主は以前から、正しい時ほど腹が立つ」
「自覚はあります」
「直せ」
「努力します」
「それは直さぬ者の返事じゃ」
ヒュウマが小さく息を漏らした。笑いかけて、脇腹を忘れた顔になる。
エヴァ様はそれも見逃さない。
「楽園という名は美しいじゃろう」
「名前は美しいですね」
「人は美しい名に弱い」
「俺は整っているものに弱いだけです」
「同じ庭の違う小径じゃ」
「違います」
「なら違うことにしておいてやる」
白い橋を渡る花嫁が見えた。
実際の婚礼か、見せるための衣装かは判然としない。裾が風に揺れ、二人の案内人が同じ歩幅で付き添う。花嫁は美しかった。だが石橋の下で、水面が澱む音がした。浅い水が戻り道を探している。
「街を舞台にしたいのか」
俺は言った。
「向こうは楽園を造ると言うておる」
「舞台のほうが正直です」
「くっくっく。そう言うと思った」
エヴァ様は窓へ視線を戻した。
「妾は美しいものが嫌いではない。薔薇も飾りも、誓いの天幕もな。されど、古い石の皺まで白く塗る必要はあるまい」
「止めないんですか」
ヒュウマが問う。
口にしてから、失礼だったと気づいた顔になった。
エヴァ様は怒らなかった。
「妾の屋敷は妾のものじゃ。街は街のもの。すべてに手を入れれば、それは統治であろう?」
「すみません」
「よい。若者は素直に聞くほうがましじゃ」
「聞くのは得意です」
「それはよい。凪は聞いている顔で別の箱を組む」
「悪い癖みたいに言わないでください」
「悪い癖じゃ」
イーリスが静かに口元を隠した。
馬車は中心部を抜けていく。
白い宿が減り、果物の籠が増えた。魚の荷台が横道へ入る。そこだけ古い匂いが残る。塩。鱗。濡れた木箱。人が働いた後の息。白い幕の足場はまだあるが、隙間から古い石段が顔を出していた。
エヴァ様が急に言った。
「便りは来る」
嫌な方向へ話が曲がった。
「エヴァ様」
「だが少ない。気まぐれにしか戻らぬ。戻ったと思えば、だいたいどこか壊しておる」
「壊しているわけではありません」
「壊れて帰るなら同じことじゃ」
ヒュウマの視線が俺の包帯へ落ちる。
「客人の前です」
「客人の前で隠すような上品な話ではない」
「上品さの問題ではないです」
「なら何の問題じゃ」
「俺の立場です」
「今さらか」
エヴァ様は喉の奥で笑った。
「妾を退屈させぬ人間は少ない。お主はその一人じゃ」
「娯楽扱いですか」
「娯楽なら飽きる」
金の瞳が細くなった。
「魔女は退屈を嫌う。お主は退屈から遠い。そこは誇ってよいぞ」
「怪我人相手に楽しそうですね」
「生きて戻った怪我人は、喜んでよいものじゃ」
返事が遅れた。
エヴァ様はそこを見ていた。軽口の下に、別のものがあった。俺が帰ってきたことを喜んでいる。傷を見て数えている。数えた上で笑う。笑わなければ、もっと古い顔になるからだ。
「奥様は退屈を嫌われますが」
御者台の方からアルフレッドの低い声が入った。
「退屈でないからといって、客人の傷を増やす必要はございません」
「アルフレッド。妾は増やしておらぬ」
「今のところは」
「冷たいのう」
「職務でございます」
馬車の中が緩んだ。
エヴァ様は不満そうに杖を撫でる。だが目は笑っている。アルフレッドは見えない位置にいるのに、笑いの間だけは同じ部屋に座っているようだった。
街の外れに出る。
海の匂いに土と草が混じった。白い壁は残るが、磨かれた観光の白ではない。雨筋がうっすら残り、漆喰のひびを隠していない。赤い屋根が丘の上に見えた。
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屋敷だ。
エヴァ様の館。
胸の奥が狭くなった。痛みとは別の狭さだった。
坂道の両側には薔薇が植えられている。港の飾り薔薇とは違う。枝は好きな方向へ伸び、棘は遠慮なく突き出していた。手入れされているのに、飼いならされていない。
白い門柱が見えた。
門扉は開いている。
車寄せの左右に使用人たちが列を作っていた。年齢も背丈もばらばらだ。だが手の位置と衣服の折り目だけは揃っている。馬車が止まる前に、扉を開けるための空白ができた。
アルフレッドが降りる。
馬車の扉が開いた。
「お着きでございます」
エヴァ様が最初に降りた。
次に俺が促される。段へ足をかけると、白手袋の手が近くにあった。支えるためではない。必要になれば届く位置。あの頃から変わらない距離だ。
俺は手を借りずに降りた。
「凪様」
「問題ありません」
「承知いたしました」
その声は、問題がないとは言っていない。記録しただけだ。
ヒュウマが降りる時、アルフレッドは半歩近かった。ヒュウマは一瞬迷い、手すりを選ぶ。
「海守り殿。左足からでございます」
「はい」
「よい運びでございます」
ヒュウマは驚いた顔をした。足の運びだけで見られたことに気づいた顔だ。
イーリスは楽器の包みを胸へ寄せて降りた。ラウリは槍を外し、車寄せの石を踏む前に屋敷へ礼を置いた。丘の風が彼の濃紺のローブを揺らす。
屋敷は白かった。
街の白とは違う。
磨き上げられた白ではない。雨を吸い、塩を抱え、何度も塗られて生き延びた白。円柱の根元には欠けがある。階段の中央は靴の重みで浅く沈んでいる。赤い屋根瓦も一枚ずつ色が違う。
住まわれてきた白。
玄関前に、一人の女が立っていた。
蜂蜜色の髪を後ろでまとめている。光を浴びると金ではなく蜜の濃淡に見えた。こめかみに細い銀が混じっている。黒に近い濃紺の服。生成りのエプロン。胸元に小さな蜜蝋印。腰には帳面と封蝋道具が収まっていた。
瞳は暗い琥珀色。
若い顔に、若くない静けさがある。
メリッサ・セラ。
名前は知っている。会うのは久しぶりだった。けれど彼女の周りには、久しぶりという言葉を軽くする匂いがあった。乾いた紙。洗い立ての衣類。薄い蜜蝋。生活が丁寧に積まれた匂い。
「奥様」
メリッサはエヴァ様へ礼をした。
「お帰りなさいませ」
「メリッサ。凪がまたボロで戻ったぞ」
「見れば分かります」
即答だった。
エヴァ様がくふっと笑う。
「冷たいのう」
「冷たくはございません。湯は温めてございます」
「それは冷たくない」
「はい」
メリッサの視線が俺へ移る。
目が胸の包帯を見た。次に肩。足の置き方。呼吸の浅さ。顔色。全部を見て、声は柔らかいままだった。
「凪様。お帰りなさいませ」
「ただいま、でいいんですか」
「この屋敷へお入りになるなら」
迷わせない返答だった。
メリッサはあの頃からそうだ。感情は丁寧に扱う。だが生活の手順は曲げない。立っている者には椅子。乾いた喉には水。迷っている者には、まず手を洗わせる。
彼女は俺の後ろへ向き直った。
「メリッサ・セラと申します。この屋敷の生活記録と使用人統括を預かっております。まずは手を洗ってくださいませ」
ヒュウマが真面目に頭を下げた。
「サルヴァトーレ家のヒュウマです。海守り衆の当代です」
「ヒュウマ様。お疲れでございました」
メリッサの目が一度だけヒュウマの左腰へ落ちる。包帯。手の冷え。立ち方。彼女の帳面には、もういくつか項目が増えたはずだ。
「医者を呼んでおります。強く歩かないでくださいませ」
「はい。ありがとうございます」
イーリスが礼をした。
「イーリスと申します。旅の語り部でございます。屋敷の作法をご教示いただければ従います」
「イーリス様。作法は難しくございません。使用人の名を覚えていただければ、半分は足ります」
「それはよい作法でございますね」
イーリスの声が一段柔らかくなった。
メリッサは最後にラウリを見る。
ラウリは胸に手を当てた。
「シレリオ家のラウリ・シレリオ。客人として礼を尽くします」
「シレリオ殿。遠路、お疲れでございました」
「礼を受け取ります」
短いやり取りで、敷居の前の空気が整った。
屋敷側は三人の名を知らなかったわけではない。港で名乗りは済んでいる。だがここでは、名を生活の側へ置く必要がある。メリッサはそのために立っている。
「奥様」
メリッサがエヴァ様へ向き直る。
「客人の方々を玄関前に立たせ続ける趣味は、この屋敷にはございません」
「妾の趣味の話か?」
「奥様の趣味は別帳で管理しております」
「また帳面か」
「奥様のせいでございます」
エヴァ様は楽しそうに笑った。アルフレッドの瞼がわずかに下がる。声にはしないが、あれは笑いだった。
玄関の扉が開く。
大広間へ入った。
空気が切り替わる。
海風の明るさが背後へ退き、石と花の匂いが前へ出た。大理石の床。赤い絨毯。正面の大階段。左右へ伸びる回廊。壁に掛けられた古い肖像。薔薇の意匠を彫った柱と燭台。金具には古い艶がある。
豪奢だ。
だが見せるためだけの空間ではない。
奥で足音が動いている。湯桶を運ぶ音。寝具を替える音。医者への使いが廊下を小走りで抜ける気配。階段下の机には帳面が開かれ、到着時刻と客人の名が書き込まれていた。
屋敷は迎えている。
同時に働いている。
そこが街と違った。
街は見られるために整っていた。ここは眠る者と起きる者のために整っている。人が倒れれば手が動く。客が来れば水が出る。傷があれば医者が呼ばれる。美しさの前に手順がある。
「凪」
エヴァ様が声を落とした。
「ふらつく前に言え」
「言わなかったことがありますか」
「ある」
即答だった。
アルフレッドとメリッサが同時にこちらを見る。
「以前の話です」
「今も大差ございません」
メリッサが淡々と言った。
「凪様は、眠れない夜に水を飲み忘れます」
ヒュウマの視線が俺へ向いた。
「メリッサ」
「事実でございます」
「今は忘れません」
「では確認はヒュウマ様へお願いします」
「なぜですか」
「凪様より信用できるためです」
ヒュウマが目を丸くした。
エヴァ様が喉の奥で笑う。アルフレッドは何も言わない。だが沈黙が完全に同意だった。
「俺の立場がない」
「立場はございます。水差しの横です」
イーリスが口元を押さえた。ラウリは真剣に頷いた。
「水は大事だ」
「ラウリまで」
「海の者は水を軽く見ない」
「そういう話ではない」
軽い会話だった。
それでも足元の石が記憶に変わる。あの頃の俺を知る人間がいる。食べなかった朝。眠れなかった夜。机に置いたまま封を切らなかった手紙。そういうものが、たぶん帳面のどこかに残っている。
それを責めない。
だから逃げ道がない。
「西館へご案内いたします」
アルフレッドが言った。
「医者は半刻以内に参ります。軽食は客間へ。夕餉まではお休みください」
「軽食は何ですか」
ヒュウマが聞く。
声は平静だった。だが腹が空いた時の音が混じっていた。
よかった。
メリッサが答えた。
「薔薇塩を使った白身魚の薄焼き。香草の粥。冷やした果実水を少し。重いものは出しません」
「ありがとうございます」
「食べられない場合は残してくださいませ。記録いたします」
「記録ですか」
「理由を探すためでございます」
ヒュウマは真面目に頷いた。
エヴァ様が杖で床を軽く叩く。
「夕餉はもう少し面白いぞ。近頃、厨房が東方の膳に凝っておる」
俺は視線だけを向けた。
「前の料理長は」
「歳で退いた。悪い扱いはしておらぬ」
「ならいいです」
「まずそこを聞くのが、お主らしいのう」
「気になります」
「今の料理長は若いが手はよい。胃に優しいものなどと言い出すのが玉に瑕じゃ」
「エヴァ様が胃に優しいものを」
「妾の胃ではない。客の胃じゃ」
「なら納得です」
「お主も客じゃぞ」
「俺は客では」
「凪様」
メリッサが名前だけで止めた。
「はい」
「今日は客でございます」
その言い方に、俺は抵抗をやめた。
エヴァ様は満足そうに笑う。メリッサはもう使用人へ目配せしていた。盆の数。湯の順番。医者を通す廊下。笑いの間にも生活は進む。
俺たちは回廊を進んだ。
大広間の奥から中庭へ出る。
中央薔薇庭園。
ロサ・テンプス。
名を知っている。道も知っている。だが知っているから安全という庭ではない。足を踏み入れた瞬間、空気の重さが変わる。
季節が混ざっていた。
春の赤。初夏の白。雨の後の淡い黄。秋に近い濃紫。花弁の厚さも香りも違う。棘の長さも違う。庭師の手は入っているが、揃えられた感じはない。
香りは一つに混ざらない。
甘い花の奥に青い葉がある。湿った土。古い石。雨の気配。近い枝の棘は陽を浴びて薄く光り、奥の棘は影の中で黒い。風が吹いても、花は同じ速度で揺れない。遅れるもの。先に震えるもの。まったく動かないもの。
時間が細かくずれている。
そう見えた。
ヒュウマが足を止めかけた。
「これは」
「妾の庭じゃ」
エヴァ様が軽く言った。
「言われた道だけ歩け。花に見惚れて棘に捕まるでないぞ」
「迷うんですか」
「人による」
「道はあります」
「道があることと、歩けることは同じではない」
ラウリの首飾りが小さく鳴る。
「潮の筋に似ている」
エヴァ様が彼を見る。
「シレリオ殿。続けよ」
「見えている水面と、通れる潮は違う。進めそうに見えても、舟底を持っていくところがある」
「よいな。花は水面。棘は潮じゃ」
「なら、礼をして歩きます」
ラウリは本当に短く庭へ礼を置いた。
イーリスは静かだった。
耳が動いている。庭師の鋏。水の落ちる音。蜂の羽音。どれも近いようで遠い。音が枝を通るたび、時間を遅らせるようだった。彼は歌にする顔をしていない。まだ聞くだけにしている。
「長命の語り部」
エヴァ様が呼んだ。
「歌わぬのか」
「今は歌えば花の邪魔になります」
「よい返しじゃ」
「恐れ入ります」
中心の方へ目を向けかけた。
やめた。
今は見ない。見たところで、俺が言葉にできるものではない。身体が今日は余計なところへ手を伸ばすなと言っていた。
「凪」
エヴァ様は気づいていた。
「見ぬのか」
「今日は客なので」
「便利な盾じゃな」
「使える時に使います」
「つまらぬ」
「退屈してください」
「嫌じゃ」
その声音は子供のようだった。だが金の瞳だけは古い。薔薇の香りが服へ移る。白い街の香油とは違う。薄く残って、すぐには消えない匂いだった。
庭を抜けて回廊へ戻る。
西館は本館より静かだった。
──────────────────────────────
客間の並びは広く取られている。窓は庭園の外側へ向かい、海は直接見えない。けれど光の色に水の近さがあった。廊下には新しい花がわずかに活けてある。多すぎない。匂いが傷に障らない量だ。
「海守り殿のお部屋はこちらでございます」
アルフレッドが示した。
「凪様の部屋とは少し離れております。お呼びの際は、廊下の鈴を」
ヒュウマは一度だけ俺を見た。
「蒼凪さん」
「休め」
「はい」
「医者の言うことを聞け」
「蒼凪さんもです」
「聞く」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶんは困ります」
同じやり取りになりそうで、俺は息を抜いた。
「今回は聞く」
ヒュウマは頷いた。完全には信じていない顔だった。
「飯も食ってください」
「お前もな」
「俺は食べます」
「ならいい」
「蒼凪さんもです」
「しつこいぞ」
「役目です」
そう言われると返しにくい。
イーリスは案内の若いメイドへ名を尋ねていた。メリッサの言葉をもう作法へ入れている。メイドは驚き、それから嬉しそうに名乗った。
ラウリは部屋の前で深く礼をした。
「世話になります」
「ごゆっくりお休みくださいませ」
メイドの声は緊張していた。シレリオの当主をただの客としては見ていない。それでも手順は乱れない。メリッサの屋敷だった。
軽食は客間へ運ばれていく。
魚の薄焼きの香りが通り過ぎた。油は少ない。薔薇塩の匂いが淡い。香草の粥は湯気の立ち方まで優しい。ヒュウマの肩から力が抜けた。食べられるなら、回復は早い。
医者の馬車が遠くで止まる音もした。
夕餉まで休む。
その手順が廊下全体に行き渡っていた。
俺だけが別の導線へ進む。
本館から見れば同じ西館だ。だが客間の並びから少し離れる。廊下の幅が変わる。窓の高さが低くなる。床板の軋みが記憶に近い音を立てた。
アルフレッドが先を歩く。
メリッサが少し後ろにいる。
エヴァ様は来ない。
それでいい。
──────────────────────────────
扉の前でアルフレッドが止まった。
「西館の私室でございます」
以前はそう呼ばなかった。
ただの部屋だった。
俺の部屋。逃げ込む部屋。眠れない部屋。本を積む部屋。開けない手紙を置く部屋。身体を作り直すために、アルフレッドに廊下へ連れ出された部屋。
「鍵は変えておりません」
アルフレッドが言う。
「ただし、開く者は限っております」
「知っています」
「はい」
メリッサが小さな鍵を差し出した。
「凪様がお開けください」
俺は鍵を取った。
金属が冷たい。
鍵穴へ差す。回す。音は記憶より軽い。油が差されている。放置された部屋の音ではない。
扉を開けた。
空気は古かった。
だが埃の匂いはしない。
窓辺の薄いカーテンが揺れている。机は以前と同じ位置。椅子も同じ。壁の小さな傷。寝台の向き。引き出しの取っ手。窓枠の角。床板の色が一枚だけ違うところ。
十年以上、何も変わっていないように見えた。
見えただけだ。
水差しは新しい。珊瑚硝子の表面に淡い赤が入っている。寝具は以前より厚く、肩が沈みすぎない高さに整えられていた。机の上には薬と包帯。湯の用意を知らせる小さな札。灯りの芯は切り揃えられ、火口箱は手の届く位置へ移されている。
あの頃の俺なら置かなかったものがある。
今の俺が必要とするものだ。
変わっていないのではない。
変わらないように、変え続けられていた。
「以前と同じではございません」
メリッサが静かに言った。
「今の凪様が眠れるよう、整えてございます」
「……ありがとうございます」
声が少し遅れた。
メリッサは礼を収める角度で頭を下げる。
「医者が参りましたらお呼びします。湯はその後で」
アルフレッドが扉の外で一礼した。
「必要があれば鈴を」
「承知しました」
二人は出ていった。
扉が閉まる。
一人になった。
静かだった。
遠くで屋敷の足音がする。客間の方で寝具を運ぶ気配。庭園の水音が窓の隙間から細く入る。港の喧騒はもう来ない。白い街の拍も、ここまでは入ってこない。
俺は机へ触れた。
指先が木目を覚えていた。
小さな傷がある。以前、羽根ペンを落として焦げた跡だ。消されていない。磨かれてはいる。指に引っかからない程度に整えられ、けれどなかったことにはされていない。
窓辺へ行く。
庭の外れが見える。薔薇ではなく、低い香草の花壇だった。夜にここを見ていたことがある。何を考えていたかは覚えていない。覚えないようにしたのかもしれない。
椅子の背をなぞった。
背板の角が以前より滑らかだ。誰かが何度も拭いたのだろう。引き出しには触れなかった。まだ早い。
寝台の横には小さな台が置かれていた。水差し。杯。痛み止め。清潔な手巾。鈴。すべて右手で取れる位置にある。以前の配置なら左手を伸ばす必要があった。今の傷を見て変えたのだ。
胸の包帯がまた鈍く軋んだ。
俺は立ったまま息を整える。
戻ってきた。
そう言うのは簡単だ。だがこの部屋は、帰ってきた俺に合わせて先に動いていた。俺が扉を開ける前から、今の身体を知っているように道具が置かれている。
本棚の前で足が止まった。
埃はない。
一冊ずつ背表紙が拭かれている。順はあの頃のままだった。海洋史。白真珠の塔の古い論文写し。潮位記録。植物図鑑。婚姻契約に関する薄い本。読みかけで置き、そのまま最後まで読まなかった物語集。
そして、その中に好きだった航海譚があった。
青い装丁の背。
題名の金箔は薄くなっている。けれど剥げてはいない。湿気と虫から守られ、何度も拭かれた背だった。戻るかどうか分からない人間のために、十年以上手を入れられていた。
指を伸ばす。
背表紙に触れた。
冷たくなかった。
街は変わっていた。
港も道も姿を替えた。宿も案内人の声も、四年前とは違う形へ白く整えられていた。
この部屋は変わっていない。
そう言いかけて、指先で違うと知った。
変わらないように、誰かが毎日変えてきた。
俺は埃のない本棚の前で、好きだった航海譚の背をゆっくりとなぞった。




