サルマンディア港にて
海の色が変わった。
夜の海は背中に貼りついていた。船底を叩く黒い水音。包帯の下で冷える傷。立てなかった夜の重さ。目を閉じると戻ってくるものが多すぎる。
けれど船首の先に広がった海は、それらを知らない明るさをしていた。
深い青ではない。外海の底を隠す青でもない。朝の光が水の下まで差し込み、白い砂をそのまま持ち上げているような青だった。透明な水面の下に珊瑚礁の影が淡く伸びる。小舟がその上を滑る。舳先で弾けた水が細かな銀に変わった。
ターコイズブルー。
誰かがそう呟いた。
洒落た売り文句みたいで、俺には少し言いづらい。けれど他に言葉がなかった。青は浅くて明るい。痛いほど清潔でもあった。俺たちの身体に残った血と薬草と疲労だけが、そこへ持ち込まれる余計な荷物みたいだった。
夜は終わっていた。
終わっていたのに、俺の身体はまだ夜の中にいた。右脇腹の奥が鈍く鳴る。左腰の傷は包帯の下で冷えたり熱を持ったりする。風が服の隙間から入るたび、乾いた薬草と布のにおいが上がった。手すりに置いた手にも力が入らない。握っているつもりなのに、指が遅れてついてくる。
二隻の船は夜明け前から速度を落としていた。勇者一行の乗る船と、俺たちの船。夜の間は渡し板で繋がっていた甲板が、今は距離を置いて同じ港へ入っていく。船員たちは声を抑えて帆を絞る。綱が湿った音を立てた。滑車が低く鳴る。
リオンは艫にいた。寝ていないはずなのに、足の置き方は崩れていない。肩は落ちている。それでも目は風を追っていた。俺が知っている海守りの若手の頭だった。
「ヒュウマさん。もう内側に入ります」
「風は」
「西寄りです。帆は半分で足ります。水先の船もこちらを見ています」
「分かった」
言ってから、俺は息を吐いた。昨日の夜、リオンは泣いていた。俺の前で泣いたのではない。泣くところを見られないようにして、それでも声が追いつかなかった。俺の名前を呼ぶ声が掠れていた。
守る側の当代が、若手にあんな声を出させた。
その重さが胸の奥に沈んでいる。
「無理はするな」
リオンは一瞬だけこちらを見た。
「ヒュウマさんにだけは言われたくないです」
返しは早かった。だが笑いは薄い。俺も笑い返すだけの軽さを持っていなかった。二人とも生きている。それだけでまだ十分だと、手すりを握り直した。
環礁の切れ目に入ると船の揺れが変わった。
外海の大きなうねりが遠のく。代わりに、港の音が層になって押し寄せてきた。鳥の声。荷役の掛け声。商人の早口。遠くで鳴る鐘。どれも朝の光に乗って明るい。
白い岸壁が見えた。
普通の石の白ではない。珊瑚を砕いて固めたような白さだ。朝日を受けて、目を細めたくなるほど眩しい。岸壁の縁には花飾りが続き、薄布が風を受けて揺れている。赤。黄。青。白。祝いの日の色が、港の端から端まで吊られていた。
その向こうに小さな島がある。白い橋で岸と繋がっている。屋根の低い建物があり、花輪を積んだ小舟が何艘も行き来していた。新しい服を着た男女が寄り添って歩く。年配の女が貝殻を鳴らし、子供たちが花弁を撒いている。
婚礼島。
誰かがそう呼んだ。説明はいらなかった。島の周りだけ海がさらに明るく見える。花の甘さ。果物の香り。祝い歌。白い鳥をかたどった舳先飾り。船尾から垂れた薄布が水面に影を落としていた。
そこだけ見れば、旅人のために磨かれた港だった。
けれど視線を奥へやると、別のサルマンディアが立っていた。帆柱の森だ。大きな商船が何隻も泊まり、畳まれた帆の柱が空へ伸びている。荷役の男たちが香辛料の樽を転がす。布包みを担いだ女が桟橋を渡る。見慣れない文字の木箱。乾いた果実。油。鉄。獣の革。港湾評議会の紋章をつけた役人が帳簿を抱えて走っていた。
観光港と貿易港。
二つの表情が、同じ朝の中で隣り合っていた。
俺の故郷の港にも明るい朝はある。けれど、ここは明るさの量が違う。人に見られることに慣れた光だ。白い岸壁も花も帆柱の列も、全部が自分の役目を持って立っている。
きれいな港だ。
そのあとで、喉の奥が詰まった。
カラヴェラ市に入った時とは違う。あの街では仕事の匂いがした。黒い羅針盤の気配を追い、蒼凪さんと並んで島の外へ出た。怖さより先にやることがあった。
サルマンディアは違う。
この名前は、昨夜の蒼凪さんの息を一度止めた。
俺は甲板の反対側を見た。蒼凪さんは中央に立っている。白と青のローブはいつもより深く閉じられていた。肩から胸にかけて包帯の厚みが見える。血の気は薄い。それでも背筋はまっすぐで、足元は船の揺れを正確に受けていた。
港を見る横顔は、懐かしむものではなかった。戻りたい者のものでもない。何かを数えている。道の数。会うべき相手。避けられない話。そんなものを、港へ着く前から箱に入れているようだった。
「賢者殿」
ラウリが声をかけた。
大柄な身体に濃紺の旅装をまとっている。槍は布で巻かれ、胸元の首飾りは服の下へしまわれていた。それでも彼が立つと、甲板の空気が重くなる。戦いの重さではない。祈りを背負う者の重さだ。
「サルマンディアは明るいな。海が違う」
「ああ」
蒼凪さんは短く答えた。
「賑やかだ。魚の声より人の声の方が多い」
「港だからな」
ラウリはそこで笑いかけた。けれど声には出さなかった。彼は人に踏み込みすぎない。陽気に見えて、その距離を間違えない。
イーリスは舷側にもたれていた。髪と布で隠れているが、音を拾っているのは分かる。緑がかった灰色の目が、婚礼島から荷役場へ移った。
「祝い歌と商いの掛け声が、同じ港の腹から出ていますね」
「腹、ですか」
「ええ。表の歌は甘い。底の拍は忙しい。よい港です。歌にすると銀貨が取れます」
「今は取らないでくださいよ」
「もちろん。わたくしも怪我人から銀貨を取るほど悪趣味ではございません」
そう言いながら、イーリスは俺の包帯の方をちらりと見た。俺は苦笑しかけて、脇腹が痛んでやめた。
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船が桟橋へ寄る。水先人が手を上げる。ロープが投げられ、白い杭へ結ばれた。木と岸壁が擦れ、船体が小さく震える。リオンが手で合図を出す。帆が完全に落ち、船員たちの肩から一気に力が抜けた。
港の空気が濃くなった。
香辛料の辛さ。花の甘さ。魚の生臭さ。日を浴びた白い石の熱。人の汗。俺の故郷の港にもあるものと、ここにしかないものが混ざっている。
桟橋へ足を下ろした瞬間、膝が抜けそうになった。
踏みとどまる。
表には出さない。出さないつもりだった。けれど蒼凪さんの視線が足元へ落ちた。
「歩けるか」
「歩けます」
「本当か」
「本当です。蒼凪さんこそ」
「俺は歩ける」
「それも本当ですか」
蒼凪さんが一拍だけ黙った。
「たぶんな」
「たぶんは困ります」
「お前もだ」
言い返されて、俺は少しだけ笑った。痛みが走る。笑うのも仕事だと思えば、まだできる。
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港の手続きは思ったより早かった。サルヴァトーレ家の印を見せると、役人の目が変わる。警戒ではない。確認の目だ。すぐに別の窓口へ案内され、カラヴェラから来た船であることを記録された。サルマンディアにも海守りの支部がある。同じ職能ではあっても、海域ごとに手順は違う。
リオンが俺の横へ来た。
「ヒュウマさん。俺が支部に行きます。船の係留と怪我人の手配も合わせて見ます」
「頼む。こちらの被害とロドルでの経緯は簡潔に。支部長には、俺から後で顔を出すと伝えてくれ」
「了解です」
「若手を二人連れていけ。知らない港で一人になるな」
「もう選んであります」
さすがだった。
俺が言う前にやっている。父なら頷いただろう。胸元の印章が急に重くなる。
リオンは一歩下がり、声を落とした。
「船は戻せます。だから、前だけ見てください」
昨夜と同じ声ではなかった。泣き声ではない。若手の頭の声だ。
俺は頷いた。
「助かる」
リオンは返事をせず、短く礼をして背を向けた。海守り支部へ向かう道へ、若手二人と一緒に歩いていく。その背中が人波に混ざるまで、俺は見送った。
勇者一行の船も横の桟橋に着いていた。レオンは白い旅装の肩を押さえながら、港湾評議会の役人に名乗っている。血色はよくない。だが姿勢は崩さない。カイが横で穏やかに補足し、ヴァローは帳簿の記載を目で追っていた。ガイウスは重盾を背負ったまま、人の流れと荷車の動きを読んでいる。ヴェスタは港の風を一度吸ってから、桟橋の先を斥候の目で測った。
「俺たちは先に宿を取る」
レオンがこちらへ戻ってきた。
「後日、互いの傷と手続きが落ち着いてから合議でいいな」
蒼凪さんが頷く。
「ああ。こちらから使いを出す」
「分かった」
レオンは俺を見た。
「ヒュウマさん。無理はしないでください。昨夜のことを話すのは、負傷者を見てからにしましょう」
「はい。レオンさんたちも休んでください」
「ああ」
カイが少し前へ出る。
「ヒュウマさん。熱が上がるようなら、すぐに知らせてください。祈りは続けられます」
「ありがとうございます。カイさんも、ちゃんと休んでください」
「そうします。レオンが休むなら」
「カイ」
レオンが眉を寄せる。ヴァローが肩をすくめた。
「宿の場所は共有しておきます。結論を急ぐ必要はありませんが、この港で互いを探し回るのは骨でしょう」
ガイウスが低く言う。
「飯も要る。怪我人は食え」
ヴェスタが笑う。
「海事の段取りはあとで見とくぜ。今は宿だな」
勇者一行はそのまま役人に案内され、港の奥へ向かった。手続きと宿。住民への挨拶。彼らには彼らの流れがある。
人波が彼らを隠していく。
最後にヴァローがこちらへ視線を置いた。
「賢者殿。後ほど」
「ああ」
蒼凪さんが返す。それで、彼らの背は完全に港の中へ消えた。
残ったのは、蒼凪さんと俺。イーリス。ラウリ。
少し離れた先には、海守り支部へ向かうリオンの背中ももう見えない。さっきまで一つの夜を渡った全員が、港の手順に従って自然に分かれた。船を繋いでいた綱が解かれるみたいに。
港は賑やかだった。花飾りを抱えた女が笑う。役人が名前を読み上げる。荷車の車輪が白い石の上で跳ねる。魚売りが朝一番の値を叫ぶ。子供が走り、母親に叱られる。
その中で、俺たちだけがまだ到着していないように浮いていた。
「俺たちはどうしますか」
俺は蒼凪さんに聞いた。
宿を取るのか。海守り支部へ寄るのか。港で何かを待つのか。普通の問いのはずだった。
蒼凪さんは港の奥を見ていた。何も起きていない。白い岸壁。花。帆柱。人の流れ。それだけだ。
けれど彼は、すでに来るものへ身体を向けていた。
「恐らく、そろそろ迎えが来る」
「え、迎え──?」
その瞬間だった。
潮の中に、薔薇が混じった。
最初は婚礼島の花だと思った。港中に花がある。薔薇くらいどこかに積まれているはずだ。けれど違った。
それは花売りの匂いではない。
果物の甘さと香辛料の辛さを越えて、まっすぐこちらへ届いた。濃いのに重くない。甘いのに媚びていない。潮風の中で、冷えた赤だけが形を持ったような香りだった。
イーリスが顔を上げる。
「音が変わりました」
「音?」
「消えたのではありません。避けています」
俺は耳を澄ませた。
確かに、港は黙っていない。歌も続いている。荷役の声もある。車輪も鳴っている。だが音の芯が左右へ流れた。目に見えない水路が開いたように、喧騒が一つの道を空けていく。
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港の人波が、自然に左右へ分かれ始めた。
誰も悲鳴を上げない。
誰も逃げない。
花飾りを抱えた娘は、花を胸に寄せて道を譲った。荷役の男は樽を少し引き、帽子を取る。役人は帳簿を閉じて一礼した。子供は母親の後ろに隠れたが、泣きはしなかった。
恐怖ではない。
礼を知る動きだった。
ラウリの右手が槍の布へ寄った。すぐに離れる。彼は胸元の首飾りへ一度だけ触れた。戦う構えではない。知らない力へ、まず礼を置く所作だった。
白い岸壁の向こうに黒い影が立った。
大きい。
人の列の上に、長い角が見える。後ろへ反った二本の角。黒い山羊の頭。鼻筋と顎髭には灰銀が混じっていた。横長の金の瞳が、白い港の光を細く映している。
黒い燕尾服。
港の朝に似合わないほど、正確に整えられていた。硬い白襟。黒絹のタイ。白手袋。胸元には銀鎖が揺れ、袖口の小さな飾りが赤い光を返す。
異形だった。
だが乱れていない。
その巨躯は歩くたびに空間を押し広げる。足音は不思議なほど小さい。大きすぎる身体のどこにも荒さがない。扉の高さに合わせて作られた者が、たまたま港を歩いているように見えた。
その隣に女がいた。
金の巻き髪が朝の光を受けて揺れる。白い肌。金の瞳。赤と金の衣装は豪奢なのに、港の花飾りに負けても混ざってもいない。絹の光沢。薔薇の意匠。手にした細い杖の先が、歩くたびに淡く光った。
若い女の姿だ。
けれど港の誰も、彼女をただの若い女として扱わない。
役人は深く礼をする。商人は口を閉じる。婚礼の客は視線を伏せる。畏れと親しみが同じ動作の中にあった。長くこの街にいる者へ向ける礼。それよりもっと古い何かへ向ける礼。
蒼凪さんの姿勢がわずかに変わった。
背筋がさらに細く整う。肩の力を抜いたのではない。余計なものを一瞬でしまった。俺の知っている蒼凪さんが、別の場で使う姿を取り出した。
「よう来たの、凪」
女の声は低かった。
艶がある。だが港のざわめきに混ざらない。むしろざわめきの方が、その声の後ろへ退いた。
凪。
その呼び方が、胸の内側を軽く押した。
俺もその名を知っている。知っているはずだった。特別な時にだけ、手を伸ばすみたいに呼ぶ名だ。
けれど目の前の女は、初めからそこにある鍵のように呼んだ。
蒼凪さんは息を一つ置いた。
「エヴァ様」
女の金の瞳が細くなる。
「港では様づけか。つまらぬのう」
「港ですから」
「くっくっく。そういうところは変わらぬ」
その笑いは喉の奥で三つに割れた。港の人々は驚かない。そういうものだと知っている様子で、少しだけ道を広げた。
エヴァ様。
薔薇の魔女エヴァンジェリーネ。
昨夜の合議の後で名前だけは聞いていた。サルマンディアの名士。蒼凪さんの過去に関わる人。後日、正式に会う相手。
知っていたことと、目の前に立つことは違う。
エヴァ様は蒼凪さんを上からでも下からでもなく見た。真正面だった。
「それにしても凪よ。見事なぼろ雑巾ぶりじゃな」
蒼凪さんの眉がわずかに寄る。
「港で言うことですか」
「港で迎えたのじゃ。港で言うに決まっておろう」
「もう少し言い方があるでしょう」
「あるとも。使うかどうかは妾が決める」
「でしょうね」
短いやり取りだった。
それだけで、俺の知らない時間が見えた。説明はない。思い出話もない。なのに二人の間に、何度も似た会話を重ねてきた跡がある。
黒い山羊頭の執事が一歩前へ出た。
巨体が港の光を遮る。けれど圧は前に来ない。白手袋の手が胸元へ添えられる。角の角度まで計算されたような礼だった。
「凪様。お帰りなさいませ」
声は低く静かだった。
大きな身体から出ているのに、港全体へ響かせようとしない。必要な相手の胸にだけ届く声だ。それなのに俺の中にも、はっきり入ってきた。
お帰りなさいませ。
ここは旅先ではない。
蒼凪さんが、帰ることのできる場所だ。
蒼凪さんは執事を見た。
「アルフレッド。久しぶりです」
「はい。お館さまも、随分とお待ちでございました」
「待っておらぬ」
エヴァ様がすぐに言う。
「妾は来るものを迎えただけじゃ。もっとも、来ると分かっていても連れの中身までは分からぬ」
金の瞳がこちらへ向いた。
俺の背筋が勝手に伸びる。傷が引き攣った。脇腹の痛みより先に、見られていることが身体に伝わった。肩。手。腰。潮鎚の位置。包帯の厚み。全部を一息で測られた。
蒼凪さんが半歩だけ前に出た。
「こちらはサルヴァトーレ家のヒュウマ。海守りの当代です」
俺は頭を下げた。
「海守り衆、サルヴァトーレ家のヒュウマです」
エヴァ様が俺を見る。
「ほう。お主が海守りの末裔か」
末裔。
そう呼ばれた瞬間、父の印章が胸で重くなった。俺が背負っているものの奥まで、初対面で指を触れられたようだった。
「名乗りが硬い。若いのに、肩へずいぶん載せておる」
「役目ですから」
「役目で人は立てる。だが、役目だけでは眠れぬぞ」
「エヴァ様」
蒼凪さんが低く制した。
エヴァ様は愉快そうに笑う。
「なんじゃ。妾は親切に言うておる」
「親切の刃渡りが長い」
「くっくっく。言うようになったのう」
胸の奥が、また小さく鳴った。
蒼凪さんがこんなふうに言葉を返す相手を、俺はあまり知らない。対等なのか。甘えか。警戒か。全部が混ざっているように見えた。
蒼凪さんは続ける。
「こちらはイーリス。吟遊詩人です」
イーリスが一歩前へ出る。
「イーリスと申します。お目にかかれて光栄でございます」
礼は深すぎない。軽すぎもしない。舞台へ上がる者の一歩と、客席へ敬意を払う者の角度が同時にあった。
エヴァ様はイーリスの目を見た。
「長命の語り部か。凪よ、港に昔話を増やすでない」
「わたくしは増やすのではなく、落ちているものを拾うだけでございます」
「落ちていると思うところが、すでに欲深いのう」
「職業病でございます」
エヴァ様がくっくっと笑う。アルフレッドの瞼が、ほんの少しだけ下がった。声は出ない。けれど今のは笑ったのだと、首筋の緊張が先に反応した。
最後にラウリが進み出た。
いつもの人懐っこい空気は薄い。背の高い身体が静かに折れる。港の白い光の中で、祭祀官としての礼が立った。
「シレリオ家、ラウリ・シレリオ。客人として礼を尽くします」
アルフレッドが向き直る。
「シレリオ家のご当主様。遠路、お疲れでございました」
声に軽さがなかった。
家名を飾りとして扱っていない。そこに連なる祈りと責任を、ただ知っている者の声だった。ラウリは深く頷く。
「礼を受け取ります」
「恐れ入ります」
エヴァ様は俺たちを順に見た。
「海守りに、語り部に、シレリオの当主。凪よ。お主、土産にしては重すぎるものを持ち帰ったの」
「土産ではありません」
「では荷か」
「エヴァ様」
「冗談じゃ。半分ほどは」
「半分が多い」
「残り半分は観察じゃ」
蒼凪さんが短く息を吐いた。
その吐き方を、俺は初めて見た。呆れたようで、拒んではいない。港の明るさよりも近い場所で、蒼凪さんが別の呼吸をしていた。
アルフレッドが一歩引いた。
「馬車を用意しております。凪様、海守り殿、語り部殿、シレリオ家のご当主様はこちらへ」
海守り殿。
俺に向いた声だと胸に落ちるまで、一拍遅れた。
蒼凪さんがアルフレッドへ向き直る。
「別便で勇者レオンたちも港に入っている。昨夜の件で行動を共にした。今は宿と手続きに向かわせた」
エヴァ様の金の瞳がわずかに細くなる。
「勇者まで拾うたか」
「拾ったわけではありません。後日、席を設けます」
「承知致しました」
アルフレッドは静かに頷いた。
「本日は凪様のご帰還をお迎えに参りました。同行の皆様につきましては、今ここで初めてお名乗りをいただいた次第でございます」
その言葉で、胸の奥がわずかに沈んだ。
彼らは俺たちを待っていたのではない。
蒼凪さんだけを察して来たのだ。
それはそれで、別のものが胸へ刺さる。
「客間は整えてございます」
アルフレッドが続ける。
「勇者一行の皆様には、日を改めて正式にご案内いたします」
「相変わらず早いな」
蒼凪さんが言った。
「お帰りの気配がございましたので」
お帰りの気配。
俺はその言葉を繰り返した。
知らせたわけではない。少なくとも俺は知らなかった。勇者一行も知らないまま宿へ向かった。リオンも支部へ向かったばかりだ。
それでも、この二人は港にいた。
蒼凪さんが帰ってくるものとして、ここに立っていた。
「凪」
エヴァ様の声が少し低くなった。
「その身体で港に長居するでない。白い石の上で倒れられては、婚礼の花嫁より目立つぞ」
「倒れません」
「昨日もそういう顔で倒れたのではないか」
蒼凪さんは答えなかった。
その沈黙で、俺の脇腹より奥が痛んだ。昨日、倒れたのは俺だけではない。蒼凪さんも倒れた。立てない時間があった。それでも今は、港で背筋を伸ばしている。
「ヒュウマ」
蒼凪さんが俺を見る。
「行こう」
「はい」
答えはすぐ出た。足は遅れた。
エヴァ様の金の瞳が、その遅れを拾った気がした。けれど何も言わない。代わりに口元だけがほんの少し動いた。
港の人波は、まだ道を空けている。俺たちが歩き出すと、左右に分かれていた音が少しずつ戻った。婚礼の歌。荷役の声。魚売り。車輪。子供の笑い声。
同じ音なのに、もう同じに聞こえない。
白い港の中を、蒼凪さんの過去が歩いてきた。そして蒼凪さんは、その過去に名前で呼ばれていた。
凪。
一音だけなのに、俺の中で何度も沈んだ。
俺は隣を歩きながら、蒼凪さんの横を盗み見た。彼は前を見ている。痛みを隠す目。段取りを読む肩。エヴァ様に返す言葉を、必要な分だけ残した口元。
俺の知っている蒼凪さんだ。
だが、それだけではない。
エヴァ様が港の人々に軽く手を上げる。商人が礼を返す。婚礼の客が会釈する。子供が母親の袖から頭を出し、アルフレッドを見上げた。アルフレッドはその子供へ視線を落とし、ほんのわずかに瞼を下げる。
子供は泣かなかった。
むしろ得意そうに母親を見る。
この二人は、この港の怪異ではない。
この港の一部だ。
その分だけ、俺の中の落ち着かなさは大きくなった。
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馬車は岸壁から少し離れたところにあった。
黒塗りの車体に、小さな薔薇の意匠が入っている。派手ではない。近づいて初めて手入れの細かさが見えた。車輪の金具は磨かれ、扉の取っ手には古い艶がある。窓枠の縁まで歪みがない。
白い港の中で、そこだけ夜の輪郭を保っていた。
馬も黒い。毛並みがよく、港の騒ぎに耳を乱さない。御者台には屋敷の者らしい男が控えていたが、アルフレッドが近づくとすぐに身を引いた。
「足元にお気をつけください」
アルフレッドが扉を開ける。
巨躯が少し身をかがめる。その動きだけで、馬車の影が深くなる。山羊の頭と角が、白い港の光を切り取った。
イーリスが先に礼をした。
「恐れ入ります」
「語り部殿。楽器は足元より上へ。揺れがございます」
「ご配慮、痛み入ります」
ラウリが続く。
「俺の槍は」
「馬車の内側で結わえます。シレリオ家のご当主様のお手元から離す必要はございません」
「助かる」
ラウリの声が少し柔らかくなった。
エヴァ様は蒼凪さんを見ている。
「凪。先に乗れ」
「客人が先でしょう」
「その身体で礼法を語るでない。妾の港で倒れられる方が困る」
「エヴァ様の港ではない」
「似たようなものじゃ」
「違います」
「港の者に聞いてみるか?」
蒼凪さんは返事をやめた。それが負けなのか、無駄を省いたのかは判じにくい。たぶん両方だ。
俺は段に足をかける前に、もう一度だけ振り返った。
勇者一行の姿は見えない。宿へ向かったのだろう。リオンの背も、海守り支部の方へ消えている。二隻の船は桟橋に係留され、船員たちが綱を直していた。
婚礼島では花弁が舞っている。
青い海には小舟が滑る。白い岸壁は眩しい。帆柱は森のように立ち、香辛料の樽が次々に降ろされる。
美しい港だ。
明るい港だ。
その明るさの中に、俺の知らない蒼凪さんがいた。
違う。
俺が知らない蒼凪さんの顔だ。
エヴァ様は蒼凪さんを「凪」と呼んだ。アルフレッドは「凪様」と呼び、帰りを告げた。蒼凪さんはそれを否定しなかった。むしろ否定する必要がないものとして扱っていた。
お帰りなさいませ。
その言葉が、まだ胸の中に残っている。
ここは旅先ではない。
蒼凪さんが、帰ることのできる場所だ。
よかったと頷く自分がいた。
それは本当だ。蒼凪さんに帰る場所があってよかった。誰かが迎えに来る場所がある。名前を呼ぶ人がいて、傷を見て怒る人もいる。あの人がどこにも帰れないまま一人で立っているのなら、その方がずっと嫌だ。
なのに、胸の奥が落ち着かない。
そのことを知らずにいた。
俺は隣に立っていたのに、この港を見ていなかった。この呼び方も二人の迎え方も、今日初めて目の前に来た。
知らないまま、知っているつもりでいた。
「ヒュウマ」
蒼凪さんの声がした。
俺は顔を上げる。
「足元」
「……はい」
段に足をかける。
左腰の傷が小さく疼いた。手すりを掴む指に力が入る。アルフレッドの白手袋の手が、すぐ近くに控えていた。支えるでも急かすでもない。必要なら届く位置だ。
「海守り殿」
「はい」
「その足運びなら、段差は急がぬ方がよろしい」
「承知しました」
「よい手でございます」
短い言葉だった。
褒められたのか。見られたのか。どちらでもあるのだろう。ただ、支える者の手だと見られた気がした。
馬車の内側はまだ見えない。
俺は乗り込む直前で、もう一度だけ蒼凪さんを見た。
蒼凪さんはエヴァ様と何か短く話している。声は港の音に紛れて聞こえない。エヴァ様が笑い、蒼凪さんが眉を寄せる。アルフレッドが扉の横で静かに待つ。
その三人の並びは、最初からそう置かれていた絵のようだった。
そこへ俺たちが入っていく。
寂しさと安堵が、同じ場所でぶつかっていた。名前はまだない。名前をつけたら、たぶん余計に痛む。
「行きましょう」
俺は自分に言うみたいに呟いた。
蒼凪さんがこちらを見た。
「ああ」
その声は、俺の知っている蒼凪さんの声だった。
だから俺は馬車へ乗る。
薔薇の匂いが、潮風の中でまだ消えずに残っていた。




