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群青幻想  作者: 滄龍 青司
IntervalloⅠ
66/127

群青の朝

 明朝、潮位札の鐘は一度だけ鳴った。


 昨日のように沈黙してはいない。島じゅうを短く震わせる異常な鳴り方でもない。いつもの朝の、潮を知らせる一つの音だった。けれど俺は、その一つを聞き流せなかった。


 寝床の下で板床が冷えている。窓の外、外海の方が先に明るくなっていた。湾の内側はまだ青い。青というより、夜が薄く残った水の色だ。家の柱が潮を含み、壁の隙間から乾いた草の匂いが少し入っている。


 俺は半身を起こし、右肩を回した。


 昨日の重さはまだある。旧水門下で踏んだ石の冷えも、膝の奥に残っている。痛みではない。動ける。船にも乗れる。潮鎚も持てる。ただ、体のどこかが昨日の水を覚えていた。


 支度はほとんど終わっている。


 潮鎚。革紐。潮位札。救助短刀。予備の針。濡れた手でも開く留め具。どれもいつもの場所にある。違うのは、今日それを島の内側だけで使うわけではないことだ。


 俺は帯を締め、戸を開けた。


 台所で水の音がした。短く切られた音だった。桶へ落とす水を長く流さない。寝ている者を起こさないための癖だ。俺はもう起きている。母さんも、分かっている。それでも音は短いままだった。


 食卓には椀が二つ置かれていた。


 俺の分と、母さんの分。卓の端には、何も置かれない余白がある。そこだけ木目の色が少し違う。今朝も拭かれていた。空いているのではなく、空けてある場所だ。


 母さんは竈の前に立っていた。黒に近い焦茶の髪を低くまとめ、袖口の直線的な布を少しだけ折り返している。火は大きくない。湯気は細く上がり、すぐ消える。


「おはよう」


「おはよう、ヒュウマ」


 声はいつもと同じだった。


 だから俺は、少しだけ足を止めた。


 いつもと同じ声でなければ、楽だったかもしれない。強く止められれば、止められたものとして受けられる。泣かれれば、泣かれたものとして置ける。けれど母さんは、いつもの朝と同じ手順で椀を温めている。


 俺は窓辺へ寄った。


 白い鯨の小像は、外海へ向いている。腹の塗りが剥げたところに、朝の光が薄く乗っていた。小像の前の器には水が張られている。俺は指先を揃え、器の縁へ一度だけ触れた。


 水は冷たかった。


 昨日より冷たい気がした。気のせいだ。水は水だ。俺の指の方が、今朝はいつもと違う。


 母さんも後ろから来て、同じように器の縁へ指を置いた。


 声はない。


 祈りの言葉もない。


 二人分の指が離れた時、家の朝の所作は終わった。


「茶を飲みなさい」


 母さんは言った。


「はい」


「腹に何も入れずに海へ出ると、潮の方が勝つ」


「分かっています」


「分かっていても、今日のおまえは忘れそうだからね」


 俺は椀の前に座った。


 茶には乾いた草が一摘み入っている。湯の上で細い葉が開き、青い匂いが立った。海藻ではない。薬草でもない。母さんがどこかから持ってきた匂い。俺が生まれる前から、この家にある匂いだ。


 椀を持つと、掌に温度が戻った。


 羅針盤の冷えは、棚の下にある。油紙に包まれ、鍵のかかっていない引き出しに置かれている。見なければ、ただの包みだ。だが知っているものは、見なくても重い。


「蒼凪殿は」


「まだ来ていないよ」


 母さんは魚の骨を外しながら答えた。


「朝の潮に間に合うようには来るだろうね」


「ええ」


「食べなさい」


 俺は粥を口に運んだ。


 塩がいつもより強く感じた。魚のせいではない。茶の香りも、草の青さも、椀の縁の熱も、ひとつずつ記録するように身体へ入ってくる。今日の朝は、後で戻れない形になる。そう分かっているからだ。


 母さんは椅子へ座らなかった。


 竈の横で、手を拭いている。布を畳み、また開き、もう一度畳む。無駄な動きではない。ただ、手の中の布が少しだけ長く残っていた。


「母さん」


「食べてからだよ」


 先に言われた。


 俺は口を閉じた。


 食べる。飲む。椀を置く。息を一度だけ整える。そういう順番がある。海に出る時も、家を出る時も、順番を飛ばすと足が乱れる。母さんはそれを知っている。


 椀が空になった頃、外で足音が止まった。


 石段の上で、誰かが一拍待つ気配がある。すぐ戸を叩かない。家の内側の音が終わるのを待っている足だった。


「来たね」


 母さんが言った。


 俺は立ち上がり、戸へ向かった。


 蒼凪殿は玄関の外に立っていた。白と青のローブは乾いている。髪の赤に朝の光が当たり、昨日の水の重さはほとんど見えない。ただ、目の奥だけがまだ旧水門下の暗さを少し持っていた。


「おはようございます」


「おはようございます。蒼凪殿」


 彼は俺を見てから、家の奥へ視線を下げた。


「お邪魔してよろしいですか」


「ええ」


 母さんが奥から答えた。俺へ向ける声とは違う。客を迎える丁寧な声だった。


「どうぞ、賢者様。茶はまだあります」


 蒼凪殿は玄関で靴の水気を払ってから上がった。濡れてはいない。けれど石段の朝露を家へ持ち込まない所作だった。彼は窓辺の小像へ短く目を向け、すぐ目を戻した。昨日と同じだ。見えるものは見ている。だが拾わない。


 卓の前に三人が立つ。


 母さんは棚下の引き出しへ向かった。鍵はない。昨日、そう決めた。鍵をかけない方が、触らないことを選べる。母さんは引き出しを開け、油紙の包みを見た。


 触らない。


 母さんは俺を見た。


 俺はうなずき、引き出しから包みを取り出した。


 油紙は冷たい。古い釣針と革紐の匂いが少し移っている。生活の道具の中に一晩いたせいで、黒い羅針盤は昨日より家のものに見えた。だから余計に、家に置いていけないものだと分かった。


「明朝の潮です」


 蒼凪殿が言った。


「はい」


 俺は包みを卓へ置いた。油紙を開く。黒い羅針盤が出る。蓋を上げる前から、軸の奥に黒さがあった。夜の色ではない。水を含んだ石の奥にある、光を返さない深さだ。


 蒼凪殿は蓋へ触れた。


「読みます」


 蓋が開く。


 針はすぐには動かなかった。


 窓から朝の潮音が入ってくる。外海の低い音。内湾の細い音。二つは重なり、家の床板の下で少しだけずれる。俺は息を浅くした。浅くしようと思ったのではない。体がそうした。


 針が震えた。


 大きくは振れない。昨日と同じように、南西寄りの幅へ重さを向ける。一点ではない。線でもない。海図に落とせば、海域の幅としてしか記せない方角だ。


 蒼凪殿は針を見たまま、しばらく黙った。


「変化は」


 俺は訊いた。


「大きくはありません」


「同じ方角ですか」


「同じ幅です。ただ、今朝の方が鈍い」


「陸だからですか」


「それもあります。潮の時刻もある。持ち手も、問いも、感情も影響するでしょう」


 母さんは口を挟まなかった。


 俺は羅針盤を持った。


 手に置いた瞬間、針が少しだけ沈む。重くなったのではない。手の奥へ来る。昨日と同じだ。自分の中の空いた場所に、細い金属が触れる感じがする。


 針は、蒼凪殿の時と完全には同じではない。


 だが重なる。


 そのことだけで足りた。


 俺は蓋を閉じた。


「読めました」


 蒼凪殿が言った。


「ええ」


「これ以上は、今朝は開けません」


「分かりました」


 俺は油紙を戻した。蒼凪殿が革鞄を開ける。古図の写しや手帳とは別の、奥まった場所だ。包みはそこへ入れられた。紐が結ばれる音が短く鳴る。


 黒い羅針盤は、見えなくなった。


 重さだけが残る。


 母さんはその音を聞いていた。


「ヒュウマ」


「はい」


「島を守る仕事が、島の中だけで終わるなら、おまえの父は帰ってきたはずだよ」


 声は低かった。


 大きくはない。責める声でもない。俺を押す声でも、引く声でもなかった。ただ、家の卓の上に置かれた事実のように、そこにあった。


 俺はすぐには返事をしなかった。


 父さんが帰ってくるとは思わない。どこかで生きているとも思わない。そういう期待を持てば、足が濁る。けれど、帰ってこなかった方角を知らないまま、当代の仕事を島の中だけで閉じることもできない。


 母さんは、そこを見ていた。


 昨日からではない。もっと前からだ。


 卓の端の空いた余白。拭かれるのに器が置かれない場所。父さんの革紐。壁の潮位札。母さんが小像へ触れる時の指。全部が同じことを、言葉にせず置いていた。


「はい」


 俺は答えた。


 それだけだった。


 母さんはそれ以上言わない。代わりに、棚の上から小さな包みを取った。白い布で巻かれている。新しい布ではない。何度も畳まれ、角が柔らかくなっている。


 母さんは蒼凪殿へ向いた。


「賢者様」


「はい」


「これを」


 蒼凪殿は両手で受け取った。


「お預かりします」


「薬草と、乾いた布です。あと、古い結び紐が一本」


 母さんはそこで言葉を切った。


 意味は説明しない。


 蒼凪殿も訊かなかった。包みを少しだけ見て、革鞄の羅針盤とは別の場所へ入れる。混ぜない。けれど離しすぎない。そういう位置だった。


「ありがとうございます」


「必要な時に」


「はい」


 母さんは俺の前に立った。


 俺の襟に手を伸ばす。いつもより少しだけ時間をかけて布を直した。襟元の折れを指で押さえ、肩の縫い目を見て、帯の位置へ目を落とす。母さんは装備の名前を知らないわけではない。けれど今は、当代の装備としてではなく、息子の服として見ていた。


「帰る場所を間違えないで」


「分かりました」


「分かっている顔じゃないね」


「覚えておきます」


 母さんは少しだけ息を緩めた。


 笑ったわけではない。けれど椀の湯気がほどける時のように、顔の線がわずかに柔らかくなった。


「ならいい」


 家を出る時、母さんは玄関まで来た。


 58話の朝は、振り向かなかった。今日は違う。けれど外へは出ない。敷居の内側に立っている。家の中の人として、家の中から送る。それが母さんの線だった。


「行ってきます」


「行っておいで」


 俺は石段を下りた。


 振り返らなかった。


 振り返れば、母さんがどんな顔をしているか見てしまう。見ればその顔を持っていくことになる。持っていけるものには限りがある。潮鎚。札。短刀。羅針盤。母さんの言葉。それだけで、もう十分に重かった。


 石段の途中で、外海の風が横から来た。


 家の裏手は内湾へ落ち、表は外海へ開く。子供の頃は、その形を便利だと思っていた。どちらの潮にもすぐ出られる。父が戻ってくる方角も、母さんが洗い物を干す風も、同じ家から見える。けれど今朝は、その便利さが別のものに見えた。どちらにも開いている家は、どちらからも遠ざかる背中を見送れる。


 門柱の脇に、小さな石の台がある。祖父の代から置かれている、潮を見るための台だ。濡れた指を乗せ、風を受け、今日の海を読む。俺はそこで足を止めた。台の上には、まだ母さんの指の跡が薄く残っていた。俺が起きるより前に、一度ここへ出たのだろう。見送らないために、先に海だけ見ておいた。そういう人だ。


 棚下の引き出しには、釣針と革紐と小刀の鞘だけが残っているはずだった。黒い羅針盤の重さは、今は俺の鞄の底にある。家から一つ物が抜けたのに、家そのものは軽くならない。むしろ、空いた場所が重さを覚える。戻した時にそこが分かるように、空白は空白のまま残る。


 俺は潮鎚の革紐を締め直した。


 結び目が手のひらに当たる。昨日までと同じ位置だ。旧水門下で何度も濡れ、乾き、塩を噛んだ革が、朝の湿りを吸って少し硬い。これも持っていく。島の音を叩くものとして。父の方角を知るためではなく、戻る時に、戻る音を間違えないために。


 坂の下から、内湾の声が混じり始めた。桶を置く音。板戸を開ける音。魚籠を積む音。誰かが朝の挨拶を途中で飲み込み、別の誰かが小さく笑って続けた。俺の背中に家があり、前には本部がある。その間の坂道は短い。けれど今朝だけは、島の端から端までを歩いているようだった。


 家は振り返らなくても背中にあった。


 それでよかった。


 足は、止まらなかった。


──────────────────────────────


 本部は朝の仕事を始めていた。


 ヴェラが受付で札を並べている。ラーゴは入口の横で縄を巻き直していた。ニカは窓際で潮位札の控えを読んでいる。いつもの配置に見える。だが全員、俺が入った時に一拍だけ手を止めた。


「当代」


 ラーゴが言った。


「旧水門下は閉鎖を継続。入口側に二人。潮位は半刻ごと。昨日と違う鳴り方をした札は、全部ここへ」


「はい」


「外海側の巡回は、ニカの組で」


 ニカが顔を上げる。


「了解です」


「内湾はラーゴ。報告は朝夕二回でいい。ただし、小鐘が続けて鳴ったらすぐ」


「分かりました」


 ヴェラが筆を止めた。


「当代の出向記録は、どう書きますか」


 俺は少しだけ考えた。


 島を離れる。だが当代を置いていくわけではない。逃げるのでも、巡礼でもない。調査だ。島の外へ伸びた異常を追うための出向。


「海守り当代、外海調査へ出向。目的地はカラヴェラ。黒い羅針盤の方角確認と、旧水門下異常の外縁調査」


 ヴェラの筆が動く。


「帰島予定は」


「未定」


 筆が一拍止まった。


「未定、と」


「ええ。ただし、便があれば報告札を戻す。カラヴェラからまず一通」


「承知しました」


 ヴェラの声は変わらなかった。


 変わらないようにしているのが分かった。


 ラーゴが縄を巻き終え、壁へ掛けた。


「当代がいない間、若手が浮きます」


「浮かせるな」


「はい」


「忙しくしておけ。潮位札の古い札を洗い直す。旧水門岬の赤線を引き直す。巡回の記録も見直す。手が空いたら、足元を見る前に奥を見たがる」


 ラーゴは少しだけ口元を動かした。


「了解です」


 ニカが窓の外へ目を向けた。


「港へ、みんな出ています」


「仕事は」


「しているふりをしています」


「それならいい」


 俺は机の端に手を置いた。


 本部の長机は、昨日より乾いている。報告札は少ない。潮位札の控えも整っている。けれど机の上に残る空白が、今朝は目に入った。俺がいつも立つ場所だ。


 そこを空ける。


 空けるために、別の場所へ行く。


「外を頼む」


 俺は言った。


「はい」


 三人の声が重なった。


 強い声ではない。けれど足りた。


 蒼凪殿は少し離れて見ていた。口を挟まない。俺が置くべき手順を、俺が置くのを待っている。そういう距離だった。


 本部を出る時、ヴェラが一枚の小さな札を差し出した。


「港の船頭へ。手続きは済んでいます」


「ありがとうございます」


「当代」


「はい」


 ヴェラはそこで、少しだけ声を低くした。


「戻る時は、鐘を先に鳴らしてください。みんな、港へ走ります」


 俺は札を受け取った。


「分かりました」


──────────────────────────────


 港へ下りる道は、朝の音で満ちていた。


 桶の水。樽を転がす音。魚籠を置く音。縄を引く音。市場の布を広げる音。いつもならそれらは別々に動いている。今日は、俺が坂を下りるたびに少しずつ止まった。


 止まると言っても、完全に止まるわけではない。島の朝は止まらない。桶の水は溢れる前に捨てなければならないし、魚は日が上がる前に並べなければならない。帆布は湿りすぎる前に広げる。子供は叱らなければ走る。だからみんな、手の半分だけを仕事に残し、もう半分だけをこちらへ向けていた。


 坂の途中の掲示板には、昨日の注意札がまだ残っていた。


 旧水門下へ近づくな。返り洞の潮に触れるな。報告は本部へ。俺が昨日、自分で書かせた文だ。文字は乾いている。だが札の端には、夜の湿りが少し残っていた。島の誰かが夜明け前に読んだのだろう。読んで、足を止めて、それから仕事へ戻った。俺がいなくなる朝にも、島はその札で動いている。


 掲示板の下に、貝殻の欠片が三つ置かれていた。子供の仕業だ。鐘にするには小さすぎる、ただ白いだけの欠片。祈りの形にもならない。けれど、何かを置きたかったのだと思う。無事に戻れと言うには大げさで、行かないでと言うには遅すぎる。その間に置けるものを、子供はよく知っている。


 俺は欠片には触れなかった。


 触れれば、持っていくことになる。持っていかずに残すものもある。港で鳴る鐘とは別に、ここで鳴らない白さがある。帰った時、この欠片がまだあるかどうか。誰かが掃いてしまうかもしれない。風で転がるかもしれない。それでいい。残すものは、全部が形を保つ必要はない。


 蒼凪殿が、半歩後ろでそれを見ていた。


 何も言わなかった。島の人の置き方を、外の人として見ている。賢者として読もうとせず、旅人として踏み荒らさない。俺はその沈黙に、少しだけ助けられた。


 洗い場の女たちが手を止める。


「当代」


 一人が声をかけた。58話の朝、母さんへ布包みを預けた女将だった。今日は手に濡れた布を持ったまま、腰を伸ばしている。


「ミナさんは」


「家です」


「そうかい」


 女将はそれだけ言った。次の言葉を飲み、代わりに布を桶へ戻した。


「カラヴェラは港が大きい。変なものを拾って食べるんじゃないよ」


「食べません」


「分からないね。若い男は外へ出ると変なものを食べる」


 周りの女たちが小さく笑った。


 笑い声は湿っていない。けれど長くも続かない。見送るための笑いは、いつものからかいより少し短い。


 女将は籠の中から小さな布包みを取り出した。昨日と同じ形だ。甘く煮た豆の匂いが、布越しに少しだけ立つ。


「ミナさんには、あとで別に持っていくよ。これは船で食べな」


「荷物になります」


「食べれば荷物じゃない」


 断る形にはならなかった。俺は受け取り、腰袋へ入れた。布包みが昨日の記録札とは違う重さで腰へ当たる。島の人は、別れを言う代わりに食べ物を持たせることがある。海の上で腹が空けば、言葉より役に立つからだ。


 坂下の荷役の男が、転がしていた樽を止めた。


「若様」


「その呼び方は」


「今日だけだ」


 男は帽子を少し上げた。


「足元、見て行け」


「ええ」


 酒場の店主は、店先の鍋をかき混ぜる手を止めずに片手を上げた。目だけがこちらを見ている。年長の海守りは救助槍を壁へ戻しかけたまま、動きを止めていた。槍の穂先に朝の光が乗る。


 通りの向こうで、網を繕っていた老人が針を口にくわえたまま頭を下げた。若い海守りが二人、干していた縄の端を持ったまま姿勢を正す。魚籠を抱えた少年は、こちらを見ようとして籠を傾け、横の女に小声で叱られていた。


 そういうものが、一つずつ目に入る。


 名前を知っている者もいる。知らない者もいる。だが全員、俺が水を読んだことのある島の人だった。誰かの舟を押した。誰かの網をほどいた。誰かの子供を浅瀬から抱き上げた。誰かの父を、戻せなかった。


「当代」


「留守をお願いします」


「置いていける仕事は置いていけ。持っていく仕事だけ持っていけ」


「はい」


 市場の端で、子供たちが固まっていた。


 貝殻の小さな鐘を持っている。58話の夕方、遊びで鳴らして叱られていた子供たちだ。今日は誰も叱らない。子供たちは互いに顔を見合わせ、いちばん背の低い子が紐を引いた。


 貝殻の鐘が鳴った。


 高くはない。海鳥の声より低く、潮位札より軽い音だった。ひとつ鳴る。少し遅れて、もうひとつ。貝殻同士が触れ、白い音が朝の港へ散った。


 俺は足を止めた。


 子供たちが一斉に背筋を伸ばす。


「鳴らしていいのか」


「今日はいいって」


「誰が」


「みんな」


 答えになっていない。


 けれど、港の誰も止めなかった。


 俺はうなずいた。


「ありがとう」


 子供たちの顔が、ぱっと明るくなる。すぐ照れたように下を向く。ひとりがもう一度鳴らそうとして、隣の子に止められた。多すぎると祭りになる。見送りは、祭りではない。子供たちなりに、それを分かっているのだと思った。


 桟橋には、カラヴェラ行きの小型帆船が待っていた。


 船腹は濡れている。朝の潮が板を叩き、継ぎ目から低い音が返る。帆はまだ半分だけ畳まれていて、湿った布が重そうに垂れていた。船頭がこちらへ頭を下げる。


 カラヴェラ。


 名前は何度も聞いている。海図でも見ている。だが今日、その名は港の札ではなく、俺の足が乗る先になっていた。大きな港。外の船が多く入る街。賢者が来た場所。島の潮では測れないものが、そこから先にはある。


 船縁には水滴が並んでいた。夜明け前に洗われたのだろう。舳先の縄は新しくないが、よく使い込まれている。こういう船は信用できる。飾りの多い船より、濡れる場所が正しく濡れている船の方がいい。


「当代、潮はいい。外へ出るなら今です」


「お願いします」


 蒼凪殿が先に渡り板へ足を置いた。足元を確認し、半歩だけ進んで振り返る。俺を待つためではない。板の揺れと船の拍を見ている。


 俺は桟橋の端で、家の方角を見た。


 岬の上の家は、港からは小さくしか見えない。窓の光も見えない。母さんの姿も見えない。けれどそこに家があることは分かる。外海と内湾の両方が届く細い地の上で、今も小像が朝の光を受けている。


 持っていくもの。


 置いていくもの。


 その二つを完全に分けることはできない。


 だから手順がある。


 俺は渡り板へ足を置いた。


 板が沈む。足裏が揺れを拾う。海の上へ移る瞬間、体の重心が陸から少し離れた。潮鎚の重さが背中で変わる。島で持つ時と、船で持つ時では同じ重さではない。


 蒼凪殿が横に立った。


「当代殿」


「はい」


 彼は少しだけ間を置いた。


 港の音が背後で広がる。貝殻の鐘。桶の水。樽。縄。子供の小さな息。ラーゴの低い声。ニカが誰かへ指示を出す声。ヴェラの筆箱が閉まる音までは聞こえないはずなのに、頭の中では鳴っていた。


 蒼凪殿は言った。


「あなたが必要です」


 職能の言葉だった。


 潮を見る者として。支点を作る者として。島の潮を身体で知っている当代として。俺がいなければ読めないものがある。そういう意味だと分かった。


 それでも、言葉は別の場所にも触れた。


 胸の奥ではない。もっと下だ。足裏に近い。船の揺れを受ける場所で、その言葉が一度だけ沈んだ。


 俺は大きく返事をしなかった。


「分かりました」


 それで足りた。


 船頭が声をかける。縄が外れる。桟橋の杭から、湿った縄が滑る音がした。船が少し離れる。海守りの若手が船縁を押し、船腹が水を割った。


 桟橋と船の間に、水の線が一本入った。


 細い線だ。飛び越えられる幅でもある。けれど一度離れた船は、同じ場所へ戻っても、出る前の船ではない。俺はその線を見た。見て、覚えた。


 港が動き始める。


 見送りのために止まっていた手が、ひとつずつ仕事へ戻る。女たちは布を洗い、荷役の男は樽を転がし、店主は鍋を混ぜ、子供たちは貝殻の鐘を胸に抱える。ラーゴが縄を巻き、ニカが潮位札を見る。ヴェラはたぶん、本部で出向記録の最後の字を乾かしている。


 島は止まらない。


 俺が乗った船だけが、内湾をゆっくり離れていく。


 油紙に包まれた羅針盤は、蒼凪殿の革鞄の奥にある。開けない。今は見ない。見ないことも、手順のひとつになった。


 帆が上がった。


 湿った布が朝の風を受け、重さをほどく。帆の縫い目にたまった水滴が落ち、甲板へ小さく散った。船底が内湾の波を越えるたび、足裏に柔らかい拍が返る。島の岩礁を歩く時の硬い拍ではない。木と水の間で一度丸くなってから、身体へ来る揺れだった。


 内湾の青が船腹の横で薄く揺れる。


 港に近い水は、まだ家の色を持っている。魚籠の影、桟橋の木、朝の火、洗い場の泡。人の手が届く青だ。そこを抜けて外海へ近づくにつれて、青は深くなった。明るい青ではない。夜の残りと朝の光が一枚ずつ重なった、群青だった。


 群青は、黒ではない。


 戻れない色でもない。ただ、足を入れる前と後で、同じ水とは言えなくなる色だった。白い波の縁だけが朝を拾い、その下の水は静かに深い。帆の影がそこへ落ちると、影まで青く沈んだ。


 オルヴィナの岩礁が後ろへ下がる。


 白い波が砕け、すぐ消える。水門岬はまだ見える。岬の上の家は、もう線に近い。俺は目を細めたが、そこに母さんの姿を探さなかった。


 探せば、戻る。


 今は前を見る。


 カラヴェラへ向かう航路は、朝の群青の上に開いていた。

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