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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
71/127

深紅の晩餐

 西館の私室を出る頃には、窓の外が藍へ沈む手前だった。


 夜の庭は赤を失っていなかった。硝子越しの花は黒に近い色を含み、風が動くたび枝の影だけが廊下へ泳ぐ。昼には白く見えた壁も、今は燭火を受けて薄い血色を帯びている。長い敷物の縁には深紅の糸が走っていた。その色だけが夜の中で妙に生々しい。


 痛み止めは効いている。


 効いているから厄介だった。痛みが消えたわけではない。輪郭を失った熱が胸の中央から右肩へ広がる。歩くたび一拍遅れて背中へ絡んだ。傷口そのものより、包帯の下の皮膚が自分のものではないような感覚があった。


 俺は右手を胸元へ置いた。


 布越しに熱を測る。熱はある。上がってはいない。医者の指示を頭の中へ戻す。深く息を吸うな。腕を上げるな。酒は避けろ。湯は短く。食事は軽く。


 食事は軽く。


 最後だけがいちばん信用できない。


 廊下の灯は低かった。


 燭台の火は壁際へ寄せられ、床へ落ちるのは人の影より花の影の方が多い。使用人の足音は遠くにある。食器の触れる音。布を払う音。戸口で誰かが短く礼をする気配。屋敷全体が夕餉へ向けて呼吸を揃えていた。


 この廊下を昔も歩いた。


 夜の灯。花の影。食卓へ向かう足の重さ。あの頃の俺は胸ではなく、もっと深い場所に穴を抱えていた。料理の匂いが近づくたび身体が閉じた。器が置かれる音さえ敵に聞こえた。


 今は違う。


 そう言い切れるほど、俺は単純ではない。


「蒼凪さん」


 廊下の先から声が来た。


 ヒュウマが立っていた。着替えは済んでいる。海守りの戦闘服の乱れは直され、帯の位置もきちんと戻っていた。髪も整えている。けれど左腰を庇う癖だけは残っていた。歩く前から、身体が痛みの場所を覚えている。


「歩けるか」


「はい。ゆっくりなら問題ないと」


「ならいい」


「蒼凪さんは」


「歩ける」


 ヒュウマは俺の顔を見た。


 何も言わない。だが目が俺の呼吸を拾っていた。声より正確な確認だった。海守りの癖だな。嘘を聞くのではなく、息と足を拾う。


「食べられますか」


「たぶん」


「たぶんは困ります」


「今回は食べる」


「信じます」


「疑っている顔だな」


「少し」


 否定しない。そこがヒュウマらしい。


 俺は小さく息を吐いた。胸が少し引き攣る。ヒュウマの目がそこへ落ちかけたので、先に歩くふりをした。


「無理はしない」


「今の言葉も半分だけ信じます」


「厳しいな」


「蒼凪さん相手ですから」


 軽く言う。だが軽くはない。昨日の戦場を抜けた後で、互いの身体をどこまで信じてよいか探っている。冗談の形をした検分だった。


 後ろから軽い足音が近づいた。


 イーリスだった。いつもの楽器の包みは持っていない。旅装から屋敷が用意した薄い上着へ替えていた。色は灰がかった緑だ。耳は髪と布で隠れている。だが長命の種族らしい気配だけは消えない。


「晩餐へ楽器を持ち込むのは、さすがに遠慮いたしました」


「助かる」


「歌わぬとは申しませんが」


「食卓で歌う気か」


「食卓次第でございます」


 ヒュウマが困った顔をした。


 イーリスはそれを見て目を細める。笑っている。だがいつもより声は低い。ここは屋敷で、魔女の席だ。ただの宿ではない。そのことを受け止めている。


「語り部の職業病か」


「ええ。美味なる膳には節が宿りますので」


「宿らせるな」


「努力いたします」


「その努力は信用できないな」


「蒼凪殿に言われるとは、なかなか味わい深い」


 ヒュウマが小さく吹きそうになった。すぐ腰へ響いたのか、口元を押さえる。俺は見なかったことにした。


 彼は少し遅れて来た。


 濃紺のローブを整え、長い黒髪を後ろで束ねている。大きな身体が廊下の幅を少し狭くした。槍はない。部屋に置いてきたのだろう。首元の白鯨の歯と鮫の歯の化石だけが、燭火を拾って鈍く光っていた。


「待たせたか」


「待っていません」


 ヒュウマが答える。


 その男は屋敷の奥へ短く礼をした。巨躯の動きなのに、床板が大きく鳴らない。でかい身体に慣れている者の歩き方だった。


「食卓へ招かれるのはありがたいことだ」


「そうですね」


 ヒュウマの返事は素直だった。


 イーリスが少し横へずれ、彼の通る幅を作る。礼が返る。短い所作だけで、旅の中でできた距離が見えた。完全な仲間ではない。だが同じ船に乗る程度の呼吸は生まれている。


 俺は廊下の先を見た。


 晩餐室へ向かう。そう思っただけで、胸とは別の場所が重くなった。


 ここで食べたことがある。


 昔の俺は、あまり食べなかった。


 椅子に座ることも匙を持つことも面倒だった。誰かの視線を受けることも面倒だった。食べることは命を繋ぐはずなのに、あの頃の俺には次の日へ縫い留める針に見えた。


 思い出すには早い。


 俺は歩き出した。


 晩餐室は本館の奥にあった。


 大食堂ではない。だが客間の延長というには広い。天井は高く、梁には花と波の彫りが走っていた。白い壁は燭火を柔らかく返す。長卓の中央には深紅の布が敷かれている。


 その赤が最初に目へ入った。


 庭の赤ではない。血そのものでもない。長く畳まれていた布が、今夜のために広げられた色だった。燭火が揺れるたび、その赤は暗く沈む。また薄く息を吹き返す。


 窓の外には中央庭園の夜がある。


──────────────────────────────


 昼とは匂いが違った。甘さが奥へ退き、湿った土と青い葉が前へ出ている。枝の影が硝子へ重なり、深い花だけが時々光を拾った。館の中と外で、同じ赤が違う温度を持っている。


 卓は広い。


 けれど会話が届かないほどではない。器の位置。杯の間隔。椅子の角度。すべてが過不足なく置かれていた。美しさより先に、誰がどう座れば痛まずに済むかが考えられている。


 エヴァ様はすでに席についていた。


 金の髪は昼より赤く見える。燭火と布の色を吸ったせいだ。背もたれの高い椅子に座り、片手で杖の頭を撫でている。前にはまだ何もない。杯も空だ。煙管も出ていない。


 珍しい。


「来たか」


「遅れましたか」


「いや。ちょうどよい。凪が時間通りに食卓へ来るなど、屋敷の記録に残してよい出来事じゃ」


「大げさです」


「メリッサ」


「記録いたします」


 壁際に立つメリッサが淡々と答えた。


 蜂蜜色の髪を後ろでまとめ、生成りの前掛けには小さな蜂の刺繍がある。目元だけが外見の年齢と合わない。俺の胸元へ一瞬だけ視線を置く。次にヒュウマの腰へ移し、何も言わずに戻した。


 ヒュウマが俺を見る。


 言いたいことは顔に出ていた。俺は視線を逸らした。


 アルフレッドはエヴァ様の背後から少し離れた位置にいた。黒い燕尾服。白い手袋。銀鎖の懐中時計。黒山羊の角の影が壁へ落ち、枝葉の影と重なっている。


「凪様。お席はこちらでございます」


「ありがとうございます」


 アルフレッドは椅子を引いた。


 動きに省略がない。俺の右肩の可動域を見て、角度を少しだけ変える。座る時に胸の包帯へ負担がかからない位置だった。昔からそうだ。こちらが自覚する前に、身体の逃げ道を用意している。


 ヒュウマの席も調整されていた。左腰が引っかからないよう、背もたれと肘置きの間が広い。イーリスの席には小さな水差しが近い。巨躯の客の椅子は他より少し頑丈で、床との接地も深い。


 用意されている。


 その事実が、座る前から身体へ触れた。


「語り部殿。長く見送る者の席は、こちらに」


 アルフレッドがイーリスへ椅子を示す。


 イーリスはいつもの軽い笑みを抑え、丁寧に礼をした。


「光栄でございます」


「シレリオ殿。椅子の高さに不足があればお申し付けください」


「十分だ。礼を言う」


 声は少し低かった。屋敷の整い方に、祭祀の場に近いものを感じたのかもしれない。


 全員が席につくと、扉の奥で足音がした。


 若い男が入ってきた。


 黒い厨房着に、白い東方前掛け。白は清潔というより、火と水の間に立つ者の旗に見えた。腰には布巻きの包丁鞘がある。薄刃と柳刃だろう。武器ではない。立ち方がそう言っていた。


 黒髪を後ろへ撫でつけ、白い布で押さえている。瞳は焦げ茶。顔つきは若い。けれど目が若くない。卓に座る順番と肩の高さを一息で拾い、杯へ伸びる手の癖まで見ていた。


 匂いが先に来た。


 昆布を引いた湯。


 焼いた皮の香り。


 白木の俎板。


 微かな柑橘。


 胃が遅れて反応した。空腹というより、身体がようやく食事を思い出す反応だった。


 男は卓の少し手前で足を止め、深くはないが正確に礼をした。


「御厨透真と申します。本日より、皆様の膳を預かります」


 声は明るい。


 だが客前の節度がある。砕けすぎない。若さは出るが、仕事を崩さない。屋敷の料理長として紹介されることを、きちんと引き受けている声だった。


 エヴァ様が顎を上げた。


「新しい料理長じゃ。若いが手はよい。妾が最近、東方の膳に嵌っておる理由でもある」


「奥様。嵌っておられるのは結構ですが、煙管は食後でお願いいたします」


「まだ出しておらぬ」


「出される前に申し上げました」


 エヴァ様は口元を曲げる。


「先回りが過ぎる」


「厨房は先回りで成り立っております」


 アルフレッドの瞼が一枚下がった。笑ったのだと思う。


 透真は盆を持つ使用人へ目配せした。最初に置かれたのは水だった。


 珊瑚硝子の小さな杯。湯気はない。冷たくもない。口をつけると、ぬるい水に薔薇塩がほんの少しだけ溶けていた。柑橘の皮が遠くで立つ。喉の奥がゆっくり開いた。


「まず水を。次に塩です。話は、その後でも逃げません」


 透真はそう言って、ヒュウマの杯を少しだけ近い位置へ置いた。


「海守り殿。失礼いたします。左を庇っておられますので、杯は右手寄りへ」


「ありがとうございます」


 ヒュウマは素直に受け取った。


 透真はイーリスを見る。


「語り部殿。喉を先に湿らせてください。声は食卓でも大切でございます」


「これはどうも。歌い手の喉へ先に礼を置かれるとは、よい食卓でございますね」


「本日は歌より食事を優先していただけますと助かります」


「努力いたします」


「努力では不安でございます」


 丁寧なのに、若さが少しだけ出る。イーリスは愉快そうに笑った。


 ラウリの前には同じ水のほかに、塩の小皿が置かれた。


「シレリオ殿。海の膳が多くなります。祈りに触れる品があれば、先にお申し付けください」


 ラウリの目が少し変わった。


「礼を言う。食べる前に海へ礼を置けば足りる」


「承知いたしました」


 透真は最後に俺を見る。


 視線は胸元で止まる。次に右肩へ移り、口元へ戻る。痛みではなく、食べられる形を探している目だった。


「凪様。本日は粥を添えます。反論は伺いますが、献立は変えません」


「俺はまだ何も言っていない」


「顔で言われました」


「顔は仕事を選べないらしい。難儀なことよ」


 エヴァ様が低く笑った。


「さっきも同じようなことを言うておったな」


「事実なので」


 透真は小さく礼をして下がった。


 水を飲む。


 塩が舌の上に薄く残る。身体が、食卓へ戻る準備を始めた。


 最初の一品は白かった。


 珊瑚硝子の小鉢に、薄く引かれた白身が重ねられている。透明に近い身の縁へ薔薇塩が微かに乗っていた。青い香草と柑橘油。器の縁には深紅の花片が一枚だけ伏せてある。


 サルマンディアの海で揚がるものだ。


 だが組み方は東方に寄っている。海辺の街の料理を、別の手順で静かに整えた味だった。軽い。けれど薄くない。舌に触れた瞬間は水のようで、噛むと脂が遅れて開いた。


「凪」


 エヴァ様が一切れ口へ運んでから言った。


「まずはお主の近況から聞くか。もっとも、ある程度は知っておる」


「どこまでですか」


「深淵にまつわる狂信者共を追っておること。神殿探索も続けておること。行く先々で賢者らしからぬ揉め事を拾っておること」


「最後は余計です」


「余計ではない。重要じゃ」


 エヴァ様は杯に触れず、指先で硝子の縁を撫でた。金の爪が触れ、音にならない音を出す。


「お主、自分が思うほど影に隠れられておらぬぞ。白真珠の塔の賢者が港を渡れば、波より先に噂が来る」


「目立つつもりはありません」


「目立つ者は、だいたいそう言う」


 イーリスが小さく笑った。


「耳が痛いお話でございますね」


「長命の語り部も同じ穴じゃ。お主らは黙っていても物語の匂いがする」


「それは誉れでございましょうか」


「半分はな」


「もう半分は」


「面倒じゃ」


「面白いですね」


「褒めておらぬ」


 イーリスは礼をするように目を伏せた。嬉しそうにも見える。面倒と言われて喜ぶのは語り部の悪癖だ。


 エヴァ様は俺へ視線を戻した。


「便りはたまに寄越す。だが気まぐれにしか帰ってこぬ。戻ったと思えば、だいたいどこかしら破れておる」


「便りは出しています」


「数が少ない」


 メリッサが壁際から静かに言った。


「日付から投函まで、三日空いたものもございます」


「メリッサ」


「事実でございます」


 ヒュウマの目が俺へ向いた。


「出すまで三日置いたんですか」


「状況による」


「三日」


「状況による」


「三日は状況じゃなくて期間です」


 イーリスが咳払いのふりをした。ラウリは箸を動かしながら、目だけで笑っている。俺は白い身を箸で整えた。こういう時、食卓は逃げ場にならない。


 エヴァ様が喉の奥で笑う。


「妾は退屈を嫌う。お主は退屈から遠い。そこだけは褒めてやる」


「ありがとうございます」


「ただし、面白い土産話と壊れた身体を同じ膳に載せる癖は直せ」


「努力します」


「それは直さぬ者の返事じゃ」


 透真が壁際で動かないまま、わずかにこちらを見た。料理長の目だった。器の減りを見ている。俺が会話に逃げて箸を止めるかどうかを見ている。


 白身は薄いのに、香りが長く残った。


 食卓は軽いところから始まっている。だが向こうに置かれた話は、すぐ軽くなくなる。


 俺は箸を置いた。


「直近の話をします」


 エヴァ様の目が少し細くなる。


「聞こう」


 次は汁だった。


 白い椀の中に、澄んだ湯が張られている。干し貝と昆布。焼いた骨の香りが薄く立つ。小さく裂いた白身と、やわらかい青菜。椀裏の深紅が、手の中で暗く沈んでいた。


 温度がちょうどいい。


 熱すぎれば話が止まる。ぬるければ身体が冷える。そのどちらでもない。重い話を飲み込むための温度だった。


 俺はロドルの名を出した。


 湯気が一度、目の前で揺れた。


「ロドル・ヴァシレフ。深淵の徒と呼んでいる集団の幹部級と見ていい男です。古代遺跡で接触しました」


「接触、か」


「戦闘になりました」


「勝ったとは言わぬ顔じゃ」


「勝っていません。撤退です」


 ヒュウマの指が椀の縁で止まった。


 本人も同じ認識だ。あれは勝利ではない。呼べない。生き残った。敵が去った。こちらは引いた。それだけだ。


「撤退できたのも、偶然でした」


 エヴァ様は何も言わない。


 俺は続けた。


「レオンたち勇者側も同じ戦場にいました。俺たちだけではない。全員が消耗していた。ロドルがその気なら、俺たちはここで食事をしていません」


 椀の中の白身が沈む。


 その沈み方を見ていると、広場の石床を思い出した。重い刃。黒い碇の気配。届かない間合い。身体を潰すような圧。息を吸う前に、胸骨を内側から押される感覚。


 指先が一度だけ冷えた。


 胸の傷とは別の場所が硬くなる。昨日は動けた。今も座れている。だが身体は、あの男の重さをまだ覚えている。


「殺し切る気配が、最後まで薄かった」


「手を抜かれたのですか」


 ヒュウマが聞いた。


「違う」


 言ってから、自分でもその違いを探した。


 手を抜かれたのなら、怒ればいい。侮られたと箱へ入れれば済む。だが違った。剣圧も殺意も本物だった。俺の判断が一つ遅れれば、誰かの身体は石床へ残った。


「手を抜いたのではない。戦いは本物だった。ただ、目的が殺すことだけではなかった」


 エヴァ様が椀を置いた。


「向こうが姿を見せたのなら、測られたと見るべきじゃな」


「測られた」


「殺すだけなら、もっと汚い手はいくらでもある。顔を出したことに意味がある」


 金の瞳が湯気の向こうで静かになった。


「殺す気があれば、今ここで粥など啜っておらぬ」


「そうですね」


「生かされた、とまでは言わぬ。だが、見逃された匂いはする」


 その一言は、俺の内側にあった曖昧な違和感と形が合った。


 見逃された。


 嫌な響きだ。


 勝ち負けより深い場所へ針を刺してくる。こちらが選んだ撤退ではなく、向こうの目的に含まれた余白へ逃げ込んだ。そう聞こえる。実際、その匂いはあった。


 俺は椀を持つ手に少し力を入れた。


「凪。お主らは追っただけではない。追われる側へも半歩入った」


「承知しています」


「その顔は承知ではない。箱へ入れた顔じゃ」


「今は、それ以上の処理ができません」


「なら食え」


 エヴァ様は短く言った。


「処理できぬものを、空き腹で持つな」


 透真が音もなく近づいた。椀の減りを見て、俺の前へ温かい汁を少しだけ足す。


「失礼いたします」


 その一言だけだった。


 厨房の者は会話に踏み込まない。だが話が沈みすぎないよう、温度を戻していく。湯気がまた立ち、焼いた骨の香りが喉を開いた。


 ラウリが椀を両手で持った。


「退くことも務めだ。俺の島では、荒れた海へ勝つとは言わない。戻ると言う」


 ヒュウマが小さく頷いた。


「海守りも、そうです」


「海は勝てない相手だ。怒らせずに帰る。時にはそれだけでいい」


「はい」


 二人の声は似ていない。出身も違う。けれど海を前にした者の語り口は、妙に同じ底を持つ。


 勝ったかどうかではない。


 戻れたかどうか。


 その筋だけが、今は少し身体に入った。


 三品目は小さな蒸し物だった。


 蓋つきの器が置かれる。蓋を取ると、海老と香草の香りが立った。卵をやわらかく蒸したものだ。出汁の表面が震え、柑橘皮の黄色が一点だけ浮かんでいる。


 噛まなくていい。


 飲み込める。


 透真は重い話の位置へ温度を合わせている。腹へ落ちるものではなく、胸の奥で止まりそうな声を流すための一品だった。


「黒い羅針盤の話に移ります」


 俺は言った。


 ヒュウマの背筋がわずかに伸びる。左腰を庇う動きではない。胸の内側に触れられた時の反応だ。


 エヴァ様はそれを見た。見てから、蒸し物へ匙を入れた。


「オルヴィナ島で接触した古い遺物です。今は俺が管理しています」


「今は、か」


「以前は、戻す機能を持つものと関係していました。接続を断った後、性質が変わった。現在は、戻されなかったものの方角を指していると考えています」


 エヴァ様の手が止まった。


「戻されなかった、か」


 声が少し低くなる。


「嫌な言い方じゃ」


「俺もそう思います」


「戻すもの。戻されぬもの。戻ってはならぬもの。言葉が一つ違えば、契約の向きも変わる」


 契約。


 その語が食卓に置かれただけで、部屋の温度が一段変わった。深紅の布が燭火を吸い、花の匂いが濃くなったように感じる。


「その針は、方角だけを示しておるとは限らぬぞ」


「承知しています」


「しておらぬ」


 即答だった。


 俺は匙を止めた。


「凪。お主は道具の性質を読むのは早い。だが、道具を持つ者の心を後回しにする」


 視線が俺からヒュウマへ移る。


「針を見るな。針を握った手を見よ」


 ヒュウマは少しだけ目を伏せた。


「父に会えるとは、思っていません」


 静かな声だった。


「でも、方角を知った以上は見ないふりをできません」


 責めではなかった。


 ただ、海の向こうへ残された縄を握る声だった。手の中にあるものは濡れているのか。切れているのか。最初から幻なのか。どれでも、その感触だけは消せない者の声。


 エヴァ様は頷かない。


「見るなとは言わぬ。見続けるな」


「はい」


「方角は答えではない。答えへ向かう道の、いちばん冷たい部分じゃ」


 ヒュウマの指が器の側面を撫でた。熱を確かめるような動きだった。


 俺は口を開く。


「見ない運用にしました。必要になるまで開かない」


「誰のために」


「ヒュウマのためです」


「半分じゃな」


「半分」


「残りは、お主が怖いからよ」


 部屋が少し静かになった。


 それは違う、と言えなかった。


 羅針盤を開いた時、示された先へ自分の手が伸びる気がした。触れてしまえばヒュウマが進むしかない。俺も進むしかない。行き先が海でもいい。墓でもいい。何もない空白でもいい。


 見ないことを選ぶ。


 それはヒュウマのためで、俺のためでもあった。


「否定しません」


 エヴァ様は少しだけ満足そうに笑った。


「ならよい」


 ヒュウマは俺を見なかった。怒っていない。疑ってもいない。ただ、自分の中で置き場所を探している。


 透真が器を下げる時、ヒュウマの前で一度だけ止まった。


「海守り殿。温かいものをもう少しお持ちしますか」


「お願いします」


「承知しました」


 それだけでよかった。


 食卓は、答えを急がない。


 焼き物が出た。


 ラグーンの白身を炭火で焼いたものだった。皮は薄く鳴りそうなほど香ばしい。身は崩れないぎりぎりで火が入っている。香草の上に、発酵豆のたれが薄く塗られていた。油は少ない。柑橘が横に添えられている。


 香りが変わった。


 汁と蒸し物で沈んだ話を、炭火の匂いが少しだけ持ち上げる。焦げではない。皮が焼け、脂が火へ落ちる。一瞬だけ煙になった香りだ。


 巨躯の客の前だけ、身が少し大きい。


 彼はそれに気づいた。


「見られているな」


「食べられる方へは、食べられる量をお出しします」


 透真は丁寧に答えた。


「無理な場合は残してください。次の膳を考えます」


「ありがたい」


 彼は焼き身へ短く礼を置いた。


 指を合わせるほど大仰ではない。けれど海へ向ける呼吸が一拍あった。食べるものをただ口へ運ばない。それだけで、彼の背負うものの形が少し見える。


 エヴァ様がその所作を見ていた。


「シレリオ殿。お主は重いものを持っておるな」


「はい」


 彼は隠さなかった。


「祖の歯を追っています」


「祖の歯。名だけで十分に古い」


 エヴァ様は身をほぐした。


「知らぬまま守るものは、知ってから守るものより時に厄介じゃ」


「そう思います」


「怒らぬのか」


「分からないものを分からないと言われた。怒ることではない」


 返る声は穏やかだった。


「俺は、知るために追います。だが、急いで踏むものではないとも思っています」


「なぜじゃ」


「急げば、足元の祈りを潰す」


 エヴァ様の目がわずかに笑う。


「よい。大きいわりに、足音は軽い」


「俺はでかいので、気をつけています」


 ヒュウマが小さく笑った。場が少し緩む。


 彼は自分の器を見てから、透真へ目を向けた。


「皮がうまい」


「ありがとうございます。そこを残されると、厨房が少し寂しくなります」


「残さない」


「助かります」


 短い会話なのに、温度が上がる。片方は食べることへ礼を置く。透真はそれを拾っている。焼き物は二人の間で静かに成立していた。


 エヴァ様は次にイーリスを見た。


「長命の語り部。お主は凪の物語を歌にする気か」


 イーリスは皮を避けず、きちんと口に運んでから答えた。


「歌にするには、まだ皆様の食卓が近すぎます」


「近いと歌えぬか」


「歌えます。ですが、近すぎる歌は時に本人より先に結論を出してしまいます」


「面白い返しじゃ」


「恐れ入ります」


「近づきすぎれば歌は濁る。遠すぎれば肝心な声を拾えぬ。面倒な立場じゃな」


「その面倒を選んでおります」


「ならよい」


 エヴァ様は指先で杯を回した。


「凪のそばにいるなら、見るものは多かろう」


「ええ。多すぎるほどに」


「一度に全部歌うなよ」


「もちろんでございます。一度にすべてではございません」


 俺はイーリスを見た。


 その言い方は以前にも聞いた。彼は情報を小分けにする。理由はまだ全部は見えていない。だが、ここでエヴァ様に咎められても崩れない程度の立ち位置は持っている。


「蒼凪殿」


 イーリスがこちらへ目を向けた。


「今の焼き物は、詩にするなら二行で足ります」


「食卓ではやめろ」


「承知しております。ですが二行で足りるものを十行に伸ばすのは罪でございますので」


「お前の二行は長い」


「光栄です」


 エヴァ様は笑った。


「変な者ばかり拾ったな」


「拾ったわけではありません」


「拾われた側か」


「それも違います」


「では、食卓に並んだ」


「その言い方なら、まだ」


 エヴァ様は笑った。


「偶然にしては、器が同じ卓へ寄りすぎておるな」


 その声が、部屋の真ん中へ落ちた。


 炭火の香り。


──────────────────────────────


 夜の花の匂い。


 深紅の布。


 ロドル。羅針盤。ヒュウマの父。イーリス。ラウリ。祖の歯。勇者一行。サルマンディア。


 別々だったはずの線が、同じ卓へ置かれている。


 俺は焼き身をほぐした。


「俺も、そう見ています」


「なら、急ぐな」


 エヴァ様は言った。


「急ぐ者から、結び目に指を取られる」


 飯物は粥だった。


 魚介の出汁を含ませた小さな椀。米は柔らかく、粒は残っている。薔薇塩は別添えだ。浅漬けの青菜と柑橘皮が横に置かれていた。椀の内側は白く、外側だけが深い赤を帯びている。


 俺の椀は、他より少し小さい。


 ヒュウマの椀も同じだ。


 透真の判断だろう。食べさせるのではなく、食べきれる量にしている。匙を入れると米の粒がほどけ、湯気に海の甘さが乗った。胃へ落ちる前から、身体が休む準備を始める。


「まずは食え。眠れ。傷を閉じよ」


 エヴァ様が言った。


「動くのはその後じゃ。魔女の館にいる間くらい、身体を道具扱いするな」


「道具扱いはしていません」


「しておる」


 ヒュウマがすぐ言った。


 俺は彼を見た。


「今のはエヴァ様の台詞だ」


「でも、してます」


「即答するな」


「即答できます」


 イーリスが口元を隠した。ラウリは粥を食べながら頷いている。


「シレリオ殿まで」


「身体は槍ではない。槍も手入れする」


「そういう話では」


「そういう話じゃ」


 エヴァ様が重ねた。


「妾の屋敷は宿ではない。戻す場所じゃ」


 その一言に、胸の奥が少し引っかかった。


 戻す場所。


 この屋敷は、俺を戻したのか。


 それとも、壊れたまま動ける形へ直したのか。


 答えを出しかけて、やめた。今は粥を食べる。透真の匙が、食べること以外の処理を許さないような位置に置かれている。


「勇者一行のことですが」


 俺は言った。


 エヴァ様の表情が、ほんの少しだけ変わった。


 笑みは残る。だが温度が落ちる。


「勇者一行、か」


「同じものを追っている可能性が高い。ただ、今すぐ席を設けるつもりはありません」


「それでよい」


 エヴァ様は粥へ匙を入れた。


「あの生臭坊主どもの尖兵と、同じ卓へ急いで並べる趣味はない」


 ヒュウマの目が少し動いた。


 イーリスは笑わない。ラウリも顔を上げる。アルフレッドは動かない。メリッサは記録しているのか、していないのか読めない目をしている。


「エヴァ様」


「勘違いするな。その者ら個人を言うておるのではない」


 エヴァ様の声は軽い。軽いが、奥に嫌悪がある。


「背後の白い衣と帳面の匂いが好かぬだけじゃ。オルヴェリスの連中は、祈りと書類を同じ箱へ入れたがる。妾はその箱が嫌いでな」


 古い埃を払うような声だった。


「カイさんは」


 ヒュウマが口を開いた。


「神官として、負傷者を見ていました」


「であろうな」


 エヴァ様はすぐ頷いた。


「個人と組織は同じではない。若者の善意と、組織の癖も同じではない。そこを混ぜるほど妾は雑ではない」


「なら」


「それでも嫌いなものは嫌いじゃ」


 言い切った。


 その潔さに、ヒュウマは返事に困る。俺も少し困る。


 エヴァ様は匙を置いた。


「あちらも傷を抱えておるのだろう。傷のまま並べれば、互いの血の匂いで話が濁る。数日は置け」


「そのつもりです」


「ならよい」


「整理する時間が要ります」


「整理ではない。休息じゃ」


 すぐ刺された。


「お主は休むことまで箱に入れる。透真、粥を増やせ。この男は台詞だけでは休まぬ」


「承知しました」


「待ってください」


 透真は丁寧に礼をした。


「凪様。増やすと言っても、一口分でございます」


「一口なら」


「では、お出しします」


 完全に負けた。


 ヒュウマが笑いかけて、痛みを思い出した顔になった。俺はそれを見て、何も言えなくなる。


 食べる。


 今はそれが、いちばん正しい。


 口直しに、柑橘の蜜煮が出た。


 冷たすぎない。薄く煮た柑橘に、花蜜が少しだけ絡んでいる。器は小さい。深紅の硝子に蜜が薄く光り、酸味が粥の重さを静かに切った。


 重い話が一度、窓の外へ逃がされる。


 夜の花が硝子の向こうで揺れていた。燭火の赤。布の赤。硝子の赤。どれも同じ色ではない。だが食卓の上で、ひとつの空気を作っている。


 エヴァ様は柑橘を眺めながら、楽しそうに言った。


「しかし凪。お主は土産話より先に包帯を持って帰る」


「好きで持って帰っているわけではありません」


「妾は退屈せぬ。だがメリッサの帳面は厚くなる」


「帳面は必要でございます」


 メリッサが答える。


「奥様の気まぐれと凪様の負傷は、記録なしでは屋敷が回りません」


「並べるでない」


「頻度の問題でございます」


 アルフレッドが水を足した。


「凪様は昔から、休息を後日に回されます」


「後日は来ます」


「後日は、たいてい来ません」


 低く静かな声だった。


 反論が難しい。昔の俺がどうだったかを、この屋敷の人間は記録している。食べなかった朝。眠れなかった夜。手紙を開かなかった日。水を飲み忘れたことまで。


「記録上、凪様の『問題ありません』は問題の兆候でございます」


 メリッサが言った。


 ヒュウマがこちらを見る。


「そうなんですか」


「昔の話だ」


「今も言います」


「言うだけだ」


「問題ある時に」


「ヒュウマ」


 エヴァ様が笑いを堪えない。


「よいぞ海守りの末裔。妾の屋敷は、凪の言い訳を採用せぬ」


「採用されないんですね」


「されぬ」


「覚えておきます」


「覚えなくていい」


 俺の台詞は誰にも採用されなかった。


 透真が器を下げながら、少しだけこちらを見た。


「失礼ながら、凪様は食事を薬瓶扱いされる方と伺っております」


「誰から聞いた」


 透真はメリッサへ目を向けない。アルフレッドへも向けない。エヴァ様へも向けない。


 全員だ。


「本日は、薬瓶ではなく膳としてお出しします」


 丁寧な声だった。


 客前の料理長としての節度を保っている。だが言っていることは強い。若いのに、食卓の前では退かない。厨房の火と水を背負う者の頑固さがある。


 ヒュウマがまた俺を見る。


 その視線には笑いがある。けれど別のものも混じっていた。


──────────────────────────────


 屋敷側の人間が、俺を昔から知っている。


 俺の癖を知っている。


 俺が「問題ありません」と言う時の意味も知っている。


 それをヒュウマは、今ここで一つずつ胸へ入れている。


 俺は柑橘を口に運んだ。


 甘い。


 少し、苦い。


 甘味は米粉の薄焼きだった。


 小さく畳まれ、柔らかな乳酪と薔薇蜜が添えられている。重くない。指先で触れれば崩れそうな薄さだ。燭火の下で、深紅の蜜だけが淡く光った。


 それが置かれた時、食卓の会話が少し止まった。


 止めたのは料理ではない。


 ヒュウマだった。


 彼は甘味に手を伸ばさず、俺を見ていた。呼吸は乱れていない。怒りの呼吸ではない。問いを置く前に、相手が逃げられるよう道を残す呼吸だった。


「蒼凪さん」


 声は静かだった。


 俺は箸を置いた。


「何だ」


「ひとつ、聞いてもいいですか」


「ああ」


 ヒュウマは一度、エヴァ様を見た。


 次にアルフレッドとメリッサを見る。


 それから俺へ戻った。


「エヴァ様は、蒼凪さんを凪と呼びます」


 胸の奥で、何かが小さく止まった。


「アルフレッドさんたちも、昔から知っているみたいに話す」


「……そうだな」


「俺は、それをまだ聞いていません」


 責める声ではない。


 だから逃げ場がなかった。


 責められれば、言い訳を出せる。状況が状況だった。話す時間がなかった。優先順位があった。どれも事実だ。どれも、足りない。


 ヒュウマはただ、知らないと言った。


 知らされていなかった、と。


 俺は口を開きかけた。


「話していなかったか」


 言った瞬間、自分でも遅すぎると気づいた。


 エヴァ様が止まった。


 本当に止まった。


 金の瞳が俺を見る。次にヒュウマを見る。また俺へ戻る。


「……待て」


 エヴァ様はゆっくりと片手で顔を覆った。


「凪。お主、まさか」


「状況が状況で話す時間がなかった」


 言い訳は、口から出るとさらに弱かった。


 エヴァ様の指の隙間から、目だけが見えた。


「この朴念仁。二年連れ添って、まだ話しておらなんだか」


 ヒュウマが少しだけ瞬きをした。


 イーリスが初めて声を失った顔をする。ラウリは甘味を食べる手を止めた。メリッサは表情を変えない。だが空気だけが、記録に赤い封蝋を押したようになった。


「おいアルフレッド、聞いたか。ここまでくると芸術の域よ」


 アルフレッドは一度だけ瞼を伏せた。


「凪様らしゅうございますね。いえ、しかし流石にこれは……」


「アルフレッドまで」


「事実でございます」


「事実が多すぎる」


 メリッサが静かに言った。


「記録上、説明済みの項目ではございませんでしたか」


「記録にありません」


「では、未処理でございます」


 逃げ道がない。


 ヒュウマは困ったように俺を見ていた。怒っていない。傷ついた顔でもない。ただ、聞く準備をしている。その顔が一番重かった。


 薔薇蜜が灯を拾う。


 深紅の色が、器の上でゆっくり濃くなる。食卓の赤が全部こちらを向いたような気がした。


 エヴァ様は手を下ろした。


 笑っている。


 だが目の奥は、少しも笑っていなかった。


「妾は凪の後見人じゃ」


 その声が、甘味の上へ静かに落ちた。


「かつて、この屋敷はこの男を預かった」


 ヒュウマの視線が俺からエヴァ様へ移る。


「後見人」


「そうじゃ。お主が今見ている凪は、ここを出た後の凪じゃ」


 エヴァ様は話す中身を選んだ。


 選んでいる気配が声に出ていた。


「ここへ来た頃の凪は、今よりずっと面倒で、ずっと静かで、ずっと壊れやすかった」


「エヴァ様」


「詳細はここでは言わぬ」


 俺の制止より早かった。


「夕餉の卓で語る話ではない。甘味がまずくなる」


 透真は壁際で動かない。


 料理長として下がるべきか、次の茶を出すべきか。その判断をメリッサと目だけで交わしている。若いが、客の事情へ踏み込まない線を守っていた。


 ヒュウマは俺を見た。


「蒼凪さんが嫌なら、無理には聞きません」


「嫌ではない」


 思ったより早く答えていた。


「嫌ではない。ただ、話していなかった」


「はい」


「それは、俺の問題だ」


 口にすると、胸の包帯より内側が痛んだ。


 ヒュウマは頷いた。


「なら、聞きます」


 エヴァ様が杖を手に取った。


「夕餉の後、談話室へ来い。海守りの末裔よ」


 一度そこで切って、口元を上げる。


「お前に任せていたら千年ぐらいとうに過ぎそうであるからして、妾が直々に話をしてやろう。喜べ。魔女が契約以外で動くことなど、そうそうないぞ」


「エヴァ様」


「なんじゃ」


 俺はヒュウマを見た。


 それからイーリスとラウリを見る。


 イーリスは黙っていた。いつもの軽口を置かない。ラウリも食卓へ手を伏せている。二人とも、踏み込むかどうかを俺に預けている。


 俺は息を吸った。


 胸が少し鳴る。


「イーリスとラウリも、同席させてください」


 エヴァ様の目がわずかに細くなった。


「ほう」


「これから組む。俺だけ、話さないままにはしない」


 言いながら、遅いと胸が沈んだ。


 ヒュウマには遅すぎた。二年という時間があった。いくらでも話せたはずだ。それでも話していなかった。話すべき箱に入れたまま、開けずに運んでいた。


 だが、ここからは違う。


 イーリスは情報を小分けにする。ラウリは祖の歯を追う。ヒュウマは羅針盤の方角を持っている。俺だけが、自分の過去とこの屋敷の関係を伏せたまま同じ卓につくのは違う。


「俺の説明不足です」


 口に出すと、部屋が少し静かになった。


「その埋め合わせを、俺一人でできるとは思っていません」


 エヴァ様は俺を見ていた。


 しばらく何も言わなかった。


 沈黙の間、アルフレッドの銀鎖が一度だけ小さく鳴った。


「よい」


 エヴァ様は言った。


「語り部とシレリオ殿も来るがよい。ただし、これは見世物ではない。凪の恥でも、妾の昔語りでもない」


「承知しております」


 イーリスは深く礼をした。


 軽さがない。語り部ではなく、客としての礼だった。


 ラウリも頷いた。


「聞くなら、礼を持って聞く」


「それでよい」


 エヴァ様はヒュウマを見た。


「知らぬまま隣に立つのは、不憫じゃ。お主が聞く資格を得た、というより、凪が話す義務を怠った。だから妾が補う」


「ありがとうございます」


 ヒュウマは短く答えた。


 俺へ視線を戻す。


 責めない目だった。


 それが、やはり一番痛かった。


 食後茶が出た。


 香ばしい茶だった。東方の茶葉を焙じたものに近い。眠りを妨げない薄さで、湯気だけがしっかり立っている。口に含むと、米粉の甘さと蜜の香りが静かに流れた。


 透真は茶を置くと、深く礼をした。


「本日の膳は以上でございます。談話室には、後ほど白湯をお持ちします」


「酒ではないのか」


 エヴァ様が不満そうに言う。


「本日は白湯でございます」


「妾は怪我人ではない」


「奥様が酔われると、話が三倍長くなると伺っております」


 メリッサがわずかに目を伏せた。


 アルフレッドは瞼を下げる。


 エヴァ様は透真を睨んだ。睨んだだけだった。


「誰から聞いた」


 透真は礼を崩さない。


「厨房は先回りで成り立っております」


 エヴァ様は少しの間黙り、それから笑った。


「よい。今日は白湯で許す」


「ありがとうございます」


 透真は下がった。


──────────────────────────────


 扉が閉まる。


 食卓の器は空になっていた。焼いた皮の香りも粥の湯気も薄れていく。甘味の蜜も少しずつ遠ざかり、代わりに夜の庭の匂いが戻ってくる。


 深紅の布だけが、何もなくなった卓に残っていた。


 エヴァ様が席を立った。


「アルフレッド」


「承知いたしました」


 何を、とは言わない。


 アルフレッドはもう動いていた。談話室の火を入れに行くのだろう。黒い背中が扉の向こうへ消える。角の影が一瞬だけ壁を渡り、枝葉の影に紛れた。


 メリッサは茶器を整え、使用人たちへ静かに合図を送った。食卓が閉じられていく。器が下げられ、布が畳まれる。燭台の火が一本だけ低くされる。


 ヒュウマは茶を両手で持っていた。


 イーリスは目を伏せている。ラウリは背筋を伸ばし、食後の祈りのように短く黙っていた。


 俺は茶の湯気を見た。


 話していなかった。


 その事実は、粥よりずっと重い。


 だが今夜、開く。


 自分で開くのではない。エヴァ様の手を借りる。そこに情けなさはある。けれど、隠したままにするよりはましだ。


 ヒュウマへ先に話せなかった。


 それは消えない。


 消えないまま、次の部屋へ持っていくしかない。


 エヴァ様が扉の前で振り返った。


 金の瞳が、燭火の奥で静かに光っている。


「来い。凪」


 その呼び名に、ヒュウマの指が一度だけ止まった。


 俺は立ち上がる。


 胸の包帯が軋んだ。だが今は、その痛みの方が扱いやすい。位置がある。熱がある。手当ての手順もある。


 扱えないのは、口にする方だ。


「行くぞ」


 俺はヒュウマへ言った。


 それから、イーリスとラウリを見る。


「二人も」


「承りました」


 イーリスが答える。


「聞かせてもらう」


 ラウリが静かに言う。


 夕餉は終わった。


 談話室の火が、まだ見ていない昔のために入れられた。

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