閑話休題:斬って知る
侍者の手は朝の冷たさを残していた。
深紅のサッシュが俺の肩から腰へ落ちる。布は厚くて柔らかく、けれど金具に通される瞬間だけ硬い音を立てた。胸元では光神オルヴェリスの紋章が銀に光り、白い旅装の上で小さく揺れる。俺がまだ自分の目を覚ましきれていないうちに、勇者レオン・ソルの輪郭だけが先に整っていく。
鏡の中の男は髪の毛先に寝癖を残していた。侍者はそれも何も言わずに直した。襟を撫で、剣帯の角度を見て、サッシュの皺を指先で逃がす。その動きに迷いはない。俺自身よりも、彼らの方がこの姿の作り方を知っている。
「光神のご加護を、レオン様」
「ご加護を」
返事は喉の浅いところから出た。声が少し掠れていたので、俺は咳をひとつ噛み殺した。
窓の外は薄い水色にほどけていた。春先のアルカ・アウレアは朝だけがまだ冷える。白石の町並みの上に淡い霧が残り、その向こうに金庫塔の白い塔身が立っている。頂の金の聖印は、朝日を受ける前から自分で光っているように見えた。
塔の影の下に、聖オルヴェリス慈児院の屋根がある。
俺はそれを毎朝見る。
見ようとして見る日もあれば、見ないようにしても入ってくる日もある。今朝は後者だった。金の聖印。白い塔。低い屋根。洗濯紐の影。昔はあの屋根の下から空を見ていた。今はこの部屋から見下ろしている。
街の方では蝋燭工房の煙が細く上がっていた。蜜蝋の朝の匂いはここまで届かない。けれど鼻の奥にその甘さを思い出す。あれは祈りの匂いでもあり、作業場の匂いでもあり、手の荒れた大人たちの匂いでもあった。
侍者が一礼して下がった。
俺は剣帯に指をかける。聖剣の鞘は腰の左で静かだった。白銀の鞘。光神オルヴェリスの紋章を刻んだ柄。貸し与えられた重さは今日も同じ場所にある。俺の体はその重さに慣れている。
慣れていることと、自分のものだと感じることは、まだ同じではなかった。
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朝課は大聖堂脇の勝利祈願の間で行われる。
廊下へ出ると白石の床が冷えていた。革靴の底から冷たさが薄く伝わってくる。柱の間には銀燭台が並び、朝の光がまだ火の入っていない蝋燭の白さを拾っていた。高窓から落ちる光は細長く、床の赤い絨毯を縞に区切る。
歩くたびに絨毯がわずかに沈む。柔らかいのに、沈み方だけは重い。ここを歩く人間の名前と役目を、布がいちいち記憶しているようだった。
勝利祈願の間にカイがいた。
彼は祭壇前で少し横を向き、胸元の小さなロザリオに指を触れていた。金色の短髪はいつも通り整っている。白い神官服の襟には薄い金の刺繍があり、深い藍のサッシュが朝の光の中で静かに沈んで見えた。
「レオン」
俺を見る前に声だけが来た。昔からそうだ。カイは俺が部屋に入る前に気づく。扉の音や足音ではなく、たぶん俺の呼吸の荒さで分かるのだろう。
「カイ」
隣に立つと、俺の方が少し高い。けれど並んだ時の感覚は孤児院の頃とあまり変わらない。眠れない夜に隣の寝台から手を伸ばせば、カイの毛布の端があった。彼はいつも半分寝た声で起きて、俺の背をさすった。
「お疲れではありませんか、レオン。昨夜は遅くまで聖典を読んでおられたと伺いました」
「ああ。少しだけだ」
「少しだけの範囲が君は広いですね」
「昔よりは狭くなった」
カイは小さく笑った。祈願の間では声を立てない。目元だけが柔らかくなる。
「ご無理なさらず」
「分かってる」
「分かっている顔ではありませんね」
「顔まで見て言うな」
「見えますから」
それ以上は続かなかった。続けられる場所でもなかった。祭壇の前では、兄弟の話も神の息の下に置かれる。
朝課が始まる。
典礼の聖句が低く重なった。カイの声は他の神官より少し柔らかい。声量は強くないのに、耳の奥に届く。俺は覚えている語だけを口の中で追い、追えない部分は「光神のご加護を」に置き換えた。
祭壇の銀器が朝日に触れる。小さな反射が壁に走り、すぐ消える。
俺はその光を見た。見て、息を整えた。
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公開祈祷の日だった。
大聖堂の空気は朝課の間よりも濃い。香炉の煙が柱の上の方へ溜まり、金箔の柱頭に白く絡んでいる。蜜蝋の甘さ。香木の苦さ。磨いた銀器の冷たい匂い。人が多い日の大聖堂には、祈りだけではない匂いが混じる。
身廊は長い。
白大理石の柱が列を作り、黒大理石の縁取りが床の線を締めている。歴代教皇の像は高い位置から信徒を見下ろす。ステンドグラスは金と乳白が多く、朝日を受けると祭壇が内側から灯ったように見える。
初めてここに立った日、俺は本当に息を忘れた。
今も最初の一瞬だけは同じだ。胸の内側が持ち上がる。これほどの場所で祈れるなら、人は光の道を信じられるのだと思う。そう思いたいのだと、同時に気づく。
俺は祭壇左前に立つ。
聖剣の柄に右手を置く。信徒から見える角度。白銀の鞘が隠れない位置。深紅のサッシュが胸を斜めに横切る姿勢。足の幅。顎の高さ。全部に意味がある。
前列には大口寄進者と貴族が座る。椅子の彫刻は細かく、膝置きには絹が張られている。中央の長椅子に一般信徒。左右の翼廊に巡礼団と孤児院関係者と下級聖職者。子どもの小さな咳が一度響き、すぐ誰かの袖に吸われた。
後方上階の格子席だけは暗い。
格子の影が顔を割る。そこには贖罪奉仕者と債務者家族が座る。「祈りに参加している」と扱われる人たちだ。確かに声はある。衣擦れ。抑えた咳。子どもが椅子の木を爪で掻く音。
顔は見えない。
俺は毎回そこを視界に入れる。入れるが、長く見ない。長く見れば何かが始まる気がする。何が始まるのかは、まだ言葉にならない。
祭壇で大司教の声が響いた。
「光は秩序を生み、秩序は魂を救う」
唱和が重なる。大聖堂の高い天井が声を受けて、遅れて返す。俺は剣帯の金具に指を触れた。金属は朝より温かい。人の熱と香炉の熱が、聖堂を少しずつ満たしていた。
カイの《光神の祈り》が薄く広がっている。目には見えない。けれど祭壇近くの空気だけが柔らかくなる。皮膚の表面に温い水が触れるような感覚がある。
信徒列の中ほどに、喪服の男がいた。
黒い服は古く、肘のあたりに擦れが見えた。胸元には古い従士章。金具の色は鈍い。男は頭を下げている。聖句を唱えているのかどうかは分からない。口元は動いていた。
俺は見た。
見ただけで終えた。
祈祷の場で一人の信徒を長く見る理由はない。そう判断した。そう判断したことを、すぐ忘れた。
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祈祷が終わると人の流れは決められた形に戻る。
大口寄進者と貴族は前方から案内される。一般信徒は中央通路を進み、巡礼団と下級聖職者は翼廊へ流れる。後方上階の人々は最後だ。彼らは中央通路を通らない。脇の階段を降り、別の扉から出ていく。
決まりは滑らかだった。
滑らかすぎて、誰がどこから出たのかを気にする人は少ない。
俺は祭壇脇の控えの間に入った。香炉の煙の濃さが急に薄くなる。額の生え際に汗が残っていた。聖剣の柄から手を離すと、掌に金具の形が少し残っている。
小さく息を吐いたところで、中堅の神官が入ってきた。
「レオン様、上層へお越し願えますか。副司教ベルトラン・セーヴ様が、本日の公開祈祷後の打ち合わせを所望されております」
「ああ」
声は短く出た。
ベルトラン・セーヴの顔はすぐ浮かんだ。奉仕監督局の副司教。丸みのある頬と穏やかな目を持つ実務家。聖騎士団との合同案件で何度か顔を合わせた時、彼は俺を「勇者殿」と呼んだ。呼び方に棘はなかった。
俺は神官の後について本堂奥へ向かう。
途中の廊下で若い下働きが膝をついていた。白大理石の上に蜜蝋がこぼれ、半ば固まっている。少年は薄い布で押さえながら、爪先で少しずつ剥がしていた。指の節が赤い。袖は短く、手首だけが寒そうに見える。
人々は少年を避けて通る。
避ける動きは上手かった。誰もぶつからない。誰も足を止めない。白い床にできた小さな汚れだけが問題で、そこに膝をつく身体は視界の外へ押しやられている。
俺は足を止めかけた。
「レオン様」
案内の神官が振り返る。咎める声ではない。予定を思い出させる声だった。
俺は前を向いた。
少年の布が大理石を擦る音が、背中の方へ小さく残る。白い蝋は光を受けて、祈祷の蝋燭と同じ匂いを出していた。
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副司教扉の奥が金箔の回廊だった。
ここは何度か通ったことがある。大聖堂の奥から上層居室区画へ続く長い連絡廊だ。緩い弧を描き、入口から中ほどまでは見通せる。幅は三メートル弱。人がすれ違うには十分で、逃げ場には足りない。
壁は漆喰の上に金箔を貼っている。腰壁は黒大理石。床は白大理石で、灰色の脈が斜めに走る。中央には赤い絨毯。左右には銀燭台。光が多すぎる場所なのに、燭台の足元だけは影が濃い。
寄進者の肖像画が壁に並ぶ。額縁には鎖文様の意匠が絡んでいる。絵の中の顔はどれもこちらを見ていない。見ているように描かれているが、実際にはどこか遠くの帳簿を見ているような顔だ。
額縁の中ほどの一枚に銀字の銘文があった。
「誓約は光より長く残る」
俺は歩きながら読んだ。
昨日までなら、ただ美しい言葉として胸に入ったはずだ。今朝もその時点ではそうだった。光の下で交わした約束は光が沈んでも残る。俺たちはそう教えられてきた。子どもの頃も、旅に出る前も、聖剣を受けた日も。
副司教ベルトラン・セーヴは回廊の中ほどを歩いていた。
俺より先に副司教扉を抜けていたらしい。深紅と濃紺の祭服。胸元の銀の十字架。歩幅は一定で、足音は赤い絨毯に吸われている。彼は俺が後ろにいることを知っているはずだった。振り返らないのは、上層の人間に許された落ち着きなのだろう。
俺は十メートルほど後ろを歩く。
左手の窓から金庫塔が見えた。白い塔身と黒の縦線。頂には金の聖印。教皇領のどこからでも見える塔だ。商人が「あそこに首都の借金が積まれている」と笑っていたのを聞いたことがある。冗談の顔だったので、俺も冗談として受け取った。
赤い絨毯の一段先で、人影が滑り出た。
肖像画の脇からだった。
喪服。
朝の身廊にいた男。
俺がその事実を掴むより早く、男の右肩が動いた。
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ベルトランが振り返った。
「何のご用で」
声は穏やかだった。困惑はある。恐怖はまだない。襲われる前の人間の声だ。
喪服の男の右手には短剣があった。左手にももう一本。袖の中から折れた金属のようなものが覗く。男の指が柄を押し出すと、折り畳み式の刺突剣が一息で伸びた。
俺の右手が剣帯に落ちる。
その時にはもう、男はベルトランの前に立っていた。
「お返しください」
声は低く乾いていた。喉の奥で石が擦れるような声だった。
「弟の名は番号ではありません」
ベルトランが一歩下がろうとした。
男の右手が動く。短剣が副司教の腹へ入った。深く一度。迷いがなかった。刃を入れる場所を知っている腕だった。殺すための距離を測り慣れた腕だった。
ベルトランの口から白い息が漏れた。声にはならない。胸元の十字架が一度跳ね、祭服の濃紺が腹の前から黒く染まる。
「ベルトラン様!」
回廊の奥の扉が開き、若い修道士が走り込んできた。年は俺より下だ。頬にまだ少年の丸みがある。彼は考えるより先に動いていた。人が倒れるのを見て、止めに入っただけだった。
喪服の男の左手が返る。
短剣が修道士の喉の側面を裂いた。
若い身体が前のめりに止まる。目が大きく開き、口が何かを言おうとした。血が先に出た。膝が落ちる。白い襟。赤い絨毯の縁。白大理石の床。そこに赤が別々の速さで広がる。
俺は踏み込んでいた。
考えは遅れて来た。
止める。
それだけだった。
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聖剣を抜く動きは身体に刻まれている。
右手が柄を掴む。左手が鞘を押さえる。白銀の剣身が斜めに上がり、朝の光を拾う。刃にはまだ光がない。けれど重みは知っている。間合いも知っている。人を止めるために必要な距離も知っている。
俺は男の右手の短剣を聖剣の腹で弾いた。
短剣が飛び、金箔の壁に当たった。金属音は軽かった。驚くほど軽い音だった。
男はすでに残った武器を構え直していた。息が乱れていない。喪服の裾が絨毯を撫でる。彼の足は燭台の影へ沈んだ。
「Lævateinn ── 《暁光 / Dawn Light》」
真名が舌を通る。
聖剣の刃に薄い光が纏う。大聖堂の祭壇に満ちる光とは違う。もっと狭く、もっと鋭い。刃の縁だけが白くなる。握った手の骨まで熱が届く。強くはない。けれど、人を斬るには十分だった。
男の刺突剣が伸びる。
軌道は奇妙だった。まっすぐではない。右の銀燭台の脚を隠れに使い、肖像画の下の小扉に背を預ける角度で来る。回廊の監視線を避ける動き。聖騎士が駆け込む方向を見越した位置取り。
男の腕は、警備導線を知っていた。
一瞬だけ、その違和感が胸を打つ。こいつはただの信徒ではない。ここで誰がどこに立つかを知っている。燭台の影の濃さも、赤い絨毯の沈みも、窓からの逆光も知っている。
しかし、考える時間はなかった。
刺突剣が俺の脇を狙う。俺は左足で絨毯を踏み潰し、身体ごと前へ入る。聖剣の光が男の頬を照らした。乾いた目がこちらを見ている。見ているのに、俺を通して別の誰かへ手を伸ばしている。
俺は斬った。
刃は肩口から胸へ入った。
斜めに深く。
止めるための一撃だった。生け捕りにする余白はなかった。若い修道士の血がまだ床を叩いていた。その音が耳の奥で鳴っていた。
折り畳み式の刺突剣が男の右手から落ちる。白大理石で一度跳ね、絨毯の縁に乗って止まった。
男は膝を折らなかった。
立ったまま俺を見た。口元が動く。息が血を含み、言葉が形を失いながら出る。
「灰塩谷」
それから。
「移管」
それから。
「弟を返せ」
三つだけだった。全部が刃の上で切れていた。
男の身体が後ろへ傾く。聖剣の刃に支えられていたものが外れたように、力が抜ける。膝が落ちる。喪服の袖から白い紙がひとひらこぼれた。
紙は血の近くへ落ちた。
薄い。折り畳まれた。何度も開かれた跡がある。
男は絨毯の中央で横倒しになった。目は開いていた。
俺はその目を見た。
乾ききった目だった。怒りだけでは届かない場所まで行ってしまった目だった。悲しみだけでも足りない。何かを待ち続けて、待つ場所を失った目。
やがてその目も動かなくなった。
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俺は聖剣を引き戻した。
刃に血が乗っている。深い赤が白銀の縁に細く走った。指先に肉を断った感触がまだ残る。骨に触れた硬さ。布を裂いた軽さ。息を断ち切る最後の抵抗。
けれど血はすぐ消えた。
刃の上の赤は薄まり、白銀が戻る。何もなかったように光を返す。俺は瞬きを忘れた。
聖剣の刃は綺麗だった。
今しがた人の胸を割った刃が、祈祷前の銀器のように綺麗だった。
俺は回廊を見た。
金箔の壁には血の飛沫が赤い形のまま貼り付いている。金箔は吸わない。拒むように弾き、色をそのまま押し返していた。赤は赤のまま輝きに乗っていた。
赤い絨毯は違った。そこでは血が黒く沈む。布の奥へ、糸の間へ、昨日からそこにあった影のように入っていく。足元に近い血ほど重く暗い。
白大理石の床では、血は鮮やかに弾けていた。玉になり、筋になり、灰色の脈の上を走る。冷たい石は血を自分の中に入れない。表面に置いたまま見せ続ける。
金箔の壁は弾く。
絨毯は黒く沈む。
大理石は鮮やかに弾ける。
聖剣の刃だけは綺麗。
その違いが目の奥に焼けた。戦いの長さはたぶん一分にも満たない。けれど血の行き先だけが、やけに長い時間を持っていた。
聖剣の刃より、壁の方が、血を、覚えている。
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聖騎士が二人、回廊の奥から駆け込んできた。
一人はベルトランの側へ膝をつき、もう一人は若い修道士の首元に手を当てた。どちらもすぐに動きが止まった。祈りの前に、確認の沈黙が落ちる。
ベルトランの腹からの血はもう弱い。止まったのではない。流す力が身体から失われたのだ。俺はそれを見て分かった。
副司教は死んでいた。
若い修道士も動かなかった。白い襟の赤だけがまだ広がる。彼の右手は床を掴む形で固まっていた。何かを止めようとした手だ。
俺は聖剣を鞘に戻した。
刃と鞘が擦れる音が回廊に伸びる。小さな音なのに、金箔の壁と大理石の床に触れて戻ってくる。耳の後ろに残る音だった。
「カイ・グレイス神官をお呼びしました」
聖騎士が告げた。
俺は頷いた。
返事が声にならなかった。
廊下の奥から執行官が現れた。
黒革手袋。胸元の銀の天秤徽章。腰の片手剣。封印箱の銀の鎖飾り。聖印執行官。Exactores Sigilli。彼らはいつも名前より先に徽章で現れる。
執行官は三人の身体を順に見た。副司教。若い修道士。喪服の男。視線の速さは一定で、悲しみも驚きも挟まらない。仕事の順番を確認する目だった。
「本日は、慈悲の執行に参りました」
丁寧な声だった。
丁寧だから冷たかった。
聖騎士が状況を報告し始める。俺はそれを聞いていた。聞きながら、右手がまだ聖剣の柄に置かれていることに気づく。指が硬い。外そうとしてもすぐに離れない。
俺はゆっくり手を離した。
一拍、遅れた。
その遅れを執行官が見たかどうかは分からない。
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カイが来たのは数分後だった。
足音は速かった。けれど回廊に入る直前で整えたのが分かる。カイは駆け込まない。遺体の前では、どれだけ急いでいても足を止める。
彼はベルトラン副司教の前に膝をついた。胸元のロザリオを外し、両手で包む。横顔は白かった。けれど声は崩れなかった。
「Requiem Aeternam ── 《鎮魂の祈り / Requiem Prayer》」
いつもより低い声だった。
光が薄く広がる。温かいというより、冷えた身体に布を掛けるような光だった。カイの祈りは死を戻さない。けれど死者が放り出されたままにならないように、そっと床を作る。
聖句が終わる。
カイは立ち上がり、絨毯の縁へ向かった。若い修道士の前に膝をつく。彼の喉元は布で押さえられていた。布の端から赤が滲む。カイはそこから目を逸らさなかった。
同じ祈りを捧げた。
そして、もう一度立ち上がる。
絨毯の中央へ進む。
喪服の男の身体の前で、カイは膝をついた。
俺は息を止めた。
カイは男の前でもロザリオを両手で握った。ベルトランの時と同じ。若い修道士の時と同じ。少しも形を変えなかった。
祈りが三度目に回廊を満たす。
金箔の壁に残った血が光を受けた。黒く沈んだ絨毯の上にも光が落ちる。白大理石の赤い点にも光が触れる。カイはその全部を分けなかった。
「光神のご加護を、いずれの魂にも」
低い声だった。
俺はその瞬間、少しだけ息を吸えた。
カイはベルトランを祈った。若い修道士を祈った。喪服の男も祈った。彼の中では死者は死者で、魂は魂だった。誰が誰を刺したのかという順番は、祈りの前では後ろへ下がる。
俺はそれに救われかけた。
救われかけて、絨毯の上の白い紙を見た。
男の袖からこぼれた紙だ。折り目の角が血に触れかけている。そこだけ白いまま残っているのが、逆に目に痛かった。
カイが立ち上がる。
彼は喪服の男をもう一度見下ろした。悲しみが顔に出ていた。責める顔ではない。怒る顔でもない。ただ、苦しんだ人を見ている顔だった。
「苦しかったのでしょう」
俺は応えた。
「人を刺した」
声は短い。自分のものに聞こえなかった。
カイは俺を見た。
何か言いかけたかもしれない。けれど言わなかった。彼は返さないことを選んだ。その選び方が、いつもの優しさよりも静かに重かった。
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執行官が喪服の男の前にしゃがんだ。
動きに無駄がない。膝をつく角度も、手袋を汚さない位置も、すでに身体が知っている。彼は袖から落ちた白い紙を拾い、小さな紙挟みに収めた。銀の天秤徽章の脇から取り出した道具だった。
「お預かりいたします」
誰に向けた言葉か分からない。
彼は男の懐へ手を入れた。遺体に触れる手つきは丁寧だが、そこにためらいはない。古い従士章。寄進証の束。折り畳まれた紙。小さな袋。ひとつずつ取り出していく。
紙の一枚が手の中で少し開いた。
俺の視界に一行だけ入る。
「Vallis Salis」
古い綴りの字は黒く細かった。
執行官はすぐ畳んだ。紙挟みに押し込む。押し込む動作も静かで、紙の角を傷めない。仕事としては正しい。
「奉仕監督局へお届けいたします」
最後まで丁寧だった。
俺は彼の手を見ていた。
執行官は男の身体から、さらに小さな金属を取り出した。手袋の中で軽く鳴る。鍵のようだった。掌に隠れるほど小さい。古く、縁だけが擦れている。
それを紙挟みには入れなかった。
黒革手袋の別のポケットへ、直接入れた。
一瞬の動きだった。聖騎士は見ていなかった。カイは祈りの後で目を伏せていた。俺は見た。見てしまった。
口にはしなかった。
言うべき言葉がまだ見つからなかったからではない。たぶん、見つける前に回廊の空気がそれを許さなかった。
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高位聖職者が回廊の奥から入ってきた。
頭巾を深く被った長い祭服の人物だった。年齢は分からない。顔も分からない。声だけが、絹の内側から出てくるように穏やかだった。
「ご苦労だった。勇者殿」
俺は背筋を伸ばした。
「ベルトラン副司教は、私の信頼する実務官の一人だった。光神のご加護のもとで、彼の魂が安らかであることを祈ろう」
「ご加護を」
それだけが出た。
高位聖職者は若い修道士の方へ少し顔を向けた。
「修道士の名は後ほど、お伺いいたします」
俺は頷いた。彼の名前を知らないことが、その瞬間に胸へ来た。あの若い身体は俺より先に動き、俺の前で倒れた。俺は名前を知らない。
「勇者殿」
呼ばれて顔を上げる。
「今は休まれよ。必要な記録は聖騎士団と執行官が整える」
整える。
その言葉が耳の奥に残った。回廊はもう整えられ始めている。遺体の位置。証拠の紙。血の布。報告の順番。すべてが役目を持って片づいていく。
俺の口が動いた。
応えは一拍遅れた。
「俺たちの役目です」
高位聖職者は頭巾の影で頷いた。
「お疲れであろう。今宵はお休みなさい」
彼は回廊の奥へ戻っていった。
背中はゆっくりだった。回廊の血の匂いの中で、その歩調だけが何も変わらなかった。
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夕方の勇者寮へ戻った。
部屋はいつものように暖かい。白い寝台。磨かれた甲冑台。聖剣用の架台。来客用の椅子。個人礼拝台。壁の光神オルヴェリスの紋章。机の上には聖典。窓辺には乾ききらない手袋が一組置かれている。
整っていた。
整いすぎていた。
俺は聖剣を架台に置いた。置くとき、白銀の鞘が木に触れて低い音を立てる。その音を聞いてから、従者が入ってきた。
「お磨きいたします」
「ああ」
従者は白い布を刃に当てた。刃はほとんど汚れていない。布は滑る。もう一度滑る。角度を変えて滑る。布は白いままだった。
俺はそれを見ていた。
従者の仕事は丁寧だった。聖剣はいつも清められる。旅の埃も、訓練の汗も、血も、儀式の後の香の粒子も。何も残してはいけないものとして扱われる。
刃はすぐに光を返した。
俺は剣帯を外そうとした。サッシュの金具に指が触れる。金属は昼の熱を残していた。
そこで手が止まる。
回廊で柄から手を離すのが遅れた時と同じ遅れだった。筋肉が命令を聞かないのではない。命令を出すものが一瞬だけ沈んだ。
何かを言いかけた。
出たのは定型句だった。
「光神のご加護を」
その先が続かない。
従者は何も言わず、磨きを続けた。彼は気づいたかもしれない。気づかなかったかもしれない。勇者の沈黙に触れないことも、彼の仕事の一つなのだろう。
俺は剣帯を外した。
革の重みが掌に乗る。いつもの重さだ。サッシュを外し、椅子の背に掛ける。深紅の布は流れるように垂れた。革鎧を外す。胸元の銀の紋章金具が机に置かれる。白い旅装の上着を脱ぐ。
白いシャツと黒い旅着の下衣だけになると、急に身体が軽い。
軽いのに、胸の中心だけが重かった。
寝台に腰を下ろす。白いシーツは毎日替えられている。匂いがない。孤児院の大部屋にはいろいろな匂いがあった。洗いきれない布。湿った木。誰かの熱。夜泣きの後の涙。
比べかけて、やめた。
比べると何かが口から出そうだった。
窓の外に金庫塔が立っている。夜の薄明の中で白い塔身は青く沈み、頂の金の聖印だけが薄く残る。塔の影の下に、聖オルヴェリス慈児院の屋根が見えた。
俺は祈ろうとした。
「光神のご加護を」
最初だけ出る。
続きは出ない。
もう一度試しても同じだった。口の中で言葉が止まる。喉が閉じるわけではない。信じていないわけでもない。ただ、続きの形だけが霧に入ったように見えなくなる。
俺は両手を膝に置いた。
手の甲に薄い傷がある。孤児院の角を曲がりそこねた時の傷だ。走って転び、木箱の角で裂いた。カイが布を巻いてくれた。あの時のカイは今よりずっと小さかったのに、手つきだけは今と同じだった。
廊下に足音がした。
カイの足音だ。
扉の前で止まる。
「レオン」
低い声が入ってくる。
「お疲れ様でした」
俺は応えた。
「ああ」
それだけだった。
扉の向こうでカイはしばらく立っていた。ノックはしなかった。入ってもこなかった。俺が開ければ入っただろう。開けなければ待って、去る。
足音が隣室へ戻る。
俺は寝台の縁に座ったままだった。
聖剣の架台を見る。白銀の刃は月明かりのような薄さで立っている。回廊の血はもうそこにない。さっきまで人の胸の中にあった赤は、刃のどこにも残っていない。
刃は綺麗だった。
俺はそれを見てから横になった。
眠りは遠かった。
──────────────────────────────
翌朝、俺は上層居室区画へ呼ばれた。
ベルトラン副司教の居室で遺品整理に立ち会うためだ。勇者として。また事件の当事者として。神官はそう告げた。言い方は正しく、角がなかった。
白い旅装に袖を通す。深紅のサッシュを締め直す。聖剣を腰の左に帯びる。昨日と同じ順番で、昨日と同じ姿が作られていく。侍者の手は今日も迷わない。
本堂奥の副司教扉を抜け、金箔の回廊に入った。
血の痕はなかった。
金箔の壁は拭われていた。絨毯は新しいものに替わっている。赤は昨日より少し明るい。昨日の赤を知らなければ、ただ上等な赤だと思っただろう。
白大理石には光沢が戻っていた。若い修道士が膝をついた場所も、男が倒れた場所も、ベルトランが息を落とした場所も、もう線で示されていない。
回廊は昨日のことを忘れた顔をしていた。
俺は中ほどで足を緩めた。
銀字の銘文がある。
「誓約は光より長く残る」
もう一度読んだ。
昨日の朝は美しい言葉だと思った。今朝は文字として目に入った。銀の線。金箔の壁。鎖文様の額縁。意味は遅れてくるはずだった。
来なかった。
俺はただ読んだ。
読んだだけで通り過ぎた。
何も思わなかったことに、廊下を抜けてから気づいた。
──────────────────────────────
副司教の居室は上層居室区画の南側にあった。
扉を開けると、深緑の絹のカーテンが目に入る。朝の光を吸って、布の表面がぬるく光っていた。床には厚い絨毯。壁には金の縁取り。香炉の残り香が薄く漂っている。豪奢だが、どこか息苦しい。
黒檀の机は重かった。脚には細かい彫刻があり、獣の爪の形で床を掴んでいる。机の上には印章台が置かれている。そこだけが異様に磨かれていた。何度も使われた場所だけが光る。
銀器棚が壁際にある。杯、皿、手水鉢。どれも上質で、どれも使う人間の顔より物の顔が強い。その隣に帳簿棚があった。背表紙の革は黒と茶に分けられ、月ごとの札が差してある。銀器と帳簿が同じ部屋で同じ重さを持っていた。
椅子の背には金糸の刺繍。座る者の背より派手な背だった。
俺はその椅子の脇に立った。
壁に地図が貼られている。
奉仕監督局の管轄地図だ。色分けされた土地に細い線が走り、各奉仕場の名が古い綴りで書かれている。地図の脇には小さな板。そこには古い綴りと現地通称が並び、右側に数字が書かれていた。収支板だ。
数字の列はきれいだった。きれいに揃っているほど、胸の中が冷えた。
地図の中に灰塩谷の名があった。
「Vallis Salis」
括弧の中に小さく書かれている。
「灰塩谷」
その右に数字がある。月の半ばで少し減っている。欄外に走り書きがあった。監督官の手だろう。墨はまだ新しそうに見える。
最初に目に入った語は「奉仕不能 11」だった。
十一。
数字は人の数だ。
その事実だけが、腹の奥に冷たく入った。名前ではない。顔でもない。十一。墨の線。板の上の小さな記号。
カーテンの絹が朝風で揺れる。
その揺れだけが部屋の中で生きていた。
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机の上にユリオ・カッサの遺品が並んでいた。
昨日の喪服の男に名前が付いた。ユリオ・カッサ。名を見た瞬間、回廊の乾いた目がもう一度浮かぶ。名前は人を戻さない。けれど番号よりは重い。
短剣が二本。折り畳み式の刺突剣。古い従士章。寄進証の束。紙挟みに収められた書類。どれも机の上で距離を置かれている。昨日は男の懐にあったものが、今は証拠として並ぶ。
俺は白い紙を見た。
訴状だった。
宛先は奉仕監督局。差出人はユリオ・カッサ。日付は半年前。紙には何度も折られた跡がある。端は少し黒ずみ、指で擦れた部分だけ薄くなっている。
俺は本文を追った。
妻の死。
教会本部南郊の蝋燭工房で贖罪奉仕中に肺を病んで死亡。妊娠中で肺が弱いことは入所前に申告済み。労務軽減の願い。返答なし。死亡後の処理。寄進証の相殺。
字は整っていた。怒りに任せた字ではない。何度も書き直した人間の字だ。乱れそうになる線を押さえて、最後まで読ませるための字だった。
次に弟。
二年前、灰塩谷の採石奉仕場に移管。それ以来、所在不明。面会願い。返書なし。奉仕者番号のみ通知。家族名の記載なし。
訴状の末尾に署名がある。
ユリオ・カッサ。
その上から教会側の朱書きが押されていた。
「記録上不備なし」
それだけだった。
俺は読んだ。
赤い朱が目に残る。字は太く、迷いがない。押した者の手の熱はもうない。ただ判断だけが残る。机の黒檀の上で、その朱はやけに新鮮だった。
訴状の脇に奉仕者の写しがある。
表には番号が並ぶ。番号の右に簡素な処分欄。名前の欄は空白ではない。そもそも欄がない。そこにあるのは番号と記号と処分だけだった。
ユリオの弟の名前はない。
番号だけがある。
右の処分欄に一語。
「奉仕不能」
その下の行には妻の番号。そこにも同じ語がある。
「奉仕不能」
同じ語が二つ並ぶと、別々の人生が同じ穴へ落ちたように見えた。
紙の端が少しめくれている。重なった別の紙片が下に見えた。そこに「移管」の字があった。さらに下の細い欄には「未清算」。端の押印の横に「監査待ち」。全文ではない。紙と紙の隙間から覗く断片だけだ。
「奉仕不能」
「移管」
「未清算」
「監査待ち」
俺はその語を目で追った。
追いながら、何も思わないふりをした。思えば剣帯の金具に手が行く。思えば声が荒れる。ここで声を荒げても何も変わらない。何も変わらないという言葉も、口の中で止めた。
小さく息を吐く。
口から出たのは三音だった。
「結審、と」
朱書きの横で、その言葉だけが乾いた。
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帳簿管理局の写字生が入ってきた。
若い男だった。腕に銀の鎖付きの台を抱えている。目線は机の上だけを見て、俺の顔には上げない。彼にとって俺は立会人で、遺品は移すべき物だ。
「お預かりいたします」
写字生は短剣から順に台へ移した。鎖が小さく鳴る。金属の音は部屋の絹や絨毯の中で浮いた。折り畳み式の刺突剣は留め具を確認してから置かれた。古い従士章は布片に包まれた。
執行官も入ってきた。
昨日の黒革手袋。銀の天秤徽章。腰の片手剣。動きは昨日と同じだった。礼をして、机へ近づく。顔には疲れも苛立ちもない。
彼は寄進証の束を片手で取った。
手つきは仕事としては速い。けれど紙の束が机の縁に当たり、軽く滑った。束の角が黒檀を擦る。ユリオが何度も折った訴状のすぐ脇で、寄進証の束がぞんざいに傾いた。
俺の右手が剣帯の金具に触れた。
金具が鳴った。
小さな音だったが、部屋の全員が聞いた。
俺は口を開いた。
「丁寧に」
声は低かった。
荒げてはいない。
出るまでに一拍遅れた。その一拍の間に、俺は拳を握っていた。握った指をほどいてから声にした。それでも金具は鳴った。
執行官の手が止まる。
彼は俺を見た。
「失礼いたしました、勇者殿」
丁寧な返答だった。
彼は寄進証の束を机の中央に置き直した。紙の角を揃え、訴状から少し離す。動きは完璧になった。完璧だからこそ、さっきの雑さが余計に残った。
俺は剣帯から指を離した。
手のひらに金具の跡がある。
誰もそれ以上は何も言わなかった。
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慈餐の間の昼食に着いた。
俺の席は上座から三番目。客人席より上で、司教たちの視線が届く場所。勇者の席として与えられた位置だ。座る場所にも意味がある。食べる姿も、黙る時間も、杯を置く角度も見られる。
カイはテーブル二つ分離れた中段の席にいた。神官級の席だ。俺たちは目だけで合図した。
カイの目が「大丈夫ですか」と問う。
俺は頷いた。
その頷きで十分だと彼は受け取った。十分ではないことも、たぶん分かっていた。
司教の一人が葬儀の段取りを話した。ベルトラン副司教の功績。列席者。聖歌隊。埋葬の時刻。俺は頷きながら聞いた。銀の杯を手の中で少し回す。葡萄酒は南方産で深い色をしている。回すと縁に赤い跡が残り、ゆっくり下へ落ちる。
肉の煮込みが運ばれてきた。
皿は銀。卓は磨き木。下働きの足音はほとんどしない。皿を置く音すら布に吸われる。熱い湯気が立ち、香辛料の匂いが腹を刺激した。俺は空腹だった。空腹であることに少し驚いた。
食事の途中、壁の肖像画を二度見た。
金箔の額縁。鎖文様。どの顔も同じように厳かで、同じように遠い。昨日の回廊の額縁を思い出す。血を弾いた壁の金。赤をそのまま押し返した金。
カイが俺の席の脇を通った。
足を止めなかった。給仕の動線に紛れるように、低く言う。
「記録に不備があったのかも、しれません」
俺は杯を置いた。
「不備」
一語だけ返す。
カイは頷かなかった。言い足しもしなかった。そのまま奥の席へ戻っていく。白い神官服の背中はまっすぐだった。
カイの善意は間違っていない。
彼は本気でそう思っている。何かの間違いがあったのだと。記録が正されれば、人の苦しみも正しい場所へ返されるのだと。彼はそのように祈る。祈れる。
だから、その言葉が軽く聞こえてしまったことを、俺は口にしなかった。
口にすれば、カイの祈りを傷つける気がした。
肉の皿から湯気が上がる。
俺はそれを見て、少し遅れて一口食べた。
味はした。
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午後、俺とカイは教皇庁中枢から呼ばれた。
聖印橋を渡る。橋の下には中庭があり、白い砂利が均されている。踏まれない場所の砂利はいつも整っている。橋の欄干には光神オルヴェリスの紋章。風は冷たく、春先の乾いた匂いがした。
上層居室区画のさらに奥。教皇庁の入口近くに小さな謁見室がある。大広間ではない。声を外へ漏らさないための部屋だ。壁は厚く、窓は高い。光は細い。
高位聖職者が奥の椅子に座っていた。
昨日、回廊で俺を労った頭巾の人物だ。顔はやはり見えない。祭服の布は重そうだが、座る姿勢には沈みがない。
「灰塩谷街道で、盗賊団が巡礼者を襲っているという報せがあった」
声は穏やかだった。
灰塩谷。
その二音が部屋に入った瞬間、胸の下が小さく動いた。サッシュの結び目の奥。昨日から硬くなっていた場所が、指で押されたように反応する。
俺は顔に出さなかった。
「巡礼路の安全確保、寄進物輸送路の回復、地方教会の救援。三つの目的だ。聖騎士団から、六人。神官としてカイ・グレイス殿。勇者としてレオン・ソル殿」
聞いている。
聞きながら、昨日の地図を思い出す。Vallis Salis。灰塩谷。収支板の数字。奉仕不能。訴状の弟。ユリオ・カッサの乾いた目。回廊で途切れた三つの言葉。
すべてが同じ場所へ細い線で繋がる。
線は見える。けれど何を描いているのかは、まだ分からない。
「光神のご加護のあらんことを、勇者殿」
高位聖職者が告げた。
俺は応える。
「俺たちの役目です」
また一拍遅れた。
「秩序を守ることが汝の役目である。汝はそれをよく果たしている。これからも、よく果たすであろう」
穏やかな声だった。
褒められているのだろう。励まされているのだろう。昨日、俺は人を斬った。今日は派遣を受ける。秩序を守る。その言葉の中に昨日の刃も、明日の街道も入れられていく。
俺は頷いた。
カイも隣で丁寧に礼をした。彼の所作は清潔だった。疑いの影がない。その清潔さが今は少し眩しい。
謁見室を出る。
廊下の空気は少し冷たかった。外の光が遠くに見える。
カイが隣で言う。
「明日の朝、出発ですね」
「ああ」
それだけ返す。
カイは何も知らない。
灰塩谷という二音が昨日の遺品の中にあったこと。ユリオの訴状にあったこと。地図と収支板に並んでいたこと。執行官が畳んだ紙の一行にVallis Salisがあったこと。
俺は言わなかった。
告げないことを選んだ。
今言えば、カイは祈るだろう。悲しむだろう。何かの不備を探すだろう。俺はその顔を見る準備ができていなかった。
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出発前夜、勇者寮へ戻った。
馬車と装備の確認は夕方のうちに済んでいる。明日の朝、聖印門の前に馬車が二台。聖騎士団が六人。カイの医療袋。俺の旅装。聖剣。すべて手筈通りに並ぶ。
部屋は静かだった。
俺は聖剣を架台から外し、卓の上に置いた。従者には今夜は自分で手入れをすると伝えてある。彼は短く礼をして下がった。扉が閉まると、部屋の空気が少し広くなる。
白い布を取る。
自分の手で刃に当てた。
布は滑る。
刃はすでに綺麗だった。どれだけ拭いても布は白い。刃の縁には曇りもない。昨日の肉の感触も、血の温度も、断ち切った息も、どこにも残っていない。
俺は刃を角度を変えて見た。
聖剣の刃は綺麗だった。
綺麗すぎるほどに。
手袋を外す。
革の内側に薄く血が染みていた。人差し指の根元あたりに小さな点。昨日、柄を握った時に入り込んだのだろう。外側ではなく内側だった。誰にも見えない場所に、血は残っていた。
俺はその点を見た。
聖剣には残らない。
手袋には残る。
金箔の壁にも残った。絨毯にも沈んだ。大理石にも弾けた。人の手が触れる革の内側にだけ、小さく残るものもある。
手袋を卓の上に置いた。
刃の白と、革の黒と、血の点。
三つとも動かない。
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窓の外に金庫塔が立っていた。
夜の薄明の中で白い塔身は青みを帯びる。頂部の金の聖印だけが、闇に沈みきらず薄く光る。塔の影の下には聖オルヴェリス慈児院の屋根が見える。屋根の輪郭は夜になると柔らかく、昔の記憶に近くなる。
その向こうに教皇領の境壁がある。白灰石の線。さらに向こうには外郭市街の屋根並み。夜の煙。遠い犬の声。石畳を行く荷車の音が、遅れてかすかに届く。
街道は南門から伸びている。
明日、その道を行く。
灰塩谷の方角へ。
カイは隣室でもう眠っていた。薄い壁を通して寝息が聞こえる。穏やかな寝息だ。孤児院の夜にも、その寝息を聞くと安心した。今も同じ音なのに、安心だけが遅れて来ない。
俺は卓の前に座った。
両手を置く。手の甲には子どもの頃の傷が薄くある。白い布の横に置いた手は、昼間より少し大きく見えた。掌には剣の硬さがまだ残っている。
口の中で語を転がす。
「灰塩谷」
日本語の響きは土に近い。灰と塩。乾きと白さ。谷という低さ。
次に別の形で言う。
「Vallis Salis」
書類の上の響きだ。地図の上の文字。収支板の横に置かれる名。紙に書けば同じ場所を指す。声に出せば違う場所のようにも聞こえる。
二つの呼び方は同じ場所を指している。
それは分かる。
書類の上では知っている。地図でも見た。収支板でも見た。ユリオ・カッサの訴状では弟の行き先だった。彼の最後の声では返してほしい場所だった。
けれど俺は、その土を踏んだことがない。
採石場の灰色の岩も見ていない。谷を渡る風の匂いも知らない。そこへ移された者がどんな朝を迎えるのかも知らない。番号で呼ばれる声が、石にどう響くのかも知らない。
聖剣の刃は綺麗だ。
手袋の革の内側には血が残っている。
明日、俺は光の名でそこへ行く。
俺は、灰塩谷を知らない。




