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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
54/57

星空の合議

 最初に戻ってきたのは、痛みだった。


 右脇腹の奥で、鈍いものがゆっくり目を覚ました。息を吸うと縁が引きつる。吐くと包帯の繊維が皮膚に擦れた。先日ふさがったはずの傷が、また浅く開いている。そう分かるまでに、少し時間がかかった。


 左腰には、別の痛みがあった。


 もっと深い。もっと冷たい。皮膚の上ではなく、肉の底に沈んだままの痛みだった。触手の傷だ。海守りの知っている水なら、塩と藻と陽の匂いが残る。けれどそこには、塩気のない冷えだけが残っていた。濡れているのに乾いているような、妙な冷たさだった。


 身体は動かなかった。


 胸の上に毛布がある。薄いはずなのに重い。重いというより、俺の身体がそれを押し返せない。背中の下にはござが敷かれている。編み目の硬さが肩甲骨と腰に当たる。船板のわずかな揺れが、そのござを通って背骨に届いた。


 ざぶり、と海が鳴った。


 港の音ではない。岸に寄せて砕ける波でもない。もっと低く、腹の底を撫でるような音だった。錨を下ろした船が、潮にゆっくり持ち上げられては戻されている。縄が小さく鳴る。どこかで帆布がたたまれたまま夜風を受けて、乾いた布の端を震わせていた。


 ここは、神殿ではない。


 最初にそれを理解したのは、頭ではなかった。身体だった。海守りとして染みついた確認の順番が、勝手に動いていく。背中のござ。胸の毛布。船板の揺れ。潮の低い音。頬に当たる夜風。


 外洋寄りの風だった。


 湿り気はあるのに、港の人いきれが混ざっていない。灯油と血と薬草の匂いが薄くある。けれど一番下にあるのは、やはり夜の海の匂いだった。


 俺は、海の上にいる。


 その答えが内側に落ちてから、ようやく瞼が動いた。


 暗かった。


 一瞬、何もない闇に見えた。けれど次の瞬間、その闇に小さな光が散っていることに気づいた。星だった。視界のほとんど全部が星で埋まっている。脇に橙色の揺れがある。ランプだ。船のランプは、地面の灯りより少し遅れて揺れる。


 生きている。


 そう思いかけた時、俺の上に声が落ちてきた。


「ヒュウマさん」


 声は、そこで一度切れた。


 誰かが息を吸った。詰まったものを無理に押し出すみたいに、もう一度。


「……ヒュウマさん」


 リオンだった。


 顔が覗き込んでいた。ランプの光が片側から当たって、眼の縁が赤く濡れて見える。涙は頬に落ちきっていなかった。眼のところで溜まって、光だけを受けて震えている。リオンはそれを拭うことも忘れて、俺の顔を見ていた。


 半べそという言葉では軽かった。


 もっと固い顔だった。口元が震えているのに、動かせずにいる。泣きたいのに泣く時間もないまま、ずっと動き続けていた顔だ。守れなかった当代を、ようやく甲板の上まで取り戻した後の顔だった。


「……リオン」


 声が出た。


 掠れていた。自分の声とは思えないほど細い。けれど、その半分の声だけで、リオンの顔が崩れた。


「ヒュウマさん、ヒュウマさん」


 名前ばかりだった。


 その先の言葉が出てこないらしかった。何かを言おうとして、息だけが震える。リオンは濡れた布を持った手を握りしめたまま、俺の額の横で止まっていた。


 俺は、首を動かそうとした。


 動かない。


 代わりに眼だけを動かした。リオンの肩。腕。額。血の跡はあるが、深い傷は見えない。指が動いている。立っている。生きている。


 よかった。


 そのあとで、自分の身体を確かめた。指先は動く。肘には力がほとんど入らない。腰から下は、まだ海底に沈められたように遠い。少しでも腹に力を入れると、右脇腹が細い刃で裂かれるように痛む。


 立つのは、無理だった。


 当代が、立てない。


 その事実が小さく胸に刺さった。痛みとは別の場所に刺さった。若手に見下ろされていることではない。守る側の人間が、今は毛布の下で息を測られている。そのことが、悔しかった。


「全員、生きています」


 リオンが先に言った。


 俺の眼が探していたものを、読んだのだと思う。リオンは前から、人の眼の動きに早い。波の上で救助者の意識を読む時も、手より先に眼で拾う。


「全員、生きています」


 今度は、リオン自身に言い聞かせる声だった。


「ヒュウマさんも、蒼凪さんも、イーリス殿も、シレリオ殿も、勇者一行の方々も。全員、生きています」


 胸の奥で張っていたものが、ゆっくりほどけた。


 息を深く吸いたかった。けれど傷がそれを許さない。俺は浅い息のまま、短く言った。


「……すまない」


 リオンの眉が動いた。


「リオン。お前のおかげだ」


 そこで、溜まっていた涙が落ちた。


 一つだけではなかった。落ちてから、リオンは急いで拭おうとした。けれど指先が震えて布を取り落としそうになって、結局そのままにした。額の上の濡れた布を取り替える手つきは、慣れた手当ての形を保とうとしていた。それでも震えは隠せていなかった。


「俺じゃ、ないです」


 新しい布が額に置かれた。


 冷たさが、頭の芯まで降りてくる。


「シレリオ殿が、海鳥を呼んでくださって。海鳥が、俺たちのところまで来ました。それで、あちらの船の方々にも伝わって。俺たち、迎えに行けたんです」


 言葉の間に、鼻をすする音が混ざった。


「皆さんを引き上げて、船に乗せて。島の近くに錨を下ろしました。夜まで、ずっと手当てしてました。カイ殿の祈りで、命は繋がりました。意識は、少しずつ戻って。ヒュウマさんが、一番最後で」


 そこで、リオンの喉がもう一度詰まった。


「心配しました。心配、しました」


 俺は、もう一度だけ言った。


「すまない」


 それは当代としての詫びだった。


 倒れたこと。帰ってこさせたこと。リオンにこんな顔をさせたこと。


 リオンは首を横に振った。若手らしい雑な振り方ではなく、必死に否定する振り方だった。


「ヒュウマさんが立ち続けてくださったから、皆さんが助かったんです」


 俺は答えなかった。


 立ち続けることが、できなかった。そういう戦いだった。けれどリオンが見ていたのは、倒れた瞬間ではない。最後まで立とうとしていた背中の方なのだろう。後輩がそう受け止めてくれているなら、今はそれでいい。


 俺は視線だけを横へ動かした。


 蒼凪さんがいた。


 同じござの上に横たわっている。胸には薄い毛布。白と青のローブは乱れを整えられていたが、胸元の包帯が痛々しく斜めに走っていた。右肩から胸にかけて深い傷がある。左手にも包帯が巻かれている。海溝晶を握った革帯の上から、さらに布が重ねられていた。


 蒼凪さんは、こちらを向いていた。


 眼が合った。


 ほんの一拍だった。


 深海のような青い眼が、ランプの橙を少しだけ映した。それから蒼凪さんはゆっくり瞼を閉じた。何も言わない。何も言わないまま、生きていると告げていた。


 俺も、眼だけで返した。


 生きています。


 その短い往復だけで足りた。


 俺は、また夜空へ視線を戻した。


 星が近かった。


 船の帆の縁が視界の片側にある。帆は畳まれて、縄で留められていた。夜風が吹くたびに縄がきしむ。右側には、隣の船の黒い影があった。マストの線がこちらのマストと並んで、同じ間隔で揺れている。


 二隻が、並走したまま停まっている。


 間に渡し板が渡されていた。濡れた板がランプの光を細く拾っている。船が揺れるたび、板の端で水の光がわずかに動いた。広い方の甲板にはござが敷かれ、その上に人の影が点々とある。


「夕方からずっと並んでいます」


 リオンが俺の視線に気づいて言った。


「あちらの船の方々とこちらの船員で、合わせて動けるように」


「……島の、近くか」


「はい。古代神殿の島の近くです。錨を下ろして、今夜はここで」


 俺は周囲を確かめた。


 広い甲板だった。帆柱の根元にランプが一つ。舷側にも二つ。光の届く場所と届かない場所の境目が、夜の海の揺れに合わせて少しずつずれる。人の顔は明るくなったり暗くなったりした。


 少し離れた場所に、魔導士が座っていた。


 灰色の髪を束ね、薬包を膝元に並べている。中身を一つずつ確かめる指先は細い。けれど手つきに迷いがない。書類を分類するように薬を見分けていた。名乗り前の俺には、まだ魔導士と呼ぶのが自然だった。


 向かいにカイさんがいた。


 半膝の姿勢で、盾の戦士の右腕を診ている。盾の戦士は大きな身体を少し丸めて座っていた。右腕は胸に固定され、重盾は足元に置かれている。盾を持っていない時でも、彼の身体は盾のように見えた。動かないだけで、場の一角を支えている。


 斥候は、その奥で胡座をかいていた。


 胸に薄い包帯がある。息を吸うたび、肋骨のあたりが少しだけぎこちなく動く。灰緑の眼は夜の海へ向いていた。見張りの眼だった。休んでいるのに、どこかが休んでいない。舷側の影。隣の船の位置。風の向き。その全部を、少しずつ拾っているようだった。


 イーリスさんは、俺と蒼凪さんの足元寄りに座っていた。


 楽器の胴を膝に置いている。弓は傍に伏せられていた。いつもの饒舌はない。声の代償が、まだ抜けていないのだと思う。けれど何も言わない座り方にも、イーリスさんらしさはあった。物語の縁に腰を下ろし、決して眠りきらない眼をしている。


 ラウリは、さらに少し離れていた。


 巨躯の影が、ランプの縁で大きく見える。座り込んだまま、膝の前に家伝の槍を置いていた。右手は槍の柄に添えられている。握りしめてはいない。ただ、そこにあることを確かめている。あれは武器の持ち方ではなく、祭祀官の手だった。


 勇者の姿は、視界の奥に半分隠れていた。


 起きているのか寝ているのかは、まだ分からない。けれど聖剣の鞘の白い線が、ランプの端でかすかに見えた。


「カイさん」


 俺は名を呼んだ。


 光の気配がこちらへ動いた。


「ヒュウマさん」


 カイさんが俺の頭の側にしゃがんだ。金の髪。柔らかな茶色の眼。白い神官服には、血と海水の跡がついていた。誰の血かは分からない。分からないほど、多くの者に手を当てた後の服だった。


「目を覚まされましたね」


 声の温度は、以前ヴェラーナ港で会った時と変わらなかった。あの時は海守りの当代と、聖教会の神官としての短い挨拶だった。それでも、敬称付きで呼び合う距離だけは身体に残っている。


「カイさんも、無事で」


「ええ。皆様も」


 カイさんは俺の額に手を置いた。


 祈りの所作だった。詠唱はない。けれど手のひらから薄い光が落ちて、痛みが少しだけ遠のいた。全部ではない。半分だけだ。残った半分が身体の現実を教えている。


「もう少し、横になっていてください。傷の縁が、まだ繋がっておりません」


「分かりました」


 頷こうとしたが、首がほとんど動かない。カイさんはそれだけで十分だという顔をした。


 それから、介抱の手を止めずに顔を上げた。


「皆様」


 声が甲板に広がった。大きすぎない。けれど帆柱の向こうまで届く声だった。


「改めて、名を交わしておきましょう。先ほどまでは、戦の続きの中でございました。今は夜の合議でございます。互いの名と立場を、ここで」


 その促しは、儀式というより手当ての続きだった。


 名を確認する。傷を確認する。生きている者の位置を確認する。そういう順番の一つとして、カイさんは声を置いた。


 勇者が、半身を起こした。


 視界の奥で金髪が動く。聖剣の柄に右手が一度触れた。抜くためではない。あるべき場所にあるかを確かめるための触れ方だった。


「レオン・ソル」


 低い声だった。


「聖教会から派遣された勇者。聖剣の保持者」


 短い名乗りだった。余計な飾りはない。レオンは半身を起こしたまま、蒼凪さんの方を見た。それから俺へ。最後にラウリへ。眼の中には謝意でも敵意でもなく、夜の合議に必要な覚悟だけがあった。


「カイ・グレイス」


 カイさんが続けた。


「聖教会の神官でございます」


「ヴァロー」


 魔導士は薬包を並べる手を止めずに言った。


「月読みの塔の魔導士」


 声にはわずかな冷えがあった。けれど皮肉ではない。自分の所属を、必要な分だけ置く声だった。


「ガイウス・フェルム」


 盾の戦士は短く頷いた。


「山岳の出身、戦士」


 低く、少ない。けれどその少なさが似合っていた。


「ヴェスタ・ロウ」


 斥候が胡座のまま首をこちらへ向けた。


「冒険者、斥候。よろしく」


 最後の言葉だけ少し軽かった。傷のせいで息は浅いのに、軽口の名残を残している。


 五人の名が、夜の甲板に並んだ。


 今度はこちらの番だった。


 蒼凪さんが寝たまま、短く息を吸った。


「蒼凪」


 声は低く通った。


 横になっているのに、宣告の温度は変わらない。白と青のローブの下で包帯が動く。傷を負っていることと、名乗りの重さは別だった。


「白真珠の塔の賢者位。海神代行者」


 それ以上は言わなかった。


 家名を、蒼凪さんは置かなかった。置かないことで、かえって輪郭は濃くなった。


 俺の番だった。


「ヒュウマ・サルヴァトーレ」


 声が掠れた。けれど名乗りだけは、当代として置いた。


「海守り衆の当代、5代目」


 胸の内で、父の印章が沈んだ気がした。


 5代目と告げる時、いつも父さんの名が見えない場所で隣に立つ。今夜はその影が少し濃かった。けれど合議の上には出さない。


「イーリス」


 イーリスさんが楽器の弦に指を置いたまま言った。


「吟遊詩人でございます」


 慇懃な声だった。短いのに、どこか舞台の端に立つ者の声でもあった。出自も年齢も明かさない。イーリスさんらしい名乗りだった。


「ラウリ・シレリオ」


 巨躯の低い声が落ちた。


「シレナ島の祭祀官。シャーク・コーラーズのシレリオ家、現当主」


 現当主、と言った時、ラウリの左手が首元に触れた。白鯨の歯の小さな首飾りだった。右手は家伝の槍に添えられている。槍と首飾り。血筋と祈り。彼がいま何の代表として座っているのか、それだけで分かった。


 五人と、四人。


 九人分の名前が、夜の甲板に置かれた。


 座っている者。半身を起こしている者。寝たままの者。姿勢はばらばらだった。けれど名だけは同じ高さに並んだ。ランプの光が揺れるたび、その重さも少しずつ揺れて見えた。


 最初に次の声を置いたのは、蒼凪さんだった。


「あの男は名乗った」


 低い声だった。


「ロドル・ヴァシレフ」


 その名が、甲板に沈んだ。


 俺の耳の奥で、別の声が戻ってきた。陽の下で聞いた声。低く、乾いて、何かをすでに終えた男の声。


 我が手にかかった者は、多い。


 身を、使いよう、と問われ、応えた者たちも。


 その言葉の輪郭が、星明かりの下で少しだけ濃くなる。俺は息を深く吸おうとして、傷に止められた。代わりに瞼を一度だけ強く閉じる。開くと、星は変わらずそこにあった。


 蒼凪さんが続けた。


「中央大陸東方の侍流派。両刀。深淵の権能。刀の振りに、薄い藍色が走る」


 観察だけを置く声だった。


「六人で組んでも一人に押された」


「俺たちも」


 レオンが応えた。


「あの男の影を追っていた。正体までは知らなかった。だが、影の筋はこちらでも掴んでいた。書類の上で、何度か」


 ヴァローがそこで薬包の手を止めた。


「碇のフードの男。アズリウム製の長刀。複数の港での目撃情報。書類には、その程度でした。顔を書いた者は、いない」


 月読みの塔の魔導士は、観察できるところだけを置いた。足りないものも、足りないまま置いた。


 俺の中で、これまでの足取りが重なった。


 海守り衆に残っていた話。港の古参が言った碇のフード。蒼凪さんが追ったアズリウム製の長刀。岩石島の中規模拠点。いくつもの港に薄く残っていた同じ影。


 それが勇者たちの書類にもあった。


「同じ線、だった」


 ガイウスが短く言った。


「俺たちが追っていた線」


 甲板の空気が一段落ちた。


 ここから先は、偶然ではない。誰もそう言わなかったが、全員がそう受け取ったのが分かった。


 レオンが、半身をさらに起こした。


「聖教会本部の密命を、改めてここで明かしておく」


 低い声だった。


「あの神殿で、剣を抜いたことの理由でもある」


 カイさんの祈りの手が、一瞬だけ止まった。止まって、また動いた。止めるのではなく、受けるための一拍だった。


「俺たちは、ヴェラーナ港に派遣されてきた」


 レオンの声が続いた。


「海賊事件の収束。それが、表向きの任務だった。もう一つ、別の指示があった。── 深淵の神を、呼ぼうとした者らを、追え、と」


 甲板のどこかで、縄が鳴った。


 その音が途切れるまで、誰も声を挟まなかった。


「異教徒の対策の名目」


 ヴァローが補った。


「海に沈んだもの。古い神格の片鱗。儀式の場の痕跡。書類の上の重い名。本部から渡された筋は、そういう並びでした」


「同じ影を追っておりました」


 カイさんが言った。


 祈りの手を胸元へ一度戻す。聖教会の神官としての所作だった。


「それが、皆様であると見えなかった」


 レオンの視線が、蒼凪さんと俺へ向いた。


 寝ている二人へ、まっすぐに。


「あの神殿で、深淵の気配を読んだ」


 声が若かった。若いからこそ、まっすぐ落ちた。


「気配の側に皆様がいた。判じる眼が、間に合わなかった。勇者として抜くしかない、と思った」


 そこで、レオンは一度だけ息を切った。


「── 申し訳なかった」


 長い沈黙があった。


 船は揺れている。隣の船も揺れている。渡し板の光が、細く左右へ動いている。沈黙そのものが、二隻の間に渡された板みたいに感じられた。


 蒼凪さんが寝たまま返した。


「気にしていない」


 短かった。


 けれど薄くはなかった。以前も同じ言葉を聞いた。あの時、蒼凪さんは立っていた。今夜は横たわっている。それでも声は揺れない。違うのは、今夜は剣を抜いた理由の本体が置かれた後だということだった。


 レオンが頭を下げた。


 短い礼だった。勇者としての礼であり、一人の男としての礼でもあった。


「俺たちが追っていたのも、その線だ」


 蒼凪さんが続けた。


「あの男の影を辿りはじめてから、伝聞を集めてきた。アズリウム製の長刀。藍色の刃。複数の港での目撃。あの男はその一派の幹部の一人と見える」


「あの一派」


 カイさんが静かに繰り返した。


 誰も組織の名を持っていなかった。あるいは持っていても、この場に置ける形ではなかった。深い影。同じ影。あの一派。言葉は曖昧なままなのに、指しているものだけが甲板の中央に濃くなっていく。


 俺は寝たまま、星を見ていた。


 耳の奥に、もう一度声が戻る。


── 我が手にかかった者は、多い。


── 身を、使いよう、と問われ、応えた者たちも。


 複数形の言葉だった。匿名の言葉だった。


 父さんの死と、薄く影が重なっている。


 確信は、ない。


 海難事故と呼ばれた死は、海難事故のまま、十年以上が経った。


 誰も、殺されたとは言わなかった。誰も、殺した者の顔を知らなかった。


 記録は海難事故だった。海守りの古参も、商家連合の記録も、そこから先へは進まなかった。父さんは海に消えた。それだけで、十年以上が過ぎた。


 あの男の言葉の温度が、父さんが消えた海域の温度と、似ていた。それだけだ。


 重ねるのは、早い。


 重ねないのも、もう違う。


 俺は星空に向かって、内側だけで線を引いた。


 その線を合議に出すことはしなかった。今ここに置けば、形より先に重さだけが落ちる。俺の父の話は、まだ俺の中で沈めておくべきものだった。


 合議は続いていた。


 蒼凪さんの声。レオンの短い応答。ヴァローの補足。カイさんの柔らかな受け。どれも遠くはない。けれど半分は海の音に混ざって聞こえた。痛みと薬の冷えが、意識の端をゆっくり撫でている。


 その時、ラウリが動いた。


 座り込んだまま、巨躯がわずかに姿勢を正す。背筋を完全に伸ばすほどの力はない。けれど肩の角度が変わっただけで、場の眼がそちらへ集まった。


 右手が家伝の槍に添えられた。


 左手の指は、首元の白鯨の歯の小さな首飾りに置かれた。槍と歯。その二つを確かめてから、ラウリは口を開いた。


「俺の家に伝わる祖の歯が、奪われた」


 低い声が、甲板に沈んだ。


「俺の血と祈りが、儀式の媒介に使われた」


 ラウリは言葉を急がなかった。


 一つずつ、濡れた石を海底に置くような声だった。


「拐われている間、儀式の場にいた。俺の身体で、それは分かった」


 甲板の光が、ラウリの頬に影を作る。巨躯の男が小さく座っているのではない。家の代表が、傷だらけの身体で座っている。俺にはそう見えた。


「儀式の後、頭巾の男が『既に用済みだ』と言うのを聞いた」


 ロドル・ヴァシレフの名を、ラウリは口にしなかった。


 ラウリが聞いたのは、頭巾の男の声だった。今夜、合議の中で初めて名前が置かれた。けれどラウリの内側で、声と名はまだ完全には結ばれていないのだと思う。結ばれていないものを、無理に結んだふりはしない。それもまた、祭祀官の誠実さだった。


 ラウリは息を整えた。


「父と妹は、戻らない」


 短い声だった。


 その短さの中に、戻らない二人分の空白があった。


「母と祖母と姉は、生きている」


 今度は、さらに低く抑えた声だった。


 生きている者の名も、戻らない者の名も、今夜は出さなかった。甲板の上には、二つの欠けと三つの息だけが置かれた。


「祖の歯が何の鍵なのか、俺には分からない」


 ラウリは続けた。


「なぜ俺の血が必要だったのかも、分からない。家系の祖伝という以上の意味は、俺も知らない」


 知らない。


 その言葉を、ラウリは逃げずに置いた。


 知らないことを隠すための大声もない。自分の家のことなのに知らないという悔しさを、誰かにぶつけることもしない。ただ、分からないものは分からないと、低く告げる。それが、シレリオ家の現当主としての声だった。


「ただ、あの一派が何か大きな儀式を進めている」


 ラウリの右手が、槍の柄の上で少しだけ沈んだ。


「その一段に、俺と祖の歯が使われた」


 甲板の上に、同じ影がまた濃くなった。


 蒼凪さんが追っていたあの男。レオンたちが追っていた密命の筋。ラウリの家に起きた奪取と儀式。三つが別々に見えていたのに、夜の甲板の上で同じ方角を向いた。


 俺の胸の奥で、また父の印章が沈む。


「用済み」。


 ラウリの言葉が内側に残った。


 使われたもの。捨てられたもの。帰らなかった者。海難事故のまま十年以上動かなかった記録。俺の父の話とラウリの話は同じではない。同じにしてはいけない。けれど、誰かの使いようの中で人が消えるという冷えだけが、薄く似ていた。


 俺はそれを言わなかった。


 今夜のラウリの話は、ラウリのものだった。


 カイさんがラウリへ静かに頷いた。言葉はない。祈りの前の沈黙のような頷きだった。


 その沈黙を動かしたのは、ヴェスタだった。


 斥候が胡座の姿勢を少し直す。胸の包帯の上で息が浅く動いた。


「次、どこへ向かいます」


 声は軽くない。現場の声だった。


「この島の近くに停まったままじゃ、傷も装備も持たない。船を動かすなら、行き先を決めとかないと」


 灰緑の眼が一度、夜の海へ向いた。


 風を見る。潮を見る。距離を測る。そういう眼だった。


「俺の見立てだと、サルマンディア。近くで、全部そろう街は、そこしかない」


 ヴェスタは指を折らなかった。けれど言葉だけが順に置かれた。


「薬。治癒師。船具。宿。負傷者の数で、近くの島の港じゃ足りない。サルマンディアなら足りる。一日ちょっとの航路です」


 冒険者であり、斥候である男の提案だった。過去の匂いは出さない。ただ海事に慣れた者として、地理と手配を語っている。


 ガイウスが頷いた。


「悪くねえ」


 ヴァローも小さく頷いた。


「妥当でしょう。薬も補給も、そこが最も早い」


 カイさんはラウリを見て、次に俺と蒼凪さんを見た。神官の眼が傷の数を数えたのだと思う。頷きは静かだった。


 レオンが最後に、蒼凪さんを見た。


「異論はない」


 その時、蒼凪さんが寝たまま口を開きかけた。


「サルマンディア」という地名が、夜の甲板にもう一度浮いていた。


 蒼凪さんは、薄く息を吸って止めた。


 瞼が星空の方へ一拍だけ向く。眼は空を向いていた。けれど見ているのは、星そのものではなかった。星より少し下。海と空の間にある、もっと遠い場所を見ているように見えた。


 俺は、それを寝たまま見ていた。


 蒼凪さんが短く言った。


「── いや」


 それから、続けた。


「ああ」


 短い二音だった。


 それだけで合意は置かれた。蒼凪さんは、その先を言わない。


 俺も問わない。


 蒼凪さんが言わない選択をする時、俺はだいたい、受け取れる範囲を読んで、問わない。あの夜以来の癖だった。俺が若くて、蒼凪さんがずっと先の場所に立っている時でも、その沈黙の扱い方だけは少しずつ覚えてきた。


 ただ、サルマンディアという地名と、蒼凪さんが息を止めた所作が、俺の中で、繋がらないまま、残った。


 蒼凪さんは視線を合議の中央へ戻した。


「ただし」


 声はいつもの低さに戻っていた。


「同じ街で、傷を癒す。それ以上は、別の話だ」


 レオンが黙って聞いた。


「俺たちは、それぞれの目的で、動いている」


 蒼凪さんの声は短く、線を引いた。


「同じ港で、薬と、船具と、宿の手配を、する。共闘は、また、別の話だ」


 勇者と賢者が、同じ街へ向かう。


 それは共に戦うという意味ではない。夜の甲板の上で、その線だけがはっきり引かれた。


 レオンが頷いた。


「承知した」


 反発はなかった。


 その返答にも、勇者としての直情より先に、今夜の現実を受ける重さがあった。


 レオンは続けた。


「うちの船員の話を、しておく」


 声が雇い主のものになった。


「あの五人は、ヴェラーナの冒険者組合経由で雇った。サルマンディアで、組合に返す。ヴェスタは、勇者一行の戦闘員として、引き続き雇う」


 ヴェスタが肩を軽く上げた。


「了解です。まだ仕事中ってことですね」


「そうだ」


 レオンは短く答えた。


 蒼凪さんも、寝たまま小さく頷いた。


「うちの若手も、サルマンディアで一度カラヴェラへ戻す」


 声は実務の温度だった。


「リオンを含めて、船員は海守り衆の本部に帰す」


 俺はそこで口を開いた。


 喉が乾いていた。リオンがすぐ水を差し出しかけたが、俺は眼だけで待ってもらった。


「蒼凪さん」


 蒼凪さんの視線がこちらへ向く。


「リオンは、サルマンディアにしばらく残してもらえませんか」


 リオンの手が止まった。


 濡れた布を絞ろうとしていた指が、そのまま固まっている。


 蒼凪さんは俺を見た。理由を急かす眼ではない。続きを待つ眼だった。


「港の手配は、海守りの若手がいた方が早いです。リオンは、操船の腕が一番上だ。それにサルマンディアでの動きが見えるまでは、海守り衆の手が一人、街に残っていた方がいい」


 息が少し切れた。


 それでも最後まで言えた。


 蒼凪さんが短く頷いた。


「ああ。それでいく」


 リオンが、俺と蒼凪さんを交互に見た。


「……俺、ですか」


 声が裏返りかけていた。


 前半の半べそとは違う。今度は、置いていかれる不安ではなく、残ることを任された戸惑いだった。嬉しさと責任が同時に押し寄せて、どちらの顔をすればいいか分からない若手の顔だった。


「お前が、一番適任だ」


 俺は短く言った。


 リオンは頷いた。


 頷いた拍子に、また涙が落ちた。今度はすぐ拭おうとした。けれど手が濡れた布を握っていたので、結局拭えなかった。


「はい」


 小さな返事だった。


「残ります。ヒュウマさん」


 その声は震えていた。けれど芯はあった。


 人と船の扱いは、そこで形を得た。


 夜の合議は、また次の重さへ進んだ。


 ラウリがもう一度動いた。


 座り込んだまま、蒼凪さんへまっすぐ向く。巨躯の影が、ランプの光を半分遮った。


「賢者殿」


 低い声だった。


「シレリオ家の祖の歯を、取り戻したい。シャーク・コーラーズの敵討ちとして、俺もあなた方に同行を願う」


 長くはなかった。


 願いというより、家の前に膝を置くような声だった。


 蒼凪さんが答えた。


「ああ」


 一拍。


「同行を、承る」


 それだけだった。


 ラウリが首を深く下げた。座ったままの礼としては、これ以上ないほど深かった。右手は槍へ戻る。左手は一度、首元の小さな歯に触れた。


「海鳥を呼びます」


 ラウリが言った。


「故郷への伝令を」


 蒼凪さんが頷いた。レオンも頷いた。誰も止めない。


 ラウリは家伝の槍を傍に立てた。


 槍の柄がござの目の隙間に沈む。彼は両手を膝の上に置いた。武器を握る手ではない。祈りを始める手だった。肩がわずかに上下する。息を整えている。


 甲板の声が、自然に減った。


 縄の軋み。低い波。ランプの火が小さく鳴る音。


 ラウリの声が落ちた。


「集え、海の友よ」


 短い詠唱だった。


 けれど、その短さの中に遠くまで届く道があった。大声ではない。むしろ消耗した身体から出せるぎりぎりの声だった。それなのに、海の上へまっすぐ出ていく。夜風に流されず、潮の上をすべっていく。


 しばらく、何も起きなかった。


 誰も焦らなかった。


 海は低く鳴り続けた。畳まれた帆の縄が小さく軋む。隣の船の影が、こちらと同じ間隔で揺れている。渡し板の濡れた光が、ゆっくり細くなる。


 空の中の一点で、影が動いた。


 一羽。


 それから、もう一羽。


 ランプの光の縁を、白い羽が横切った。海鳥だった。二羽の海鳥は甲板の上を一度回り、ラウリの近くに降りた。ござの端へ足を置く時の羽ばたきが柔らかい。呼びつけられたものの動きではなかった。


 応えに来た。


 俺の海守りの感度が、それを受け取った。


 これは、命令じゃない。


 海神代行者の力とも違う。海守りの口伝とも違う。海守りは潮の気配を読み、人を運び、魂を還す。蒼凪さんの力はもっと深い場所から海を動かす。ラウリのこれは、海に生きるものへ声を置いて、返事を待つものだった。


 シーシャーマンの権能を、俺は初めて間近で見ていた。


 ラウリは海鳥へ手を伸ばした。


 触れない。撫でない。手を近づけるだけだった。海鳥の方も逃げない。互いの間に、目に見えない距離がきちんと置かれている。


 ラウリが低く言葉を落とした。


 分かる言葉と、分からない言葉が混ざっていた。シレリオ家の祭祀の言葉なのだろう。俺には全部は追えない。けれど託された知らせの芯だけは、海守りの耳にも分かった。


「生きている」


 一羽が首をかしげた。


「サルマンディアへ、向かう」


 もう一羽が翼を小さく畳んだ。


「祖の歯を、追う」


 母へ。


 祖母へ。


 姉へ。


 言葉にされなかった宛先が、夜の甲板の上に薄く並んだ。


 ラウリは最後に、さらに低く何かを告げた。礼の言葉だと思った。命令ではなく、頼みと礼。その順番が、声の温度に出ていた。


 一羽が飛び立った。


 ランプの光を横切り、マストの影を抜けて、星空へ上がる。白かった羽がすぐ黒い影になり、夜の中へ薄く溶けた。


 少し遅れて、もう一羽も飛んだ。


 二羽の影は同じ高さまで上がってから、それぞれ別の方角へ分かれていった。まるで海の上に見えない道が二本あるようだった。


 ラウリは両手を膝に戻した。


 首を深く下げる。そこにいるのは傷ついた男であり、家の代表であり、海へ言葉を預ける祭祀官だった。


 夜の合議は、そこでゆっくり解けはじめた。


 誰かが大きく終わりを告げたわけではない。声の数が減っただけだった。人がそれぞれの傷へ戻る。薬包の音。布を絞る音。小さな呼吸。船の揺れ。


 カイさんが俺の頭の側へ戻ってきた。


 額の布を取り替える。今度の布は先ほどより少し冷たい。皮膚に触れた瞬間、熱がじわりと逃げた。痛みは半分だけ遠い。残りの半分は身体の中に残る。それでいい。まだ生きている場所が、そこにある。


 ヴァローは薬包をまとめ、ガイウスとヴェスタの近くへ置いた。指の動きは最後まで整っている。


 ガイウスは半膝のまま目を閉じた。眠るのではなく、身体を休めるための閉じ方だった。


 ヴェスタは胡座のまま、夜の海を見ていた。灰緑の眼は、さっきより少しだけ緩んでいる。


 レオンは半身を低く戻した。横になる一歩手前で止まっている。勇者として最後まで場を見届ける姿勢だった。


 イーリスさんは楽器を胸に抱え直した。弓にはまだ触れない。けれど指先が弦の上を一度だけなぞった。音は出なかった。


 リオンは、額の布を直してから俺の毛布の端を整えた。


「寒くないですか」


「大丈夫だ」


「本当に、ですか」


「本当に」


 リオンは少しだけ眉を寄せた。


「ヒュウマさんの大丈夫は、時々信用が難しいです」


 小さな声だった。


 俺は笑おうとして、脇腹が痛んだ。笑いは息だけになった。


「覚えておく」


「覚えてください」


 リオンはそう言って、また涙の跡を手の甲で雑に拭った。


 隣で、蒼凪さんが静かに呼吸している。


 包帯の縁が毛布の下でわずかに上下する。その動きだけを見ていると、合議の言葉が少し遠くなる。生きている。呼吸している。今はそれだけで、十分な答えだった。


 俺は星空を見上げた。


 合議が解けても、空は変わらなかった。星の数も、潮の音も、頬に触れる夜風も同じだった。けれど俺の内側には、いくつかのものが沈んでいる。


 ロドルの言葉。


 父の影。


 蒼凪さんがサルマンディアで息を止めた所作。


 ラウリの「用済み」。


 それぞれが形にならないまま、海底へ沈む小石みたいに内側へ落ちていた。拾い上げて並べることもできた。けれど今夜は、そうしないことが答えだった。


 形にしない。


 急がない。


 立てない事実を、否定しない。


 俺は寝たまま、星を見ていた。


 足はまだ動かない。脇腹は痛む。毛布は重い。ござは硬い。夜風は冷たい。隣の船の影は同じ間隔で揺れ、渡し板は濡れた光を細く抱いている。


 それでも、息は続いている。


 俺の息。蒼凪さんの息。リオンの震える息。ラウリの低い息。勇者たちの傷の上を通る息。全部が夜の甲板にある。


 立てなかった、夜の続きだった。


 それでも、息は、続いていた。


 船は、島の近くで、揺れていた。

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