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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
53/57

立ち続けることのできない

 通路の奥の足音が、石の中まで届いた。


 一歩。乾いた音ではない。濡れた底を歩いてきたような重さが、円形広場の床を通って足裏に上がってくる。


 俺の潮鎚の柄が床を離れた。考えるより先に腕が動いた。握り慣れた革の巻きが掌に沈み、鎚頭の重さが肘から肩へ戻ってくる。海で人を引き上げる時と同じだった。重いものを支える前に、身体が先に場所を決める。


 朝の斜光がアズリウムの青を舐めた。青は一瞬だけ明るくなって、すぐに深く濡れた色へ沈んだ。俺の胸の奥にも同じ重みが落ちる。潮鎚は武器である前に、家の重さだった。


 蒼凪さんが半歩だけ沈んだ。後ろへ逃げたのではない。詠唱のために足場を作る沈み方だった。左手は革帯の海溝晶の上にある。指の腹が青い石を押さえ、古い熱傷の痕が白い光に晒されている。


 その横顔に余計な力はない。けれど首筋の皮膚だけが薄く張っていた。蒼凪さんはもう、この場を箱のように測っている。列柱。塩の白い輪。倒れた者。通路の奥から来る男。俺の立つ場所。


 イーリスの楽器は沈黙していた。弦が鳴らないまま、木の胴だけが胸の前に抱えられている。喉を削った後の呼吸は細い。それでも肩から弓を外す手つきは、旅の中で何度も見た静けさを保っていた。


 ラウリは段下にいた。巨躯は膝をつき、石床に縫い付けられたように動かない。耳を覆っていた手は下がっている。けれど指はまだ空中で迷っていた。聞きたくないものを、身体だけが先に聞いたような形だった。


 倒れていた五人の中で、三人が動いた。


 最初に動いたのは斥候の眼だった。横向きに倒れたまま、灰緑の瞳が男の足元へ滑る。指は床の継ぎ目に触れている。立ち上がるためではない。ずれるため。読むため。逃げるためではなく、次の一拍を盗むため。


 盾の戦士は半膝の崩れた姿勢から、重盾の縁を掴んだ。鉄が石を擦った。低い音が円形広場に置かれる。立てる身体ではない。けれど盾を向ける身体ではあった。そこに山の戦士の頑固さが残っていた。


 勇者の右手が聖剣の柄を握り直した。先日の戦で消えた白い光が、剣身の根元に薄く戻りかけている。胸が一度だけ大きく上下した。息を吸うというより、倒れた身体へもう一度命令を出す動きだった。


 魔導士は動かない。灰の髪が石床に散ったまま。カイさんも動かない。白い袖とロザリオの銀が、冷たい光を受けている。二人の沈黙だけが、この広場の変わらない部分として残っていた。


 俺は潮鎚を持ち直した。


 蒼凪さんの前までは二歩。男の間合いまでは五歩。盾の戦士の盾までは斜めに三歩。勇者の剣が届くにはまだ遠い。斥候の投擲なら届く。イーリスの矢なら届く。ラウリは届かない。


 計算は短く済んだ。海守りは海で考えすぎない。波は待ってくれない。今ここでも同じだった。


 明るいのに、寒い。


 陽は列柱の間から白く差している。それなのに床の底だけが下がっていく。潮の匂いが薄れた。代わりに濡れた石の奥で長く眠っていた水の匂いが立つ。


 海面の匂いではない。港の匂いでもない。網を干す朝の匂いでも、船底に溜まるぬるい塩水でもない。


 もっと低い。


 もっと冷たい。


 俺の知っている海ではない水が、見えない場所でこちらを見ていた。


──────────────────────────────


「我は」


 低い声が落ちた。


 声は通路から響いたのではない。石床の上に置かれた。怒りも急きもない。ただ重いものを、重いまま置く声だった。


「我が主の、意である」


 男は足を止めていた。目深なフードの奥は暗い。坊主頭の輪郭が布越しに薄く見える。黒いローブは濡れていないはずなのに、光を弾かない。そこだけ朝が届いていないようだった。


 倒れている者の足元を踏まない歩幅だった。踏まない。けれど慈悲ではない。そこにあるものを避けるだけの、冷たい正確さがある。


 左手の指が腰の刀の柄に触れている。


 ただそれだけで、俺の足裏に圧が走った。抜かれていない刀が、抜かれた武器より重くなる距離。海ではなく戦場の感度が、それを先に拾った。


 蒼凪さんの呼吸が奥へ沈む。詠唱ではない。まだ言葉にする前の判断だった。海溝晶の青が、革帯の影の中で少し濃くなった気がした。


 男の指が柄を撫でた。


 撫でる、という柔らかい所作ではない。刀の長さを指で確かめるような動きだった。鞘は黒い。漆の奥に金の刻みが細く走っている。柄革は暗い赤。使い込まれた色だった。


 抜く瞬間を、俺は見失った。


「我が刀、大鯱なり」


 刀身が陽の下に立っていた。


 鞘から出た音は遅れて耳へ来た。先に見えたのは刃ではなく、刃の通った後だった。空気がそこだけ薄く裂け、藍色の痕が残っている。


 陽の下にある青ではなかった。光を受けて輝く青ではない。光を吸わずに沈む青。海の底を切り取って刀の軌道に薄く置いたような色だった。


 空気が刀を遅れて覚えている。


 そう感じた次の瞬間、俺の身体が半拍遅れた。海守りの本能は速い。波の崩れを読む。人の沈む前の息を読む。だがその青には、いつもの感度が追いつかなかった。


 刃の向きは俺ではない。


 蒼凪さんだった。


 俺は走った。


 二歩。潮鎚を縦に立てる。鎚頭の青を斜めに傾け、刀身を流す角度を作る。蒼凪さんの前に身体を差し込む。肩が、背中が、足裏が一つの面になる。


 衝突した。


 重かった。刀そのものの重さだけではない。人の腕から来る力ではない何かが、刃の芯に乗っている。刀身が潮鎚に当たった後、藍色の残像がもう一度遅れて鎚頭を叩いた。


 一撃が二度来た。


 本当の衝撃と、その衝撃を空気が思い出したような重み。手首が軋む。肘が沈む。肩の奥に冷たい釘を打たれたような痛みが走った。


 足が床を擦った。


 倒れない。倒さない。蒼凪さんの詠唱が始まるまでの距離を、俺の脚で買う。


 蒼凪さんは俺の肩越しに、もう位置を変えていた。半歩。さらに半歩。左手は海溝晶に掛かったまま。指先がいつでも線を引ける角度へ変わる。


 男が半歩踏み込んだ。


 その踏み込みには藍の痕がない。抜刀にはあった。斬りにはあった。踏み込みにはない。違いの理屈は分からない。ただ違いだけが、皮膚の下に刺さる。


 侍の流派、と俺は内で置いた。


 シロガネサマの白とは違う色の刀。中央大陸東方の流派。


 父の代までの記録には、こういう刀の話は混じっていなかった。少なくとも、俺が夜に何度も読み返した帳面にはなかった。


 潮鎚を握り直す。革が掌の汗を吸う。指の節が白くなる。


 一人では受けきれない。蒼凪さんを守る時間を作るには、正面を二枚にする必要がある。俺の鎚だけでは足りない。盾がいる。読みがいる。矢がいる。光がいる。


「動ける者は」


 蒼凪さんの声が背中の後ろで落ちた。


「前に」


 盾の戦士が重盾を上げた。ほんの数寸。だが鉄の面は男へ向いた。動かない膝を、腕の力だけで引きずるように正面へ寄せる。


「壁に、なる」


 低い声だった。願いではなかった。自分の役目を置く声だった。


 俺は返事の代わりに、潮鎚の鎚頭を重盾の縁へ寄せた。鉄と青が並ぶ。山の盾と海の鎚。足場は違う。だが正面は一つになる。


 斥候が片肘を立てた。唇の端に血が滲んでいる。


「読みは、こっちで」


 声は掠れていた。それでも眼は死んでいない。男の足首。膝。肩。柄に置いた指。見る場所が一瞬ごとに変わる。


 勇者が半身を起こした。


 聖剣の柄を握る手は震えている。肘で身体を支え、膝を立てようとして失敗する。それでも剣身の根元に戻った白が、先ほどより膨らんでいた。


 陽の白ではない。聖堂の白でもない。もっと硬く、もっと選ぶ光だった。


 剣そのものが、中央の男に反応している。


 勇者の身体より先に、剣が敵を見つけていた。そんなふうに見えた。


──────────────────────────────


 最初の形はかろうじて組めた。


 俺と盾の戦士が正面を塞ぐ。斥候が床から読む。蒼凪さんが後ろで海溝晶を握る。イーリスが楽器を胸の横へずらして矢を抜く。勇者が震える腕で聖剣を立てる。


 六人がそれぞれの残った力を、同じ一点に向けた。


 最初に飛んだのは斥候の短剣だった。


 狙いは胴ではない。喉でもない。男の右踵の後ろ。足場の支点。横向きに倒れた姿勢から投げた短剣は、速さより場所を選んでいた。


 男は読んでいた。それでも踵を一瞬浮かせるしかない。


 その一瞬を、俺と盾の戦士が踏む。


 盾の戦士の盾が男の胴へ入る道を潰す。俺の潮鎚が盾の右側に出る。盾では拾えない角度へ鎚頭を置く。二枚の前衛が半歩押した。


 刀が斜めに降った。


 鉄の盾が鳴った。鳴ったというより、広場の底で鐘が割れたような音だった。盾の戦士の肩が沈む。両足は床を噛んだ。盾は割れない。人の腕の方が、盾より先に悲鳴を上げている。


「読んだ。左!」


 斥候の声。


「鎚、拾えるか」


「拾います」


 男の左足が入れ替わる。次の斬りは左から来る。


 俺は潮鎚を回した。鎚頭の重さを利用して、柄を身体の前で滑らせる。左の斬りに合わせ、斜め上へ押し返す。


 背後で蒼凪さんの声が立った。


「断つ ── 《断絶境界 / Cut Boundary》」


 空間に線が引かれた。


 蒼凪さんの指先が、見えない継ぎ目を掴んで断つ。男の右脇から立ち上がろうとしていた半透明のものが、根元で消えた。触手になりかけた形だけが一瞬残り、次の瞬間には切り落とされた気配すら残らない。


 発動する前に、繋がりを切られた。


 男の肩がわずかに止まる。


 驚きではない。苛立ちでもない。評価を置き直すような短い停止だった。


 イーリスの矢が続いた。


 矢は男の喉ではなく、左手首の外側を狙っている。柄へ戻る指をわずかに遅らせる軌道。楽器を持つ者の指とは思えない正確さだった。だが男は刀の腹で矢を叩き落とした。


 木が割れる乾いた音。


 その音を割って、白い光が膨らんだ。


 勇者が聖剣を抜いていた。


 剣身の根元から光が膨らみ、刃先へ走る。列柱の輪の半分が白く照らされた。陽の斜光が二重になる。塩の白い輪がさらに白くなり、床の傷まで浮き上がる。


「Lævateinn ── 《暁光 / Dawn Light》」


 勇者の声は震えていた。


 体力は残っていない。腕も腰も、もう剣の重みに耐えていない。だが聖剣の光だけは過剰だった。勇者が引き出しているというより、剣が勝手に開いている。


 剣そのものが男を識別している。


 俺はそう感じた。理由は分からない。けれど剣の白は、倒すべき相手を見つけた光だった。


 勇者が斬り込んだ。


 走ったのではない。身体を前へ落とした。その勢いを剣が拾い、白い軌跡に変える。


 男の刀が受けた。


 藍と白が噛み合う。金属の音は短い。刀の軌道だけが遅れて青く残り、聖剣の白へ影を落とした。白は押す。藍は沈む。二つの光が広場の空気を分けた。


 勇者の腕が震えた。


 震えは剣先へ移る。光の面がほんの少し傾く。


 その傾きに、男の左手が入った。柄から離れた指が空中で短い印を切る。


 《深淵触手》が噴き上がった。


 石床の継ぎ目から。列柱の根元から。何もない空中から。青黒い半透明の触手が十数本、一斉に立ち上がる。


 同時に水がほとばしった。


 潮ではない。海面から跳ねた水ではない。海の下から汲み上げられたような、冷たく重い暗い水だった。塩気はある。けれど港の塩ではない。網に残る潮でも、波頭の飛沫でもない。


 俺の身体はその水を拒んだ。


 海守りの当代が知っている海とは違う。そう叫ぶ場所が身体の奥にあった。言葉にはならない。ただ掌の中で潮鎚が重くなる。


 水滴が石床へ落ちた。白い飛沫。塩の粒。床の白い輪に重なり、輪の縁を汚すように濃くしていく。


 イーリスの矢が触手に刺さった。


 刺さるはずだった。だが触手の表面が矢を飲み込み、胴の中でへし折る。乾いた音がした。木が死ぬ音だった。


 聖剣へ触手が殺到する。


 白い光が触手を焼く。いや、焼いているのではない。拒んでいる。剣が自分へ触れるものを、敵として弾いている。


 光はさらに膨らんだ。列柱の影が細くなる。広場の半分が白に呑まれる。


 だが勇者の身体がついていかない。


 右腕の震えが大きくなる。肩が落ちる。膝が崩れる。剣だけが敵を見て、持ち主の身体が置いていかれる。


 一本の触手が白の側面を抜けた。


 剣身を狙わない。勇者の胸を打つ。


 衝撃で勇者の身体が後ろへ飛んだ。


「レオン!」


 盾の戦士の声が割れた。


 盾を横へずらそうとした動きが、途中で止まる。盾の戦士の膝はもう支えきれていない。盾の重さが味方を守る重さから、身体を縫い止める重さへ変わっていた。


 勇者が石床に落ちた。


 聖剣の柄は握ったまま。仰向け。胸が上下しない一拍があった。


 剣の光が消えた。


 根元の白も、刃先に残った白も、一度に引き上げられた。剣はそこにある。白銀の刃もある。だが応える相手がいなくなった。


 剣そのものは意志を残していない。


 勇者の意識が途切れた瞬間、光も途切れた。


──────────────────────────────


 男が前へ出た。


 刀の動きが切れない。上から来る斬りが横へ繋がり、横の振りが下の返しへ入る。節目はある。だが休みはない。水が低い場所へ流れるように、刀だけが次の形を知っている。


 俺は盾の戦士の盾の縁を支点に、潮鎚を回した。


 受ける。逸らす。殺す。鎚頭の重さを捨てず、柄の端で角度を拾う。刀が通るたびに藍の痕が残る。最初は大きな所作だけだった残像が、いまは短い振りの節目にも滲んでいた。


 空気が一拍ずつ遅れる。


 俺の感度も遅れる。


 追いつけないわけではない。追いつくために、余分な力を全部捨てる必要がある。呼吸。視線。肩。足の親指。すべてを刀の一拍だけに合わせる。


 盾の戦士が盾を押し戻した。


「俺の正面は、お前の正面だ」


 低い声だった。


 戦士の声だった。山の盾と海の鎚が、同じ正面を持つ。俺はその言葉に返事をしない。返事の代わりに、盾の縁へ潮鎚の柄を一寸寄せる。それで十分だった。


 斥候の短剣がまた飛んだ。


 今度は足ではない。男の右肩の後ろ。次の斬りが生まれる場所。短剣は刃で刺すためではなく、肩の動きを一瞬だけ濁らせるために投げられていた。


 男の肩が止まる。


 その隙を俺が拾う。潮鎚の鎚頭で刀身を外へ逃がす。盾の戦士の盾が胴の線を塞ぐ。蒼凪さんの呼吸が背中の後ろで深くなる。


 六人の形が、ほんの一瞬だけ噛み合った。


 俺の正面。盾の戦士の正面。斥候の読み。イーリスの矢。蒼凪さんの断ち切る線。勇者の消えた白の残り香。


 一瞬だけ、押せると思った。


 そこで男が声を落とした。


(へき)


 低い音だった。


 耳で聞いたのに、胸骨の裏で鳴った。意味は分からない。だが軽い言葉ではない。技の名でも、詠唱でもない。刀を持つ者が立ち方そのものに置いた言葉だった。


「磇を、下ろす」


 男の刀が止まった。


 動きの途中で止めたのではない。動きの終点として止まった。刃は空中にあり、男の足は石床へ深く落ちている。


 止まった男の周囲で、触手が立ち上がる。


「動かぬが、勝ちなり」


 動かない。


 ただ動かないだけで、こちらのリズムが崩れた。俺たちは動いて合わせていた。盾が受け、鎚が逸らし、短剣が濁らせ、線が断つ。その全部が、動く相手を前提にしていた。


 止まった相手に、動き続ける側が一拍余る。


 余った一拍を、男は潰した。


 《吸蝕》が開いた。


 空気が痩せたように感じた。肺へ入る息が薄い。傷の痛みとは別に、身体の奥の熱だけが細く引かれていく。海で冷えた人間を抱えた時の重さに似ていた。けれど奪われているのは体温だけではない。


 触手がまた噴き上がった。


──────────────────────────────


 噴出は四方から同時だった。


 床から。柱の根から。空中から。白い塩の輪の縁から。青黒い半透明の群れが、何十本も立ち上がる。


 その根元ごとに水が跳ねた。


 冷たい。重い。暗い。塩気を含んだ水が石床へ叩きつけられ、白い飛沫になって弾ける。水滴はすぐに床を濡らし、塩の粒が輪の白へ重なる。


 潮の匂いではない。


 俺はその違いを何度も覚え直した。知っている海なら身体が受け入れる。荒れた海でも、夜の海でも、赤く染まった夕方の港でも。けれどこれは、海守りが人を引き上げる海ではなかった。


 斥候が先に呑まれた。


「クソ……!」


 胸を一本の触手が打つ。横向きに身体を起こしかけた姿勢のまま、肺の中の息を全部押し出されたように折れる。短剣を握っていた指が開く。灰緑の眼は最後まで男の足を見ていた。


 盾の戦士の盾に触手が絡む。


 一本ではない。三本。五本。鉄の縁へ巻き付き、山の盾を床から剥がそうとする。盾の戦士は放さない。腕の筋が盛り上がる。歯を食いしばる音が、近くの俺にだけ聞こえた。


 骨の折れる音がした。


「ぐぉおおッ!」


 盾の戦士は盾を放さない。だが右腕は盾を動かす腕ではなくなった。半膝のまま重盾がわずかに傾く。


 イーリスの弓が折れた。


 触手が弓の中央を掴み、乾いた音で二つに割る。楽器の胴が胸からずれて石床へ当たり、低く空の音を鳴らした。イーリスは膝をついた。喉から声は出ない。出せないのではなく、出しても届かないと身体が知っているようだった。


 蒼凪さんの後ろに触手が回る。


「蒼凪さん、後ろ!」


 俺は走った。


 半歩でいい。蒼凪さんの前に入れば、まだ詠唱を守れる。触手の軌道は横。刀は中央。男の足は止まっていない。全部は拾えない。けれど一つは拾える。


 走った先で刀が来た。


 藍の残像が濃い。最大の振りだった。刃の本体より先に、沈む青が視界を塞ぐ。


 潮鎚で受ける。


 受けた瞬間、左の腰に冷たいものが入った。


 右ではない。左。


 右脇腹の傷へ意識が寄っていた。先日の傷。包帯の下で浅く癒えた場所。その警戒が、左の戻りを遅らせた。


 触手が左腰を抉った。


 革の戦闘服が裂ける。肉の下へ冷たい爪が入る。致命傷ではない。だが足から力を抜くには十分だった。


 左足が浮く。


 倒れる。


 そう思った。


 倒れなかった。


 右足で踏む。潮鎚の柄を握る。蒼凪さんの前から退かない。海守りの本能がまだ残っている。人を水から引き上げる時も、最後の力は理屈ではない。


 蒼凪さんの声が短く切れた。


「《海震 / Undersea Quake》」


 石床が震えた。


 大きくはない。男の足元だけが一瞬ゆるむ。塩の白い輪が細かく乱れ、水滴が跳ねる。


 その一瞬で、俺は蒼凪さんの真横へ身体を滑らせた。


 だが触手の一本が抜けた。


 蒼凪さんの右肩から胸の上へ、薄く線を引く。刀傷ではない。触手の擦過。深くはない。それでも血が走った。古い熱傷の痕と違う新しい赤が、白と青のローブに滲む。息が一度、深く乱れた。


 蒼凪さんは倒れない。


 倒れない代わりに、左手が海溝晶を強く握った。青が一段深くなる。痛みを押し込んで、次の線を引こうとしている。


「ヒュウマ」


 短い声。


「下がれ」


「嫌です」


 俺は下がらない。


 頷きもしない。首を動かす余裕がない。下がる場所もない。下がれば、蒼凪さんが刀の正面に立つ。


 それはできない。


 潮鎚の柄を握り直す。


──────────────────────────────


「我が手にかかった者は」


 男の声が落ちた。


 刀は構えたまま。男は動かない。触手だけが周囲で揺れている。低い水音が床のあちこちで続いていた。


「多い」


 掌が勝手に柄を締めた。意志ではない。指がそうした。潮鎚の革が食い込み、爪の内側が痛む。


「身を、使いよう、と」


 刀の切っ先が半分だけ動いた。


「問われ、応えた者たちも」


 俺は息を吸った。


 深く吸う。肺の奥まで。吐く息は浅い。胸の中で何かが乱れそうになる前に、息だけで押さえる。


 潮鎚を握り直す。


 それだけだった。


 蒼凪さんの視線が一度だけ俺へ来た。問わない。慰めない。触れない。必要なら支えられる距離を保っている。それが分かったから、俺は目を逸らさずにいられた。


 先日の対話で口にした影を、ここで言葉にしない。


 言葉にすれば、潮鎚が揺れる。


 父さん、と呼ばない。


 父、とも呼ばない。


 息を一度、深く吸う。


 塩の匂いではない冷たい水の匂いが、喉の奥に入った。俺はそれを吐き出さず、胸の底へ沈めた。


 潮鎚を握る。


 まだ握る。


 それだけで立っていた。


──────────────────────────────


 決定打が来た。


 男の刀が動いた瞬間、藍の残像が三本に見えた。実際の刀身は一本のはずだった。けれど空気が遅れて覚えた斬りが、刃の前後に沈む青を置いている。


 本物を読む時間は半秒もない。


 俺は中央へ鎚頭を置いた。


 外れた。


 本物の刃は左寄りだった。


 右脇腹が裂ける。


 包帯の上から斜めに切られた。先日の傷の縁が開く。癒えかけた肉がもう一度引き剥がされ、熱い痛みが胸の中央まで走る。


 血の量は少ない。だが力が抜ける。


 右手が潮鎚から滑りかけた。


 倒れる。


 二度目の予感。


 蒼凪さんの後ろに触手がもう一本入っている。


 俺は左手だけで柄を握った。右手の指は使えない。肩も脇腹も言うことを聞かない。それでも左手で潮鎚を立てる。鎚頭を床へ近い角度で置き、蒼凪さんの正面を塞ぐ。


 盾としては足りない。


 けれど空けるよりはいい。


 蒼凪さんの左手が海溝晶を握り直した。青い石が革帯の中で濃くなる。次の宣告の入口。あの手が線を引けば、まだ何かを断てる。


 触手がその手を打った。


 指の付け根を横から弾く。骨は折れていない。だが握る力が一瞬抜ける。海溝晶を押さえていた指が、革帯の縁から外れた。


 蒼凪さんが膝をつく。


 倒れない。膝で止める。けれど左手は石から離れた。詠唱の芯がそこで途切れる。


 俺はまだ立っていた。


 左手だけで潮鎚を握り、右脇腹から熱いものを流し、左腰に冷たい穴を抱えている。膝は震えている。視界の端が暗い。それでも立っている。


 斥候は横向きで動かない。勇者は仰向けで聖剣を握っているが、光はない。盾の戦士は半膝のまま盾を抱え、右腕を動かせない。イーリスは折れた弓の横で膝をついている。蒼凪さんは膝をつき、海溝晶から指を離している。


 立っているのは、俺だけだった。


 男が半歩前へ出る。


 刀身が俺の正面へ来る。


 その刃が止まった。


──────────────────────────────


 止めたのは男の腕ではなかった。


 男の懐で何かが震えた。


 音ではない。骨の内側へ直接触れる振動だった。耳で聞くより先に、歯の根が震えた。黒いローブの内側から、アズリウムの青が一瞬だけ滲む。


 潮鎚の青と似ていた。似ているのに、触れたくない青だった。海で使う道具の青ではない。命を引き上げる青ではない。命令を運ぶ青だった。


 男が刀を構えたまま、その振動へ意識を向けた。


 フードの奥の顔は見えない。けれど重心が変わった。刀の先ではなく、懐の奥へ身体が傾いた。


「戻れ」


 低い声。


「次の段が、始まる」


 復唱だった。


 男自身の判断ではない。どこかから届いた命令を、そのまま声に乗せている。俺たちへ聞かせるための声ではない。けれど隠す気もない声だった。


 男は攻撃を止めた。


 刀は下ろされない。触手の何本かは空中で止まっている。残りは床へ、柱の根へ、何もない空間へ戻っていく。水だけが遅れて石床を濡らした。


 俺は潮鎚を握り直そうとした。


 左手だけで握っている。右手はもう添えられない。立っていること自体が、潮鎚の重さに身体を預けているだけだった。


 男の視線が広場を渡る。


 魔導士。カイさん。勇者。斥候。盾の戦士。イーリス。蒼凪さん。段下のラウリ。倒れている者と膝をついている者を、順番に確認していく。


 生きているか。死んでいないか。


 それだけを測る目だった。


 段下のラウリの上で視線が短く止まる。巨躯はまだ動かない。祭祀官の身体が、聞こえすぎるものに縫い止められている。男はそれを拾い、すぐに外した。


 刀が鞘へ戻り始めた。


 納刀の所作は遅い。遅いのに隙がない。鞘の口へ刃が入る直前、刀の藍が一度だけ陽を返した。残像はない。刃は完全に黒い鞘へ収まった。


「我が名は」


 男の声が落ちる。


「ロドル・ヴァシレフ」


 それだけだった。


 通り名も、属する場所も、余分な説明もない。本名だけを置いた。倒した相手に名を残すことが、男の中では礼節なのだと分かった。勝ち誇りではない。冷たく硬い礼だった。


「気概はあるな、賢者殿」


 男が半歩下がった。


「次は、容赦しない」


 踵を返す。


 倒れた者の足を踏まない。来た時と同じ歩幅で、同じ間合いで、通路の方角へ歩く。振り返らない。背中に迷いはない。


 去り際に、視線だけが俺の上を通った。


 見たのかどうかは分からない。フードの奥の眼がこちらを向いたとも言い切れない。ただ何かが通過した。刃ではない。言葉でもない。硬い影のようなものが胸の上をなぞった。


 俺はその硬さを知っている気がした。


 知っている、と言葉にしてはいけない気がした。


 ロドル・ヴァシレフの背中が通路の影へ入る。


 足音が遠くなる。


 一歩。間。もう一歩。


 潮鎚の柄を握る左手に、革のざらつきが戻ってくる。戻ってきたということは、さっきまで感覚が遠かったのだと分かった。


 足音が消えた。


──────────────────────────────


 広場は静かになった。


 陽の斜光は変わらない。列柱の影も変わらない。塩の白い輪も、床に広がった暗い水も、そこにあるものとして静かに残っている。


 変わったのは人間の方だった。


 九人が倒れていた。


 ある者は完全に意識を手放し、ある者は膝だけで身体を支え、ある者は呼吸だけをかろうじて残している。広場の中央に、戦いの後の匂いが沈んだ。血。塩。濡れた石。冷えた鉄。折れた木。


 俺は立っていようとした。


 立っていなければならない。そうでなければ、海守りの当代として何かが終わる。誰かを引き上げる者が先に沈んではいけない。最後まで浮いている板でなければならない。


 立つことが海守りだ。


 立ち続けることが、海守りの当代だ。


 左手で潮鎚を握る。右手は使えない。右脇腹は再び開いた。左腰は触手に抉られている。血の熱と水の冷たさが、身体の左右で別々に脈を打つ。


 それでも立つ。


 立て。


 膝が床へ向かった。


 意志が止められない。海で鍛えた脚が、救援で何度も踏み止まった足が、今は命令を聞かない。海守りの本能ですら身体を支えきれない。


 潮鎚の柄を握り直そうとした。


 握り直せなかった。


 指の腹から革の感触が離れていく。ゆっくりだった。ひどくゆっくりだった。父が遺した武器。家伝の潮鎚。アズリウムの青。その重さが俺の手の中から下へ移っていく。


 蒼凪さんの方を見る。


 蒼凪さんは膝をついたまま、こちらを見ていた。声はない。声を出す力はたぶん残っていない。それでも眼は俺の方角を向いている。


 蒼凪さん、と呼ばない。


 凪、とも呼ばない。


 呼べば何かが崩れる。俺の中の形が、最後の支えを失う。


 胸の中で、父の印章が重い。


 重さは、今日も変わらない。


 潮鎚の柄が、手の中から滑った。


 立ち続けることが、できなかった。

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