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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
52/58

声の戻る

 わたくしの喉から音が戻りません。


 声を押し出そうといたしますと、喉の奥で乾いた膜がひとつ捲れるように擦れます。矢柄に刻まれていた黒い文字をほどいた名残が、まだ粘膜の端へ薄く貼りついてございました。痛みではございません。痛みなら扱いようがございます。これは歌の芯だけを削り、息が通るたびに声を細くしてゆく代償でございました。


 詩は世界を呑むと言った。


 呑まれたのは、五人だけだった。


 その差を、わたくしは弦の張りから数えておりました。石床へ乾きはじめた塩の白。抜けた天井から降りる朝の光。倒れた方々の胸郭が上下する遅い間合い。歌に編む者として、当事者にならずに見届ける側として。


 わたくしは、見られる場所を選んでおります。


 その句が胸の底へ沈みます。口には出せません。出せたとしても、いまの声では広場の砂に吸われて終わりでしょう。されど内側では、まだ言葉が形を保っております。観察者の距離。吟遊詩人の矜持。弓を引いた指の痺れ。その三つが、いまのわたくしを立たせてございました。


 蒼凪殿は広場の中心から半歩だけ退いておられました。海溝晶の青は革帯の内側へ戻り、左手の指はその縁でわずかに止まっております。古い熱傷の痕が朝日に薄く浮きました。新しい傷ではございません。癒えることを求めていない痕。されど戦の熱を浴びた皮膚は、淡い赤を一段濃くしておりました。


 蒼凪殿の呼吸は乱れておりません。乱れていないように見せておられます。肩を上げず、肘を低く保ち、胸の前に余分な力を置かない。されど足裏が石を掴む圧だけは、戦の直後の重さを残してございます。整った所作の下で、身体がまだ次の一撃を計算しているのが見えてございました。


 ヒュウマ殿は柱の欠けから索具を外しておられました。湿った縄が石を擦り、塩の粒をぱらりと落とします。腰へ巻き直す手は速い。されど結び目を締める瞬間だけ、右脇腹の革が小さく引き攣りました。包帯の下の傷が、動きに遅れて自分の在処を主張したのでございましょう。


 潮鎚を床へ置く音がいたしました。乾いた一音。戦を終えるには十分な音でございます。ヒュウマ殿は顔に出されません。若い海守りの当代は、痛みを観客へ渡さない所作をご存じでございます。ただ歩幅が半拍だけ狭い。腰の回し方が、いつもの救援者の滑らかさより少し硬うございました。


 ラウリ殿は段下で膝をついておられました。巨躯が折れると、石床の広さが一段変わって見えます。耳を覆っていた手は下がりかけ、指先はまだ空中で行き先を迷っておりました。震えはございません。震える力がないのではございません。恐怖が過ぎたあとに、身体が遅れて世界へ戻る途中の静けさでございます。


 塩水は彼の膝元までは届いておりませんでした。白い輪はすぐ手前で途切れております。祭祀官を囲うように、偶然の境界が残ってございました。そう見えるものは、後の歌ではしばしば意味を持ちます。されどいまは、意味を与えすぎてはなりません。ただ観察いたします。


 倒れた五人は、五通りの終わり方で石床におられました。


 魔導士殿は仰向けに近い姿勢で倒れておられ、片膝だけが曲がっております。短杖は指先から一尺ほど離れてございました。届くはずの距離に、届かなかった距離。灰色の髪が塩を含んで床に貼りつき、指の外側には細い血の線が引かれております。最後まで観察しようとした方の、未完の手つきでございました。


 神官殿は横向きでございました。ロザリオを握った手を胸の前に折り、唇は祈りの途中で止まっております。声はございません。息だけが出入りしております。白い神官服の袖口に塩が滲み、薄金の刺繍が朝の光を受けてわずかに鈍ってございました。


 盾の方は半膝の姿勢を崩しきっておりません。重盾の縁へ頬を預けたまま、眼だけが開いてございます。鉄の面は後衛側へ向いたまま。倒れてなお、守る向きが残っております。山の戦士の身体には、言葉より先に向きが宿るのでございます。


 斥候の方は横向きで、片手に煙の名残を握っておられました。握っていると申しましても、煙はもう指の隙間から消えかけております。短剣は手の届かない場所。されど彼の指は床の継ぎ目を探してございました。逃げ道。支点。起き上がる角度。その三つを、倒れたまま測っておられます。


 勇者殿は仰向けでございました。右手は聖剣の柄を握ったまま、剣身の根元にあった白い光の跡を追っております。光はすでに消えておりました。消えたものを、眼がまだ見ようとしている。閉じかけた瞼がもう一度開きます。判じる眼へ戻ろうとする意志が、疲労の底で揺れてございました。


 息は五人とも、しておられます。


 わたくしは楽器の弦に指を置きました。鳴らしません。鳴らさないための押さえ方で、弦の張りから広場の呼吸を拾います。木。腸線。指先。湿気を吸った弦はわずかに重く、先刻までの詩の熱をまだ抱えてございました。


 朝の白い斜光が広場の中央へ落ちております。天井の抜けから差す光は、壁面に遮られずまっすぐ石へ届いてございました。塩水の引いた跡は白い輪となり、列柱の根元には蒸散した塩が粉のように残っております。


 潮の匂いが濃うございます。鉄の匂いが混じります。焦げた革。濡れた石。吐息の熱。明るいのに寒い。寒いのに、汗は背中に残っておりました。


 先刻まで世界を満たしていた圧は沈みました。されど消えたわけではございません。神殿は静かになったふりをして、まだ底で息をしてございます。


──────────────────────────────


 わたくしは楽器を抱え直しました。


 弓を肩から外し、矢筒の蓋を閉めます。射の道具を仕舞う音は小そうございました。それでも広場では十分に響きます。戦を終える所作は、言葉よりも速く相手へ届くものです。蒼凪殿の眼がこちらへ向きました。問いはございません。わたくしが何をするかを、すでに察している眼でございました。


 革袋の小さな鞘から、骨で削った針を取り出します。白く滑らかな針。旅のあいだに何度も使ってまいりましたが、先端の艶は失われておりません。指の腹で握ると、骨の冷たさが皮膚の熱を吸います。爪の脇で針先を確かめ、わたくしは息を薄く整えました。


 これは矢を編む所作ではございません。誰かの声を奪うためでも、動きを止めるためでもございません。露を結ぶための針。世界樹の口伝の針。慈悲と呼ぶにはあまりに細い回線ですが、それでも与える側へ向いた術でございました。


חֶסֶד(ケセド) ── 《恵の露 / Blessing Dew》」


 声は掠れました。音の縁が割れ、最後の英語の響きは弦に半分支えられて落ちます。楽器が低く一度鳴りました。わたくしの声の不足を、木の胴が代わりに受け持ってくれます。弦は張りすぎておりません。されど一音の底に、朝の湿りと塩の重みを抱いてございました。


 針の先に淡い緑が滲みました。葉の色ではございません。森の色でもございません。夜明け前の樹皮に宿る、露になる直前の光。神話の樹が世界へ零した恵みの、ごく薄い片鱗。わたくしの指先に結べるのは、いつも数滴だけでございます。


 数滴。


 それだけを、わたくしは作ります。大河ではございません。泉でもございません。舌に乗せれば消えてしまうほどのわずかさ。されど命は時に、わずかな水で戻ります。


 最初の一滴を、ラウリ殿の唇へ。


 膝をついた彼の前へ、わたくしは半歩近づきました。巨躯の祭祀官は、膝を折ってなお大きくおられます。肩は広く、首は太く、衣の下には戦士ではない種類の強さがございました。されど唇は乾いております。声を出せない方の唇は、ただ黙っている方の唇とは違います。音の入口が、内側から閉ざされているのでございます。


 わたくしは指の腹で露を支え、唇の上へ運びました。


 ラウリ殿の唇が動きます。受け止めるための小さな動き。露が落ちました。飲み込む音はほとんどございません。されど喉の表面にあった固い張りが、薄紙を剥がすように緩んだのが観察の眼に見えてございました。


 喉の奥で何かが大きく開いたのではございません。もっと浅いところ。声帯へ向かう道の入口が、わずかに湿りを取り戻したのでございます。耳を半分覆っていた手が下がり、指が石床に触れます。ラウリ殿の瞳が深く瞬きました。戻ってきた世界を、一度まぶたの裏で確かめるような瞬きでございました。


 二滴目を、蒼凪殿の左手へ。


 蒼凪殿は海溝晶を抜きません。ただ左手を差し出されます。開かれた手の甲には古い熱傷の痕があり、指の腹には術を使う方の硬さがございました。わたくしはその痕の上へ、露を一滴落とします。


 古傷は癒えません。癒やしてよいものでもございません。痕はそのまま残りました。されど皮膚の上へ貼りついていた消耗の膜が、朝露に洗われるように一段引きます。蒼凪殿の右肩の角度がごくわずかに変わりました。胸の奥の息が、音もなく深くなったのでございます。


 礼はございませんでした。少なくとも言葉としては。けれど蒼凪殿の眼が一度だけ細くなり、すぐ元へ戻りました。あれで十分でございました。歌に編むには地味すぎる所作です。されど近くで見る者には、よく分かります。


 三滴目を、ヒュウマ殿の右脇腹へ。


 ヒュウマ殿は革帯を緩めかけました。すぐにやめられます。公的な場だと判断なさったのでしょう。代わりに半身をわたくしへ向け、包帯の位置が分かるよう呼吸を止められました。革越しに白い布の輪郭がわずかに浮きます。そこへ露を落としました。


 布が緑の光を吸います。光はすぐ消えました。その下で、傷の縁が一拍だけ緩みます。完全には閉じません。深いところの痛みは残ります。されど引き攣れは少しほどけ、ヒュウマ殿の背筋がほんの少し伸びました。


「助かります」


 短い礼でございました。声は明るさを抑え、芯だけを残しております。海守りの当代として、必要な言葉を必要なだけ置く声。わたくしは頷く代わりに、弦へ指を戻しました。


 残った露を、自分の喉へは向けません。


 向けても届かないことを知っております。《恵の露》は他者へ分けるための術であり、わたくしが先刻支払った声の代償は戻しません。歌い手が自分の歌で自分を救えないというのは、なかなか皮肉が利いております。平時なら笑って銀貨の一枚でも稼ぐところですが、いまは笑う声も惜しゅうございました。


 最後の一滴を指先で少しだけ留めます。緑の光が爪の脇を照らしてございました。次に誰かが息を失うかもしれません。次に誰かの声が必要になるかもしれません。わたくしはそれを小瓶へ戻しました。


 楽器の弦を一つ鳴らします。


 低い音が広場へ落ちました。術の終わりを告げる音。詩を継ぐ音ではございません。場に、いまは癒しがここまでであると知らせる音でございました。


 蒼凪殿の眼がまた一度わたくしへ向きます。声にならない礼がそこにございました。わたくしはそれを受け取り、楽器を胸へ戻しました。


──────────────────────────────


 斥候の方が最初に動かれました。


 身体ではございません。眼でございます。


 塩の白い輪。わたくしの針。ラウリ殿の唇。蒼凪殿の左手。ヒュウマ殿の脇腹。倒れたままの視線が、三点どころか五点を一息でなぞります。荒い呼吸の底で、職能の眼だけがまだ軽うございました。仕留める方の眼が、仕留められないための眼へ変わっております。


 斥候の方は風を読んでおられました。広場には強い風などございません。されど抜けた天井から落ちる空気。通路の奥から流れる冷気。塩水が引いた床の湿り。それらの動きが、彼の瞳の中で線になってございます。海上で生きた方は、ほんのわずかな流れを見捨てません。


 彼の踵が半寸浮きました。立とうとしたのではございません。足がまだ自分のものか確かめたのでしょう。膝までの重さ。腰の反応。胸の詰まり。出口の位置。短剣までの距離。倒れたままでも、逃げる準備と残る準備を同時に測っておられました。


 五人の中で、斥候の方の意識が最も明瞭だった理由は二つございます。ひとつは斥候としての眼。もうひとつは海で鍛えた身体の逃がし方。渦の水を真正面から受けず、流れの端へ身体を滑らせる癖が、彼の骨に残っているのでございます。


 蒼凪殿の足元が半歩だけ動きました。


 近づきすぎません。遠ざかりもしません。警戒を解かないまま、攻めの構えだけを解いておられます。左手は革帯へ戻っておりません。指の腹は外に開き、掌はわずかに見えました。圧を置かない方の手でございます。


 斥候の方の眼が、その左手を見ました。


 見て、出口へ戻ります。唇の端がわずかに動きました。声にならない笑い。やる気はない、という海賊あがりの短い合図。蒼凪殿はその合図を取られました。頷きません。ただ呼吸を一つ置かれます。


 盾の方が息を吐かれました。


 低い音でございました。岩の内側から空気が抜けるような音。言葉ではございません。けれど戦士の言語としては十分でございます。盾の方の右手が重盾の縁から離れ、指が鉄を押しました。


 鉄が石を擦ります。


 重盾の下端が床から外れ、半膝の横へ倒されました。伏せられた鉄面が、鈍く朝日を返します。停戦の所作。武器を捨てるのではございません。戦う意思を置く所作でございます。山の戦士が自分の言葉より重いものを床へ預ける音でした。


 ヒュウマ殿が潮鎚を握る手の力を抜かれました。


 抜いて、床に立てます。柄の下端が石に当たり、乾いた音がもう一度広場へ置かれました。盾と鎚。山と海。重さの違う二つの武器が、同じ意味を場に示してございます。


 蒼凪殿は海溝晶へ手を戻しません。ヒュウマ殿の右脇腹の痛みも、ラウリ殿の声の戻りも、倒れた五人の呼吸も。すべてがまだ不完全で、だからこそ武器を置く音には重みがございました。


 勇者殿の眼がゆっくり開きます。


 聖剣の根元の白い光は、もう消えております。だが消えた光の場所を、彼の眼はもう一度見ました。そこから視線を引き剥がし、蒼凪殿を見ます。判じる眼が戻ろうとしております。遅い。重い。それでも戻ろうとしてございます。


 わたくしは弦に触れたまま、息を潜めました。声が戻らないわたくしの代わりに、広場そのものが次の言葉を待っております。


──────────────────────────────


「あんたら」


 斥候の方が最初に声を出されました。


 倒れたままの声でございます。喉の使い方は荒い。だが通ります。甲板の上で風に負けない号令を出してきた方の声でございました。掠れの中に、笑いの癖がまだ残っております。


「同じ潮目を、追ってたか」


 短い問いでございました。問いというより、結論の端をこちらへ投げた形に近うございます。停戦の硬さを軽口で割り、割った隙間から本題を覗く。斥候の方らしい、率直な切り出しでございました。


 蒼凪殿は半拍置かれました。


 その半拍は長うございました。広場の塩が乾く音まで聞こえそうです。斥候の方の眼。盾の方の伏せた重盾。勇者殿の握ったままの聖剣。蒼凪殿はそれらを並べ、必要な答えの幅を測っておられます。


「少なくとも」


 蒼凪殿が言いました。


「そこの祭祀官を、取り返した側だ」


 声は短い。感情は載せません。されど先刻までの対峙から、半歩だけ進んだ言葉でございました。殺す側ではない、では足りない。取り返した側だ。能動の位置へ、ご自身たちを置かれました。


 斥候の方が唇の端だけで笑いかけます。


「だろうな」


 それだけ返されました。喉の力がまだ戻り切らず、笑いは息に混じって終わります。だが眼には、分かったという色がございました。軽口で済ませるには重い。重くしすぎるにはまだ早い。その均衡を取っているのでございます。


 ヒュウマ殿が潮鎚の柄を撫でました。指先で木目を一度なぞり、盾の方へ視線を向けます。戦士同士の眼の交差でございました。そこには挨拶より先に、構えの評価がございます。脇腹の庇い方。足の置き方。鎚の重心。盾の方はそのすべてを見ておられました。


「お前の構え、悪くなかった」


 盾の方が低く言われました。


 余計な飾りのない声でございました。褒め言葉としても謝罪としても過不足がございません。戦った相手に、戦士として返す言葉。石床の上に伏せられた盾の横から出る声は、重い鉄の裏側を通ってきたように響きました。


 ヒュウマ殿は短く頷きます。


「お前の盾も」


 返礼も短い。若いのに、返す場所を間違えません。盾の方の口元がわずかに動きました。笑いではございません。納得に近いもの。潮鎚と重盾の間に、戦士同士の細い橋が架かった瞬間でございました。


 斥候の方が横から小さく息を漏らします。


「いいねえ。殴り合ったあとにしか通じねえ会話だ」


 声は軽うございます。けれど誰も咎めません。場の張りを切らずに少し緩めるための言葉だと、皆が分かっていたのでございましょう。勇者殿の眼が一度斥候の方へ流れ、すぐ蒼凪殿へ戻りました。


 わたくしは楽器の胴を抱え直しました。弦の張りが胸骨に触れます。弦は湿りを吸って、少しだけ音が鈍うございました。いま鳴らせば、戦の余韻を拾いすぎるでしょう。ですから鳴らしません。観察だけを続けます。


 わたくしは、見られる場所を選んでおります。


 内側でまたその句が立ちます。先刻は矢と詩のために選んだ場所でございました。いまは沈黙を置くために選ぶ場所でございます。見られる位置にいるからこそ、声を出さずに済むこともございます。


 歌に編む者として、当事者にならず、見届ける側として。


 蒼凪殿の沈黙。ヒュウマ殿の短い返礼。盾の方の低い評価。斥候の方の軽口。勇者殿の戻りかけた眼。それぞれの音を、わたくしは胸の楽器に入れていきます。まだ歌にはいたしません。歌にするには、熱が近すぎました。


──────────────────────────────


 ラウリ殿が唇を動かされました。


 今度は、声の手前ではございません。声になろうとしております。露が喉に落ちてから少し時間が経ち、呼吸の音が変わってございました。最初は乾いた擦れ。次に湿りを含んだ息。そしていま、喉の奥に低い響きが戻りつつあります。


 広場の視線が、彼へ集まりました。


 蒼凪殿は一歩寄りません。ヒュウマ殿も動きません。勇者殿は仰向けのまま眼だけを向けております。盾の方と斥候の方も、倒れた姿勢のまま待っておられます。魔導士殿と神官殿は意識がございません。それでも二人の沈黙もまた、場の一部でございました。


「お声を」


 ラウリ殿の最初の音は、喉の底から出ました。


 石床を震わせるほどではございません。だが巨躯の奥にある低い洞から、長く閉じていた音が戻ってくるような声でございました。語尾に掠れが残ります。消耗から完全には戻っておりません。けれどその掠れさえ、祭祀官の言葉に重みを加えておりました。


「出せずに、おりました」


 一語ずつ置かれます。急ぎません。声を取り戻した者ほど、言葉を急ぎたくなるものです。だがラウリ殿は急ぎませんでした。シレリオ家の祭祀官として、言葉を海へ捧げる時と同じ幅で置いておられます。


「失礼を」


 膝をついたまま、ラウリ殿は頭を下げられました。


 巨躯が沈みます。肩が下がり、首が折れ、額がわずかに前へ傾きます。海洋同盟の礼の形だと、わたくしは旅のどこかで見た覚えがございます。謝意と詫びを同時に置く礼。自分を低くするのではなく、言葉の場所を整える所作でございました。


 蒼凪殿が半歩寄りました。


「立てるか」


 短い問いでございました。


 ラウリ殿は頭を上げます。瞳の深い藍が朝日を受け、ほんのわずかに明るく見えました。


「俺の足では、まだ」


 掠れはございます。だが先ほどより音の芯が太うございます。


「されど、声は戻りました。賢者殿、海守りの当代殿、語り部殿」


 ラウリ殿の視線が順に巡ります。蒼凪殿。ヒュウマ殿。わたくし。呼称は公的で、距離は保たれております。だが声の底には、助けられた方の熱が沈んでございました。


「お助けいただいたこと、忘れません」


 蒼凪殿は答えません。左手が革帯の脇で一度だけ動きました。受け取ったという所作でございます。ヒュウマ殿は短く頷きました。わたくしは弦に指を置き、ごく低い音を鳴らさずに留めます。わたくしの喉では、いま返す礼が軽くなってしまいます。


 ラウリ殿の視線が、勇者一行へ向きました。


 五人をゆっくり見渡されます。倒れている者へ向ける眼ではございません。遠くから自分を探した者たちへ向ける眼です。彼は彼らと直接言葉を交わしたことがございません。彼らにとっても、ラウリ殿は拐われた青年であり、名と噂と足跡の先にいた存在でございました。


「勇者殿」


 低い声が勇者殿の方へ落ちます。


「シレリオ家の、ラウリ・シレリオでございます」


 本人の名乗りでございました。声を奪われていた祭祀官が、自分の名を自分の喉で置く。その事実だけで、広場の空気は一段変わりました。名前は声を持つと重くなります。記録で読む名と、本人の胸から出る名は違うのでございます。


「礼を、述べさせていただきたい」


 ラウリ殿の声は静かでございました。


「俺の島の者たちのために、足を運んでくださった方々に」


 斥候の方の口元が動きました。いつもの軽口を探して、見つけずに閉じます。こういう礼は、茶化せば自分が軽くなる。彼はそれを知っている男でございました。


 盾の方が頷きました。短い。だが重い。伏せた盾の横で、山の戦士は礼を受け取っておられます。


 勇者殿の唇が動きます。声はまだ形になりません。それでも彼は答えようとしておりました。判じる眼ではなく、応える眼で。わたくしはその変化を見逃しませんでした。こういう小さな変化こそ、後の歌で人を動かすのでございます。


──────────────────────────────


「俺たちが」


 勇者殿の声がようやく出ました。


 掠れておりました。胸を起こせないまま、喉だけで石床から言葉を押し上げておられます。息が足りない。けれど声の芯は折れておりません。


「先に、剣を向けたのは」


 一拍。


「俺たちだ」


 広場の温度が下がりました。


 光の下にある石床が、急に冷えたように感じられました。蒼凪殿の眼が勇者殿へ向きます。問わない。責めない。受け止めるために向く。ヒュウマ殿は潮鎚の柄へ手を置いたまま、息を止めないようにしておられます。


「あの判断は、誤りだった」


 勇者殿の声が続きました。


「祭壇の波形と、あなたの波形は別だ、と。仲間が読んでいた。聞こえていた。それでも、俺の手は、止まらなかった」


 言葉が石へ落ちるたび、聖剣の鞘がわずかに鳴ります。勇者殿の右手はまだ柄を握っております。握っているからこそ、いまの言葉は軽くなりません。剣を離してから言うよりも、剣を握ったまま認める方が重うございます。


 わたくしは息を細くしました。声の掠れが喉で疼きます。先刻の戦いの中で、勇者殿の眼が何を見て何を見落としたか。すべてを知るわけではございません。けれどいま彼は、自分の手の動きを自分の声で測り直しておられます。


「俺は」


 勇者殿は息を整えました。


「判じるためではなく、勇者であるために、抜いた」


 その句のあと、沈黙が落ちました。


 誰もすぐには動きません。斥候の方でさえ口を挟みません。盾の方の目が細くなります。ラウリ殿は膝をついたまま、勇者殿の声を受けておられます。祭祀官としてではなく、名乗りを交わした相手として。


 蒼凪殿は一拍待たれました。


 二拍目も待たれました。


 左手が革帯の海溝晶の脇で動きます。握るのではなく、触れて離れる。言葉を選ぶ前の小さな所作でございました。


「気にしていない」


 蒼凪殿の声は短うございました。


 その短さが、広場の張りを乱しません。赦しとも違います。慰めとも違います。感情を相手に渡さず、事実として置く声でございました。


「判じる時間が、削られていた。あなたの側の事情では、ない」


 勇者殿の眼が開きました。


 蒼凪殿はそれ以上説明なさいません。何を避け、何を狙い、どこで殺さないように合わせたかを、ご自身からは語られません。言い訳も謝罪もございません。ただ、判じる時間が削られていたと置きます。その言葉の中には、相手の判断を断じない冷静さと、ご自身の判断を譲らない硬さが同居してございました。


 斥候の方が低く息を吐きました。


「殺す気があったら」


 声に笑いの輪郭が戻ります。ただし今度の笑いは、場を逃がすためのものではございません。見たものを認めるための笑いでございました。


「俺たち全員、塩水の底だな」


 誰も否定しませんでした。


 蒼凪殿は黙っておられます。ヒュウマ殿も黙っておられます。ラウリ殿の指が石床を一度だけ押しました。わたくしは弦を軽く鳴らします。低い一音。分かったという音。言葉にすれば角が立つものを、音なら置けます。


 盾の方が頷きました。


「殺さない、と決めていた戦い方だ」


 低い声が床を這います。


「鞭の入り方、揺らしの幅、最後の渦の高さ」


 盾の方は一つずつ言われました。戦士が戦闘を読み返す時の声でございます。傷の痛みより、見落とした線の方を重く扱う声でございました。


「先に、読めなかった。それは、俺たちの側の、誤りだ」


 ヒュウマ殿が盾の方を見ます。短い視線。そこには、互いにまだ戦えると知った者同士の確認がございました。


「あの時のことは」


 勇者殿がもう一度口を開かれました。


 声はまた弱くなります。だが先ほどより、言葉の置き場所は定まってございました。


「また、落ち着いてから、話そう」


 蒼凪殿が頷きます。


「ああ」


 ただそれだけでございました。


 けれどその「ああ」は、広場の温度を一段上げました。信頼と呼ぶには早い。和解と呼ぶにもまだ足りません。だが対話の入口にはなりました。剣と塩水の間に、声が一つ戻ったのでございます。


──────────────────────────────


 ラウリ殿が口を開かれました。


「されば、お伺いしたいことが、ございます」


 声は戻りつつございます。語尾の掠れはまだ残りますが、言葉の支えは太くなっておりました。シレリオ家の祭祀官としての低い声が、広場の中央に静かに立ちます。


「俺の島を襲った者たちのことを、皆様、追っておられるのですか」


 勇者殿の眼がラウリ殿へ向きました。


「追っていた」


 短い応答でございました。息を使いすぎないためでもあり、迷いを挟まないためでもあるのでしょう。


「碇のフードの男。藍色の刃。複数の港での目撃情報。四日前のシレナ島の襲撃。その者たちを、追っていた」


 意識のない魔導士殿の代わりに、勇者殿が一覧を置かれました。魔導士殿なら、もう少し皮肉を混ぜたかもしれません。だがいまは、勇者殿の直線的な整理が場に合っておりました。余計な装飾がない分、言葉はまっすぐ中央へ届きます。


 蒼凪殿の眼が細くなりました。


「同じ者を」


 低く、確認する声。


「追っていた」


 それは告白ではございません。こちらの動機をすべて開く言葉でもございません。事実の重なる部分だけを、広場に置いたのでございます。蒼凪殿は自分たちの根に触れません。触れれば場が広がりすぎると知っておられます。


 ヒュウマ殿が潮鎚の柄を撫でました。


 その指先に、普段の世話焼きの温度はございません。海守りの当代として、そして父の死の輪郭をまだ完全には呑み込めていない者としての硬さがございました。


「碇のフードの男」


 ヒュウマ殿の声は短うございます。


「俺の父の死と、同じ系譜の影が、重なっている」


 広場に、別の沈黙が降りました。


 詳細はございません。刃の向きも、夜の色も、表向きの海難の輪郭も、ヒュウマ殿は語りません。ただ父の死と「あの者ら」の影が重なる、という疑いの輪郭だけが、石床の中央へ置かれます。蒼凪殿の眼がヒュウマ殿の横顔へ向きました。問わない。支えもしない。必要なら支えられる距離にいるだけでございました。


 斥候の方が低く頷きました。


「俺たちが、追ってた線と、同じだな」


 軽口の音は消えております。


「あの晩からだ。ヴェラーナ港で、商家連合の支部からあんたが出てきた時から。こっちはこっちで、妙な潮目を追ってた」


 勇者殿が頷きます。


「同じだ」


 短い。その一言で足りました。


 神官殿のロザリオが、横たわった胸元で光を返します。魔導士殿の短杖はまだ床に転がっております。二人が意識を取り戻していれば、話はもっと細かく枝分かれしたでしょう。だがいまは、細部へ踏み込まない方がよい。教会の奥の事情も、蒼凪殿たちの根も、ヒュウマ殿の父の死の周りに残された問いも。ここではまだ、声にする時ではございません。


 ラウリ殿はゆっくりと息を吸われました。


 吸った息が、胸の奥で一度重く止まります。島を襲われた方の呼吸でございました。祭祀官として整えていても、故郷の名が心の底に触れると、声はわずかに沈むものです。


「されば」


 ラウリ殿の声が続きました。


「皆様の追跡は、俺の島の弔いの一部でもございます。重ねて、礼を」


 彼は頭を下げました。


 先ほどより深い礼でございました。巨躯が石床へ近づき、肩の線が静かに沈みます。海洋同盟の伝統の中で、死者と生者のあいだに言葉を置く者の礼。わたくしはその所作に、塩と祈りと血の三つの匂いを感じました。


 勇者殿は動けないまま、眼で礼を受け取られました。盾の方は伏せた重盾の横で頷きます。斥候の方は笑いません。蒼凪殿は静かに見ておられます。ヒュウマ殿の指は潮鎚の柄から離れません。


 わたくしは思いました。


 声が戻るとは、ただ喉が鳴ることではございません。名を名乗ること。礼を分けること。死者のために、追跡の意味を置き直すこと。そのすべてが、いまラウリ殿の声に戻ってきてございます。


──────────────────────────────


 勇者殿の眼が、ゆっくりとわたくしたちへ向きました。


「ならば」


 声は弱うございます。けれど判じる眼の輪郭は戻っております。光はもう剣の根元にございません。だからこそ、彼自身の眼の動きがよく見えました。


「いずれ」


 勇者殿は息を整えました。


「俺たちで、一緒に──」


 その言葉は、最後まで届きませんでした。


 広場の温度が落ちました。


 急でございました。朝の斜光は変わりません。塩の白い輪も、伏せられた盾も、潮鎚の影も変わりません。なのに皮膚の表面だけが先に冷えます。潮の匂いの奥に、別の匂いが混じりました。


 鉄ではございません。血でもございません。海の匂いに似ておりますが、浜の明るさがない。濡れた石の底で長く冷えていた水の匂い。列柱の根元に残った塩が、微かに震えました。風は吹いていないのに、白い粉が一粒だけ崩れます。


 わたくしの楽器の弦が震えました。


 鳴らしておりません。指も触れておりません。だが胴の内側で、腸線がかすかに鳴ろうとして止まります。世界樹の口伝の片鱗が、耳ではなく皮膚へ警告を置きました。喉の掠れが急に乾きます。声を失った場所が、さらに細くなりました。


 ラウリ殿の呼吸が止まりかけました。


 巨躯の肩が一拍だけ縮みます。祭祀官の眼が通路の奥へ向かいました。その瞳の奥で、海の生き物の気配を聞く者だけが持つ感度が反応してございます。恐怖ではございません。身体が先に知ってしまったものへ、魂が遅れて名を探す時の硬直でございました。


 蒼凪殿が立ち上がられました。


 左手の指が革帯の海溝晶へ戻ります。まだ抜きません。けれど指の腹は青い石の位置を正確に捉えております。足の置き方が変わりました。半歩だけ広場の中心を取り直します。蒼凪殿の眼は、列柱の続く通路へ向いてございました。


 ヒュウマ殿が潮鎚を持ち直されました。


 柄の下端が床から離れます。鎚頭の青がわずかに濃く見えました。発動ではございません。握る力が戻っただけでございます。それでも空気は反応します。索具へ向かう左手が、腰の結び目を確かめました。


 盾の方が伏せた重盾へ手を伸ばしかけます。


 身体はまだ重うございます。だが戦士の反応は残っております。斥候の方の眼が出口ではなく通路へ向きました。勇者殿の右手が聖剣の柄を握り直します。動けない者たちの中にも、戦の線が戻ってまいります。


 足音が聞こえました。


 通路の奥から。


 一歩。間。もう一歩。


 足音を消す歩き方ではございません。むしろ聞かせております。だが乱暴ではありません。柔らかい。石を踏む足裏の圧が、余分な音を作りません。武人の歩み。職人の足取り。場を奪うことに慣れた者の豪胆。その三つが同じ歩幅に収まってございました。


 列柱の影が動きます。


 黒いフード付きのローブが、朝の光の境目へ近づいてまいりました。長身。広場へ入る前から、身体の重心がぶれません。深い色の布は塩気を弾くように落ち、目深なフードの下に顔の上半分を隠してございます。布の奥で、坊主頭の輪郭が薄く見えた気がしました。


 腰には刀がございました。


 長い刀。両手で扱うための柄。中央大陸東方の意匠を知る者なら、すぐに流派の匂いを嗅ぐでしょう。鞘は黒い。柄に巻かれた革は暗い赤。飾りは少ない。だが少なさが、かえって道具としての重さを見せておりました。


 男は通路の中央を歩いて、広場へ入ってまいりました。


 隠れません。急ぎません。倒れている五人を見下ろしもしません。ただ足元の位置だけを正確に測り、踏まない場所を選んで進みます。慈悲ではございません。無駄を踏まない職人の足でございました。人の身体も石の段差も、同じように計算へ入れております。


 剣は抜きません。


 左手の指が刀の柄に触れております。それだけでございました。けれどその触れ方が、抜くより重い。いつでも抜けると示すためではございません。抜かずとも場が自分へ傾くことを知っている手でございました。


 わたくしの楽器の弦が、止まりました。


 震えが消えました。音も消えました。鳴らしていなかった弦が、鳴らさないことさえやめたような沈黙。胸に抱えた木の胴が、急に冷たく感じられました。


 蒼凪殿の左手が海溝晶の上で握り込まれました。


 ヒュウマ殿の潮鎚が床から完全に離れました。


 ラウリ殿の呼吸が戻ります。だが巨躯は動きません。祭祀官としての所作が、身体をその場に縫い止めてございます。


 勇者殿の唇が止まりました。


「一緒に」の続きはもうございません。願いは途中で切れ、広場の空気に残ったまま冷えていきます。


 男は陽の下で立ち止まりました。


 目深なフードの下から、低い声が落ちました。その声で、広場の底がさらに沈みました。


──────────────────────────────


 願いが、声になりかけた。


 わたくしの弦が、止まった。


 通路の奥から、足音が来た。

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