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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
51/58

砕かれる

 光は、まだ噛み合っていた。


 白銀の剣光が前へ押し、潮鎚の青が横へ逃がす。二つの色は同じ一点で歯を立てたまま、芯を砕かずに石床へ硬い音だけを散らしていた。


 ヒュウマの踵が半寸沈んだ。濡れた桟板を踏み抜く直前に止めるような鈍い音だった。石の亀裂は広がりかけて止まり、列柱の影が遅れてその響きを呑んだ。


 朝は明るい。明るいのに寒い。天井の抜けから落ちる白い光は血の溝を照らし、濡れた黒だけが光を拒んでいた。潮と鉄と古い塩。三つの匂いが鼻の奥で冷えて固まる。


 俺は祭壇から手を離した。


 左手の指の腹に薄い熱が残った。古い熱傷の痕だ。皮膚の下で消え残った火種のように疼く。指を閉じる。開く。握力はある。感覚も戻る。


 救出の後の消耗は肺の底に沈んでいた。砂を飲んだ後のように重い。だが声には出さない。出せば形が崩れる。


 左手の熱傷の痕、息の底。二つに分けて置く。痛みは痛みの箱へ。疲れは疲れの箱へ。戦場へ出すものは、視線と声と足の置き方だけでいい。


 死体の血は低い祭壇の際でまだ濡れていた。石の窪みに残る赤黒い膜だけが、冷えた空気の中で温度を持って見えた。光はそこを照らす。照らしても清めはしない。


 ラウリ殿は段下で膝をついたまま、片手で耳を半分覆っていた。指は震えていない。震える力を残していないのかもしれない。だが膝は折れ切っていない。


 口は動く。声は出ない。喉を擦る呼吸だけが小さくあった。生きている音だ。俺はそれを拾い、戦場の外側の棚へ置いた。


 イーリスは楽器を抱えている。弦を鳴らす指ではなく、鳴らさない指で押さえていた。弦の張りを殺しすぎずに入口だけを閉じる。あの指はすでに戦場を聞いている。


 勇者は剣を抜いた。


 ヒュウマは、その前に立った。


 潮鎚の柄を握る腕に余計な力はなかった。肩は落ちている。膝は沈みすぎていない。港の濡れた甲板で潮を待つ者の重心だった。受けるのではない。行き先を決める立ち方だ。


 聖剣の若い男は真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎる。白い暁の光は前へ行きたがる。だが身体の向きは光に追いつかない。剣は応じる。肉体は遅れる。その半拍を、ヒュウマの潮鎚が受けていた。


 鎚を返した瞬間、ヒュウマの戦闘服の右脇腹で革の線がわずかに強張った。包帯の輪郭が一瞬だけ下から浮く。完璧な所作の中に、布が肌へ貼り直される小さな遅れがあった。


 傷の縁、まだ閉じきっていない。


 俺は声には出さない。ただ置く。置いたら次を見る。


 俺は、判じる前に剣を抜いた朝ではなく、抜かれた剣の後ろにある構造を読む朝に立っていた。


──────────────────────────────


 俺は祭壇に背を向けない。


 背を向ければラウリ殿の膝元が消える。イーリスの半歩が消える。ヒュウマの索具の余地も消える。五人の足と列柱の影と白い斜光の角度。欠けたものから死角になる。


 腰を落とす。祭壇から半歩だけ離れる。離れすぎない。守るのは祭壇だけではない。祭壇を含む場だ。


 海溝晶が左の腰の革帯の内側で青く点った。外へは出さない。革の中で待たせる。いま必要なのは大きな波ではなく、石の下へ入れる薄い重さだった。


 広場は円に近い。中央が少し沈み、列柱の根元が外周を刻む。石の継ぎ目は古い修繕で乱れていた。直線に見えて途中で曲がる。足を置けば遅れが出る。


 音にも円があった。剣と鎚の衝突音は列柱に当たり、遅れて戻る。息遣いが遠くで薄く跳ねる。鳴った音より、鳴る前の沈黙の方が広い。


 ヒュウマと勇者がぶつかる中央を、視界の端へ置く。


 右の半円で神官が膝を据えた。ロザリオの珠を一つ繰る。白い斜光が法衣に集まり、彼の周囲の空気を薄く澄ませ始めている。


 神官はロザリオを胸元に当てた。柔らかい声が出る。戦場で柔らかい声は弱さではない。広がるための声だ。


「Pater Noster, qui es in caelis」 (天におられる我らの父よ) ── 《光神の祈り / Prayer of Orvelis》


 白い祈りが彼を中心に半径数歩の場を作った。勇者と盾の男と魔導士の足元へ薄く届く。祈りの領域が、俺の足元から伸ばした重さの縁を吸っていた。


 俺の圧が消えたわけではない。だが石の下へ置いた重さの縁が鈍る。五人の息が一拍揃い、剣の戻りも盾の噛みもわずかに整った。神官として正しい支援だ。


 左の半円で魔導士が短杖を構えた。短杖の先を低くし、掌の影の糸を撚る。眼は俺の輪郭を見ていない。輪郭の奥へ焦点を沈めようとしている。


「Gravitas Magna, ad terram premat」 (重き力よ、地へ押さえつけよ) ── 《重落 / Heavy Fall》


 魔導士の声が低く落ちた。術式を組み立てる声だった。冷たく、乱れがない。研究者が記録に線を引く時の静けさに近い。


 天井の白い斜光が一拍だけ鈍る。俺とイーリスの足元に上から押さえつける重さが降りる。石床が床でなく蓋になる感覚だった。中階の術式としては組みが早い。


 俺は右足の下の石だけを先に捨てる。重さを受ける床から足の圧を抜き、半歩を円の中心へ流した。イーリスの弦が一音鳴る。低い一音が降りる重さの縁を撫で、彼の足元だけが葉陰のように軽くなる。


「面白いですね」


 イーリスの声は薄く笑っていた。笑いながら動いている。


 魔導士は眉を動かさない。短杖の石突きで床を叩き、次の術式へ移る。立ち止まらないのはいい。観察だけの男ではない。


 盾の男の重盾が、ヒュウマの剣戟の合間へ差し込まれた。盾の外側が斜めに入り、ヒュウマが鎚頭を逃がそうとした床の角度を潰す。鉄の面で受けるのではない。床の逃げ道を先に塞ぐ。


 ヒュウマは一歩ずらす。ずらすというより、濡れた板の腐りを踏まない海守りの足だった。盾の男はその一歩を塞ぐ。重盾の下端を石の目に噛ませ、半身だけで道を消す。


 索具がヒュウマの腰からほどけた。金具が柱の欠けへ飛び、乾いた硬音で噛む。索が巻き付き、彼の身体は一拍で三つ目の支点を得た。


 通さない、と彼は言わない。立ち方だけが言っていた。


 勇者の聖剣が戻る。剣そのものは光に引かれて速い。金髪の若者の肩は半拍遅れる。右肘が少し外へ逃げる。そこをヒュウマはまだ斬らない。


 盾の男の眼が後ろへ流れた。


 神官の領域。魔導士の短杖。柱陰の斥候。三つの後ろを一枚の重盾で読もうとしている。


 盾の男は、二つを守ろうとしている。


 俺は内で置いた。前だけなら戦士で足りる。前を受けながら後ろの祈りと術式を見るなら、身体に山道の癖がある。狭い道では落ちる者と来る者を同時に見る。


 斥候は柱の陰にいた。完全には消えない。消えた瞬間に俺の圧を踏むと分かっている足だ。踵が浮き、また落ちる。風の薄い使い方。職能で作った静けさ。


 俺は前足を半歩、場の中心へ寄せた。


「《海震 / Undersea Quake》」


 海溝晶が革帯の中で明滅した。石の下にある冷たい層が一度だけ押し上がり、また沈む。床が鳴ったのではない。床の下のものが息をした。


 勇者の前足が半拍遅れる。


 盾の男の重盾が床を噛み直す。魔導士の短杖が継ぎ目で擦れる。神官の祈りの領域が、薄く圧の縁を吸う。斥候は柱陰で踵を浮かせた。


 五人の足首だけを重くする。


 広場全体ではない。五人が触れている石の下へ均した重さを置いた。大きく揺らせばラウリ殿の膝が持っていかれる。深く入れれば柱が鳴る。だから一つ浅いところで止める。


 ヒュウマは重さを索へ逃がしている。潮鎚の柄も床へ噛ませている。彼の支点は三つある。右脇腹の革の下で包帯が一瞬だけ擦れたが、姿勢の線は崩れない。


 それでいい。


 俺は次を置く前に息を測った。


 ここまで。


──────────────────────────────


 神官の祈りは残っている。


 白い領域は五人の足元に薄く回り、俺の《海震 / Undersea Quake》の縁を少しずつ削っていた。光は刃ではない。けれど場に敷かれると厄介だ。動揺を沈め、闇を遠ざけ、擦り傷の痛みを遅らせる。


 勇者の呼吸が整った。聖剣の根元の白い暁が強くなる。神官がロザリオを握ったまま勇者へ顔を向けた。


「In Lumine Tuo, frater meus」 (汝の光の中で、我が兄弟よ) ── 《絆の光 / Bond of Light》


 白い糸が神官の胸元から勇者の剣へ伸びた。剣身の根元にあった光が一段押し上げられる。刃先へ届きかける。届き切らないが、本来より深く白が走った。


 ヒュウマの潮鎚がそれを受けた。


 鎚頭の青が押し込まれる。ヒュウマの踵が床を噛み、索具が柱で鳴る。右脇腹の革のラインに包帯の輪郭が薄く透けた。半拍だけ布が強張る。次の瞬間には消えた。


 彼は痛みを動きに入れない。だが身体は嘘をつかない。


 聖剣の光と勇者の身体は、まだ完全には噛み合わない。神官の光が出力を上げても、踏み込みの向きは少し遅れる。ヒュウマはそこへ鎚を置き、剣を折らずに角度を折った。


 魔導士が短杖を左へ振る。声が低く落ちる。


「Gravitas, ad me trahe」(引け)── 《引手 / Pull's Hand》


 床の継ぎ目から見えない手が出て、俺の踵を半歩前へ引こうとする。引かれる先には盾の男の射線がある。


 悪くない。


 俺は引かれる力に逆らわない。半歩分だけ許し、許した先の床へ《重圧 / Crushing Depth》を置く。見えない手は自分が引いた重さに巻き込まれ、石の下で潰れるように解けた。


 魔導士の眼が細くなる。


 続けて彼は短杖を上げた。天井の抜けから落ちる白い光の端に、柱の影が細く切れる。月ではない。だが影は影だ。彼はその細い影を刃に変えようとしていた。


「Luna Plena, umbra incidat」(影もて斬れ)── 《満月斬 / Full Moon Slash》


 薄い影の刃が、斜めからイーリスの弓手へ走った。昼の光では出力が低い。それでも手首を逸らすには足りる。


 イーリスは弓を持っていない手で楽器の胴を軽く叩いた。乾いた木音が一つ。影の刃は音の節に当たり、弓手の手前で角度を失った。


「わたくしは、見られる場所を選んでおります」


 イーリスの声は短い。勝ち誇らない。事実だけを置く声だった。


 魔導士は返さない。返す代わりに短杖の先を低くした。掌の影の糸が再び伸びる。今度は俺の胸ではなく、海溝晶の気配へ触れようとする。


 深い読みを試みている。


 聖剣を押し返す重さの質。俺の床への触れ方。革帯の奥で待つ青の中心。そこまでは見えている。


 だがその奥へは届かせない。


 俺は内で境界を引いた。影の糸が触れる手前で、声にせず置く。


 《断絶境界 / Cut Boundary》


 糸の先が冷たい水面へ触れた。触れた瞬間に滑る。沈まない。水の下へ入れない。薄い膜ではない。線だ。こちらと向こうを分ける線が、魔導士の眼と影を弾いていた。


 魔導士の瞳に理解が差す。


 届かない。


 塔の男だな。届くところまで届き、届かないところで止まれる。ただし止まるだけでは勝てない。


 魔導士は短杖の先で床の継ぎ目を撫でた。湿った夜の気配が呼ばれる。


「Ros Noctis, digitos ligat」(指を縛れ)── 《夜露結 / Night Dew Bind》


 夜露の糸が床から立った。湿った細糸がイーリスの左手へ回り、矢を取る手の指の関節へ絡もうとする。


 イーリスの詩が一拍低くなる。弦の音が露の粒を弾いた。だが全部は弾けない。一本が弓手の指へ残る。


 俺は《潮鞭 / Tide Whip》を細く出した。


 鞭の先で露の結び目だけを打つ。指には触れない。露は弾けて床へ落ち、白い祈りの領域に触れて薄く蒸散した。


 魔導士の短杖が一拍止まる。


 止まった間に、神官が新しい声を組み始めた。ロザリオの珠が二つ続けて動く。白い斜光に黒を含む重さが混ざる。指の中で銀の珠が締まった。


「Vigilia Aeterna, oculus mens vigilat」 (永遠の覚醒、心の眼は眠らず) ── 《不眠の枷 / Pillory of the Sleepless》


 中ほどの詠唱は長い。見えない石枷を作る気配がある。対象は俺だ。足だけではない。能動的な行動そのものへ枷をかけるつもりだろう。


 イーリスが肩から弓を引き下ろした。


 詩と射の持ち替えは本来なら隙になる。彼は隙を消さない。消さない代わりに、見られる場所へ置く。


 ヒュウマが索具を引き直した。


 柱の欠けに巻き付いた索が腰で締まる。潮鎚を縦に立て、柄を床の継ぎ目へ入れる。鎚頭を上にし、柄を下にする。索具と柄が一つの支柱になる。


 索を引いた瞬間、右脇腹の包帯の上で布が強張った。微かな擦れ音がした。彼の右の半身は普段より半拍だけ慎重だ。だが盾の男と勇者から見れば、柱と一体になった影にしか見えない。


 勇者の剣が斜めに来る。


 白い暁の光が刃先へ届きかける。神官の《絆の光 / Bond of Light》が押し上げた分だけ、さっきより強い。けれど足の向きはまだ遅い。ヒュウマは引かず、潮鎚で剣の角度を床へ流した。


 本来なら魔導士の方へ流れる軌跡だった。


 盾の男の重盾が差し込まれる。


 重盾の際が剣の流れを受ける。火花はない。白い光が鉄の縁で一拍だけ青く揺れ、斜めに床へ落ちた。


 俺は見た。


 盾の男は魔導士の方角を切った。前の剣を切ったのではない。後ろへ流れる剣筋を自分の身体で曲げた。


 その瞬間、彼の眼は神官を見ていない。


 イーリスの矢が掌の上で動いた。


 矢柄を水平に保ち、骨の細針で表面を刻む。粉が爪の脇へ溜まる。声は出していない。口元だけが薄く動き、文字に息を載せる。


 矢を作る所作だった。


 俺はその数秒をヒュウマに買わせる位置を見る。索具の角度。盾の差し込み。勇者の戻り。斥候の踵。魔導士の短杖。神官の中ほどで未完成の詠唱。


 五つの線の交点に、イーリスの数秒があった。


 戦場では十分に長い。誰かが息を吸い切る時間。誰かが足を踏み替える時間。誰かが神の名を完成させる時間。


 だから俺は床を握る。強くはしない。五人の足首へ置いた重さを、祈りの領域に削られながら保つ。深くすれば楽になる。楽な場所には余計な死がついてくる。


──────────────────────────────


 盾の男の重盾が、もう一度後衛へ流れた。


 今度は神官の方角だった。彼は剣戟の合間に一拍を盗み、神官へ盾の外側を寄せる。イーリスの射線が盾の影で一度だけ細る。


 神官の唇が続く。


 最後の音節が結ばれようとしていた。白と黒の混じった祈祷が、俺の足元から胸の内側へ石の枷を置こうとする。


 魔導士がそれを支える。


 短杖の先がまた低く沈む。掌の影が細く撚られ、研究者の冷静さが声に戻る。


「Gravitas Magna, ad terram premat」 (重き力よ、地へ押さえつけよ) ── 《重落 / Heavy Fall》


 再び《重落 / Heavy Fall》が降る。今度はイーリスの肩と俺の膝へ同時に落ちた。上から押さえる重さと、神官の石枷の予兆。二つが重なる。


 イーリスの指が矢柄の上で止まりかけた。


 ヒュウマが索具を緩める。潮鎚の柄が床から抜ける。抜けた半拍の隙へ勇者の聖剣が落ちた。刃の縁を炎が一瞬走り、すぐ白い光の内側へ戻る。


 ヒュウマは身体を浮かせた。索具に体重を預け、柱の周りを半円に滑る。剣は彼の影だけを切り、列柱の側面を擦った。白い石粉が散る。


 空いた右手で、彼は床を蹴って跳ねた石片を潮鎚の柄で弾いた。石片はイーリスの射線へ入る軌道だった。柄の腹が石片を斜めへ送り、矢の道から外す。


 《救い手》、と俺は内で名を置かない。彼の身体がそう動いただけだ。


 盾の男の眼がその動きを追い、神官から一瞬離れた。


 二つの方角に同時に向けない。


 限界であって弱さではない。彼は神官へ向ける一拍と魔導士へ向ける一拍を、同じ重盾で守ろうとしていた。斥候の柱陰の一拍も同じ鉄で塞ごうとしていた。重盾は一つだ。


 神官がさらにロザリオを繰る。指の中で銀の珠が一つ揺れた。


「Benedictio, scutum lucis」(光の盾よ)── 《祝福の盾 / Blessing Shield》


 白い薄膜が三枚、彼の前に重なって立った。神官は祈りを止めない。盾を張りながら中ほどの詠唱へ戻ろうとしている。正しい判断だ。


 イーリスの矢に最後の文字が乗った。


 骨針が矢柄の上で軽く跳ねる。乾いた種粉が親指で擦られ、矢柄の輪郭へ滲む。緑を含んだ灰色が息に触れて黒へ沈む。


 イーリスの口元が短く動いた。


 声は出ない。けれど矢の方角へ彼の声の薄さが吸われる。水ではないものの流れが、声の裏側から抜けた。


 矢が弓に番えられる。


 その瞬間の空気だけが乾いた。潮の匂いが薄くなり、矢羽の周囲に紙を裂く前の沈黙ができる。イーリスの肩が盾の影から半分だけ出た。


 視線と弓の軸だけを戦場に置く。残りの身体はヒュウマの索具の影へ預ける。半分だけ晒す。


 神官の唇が最後の句を結ぼうとした。


 矢が放たれる。


 盾の男が重盾を上げる。白い《祝福の盾 / Blessing Shield》も神官の前で光る。矢の先は一枚目の薄膜に触れ、速度を一度落とした。二枚目で軸が鈍る。三枚目で矢羽が震えた。


 だが矢柄の文字は止まらなかった。


 矢そのものを防ぐ盾は意味を持つ。けれど文字は言葉へ触れる。黒い粉が薄膜の継ぎ目を抜け、法衣留めの近くへ届いた。矢柄は鎖骨の手前で止まり、文字だけが布へ沈む。


 神官の口が止まらなかった。


 唇は「眠らず」の手前の形を残し、次に神の名へ戻ろうとした。最初の音は出る。次の音が句にならない。喉から空気は出る。舌も動く。ロザリオの珠も動く。だが名は結ばれない。


 陰を含む祈祷が崩れた。


 白い領域が揺れた。


 《光神の祈り / Prayer of Orvelis》の場が薄くなる。足元から吸われていた重さの縁が戻る。勇者の呼吸が一拍乱れ、聖剣の刃先へ届きかけた白が根元へ戻った。


 神官の眉がわずかに寄る。苦痛ではない。理解が遅れて届いた顔だ。息は吸える。唇も動く。それなのに祈りだけが身体から離れない。


 矢柄の文字が剥がれた。


 黒い花粉のように法衣の藍へ散る。粉は繊維へ吸われ、矢柄の輪郭が細くなる。神官は戦慄しなかった。まだ諦めていないからだ。


 彼は唇を閉じ、もう一度開く。最初の音節が出る。次が句にならない。三度目で唇の動きが変わった。呼ぶ動きから、確かめる動きへ。


 イーリスは矢を見送らない。


 弓を下ろし、楽器を抱え直す。指が弦に戻る。だが弦へ触れた瞬間、彼の口元が薄く震えた。


 詩を継ごうとして、声が掠れた。


 音程が一段落ちる。彼は楽器の支えに声の半分を預けた。詩の流れは止まらない。だが厚みは薄い。


 俺だけがその薄さを受ける。


 今の矢は、神官の声だけでなくイーリス自身の声も削った。


 俺は、声には出さなかった。


──────────────────────────────


 神官の祈りが声で結べなくなった瞬間、勇者の側が一段静かになった。


 勇者の剣戟は止まらない。盾の男の重盾も止まらない。魔導士の短杖もまだ動く。だが場に敷かれていた白い厚みが消えた。剣の音が前へ出る。盾が床を噛む音が太くなる。


 ロザリオの珠の小さな音だけが、右の半円で孤立した。


 魔導士がまだ立っている。


 彼は短杖を拾う手を変え、指の中の影を細く撚り直した。術式を撃ち切った後の呼吸が浅い。だが眼はまだ俺の深いところを読もうとしていた。


「Gravitas, iterum trahe」(再び引け)── 《引手 / Pull's Hand》


 今度はイーリスの足首へ見えない手が伸びる。弓を下ろした直後の半歩を引く狙いだ。イーリスは楽器を抱えたまま動かない。音だけを置く。


 俺は《重圧 / Crushing Depth》を一点に落とした。


 引く手の手首に当たる場所だ。見えないものへ重さを乗せるには、床の反応を先に読む。石の継ぎ目がわずかに鳴り、引く手はそこで潰れた。


 魔導士の短杖が一拍沈む。


 俺は《潮鞭 / Tide Whip》を一本だけ放った。


 空中で細く撓った青が、魔導士の杖を持つ手へ伸びる。狙うのは指の外側だ。骨は外す。腱も外す。握る機能を壊さない場所だけを浅く切る。


 皮膚と外側の筋膜が裂けた。


 短杖が指の隙間から落ちる。石床に当たり、乾いた音を立てた。魔導士は声を出さない。だが影の糸は支えを失って揺らぎ、足元の重さに遅れて沈む。


 彼は左手で杖を拾おうとした。


 俺はその左手を狙わない。


 代わりに盾の男の腿の外側へ鞭を流す。


 膝裏は外す。腱も外す。動脈も避ける。腿の外側の厚い筋肉を斜めに叩く。青い鞭が触れた瞬間、盾の男の右の踏ん張りが半拍崩れた。


 倒れない。


 彼は重盾の下端を床へ噛ませ、崩れた足の代わりに鉄で立った。痛みを盾へ逃がす。いい反応だ。だから次を深くしない。


 魔導士は杖を拾いかけた左手を止めた。指の外側に薄い血の線が出る。彼は俺を見た。測り返す眼ではない。行為の意味を確認する眼だった。


 切れる場所を、選んだのか。


 その問いだけが眼にあった。


 俺は答えない。説明しない。盾の男はまだ後衛へ流れようとしている。ヒュウマと聖剣の応酬は続く。斥候の踵が柱陰で浮く。


 潮鞭は一度切れば消える。残響は残らない。


 俺はもう一度床を測る。


 ここまで。


 次は足首まで。


 膝は折らない。


 五人の足元の重さを一段深くする。足首までだ。膝へは上げない。腰も胸も狙わない。踏み替えの自由を奪い、転倒の線を作るだけにする。


 勇者の前足が石に取られる。ヒュウマの潮鎚がその剣を横へ逃がす。盾の男は腿の外側を叩かれながら、重盾を後衛側へ向けようとする。


 神官は声にならない唇で祈りを探している。


 魔導士は杖へ指を伸ばし、伸ばした先で膝をついた。


 最初に倒れるのは魔導士だった。


 杖を拾おうとした膝だ。観察者の膝だ。術式を撃ち切り、なお見ようとして、床の重さに負けた。彼は倒れ込まない。片膝をつき、落ちた杖の距離を眼で測る。


 俺はそれ以上を追わない。


 神官の白い領域が途切れた。


 祈りにならない唇のまま、ロザリオを握る指が強くなる。白い斜光が法衣の上から剥がれ、ただの朝の光へ戻る。彼は膝を支えようとして、支えきれず横へ崩れた。


 二番目は神官。


 息はある。声だけがない。


 盾の男が低く息を吐いた。言葉ではない。山の岩が割れる前のような短い音だった。彼は重盾を床に噛ませ、半膝でまだ残る。前を見ながら後ろを守ろうとしている。


 勇者は叫ばない。聖剣を握り直す。白い光は根元へ戻っている。それでも前へ来る。諦める種類の男ではない。


 斥候が動く気配が濃くなった。


 俺は呼吸を一つ置く。


──────────────────────────────


 斥候が柱の陰から煙幕の小袋を投げた。


 袋は俺の半歩前で破裂し、白い煙が空気の一区画を切る。同時に鳴き矢が一本、ラウリ殿の方角の柱際で高く鳴った。


 耳を刺す音ではない。背中の反射を刺す音だ。救助の現場なら誰もが振り向く。守る者なら、なおさら振り向く。


 ヒュウマの身体が反応しかけた。


 ラウリ殿の方角だ。彼の半身が動く。だが索具に固定された身体は捻り切らない。彼は捻る代わりに索具を強く引いた。


 柱の欠けで索具が鳴る。太い音が鳴き矢の高い音を一拍だけ上書きした。ラウリ殿の肩が跳ねずに済む。


 その引きで、ヒュウマの右脇腹の革の下から布の擦れる音が微かにした。包帯の縁が動いたのだろう。彼は表情を変えない。潮鎚の角度も変えない。


 煙の向こうで斥候の足が柱の欠けを蹴った。


 狙いは遠い。だが速い。勇者でも盾の男でも神官でもない。最大の脅威を仕留めに来る足だ。煙と鳴き矢で視界と反射を切り、遠回りでも背後を取る。


 達路を選ぶ男だな。


 俺は内で置いた。


 情ではない。役目の眼だ。誰を消せば場が落ちるかを見ている。足の置き方は軽いが、判断は軽くない。海の風を使う薄い癖と、戦場で飯を食う者の目が混じっている。


 盾の男の重盾が煙の際から差し込まれた。


 斥候の達路を守る盾だった。俺が左へ踏み替える方角に、重盾の外側が斜めに入る。盾の男は半膝のまま、後衛ではなく斥候の通り道を守った。


 山の男が、斥候の遠路を守る。


 最後の組み合わせだ。


 俺は背後の空気を測る。斥候の足音は薄い。踵から指の腹へ流す重さ。煙の中で音を消す訓練。視界の死角へ入る直前に、足裏で床を探る一拍がある。


 そこへ落とす。


「《重圧 / Crushing Depth》」


 声は短い。


 落とす場所は斥候の着地の足裏の下。圧は薄い。骨は砕かない。肉も裂かない。ただ足裏の感覚だけを一拍奪う。


 着地がぐらついた。


 倒れない。彼は受け身を取りかける。膝を逃がし、片手で煙を掴む。職能で身体を残す動きだ。


 俺は《潮鞭 / Tide Whip》を短く放つ。


 鞭の先端を短剣の柄の腹に当てる。刃には触れない。手首にも触れない。短剣だけが手から外れ、石床で跳ねる。


 追わない。追えば殺傷の線が開く。得物が離れた。それで十分だ。


 斥候は倒れない。


 膝と片手で場に残った。煙の残りを握り、柱の欠けを掴む。眼は俺だけを見ていない。出口の方角を追っている。最後まで逃げ道を見ている。


 盾の男は重盾を戻そうとする。


 戻せる。だが戻す先で後衛守護の角度が欠ける。魔導士は膝をつき、神官は横へ崩れている。守るべきものは減ったのに、彼の眼はまだ後ろを見ていた。


 勇者の聖剣がもう一度白く灯る。


 根元だけだ。刃先までは行かない。神官の《絆の光 / Bond of Light》で押し上げられた一瞬の光は、もうない。それでも彼は剣を立てる。


 ヒュウマがその前にいる。


 潮鎚の柄を握り直す。右脇腹の包帯の気配は消えていない。だが彼の立ち方は揺れない。索具と鎚と足。三つで場を支えている。


 俺は呼吸を整える。


──────────────────────────────


 下から上がってくるものがあった。


 ここまで床を握ってきた作業の延長で、もう一段深く沈めれば五人の身体は床ごと持っていける。簡単だ。広場の石はすでに俺の呼吸を知っている。


 深くすれば早い。


 早さは戦場の美徳だ。だが早さだけを選ぶと、余計な場所まで沈む。膝。肋骨。喉。水がそこへ行く。


 俺は息を一つ置いた。


 上がってきた力を上で受け止める。押し返す。それから使える深さだけ下へ預ける。呼吸の一拍で済ませる。声には出さない。説明もしない。


 ただ、ここまで、と内で置く。


 次は足首まで、と置き直す。


 膝は折らない、と置き直す。


 深さ、範囲、時間。三つに分ける。喉へ上げない。胸へ上げない。足場だけを奪う。俺の側の線は俺の側に保つ。


 俺は祭壇から遠い中央寄りへ半歩進めた。


 中心を、自分の足の下に置く。


 そろそろ。


 ヒュウマの潮鎚はまだ白い光を受けている。イーリスの声は薄いが途切れていない。ラウリ殿の呼吸は小さい。五人は立つか膝で残っている。


 なら、終わらせる。


──────────────────────────────


 海溝晶を左の腰の革帯から取り出した。


 掌の上へ晒さない。今から扱うものは手先で支える規模ではない。身体の中心で受ける。胸骨の前へ運び、両手の指の腹で晶を挟む。握り込まない。触れているだけにする。


 晶の青が深い場所で点る。


 左手の熱傷の痕が青に照らされた。古い痛みと新しい冷たさが指の腹で重なる。肘は自然に落ち、晶は胸の中心で吊られる。儀礼の位置だ。身体の軸に水の口を置く。


 声は低く、石へ落とすように出した。


「潮よ、叫べ。淵よ、吼えろ。」


 叫ぶ動詞を声では叫ばない。吼える動詞を喉では吼えない。声は低い。動詞だけが潮と淵へ届く距離まで沈む。


 広場の石が一度息を吸ったように沈んだ。列柱の根元に白い塩が浮き、すぐ濡れる。五人の足下だけが同じ円の線へ寄せられる。


「蒼き円環を棺と成せ。」


 晶の青が胸骨の前で濃くなる。床の下で円環の輪郭が立ち上がる。輪郭は俺の足の下を中心にし、中央寄りで弧を描いた。祭壇は中心に入れない。中心は俺の足の下だ。


「見たものは裁かれ、立つものは砕かれる。」


 俺は声で裁かない。眼でも裁かない。詩がそう言っている。詩へ一度預ける。預けた上で、俺の手で深さを決める。


 五人の足場を円として拾う。


 勇者は中央寄り。盾の男はその斜め後方で半膝。魔導士は左の半円で杖へ手を伸ばした膝。神官は右の半円でロザリオを握る横倒れの手前。斥候は外側で煙の残りを掴む膝。


 ラウリ殿の膝元は円の外。


 イーリスの立つ半歩は円の縁の外。


 ヒュウマの足元の眼は、索具と潮鎚の支点ごと外す。


 円は閉じた。


「絶叫と咆哮を一つに撚り、刃も祈りも剥ぎ取れ。」


 晶の青が胸の中心で空気を圧した。石の下で円環が深さを持つ。深さは規模になる。俺は五人の足場が呑まれる幅に留める。五人の胸より上へ水圧を上げない。


 喉を塞がない。


 肋骨を潰さない。


 意識を奪う手前で止める。


 俺は詩を続けた。


「ここに開くは海淵の顎。」


 晶が一拍だけ深く明滅した。


 俺の声は最後の一句で、さらに低く落ちた。


「巻き込め、何もかも ── 《海淵渦 / Maelstrom》」


──────────────────────────────


 発動した。


 足元の塩水が逆噴射し、中央から横殴りの大渦が立ち上がる。四十五度の壁が俺の周囲に天地を逆さまに開いた。


 黒檀の壁が立ち上がる。


 濁流ではない。磨いた黒い木のような水面が光を弾き、滑らかに傾いて伸びる。白い斜光は壁の表面を滑り、内側へは入ってこない。


 壁は音を撚る。剣の擦過音。ロザリオの珠の音。盾の軋み。短剣が落ちた硬音。すべて一本の太い音になり、上空へ吊られる。


 詩は世界を呑むと言った。


 呑まれたのは、五人だった。


 魔導士が先に倒れた。


 杖を拾いかけた手が円の際で持ち上がる。彼は顔を上げ、観察する男の眼で渦の壁を測ろうとした。視線は逃げない。壁の角度と泡の速度と圧の限界を見ている。


 撃った術式の数だけ、呼吸は削れていた。重さを降らせ、引く手を伸ばし、露で縛り、影の刃まで試した。最後に深い読みへ手を伸ばした。その全部が届かず、膝だけが残った。


 足場が円の外側ごと持ち上がる。彼の身体は黒檀の壁に貼り付くように半円を昇る。昇り切る前に膝が折れた。折らされたというより、観察を終えるために膝をついた。


 観察者の倒れ方だった。


 神官が次に倒れた。


 唇はまだ名の最後の音節を確かめている。確かめながら膝が円の上で持ち上がる。ロザリオの珠が掌で締まった。白い領域はもうない。法衣に残った斜光はただの朝だ。


 祈りは声にならない。だが指の中には残っていた。彼は仰向けに投げ出されず、祈りの形のまま横へ落ちる。ロザリオを握ったままで。


 盾の男が、その次に倒れた。


 重盾の外側を床に噛ませ、最後まで半膝で残った。半膝で残りながら、重盾は後衛側へ向こうとしていた。神官の方角と斥候の方角。もう守る者が倒れていても、動きだけはそこへ伸びる。


 最後まで守った者の眼だった。


 恨みではない。言い訳でもない。役目を最後まで置いていく眼だ。盾の際が床から外れる。彼の身体は円の外側で一拍昇り、重盾を影として残したまま崩れた。


 斥候は四番目に倒れた。


 煙の残りを握ったまま、柱の欠けから手を離す。離した瞬間に受け身を取りかける。膝を折り、片手で円の外側を撫でる。視線は出口を探す。


 出口は円の内側にない。


 円は足場ごと半円を昇り、彼の身体は煙の白い線を空中に引きながら横へ落ちた。最後まで逃げ道を見ていた眼が、閉じる手前でまだ動いていた。


 勇者が最後に倒れた。


 聖剣を立てようとした。白い暁の光が剣身の根元にだけ短く灯る。刃先まで届かない。届かないまま、ヒュウマと最後に剣を交わす。


 ヒュウマは潮鎚を縦に立て、聖剣の白い光を横へ逃がした。潮鎚の青は光を呑まない。受けて逃がす。床へ落とす。


 逃がした瞬間、勇者の足が円の外側を踏んだ。


 円が足を払う。


 勇者の身体は半円を一拍だけ昇り、剣を握ったまま黒檀の壁へ貼り付く。聖剣の白銀が壁の一点で短く点り、泡と塩に削られて消えた。


 彼の眼は最後まで開いていた。判じる眼へ戻ろうとしていた。判じ切れないまま、身体は円の外側ごと床へ落ちる。


 俺は中心の眼に立っていた。


 足の下の床は塩水で薄く濡れている。冷たさが靴底を通って上がる。胸より上の空気は乾いていた。天井から落ちる白い斜光は壁を貫けず、俺の頭上だけに落ちている。


 見上げた黒檀の壁に五人の身体が回っていた。


 四十五度の壁面は空へ向かって立ち昇る。泡と塩が五人の腰と足を削り、肩から上を残す。水は胸より上へ行かない。圧は足場と腰を奪い、喉には届かない。


 回り終えた者から、足場の円ごと床へ戻される。中心の俺の足元から見上げる軌道は、地獄絵図そのものだった。


 詩は世界を呑むと言った。


 呑まれたのは、五人だけだった。


 ラウリ殿の膝元には、塩が届かなかった。


 段下の石は乾いたままだ。ラウリ殿の膝の影に白い輪はない。指先だけが風圧でわずかに揺れている。


 イーリスの立つ半歩は、濡れなかった。


 靴先の前で塩水の線が切れている。そこだけ薄い空白がある。楽器の木肌は乾き、彼の喉にだけ声の薄さが残っていた。


 ヒュウマの足元の眼は、空気の柱の中で乾いている。


 索具の固定先と潮鎚の柄の周囲だけ、水が上へ巻かずに避けていた。空気の柱が細く立ち、その中で彼の踵は濡れない。潮鎚はそこに立っている。


 俺は一度だけ目を伏せた。


 もう修正できない、という確認だった。


 目を上げる。中心の静けさから自分が起こしたものを見る。逃げる場所はない。自分で円を閉じ、自分で深さを決め、自分で五人を拾った。


 なら最後まで見る。


 俺は、見届けた。


──────────────────────────────


 渦は決めた時間を回り終え、ゆっくり閉じた。


 急に消せば五人の身体を床へ叩きつける。だから圧を抜く。円をほどく。壁を低くする。黒檀の滑らかさが崩れ、塩水はただの水へ戻っていく。


 塩水が床に薄く広がり、すぐ引いた。蒸散した塩が列柱の根元に白い輪を残す。天井から落ちる斜光はもう遮られない。中央に五人がそれぞれの角度で転がっていた。


 魔導士は仰向けに近い角度で、片膝だけがまだ曲がっている。短杖は指先から少し離れた場所にある。杖を拾おうとして届かなかった距離だ。指の外側に薄い血の線が残る。


 神官は横向きで、ロザリオを握った手を胸の前に折っている。唇は祈りにならない形で止まっていた。声はない。息だけが細く出入りしている。


 盾の男は半膝の姿勢を崩しきれず、重盾を床に噛ませたまま頬を盾の際へ預けていた。倒れた後も盾の面は後衛側を向いている。最後の動作が鉄に残っている。


 斥候は横向きで、片手に煙の残りを握っている。視線の方角だけが出口へ向いて止まっていた。短剣は手の届かない場所に落ちている。指はまだ床の継ぎ目を探していた。


 勇者は仰向けで、右手に聖剣を握ったままだ。剣身の根元の白い光が消える瞬間を眼で追い、そのまま閉じている。刃先は暗い。白い暁の光は根元から先へ行かなかった。


 息は、五人とも、している。


 俺は海溝晶を胸骨の前から下ろした。


 左手の熱傷の痕が遅れて痛む。胸の中心から晶を離すと、深い青が小さくなる。革帯の内側へ戻す。青の点りが消えた。


 消えた瞬間、疲れが戻った。息の底へ沈めていた砂が舞い上がる。膝は揺れない。揺らさない。胸の内側だけが遅れて熱を持つ。


 ヒュウマが索具を柱の欠けから外した。


 索具を腰へ巻き直し、潮鎚を一度だけ床へ置く。それから俺の前へ歩いてくる。一歩ごとに中央の状況を見ている。倒れた五人の位置。ラウリ殿の呼吸。イーリスの楽器。俺の身体の傾き。


 右脇腹の革の下で包帯の輪郭がまた一瞬だけ動いた。彼はそれを隠そうともしない。ただ戦場の所作として整える。痛みより先に役目がある者の動きだった。


 彼は何も言わない。


 言葉にすると、俺が置いた箱を開けることになると分かっているのだろう。代わりに潮鎚を俺の前に立てる。柄の下端が石に触れ、乾いた音を一つ置いた。


 イーリスは楽器を抱えたまま半歩だけ寄った。


 寄り切らない。俺の輪郭を測り、距離を半歩残す。声を続けて掠れさせない距離だ。次の詩の音程を、まだ立て直している最中だった。


 ラウリ殿は膝をついたままだった。


 耳を半分覆う手から力が抜けている。呼吸は戦闘の前より整っていた。塩は彼の膝元には届かなかった。


──────────────────────────────


 聖剣の光が伏せた。


 潮鎚は、まだ俺の前に立っていた。


 遅れて、俺の息が戻った。

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