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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
50/60

飾りですらない

 朝が来た。


 水平線の黒い線が、白い線になっていた。


 俺は四人の隣で、まだ判じていなかった。


──────────────────────────────


 夜明けの直前に、海の色が変わった。


 船の腹を叩いていた波音が一つ低くなり、風が帆の端を押す向きを変えた。舳先が大きく一度だけ傾いた。船員の若い二人が綱を引き直す。濡れた麻縄が手の中で鳴り、甲板の板が小さく軋んだ。


 俺は舷側に立っていた。


 水平線の向こうに、島があった。


 昨夕に見たときは黒い傷のような線だった。海と空の境目に横たわっているだけの線。そこへ行くと決めたのは夜の終わりだった。彼にもう一度会う。今度は判じる眼で合わせる。俺はそう決めた。


 朝はその決意を、少しも待ってくれない。


 薄い灰色の光が海に広がる。橙になる前の冷たい時間。雲は低く、ところどころ薄く裂けていた。裂け目から白さが漏れて、波の頭だけを淡く照らした。


 岸の輪郭が近づいてきた。


 同じ島だ。同じ岸のはずだ。けれど夜が落としていた影が退くと、島は別の顔を見せた。岩の形。砂の白さ。林の濃さ。何かが隠れているというより、隠れていたものがこちらを見返してくるようだった。


 俺は左手を下ろした。


 深紅のサッシュの下で、聖剣の鞘がわずかに揺れる。柄革に指を置く。冷たい。昨夕の沈黙に似ているが、同じではない。昨日の冷たさは答えのなさだった。今朝の冷たさは朝気だった。


 違う、と指が先に分かった。


 聖剣はまだ沈黙していた。


 カイは艫の方で祈っていた。声はなかった。両手を胸の前で合わせ、親指をロザリオに添える。船の揺れに合わせて膝を少し緩める。祈りだけが揺れていない。カイの中の一番古い習慣が、朝の海の上に静かに立っていた。


 ヴァローは舳先の近くで海図を押さえていた。羊皮紙の四隅に小石を置き、指で航路を辿る。灰色の髪が風に流れる。彼の指は急がない。線を読み、距離を測り、見えているものと見えていないものを分けている。


 ガイウスは重盾を抱えていた。盾の縁を布で拭く手が大きい。布が潮を吸って重くなっても、手の動きは変わらない。左頬の古い傷が朝の光で薄く見えた。彼は岸を見ていない。岸の向こうにある戦場を見ていた。


 ヴェスタは舳先の上に腰をかけていた。青と黄色のバンダナが朝風に揺れる。片手は頬。片手は膝。目は岸より少し手前の潮目に置かれている。風の向き、波の寄せ方、砂浜へ入る角度。彼はそれを読む。


 カイは祈る。ヴァローは見る。ガイウスは備える。ヴェスタは読む。


 俺は、聖剣の柄革に触れかけて、止めた。


 空いた手が宙に残った。


 それを下ろすだけの動きに、少し時間がかかった。


──────────────────────────────


「勇者様、岸は読みやすいですよ」


 ヴェスタが舳先で言った。こちらを振り返らない。声は軽いのに、目の奥は笑っていない。海の上で仕事をしている時の声だった。


「人の手が、入りすぎてる」


 砂浜が見えた。波打ち際に残る薄い乱れ。岩陰に積まれた石。林の前だけ、不自然に草が低い。無人の島という言葉が、口の中で乾いた。


「足跡か」


「足跡だけじゃねえな。上手く消してるが、消し方が揃いすぎだ。半月前くらいの手際が残ってる」


 ヴァローが海図から顔を上げた。


「半月前なら、こちらが追っている者たちの動きと噛み合います」


「合いますね」


 カイが祈りを終えて言った。掌を解いた後も、指の先に祈りの形が残っている。


「ただ、整いすぎています」


「整いすぎている」


 ヴァローが同じ言葉を返した。繰り返すときの彼は、言葉の重さを量っている。


「複数の手が入っている、ということでしょう」


 ガイウスが盾を拭く手を止めた。布を握る指が一度だけ締まる。


「先に着いた連中がいるな」


「それは、俺たちが追っている連中か」


「分からん。だが俺たちが一番乗りじゃねえ」


 ヴェスタが肩だけで笑った。


「勇者様、覚悟しときな。誰かが踏んだ後を追って入ることになるぜ」


 俺は返事をしなかった。


 岸が近い。島の石の白さがはっきり見える。波打ち際の砂は荒れているのに、林の入口だけ妙に平らだった。踏まれた道がある。隠された道がある。俺たちが来る前に、何度も使われた道がある。


 俺の手はまた、柄革の近くで止まった。


 触れれば何かが分かる気がした。触れても何も分からない気もした。どちらも俺の内側で同じ重さを持っていた。


「船は浅瀬まで」


 俺は言った。


「そこから歩く。船員は二人、船に残れ」


 若い船員が頷いた。顔色はよくない。島を見ているのではなく、島を見ないようにしている顔だった。


 カイが俺の横へ来た。


「レオン」


「大丈夫だ」


「まだ何も言っていません」


「言う前の顔だった」


 カイは一瞬だけ困ったように笑った。それから祈る時の目に戻った。


 岸が近づいていた。


──────────────────────────────


 上陸は、思ったより音がしなかった。


 船底が浅瀬の砂を擦る。小さな衝撃が足の裏へ伝わる。船員が綱を投げ、ヴェスタが先に飛び降りた。膝まで海に浸かり、すぐに砂の固さを確かめる。ガイウスが盾を背に回して降りると、水が重く割れた。


 俺は最後に近い順で降りた。


 冷たい海水が旅靴の縁を濡らす。砂を踏む。足元が少し沈んだ。すぐに体重を移す。前へ。島へ。昨日、遠くに見た傷の岸へ。


 砂は荒れていた。


 波打ち際から数歩のところに、消えかけた足跡が残っている。新しい跡ではない。けれど古いだけでもない。波がなぞり、風が埋め、それでも消しきれなかった輪郭。人の重さだけが砂の底に残っていた。


 ヴェスタが屈んだ。


「西から来てる……いや、違うな。西へ出ていった足跡だ。来たんじゃねえ」


「複数か」


「三人以上五人未満。荷は少ねえ。急いだ歩き方だが、逃げ腰とは違う」


 ヴァローが足跡の端を見た。砂には触れない。


「往復の一方だけが濃い。入口は別にあるか、あるいは消されたか」


「どっちだ」


「観察できる範囲では、まだ保留です」


 カイは浜の奥を見ていた。


 胸元のロザリオに触れたまま、眉をわずかに寄せる。彼が苦しそうな顔をする時、最初に変わるのは眉ではなく呼吸だ。吐く息が浅くなる。


「祈りが、通っています。ただ、応答が、返ってきません」


 俺は彼を見た。


「返らないのか」


「光神は応えてくださっています。けれど土地が、返るものを吸っています」


 カイは言葉を選んでいた。彼の信じるものを疑っている顔ではない。届いている祈りの先で、何か別のものが沈んでいる顔だった。


 ヴァローが両の指を組んだ。


 月読みの塔の作法。掌の中に薄い影が生まれる。影は朝の浜で奇妙に見えた。太陽がまだ高くないせいか、影の輪郭はいつもより細かった。


「黒い手の跡があります。ただし新しくはありません」


「いつだ」


「半日前ではない。少なくとも数月前。古ければ数年単位でしょう」


「ここに、長く出入りしている」


「そう見ます」


 俺は林の方を見た。砂が終わる場所に、低い草と白い石が混じっている。人が通れば分かる。分かるように残しているのではない。隠すことに慣れた者たちが、それでも隠しきれなかった跡だ。


 聖剣はまだ冷たい。


 その冷たさを確かめたくなって、俺は指を動かしかけた。止める。カイは祈りを測る。ヴァローは影を測る。ガイウスは前へ出る間合いを測る。ヴェスタは足跡を読む。


 俺は何を見ている。


 ガイウスが盾を背から下ろした。


「進むか」


 俺は四人を順に見た。カイ、ヴァロー、ガイウス、ヴェスタ。誰も俺に答えを求める顔ではなかった。それぞれ答えの一部を持っている顔だった。


 最後の形を俺に渡す。


 それが勇者の位置だ。


「進もう」


 声は浜に落ちた。


 震えなかった。


──────────────────────────────


 林の中は湿っていた。


 海から数十歩離れただけで、潮の匂いが苔の匂いに混じる。足元の砂はすぐに土へ変わった。土の下には石がある。何度か靴底が滑り、ガイウスが無言で腕を差し出した。俺はそれを借りずに体勢を戻した。


 借りてもよかった。


 その一拍が、胸の奥で少し残った。


 林は深くない。だが歩きにくい。低い枝が視界を切る。古い石組みが草の下から顔を出す。まっすぐ進んでいるはずなのに、足だけが少しずつ左右へ逸れる。誰かが昔に道を作り、誰かが後からその道を消したようだった。


 ヴェスタが先行した。


「足元、右に石。左は空洞っぽい。踏むなよ」


「見えている」


 ヴァローが言った。


「見えてる奴は普通そう言わねえんだよ」


 軽口は短かった。誰も笑わなかった。笑えないのではなく、音を増やしたくない空気だった。


 林を抜けると、神殿が見えた。


 岸から数百歩。林の縁に、半壊した石造りの建物が立っていた。屋根は半分以上落ちている。柱は折れ、壁は裂け、入口の上にあったはずの装飾は形を失っている。


 それでも建物は立っていた。


 潮と雨に削られて白く荒れた石。苔が割れ目に詰まり、乾いた塩が表面に浮いている。遠目には古いだけの廃墟に見えた。近づくと違った。


 人が触れた跡がある。


 ヴェスタが走った。音がほとんどない。軽装の革が草を掠める音だけが残る。


「神官殿、後ろで」


 カイが半歩下がった。祈りを切らさない。彼の祈りは土地に吸われながら、それでも細く前へ伸びていた。


 ヴェスタは神殿手前の石影で膝を折った。手で合図を出す。待て。俺たちは林の縁で止まる。風が抜ける。神殿の中からはまだ何も聞こえない。


 しばらくして、合図が変わった。


 来い。低く。


 俺は林を出た。


 外周の石材に近づく。白く荒れた表面。塩。苔。古い雨の筋。その上に、黒い溝が走っていた。


 自然の割れ目ではない。


 石に刻まれた線だ。古い曲線と、新しい直線。古い線は波を真似ているように見えた。ゆるく、深く、迷わず続く。新しい線はそれを切る。重ねるのではなく、上から押さえつけるように走る。


「術の跡だ」


 ヴァローが言った。


「深淵の神を呼ぼうとした者らの手だな」


 ガイウスの声は低かった。彼はその言葉をまだ口に馴染ませていない。俺も同じだ。教会本部で聞いた時、その言葉は遠かった。書類の上の重い名。今は石の溝になって目の前にある。


 聖剣の革巻きに、薄い熱が立った。


 一度だけ。


 ほんの短い熱だった。指先が錯覚したと言えるほど薄い。けれど錯覚ではない。海岸洞窟で感じたものに似ている。あの時より少し近い。だが鞘の中で剣身が鳴るほどではなかった。


 俺は柄から指を離さなかった。


「先に着いているのは、赤髪の彼たちか」


 俺が問うと、カイが小さく息を吸った。


「祈りが、その方角で少しだけ返ります」


「少しだけ」


「はい。土地に吸われます。それでも、奥だけは薄く返ります」


 ヴェスタが石の根元を見たまま頷いた。


「足跡も奥だ。半月前の連中じゃねえ。半日前。夜明け前か、夜明けすぐだな」


 ヴァローが黒い溝に目を落とした。


「古い刻みに新しい黒が乗っている。乱暴ではない。慣れた手です」


「分かるのか」


「分かるところまでです。誰の手かまでは読めません」


 神殿の入口は暗い。


 半壊した門の向こうに、朝の光が届かない場所がある。そこへ入れば、岸の白い光は背中になる。


 ガイウスが盾を構え直した。


「進むか」


 俺は聖剣の冷たさと、今立った薄い熱の名残を指で確かめた。


「進む」


──────────────────────────────


 神殿の中は、外より一段冷たかった。


 崩れた壁から朝の光が斜めに差し込んでいる。床に白い帯ができていた。光の中には塵が浮かぶ。影の中には湿り気が残る。光と影の境目を越えるたび、頬の温度が変わった。


 明るい場所と暗い場所が、同じ廊下に並んでいる。


 廊下に死体があった。


 最初の一体は入口から五歩ほど先。両手で短い杖のような儀式具を抱えていた。腹を深く割られている。血は床に広がった後、黒い溝の手前で乾いていた。顔は奥を向いている。逃げようとして倒れた形ではない。


 ヴァローが屈んだ。


「中から崩されています」


 彼は死体に触れる前に、手の位置と傷の向きを見る。指先は最後にしか使わない。


「入口側から刺されたなら、身体の向きが合いません。刃は奥から来ています」


「奥にいた誰かが、こいつを倒した」


「そう見ます」


 ガイウスが廊下の先へ目を細めた。


「俺たちが二番目だな」


 ヴェスタは砂利を踏まない。床の沈み方を読んでいる。彼の足運びは港の路地で見た時よりさらに軽かった。前へ出るほど声が減る。軽口の人間が黙ると、戦場が近い。


 壁に壁画があった。


 古い波の線。緩い曲線。海岸洞窟で見たものと似ている。だがその上から黒い直線が走っていた。切る線。繋ぐ線ではない。古いものを利用しながら、別の目的で押し込めた線。


 俺は口の中で呟いた。


「同じ系列」


「海岸洞窟のものより濃い」


 ヴァローが言う。


「濃いとは」


「中心に近い、という意味です。あるいは長く触れられている」


「どちらだ」


「両方の可能性があります」


 奥で音がした。


 小さな金属音。誰かが何かを落とした音ではない。ぶつけた音でもない。持ち替えた音だ。


 ガイウスが盾を半身に構える。ヴェスタが柱の影に溶ける。ヴァローの杖が低く上がる。カイは祈りを続けていた。俺は柄に手を置いた。


 末端だった。


 二人。どちらも儀式具を持っていた。目はこちらを向かない。奥へ行こうとしていた。あるいは奥から逃げてきて、戻るべきか迷っていた。血の気の失せた顔だけが、まだ何かに命じられている。


 ガイウスが一人を盾の縁で押し倒した。


 骨の鳴る音が短く響く。ヴェスタの短剣がもう一人の腿へ飛ぶ。倒れた相手が声を出す前に、ヴェスタが背後へ回る。ガイウスがとどめを刺す。短い戦闘だった。熱も叫びも残らない。


 短い、硬い、戦闘。


 俺の聖剣は抜かれなかった。


 柄革に、薄い熱が立った。


 二度目だった。


 一度目より長い。革の表面に残る熱が、俺の掌の形に沿って広がる。けれどまだ鞘の奥は動かない。抜けと言っている熱ではなかった。近い、と知らせる熱だった。


 カイが俺を見た。


「お抜きにならなかったのですね」


「抜けば、終わる」


 自分の声が石に低く返った。


「だがまだ早い」


 半分は本当だった。


 残りの半分は、胸の奥に沈んだ。判じる前に抜きたくない。抜いた瞬間に、俺は自分の役目を剣へ預けてしまう。そう思った。


 カイは何も言わない。


 その沈黙が俺には少しだけ痛かった。


──────────────────────────────


 奥から、戦いの音が聞こえてきた。


 最初は打撃音だった。鈍く、重く、石にぶつかる音。刃と刃ではない。何か硬いものが床か柱を叩いた。次に石の反響が来た。廊下の奥で生まれた音が、壁の割れ目を通って遅れて戻ってくる。


 ガイウスが盾を上げた。


 ヴェスタが片手を低く出した。止まれ、ではない。音を聞け、という合図だった。俺たちは廊下の途中で足を止める。


 また音がした。


 今度は近い。重い一打の後に、砂が崩れる細かな音が重なった。柱の欠片か。床石か。空気に潮の気配が混じる。海は外だ。壁の向こうに見えるはずがない。なのに鼻の奥に塩が刺した。


 カイの祈りがわずかに乱れた。


 彼は声を出さない。だがロザリオを握る手の力が変わった。祈りが通る先で何かが揺れている。返らない土地の奥で、返らないまま騒いでいるものがある。


 ヴァローの指が組まれる。掌の中に薄い影が生まれ、細い糸のように廊下の奥へ伸びた。彼の目は壁を見ていない。壁の向こうで動くものの輪郭を探っている。


「複数です」


「赤髪の彼か」


「一つは近い。ただ、断定には足りません」


 ヴェスタが舌打ちを飲み込んだ。


「戦ってる相手の数は」


「倒れているものを含めれば多い。動いているものは減っています」


 減っている。


 その言葉が、廊下の冷気より先に背中へ入った。


 俺は歩き出した。


 足音を殺すつもりだった。だが心拍が先に速くなる。胸の内側を叩く音が、神殿の石に聞こえる気がした。聖剣の柄革が冷たくなり、また薄く温かくなる。引いて、立つ。引いて、立つ。不安定な熱だった。


 昨夕、俺は決めた。


 明日の朝、その傷の岸に上陸する。彼にもう一度会う。今度は判じる眼で合わせる。


 その朝が今だった。


 もう一度という言葉には、いつも都合のいい幅がある。こちらが準備して、息を整え、相手の前へ立つ時間があると思ってしまう。だが現実の朝は廊下の奥で鳴っている。石が割れ、誰かが息を詰め、何かが終わりかけている。


 弦の音がした。


 一弦だけ。はじかれた音が廊下に入ってきた。歌ではない。歌になる前の音。長く伸ばされることもなく、すぐに途切れた。けれどその一音だけで、神殿の冷気が別の形になった。


「楽器」


 カイが言った。


「奥に誰かいます」


「歌い手か」


 俺は短く返した。


 先日の街角で見た楽器を抱えた影が、頭をよぎった。耳を布で隠した誰か。赤髪の彼の近くにいた誰か。あの時、俺は何を見ていた。顔か。距離か。彼らの関係か。


 答える前に、また一打。


 今度は最後の一打だと分かった。音がそう告げていた。続くための音ではない。終わらせるための音。石が深く鳴り、廊下の奥で空気が押し返される。


 それから静寂。


 静かになったのではない。静まりつつある音が、こちらへ来る途中で全部剥がれていく。残ったのは白い光の気配と、遠い潮の匂いだけだった。


 ヴェスタが先頭に立つ。彼の足は音を立てない。ガイウスがその後ろで盾を半身に構える。ヴァローは影を引き戻さない。探りながら進む。カイは祈りを胸の前に抱えている。


 俺は中央にいた。


 前へ出るには遅い。後ろにいるには近すぎる。聖剣の熱が一度だけ掌に立ち、すぐに引く。俺はその引いた場所へ指を置き直した。


 廊下が広がる。


 先に円形の空間がある。天井の抜けた場所から白い光が落ちている。明るい。なのに冷たい。入口の手前で、俺は足を止めた。


「判じてから、入る」


 誰に向けた声でもなかった。


 自分の喉から出た声が、壁に当たって小さく返る。判じる。見て、分けて、決める。剣を抜く前に。勇者として名乗る前に。俺がそうするのだと、昨夕の俺は決めた。


 直後に、最後の一打が響いた。


 円形広場の方からだった。


 胸が一度、遅れて跳ねた。


 判じる時間が外側から削られる。まだ見ていないものが、先に終わろうとしている。俺が入口で息を整える一拍を、石の向こうの誰かは待たない。


 隙間から断片が見えた。


 低い祭壇。倒れた人影。三つか四つ。立っている赤髪。赤髪のそばに黒髪の若い男。膝をつく青年。楽器を抱えた誰か。


 断片だけが、先に届く。


 俺は息を吐いた。


「行く」


 ガイウスが盾をわずかに上げる。ヴェスタが柱影から滑り出る。ヴァローが影を細く保つ。カイが俺の隣に立つ。


 俺は入口を抜けた。


──────────────────────────────


 赤髪の彼と、俺の眼が合った。


 一拍。


 両者とも、何も言わなかった。互いを見た。


 それだけが、最初に起きた。


 そのあとで、広場が俺の中に入ってきた。


 円形の広場だった。中央に低い祭壇があり、その周囲を半壊した列柱が囲んでいる。天井は大きく抜けていた。白い斜光が斜めに落ち、柱の影を床に長く伸ばしている。


 明るいのに寒い。


 朝の光が肩に触れる場所は白い。けれど空気そのものは冷たい。光と影の境目で温度が違った。光の中を塵が舞い、影の中に潮の湿りが沈んでいる。息を吸うと、石粉と血と塩が混じった。


 石材は白く荒れていた。


 潮と苔。風雨に削られた縁。そこへ黒い水脈のような溝が走っている。外壁で見たものと同じ手だ。古い曲線に新しい黒が乗り、床下で脈打つように見える。見えるだけかもしれない。だが俺の目はそう捉えた。


 死体があった。


 儀式具を握ったまま倒れている者。壁際まで吹き飛ばされて肩を砕かれた者。祭壇の縁に伏している者。もう一体は柱の陰で半分だけ見えた。倒れ方に役割が残っている。何かをしていた者が、その途中で止められた配置だった。


 俺たちの足音が、石に跳ねた。


 小さな音だった。けれど広場の丸さがそれを遠くへ運ぶ。誰かが息を呑む音まで柱の間を回る。怒鳴れば壊れる場所ではない。むしろ小声ほど遠く届く場所だった。


 赤髪の彼は祭壇の近くに立っていた。


 白と青のローブ。燃えるような赤い髪。深い青の目。息は整っている。だが消耗は隠れていない。肩の動きがわずかに遅い。左手の掌に薄い焦げ跡のようなものがある。古い傷と新しい疲労が、同じ身体の上に並んでいた。


 彼は崩れていない。


 整えることで崩れを止めている。そんな立ち方だった。


 黒髪の若い男が、彼と入口の間に半身で立っていた。


 潮鎚を握っている。両手で柄を押さえ、足は床を噛む。顔立ちは若い。だが構えは若さだけでは作れない。彼は赤髪の彼を背後に置く位置を選んでいた。俺たちを見る目に怒りはない。代わりに、退かない硬さがあった。


 一歩下がった場所に、楽器を抱えた誰かがいた。


 耳のあたりを布で隠している。立ち位置が奇妙だった。赤髪の彼も見える。祭壇の段下に膝をつく青年も見える。黒髪の若い男の背中も見える。戦うための位置ではない。聞くための位置だった。


 祭壇の段下に、青年がいた。


 拐われた青年だと分かったのは、顔ではない。周囲の扱いだった。赤髪の彼の視線が、彼の無言を待っている。歌の人が呼吸に合わせて楽器を抱え直す。黒髪の若い男が一瞬だけ、祭壇ではなく青年の前を塞ぐ。


 ただの被害者として扱われていない。


 青年は膝をついたまま、片手を石に置いていた。もう片方の手で耳を半分覆っている。完全に塞ぐ形ではない。拒む手ではなく、聞きすぎないための手。呼吸は浅く速い。唇が動こうとして、音にならない。


 石に置いた指は、溝の線をなぞらない。


 触れれば何かが分かるのかもしれない。けれど彼の指は線へ入らず、一点で止まっている。触れることを畏れるように。逃げるのではなく、畏れて止まる。そんな指だった。


 聖剣の柄革に、熱があった。


 引かない熱だ。


 薄い熱ではない。革巻きの表面ではなく、鞘の奥から来る。俺が握っているのではない。柄革が俺の指を握り返す。手の骨の内側まで熱が入り、指をほどかせない。


 ただ熱は赤髪の彼へ向いていなかった。


 聖剣は彼を見ていなかった。聖剣は祭壇を見ていた。


 俺はそれを身体で測った。熱の向きは中央だ。低い祭壇。黒い溝。床下で脈打つように見える筋。彼ではない。彼の身体を越えた向こうにある何か。


「勇者殿」


 楽器を抱えた誰かが口を開いた。


 声は低すぎず、高すぎず、石に柔らかく跳ねた。


「あなたがたの目は、いま何を見ておいでですか」


 問いは広場を一周した。


 俺は答えなかった。


 答える前に、判じる必要があった。赤髪の彼を見る。彼は俺を見ている。すでに見ている。俺が入る前から、彼は広場の形も死体の位置も青年の呼吸も見ていた。


 彼は判じている。俺は、ここに着いてから判じ始める。それすら、まだ始まっていなかった。


 俺の指が、柄革に少し深く入った。


──────────────────────────────


「マリヴェルの蒼凪殿。あなたは、深淵に与する者らの敵なのか。それとも、彼らが呼ぼうとしたものなのか」


 俺の声は、思ったより遠くまで行った。


 怒鳴っていない。普通の声だ。けれど石が声を拾い、列柱の間で返す。自分の問いが少し遅れて耳に戻る。その遅れが、問うた俺自身を試しているようだった。


 赤髪の彼はすぐには答えなかった。


 一拍。目を逸らさないまま、息だけを吐いた。


「少なくとも、そこの少年を、殺そうとした側ではない」


 石に返った声は低く、整っていた。


 彼は指を動かさない。視線だけで青年を示す。無駄な動きを避けているのか、動ける量を測っているのか。どちらにしても、その節度が嘘には見えなかった。


 黒髪の若い男が潮鎚を握り直した。


「サルヴァトーレ家の五代目、海守りの当代だ。この人の前に立つなら、理由を言え」


 若い声だった。けれど芯があった。


 石がその声を遠くへ運ぶ。広場の反対側の柱まで行って返る。威嚇の大声ではない。短く置いた声なのに、距離を越えてくる。


「理由はある」


 俺は言った。


「俺たちは聖教会から派遣された勇者一行だ。深淵の神を呼ぼうとした者らを追っている」


 赤髪の彼は表情を動かさなかった。


 黒髪の若い男の足だけが、わずかに沈む。踏み込む準備ではない。受ける準備だ。


 その時、楽器を抱えた誰かがまた口を開いた。


「勇者殿。あなたがたの目は、いま何を見ておいでですか」


 同じ問いだった。


 繰り返されたことで、問いの重みが変わる。俺たちは何を見ているのか。倒れた死体か。赤髪の彼か。祭壇か。拐われた青年か。剣の熱か。


 ヴァローが俺の後ろから言った。


「倒れているのは、討伐の対象です」


 声は冷静だった。


「傷の向きは、入口側からではない。彼らは、中から崩された」


 ヴァローの言葉が床へ置かれる。結論ではなく材料。彼はいつもそうする。見えるものを並べる。並べた先で何を選ぶかは、俺の方へ残す。


 ヴェスタが柱の影から言った。


「勇者様、あの赤髪は、逃げ道を背にしてねえ」


 声は低い。軽口が抜けている。


「守ってる立ち方だ」


 カイが祈りの中で首を少し振った。


「祈りは、濁ります」


 カイの声は柔らかい。柔らかいまま、迷いを隠さない。


「けれど、あの者だけを、指しているのではありません」


 ガイウスは喋らなかった。


 彼は黒髪の若い男を見ていた。盾の角度、足の開き、潮鎚を握る手。戦士が戦士を読む目だ。彼の沈黙は、声よりはっきり言っていた。あの男は前に立つ。押せば受ける。通そうとはしない。


 俺は四人の声を背に受けた。


 ヴァローの観察。ヴェスタの読み。カイの濁った祈り。ガイウスの沈黙。


 仲間が見ているものを、俺は重ねて見ていた。それだけだった。判じる眼は、仲間の眼の上に乗るだけのものなのか。


 喉の奥が乾く。


 それを声には出さない。俺はもう一度、赤髪の彼を見る。彼の目は揺れない。消耗しているのに、俺を急かさない。急かさないことが、逆に俺の時間を削る。


 聖剣の熱は引かなかった。


──────────────────────────────


「ラウリ殿は、ご無事か」


 俺は青年を見て問うた。


 赤髪の彼が目を伏せた。ほんの少しだった。


「無事、と言えるかは別だ。だが命に別状はない」


「保護したのか」


「保護した」


「拐われた青年の、ラウリ・シレリオか」


「ああ」


 青年は俺を見なかった。


 目は祭壇の溝へ落ちている。耳を半分覆った手は動かない。呼吸だけが浅く速い。吸う息は短い。吐く息は震える。唇が動こうとするが、声にならない。


 俺は一歩だけ視線を下げた。


 石に置かれた指は、黒い溝の手前で止まっている。なぞらない。触れれば分かるものがあるのかもしれない。だが触れない。触れないまま、指先だけが白くなるほど石を押さえていた。


 膝をついたまま、青年は一度だけ顎を引いた。


 礼のようにも見えた。耐える所作にも見えた。息を吐く前に、身体の奥で何かへ頭を下げたような動きだった。吐いた息は声にならず、石の上に落ちる。


 歌の人が楽器を抱え直した。


 弦が鳴らないように、指の腹でそっと押さえる。その動きは青年の呼吸に合っていた。彼の呼吸が浅くなれば、楽器を抱える腕もわずかに締まる。声をかけない。代わりに聞いている。


「歌の人」


 俺は声をかけた。


「あなたは、ラウリ殿の側にいたのか」


「わたくしは、彼の呼吸を聞いておりました」


「呼吸を」


「彼は、何かを聞いておいでです」


「何を」


「分かりません。けれど彼の身体が、それに反応しております」


 説明ではなかった。


 見たものを、そのまま置く声だった。慇懃な言い方の奥に、嘘を混ぜない冷たさがある。歌にする者の声だと思った。近すぎず、遠すぎず、ただ聞く。


 黒髪の若い男が一瞬だけ青年の前へ半身を寄せた。


 祭壇ではなく、青年の前だ。その一瞬だけで、彼らの中の重さが分かる。赤髪の彼は青年の無言を信じている。歌の人は青年の呼吸を聞いている。黒髪の若い男は青年の前を塞げる。


 俺たちは、それを今初めて見ている。


 聖剣の熱は、まだ祭壇へ向いていた。


 引かない。


──────────────────────────────


「俺は、討つべきものの輪郭を、ここに来て初めて教えられている」


 声に出した瞬間、自分の言葉が広場で返った。


 ここに来て初めて。


 教会本部で受けた言葉は大きかった。大きすぎて、形がなかった。深淵の神を討つ。勇者として赴く。聖剣を携える。光の道を示す。どれも重い言葉だった。だが重い言葉は、必ずしも輪郭を持たない。


 今、輪郭がある。


 外壁の溝。廊下の壁画。新しい黒。倒れた者たちの手に残る儀式具。祭壇。青年の呼吸。聖剣が指を握り返す熱。


 俺はそれらを、今この場で受け取っている。


「レオン」


 カイが小さく呼んだ。


 その声には止める力はなかった。支える力があった。俺は少しだけ頷く。見えている、と返したかった。だが本当に見えているか分からなかった。


 ヴァローはまだ周囲を見ている。


「結論を急がない方がいい」


 いつもの言い方ではなかった。皮肉がない。


「だが時間があるとも言い切れません」


「そうだな」


 俺は返した。


 仲間の眼を借りる。借りている。借りて、その上で俺が何かを選ぶ。それは分かっている。分かっているはずなのに、胸の奥で別の問いが生まれる。


 仲間の眼を束ねるだけなら、勇者の眼とは何か。


 俺は赤髪の彼を見る。


 彼は先にここに来た。戦い、止め、救い、消耗し、それでも立っている。俺は後から来た。教えられた輪郭の前で、問いを並べている。


 それでも俺が判じるのか。


 判じなければならない。


 勇者とはそのために立つ者だと、俺は何度も教えられてきた。孤児院の小さな礼拝堂で。訓練場で。教会本部の白い廊下で。けれど今朝の白い光は、その言葉を飾らない。


「これは、何だ」


 俺は祭壇を見た。


 赤髪の彼は答えなかった。答えられないのか、答える時間ではないのか。彼の視線は俺から祭壇へ移り、また青年へ落ちる。


 その時、黒い溝の奥が濡れたように見えた。


──────────────────────────────


 そのとき、低い祭壇に変化が起きた。


 死体は動かなかった。


 動いたのは血だった。


 祭壇の縁に伏している死体の血が、黒い溝へ向かって戻り始めた。初めは遅い。乾きかけた赤黒い縁が、じわりと艶を取り戻す。乾いたはずの線が濡れる。床の低いところへ流れるのではない。刻まれた線を選んで戻っている。


 血が溝へ戻る。


 儀式具を握ったまま倒れている者の傷口からも、同じ動きが起きた。血が床を這い、古い刻みに沿って黒く伸びる。石の下で黒い水脈のような筋が脈打った。儀式具の端が、遅れて震える。


 終わっていない。


 倒れた者たちは終わっている。だが場は終わっていない。


 ラウリ殿の呼吸が変わった。


 視線が祭壇の溝へ落ちる。石に置いた片手が強く押される。もう片方の手が耳を半分覆ったまま、少しだけ震える。完全には塞がない。聞きすぎないために、半分だけ覆う。


 口が動いた。


 音は出ない。唇が言葉の形を作りかけて、吸う息の浅さに負ける。彼は声なく告げた。腕を上げる力はない。指の先だけが祭壇の溝へ向く。けれどその指は、溝の線をなぞらない。


 膝をついたまま、息を吐く前に一度だけ顎を引く。


 赤髪の彼が動いた。


 彼はラウリ殿の手と祭壇の溝を同時に見た。迷う時間がない動きだった。黒髪の若い男が半歩反応する。歌の人が楽器を抱え直す。ヴァローの指が強く組まれる。


 蒼凪が踏み込む。


 祭壇へ。


──────────────────────────────


 その動きを、俺は読み違えた。


 いや、眼は捉えていた。


 赤髪の彼が祭壇へ向かっている。彼の目は俺ではなく溝を見ている。彼は何かを止めようとしている。それは見えていた。見えていたはずだった。


 だが身体が先に動いた。


 聖剣の柄革が熱を返す。今度は薄くない。引かない。完全に引かなくなる。掌から腕へ熱が上がり、肩の古い傷の奥まで届く。鞘の内側で白いものが目を開ける感覚があった。


 ヴァローが声を上げた。


「勇者殿。祭壇の波形と、彼の波形は、別だ」


 短い声だった。


 石に跳ねる。遠くまで行く。俺の背中に返る。


 ヴァローが別だと読む。


 俺は聞いた。


 聞いたと分かった。分かったのに、手は柄から離れない。


 カイの祈りが震えた。


「剣は、嘘をつかない」


 彼の声は祈りの中にあった。


「だが、何を斬れと言っているのかが、見えない」


 その言葉も届いた。


 聖剣は嘘をつかない。カイはそう言った。けれど何を斬れと言っているのかが見えない。俺にも見えない。見えているのは熱の向きだけだ。熱は祭壇へ向いている。


 聖剣が向いている先は、赤髪の彼ではなかった。聖剣は、祭壇の通路を読んでいた。


 俺の身体は、その聖剣の熱を、別の方向に出そうとしていた。


 赤髪の彼が祭壇へ手を伸ばす。


 掌が石に置かれた。


 その瞬間、黒く冷たい水音が広場を走った。


 水は見えない。けれど足の裏が水の底に置かれたようになる。冷たい、深い、海の底の音。耳で聞くより先に、膝の裏で聞く音だった。列柱が低く震える。死体のそばの儀式具が遅れて反応する。


 ヴァローが再び言った。


「これも、別系統だ」


 声は一つ目より早かった。焦っているのではない。見たものを間に合わせようとしている声だった。彼の仕事は分けることだ。赤髪の彼と祭壇を分ける。今走った黒い音も分ける。


 俺は聞いた。


 俺の手は止まらない。


 レオン、とカイが呼んだ気がした。


 それも届いた。


 届いてなお、レオンの手が止まらない。


──────────────────────────────


 聖剣を抜く動きは、俺の意志ではなかった。


 そう言い切れば、嘘になる。


 俺の意志でもあった。聖剣の熱でもあった。どちらが先に動いたのか、俺には掴めない。掴めないまま、身体が剣を抜く形を知っていた。


 熱は祭壇へ向いていた。


 だから俺は祭壇へ剣を抜こうとした。


 だが低い祭壇の前に、赤髪の彼がいた。彼の掌は石に置かれている。何かを止めようとしている。少なくとも俺の眼には、そう見えていた。


 それでも俺の身体は、剣の動きを、彼を巻き込む形で出した。


 中央へ走る動線の上に、彼がいた。


 彼を斬ろうとしたのではなかった。彼を巻き込んだのだった。


 ヴァローの声は、届いていた。それでも、俺の手は止まらなかった。


 黒髪の若い男が動いた。


 彼には聖剣の熱の向きは見えない。見えたのは、俺が剣を抜き、赤髪の彼のいる方向へ出したという事実だけだ。彼の判断は速かった。迷いがなかった。


 潮鎚が上がる。


 半身が深くなる。彼は赤髪の彼と俺の間に入った。守るための一歩だった。判じるための一歩ではない。彼の役目はそこにあった。


 俺の身体は、剣の動きを、彼を巻き込む形で出した。


 最初の衝突は、聖剣と潮鎚だった。


──────────────────────────────


 聖剣が抜けた。


 潮鎚が、その光を受けた。


 遅れて、広場の石が割れる音がした。


──────────────────────────────


 光が立った。


 聖剣の白銀と、潮鎚の青。二つの光が円形広場の中央で噛み合い、押し合った。白銀は前へ出ようとする。青は受けて沈まず、床へ力を逃がす。足元の石が悲鳴のような音を奥に溜めた。


 俺は両手で剣を握っていた。


 抜いた後も、指がほどけない。柄を握る力が強すぎる。自分の掌の中で血が寄るのが分かる。聖剣の熱はまだ祭壇を捉えている。だが俺の剣は今、黒髪の若い男の潮鎚とぶつかっている。


 黒髪の若い男は潮鎚を両手で握っていた。


 目は俺を見ている。怒っていない。怒りで立っているのではない。守るものが背中にある者の目だった。彼は俺の次の動きを測っている。若い。だが若さだけで立っていない。


 赤髪の彼の手は、まだ祭壇に置かれていた。


 光のぶつかる場所から少し外れたところで、彼は石に掌をつけている。黒く冷たい水音は続いているのか、止まったのか、俺には判じきれない。耳の奥に低い音だけが残っている。


 ラウリ殿は膝をついたままだった。


 耳を半分覆う手は変わらない。呼吸は速い。唇がまた動く。声は出ない。石に置いた指は、やはり溝をなぞらない。一点で止まったまま、白く力が入っている。


 歌の人が半歩動いた。


 彼はラウリ殿の方へ寄る。楽器は鳴らさない。鳴らさないまま、呼吸を聞く位置へ移る。耳を隠した布の端が光で白く見えた。


 ヴァローはまだ見ていた。


 指は組まれたまま。目は祭壇と赤髪の彼と、俺の剣の光を往復している。彼は言葉にし終えていない。分け続けている。彼の役目はそこにある。


 カイは祈っていた。


 濁りの中で祈りをやめない。彼の祈りは光へ向かう。返るものがなくても、通る限り祈る。彼は俺を止める言葉を持っていたかもしれない。だがその時、祈りを切らなかった。


 ガイウスは盾を構えていた。


 彼の眼は黒髪の若い男を見ている。潮鎚の受け方。足の位置。肩の残り。戦士の眼で戦士を読んでいる。ヴェスタは柱の影にいた。息を低く吐き、短剣を抜くか抜かないかの位置で止めている。


 俺は剣を握っていた。


 光が目に焼きつく。白銀と青がぶつかった残像が、まばたきの裏に残る。鼓動は石の割れる音より早い。だが問いは、その音より遅れて届いた。


 俺は、判じるためではなく、勇者であるために、抜いたのではないか。


 言い訳ではなかった。


 誰かに聞かせる言葉でもなかった。遅れて来た判定だった。剣を抜いた身体の後ろから、ようやく心が追いついてきて、その手つきを見た。


 聖剣は祭壇を捉えていた。


 俺の身体は赤髪の彼を巻き込んでいた。


 それは別のことだった。


 別のことなのに、同じ瞬間に起きていた。


 俺は息を整えようとした。吸う。吐く。吐ききれない。柄を握る指がまだ緩まない。勇者の白い光は、俺の手から出ている。けれどその光の向きと、俺の身体の動きは同じではなかった。


 赤髪の彼がこちらを見た。


 責める目ではなかった。判じる目だった。だから余計に、俺の胸の奥で何かが沈んだ。


──────────────────────────────


 広場の石が割れた音が、もう一度遠く返ってきた。


 最初の音が列柱を回り、遅れて耳へ戻っただけかもしれない。だが俺には、朝そのものがもう一度割れたように聞こえた。


 白い光はまだ斜めに落ちている。明るいのに寒い。死体の血は黒い溝で濡れ、祭壇の線は乾かない。ラウリ殿の呼吸は浅く、歌の人はその傍らで聞いている。赤髪の彼は祭壇に手を置き、黒髪の若い男は俺の前に立つ。


 聖剣と潮鎚は互いの光をまだ受け合っていた。


 俺は、判じる前の朝に、立っていなかった。


 俺は、判じる前に、剣を抜いた朝に、立っていた。

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