飾りですらない
朝が来た。
水平線の黒い線が、白い線になっていた。
俺は四人の隣で、まだ判じていなかった。
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夜明けの直前に、海の色が変わった。
船の腹を叩いていた波音が一つ低くなり、風が帆の端を押す向きを変えた。舳先が大きく一度だけ傾いた。船員の若い二人が綱を引き直す。濡れた麻縄が手の中で鳴り、甲板の板が小さく軋んだ。
俺は舷側に立っていた。
水平線の向こうに、島があった。
昨夕に見たときは黒い傷のような線だった。海と空の境目に横たわっているだけの線。そこへ行くと決めたのは夜の終わりだった。彼にもう一度会う。今度は判じる眼で合わせる。俺はそう決めた。
朝はその決意を、少しも待ってくれない。
薄い灰色の光が海に広がる。橙になる前の冷たい時間。雲は低く、ところどころ薄く裂けていた。裂け目から白さが漏れて、波の頭だけを淡く照らした。
岸の輪郭が近づいてきた。
同じ島だ。同じ岸のはずだ。けれど夜が落としていた影が退くと、島は別の顔を見せた。岩の形。砂の白さ。林の濃さ。何かが隠れているというより、隠れていたものがこちらを見返してくるようだった。
俺は左手を下ろした。
深紅のサッシュの下で、聖剣の鞘がわずかに揺れる。柄革に指を置く。冷たい。昨夕の沈黙に似ているが、同じではない。昨日の冷たさは答えのなさだった。今朝の冷たさは朝気だった。
違う、と指が先に分かった。
聖剣はまだ沈黙していた。
カイは艫の方で祈っていた。声はなかった。両手を胸の前で合わせ、親指をロザリオに添える。船の揺れに合わせて膝を少し緩める。祈りだけが揺れていない。カイの中の一番古い習慣が、朝の海の上に静かに立っていた。
ヴァローは舳先の近くで海図を押さえていた。羊皮紙の四隅に小石を置き、指で航路を辿る。灰色の髪が風に流れる。彼の指は急がない。線を読み、距離を測り、見えているものと見えていないものを分けている。
ガイウスは重盾を抱えていた。盾の縁を布で拭く手が大きい。布が潮を吸って重くなっても、手の動きは変わらない。左頬の古い傷が朝の光で薄く見えた。彼は岸を見ていない。岸の向こうにある戦場を見ていた。
ヴェスタは舳先の上に腰をかけていた。青と黄色のバンダナが朝風に揺れる。片手は頬。片手は膝。目は岸より少し手前の潮目に置かれている。風の向き、波の寄せ方、砂浜へ入る角度。彼はそれを読む。
カイは祈る。ヴァローは見る。ガイウスは備える。ヴェスタは読む。
俺は、聖剣の柄革に触れかけて、止めた。
空いた手が宙に残った。
それを下ろすだけの動きに、少し時間がかかった。
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「勇者様、岸は読みやすいですよ」
ヴェスタが舳先で言った。こちらを振り返らない。声は軽いのに、目の奥は笑っていない。海の上で仕事をしている時の声だった。
「人の手が、入りすぎてる」
砂浜が見えた。波打ち際に残る薄い乱れ。岩陰に積まれた石。林の前だけ、不自然に草が低い。無人の島という言葉が、口の中で乾いた。
「足跡か」
「足跡だけじゃねえな。上手く消してるが、消し方が揃いすぎだ。半月前くらいの手際が残ってる」
ヴァローが海図から顔を上げた。
「半月前なら、こちらが追っている者たちの動きと噛み合います」
「合いますね」
カイが祈りを終えて言った。掌を解いた後も、指の先に祈りの形が残っている。
「ただ、整いすぎています」
「整いすぎている」
ヴァローが同じ言葉を返した。繰り返すときの彼は、言葉の重さを量っている。
「複数の手が入っている、ということでしょう」
ガイウスが盾を拭く手を止めた。布を握る指が一度だけ締まる。
「先に着いた連中がいるな」
「それは、俺たちが追っている連中か」
「分からん。だが俺たちが一番乗りじゃねえ」
ヴェスタが肩だけで笑った。
「勇者様、覚悟しときな。誰かが踏んだ後を追って入ることになるぜ」
俺は返事をしなかった。
岸が近い。島の石の白さがはっきり見える。波打ち際の砂は荒れているのに、林の入口だけ妙に平らだった。踏まれた道がある。隠された道がある。俺たちが来る前に、何度も使われた道がある。
俺の手はまた、柄革の近くで止まった。
触れれば何かが分かる気がした。触れても何も分からない気もした。どちらも俺の内側で同じ重さを持っていた。
「船は浅瀬まで」
俺は言った。
「そこから歩く。船員は二人、船に残れ」
若い船員が頷いた。顔色はよくない。島を見ているのではなく、島を見ないようにしている顔だった。
カイが俺の横へ来た。
「レオン」
「大丈夫だ」
「まだ何も言っていません」
「言う前の顔だった」
カイは一瞬だけ困ったように笑った。それから祈る時の目に戻った。
岸が近づいていた。
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上陸は、思ったより音がしなかった。
船底が浅瀬の砂を擦る。小さな衝撃が足の裏へ伝わる。船員が綱を投げ、ヴェスタが先に飛び降りた。膝まで海に浸かり、すぐに砂の固さを確かめる。ガイウスが盾を背に回して降りると、水が重く割れた。
俺は最後に近い順で降りた。
冷たい海水が旅靴の縁を濡らす。砂を踏む。足元が少し沈んだ。すぐに体重を移す。前へ。島へ。昨日、遠くに見た傷の岸へ。
砂は荒れていた。
波打ち際から数歩のところに、消えかけた足跡が残っている。新しい跡ではない。けれど古いだけでもない。波がなぞり、風が埋め、それでも消しきれなかった輪郭。人の重さだけが砂の底に残っていた。
ヴェスタが屈んだ。
「西から来てる……いや、違うな。西へ出ていった足跡だ。来たんじゃねえ」
「複数か」
「三人以上五人未満。荷は少ねえ。急いだ歩き方だが、逃げ腰とは違う」
ヴァローが足跡の端を見た。砂には触れない。
「往復の一方だけが濃い。入口は別にあるか、あるいは消されたか」
「どっちだ」
「観察できる範囲では、まだ保留です」
カイは浜の奥を見ていた。
胸元のロザリオに触れたまま、眉をわずかに寄せる。彼が苦しそうな顔をする時、最初に変わるのは眉ではなく呼吸だ。吐く息が浅くなる。
「祈りが、通っています。ただ、応答が、返ってきません」
俺は彼を見た。
「返らないのか」
「光神は応えてくださっています。けれど土地が、返るものを吸っています」
カイは言葉を選んでいた。彼の信じるものを疑っている顔ではない。届いている祈りの先で、何か別のものが沈んでいる顔だった。
ヴァローが両の指を組んだ。
月読みの塔の作法。掌の中に薄い影が生まれる。影は朝の浜で奇妙に見えた。太陽がまだ高くないせいか、影の輪郭はいつもより細かった。
「黒い手の跡があります。ただし新しくはありません」
「いつだ」
「半日前ではない。少なくとも数月前。古ければ数年単位でしょう」
「ここに、長く出入りしている」
「そう見ます」
俺は林の方を見た。砂が終わる場所に、低い草と白い石が混じっている。人が通れば分かる。分かるように残しているのではない。隠すことに慣れた者たちが、それでも隠しきれなかった跡だ。
聖剣はまだ冷たい。
その冷たさを確かめたくなって、俺は指を動かしかけた。止める。カイは祈りを測る。ヴァローは影を測る。ガイウスは前へ出る間合いを測る。ヴェスタは足跡を読む。
俺は何を見ている。
ガイウスが盾を背から下ろした。
「進むか」
俺は四人を順に見た。カイ、ヴァロー、ガイウス、ヴェスタ。誰も俺に答えを求める顔ではなかった。それぞれ答えの一部を持っている顔だった。
最後の形を俺に渡す。
それが勇者の位置だ。
「進もう」
声は浜に落ちた。
震えなかった。
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林の中は湿っていた。
海から数十歩離れただけで、潮の匂いが苔の匂いに混じる。足元の砂はすぐに土へ変わった。土の下には石がある。何度か靴底が滑り、ガイウスが無言で腕を差し出した。俺はそれを借りずに体勢を戻した。
借りてもよかった。
その一拍が、胸の奥で少し残った。
林は深くない。だが歩きにくい。低い枝が視界を切る。古い石組みが草の下から顔を出す。まっすぐ進んでいるはずなのに、足だけが少しずつ左右へ逸れる。誰かが昔に道を作り、誰かが後からその道を消したようだった。
ヴェスタが先行した。
「足元、右に石。左は空洞っぽい。踏むなよ」
「見えている」
ヴァローが言った。
「見えてる奴は普通そう言わねえんだよ」
軽口は短かった。誰も笑わなかった。笑えないのではなく、音を増やしたくない空気だった。
林を抜けると、神殿が見えた。
岸から数百歩。林の縁に、半壊した石造りの建物が立っていた。屋根は半分以上落ちている。柱は折れ、壁は裂け、入口の上にあったはずの装飾は形を失っている。
それでも建物は立っていた。
潮と雨に削られて白く荒れた石。苔が割れ目に詰まり、乾いた塩が表面に浮いている。遠目には古いだけの廃墟に見えた。近づくと違った。
人が触れた跡がある。
ヴェスタが走った。音がほとんどない。軽装の革が草を掠める音だけが残る。
「神官殿、後ろで」
カイが半歩下がった。祈りを切らさない。彼の祈りは土地に吸われながら、それでも細く前へ伸びていた。
ヴェスタは神殿手前の石影で膝を折った。手で合図を出す。待て。俺たちは林の縁で止まる。風が抜ける。神殿の中からはまだ何も聞こえない。
しばらくして、合図が変わった。
来い。低く。
俺は林を出た。
外周の石材に近づく。白く荒れた表面。塩。苔。古い雨の筋。その上に、黒い溝が走っていた。
自然の割れ目ではない。
石に刻まれた線だ。古い曲線と、新しい直線。古い線は波を真似ているように見えた。ゆるく、深く、迷わず続く。新しい線はそれを切る。重ねるのではなく、上から押さえつけるように走る。
「術の跡だ」
ヴァローが言った。
「深淵の神を呼ぼうとした者らの手だな」
ガイウスの声は低かった。彼はその言葉をまだ口に馴染ませていない。俺も同じだ。教会本部で聞いた時、その言葉は遠かった。書類の上の重い名。今は石の溝になって目の前にある。
聖剣の革巻きに、薄い熱が立った。
一度だけ。
ほんの短い熱だった。指先が錯覚したと言えるほど薄い。けれど錯覚ではない。海岸洞窟で感じたものに似ている。あの時より少し近い。だが鞘の中で剣身が鳴るほどではなかった。
俺は柄から指を離さなかった。
「先に着いているのは、赤髪の彼たちか」
俺が問うと、カイが小さく息を吸った。
「祈りが、その方角で少しだけ返ります」
「少しだけ」
「はい。土地に吸われます。それでも、奥だけは薄く返ります」
ヴェスタが石の根元を見たまま頷いた。
「足跡も奥だ。半月前の連中じゃねえ。半日前。夜明け前か、夜明けすぐだな」
ヴァローが黒い溝に目を落とした。
「古い刻みに新しい黒が乗っている。乱暴ではない。慣れた手です」
「分かるのか」
「分かるところまでです。誰の手かまでは読めません」
神殿の入口は暗い。
半壊した門の向こうに、朝の光が届かない場所がある。そこへ入れば、岸の白い光は背中になる。
ガイウスが盾を構え直した。
「進むか」
俺は聖剣の冷たさと、今立った薄い熱の名残を指で確かめた。
「進む」
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神殿の中は、外より一段冷たかった。
崩れた壁から朝の光が斜めに差し込んでいる。床に白い帯ができていた。光の中には塵が浮かぶ。影の中には湿り気が残る。光と影の境目を越えるたび、頬の温度が変わった。
明るい場所と暗い場所が、同じ廊下に並んでいる。
廊下に死体があった。
最初の一体は入口から五歩ほど先。両手で短い杖のような儀式具を抱えていた。腹を深く割られている。血は床に広がった後、黒い溝の手前で乾いていた。顔は奥を向いている。逃げようとして倒れた形ではない。
ヴァローが屈んだ。
「中から崩されています」
彼は死体に触れる前に、手の位置と傷の向きを見る。指先は最後にしか使わない。
「入口側から刺されたなら、身体の向きが合いません。刃は奥から来ています」
「奥にいた誰かが、こいつを倒した」
「そう見ます」
ガイウスが廊下の先へ目を細めた。
「俺たちが二番目だな」
ヴェスタは砂利を踏まない。床の沈み方を読んでいる。彼の足運びは港の路地で見た時よりさらに軽かった。前へ出るほど声が減る。軽口の人間が黙ると、戦場が近い。
壁に壁画があった。
古い波の線。緩い曲線。海岸洞窟で見たものと似ている。だがその上から黒い直線が走っていた。切る線。繋ぐ線ではない。古いものを利用しながら、別の目的で押し込めた線。
俺は口の中で呟いた。
「同じ系列」
「海岸洞窟のものより濃い」
ヴァローが言う。
「濃いとは」
「中心に近い、という意味です。あるいは長く触れられている」
「どちらだ」
「両方の可能性があります」
奥で音がした。
小さな金属音。誰かが何かを落とした音ではない。ぶつけた音でもない。持ち替えた音だ。
ガイウスが盾を半身に構える。ヴェスタが柱の影に溶ける。ヴァローの杖が低く上がる。カイは祈りを続けていた。俺は柄に手を置いた。
末端だった。
二人。どちらも儀式具を持っていた。目はこちらを向かない。奥へ行こうとしていた。あるいは奥から逃げてきて、戻るべきか迷っていた。血の気の失せた顔だけが、まだ何かに命じられている。
ガイウスが一人を盾の縁で押し倒した。
骨の鳴る音が短く響く。ヴェスタの短剣がもう一人の腿へ飛ぶ。倒れた相手が声を出す前に、ヴェスタが背後へ回る。ガイウスがとどめを刺す。短い戦闘だった。熱も叫びも残らない。
短い、硬い、戦闘。
俺の聖剣は抜かれなかった。
柄革に、薄い熱が立った。
二度目だった。
一度目より長い。革の表面に残る熱が、俺の掌の形に沿って広がる。けれどまだ鞘の奥は動かない。抜けと言っている熱ではなかった。近い、と知らせる熱だった。
カイが俺を見た。
「お抜きにならなかったのですね」
「抜けば、終わる」
自分の声が石に低く返った。
「だがまだ早い」
半分は本当だった。
残りの半分は、胸の奥に沈んだ。判じる前に抜きたくない。抜いた瞬間に、俺は自分の役目を剣へ預けてしまう。そう思った。
カイは何も言わない。
その沈黙が俺には少しだけ痛かった。
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奥から、戦いの音が聞こえてきた。
最初は打撃音だった。鈍く、重く、石にぶつかる音。刃と刃ではない。何か硬いものが床か柱を叩いた。次に石の反響が来た。廊下の奥で生まれた音が、壁の割れ目を通って遅れて戻ってくる。
ガイウスが盾を上げた。
ヴェスタが片手を低く出した。止まれ、ではない。音を聞け、という合図だった。俺たちは廊下の途中で足を止める。
また音がした。
今度は近い。重い一打の後に、砂が崩れる細かな音が重なった。柱の欠片か。床石か。空気に潮の気配が混じる。海は外だ。壁の向こうに見えるはずがない。なのに鼻の奥に塩が刺した。
カイの祈りがわずかに乱れた。
彼は声を出さない。だがロザリオを握る手の力が変わった。祈りが通る先で何かが揺れている。返らない土地の奥で、返らないまま騒いでいるものがある。
ヴァローの指が組まれる。掌の中に薄い影が生まれ、細い糸のように廊下の奥へ伸びた。彼の目は壁を見ていない。壁の向こうで動くものの輪郭を探っている。
「複数です」
「赤髪の彼か」
「一つは近い。ただ、断定には足りません」
ヴェスタが舌打ちを飲み込んだ。
「戦ってる相手の数は」
「倒れているものを含めれば多い。動いているものは減っています」
減っている。
その言葉が、廊下の冷気より先に背中へ入った。
俺は歩き出した。
足音を殺すつもりだった。だが心拍が先に速くなる。胸の内側を叩く音が、神殿の石に聞こえる気がした。聖剣の柄革が冷たくなり、また薄く温かくなる。引いて、立つ。引いて、立つ。不安定な熱だった。
昨夕、俺は決めた。
明日の朝、その傷の岸に上陸する。彼にもう一度会う。今度は判じる眼で合わせる。
その朝が今だった。
もう一度という言葉には、いつも都合のいい幅がある。こちらが準備して、息を整え、相手の前へ立つ時間があると思ってしまう。だが現実の朝は廊下の奥で鳴っている。石が割れ、誰かが息を詰め、何かが終わりかけている。
弦の音がした。
一弦だけ。はじかれた音が廊下に入ってきた。歌ではない。歌になる前の音。長く伸ばされることもなく、すぐに途切れた。けれどその一音だけで、神殿の冷気が別の形になった。
「楽器」
カイが言った。
「奥に誰かいます」
「歌い手か」
俺は短く返した。
先日の街角で見た楽器を抱えた影が、頭をよぎった。耳を布で隠した誰か。赤髪の彼の近くにいた誰か。あの時、俺は何を見ていた。顔か。距離か。彼らの関係か。
答える前に、また一打。
今度は最後の一打だと分かった。音がそう告げていた。続くための音ではない。終わらせるための音。石が深く鳴り、廊下の奥で空気が押し返される。
それから静寂。
静かになったのではない。静まりつつある音が、こちらへ来る途中で全部剥がれていく。残ったのは白い光の気配と、遠い潮の匂いだけだった。
ヴェスタが先頭に立つ。彼の足は音を立てない。ガイウスがその後ろで盾を半身に構える。ヴァローは影を引き戻さない。探りながら進む。カイは祈りを胸の前に抱えている。
俺は中央にいた。
前へ出るには遅い。後ろにいるには近すぎる。聖剣の熱が一度だけ掌に立ち、すぐに引く。俺はその引いた場所へ指を置き直した。
廊下が広がる。
先に円形の空間がある。天井の抜けた場所から白い光が落ちている。明るい。なのに冷たい。入口の手前で、俺は足を止めた。
「判じてから、入る」
誰に向けた声でもなかった。
自分の喉から出た声が、壁に当たって小さく返る。判じる。見て、分けて、決める。剣を抜く前に。勇者として名乗る前に。俺がそうするのだと、昨夕の俺は決めた。
直後に、最後の一打が響いた。
円形広場の方からだった。
胸が一度、遅れて跳ねた。
判じる時間が外側から削られる。まだ見ていないものが、先に終わろうとしている。俺が入口で息を整える一拍を、石の向こうの誰かは待たない。
隙間から断片が見えた。
低い祭壇。倒れた人影。三つか四つ。立っている赤髪。赤髪のそばに黒髪の若い男。膝をつく青年。楽器を抱えた誰か。
断片だけが、先に届く。
俺は息を吐いた。
「行く」
ガイウスが盾をわずかに上げる。ヴェスタが柱影から滑り出る。ヴァローが影を細く保つ。カイが俺の隣に立つ。
俺は入口を抜けた。
──────────────────────────────
赤髪の彼と、俺の眼が合った。
一拍。
両者とも、何も言わなかった。互いを見た。
それだけが、最初に起きた。
そのあとで、広場が俺の中に入ってきた。
円形の広場だった。中央に低い祭壇があり、その周囲を半壊した列柱が囲んでいる。天井は大きく抜けていた。白い斜光が斜めに落ち、柱の影を床に長く伸ばしている。
明るいのに寒い。
朝の光が肩に触れる場所は白い。けれど空気そのものは冷たい。光と影の境目で温度が違った。光の中を塵が舞い、影の中に潮の湿りが沈んでいる。息を吸うと、石粉と血と塩が混じった。
石材は白く荒れていた。
潮と苔。風雨に削られた縁。そこへ黒い水脈のような溝が走っている。外壁で見たものと同じ手だ。古い曲線に新しい黒が乗り、床下で脈打つように見える。見えるだけかもしれない。だが俺の目はそう捉えた。
死体があった。
儀式具を握ったまま倒れている者。壁際まで吹き飛ばされて肩を砕かれた者。祭壇の縁に伏している者。もう一体は柱の陰で半分だけ見えた。倒れ方に役割が残っている。何かをしていた者が、その途中で止められた配置だった。
俺たちの足音が、石に跳ねた。
小さな音だった。けれど広場の丸さがそれを遠くへ運ぶ。誰かが息を呑む音まで柱の間を回る。怒鳴れば壊れる場所ではない。むしろ小声ほど遠く届く場所だった。
赤髪の彼は祭壇の近くに立っていた。
白と青のローブ。燃えるような赤い髪。深い青の目。息は整っている。だが消耗は隠れていない。肩の動きがわずかに遅い。左手の掌に薄い焦げ跡のようなものがある。古い傷と新しい疲労が、同じ身体の上に並んでいた。
彼は崩れていない。
整えることで崩れを止めている。そんな立ち方だった。
黒髪の若い男が、彼と入口の間に半身で立っていた。
潮鎚を握っている。両手で柄を押さえ、足は床を噛む。顔立ちは若い。だが構えは若さだけでは作れない。彼は赤髪の彼を背後に置く位置を選んでいた。俺たちを見る目に怒りはない。代わりに、退かない硬さがあった。
一歩下がった場所に、楽器を抱えた誰かがいた。
耳のあたりを布で隠している。立ち位置が奇妙だった。赤髪の彼も見える。祭壇の段下に膝をつく青年も見える。黒髪の若い男の背中も見える。戦うための位置ではない。聞くための位置だった。
祭壇の段下に、青年がいた。
拐われた青年だと分かったのは、顔ではない。周囲の扱いだった。赤髪の彼の視線が、彼の無言を待っている。歌の人が呼吸に合わせて楽器を抱え直す。黒髪の若い男が一瞬だけ、祭壇ではなく青年の前を塞ぐ。
ただの被害者として扱われていない。
青年は膝をついたまま、片手を石に置いていた。もう片方の手で耳を半分覆っている。完全に塞ぐ形ではない。拒む手ではなく、聞きすぎないための手。呼吸は浅く速い。唇が動こうとして、音にならない。
石に置いた指は、溝の線をなぞらない。
触れれば何かが分かるのかもしれない。けれど彼の指は線へ入らず、一点で止まっている。触れることを畏れるように。逃げるのではなく、畏れて止まる。そんな指だった。
聖剣の柄革に、熱があった。
引かない熱だ。
薄い熱ではない。革巻きの表面ではなく、鞘の奥から来る。俺が握っているのではない。柄革が俺の指を握り返す。手の骨の内側まで熱が入り、指をほどかせない。
ただ熱は赤髪の彼へ向いていなかった。
聖剣は彼を見ていなかった。聖剣は祭壇を見ていた。
俺はそれを身体で測った。熱の向きは中央だ。低い祭壇。黒い溝。床下で脈打つように見える筋。彼ではない。彼の身体を越えた向こうにある何か。
「勇者殿」
楽器を抱えた誰かが口を開いた。
声は低すぎず、高すぎず、石に柔らかく跳ねた。
「あなたがたの目は、いま何を見ておいでですか」
問いは広場を一周した。
俺は答えなかった。
答える前に、判じる必要があった。赤髪の彼を見る。彼は俺を見ている。すでに見ている。俺が入る前から、彼は広場の形も死体の位置も青年の呼吸も見ていた。
彼は判じている。俺は、ここに着いてから判じ始める。それすら、まだ始まっていなかった。
俺の指が、柄革に少し深く入った。
──────────────────────────────
「マリヴェルの蒼凪殿。あなたは、深淵に与する者らの敵なのか。それとも、彼らが呼ぼうとしたものなのか」
俺の声は、思ったより遠くまで行った。
怒鳴っていない。普通の声だ。けれど石が声を拾い、列柱の間で返す。自分の問いが少し遅れて耳に戻る。その遅れが、問うた俺自身を試しているようだった。
赤髪の彼はすぐには答えなかった。
一拍。目を逸らさないまま、息だけを吐いた。
「少なくとも、そこの少年を、殺そうとした側ではない」
石に返った声は低く、整っていた。
彼は指を動かさない。視線だけで青年を示す。無駄な動きを避けているのか、動ける量を測っているのか。どちらにしても、その節度が嘘には見えなかった。
黒髪の若い男が潮鎚を握り直した。
「サルヴァトーレ家の五代目、海守りの当代だ。この人の前に立つなら、理由を言え」
若い声だった。けれど芯があった。
石がその声を遠くへ運ぶ。広場の反対側の柱まで行って返る。威嚇の大声ではない。短く置いた声なのに、距離を越えてくる。
「理由はある」
俺は言った。
「俺たちは聖教会から派遣された勇者一行だ。深淵の神を呼ぼうとした者らを追っている」
赤髪の彼は表情を動かさなかった。
黒髪の若い男の足だけが、わずかに沈む。踏み込む準備ではない。受ける準備だ。
その時、楽器を抱えた誰かがまた口を開いた。
「勇者殿。あなたがたの目は、いま何を見ておいでですか」
同じ問いだった。
繰り返されたことで、問いの重みが変わる。俺たちは何を見ているのか。倒れた死体か。赤髪の彼か。祭壇か。拐われた青年か。剣の熱か。
ヴァローが俺の後ろから言った。
「倒れているのは、討伐の対象です」
声は冷静だった。
「傷の向きは、入口側からではない。彼らは、中から崩された」
ヴァローの言葉が床へ置かれる。結論ではなく材料。彼はいつもそうする。見えるものを並べる。並べた先で何を選ぶかは、俺の方へ残す。
ヴェスタが柱の影から言った。
「勇者様、あの赤髪は、逃げ道を背にしてねえ」
声は低い。軽口が抜けている。
「守ってる立ち方だ」
カイが祈りの中で首を少し振った。
「祈りは、濁ります」
カイの声は柔らかい。柔らかいまま、迷いを隠さない。
「けれど、あの者だけを、指しているのではありません」
ガイウスは喋らなかった。
彼は黒髪の若い男を見ていた。盾の角度、足の開き、潮鎚を握る手。戦士が戦士を読む目だ。彼の沈黙は、声よりはっきり言っていた。あの男は前に立つ。押せば受ける。通そうとはしない。
俺は四人の声を背に受けた。
ヴァローの観察。ヴェスタの読み。カイの濁った祈り。ガイウスの沈黙。
仲間が見ているものを、俺は重ねて見ていた。それだけだった。判じる眼は、仲間の眼の上に乗るだけのものなのか。
喉の奥が乾く。
それを声には出さない。俺はもう一度、赤髪の彼を見る。彼の目は揺れない。消耗しているのに、俺を急かさない。急かさないことが、逆に俺の時間を削る。
聖剣の熱は引かなかった。
──────────────────────────────
「ラウリ殿は、ご無事か」
俺は青年を見て問うた。
赤髪の彼が目を伏せた。ほんの少しだった。
「無事、と言えるかは別だ。だが命に別状はない」
「保護したのか」
「保護した」
「拐われた青年の、ラウリ・シレリオか」
「ああ」
青年は俺を見なかった。
目は祭壇の溝へ落ちている。耳を半分覆った手は動かない。呼吸だけが浅く速い。吸う息は短い。吐く息は震える。唇が動こうとするが、声にならない。
俺は一歩だけ視線を下げた。
石に置かれた指は、黒い溝の手前で止まっている。なぞらない。触れれば分かるものがあるのかもしれない。だが触れない。触れないまま、指先だけが白くなるほど石を押さえていた。
膝をついたまま、青年は一度だけ顎を引いた。
礼のようにも見えた。耐える所作にも見えた。息を吐く前に、身体の奥で何かへ頭を下げたような動きだった。吐いた息は声にならず、石の上に落ちる。
歌の人が楽器を抱え直した。
弦が鳴らないように、指の腹でそっと押さえる。その動きは青年の呼吸に合っていた。彼の呼吸が浅くなれば、楽器を抱える腕もわずかに締まる。声をかけない。代わりに聞いている。
「歌の人」
俺は声をかけた。
「あなたは、ラウリ殿の側にいたのか」
「わたくしは、彼の呼吸を聞いておりました」
「呼吸を」
「彼は、何かを聞いておいでです」
「何を」
「分かりません。けれど彼の身体が、それに反応しております」
説明ではなかった。
見たものを、そのまま置く声だった。慇懃な言い方の奥に、嘘を混ぜない冷たさがある。歌にする者の声だと思った。近すぎず、遠すぎず、ただ聞く。
黒髪の若い男が一瞬だけ青年の前へ半身を寄せた。
祭壇ではなく、青年の前だ。その一瞬だけで、彼らの中の重さが分かる。赤髪の彼は青年の無言を信じている。歌の人は青年の呼吸を聞いている。黒髪の若い男は青年の前を塞げる。
俺たちは、それを今初めて見ている。
聖剣の熱は、まだ祭壇へ向いていた。
引かない。
──────────────────────────────
「俺は、討つべきものの輪郭を、ここに来て初めて教えられている」
声に出した瞬間、自分の言葉が広場で返った。
ここに来て初めて。
教会本部で受けた言葉は大きかった。大きすぎて、形がなかった。深淵の神を討つ。勇者として赴く。聖剣を携える。光の道を示す。どれも重い言葉だった。だが重い言葉は、必ずしも輪郭を持たない。
今、輪郭がある。
外壁の溝。廊下の壁画。新しい黒。倒れた者たちの手に残る儀式具。祭壇。青年の呼吸。聖剣が指を握り返す熱。
俺はそれらを、今この場で受け取っている。
「レオン」
カイが小さく呼んだ。
その声には止める力はなかった。支える力があった。俺は少しだけ頷く。見えている、と返したかった。だが本当に見えているか分からなかった。
ヴァローはまだ周囲を見ている。
「結論を急がない方がいい」
いつもの言い方ではなかった。皮肉がない。
「だが時間があるとも言い切れません」
「そうだな」
俺は返した。
仲間の眼を借りる。借りている。借りて、その上で俺が何かを選ぶ。それは分かっている。分かっているはずなのに、胸の奥で別の問いが生まれる。
仲間の眼を束ねるだけなら、勇者の眼とは何か。
俺は赤髪の彼を見る。
彼は先にここに来た。戦い、止め、救い、消耗し、それでも立っている。俺は後から来た。教えられた輪郭の前で、問いを並べている。
それでも俺が判じるのか。
判じなければならない。
勇者とはそのために立つ者だと、俺は何度も教えられてきた。孤児院の小さな礼拝堂で。訓練場で。教会本部の白い廊下で。けれど今朝の白い光は、その言葉を飾らない。
「これは、何だ」
俺は祭壇を見た。
赤髪の彼は答えなかった。答えられないのか、答える時間ではないのか。彼の視線は俺から祭壇へ移り、また青年へ落ちる。
その時、黒い溝の奥が濡れたように見えた。
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そのとき、低い祭壇に変化が起きた。
死体は動かなかった。
動いたのは血だった。
祭壇の縁に伏している死体の血が、黒い溝へ向かって戻り始めた。初めは遅い。乾きかけた赤黒い縁が、じわりと艶を取り戻す。乾いたはずの線が濡れる。床の低いところへ流れるのではない。刻まれた線を選んで戻っている。
血が溝へ戻る。
儀式具を握ったまま倒れている者の傷口からも、同じ動きが起きた。血が床を這い、古い刻みに沿って黒く伸びる。石の下で黒い水脈のような筋が脈打った。儀式具の端が、遅れて震える。
終わっていない。
倒れた者たちは終わっている。だが場は終わっていない。
ラウリ殿の呼吸が変わった。
視線が祭壇の溝へ落ちる。石に置いた片手が強く押される。もう片方の手が耳を半分覆ったまま、少しだけ震える。完全には塞がない。聞きすぎないために、半分だけ覆う。
口が動いた。
音は出ない。唇が言葉の形を作りかけて、吸う息の浅さに負ける。彼は声なく告げた。腕を上げる力はない。指の先だけが祭壇の溝へ向く。けれどその指は、溝の線をなぞらない。
膝をついたまま、息を吐く前に一度だけ顎を引く。
赤髪の彼が動いた。
彼はラウリ殿の手と祭壇の溝を同時に見た。迷う時間がない動きだった。黒髪の若い男が半歩反応する。歌の人が楽器を抱え直す。ヴァローの指が強く組まれる。
蒼凪が踏み込む。
祭壇へ。
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その動きを、俺は読み違えた。
いや、眼は捉えていた。
赤髪の彼が祭壇へ向かっている。彼の目は俺ではなく溝を見ている。彼は何かを止めようとしている。それは見えていた。見えていたはずだった。
だが身体が先に動いた。
聖剣の柄革が熱を返す。今度は薄くない。引かない。完全に引かなくなる。掌から腕へ熱が上がり、肩の古い傷の奥まで届く。鞘の内側で白いものが目を開ける感覚があった。
ヴァローが声を上げた。
「勇者殿。祭壇の波形と、彼の波形は、別だ」
短い声だった。
石に跳ねる。遠くまで行く。俺の背中に返る。
ヴァローが別だと読む。
俺は聞いた。
聞いたと分かった。分かったのに、手は柄から離れない。
カイの祈りが震えた。
「剣は、嘘をつかない」
彼の声は祈りの中にあった。
「だが、何を斬れと言っているのかが、見えない」
その言葉も届いた。
聖剣は嘘をつかない。カイはそう言った。けれど何を斬れと言っているのかが見えない。俺にも見えない。見えているのは熱の向きだけだ。熱は祭壇へ向いている。
聖剣が向いている先は、赤髪の彼ではなかった。聖剣は、祭壇の通路を読んでいた。
俺の身体は、その聖剣の熱を、別の方向に出そうとしていた。
赤髪の彼が祭壇へ手を伸ばす。
掌が石に置かれた。
その瞬間、黒く冷たい水音が広場を走った。
水は見えない。けれど足の裏が水の底に置かれたようになる。冷たい、深い、海の底の音。耳で聞くより先に、膝の裏で聞く音だった。列柱が低く震える。死体のそばの儀式具が遅れて反応する。
ヴァローが再び言った。
「これも、別系統だ」
声は一つ目より早かった。焦っているのではない。見たものを間に合わせようとしている声だった。彼の仕事は分けることだ。赤髪の彼と祭壇を分ける。今走った黒い音も分ける。
俺は聞いた。
俺の手は止まらない。
レオン、とカイが呼んだ気がした。
それも届いた。
届いてなお、レオンの手が止まらない。
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聖剣を抜く動きは、俺の意志ではなかった。
そう言い切れば、嘘になる。
俺の意志でもあった。聖剣の熱でもあった。どちらが先に動いたのか、俺には掴めない。掴めないまま、身体が剣を抜く形を知っていた。
熱は祭壇へ向いていた。
だから俺は祭壇へ剣を抜こうとした。
だが低い祭壇の前に、赤髪の彼がいた。彼の掌は石に置かれている。何かを止めようとしている。少なくとも俺の眼には、そう見えていた。
それでも俺の身体は、剣の動きを、彼を巻き込む形で出した。
中央へ走る動線の上に、彼がいた。
彼を斬ろうとしたのではなかった。彼を巻き込んだのだった。
ヴァローの声は、届いていた。それでも、俺の手は止まらなかった。
黒髪の若い男が動いた。
彼には聖剣の熱の向きは見えない。見えたのは、俺が剣を抜き、赤髪の彼のいる方向へ出したという事実だけだ。彼の判断は速かった。迷いがなかった。
潮鎚が上がる。
半身が深くなる。彼は赤髪の彼と俺の間に入った。守るための一歩だった。判じるための一歩ではない。彼の役目はそこにあった。
俺の身体は、剣の動きを、彼を巻き込む形で出した。
最初の衝突は、聖剣と潮鎚だった。
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聖剣が抜けた。
潮鎚が、その光を受けた。
遅れて、広場の石が割れる音がした。
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光が立った。
聖剣の白銀と、潮鎚の青。二つの光が円形広場の中央で噛み合い、押し合った。白銀は前へ出ようとする。青は受けて沈まず、床へ力を逃がす。足元の石が悲鳴のような音を奥に溜めた。
俺は両手で剣を握っていた。
抜いた後も、指がほどけない。柄を握る力が強すぎる。自分の掌の中で血が寄るのが分かる。聖剣の熱はまだ祭壇を捉えている。だが俺の剣は今、黒髪の若い男の潮鎚とぶつかっている。
黒髪の若い男は潮鎚を両手で握っていた。
目は俺を見ている。怒っていない。怒りで立っているのではない。守るものが背中にある者の目だった。彼は俺の次の動きを測っている。若い。だが若さだけで立っていない。
赤髪の彼の手は、まだ祭壇に置かれていた。
光のぶつかる場所から少し外れたところで、彼は石に掌をつけている。黒く冷たい水音は続いているのか、止まったのか、俺には判じきれない。耳の奥に低い音だけが残っている。
ラウリ殿は膝をついたままだった。
耳を半分覆う手は変わらない。呼吸は速い。唇がまた動く。声は出ない。石に置いた指は、やはり溝をなぞらない。一点で止まったまま、白く力が入っている。
歌の人が半歩動いた。
彼はラウリ殿の方へ寄る。楽器は鳴らさない。鳴らさないまま、呼吸を聞く位置へ移る。耳を隠した布の端が光で白く見えた。
ヴァローはまだ見ていた。
指は組まれたまま。目は祭壇と赤髪の彼と、俺の剣の光を往復している。彼は言葉にし終えていない。分け続けている。彼の役目はそこにある。
カイは祈っていた。
濁りの中で祈りをやめない。彼の祈りは光へ向かう。返るものがなくても、通る限り祈る。彼は俺を止める言葉を持っていたかもしれない。だがその時、祈りを切らなかった。
ガイウスは盾を構えていた。
彼の眼は黒髪の若い男を見ている。潮鎚の受け方。足の位置。肩の残り。戦士の眼で戦士を読んでいる。ヴェスタは柱の影にいた。息を低く吐き、短剣を抜くか抜かないかの位置で止めている。
俺は剣を握っていた。
光が目に焼きつく。白銀と青がぶつかった残像が、まばたきの裏に残る。鼓動は石の割れる音より早い。だが問いは、その音より遅れて届いた。
俺は、判じるためではなく、勇者であるために、抜いたのではないか。
言い訳ではなかった。
誰かに聞かせる言葉でもなかった。遅れて来た判定だった。剣を抜いた身体の後ろから、ようやく心が追いついてきて、その手つきを見た。
聖剣は祭壇を捉えていた。
俺の身体は赤髪の彼を巻き込んでいた。
それは別のことだった。
別のことなのに、同じ瞬間に起きていた。
俺は息を整えようとした。吸う。吐く。吐ききれない。柄を握る指がまだ緩まない。勇者の白い光は、俺の手から出ている。けれどその光の向きと、俺の身体の動きは同じではなかった。
赤髪の彼がこちらを見た。
責める目ではなかった。判じる目だった。だから余計に、俺の胸の奥で何かが沈んだ。
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広場の石が割れた音が、もう一度遠く返ってきた。
最初の音が列柱を回り、遅れて耳へ戻っただけかもしれない。だが俺には、朝そのものがもう一度割れたように聞こえた。
白い光はまだ斜めに落ちている。明るいのに寒い。死体の血は黒い溝で濡れ、祭壇の線は乾かない。ラウリ殿の呼吸は浅く、歌の人はその傍らで聞いている。赤髪の彼は祭壇に手を置き、黒髪の若い男は俺の前に立つ。
聖剣と潮鎚は互いの光をまだ受け合っていた。
俺は、判じる前の朝に、立っていなかった。
俺は、判じる前に、剣を抜いた朝に、立っていた。




