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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
56/56

閑話休題:知って斬る

 封蝋の赤は、肉に近い色をしている。


 朝の光がまだ机の端まで届かないうちに、派遣の辞令は俺の前へ置かれた。厚い封筒の口には印章があり、乾ききる前の蝋が鈍く光る。赤というより、内側に熱を閉じ込めた色だった。


 俺は指先で縁に触れる。冷えている。けれど眼に入った色だけが、昨日のどこかに残ったものを引き戻した。


 通行証の紙は厚い。水を弾くような紙で、角が硬い。中央には奉仕監督局の地図と同じ書体で、古い綴りの地名が書かれていた。


「Vallis Salis」


 下に小さく添えられた括弧の中には、現地通称がある。


「(灰塩谷)」


 俺は、それを、読んだ。


 文字の傾きも、縦線の癖も、昨日見たものと同じだった。ベルトラン副司教の遺品の中にあった地図。収支板。小さな名札ではなく数字だけが並んでいた帳面。


 灰塩谷。


 知らない土地の名のはずだった。けれど紙の上のその名は、もう俺の手の中へ入ってくる。


 俺は通行証を革袋へしまった。折り目を増やさないように、封蝋の縁を欠かさないように。革袋の口紐を結ぶと、指先に赤い蝋の冷たさだけがしばらく残る。


──────────────────────────────


 聖印橋を渡るとき、朝の空はまだ薄い。夜明けの青が石の白に乗っていた。橋の左右には磨かれた欄干が続き、足元の白大理石は水を張ったように冷たく光る。教皇領の朝は、汚れを知らない顔で始まる。


 橋の中央で聖騎士の見張りが待っていた。俺たちの通行証をひとつずつ受け取り、封蝋の赤を見て、印章を確かめる。赤。印章。聖印門。決まった順で眼が動き、指先には迷いがない。


「光神のご加護を、勇者殿」


「ご加護を」


 俺は短く応える。


 馬車は二台。聖騎士団から六人。隊長格の正騎士が一人と従士が五人。神官としてカイ・グレイス。勇者としてレオン・ソル。書類にすれば、それで終わる構成だった。


 俺とカイは一台目の馬車に乗った。二台目には聖騎士団と装備が積まれている。槍の穂先を包む革。予備の縄。馬具。携行食。任務に必要なものが、音を立てずに詰め込まれていた。


 カイは窓際に座り、胸元のロザリオを一度だけ指で確かめる。白い神官服の襟に薄い金の刺繍が朝の色を受ける。深い藍のサッシュは教皇領の白の中で静かに見えた。


 馬車が聖印門へ進む。門楼は白石で組まれ、黒大理石の枠が中央を締めている。金の印章が朝の薄明の中で点のように光り、そこを抜けるまで車輪の音も清められているように軽かった。


 門を抜ける瞬間、馬車の輪が白大理石の床の縁を一度跳ねる。


 音が変わった。


 白大理石の硬い響きが切れ、石畳の低い振動が車体の底へ入ってくる。俺の腰に吊った聖剣の鞘が、座席の縁にかすかに当たった。


 教皇領の外へ出ると、外郭市街の通りはまだ眠っている。店の戸板は閉じ、軒下には昨夜の煤が残る。壁の漆喰は白と呼ぶには少し疲れていて、白は白でも灰が混じる白だった。


 馬車は南門の方角へ進んだ。カイは窓の外を穏やかに見ている。外郭市街の薄い朝靄。水桶を運ぶ人影。煙突から上がり始める細い煙。彼はそれらを、どれも同じ柔らかさで眼に入れていた。


「春先の朝は、清々しいですね」


 カイの声は穏やかだった。


「ああ」


 俺は応えた。


 その声が自分でも短すぎる。だが次の言葉は出ない。馬車の床から上がる振動が、足の裏で一段重くなっていた。


──────────────────────────────


 南門を抜けると、街道は首都の外へ伸びていく。最初の道は石畳だった。石と石の継ぎ目はきちんと噛み合い、馬車は細かく揺れる。けれど揺れにはまだ軽さがある。教皇領の白は背後に退き、街道脇の畑には春先の土が黒く見えた。


 しばらく走ると、石畳の幅が狭くなる。整った石の間へ土と砂が入り始める。車輪が石から外れるたび、車体は横へ小さく持っていかれた。


 馬車の振動が、一段、重くなる。


 俺は深紅のサッシュを軽く整えた。朝は鮮やかだった赤に、車輪が跳ねた泥の小さな点が付いている。指で払うと、赤の上に薄茶の跡が伸びた。


 カイは薬草の入った布袋を膝に置き、小さな聖典を開いている。揺れに合わせて頁が震える。彼は親指で頁の端を押さえ、声に出さずに祈りの文をなぞっていた。


 昼を過ぎると、石畳はさらに途切れがちになる。車輪は乾いた土を噛み、砂を散らした。窓から入る風には、白大理石の冷たさではなく乾いた草と馬の匂いが混じる。


 夕方近くには道の脇にぬかるみが増えた。春先の雪解け水がまだ低い場所に残っている。車輪が泥を踏むたび、音は鈍い。軽い揺れ。重い揺れ。さらに深い揺れ。身体の芯へ落ちていくみたいだった。


 二日半の旅が始まっている。


 白から灰へ。石から土へ。光のある場所から、煙と粉塵の方角へ。


 俺はそれをまだ旅と呼んでいた。


──────────────────────────────


 一日目の夕方、最初の宿駅に着く。宿駅は街道沿いの小さな集落だった。馬車が止まる前から、燻った薪の匂いがする。家々は木と土壁で組まれ、窓の枠は少し歪んでいる。屋根の藁は古い束と新しい束がまだらになっていた。


 宿の前の地面は踏み固められていた。雨の名残が轍に溜まり、馬の蹄がその縁を崩す。俺が降りると、旅靴の底に泥が吸い付いた。


 聖騎士団長が宿の主人と話す。宿泊の手配。馬の世話。見張りの交代。言葉は短く整っている。主人は腰を低くして頷き続けるが、眼だけが何度か通りの奥へ逃げた。


 俺とカイは二階の小さな部屋へ通された。床は板張りで、板の隙間に砂が入っている。寝台が二つ。薄い毛布。油皿が一つ。壁には古い釘の跡が残り、ここで眠った者の数を宿は覚えていない顔をしていた。


 夕食は一階の食堂で取った。豆のスープ。固いパン。薄い葡萄酒。木の椀には洗いきれない匂いが残っている。教会本部の慈餐の間で使われる銀器とは違う。こちらは手の熱と日々の傷で形を保っている食卓だった。


 聖騎士団長は食堂の中央に座り、宿の主人に聞いた。盗賊団のこと。巡礼路の状況。地方教会までの道。主人は丁寧に答える。しかし肝心なところへ来ると、必ず同じ言葉へ戻った。


「私には分かりかねます」


 一度目は遠慮に聞こえた。二度目は用心に聞こえた。三度目には、扉を閉める音に聞こえる。


 俺はその繰り返しを聞いていた。カイは隣の席で聖典をまた開いている。食堂のざわめきの中でも、彼の指先はいつもの速さで頁をめくる。信じる言葉を持つ者の手だった。


 俺は固いパンを噛む。奥歯に粉が残った。


──────────────────────────────


 夜、宿の裏手で薪を割る音がしていた。俺は部屋の窓を開ける。冷えた空気が入り、油皿の火が一度揺れた。裏手の小さな庭に、老婆がいる。


 背は曲がっている。腕は細い。けれど薪の束を抱える手つきは、長く同じことをしてきた者のものだった。薪は十本ほどの束。彼女は壁際へ運び、一本ずつ積んでいく。乾いた薪。湿った薪。割り口の新しい薪。小さな山が、壁に沿って整えられていった。


 俺はしばらくその様子を眼に入れていた。それから階下へ下りる。裏手へ出ると、彼女はちょうど最後の束を置いたところだった。膝を押さえ、息を一つ吐く。俺の足音に気づいて振り返った。


 老婆の眼は最初に俺の顔を見た。次に白い旅装を見る。深紅のサッシュで止まり、腰の聖剣で固まる。柄の白銀を見た瞬間、喉が小さく動いた。


「あの」


 俺は声をかけた。


 彼女はゆっくりと頷く。頷きというより、逃げる前に礼を欠かさない動きだった。


「盗賊団のことを、伺いたいのですが」


 俺は丁寧に聞いた。


 老婆は答えない。風が裏庭を抜け、積んだ薪の端を鳴らす。彼女の指が前掛けの布を掴み、それから低く独り言のように言った。


「盗賊じゃ、ありませんよ」


 俺は息を止める。


「奉仕場から、逃げた者ですよ」


 言い終えたあと、老婆は口を閉ざした。唇の線が固くなり、顔全体から言葉が消える。


「奉仕場から、と、おっしゃいましたか」


 俺は聞き返した。


 老婆は答えなかった。答えないまま、俺の背後を見る。足音が近づいていた。カイだった。


「お婆さん」


 カイは穏やかに声をかける。


「お話を、最後まで聞かせてください」


 その声は本当に柔らかかった。孤児院の小さな子が泣きやまない夜も、カイはそういう声を出した。怪我をした犬にも、熱を出した年下にも、最期の祈りを待つ老人にも、同じ温度で近づいた。


 老婆はカイを見た。最初に胸元の小さなロザリオを見る。次に神官服の襟元へ眼が動く。薄い金の刺繍。深い藍のサッシュ。教会の人間だと分かるものが、一つずつ老婆の中へ刺さっていくのが見えた。


 彼女の身体が、一段、後ろに、引く。靴の踵が土をこすった。背中が薪の山に近づき、手は胸の前へ上がる。皺だらけの指が互いを握り締めていた。


「お役人様」


 彼女は低く、それだけ言った。


「私には、何も、分かりません」


 声は小さい。だが閉じた扉みたいに硬かった。


 彼女は振り返り、家の裏口へ足を引きずって戻っていく。片足を少し庇う歩き方だった。戸口に手をかける前、肩が一度だけ震える。


 カイは彼女の後ろ姿を見ていた。


「ご無理を申しました」


 カイの声はそれだけ後ろから追いかける。


 老婆は振り返らなかった。戸が閉まり、木の閂が内側で落ちる音がした。


 俺はカイの隣に立っていた。しばらく、薪の匂いと湿った土の匂いだけがある。


「祈りは、届きます」


 カイは低く、それだけ、言った。


 俺は応えなかった。


 届くと言った声が、閉じた戸の前で止まっているように見えた。


──────────────────────────────


 二日目の昼、街道で襲撃跡を見つけた。廃馬車が街道の脇に横倒しになっている。車輪の片方が外れ、荷台の側面は黒く焦げていた。釘の頭だけが焼け跡の中で鈍く光り、木の焦げた匂いと油の匂いが春の風に薄く残る。


 街道の上には血の痕が点々と続く。乾いた赤は黒に近い。泥の上では色が沈み、石の上では薄く広がっていた。


 聖騎士団長が馬車を降り、現場を調べる。従士たちは廃馬車の周りに散った。足跡。車輪の跡。折れた矢。燃え残り。彼らの眼は手順通りに動いていた。


 俺も馬車を降りる。近づくと、廃馬車の荷台の中に布が一枚落ちていた。燃え残った木箱の脇で、泥と灰を吸っている。


 外套だった。


 俺は拾い上げた。粗末な麻布。古い。袖口は擦り切れ、肩のあたりは何度も繕ってある。水で洗われすぎた布は、手の中で紙のように薄かった。


 俺は外套をひっくり返す。内側に何か縫い込まれていた。小さな番号札。麻糸で強く縫い付けられ、簡単には外せないようになっている。番号は五桁だった。


 俺はそれを見る。


 昨日、ベルトラン副司教の居室で見た帳面にも、名の代わりに五桁があった。ユリオ・カッサの弟。そこにあったのは名前ではなく、番号だった。これは別の数字だ。けれど桁数が同じだった。


 従士の一人が俺の手元を覗き込む。


「盗賊の偽装でしょう」


 淡々とした声だった。


「奉仕者の番号は外せませんから、奉仕者の服を盗賊が剥ぎ取って着たのでしょう」


 俺は答えなかった。


 別の従士が横から言う。


「逃亡者の方が、可能性は高いと思いますが」


 その声は低かった。


「再奉仕に戻せば済むことです」


 俺はその言葉を聞いた。右手の指が剣帯の金具に触れる。金具は冷たい。触れた瞬間、馬車の床で感じた揺れが指先まで戻ってくる気がした。


「そうか」


 俺はそれだけ応える。


 外套をもう一度折り畳んだ。泥の付いた面を内側へ入れる。何かを隠すような形になり、それを廃馬車の荷台の縁に置いた。


 カイが横から来る。彼は外套を手に取り、丁寧に折り直した。泥の面を潰さないように、番号札が折れないように。最後に荷台の中央の、燃え残っていない場所へ置き直した。


 カイは何も言わなかった。その沈黙は祈りの前の沈黙に似ている。だが祈りは始まらなかった。


──────────────────────────────


 二日目の夕方、灰塩谷の地方教会に到着した。街道は朝より荒れている。道の脇には灰色の土が増え、遠くの低い山肌が粉を吹いたように白く見えた。馬車の窓枠にも細かな粉塵が付いている。俺のサッシュの赤は、泥跳ねでさらに濁っていた。


 地方教会は街道脇の小さな丘の上に建っていた。教会本部の大聖堂と比べれば、十分の一にも満たない。白壁は長い年月で黄ばみ、雨筋が縦に落ちている。窓の下には灰が溜まり、屋根の瓦はところどころ欠けていた。鐘楼は低く、鐘の音は夕暮れの中で薄く鳴る。


 俺たちは馬車を教会の前に止めた。司祭が迎えに出てくる。四十代の痩せた男だった。神官服は清潔だが、布は何度も洗われて柔らかい。襟元の刺繍は簡素で、教皇領の金の光ではなく手入れだけで保たれた白だった。


「光神のご加護を。聖オルヴェリス教会本部から、遠路、ありがとうございます」


 司祭の声は丁寧だった。


「光神のご加護を。お世話になります」


 俺は応えた。


 彼は俺を深く見ている。聖剣の鞘。深紅のサッシュ。勇者の印を順に確かめる。そこに恐れはない。驚きと安堵がまっすぐに混じっていた。


「勇者殿がこちらに来てくださるとは、思いませんでした。地方の信徒たちが皆、安心するでしょう」


 嘘はなかった。


 俺はその嘘のなさに気づいている。


 司祭は俺たちを礼拝堂の中へ案内した。床は磨かれていたが、白大理石ではない。祭壇は板の台に白い布をかけたものだった。聖具は銀ではなく磨かれた銅。聖典は革装の小さなものが一冊、机の上に置かれている。


 カイは祭壇の前でロザリオを胸元から外した。両手で包むように握り、眼を閉じる。


「光神のご加護を、いずれの祈りの場にも」


 低い祈りだった。


 司祭はカイの所作を見ていた。彼の眼に敬意が浮かぶ。それは教えられた礼ではなく、同じ言葉を信じる者が同じ方角を見るときの眼だった。


 俺はその瞬間、司祭の眼の温度にカイを重ねた。二人とも善意で動いている。二人とも教会の中で、教会の言葉を信じている。二人とも純粋だった。


 その純粋さは、何の上に立っているのか。


 考え始めた瞬間、俺は思考を止める。止めたのに、問いの形だけが胸の奥に残った。


──────────────────────────────


 司祭が状況を説明した。小さな祈祷室の机に地図が広げられる。羊皮紙ではなく、何度も折りたたまれた安い紙だった。角は擦れ、灰塩谷へ続く道が薄い線で引かれている。


「巡礼者が四人、襲われました。寄進物の銀の聖具が奪われました。地方の信徒たちが夜、外に出るのを怖がっています」


 司祭の声は本当に心配の温度だった。奪われた物よりも、外へ出られなくなった人のことを先に思っている声だった。


「盗賊団は灰塩谷の奥の廃巡礼堂を拠点にしているようです。地元の猟師が、目撃しました」


「人数は」


 聖騎士団長が聞く。


「十数人、と聞いております。武装も貧弱、と」


「分かりました」


 聖騎士団長は頷いた。


「明朝、現地に向かいます。今夜はこちらでお世話になります」


「もちろんどうぞ。粗末な宿坊しかご用意できませんが」


 司祭は丁寧に頭を下げた。


 俺はその「粗末な宿坊」の中で夜を過ごした。部屋は寝台が一つだけの小さな部屋だった。窓には薄い木の格子がある。寝台の毛布は洗いざらしの麻で、干した草の匂いがした。壁の漆喰には細かなひびが走っている。


 油皿の火は小さい。光は天井まで届かず、板の縞だけをぼんやり浮かせる。俺は長く眠れなかった。寝台に横になり、天井を見る。


 板の縞がまっすぐ伸びている。白大理石の天井ではない。磨かれた金でもない。木目。節。隙間。小さな黒ずみ。外では風が鳴っていた。遠くで鐘が一度だけ揺れる。


 俺はその縞を見ていた。


──────────────────────────────


 三日目の朝、灰塩谷の入口に向かった。地方教会から馬車で半刻ほどの距離だった。朝の空は晴れていたが、谷の方角だけが薄く濁って見える。煙か粉塵か、まだ判別できないものが光を鈍くしていた。


 街道の脇に、採石奉仕場の中継所があった。小さな建物だった。木と石で組まれ、実用だけで立っている。壁の漆喰は灰色にくすみ、周囲には灰色の岩が積まれていた。砕かれた岩の山。運ばれる前の岩。まだ泥を落としていない岩。


 岩の向こうに煙が細く立ち上る。俺たちは馬車を中継所の前に止めた。監督官が出てくる。


 四十代の肉付きのいい男だった。神官服ではなく灰色の事務服を着ている。袖口に粉がついていたが、手は汚れていなかった。


「ご苦労様です。奉仕監督局の監督官です」


 監督官は聖騎士団長に最初に頭を下げた。それから俺の顔を見て、もう一度頭を下げる。


「勇者殿、お疲れ様です」


「ご苦労様です」


 俺は応えた。


「灰塩谷の中継所をご視察いただけるとのことで。ご案内いたします」


 監督官は建物の中へ俺たちを案内した。最初の部屋に標語が掲げてある。板に文字が彫り込まれ、黒い墨でなぞられた線は新しい。壁の古さから、そこだけが浮いていた。


「返し得ぬ者は、身をもって光を支える」


 俺はそれを読んだ。


 返し得ぬ者は、身をもって光を支える。


 胸の中で言葉が一度だけ反響する。意味を考えそうになった。考えなかった。考えなかった、ということを自分に確認した。


 監督官は机の上に地図を広げる。灰塩谷の奉仕場の位置が書かれている。採石場。運搬路。奉仕者の宿舎。監督官の詰所。貯蔵庫。線は整っていて、実際の泥の匂いを持たなかった。


「最近の状況はいかがですか?」


 聖騎士団長が聞いた。


 監督官は肩を軽くすくめる。


「最近、十数人が逃げました。ご苦労なことに」


 声は淡々としていた。


「奉仕日数の計算が、また面倒で。逃亡者の番号を帳簿から外す手続きが今、進行中です」


 ご苦労なことに。


 その言葉は、逃げた者の足ではなく、帳簿の行に向けられていた。俺はそう感じる。感じて、また思考を止めた。


 カイは監督官に丁寧に頷いた。


「お疲れ様です」


 それだけ言った。


 監督官はカイの方を見て、わずかに頭を下げる。礼は整っていた。けれど眼はすぐに地図へ戻った。


 俺たちは中継所の中庭を抜けた。奉仕者の宿舎の前を通る。薄い壁の平屋だった。漆喰は剥げ、木枠は黒ずんでいる。中から低い声がいくつか聞こえた。咳。何かを引きずる音。水桶が床に置かれる音。


 宿舎の脇の井戸の前で、奉仕者が一人水を汲んでいた。手が白い。粉で白いのか、冷えで白いのか、一瞬分からなかった。指の節は割れ、爪の間には灰が詰まっている。彼は俺たちを見て頭を下げた。


 俺はその手を見る。


 その視線を、自分の眼の中に置いた。


 カイが一歩近づきかけた。薬草袋の紐が揺れる。だが奉仕者は桶を持ち直し、半歩だけ身体を引いた。深い藍のサッシュを見た目が伏せられる。


 カイの足はそこで止まった。


 俺たちは中継所を離れた。馬車に戻るまで、誰も大きな声を出さなかった。


──────────────────────────────


 三日目の昼、灰塩谷の奥地に入った。


 街道は、もう街道ではなかった。


 道は灰色の岩の間を縫って続いていた。車輪が通るには狭すぎる場所が増え、馬車は途中で止まる。そこからは歩きだった。


 聖騎士団長と従士たちが先頭を歩く。俺はその後ろに続いた。カイは俺の脇にいる。彼の白い神官服の裾にも、灰色の泥が跳ねていた。


 足元には奉仕場から流れてきた灰色の泥が薄く広がっている。靴底が泥を掴む。引き抜くたびに、重い音がした。白大理石の床を踏んだ朝が遠くなる。


 空気は乾いているのに、泥だけが湿っていた。岩肌には細かな粉が付着し、触れれば指が白くなる。風が吹くと、その粉が眼の縁に入り、口の中でざらついた。


 俺の深紅のサッシュはもう鮮やかではなかった。泥跳ねと灰で色が沈んでいる。赤は赤のまま、濁っていた。


 しばらく歩くと、半壊した石壁が見えてくる。


 廃巡礼堂だった。


 かつて街道の中継地点として、巡礼者が祈りを捧げた場所だと司祭は言っていた。今は屋根の半分が崩れている。柱の数本は傾き、石壁の窓にはガラスがない。祈りの場だった痕跡だけが、灰色の光の中に残っていた。


 石壁の脇に枯れた井戸がある。井戸の周りに人影が見えた。ぱらぱらと散っている。逃げ場を探す者の距離。守るものを背にした者の距離。


 聖騎士団長が手を上げる。


 俺は聖剣の柄へ右手を近づけた。


──────────────────────────────


 人数は十八人だった。


 戦えるのは七人。残りは女、子供、老人を含む十一人だった。


 俺はその人数を見て把握する。呼吸より先に数える。相手の手。足の位置。武器の重さ。逃げる方向。背後にいる者の数。戦場では、考えるより早く眼が動く。


 戦闘員七人のうち二人は元軍人崩れの体格だった。肩の入り方で分かる。立ち方に剣を持ったことのある癖が残っている。残りの五人は痩せていた。武器は採石槌、鎌、短い槍、簡素な短弓。


 非戦闘員の十一人は廃巡礼堂の石壁の影に半分隠れていた。小さな子が一人、老人の袖を握っている。女の一人は布で包んだ荷を胸に抱えていた。誰もこちらをまっすぐ見ていない。


 聖騎士団が横一列に並ぶ。俺はその隊列の少し前に出た。廃巡礼堂の石壁の前、戦闘員の列の中央から一人の女が一歩前に出る。


 ぼろぼろの修道服だった。襟元と袖口に修道女見習いの簡素な刺繍がまだ残っている。泥で黒ずみ、糸はほつれていた。それでも、かつてそこにあった白を完全には消せていない。


 女の手に弩が握られていた。


 彼女の眼は強かった。


 飢えた眼ではない。追い詰められただけの眼でもない。何を失うか知っていて、それでも前を見る者の眼だった。


「戻れば、私たちは殺される」


 女の声は低かった。


「逃げても、罪人にされる」


 一音ずつ、石の上へ置くみたいに続く。


「だから、ここで道を塞ぐしかないの」


 俺はその言葉を聞いた。右手の指が剣帯の金具に触れる。硬い感触。いつもならそこで抜いている。だがこのとき、聖剣の柄に手をかけたまま、抜くのが一拍遅れた。


 カイが俺の隣に進み出る。


「奉仕に戻れば」


 カイの声は本気だった。


「救済の道が残ります」


 彼はそれを本当に信じて言っていた。押しつける声ではない。断じる声でもない。迷子に帰り道を示すときの声だった。子どもの頃から、カイはいつもその声で人の前に立った。痛む者へ手を伸ばす声。泣く者の隣に座る声。教会の中で彼が受け取り、疑わずに抱えてきた声。


 女はカイを見た。胸元のロザリオ。白い神官服。深い藍のサッシュ。


 女は応えなかった。


 応えずに、弩の弦を引き絞る。


 木と金具がきしむ音が、廃巡礼堂の石壁に当たって返った。


 俺は剣を抜いた。


──────────────────────────────


 俺は口の中で、ひとつの語を反芻した。


「俺たちの役目だ」


 その四音はいつも、仲間への言葉だった。誰かが迷ったとき、誰かが傷ついたとき、同じ方角へ踏み出すための言葉だった。


 けれど廃巡礼堂の石壁の前で、その四音は別の重さを持つ。


 役目という語が、救済ではなく、処理に聞こえた。


 そう聞こえたことを、俺は誰にも言わなかった。


 ただ自分に言い聞かせる。


 言い聞かせて、剣を振った。


──────────────────────────────


 最初の一振りに、光は乗せなかった。


 弩を構えた女の左側で、戦闘員の一人が採石槌を振り上げて踏み込んでくる。柄の握り方が固い。重さに任せる振りだった。


 俺は半歩だけ入る。


 聖剣の腹が採石槌の柄を横から打つ。刃では斬らない。柄の中心を外して、握りの力を散らす。採石槌が男の手から飛び、灰色の泥に落ちて重い音を立てた。


 男は二歩後ろによろける。


 別の男が鎌を構え直して走り込んでくる。刃先は俺の喉を狙っていたが、足が追いついていない。俺は身体を開き、鎌の柄を聖剣の腹で打った。


 鎌が男の手から滑り落ちる。


 武器を失った男たちが二人、戦意を失った。眼の中の火が消える。二人は石壁の方角へ後ずさった。


 聖騎士の一人が低くつぶやく。


「再奉仕に戻せば済みます」


 その声が空気の中で硬くなった。


 戦闘員のうち痩せた一人が、その声を聞く。顔から血の気が引く。唇が白くなる。恐れは背中へ逃げず、前へ飛び出した。


 男は短い槍を振りかぶり、俺の正面へ突進してくる。


 俺は聖剣を構え直した。


「Ignis ── 《焔刃 / Flame Edge》」


 声は低かった。


 聖剣の刃に炎が薄く纏う。赤ではなく、刃の縁に沿う細い熱。派手な火柱ではない。切るための火だった。


 俺はその炎を男の槍に向けなかった。


 男の前の地面へ走らせる。


 枯れた井戸の脇、灰色の泥の上に炎の線が走る。線は横一文字に伸び、男の足元の進路を切った。泥の表面が瞬間だけ乾き、白い蒸気が上がる。


 男は炎の線の前で足を止めた。


 俺は炎の線をもう一度走らせる。廃巡礼堂の石壁と枯れた井戸の間。非戦闘員の十一人がいる場所と斬り合いの場所を分ける長い線。出口を塞ぐのではない。逃げる者を焼くのでもない。ただ進路を断つ。


 非戦闘員の十一人は、その線の向こうにいた。俺の炎は彼らを巻き込まなかった。巻き込まないように進路を切った。


 従士たちは炎の線を見て、戦闘員七人の側へ回り込む。動きは速い。訓練された足運び。何を守るかより、どこを制圧するかが先に決まっている動きだった。


 聖騎士団の剣が振られた。その剣は淡々と戦闘員に入っていく。肩。腕。脇腹。膝。急所を避ける動きもあれば、避けない動きもある。判断は速く、声は少ない。


 元軍人崩れの二人はわずかな抵抗を見せた。片方は従士の剣を受け、もう片方は俺の足元へ砂を蹴る。けれど抵抗は長くない。武器が粗末だった。体力が削られていた。何より、背後に守るものが多すぎた。


 二人は短時間で倒れる。


 残りの五人のうち、武器を失った二人は戦意を失ったまま膝をついた。従士たちが彼らを縛る。縄が手首へ回る。結び目は正確だった。


 丁寧だった。


 しかし淡々としていた。


 戦闘は三十息ほどで形を失う。叫び声は短く、金属音は数度だけだった。派手な討伐ではない。作業に近い速さで終わりへ近づいていた。


──────────────────────────────


 斬り合いの終盤、廃巡礼堂の石壁の前で女はまだ立っていた。彼女は最初に弩の弦を引き絞ったままだった。腕は震えていない。肩は落ちていない。周りが崩れても、眼の強さだけが残っている。


 俺と女の間にはわずかな距離がある。泥の上には炎の残り香。倒れた男の息。縛られる者の呻き。石壁の向こうで子供が息を殺す音。全部が耳に入っていた。


 カイは俺の少し後ろにいた。女の弩の照準がふと横に流れる。


 俺ではない。


 照準は俺の後ろの、カイの胸元の小さなロザリオの位置に合った。


 その銀の小さな光が、灰色の中で一瞬だけ浮く。


 身体が動いた。


 躊躇は消えていた。


 消えたはずだった。


 そのとき、女の腕が一度だけ震えた。


 弩の照準はロザリオから外れなかった。けれど弦を引く指の骨が白くなり、唇が泥の色の中で開く。


「あの子の名前も、私の名前も。もう帳簿には載っていない!」


 声が石壁の内側を裂いた。


「奉仕番号だけが残って、人はみんな消されたのよ!」


 彼女はカイへだけ向けていなかった。


 俺へでもなかった。


 石壁へ。泥へ。枯れた井戸へ。縛られた者へ。倒れた者へ。まだ息を殺している子供へ。全部の方角へ声を投げた。


「あんたたちの光は、私たちを一度でも見たことがあるの?」


「祈ってる声は、私たちを、誰ひとり数えなかった!」


「聞く気がないなら、いっそ刺しなさい、聖騎士ども!!」


 叫び終えたあと、一拍の沈黙が落ちる。


 俺の胸の奥に、もう一度だけ躊躇が立った。


 けれど弩の照準はカイのロザリオから動かない。


 女の指が弦を放とうとする。


「Lævateinn ── 《暁光 / Dawn Light》」


 俺の声は低かった。


 聖剣の刃に光が薄く纏う。目を焼くような光ではない。朝の一筋を刃の形へ押し込めたような光だった。


 踏み込みは短い。


 足が泥を裂く。鞘を抜いたときより速く、剣が伸びる。聖剣が女の胸の中央に深く入った。


 女は全部言った。


 息を漏らす声はなかった。呪いもなかった。許しも求めなかった。


 女の眼は、最後まで、強かった。


 最後まで、女は、何も残さないために、声を出した。


 ただ、斬られた。


 斬られて、彼女の身体は廃巡礼堂の石壁の脇へ傾く。肩が石に触れる。膝が崩れる。灰色の泥の上に横倒しになる。


 弩が彼女の手から落ちた。落ちた弩は二度跳ねて止まる。弦がまだ少し震えていた。


 声もまだ、石壁の間で震えていた。


 俺は聖剣を引き戻した。刃に血が乗る。深い赤が白銀の縁に一度だけ走り、すぐに薄れた。


 その赤は不思議なくらい早く刃から消える。


 聖剣の白銀は、その瞬間もうほぼ綺麗だった。


 俺は刃を見た。


 刃は綺麗だった。


 それから自分の手袋を見る。革の人差し指の根元のあたりに、薄く赤がにじみ始めていた。柄を握った圧で、どこかから伝った血が革へ吸い込まれている。


 革は、血を吸い始めていた。


 俺はそれを見た。


──────────────────────────────


 聖剣の刃は綺麗だった。しかし足元の灰色の泥には、女の血が黒く沈んでいる。泥は受け取ったものを返さない。表面で赤く光ることもなく、内側へゆっくり落としていく。


 廃巡礼堂の石壁の白さ、いやもう黄ばんで灰色に近い白さの上に、女の血の飛沫がひとつ貼り付いていた。石壁は血を押し返さない。古い穴の中へ赤が入り、乾く前から石の色に混じり始める。床石にも、割れ目にも、井戸の縁にも、同じように小さな赤が残った。


 聖剣の刃より、床と泥と、石壁の方が、長く血を、覚えている。


 俺はそれを思った。


 彼女の声も、床と泥と、石壁の方が長く覚えている気がした。


──────────────────────────────


 対峙の終了の合図を、聖騎士団長が出した。聖騎士団が生存者をまとめる。戦闘員のうち二人は死んでいた。残りの五人は縛られている。縄の端を従士が一括して握り、逃げる隙を作らない。


 非戦闘員の十一人は廃巡礼堂の石壁の影からゆっくり出てきた。


 女が三人。子供が四人。老人が四人。


 彼らは炎の線が消えた場所を踏むことをためらった。泥の上には焦げた跡が残っている。小さな子は老人の袖をつかみ、老人はその手を離さなかった。


 聖騎士団が彼らをひとつずつ確認する。性別。年齢。怪我の有無。持ち物。番号札の有無。言葉は手順として落ちていく。


「処遇はいかがいたしますか」


 従士の一人が聖騎士団長に聞いた。


「監査待ち、です」


 聖騎士団長は短く応える。


「全員、首都へ連行いたします。本部の判断を仰ぎます」


 監査待ち。


 俺はその語を口の中で反芻した。


 昨日、ベルトラン副司教の居室で見た語だった。処理保留。責任者未定。死者を死者として認めない状態。そういう意味だと俺は知っていた。


 知っていた、ということを俺は自分の中へ置く。


 奉仕番号だけが残って、人はみんな消された。


 その声が一拍だけ戻った。


 俺は答えなかった。


 カイが戦闘員の負傷者の前に膝をつく。


「Sanctus ── 《浄化の手 / Purifying Touch》」


 カイの声はいつもの柔らかさだった。


 右手が負傷者の額へ軽く置かれる。白い光が薄く広がった。傷を閉じる光。熱を鎮める光。カイがずっと信じてきた祈りの形。


 負傷者は最初、身体を硬くした。彼の眼がカイの神官服の襟元へ動く。深い藍のサッシュを見る。次にロザリオを見る。白い手を見る。


 見た瞬間、負傷者の身体がわずかに後ろへ引いた。額から手が離れかけるほど小さな動きだった。だが確かに引いた。


 カイの手は止まる。カイはしばらくその負傷者を見ていた。それから別の負傷者の方へ移動した。


 別の負傷者も同じように、カイの手から身体を引く。肩が後ろへ逃げ、縛られた手首の縄が鳴った。口は何も言わない。けれど身体だけが答えていた。


 カイは何も言わなかった。


 三人目の負傷者の前で、もう一度《浄化の手》を唱える。三人目の負傷者は身体を引かなかった。引かなかったが、眼を閉じた。閉じた瞼の下で、わずかな震えがある。


 カイはその震えを見ていなかったかもしれない。


 しかし俺は見ていた。


 老婆が後ろへ引いたこと。


 奉仕者が井戸の前で半歩引いたこと。


 負傷者が祈りの手から身を引いたこと。


 その三つが、灰色の泥の上で同じ形に見えた。


──────────────────────────────


 カイは聖騎士団の負傷者の方にも移動した。従士の一人が左腕に切り傷を負っている。傷は浅いが、血が袖を濡らしていた。従士は剣を置き、膝をついたカイの前へ腕を差し出す。


 カイは同じ祈りを唱えた。右手の白い光が従士の腕に広がる。光は傷の縁をなぞり、赤を薄くしていった。従士はその光を当然のように受け取る。


「ありがとうございます。カイ神官様」


 従士の声は自然だった。


 カイは頷いた。


 俺はその光景を見る。カイは両陣営の負傷者に同じ祈りを捧げた。カイにとって、傷は傷だった。


 しかし奉仕者の負傷者は、カイの手から身体を引いた。聖騎士団の負傷者は、カイの手を受け取った。


 俺はその違いを見た。


 カイはその違いを、見ていなかったかもしれない。見ていたとしても、別の言葉で受け取っていたのかもしれない。


 俺には分からなかった。


──────────────────────────────


 最後に、カイは女の遺体の前に膝をついた。彼女の身体はまだ廃巡礼堂の石壁の脇に横倒しになっている。泥が修道服の片側を濡らしていた。弩は少し離れた場所で止まっている。強かった眼はもう閉じられていない。空を見ているだけだった。


 カイはその前でロザリオを両手で握る。


「Requiem Aeternam ── 《鎮魂の祈り / Requiem Prayer》」


 カイの声は低かった。


 典礼の聖句が続いていく。光が彼の周りへ薄く広がった。灰色の泥の上で、その光だけが静かだった。従士たちの縄の音も、子供のすすり泣きも、その間だけ遠くなる。


「祈りは、届きます」


 カイは低く、それを、言った。


 俺は応えなかった。


 あんたたちの光は、私たちを一度でも見たことがあるの。


 彼女はそう言っていない。


 それでも、その形の声が俺の中を通る。


 カイは祈りは届くと信じていた。しかし俺は、その「届いた先」を想像できなかった。


 女はもういない。


 女の身体はここにあった。灰色の泥の上に、修道服の刺繍と弩と血の跡を残していた。けれど彼女自身はもういなかった。


 カイの祈りがどこへ届くのか、俺には分からない。


 カイは立ち上がった。女の身体にもう一度頭を下げる。それから聖騎士団の方へ戻った。歩き方はいつもと変わらない。けれど肩のあたりだけが、ほんの少し重く見えた。


 俺は女の身体をしばらく見ていた。


 廃巡礼堂の石壁。流れ続ける灰色の泥。足元の血の黒い沈み。枯れた井戸。折れた弩。祈りが過ぎたあとの静けさ。


 静けさの下に、叫びの形だけが残っていた。


 それから聖剣を鞘に戻す。鞘と刃の擦れる音が、廃巡礼堂の石壁の間に短く響いた。


──────────────────────────────


 三日目の夕方、俺たちは地方教会に戻った。帰りの道は来たときより長く感じる。馬車に戻るまでの泥が靴底に残り、車輪の揺れは身体の奥へ沈んでいた。谷の粉塵は服の襟に入り、口の中にはまだ灰の味がある。


 司祭が迎えに出てきた。


「ご無事で何よりです」


 彼の声は本当の安堵の温度だった。


「巡礼路が回復しました。光神のご加護がありました」


 司祭は深く頭を下げた。


「ご加護を」


 俺はそれだけ応える。


 聖騎士団長が地方教会の小さな祈祷室の机を借り、報告書を書いた。机は傾いていて、片脚の下に薄い木片が挟まれている。インク壺の縁には古い黒が固まっていた。


 俺はその隣に立っていた。聖騎士団長の手が報告書の上でペンを動かす。迷いのない字だった。出来事は短い語へ変わり、短い語は行の中へ収まっていく。


 報告書の冒頭の見出しに、聖騎士団長はこう書いた。


「盗賊団首魁討伐、巡礼路回復」


 それが表題だった。


 俺はそれを見る。


「首魁」という二音が紙の上に書かれた。


 その二音は女の名前ではなかった。


 名前。


 彼女の叫びの中で、その語だけがまだ乾いていない。


 聖騎士団長は女の名前を知らなかった。俺も女の名前を知らなかった。しかし、女には名前があったはずだった。誰かに呼ばれた音があり、どこかの帳面に書かれた文字があり、幼い頃に返事をした声があったはずだった。


 あの三つの台詞の主が、報告書の上で「首魁」の二音に置き換わる。


 報告書の本文には生存者の処遇が書かれた。


「生存者は監査待ち」


 それが書かれた。


 聖騎士団長は報告書の最後に署名欄を二つ用意する。ひとつは聖騎士団長の署名。もうひとつは勇者の署名。


「勇者殿。ご署名を」


 聖騎士団長がペンを俺に渡した。


 俺はペンを受け取る。軸の木が指に硬い。手袋の内側では、まだ乾ききらない赤がある気がした。


 報告書の本文を一度読んだ。


「盗賊団首魁討伐、巡礼路回復」「生存者は監査待ち」「教会本部への帰還の途中、聖騎士団長が責任を持って生存者を引率する」。


 俺は勇者の署名欄に署名した。


「レオン・ソル」


 俺の名前は紙の上に確かに書かれた。


 聖騎士団長が俺の署名の脇に印章を押す。溶かした蝋が紙へ落ちる。印章が沈む。赤が丸く広がる。


 印章の蝋は、肉に近い、赤色だった。


 俺はそれを見た。


 カイは報告書を見ていなかった。祈祷室の窓辺で、夕方の街道を見ている。窓の向こうには黄ばんだ白壁と、丘を下りる道がある。その先に灰塩谷の方角があった。


 俺が報告書から離れて隣に立つと、カイは俺を見て低く言った。


「お疲れ様でした、レオン」


「ああ」


 俺は応える。


 それだけだった。


──────────────────────────────


 その夜、地方教会の宿坊で俺は寝台に横になった。天井の板の縞が油皿の弱い光の中で長く走っている。昨夜と同じような天井だった。けれど同じには見えない。木目の暗い筋が、灰塩谷の泥の流れに見えた。


 俺はその縞を見ていた。


 女の眼が最後まで強かったこと。


 女の口が最後に開いたこと。


 女が最初に言った三つの台詞。


 戻れば。逃げても。だから。


 女が最後に叫んだ声。


 あの子の名前。私の名前。奉仕番号だけ。


 それが報告書の上で「首魁」の二音に置き換わったこと。


 女が「帳簿を、読んだ」と言わなかったかもしれない、と俺はふと思った。しかし誰かが、女について、そう言っていた。誰だったか。地方教会の司祭ではなかった。監督官でもなかった。女自身でもなかった。


 あるいは誰も言っていないのかもしれない。


 帳簿を読む者。番号を見る者。数字の奥に人の名があると知る者。昨日から俺の眼に残っていたものが、勝手に女の輪郭へ結びついたのかもしれない。


 俺はその「帳簿を読んだ」という言葉がどこから来たのかを考えた。考えて、その思考を止める。


 知っていた、ということだけが俺の中に残った。


 俺は、知ってしまった者が、逃げ、知らされなかった者が、斬る。


 その形を、その夜初めてひとつの語のように内側へ置いた。


 俺は知らされなかった、と自分に確認する。しかし昨日、ベルトランの居室で訴状を見た。帳簿の語彙を見た。地図と収支板を見た。灰塩谷の名を見た。


 そして今日、その地を踏んだ。


 俺は知らされなかったが、見た。見たあとに、剣を振った。


 俺はそれを知っていた。


──────────────────────────────


 派遣の六日目、教会本部の聖印橋に戻った。


 馬車の輪が白大理石の床の縁をもう一度跳ねる。跳ねたあと、馬車は教皇領の中へ入った。音が変わる。泥を噛む重い音から、磨かれた石の軽い響きへ戻る。身体はまだ灰塩谷の揺れを覚えているのに、車輪だけが何もなかったように白の上を進む。


 車輪の軽い響きの下に、女の声が重なった。はっきり言葉にはならない。ただ、石壁にぶつかった声の角だけが、白大理石の上を一緒に転がる。


 教皇領の朝の空は薄い水色だった。正面に金庫塔の白い塔身が立っている。頂部の金の聖印が朝の光に白く光る。塔の下には整えられた庭があり、砂利道は真っすぐだった。ここでは粉塵も泥も、すぐに掃き清められる。


 俺は馬車から降りた。深紅のサッシュは道中で汚れたままだった。従者があとで洗うだろう。白い旅装の裾にも、灰色の泥の跡がある。教皇領の白の中では、その汚れがかえって小さく見えた。


 聖印門を抜けると、すぐ案内の神官が迎えに来る。


「教皇庁中枢からお呼びです。勇者殿」


 俺は頷いた。


 神官に従い、上層居室区画の奥の謁見室へ向かった。廊下は静かだった。磨かれた床に足音が吸われる。壁の燭台はまだ昼前の光の中で消えていた。


 謁見室は薄暗い。高位聖職者が奥の椅子に座っていた。前回と同じ、頭巾の人物だった。顔は影の中にある。年齢も表情も読み取れない。声だけが、こちらへ落ちてきた。


「ご苦労だった、勇者殿」


 高位聖職者の声は穏やかだった。


「巡礼路の安全と地方教会の救援は達成された。報告書を確認した」


 高位聖職者は続ける。


「秩序を、守りましたね」


 その声は優しかった。


 しかしその声は命令に聞こえた。


 次の派遣命令の、前置きに聞こえた。


 俺の中で、女の声が鳴り直す。言葉ではなかった。腕が一度だけ震えたときの息だった。弩の木がきしむ音だった。泥の上に落ちた声だった。


 俺の右手が、腰の聖剣の柄に触れそうになって止まる。ここで触れる必要はない。分かっている。けれど指先だけが遅れていた。


「俺たちの役目です」


 応えは一拍遅れた。


「光神は汝の役目を見ておられる。これからもよく果たすであろう」


 高位聖職者は頷いた。


 俺は礼をして謁見室を退室した。扉が閉じたあと、廊下の白さが少しまぶしかった。


──────────────────────────────


 勇者寮へ戻る廊下を、俺は歩いていた。白灰石の壁に夕方の光が薄く乗っている。窓の外には聖オルヴェリス大贖罪聖堂の鐘楼が見えた。高い鐘楼の影が、教皇領の庭へ長く落ちている。


 足が止まった。


 勇者寮の方角へ進めば、いつもの個室がある。白い寝台。聖剣用の架台。個人礼拝台。窓辺の小さな机。そこへ戻れば、従者が聖剣を磨くだろう。


 聖剣の刃には血が残らない。


 それを俺はもう知っていた。


 手袋はまだ外していなかった。革の内側、人差し指の根元のあたりに、薄く赤が点として残っている気がする。実際に見てはいない。けれど柄を握る指の内側で、血が乾いている感触だけがあった。


 廊下の向こうで鐘が鳴る。


 夕課の鐘だった。


 低い一打が石の廊下を渡り、俺の胸の中まで入ってくる。


 俺は、灰塩谷を、知っている。


 その言葉が内側に鳴った。


 だがそれを口にする場所は、ここではないと思った。勇者寮の個室でもないと思った。考えたわけではない。足が先に動いた。


 俺は廊下の途中で向きを変え、聖オルヴェリス大贖罪聖堂の方角へ歩き出す。


 聖剣は腰に差したままだった。


 深紅のサッシュは泥跳ねで濁ったままだった。


──────────────────────────────


 聖オルヴェリス大贖罪聖堂の扉は、夕課のために開いていた。身廊の奥から、男声の聖歌が流れている。


 無伴奏だった。


 低い声が石の天井へ上がり、丸天井の内側を伝ってゆっくり降りてくる。旋律は一本だった。重なりは薄く、けれど声の厚みだけが静かに増えていく。


「Lux Orzovi, super nomina cade」


「In cinere, lumen maneat」


 意味を考えなくても、音だけで祈りだと分かる声だった。


 俺は身廊の入口で立ち止まった。聖堂は長い。身廊は百五十歩では足りないほど奥へ伸びている。白大理石の床は夕方の光を受け、青と金を薄く映していた。壁には金箔が細い線で走り、聖人像の影が柱の根元へ落ちている。


 信徒席は階層ごとに分かれていた。前方には高位聖職者の席があり、中央には貴族と寄進者の席がある。後方には一般信徒の長椅子が並んでいた。どの段の席にも人影はない。夕課の時刻だというのに、長椅子の木の背だけが整然と並び、座る者を待ったまま薄く沈んでいた。


 聖歌だけが、誰もいない身廊の奥から、絶え間なく流れ続ける。歌う者の姿は見えない。聖歌隊席は祭壇の奥に隠れている。声だけが、石の天井と柱の間を渡って降りてくる。


 俺は勇者の席を見なかった。身廊の脇、一般信徒の祈祷台の前で足を止める。


 聖剣は抜かなかった。


 腰に差したままだった。


 俺は手袋を外した。革が指から剥がれる音は小さい。右手の指が空気に触れる。手袋の内側を見る。


 人差し指の根元のあたりに、薄く赤が点として残っていた。


 小さな点だった。


 見落とそうと思えば見落とせる。だが俺の眼はそこから動かなかった。革は血を吸い込んでいる。吸い込まれた赤は、もう革の中で乾き始めていた。


 聖剣の刃には、血が、残らなかった。


 手袋の革には、血が、残っていた。


 俺は手袋を祈祷台の端に置いた。革が木に触れる小さな音が、聖歌の下で消えた。


──────────────────────────────


 聖歌は続いていた。


「Lumen teneat, nomen audiat」


 男声の単旋律が祭壇の奥から流れてくる。


 俺は身廊の入口に近い祈祷台の前に立ち、奥の祭壇を見た。祭壇の背後には巨大な聖印が掲げられている。金ではある。けれど夕方の光の中で、その金は強く輝かず、薄く沈んでいた。


 ステンドグラスから夕方の光が落ちていた。


 青。赤。金。緑。


 色の帯が白大理石の床へ伸びている。色は床の上で混じり、やがて灰色に近づいた。


 俺はその灰色を見る。


 灰塩谷の灰色とは違う。


 けれど俺の眼は、違いを知っていた。


 あの地を踏んだ。灰色の岩。中継所の標語、「返し得ぬ者は、身をもって光を支える」。半壊した石壁。枯れた井戸。灰色の泥。女の眼。


 女は最後まで強かった。


 女は最後に叫んだ。


 老婆が後ろへ引いた。奉仕者が井戸の前で身体を引いた。負傷者が祈りの手から身を引いた。カイの祈りは同じ温度で注がれた。それでも、受け取る者と退く者がいた。


 女の名前は報告書の上で「首魁」になった。


 俺の名前は「レオン・ソル」として、紙の上に正しく書かれた。


 女の名前は書かれなかった。


 俺は、その違いを、知っていた。


 知ってしまった者が、逃げ、知らされなかった者が、斬る。


 聖歌のラテン語が、身廊の石に触れて返る。その中に、彼女の叫びが一度だけ混じった。


 あの子の名前も、私の名前も、もう帳簿には載っていない。


 聖歌は名を聞けと歌い、女は名がもう帳簿にないと叫んでいた。言葉は違う。声の高さも違う。けれど俺の中では、聖歌と叫びが同じ場所を通った。


 俺は拳を握った。剣帯の金具が小さく鳴り、その音の奥で背後の扉が静かに開く。


 足音が入ってきた。


 カイだった。


 足音で分かる。子どもの頃から、カイは急いでいても最後の一歩だけ静かにする癖があった。


 カイは俺の後ろでしばらく立っていた。声をかけない。聖歌だけが、二人の間を流れていた。


「レオン」


 やがてカイが一声だけ言った。


 俺は振り返らなかった。


「ああ」


 それだけ応えた。


 カイはそれ以上言わなかった。


 俺の横に並ぶこともしなかった。


 祈祷台の方を一度見た気配があった。俺の外した手袋を見たのかもしれない。腰の聖剣を見たのかもしれない。泥で濁ったサッシュを見たのかもしれない。


 それでもカイは何も言わなかった。


 足音が静かに遠ざかる。身廊の脇、小祭室へ続く側廊の奥へ入っていく。同じ聖堂の内側で、別の祭壇に向かい直す足音だった。


 聖歌が一段だけ大きくなった。


 あるいは、俺の耳がそれ以外を閉じたのかもしれない。


 俺は一度だけ扉の方を見る。それからまた身廊の奥を見た。


──────────────────────────────


 俺は身廊の中央へ歩き出した。勇者のために用意された席ではなく、一般信徒の祈祷台の前で膝をつく。


 床は冷たかった。


 白大理石の冷たさが膝を通って身体に入ってくる。灰塩谷の泥の冷たさとは違う。違うのに、どちらも足を止める冷たさだった。


 聖歌は続いていた。


「Lux non delet sanguinem」


「Sed nomen audiat」


 祭壇の側から流れてくる声は低く、長く伸びる。


 俺は両手を組んだ。手袋を外した右手は冷えている。左手がその上に重なる。指の節が白くなる。聖剣の柄を握ったときと同じ場所に、力が入った。


 光神よ。


 言葉は声にならなかった。


 父よ。


 それも声にならなかった。


 許したまえ。


 誰を。


 俺をか。


 彼女をか。


 知らされなかった者をか。


 知ってしまった者をか。


 俺には分からなかった。


 彼女の名前を。


 あの子の名前を。


 そこまで思って、息が止まる。


 俺は彼女の名前を知らなかった。あの子の名前も知らなかった。知らない名前を祈りの中へ置くことはできなかった。


 祈りは、届きます。


 カイの声が内側で一度だけ鳴る。閉じた戸の前で言った声。廃巡礼堂の泥の上で言った声。同じ温度の声だった。


 俺は泣かなかった。


 ただ拳を握る。組んだ指の内側で、爪が掌に食い込んだ。


 聖歌が伸びる。ラテン語の単旋律の奥に、女の叫びがもう一度だけ重なった。


 祈ってる声は、私たちを、誰ひとり数えなかった。


 俺は答えられなかった。


 答えられないまま、頭を垂れる。


 聖堂のステンドグラスから夕方の光が落ちている。青と赤と金が、俺の膝の前で混じっていた。祭壇の聖印は薄明の中で沈み、男声の最後の一節だけが長く残った。


 俺は低い声で唱えた。


 祈りの形の中で。


 祭壇に向けて。


「俺は、灰塩谷を知っている」


 聖歌は続いていた。


 夕方の光は大理石の床に落ちたまま、ゆっくり薄くなっていった。

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