灰のない
夜明け前の桟橋で、船板はまだ夜の湿りを吸っていた。
ホアロハ島の港は青黒い。白珊瑚石の桟橋だけが薄く浮いて見える。観光通りの軒に残った鮫歯の護符が一つ、風に揺れて歯を鳴らした。土産物の音だ。俺の村なら祠の奥に置くようなものが、ここでは吊るされて売られている。
俺は重盾を肩から下ろした。甲板の隅に寝かせようとすると、若い船員がすぐに寄ってきた。足が速い。目も悪くない。
「あんた、それを甲板に置く気か」
「重さは知っている」
「知っていてもだ。船底に近い場所だ。傾く」
俺は盾を持ち上げ直した。腰を落とし、膝で重さを受ける。船員が一歩下がった。鉄を扱う身体の動きは、言葉より早く伝わる。
盾は背中に戻した。肩の骨に重さが乗る。背筋が少し沈む。いつもの重さだ。船には悪いが、背中ならまだましだ。
ヴェスタが舳先で笑った。
「兄貴の盾は、山を運ぶ重さだぜ」
「お前の曲刀は、塩を運ぶ重さだ」
ヴェスタは声を殺して笑った。海風に慣れた笑い方だった。喉の奥で短く切る。甲板に余計な音を残さない。
レオンが咳払いをした。笑いを飲み込んだ咳だった。腰の聖剣の柄に左手が触れる。すぐ離れたが、指の節は白い。
俺は横目で見た。
握りすぎるな、と前に言った。柄は握るものだが、握り潰すものではない。抜く前に力が死ぬ。レオンは覚えている。覚えていても、身体は先に固まる。
あの夜の宿でもそうだった。レオンは「シレナ島へ行く」と言った。声は震えなかった。だが卓の下で、左手は柄を握っていた。隠したつもりだろう。戦士の手は隠れない。
カイが隣に立った。レオンに何か言う顔をした。それから言わなかった。口元が閉じた。胸元のロザリオだけが、指で一度触れられた。
それでいい。
言葉を出せば支えになる時がある。出さない方が支えになる時もある。カイはその境を、時々よく見ている。
ヴァローは舵柄の方を見ていた。海図は出していない。頭に入っているのだろう。灰色の髪が風で揺れても、目だけは動かない。
ヴェスタは舫を見ていた。結び目の最後を親指で押さえる。爪の周りが塩で白い。ああいう指は、綱の嘘を知っている指だ。
帆が膨らんだ。
ホアロハ島の白珊瑚石の桟橋が、後ろへ流れていった。
──────────────────────────────
俺は山の男だ。
中央山脈の奥で生まれた。貧しい村だった。朝は煙と霧で始まる。冬は肉より根菜が多い。子供は薪を運び、年寄りは火の番をする。海を初めて見たのは、二十を過ぎてからだ。
今でも海を見ると、谷の霧を思い出す。色は違う。匂いも違う。谷の霧は土と樹皮の匂いがする。海は塩と腐った藻の匂いがする。
だが底が見えないという感覚だけは、どこかで重なる。
山の霧なら、跡は残る。獣道の泥。折れた草。湿った石の上に薄く残る靴底の擦れ。霧がどれだけ濃くても、通った者は土に癖を残す。
海は違う。
波が消す。船の跡はすぐ崩れる。匂いは風が持っていく。水面は何も知らない顔で戻る。山の眼で追えるものが、ここでは役に立たない。
ヴェスタは別だった。
港役人の言葉。倉庫番が積んだ水樽の数。薬草を買った店。桟橋の端に残った塩の白さ。彼はそういう小さいものを拾って、赤髪の賢者たちの船の行方を読んだ。
斥候の眼だ。山道の追跡と違う。だが、訓練の根は同じだ。見たものを捨てない。見えないものを急いで決めない。
俺はそれを横で見ていた。
俺の村には、霧の中で獣を追う年寄りがいた。名はダルムだった。杖をつきながら、兎の足跡を俺たちに読ませた。足の深さで腹の空き具合まで言い当てた。嘘みたいな話だが、当たった。
ヴェスタも、あの年寄りと同じ種類の黙り方をする時がある。
土地が違うだけだ。山は土に書く。海は人と物に書く。
カイが隣に来た。
「ガイウス」
「ああ」
「シレナ島は、どんなところだと思いますか」
「行ってみないと分からん。だが観光地じゃねえ」
カイは頷いた。
「私もそう思います。ホアロハ島とは、たぶん全く違う」
「だろうな」
それで話は切れた。海の上で長い話はしない。風が言葉を削る。削られて困る言葉は、最初から出さない方がいい。
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沖へ出るほど、海の色が重くなった。
ホアロハ島の周りの海は客のための青だった。白い砂を映し、貝殻の光を散らし、船底まで見せる青だ。沖の海は違う。黒青だ。光を受けても底を見せない。
観光通りの笛はもう聞こえない。土産物の旗も小さい。白い桟橋も、水平線の明るさに紛れて消えた。
俺は帆の影に立った。腕は組まない。盾を背負って腕を組むと肩が詰まる。山の戦士は、長く立つ姿勢を先に覚える。剣の振り方より先だ。
背中の盾が呼吸に合わせて少し動く。船が揺れる。膝が勝手にそれを拾う。慣れない揺れだ。山道の下りとも違う。岩の斜面は動かない。船は足元から嘘をつく。
山の方がマシだ。
口には出さなかった。
レオンは舳先に立っていた。左手はもう柄から離れている。それでも指の硬さは残っていた。肩の位置が少し高い。背中の力が抜けていない。
兄貴分の眼で見る。若い前衛は、決めた後に固くなる。決める前より危ない時がある。決断で足が速くなる。足が速くなると、後ろが遅れる。
カイはその少し後ろにいた。白い神官服の裾が風に鳴る。胸元のロザリオに指が触れる。祈っているのか、考えているのか。カイは自分でも分からない顔をする時がある。
ヴァローは海を見ていた。観察している時のヴァローはまばたきが少ない。観察していない時は、息の吐き方が短い。今日はその中間だった。何かを見ようとして、まだ名をつけていない顔だ。
ヴェスタは舵手の若い男と話していた。手振りだけで、風の癖を伝えている。声は届かない。笑いだけが一度、帆の下を抜けてきた。
俺はそれを聞いた。
この五人は、まだ同じ土地の者ではない。教会の男。塔の男。山の男。海の男。勇者と呼ばれる若い戦士。足元の流儀が違う。
だが同じ船に乗る時、足は同じ揺れを拾う。
それだけで足りる時もある。
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赤髪の賢者たちのことを考えた。
その中に、耳を隠した語り部がいると聞いた。長弓を背負い、楽器を持つ男だという。港役人は声を落として話していた。エルフだ、と言った。長く生きる種族だと。
俺は吟遊詩人を一度だけ見たことがある。
中央山脈の麓の交易町だった。秋の祭りの夜だ。俺は荷運びの護衛で町にいた。広場の端に火が焚かれ、旅の男が楽器を抱えて歌っていた。客は十数人。酒の匂い。焼いた肉の脂。濡れた土。
歌の言葉は半分も覚えていない。だが声の伸び方は覚えている。音が夜の上へ逃げず、火の周りに残った。年寄りが頷き、子供が黙った。戦士たちも酒杯を下ろした。
あれがエルフだったかは知らない。耳は見なかった。俺はその頃、歌い手の耳を見る習慣を持っていなかった。
だが長い時間を背負った声だと思った。
ヴァローが前に言っていた。エルフは百年も二百年も生きる、と。一つの歌を百年運ぶなら、その歌は最初に聞いた者の孫にも届く。人間の戦士が剣を運ぶより、ずっと長い。
赤髪の賢者のそばにいる男は、何を運んでいるのだろう。
俺は会ったことがない。名も知らない。けれど少しだけ、会ってみたい気がした。
村の囲炉裏端で、年長者の話を聞いた夜を思い出す。冬至の火。乾いた薪の弾ける音。子供の眠そうな頭。コルヴがまだ小さく、俺の膝に額をぶつけて眠った夜。
話は歌ではなかった。だが、あれも運ぶものだった。
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シレナ島が見えたのは、午後の早い頃だった。
低い島だった。緑が濃い。山ではない。丘だ。海岸線は黒い岩で縁取られ、内側に砂浜と漁村が見えた。観光船のための長い桟橋はない。白珊瑚石もない。木の桟橋が一本、岩礁の隙間から海へ出ているだけだった。
ヴェスタが舵手に合図した。船は速度を落とした。帆の張りが緩む。船腹が波を押す音が近くなる。
接岸の前に、島の音が耳に入った。
笛がない。土産売りの声もない。客を呼ぶ笑いもない。網を直す指の擦れ。木槌で板を打つ音。遠い子供の声。波。波。波。
人の数は少ない。
桟橋には漁師の老人が二人いた。網を直していた。俺たちの船を見ると、二人とも顔を上げた。値踏みではない。歓迎でもない。外から来たものを、生活の眼で測る視線だ。
故郷の村にも、そういう眼があった。誰が来たか。何を持っているか。誰を連れているか。逃げるべきか。迎えるべきか。その判断を、笑顔より前に済ませる。
レオンが先に降りた。左手は柄に置かれていない。カイが続く。ヴァローは手帳を懐に戻してから降りた。ヴェスタは舵手と二言交わし、最後に軽く桟橋へ跳んだ。
俺は盾を背負ったまま降りた。板が大きく沈んだ。木の下で水が鳴る。足の裏に、桟橋の古い軋みが返ってきた。
老人の一人が首を傾けた。
「あんたら、勇者様の一行か」
レオンが頷いた。
「教会から派遣されました。シレリオ家の方に、お話を伺いたく」
老人は網の針を止めた。指先が節くれだっていた。海の仕事の手だ。
「シレリオの家は、村の奥だ。今日、夕方、浜で送る。間に合うように行きな」
「送る、というのは」
「父と娘を、海に送る。襲撃で死んだ者を、家族と村が送る日だ」
レオンの息が浅くなった。カイの口が少し開き、すぐ閉じた。
俺は何も言わなかった。
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桟橋から村へ続く道は、黒い岩を踏み固めたものだった。
白珊瑚石の観光道ではない。飾りもない。砂と塩が岩の隙間に入り、靴底に細かく噛む。山里の道なら、土が足を受ける。ここは足を返してくる。
最初の家で、戸口の傷が見えた。
蹴破った跡ではない。刃だ。三本。下から上へ斜めに入っている。深さは均一ではない。二本目だけが重い。刃幅は指二本半ほど。中堅どころの戦闘員だろう。力任せの素人ではない。
戸の内側の壁に、薄茶の染みが残っていた。砂と雨で薄れている。だが形は残る。人が倒れ、血が低い方へ流れた跡だ。
俺は息を一つ整えた。
レオンは視線を逸らさなかった。カイは小さく祈りを呟いた。ヴァローは戸口の角度を見た。ヴェスタは何も言わず、腰の曲刀の位置を一度だけ確かめた。
次の家は屋根が仮止めだった。縄で押さえた棟木。欠けた瓦。落ちた梁。壊れ方に火の匂いはない。力で割られている。屋根を落とす目的ではなく、抵抗を潰す途中で壊したのだろう。
家の中で女が二人、低い声で話していた。一人は箒を持つ。もう一人は割れた水甕を拾う。俺たちが通ると顔を上げた。
見た。
すぐ戻した。
それでいい。今の村に、外からの客へ笑う余裕はない。咎める力もない。見て、記憶して、手を動かす。それだけで一日が終わる。
道の中ほどで、男が二人で長椅子を運んでいた。壊れた机も一緒だ。葬儀のためか、修理のためか。判じられない。一人の肩が時々震えた。泣いている。涙ではなく、肩で泣く種類の泣き方だ。
俺たちは脇へ下がった。
子供が家の前にいた。
五つか六つ。母親らしい女の足元で、俺たちを見ていた。泣いていない。声もない。ただ母の手を握る指だけが強い。小さい骨に合わない力だ。
俺と目が合った。
俺は軽く頷いた。山里で子供にするのと同じだ。意味は薄い。敵ではないと示す程度の動き。
子供は、ほんの少しだけ頷き返した。
母親の手の力が、僅かに緩んだ。
俺は歩いた。振り返らなかった。
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村の中央に広場があった。
覆いをかけられた二つの形が、広場の真ん中に並んでいた。白い布。長い形と、小さい形。端は石で押さえられている。風が布をめくることはない。
傍らに白い貝殻があった。小さな鮫歯の飾りもある。素焼きの壺には海水が入っている。ホアロハ島の土産物とは違う。ここでは売り物ではなく、手の順番を待つものだった。
カイが立ち止まった。
「神官様、後でよろしいですか」
低い女の声がした。
中年の女が、覆いの脇に膝をついていた。目元は乾いていた。泣いた後ではない。泣く暇をまだもらっていない目だ。
立ち上がる動きが少し重い。腰は曲がっていない。肩だけが、身体の内側へ入っている。家族を失った者の肩だ。戦場で何度も見た。
シレリオ家の母だ、と分かった。
レオンが頭を下げた。
「私たちは教会から、ラウリ・シレリオ殿の件で参りました。失礼を、お許しください」
女は頷いた。
「アリイと申します。あの子の母です。父と妹は、今日、浜に送ります。それまでに、お話を伺えれば。家まで、ご案内します」
声は崩れない。冷たいわけではない。最後に残った礼節を、両手で持っている声だった。
俺はその背中を見た。
故郷の女たちの手を思い出した。襲撃の朝にも、女たちは水を運び、薬草を煎じ、血のついた布を洗った。泣く者はいた。泣かない者もいた。どちらも同じ重さだった。
口には出さない。
目の前の女を、自分の記憶で塗るのは違う。
──────────────────────────────
シレリオ家は広場から少し離れた場所にあった。海へ近い側だ。
戸口に傷はなかった。壁も壊されていない。だが家の空気は抜けていた。血の匂いではない。誰かが戻ってこない家の匂いだ。炉の灰も、干した草も、同じ場所にあるのに芯だけが欠けている。
「どうぞ、お入りください」
母アリイが言った。
奥に白髪の女がいた。髪を後ろで結っている。細いが、背筋は残っている。立ち上がる動きは遅い。だが頭を下げる時、家の主の重みがあった。
「祖母です」
母が短く言った。
祖母は喋らなかった。視線だけが俺たちを順に見た。レオンで一度止まる。聖剣ではなく、顔を見る。次にカイ。ヴァロー。ヴェスタ。最後に俺。
俺は頭を下げた。
祖母の眼が、俺の左頬の傷を見た。それから眉上の傷を見た。次に、俺の靴の汚れを見た。戦士が戦士を測る眼ではない。土地が人に残すものを測る眼だった。
母アリイは土間に座った。薬草の束を出す。手を止めずに話すつもりだと分かった。手が止まると、心が追いつく。それを避ける者の動きだ。
俺の母も、そういう手をしていた。薬草を選り分け、繕い物をし、子供の頭に手を置く。手が動く間だけ、声が崩れない。
レオンは膝を折った。カイも隣に座る。ヴァローは少し後ろで、手帳を出せる位置に立った。ヴェスタは戸口に寄った。半分外を見る。斥候の立ち位置だ。
俺は重盾を下ろした。入り口の脇に立てかける。土間が鈍く鳴った。
母アリイが薬草を皿へ置いた。
「赤髪の賢者にも、これと同じものをお渡ししました」
最初の言葉だった。
「左の手を、庇っていらっしゃったから」
レオンの顔が上がった。カイの呼吸が細くなる。ヴァローの手が手帳へ動き、止まる。ヴェスタが戸口から視線を戻した。
母アリイは続けた。
「黒髪の若い男は、右を浅く使っていました。脇から下、まだ塞がりきっていない傷です」
医療の眼だ。
俺はその言葉を戦士の身体で受けた。右を浅く使う。脇から下が塞がっていない。息を深く吸うと痛む。腕を大きく振ると傷が開く。そういう身体で、船を降り、村を歩き、動いたということだ。
母アリイは見ていた。痛みを隠す人間の足を見分けた。薬草を扱う手は、戦場を知らなくても傷の嘘を知る。
レオンが声を出した。
「その方々は、あの……」
「赤髪の賢者と、海守りの若い男と、耳を隠した語り部の三人です」
母アリイの指が薬草を分ける。乾いた葉。細い茎。白い根。手つきが正確だった。
「襲撃の翌々日に、お船で来られました。最初は、ご自分のお仕事のために来た、と言われました。シャーク・コーラーズに、お話を伺いたい、と」
束が一つ作られる。紐が締まる。
「けれど、村の有り様を見て、お仕事の話を、一度も口にされませんでした」
カイが頭を下げた。祈りではない。ただ受け取るための動きだった。
母アリイは別の葉を取った。
「黒髪の若い男は、ご自分の傷を抑えながら、瓦礫の下から、二人の老人を引き出されました」
そこで一度、指が止まった。
「隣家の戸を肩で押し破って、中の子供を抱いて出されました。桟橋の柱に手を当てて、息を整えていらっしゃいました」
俺の中で、その男の動きが組み上がる。脇の傷を押さえ、右を浅く使い、瓦礫の重さを肩で受ける。引き出すための身体だ。受け止める盾ではない。動いて、掴んで、戻す。
戦士として重い動きだ。
「赤髪の方は」
母アリイは言った。
「赤髪の方は、左の手を庇いながらも、深い傷の村人を見て、すぐに手を当てられました」
薬草の葉が皿に置かれる。
「この方は急ぐ、この方はまだもつ、と見分けていらっしゃいました。私の知らない葉の使い方も、短く教えてくださいました」
レオンの左手が聖剣の柄に触れた。それから膝へ戻った。今は抜く場ではない。触れる場でもない。そう身体で覚え直すような動きだった。
「歌の人は」
母アリイが祖母を見た。祖母は何も言わない。
「歌の人は、歌で、村人の傷を癒してくださいました」
母アリイの声が少し低くなった。
「緑の光が、傷の縁を覆いました。熱を出した子供のそばで、一晩、歌ってくださいました。どこで歌えば一番届くかを、よく知っている方でした」
カイはロザリオを握った。祈りの形ではない。こぼれそうなものを留めるための手だった。
ヴェスタが半歩だけ内へ入った。足音はほとんどない。
俺の胸の中で、赤髪の賢者たちの形が変わった。
手がかりを追って来た者が、手がかりを後に回した。賢者会の賢者がそうするものかは知らない。だが戦場で人を担ぐ者の重さは分かる。
レオンが息を吸った。
「お三方は、今、どちらに」
母アリイの手が止まった。
初めて、母アリイはレオンの目を正面から見た。
「ラウリのことを、お話ししたら、すぐに、西へ」
声がわずかに震えた。
「ラウリの行方を、追ってくださっています」
──────────────────────────────
祖母が口を開いた。
「あの語り部は」
低い声だった。歳を取った声ではある。だが枯れてはいない。底に石のようなものがある声だ。
「耳を隠していた」
祖母の指が膝の上で一度動いた。
「わたくし、と言う男だった」
レオンが静かに聞いている。カイも目を伏せた。ヴァローの手帳が開く音がした。
「歌を持つ者は、奪う者と聞く者の違いを知っている」
俺は祖母を見た。
山の年長者にも、こういう眼をする者がいた。冬至の夜に火の前へ座り、村の祠の始まりを語る者だ。子供が騒げば一度だけ見る。その一度で静まる。
ただ、祖母の眼は岩ではなく波を見てきた眼だった。動くものを記憶する眼だ。消えるものを、消えたまま覚える眼だ。
ヴァローが何かを書きとめた。たぶん「わたくし、と言う男」と書いた。塔の男は、そういう言い方を残す。
祖母はそれ以上言わなかった。
語らないことで守るものがある。俺にも少し分かる。
──────────────────────────────
家の奥に、小さな祭壇があった。
入った時から目の端で見ていた。土間の奥。家の一番深い場所。低い棚。飾りは少ない。木で組まれた素朴なものだ。
俺の村の家にも、小さな石像を置く棚があった。家の最も奥だ。外から来た者の目に触れにくい場所。年長者が朝に手を当てる場所。冬至の夜には、子供も一人ずつ手を当てる。
シレリオ家の棚には、何かが置かれていた跡があった。
埃の薄さで分かる。中央だけ色が違う。手のひらほどのものが、最近までそこにあった。
母アリイが棚の前へ行った。背中が一度だけ小さく沈む。
「祖伝の聖物が、ここに置かれていました」
名は言わない。
「父と娘が、ここを守って、死にました」
声は淡い。だが棚を見る目が一瞬だけ揺れた。すぐ戻った。戻す力が残っていることが、かえって重かった。
ヴァローが低く言った。
「物と、人を、同時に奪った」
母アリイは頷いた。
「父と娘は、棚の前で、最後まで立っていました。父は槍を持ちました。娘は祭祀の楽器を持ちました。私と祖母は、奥の小屋へ逃げました。父が、そう命じました」
俺は棚を見た。
村の祠の石像を思い出す。十年以上前の朝、外の傭兵団が来た。霧がまだ残っていた。鐘の代わりに鉄鍋が叩かれた。年長者たちは子供を奥へ押し込み、戦士は広場へ走った。
祠の前で死んだ者がいた。名も顔も、今でも出てくる。俺は若く、盾も今より軽かった。
目の前の棚に、その朝の火の匂いが重なった。
俺は言わなかった。
言えば、この家の棚から何かを奪う。
──────────────────────────────
レオンが襲撃の経緯を尋ねた。
母アリイと祖母は、断片を渡すように答えた。
四日前の夜。深淵の徒の中堅戦闘員が三人。末端が十数人。藍色の刃を持つ者がいた。父カエラニと妹マエアが棚の前で抵抗した。ラウリは家に伝わる槍を持った。複数の男に制圧され、船へ運ばれた。
襲撃者は肩に倒れた碇の紋章を付けていた。島の古い血を狙ったのだと、村人の一人が後で言ったらしい。シャーク・コーラーズは沈んだ王の家臣の名を、祭りの時だけ口にするという。
祖母はそこで黙った。母アリイも続けなかった。語る場所ではない、という沈黙だった。
ヴァローが手帳に書いた。筆先が速い。感情は乗せない。だが筆圧が少し深かった。
ヴェスタが戸口から言った。
「藍色の刃。アズリウム製じゃねえ。それより、もっと深いところで打たれた金属だ」
ヴァローが頷く。
「我々が岩石島で見た跡を作った武器と、同じ系譜の可能性があります」
俺は情報を胸の内で並べる。
藍色の刃。倒れた碇の紋章。複数の港。物と人。祭壇の棚。拐われた男。西へ逃げた船。
組織の匂いがする。末端だけではない。中堅を使い、目的を絞り、逃げ道を用意する敵だ。盾だけで止める相手ではない。前で受けても、別の手が裏へ回る。
レオンの左手が聖剣の柄に触れた。
今度は握らない。指の腹で確かめるだけだ。すぐ離す。
それでいい。
──────────────────────────────
母アリイが薬草の束を二つに分けた。
一つをレオンの前へ置く。
「これは、皆様にお持ちいただきたいもの。長旅にお使いください」
レオンは両手で受けた。頭を下げる。言葉は少なかった。
母アリイはもう一つの包みを手元に残した。指が少し迷う。結び目を撫でる。目が棚の方へ行き、すぐ戻る。
それから、包みをレオンの前へ置いた。
「これは、もし、追いつかれたら」
母アリイの目が、レオンの顔を見る。
「赤髪の賢者たちに、追いついたら、お渡しください」
一拍。
「追いつける保証は、ありません」
また一拍。
「けれど、追いつけたら、お渡しください。それが、私の願いです」
レオンは息を止めていた。肩が僅かに下がる。彼は両手で包みを受け取った。聖剣ではなく、薬草の包みを受ける手だ。
ヴェスタが戸口で肩を一つ揺らした。軽口は出なかった。
俺は包みを見た。
薬草の包みは軽い。だが、受け取った者の手を重くするものがある。山の村でも、旅立つ戦士に母たちは干した根を持たせた。食えるもの。塗れるもの。結べるもの。
死者のためではない。生きて追いつく者のためだ。
──────────────────────────────
夕方、村人が浜辺へ集まり始めた。
母アリイと祖母は家の戸を閉めた。戸板に手を置く時間が少し長い。閉めるだけの所作ではなかった。
広場では白い覆いの二つの形が担がれていた。村の男たちが肩を入れる。足取りは乱れない。だが軽くもない。担架は木の長椅子の脚で組まれている。急ごしらえだが、布の掛け方は丁寧だった。
死者は軽く見える。生きていた時の重さは、声や体温や癖が持っていたのだろう。布に覆われると、残るのは形だけだ。
故郷の年長者が言っていた。死んだ後の身体は軽い。だが運ぶ者の肩は、後から重くなる。
俺たちは列の後ろに付いた。
レオンが母アリイに頭を下げた。
「参列を、お許しいただけますか」
母アリイは頷いた。
「あなたたちは、息子のことを追ってくれています。それで充分です」
浜辺は網干し場の下だった。黒い砂。白い貝殻。濡れた石。西の空は橙に薄く染まっている。波は静かだが、音は低い。
覆いの二つの形が、浜辺の中央に置かれた。
村人が円になる。母アリイと祖母が脇に立つ。母アリイは薬草の束を持っていた。祖母は何も持たない。持たない手の方が重いこともある。
歌が始まった。
低い繰り返しの歌だった。言葉は分からない。だが声の重なり方は分かる。年長者の声が土台になる。若い者がその上に乗る。子供の細い声が遅れて追う。
冬至の夜の火を思い出す。
雪の夜。囲炉裏。小さな石像。年長者の低い声。子供たちの眠い声。母が鍋をかき回す音。外では風が戸を叩いていた。
ここには灰がない。火もない。あるのは水と塩だ。
母アリイが薬草を波の縁へ置いた。波が来る。薬草を洗う。戻る。次の波で薬草は浜へ戻る。母アリイは拾い、また置く。
三度繰り返した。
四度目の波で、薬草は戻らなかった。
母アリイは手を止めた。終わりを知っている手だった。
祖母が貝殻を一つ拾う。小さい方の白い形の傍へ置いた。妹マエアの傍だ。祖母は貝殻を見ていた。何も言わない。
カイが隣で短い祈りを呟いた。光神オルヴェリスの名が一度だけ出た。村人は唱和しない。当然だ。ここには別の歌がある。
母アリイがカイを見た。ゆっくり頭を下げる。
「あなたの神が、あなたのために聞くなら、それでよい」
カイも深く頭を下げた。
俺はその所作を見た。
奪わない祈りだった。押し込まない。重ねない。ただ隣に置く。それで足りる時がある。
レオンは聖剣の柄に手を置いていた。
抜かなかった。
指が柄から離れる。ゆっくりだ。決めて離した動きだった。夕日の中で、深紅のサッシュが風に揺れた。勇者の色だ。だが今は、その色も布の影に沈んで見えた。
レオンは一歩前に出た。母アリイの方へ短く頭を下げた。
「ご家族の方の安らぎを、心からお祈り申し上げます」
母アリイは、勇者を見る目ではなく、若い男を見る目で頷いた。
レオンは布の前へ進んだ。両膝を砂につける。聖剣は抜かない。何も置かない。口元が一度だけ動いた。言葉にはならなかった。
長く頭を下げる。
その時間だけ、波の音が前に出た。
俺はレオンの背中を見た。
光を見せないことを選んだ背中だ。ここで剣の光を出せば、村の歌を割る。慰めのつもりでも、奪うことになる。レオンはそれを身体で分かった。
少し前のレオンには、まだ難しかった所作だ。
俺は何も言わなかった。
──────────────────────────────
俺は浜辺の端に立っていた。
足元に黒い石があった。丸く、手に収まる。波に削られた石だ。俺はそれを拾った。重さはある。だが山の石の重さではない。海の石は、表面が滑りすぎる。
弔いの輪の外へ置いた。円の縁から少し離れた砂の上だ。
置いただけだ。
祈らなかった。
山の村では、死者の名を岩に預ける。岩へ手を当て、名を呼び、岩が覚えると信じる。岩は動かない。季節が変わってもそこにいる。だから名を預けられる。
ここでは波へ返す。
灰がない。
故郷なら火を焚く。骨の白さ。薪の匂い。翌朝の灰。年長者が灰を小袋に分け、祠の裏の土へ混ぜる。子供はその時だけ静かになる。
ここには灰がない。煙もない。名を留める岩もない。
俺の祈りをここで口にすれば、波の歌に石を投げ込むようなものだ。石は沈む。波は受け取らない。
だから置いただけだ。
カイが視野の端で俺を見た。
何も言わなかった。
俺も言わなかった。
それでいい。
──────────────────────────────
歌が終わった。
終わった後の沈黙の方が長く感じた。波が寄せる。布が少しだけ動く。子供が鼻をすすった。誰も咎めない。
母アリイと祖母が、白い覆いの中央に手を置いた。長く押さえる。手を離す時、母アリイの指が布に少し引っかかった。すぐ離した。
村人が順に進んだ。
貝殻を置く者。海水を指で落とす者。砂をひと握り置く者。鮫歯の飾りを布の端へ触れさせる者。誰も長く喋らない。所作だけが続く。
俺たちも列に加わった。
レオンは何も置かなかった。布の前で両膝をついたまま、もう一度深く頭を下げた。長い時間だった。立ち上がる時、左手は聖剣ではなく膝を押した。
カイはロザリオを胸元から外した。布の上へ短く触れさせる。また戻す。母アリイがそれを見て、静かに頷いた。
ヴァローは手帳から白紙を一枚破った。布の脇へ置いた。書かれていない紙だ。塔の男らしい弔いだった。書けなかったものを、そのまま置く。
ヴェスタは腰の曲刀の鞘紐を一つ解いた。布の脚元へ短く置き、すぐ取った。海の戦闘員の挨拶だろう。戦いはここで終わった、と告げる手つきだった。
俺は布の前で片膝をついた。
何も置かない。
膝を砂へ深く沈める。山の戦士が、村を守って死んだ者の前で取る所作だ。立ち上がる時、砂が膝についた。払わない。
母アリイが俺を見ていた。
長く見ていた。
何も言わなかった。
俺も言わなかった。
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弔いの輪がほどけた。
村人たちは少しずつ家へ戻る。足音が小さい。声も低い。浜には波の音が残った。
俺たちは母アリイと祖母に同行した。シレリオ家へ戻り、そこから港へ向かう。夜になる前に出る予定だった。赤髪の賢者たちも一夜だけ泊まり、夜明け前に出たという。長く留まる島ではない。俺たちにとっても、島にとっても。
家の前で祖母が止まった。
祖母は俺の名を知らない。だから俺を見て、こう呼んだ。
「あんた、山の出だね」
「ああ」
「岩を、何度も、見てきた人の眼だ」
俺は黙っていた。
祖母の声には、当てたという誇りがなかった。ただ見えたものを言っただけだ。
コルヴの顔が浮かんだ。俺が村に残してきた弟子だ。十代の後半。肩はまだ細いが、足腰はいい。盾より斧に向いている。毎月の送金の半分は、あいつの飯と装備に回っているはずだ。
あいつもいつか、岩を見てきた眼になるのだろうか。
祖母はレオンの方を向いた。
「あんたたちが、追っているのは」
海へ指を向けた。
地図の方角ではない。指の角度が違う。風でも潮でもないものを測っている指だった。歌の残り香を追うような指だ。
「歌が、遠ざかった方角」
それだけだった。
レオンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
祖母は付け加えない。それで終わりだった。
ヴァローが低く言った。
「襲撃船が向かった方角と、一致します」
ヴェスタが頷く。
「西。外洋寄りだな」
母アリイが家の中から出てきた。小さな布包みを持っている。薬草の二組とは別の包みだ。結び目が丁寧だった。
「これを、もし、追いつかれたら」
母アリイはレオンへ渡した。
「赤髪の賢者の、左の手に、巻いてください」
一拍置く。
「赤髪の賢者の、左の手に、巻いてください」
同じ言葉を、今度は少し強く言った。願いが形を持つように。
レオンは両手で受け取った。
母アリイはもう何も言わなかった。
俺はその包みを見ていた。
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港までの道は黙って歩いた。
夕暮れの村に灯りが点く。窓の薄い火。炉の赤。修理途中の柱の影。網を巻く手。戸を閉める音。襲撃の後でも夜は来る。飯を作る者がいて、水を汲む者がいて、子供を寝かせる者がいる。
それが一番重い。
桟橋に着くと、船は出航の支度を済ませていた。ヴェスタが舵手と話している。声が低い。海の段取りの声だ。
レオンが乗る前に、ヴェスタを見た。
ヴェスタはレオンへ言った。
「ここから先は、拐われた男を追う仕事だ。黒煙の賢者を狩る仕事じゃねえ」
低い声だった。軽口はない。契約の言葉のようで、そうではない。だが契約の言葉と同じだけ、逃げ場がなかった。
レオンは黙って頷いた。
顔に葛藤が残っていた。岩石島で見た黒い跡は消えない。あれを見た者なら、警戒を捨てられない。俺も捨てない。だが今日、赤髪の賢者たちは別の形で見えた。
敵かもしれない者。救助に手を伸ばした者。ラウリを追う者。
同じ輪郭に収まりきらない。
カイがレオンの隣で言った。
「私たちは、敵を追っていたのではなかったかもしれない」
レオンが頷いた。
「うん」
「けれど、行く理由は、変わらない」
「うん」
ヴェスタはもう何も言わなかった。舵柄へ歩く。足音が桟橋に軽く乗る。
俺はその三人を見た。
何も足さなかった。
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俺は最後に船へ乗った。
桟橋の端で一度だけ、村を見た。
低い緑。黒い浜。家々の小さな灯り。修理の終わっていない屋根。広場の空いた場所。母の背中。祖母の指。子供が母の手を握る力。男たちの肩の震え。白い覆いの二つの形。
中央山脈の村とは何もかも違う。
山の高さと海の広さ。土の重さと波の動き。火の灰と塩の水。石像の祠と家の奥の棚。冬至の声と浜辺の歌。
同じ言葉では語れない。
それでも、外から来た力に家の奥まで踏み込まれた顔は、俺の記憶を叩いた。
十年以上前の朝。霧が濃かった。外の傭兵団が来た。俺はまだ今の盾を持っていなかった。村の戦士たちは広場へ走った。年長者たちは祠の前に立った。誰が誰を逃がしたか。誰が戸を閉めたか。誰が子供を背負ったか。
覚えている。
コルヴはまだ生まれていなかった。母は血のついた布を洗っていた。俺はその横で、折れた槍の柄を握っていた。
口には出さない。
シレナ島はシレナ島だ。俺の村ではない。
船首は西を向いた。
帆が膨らむ。
シレナ島の桟橋が後ろへ流れた。窓の薄い火が遠くなった。やがて、夜の中へ沈んだ。
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船上で、ヴァローが手帳を開いた。
「整理しましょう」
俺たちは舵柄の近くに集まった。日は沈んだ。空は藍色だ。船首は西。風は横から来ている。ヴェスタが時々帆を見る。
ヴァローはページをめくった。
「西の方角。赤髪の賢者たちが向かった方角と、襲撃船が向かった方角と、祖母が指した『歌が遠ざかった方角』が、一致していた」
レオンが頷く。
ヴァローは続けた。
「ラウリ・シレリオ氏は、四日前の夜、深淵の徒の中堅戦闘員三人と末端十数人によって拐われた。父カエラニ氏と妹マエア氏は、家の奥の祭壇の棚を守って、討たれた。棚に置かれていた祖伝の聖物も、持ち去られた」
レオンの目が少し沈む。
「物と人を、同時に奪った」
「はい。つまり、ラウリ氏自身が、祖伝の聖物と何らかの形で繋がっている。家系の血筋、または継承者としての役目」
ヴァローの声は冷えている。だが冷たいだけではない。整理しなければ潰れるものを、整理している声だ。
ヴェスタが言った。
「西の方角だ。船の方向、武器の系譜、それが揃っている」
曲刀の柄に親指が触れる。
「岩石島と繋がる線が、まだ見えるとは言わねえが、向きは外れちゃいねえ」
ヴァローが頷く。
「そうですね」
「で、その方角に、赤髪の賢者たちも、向かった」
ヴェスタはレオンを見た。
「彼らは、ラウリ氏を救う目的で。俺たちは、ラウリ氏を救う目的で。同じ目的の者が、同じ方角へ進んでいる」
カイが低く言った。
「だから、追いついても、戦わずに済むかもしれない」
「向こうがどう受け取るかは、まだ分かりません」
ヴァローがすぐ付け加えた。
「岩石島で見たあの規模の力を、向こうは抱えている。敵対した時の脅威としては、依然として最大級です」
レオンは頷いた。
「分かっている。けれど、追う理由が、敵を追う理由だけではなくなった」
俺は黙って聞いた。
その言葉は、船板へ落ちるように胸へ入った。派手な決意ではない。だが足場になる言葉だ。
レオンの指は聖剣の柄に触れていなかった。深紅のサッシュだけが夜風に揺れている。朝の白い指とは違う。
二十を少し過ぎた若い戦士が、一日のうちにいくつか覚えた。抜かないこと。頭を下げること。追う理由が変わることを受け入れること。
俺はそれを口にしなかった。
口にすれば軽くなることもある。
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夜の海を、船は西へ進んだ。
俺は舳先の縁に立っていた。足元で船板が小さく鳴る。背中の盾は壁のように重い。船酔いは少しある。腹の奥が遅れて揺れる。だが吐くほどではない。
ヴァローの懐には、母アリイから渡された包みが三つ入っている。一つは俺たちのため。一つは赤髪の賢者たちのため。一つは赤髪の賢者の左の手のため。
追いつける保証はない。
母アリイはそう言った。保証はない。だが渡してほしいと願った。保証のない願いほど、受け取った手を重くする。
俺は追いついた時のことを考えた。
赤髪の賢者。傷を負った海守りの若い男。耳を隠した語り部。三人は西の海のどこかでラウリを追っている。俺たち五人が追いついた時、剣はすぐには収まらないだろう。
俺ならそうする。
向こうも、こちらを測る。レオンの聖剣を見る。カイの白を見る。ヴァローの塔の目を見る。俺の盾を見る。ヴェスタの曲刀を見る。
問答が要る。互いの足の置き方を見て、手の位置を見て、呼吸の速さを見る。抜きかけて、抜かない時間が続く。
その時、薬草の包みが役に立つかもしれない。
母アリイの結び目。薬草の匂い。包帯。塗り薬。言葉よりも先に届くものがある。
俺はそう願った。
願うという言葉は、俺の口にはあまり馴染まない。だが他に言い方がなかった。
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耳を隠した語り部のことを、もう一度考えた。
歌を持つ者は、奪う者と聞く者の違いを知っている。
祖母はそう言った。
俺は戦士だ。歌は持たない。楽器も持たない。持っているのは盾と剣だ。背中の鉄。腰の刃。毛皮のマント。村から持ってきた刺繍。
だが聞くことなら、少しは知っている。
山の村では、年長者の話を聞くのも子供の役目だった。祠の起こり。冬至の祈祷。山頭へ一礼してから狩りに出る理由。川の増水で死んだ猟師の話。外の傭兵団が来た朝の話。誰が誰を守り、誰が誰の飯を分けたか。
短い話。長い話。何度も聞く話。一度しか聞かない話。
聞いて、覚える。
覚えて、コルヴに言う。コルヴは眉をしかめて聞く。途中で飽きる。だが大事なところは覚える。あいつはそういう顔をする。
俺は村を出た。送金だけでは、村を守ったことにはならない。分かっている。だが今の俺にできるのは、金を送り、話を運び、盾を前に出すことだ。
赤髪の賢者のそばにいる語り部も、何かを運んでいるのだろう。奪うためではなく、聞くために。
会った時、何を話すかは分からない。
たぶん、最初は黙る。
それでいい。
夜の海が、俺の足元で、低い音を立てていた。
船は、西へ進んでいた。




