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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
46/57

灰のない

 夜明け前の桟橋で、船板はまだ夜の湿りを吸っていた。


 ホアロハ島の港は青黒い。白珊瑚石の桟橋だけが薄く浮いて見える。観光通りの軒に残った鮫歯の護符が一つ、風に揺れて歯を鳴らした。土産物の音だ。俺の村なら祠の奥に置くようなものが、ここでは吊るされて売られている。


 俺は重盾を肩から下ろした。甲板の隅に寝かせようとすると、若い船員がすぐに寄ってきた。足が速い。目も悪くない。


「あんた、それを甲板に置く気か」


「重さは知っている」


「知っていてもだ。船底に近い場所だ。傾く」


 俺は盾を持ち上げ直した。腰を落とし、膝で重さを受ける。船員が一歩下がった。鉄を扱う身体の動きは、言葉より早く伝わる。


 盾は背中に戻した。肩の骨に重さが乗る。背筋が少し沈む。いつもの重さだ。船には悪いが、背中ならまだましだ。


 ヴェスタが舳先で笑った。


「兄貴の盾は、山を運ぶ重さだぜ」


「お前の曲刀は、塩を運ぶ重さだ」


 ヴェスタは声を殺して笑った。海風に慣れた笑い方だった。喉の奥で短く切る。甲板に余計な音を残さない。


 レオンが咳払いをした。笑いを飲み込んだ咳だった。腰の聖剣の柄に左手が触れる。すぐ離れたが、指の節は白い。


 俺は横目で見た。


 握りすぎるな、と前に言った。柄は握るものだが、握り潰すものではない。抜く前に力が死ぬ。レオンは覚えている。覚えていても、身体は先に固まる。


 あの夜の宿でもそうだった。レオンは「シレナ島へ行く」と言った。声は震えなかった。だが卓の下で、左手は柄を握っていた。隠したつもりだろう。戦士の手は隠れない。


 カイが隣に立った。レオンに何か言う顔をした。それから言わなかった。口元が閉じた。胸元のロザリオだけが、指で一度触れられた。


 それでいい。


 言葉を出せば支えになる時がある。出さない方が支えになる時もある。カイはその境を、時々よく見ている。


 ヴァローは舵柄の方を見ていた。海図は出していない。頭に入っているのだろう。灰色の髪が風で揺れても、目だけは動かない。


 ヴェスタは舫を見ていた。結び目の最後を親指で押さえる。爪の周りが塩で白い。ああいう指は、綱の嘘を知っている指だ。


 帆が膨らんだ。


 ホアロハ島の白珊瑚石の桟橋が、後ろへ流れていった。


──────────────────────────────


 俺は山の男だ。


 中央山脈の奥で生まれた。貧しい村だった。朝は煙と霧で始まる。冬は肉より根菜が多い。子供は薪を運び、年寄りは火の番をする。海を初めて見たのは、二十を過ぎてからだ。


 今でも海を見ると、谷の霧を思い出す。色は違う。匂いも違う。谷の霧は土と樹皮の匂いがする。海は塩と腐った藻の匂いがする。


 だが底が見えないという感覚だけは、どこかで重なる。


 山の霧なら、跡は残る。獣道の泥。折れた草。湿った石の上に薄く残る靴底の擦れ。霧がどれだけ濃くても、通った者は土に癖を残す。


 海は違う。


 波が消す。船の跡はすぐ崩れる。匂いは風が持っていく。水面は何も知らない顔で戻る。山の眼で追えるものが、ここでは役に立たない。


 ヴェスタは別だった。


 港役人の言葉。倉庫番が積んだ水樽の数。薬草を買った店。桟橋の端に残った塩の白さ。彼はそういう小さいものを拾って、赤髪の賢者たちの船の行方を読んだ。


 斥候の眼だ。山道の追跡と違う。だが、訓練の根は同じだ。見たものを捨てない。見えないものを急いで決めない。


 俺はそれを横で見ていた。


 俺の村には、霧の中で獣を追う年寄りがいた。名はダルムだった。杖をつきながら、兎の足跡を俺たちに読ませた。足の深さで腹の空き具合まで言い当てた。嘘みたいな話だが、当たった。


 ヴェスタも、あの年寄りと同じ種類の黙り方をする時がある。


 土地が違うだけだ。山は土に書く。海は人と物に書く。


 カイが隣に来た。


「ガイウス」


「ああ」


「シレナ島は、どんなところだと思いますか」


「行ってみないと分からん。だが観光地じゃねえ」


 カイは頷いた。


「私もそう思います。ホアロハ島とは、たぶん全く違う」


「だろうな」


 それで話は切れた。海の上で長い話はしない。風が言葉を削る。削られて困る言葉は、最初から出さない方がいい。


──────────────────────────────


 沖へ出るほど、海の色が重くなった。


 ホアロハ島の周りの海は客のための青だった。白い砂を映し、貝殻の光を散らし、船底まで見せる青だ。沖の海は違う。黒青だ。光を受けても底を見せない。


 観光通りの笛はもう聞こえない。土産物の旗も小さい。白い桟橋も、水平線の明るさに紛れて消えた。


 俺は帆の影に立った。腕は組まない。盾を背負って腕を組むと肩が詰まる。山の戦士は、長く立つ姿勢を先に覚える。剣の振り方より先だ。


 背中の盾が呼吸に合わせて少し動く。船が揺れる。膝が勝手にそれを拾う。慣れない揺れだ。山道の下りとも違う。岩の斜面は動かない。船は足元から嘘をつく。


 山の方がマシだ。


 口には出さなかった。


 レオンは舳先に立っていた。左手はもう柄から離れている。それでも指の硬さは残っていた。肩の位置が少し高い。背中の力が抜けていない。


 兄貴分の眼で見る。若い前衛は、決めた後に固くなる。決める前より危ない時がある。決断で足が速くなる。足が速くなると、後ろが遅れる。


 カイはその少し後ろにいた。白い神官服の裾が風に鳴る。胸元のロザリオに指が触れる。祈っているのか、考えているのか。カイは自分でも分からない顔をする時がある。


 ヴァローは海を見ていた。観察している時のヴァローはまばたきが少ない。観察していない時は、息の吐き方が短い。今日はその中間だった。何かを見ようとして、まだ名をつけていない顔だ。


 ヴェスタは舵手の若い男と話していた。手振りだけで、風の癖を伝えている。声は届かない。笑いだけが一度、帆の下を抜けてきた。


 俺はそれを聞いた。


 この五人は、まだ同じ土地の者ではない。教会の男。塔の男。山の男。海の男。勇者と呼ばれる若い戦士。足元の流儀が違う。


 だが同じ船に乗る時、足は同じ揺れを拾う。


 それだけで足りる時もある。


──────────────────────────────


 赤髪の賢者たちのことを考えた。


 その中に、耳を隠した語り部がいると聞いた。長弓を背負い、楽器を持つ男だという。港役人は声を落として話していた。エルフだ、と言った。長く生きる種族だと。


 俺は吟遊詩人を一度だけ見たことがある。


 中央山脈の麓の交易町だった。秋の祭りの夜だ。俺は荷運びの護衛で町にいた。広場の端に火が焚かれ、旅の男が楽器を抱えて歌っていた。客は十数人。酒の匂い。焼いた肉の脂。濡れた土。


 歌の言葉は半分も覚えていない。だが声の伸び方は覚えている。音が夜の上へ逃げず、火の周りに残った。年寄りが頷き、子供が黙った。戦士たちも酒杯を下ろした。


 あれがエルフだったかは知らない。耳は見なかった。俺はその頃、歌い手の耳を見る習慣を持っていなかった。


 だが長い時間を背負った声だと思った。


 ヴァローが前に言っていた。エルフは百年も二百年も生きる、と。一つの歌を百年運ぶなら、その歌は最初に聞いた者の孫にも届く。人間の戦士が剣を運ぶより、ずっと長い。


 赤髪の賢者のそばにいる男は、何を運んでいるのだろう。


 俺は会ったことがない。名も知らない。けれど少しだけ、会ってみたい気がした。


 村の囲炉裏端で、年長者の話を聞いた夜を思い出す。冬至の火。乾いた薪の弾ける音。子供の眠そうな頭。コルヴがまだ小さく、俺の膝に額をぶつけて眠った夜。


 話は歌ではなかった。だが、あれも運ぶものだった。


──────────────────────────────


 シレナ島が見えたのは、午後の早い頃だった。


 低い島だった。緑が濃い。山ではない。丘だ。海岸線は黒い岩で縁取られ、内側に砂浜と漁村が見えた。観光船のための長い桟橋はない。白珊瑚石もない。木の桟橋が一本、岩礁の隙間から海へ出ているだけだった。


 ヴェスタが舵手に合図した。船は速度を落とした。帆の張りが緩む。船腹が波を押す音が近くなる。


 接岸の前に、島の音が耳に入った。


 笛がない。土産売りの声もない。客を呼ぶ笑いもない。網を直す指の擦れ。木槌で板を打つ音。遠い子供の声。波。波。波。


 人の数は少ない。


 桟橋には漁師の老人が二人いた。網を直していた。俺たちの船を見ると、二人とも顔を上げた。値踏みではない。歓迎でもない。外から来たものを、生活の眼で測る視線だ。


 故郷の村にも、そういう眼があった。誰が来たか。何を持っているか。誰を連れているか。逃げるべきか。迎えるべきか。その判断を、笑顔より前に済ませる。


 レオンが先に降りた。左手は柄に置かれていない。カイが続く。ヴァローは手帳を懐に戻してから降りた。ヴェスタは舵手と二言交わし、最後に軽く桟橋へ跳んだ。


 俺は盾を背負ったまま降りた。板が大きく沈んだ。木の下で水が鳴る。足の裏に、桟橋の古い軋みが返ってきた。


 老人の一人が首を傾けた。


「あんたら、勇者様の一行か」


 レオンが頷いた。


「教会から派遣されました。シレリオ家の方に、お話を伺いたく」


 老人は網の針を止めた。指先が節くれだっていた。海の仕事の手だ。


「シレリオの家は、村の奥だ。今日、夕方、浜で送る。間に合うように行きな」


「送る、というのは」


「父と娘を、海に送る。襲撃で死んだ者を、家族と村が送る日だ」


 レオンの息が浅くなった。カイの口が少し開き、すぐ閉じた。


 俺は何も言わなかった。


──────────────────────────────


 桟橋から村へ続く道は、黒い岩を踏み固めたものだった。


 白珊瑚石の観光道ではない。飾りもない。砂と塩が岩の隙間に入り、靴底に細かく噛む。山里の道なら、土が足を受ける。ここは足を返してくる。


 最初の家で、戸口の傷が見えた。


 蹴破った跡ではない。刃だ。三本。下から上へ斜めに入っている。深さは均一ではない。二本目だけが重い。刃幅は指二本半ほど。中堅どころの戦闘員だろう。力任せの素人ではない。


 戸の内側の壁に、薄茶の染みが残っていた。砂と雨で薄れている。だが形は残る。人が倒れ、血が低い方へ流れた跡だ。


 俺は息を一つ整えた。


 レオンは視線を逸らさなかった。カイは小さく祈りを呟いた。ヴァローは戸口の角度を見た。ヴェスタは何も言わず、腰の曲刀の位置を一度だけ確かめた。


 次の家は屋根が仮止めだった。縄で押さえた棟木。欠けた瓦。落ちた梁。壊れ方に火の匂いはない。力で割られている。屋根を落とす目的ではなく、抵抗を潰す途中で壊したのだろう。


 家の中で女が二人、低い声で話していた。一人は箒を持つ。もう一人は割れた水甕を拾う。俺たちが通ると顔を上げた。


 見た。


 すぐ戻した。


 それでいい。今の村に、外からの客へ笑う余裕はない。咎める力もない。見て、記憶して、手を動かす。それだけで一日が終わる。


 道の中ほどで、男が二人で長椅子を運んでいた。壊れた机も一緒だ。葬儀のためか、修理のためか。判じられない。一人の肩が時々震えた。泣いている。涙ではなく、肩で泣く種類の泣き方だ。


 俺たちは脇へ下がった。


 子供が家の前にいた。


 五つか六つ。母親らしい女の足元で、俺たちを見ていた。泣いていない。声もない。ただ母の手を握る指だけが強い。小さい骨に合わない力だ。


 俺と目が合った。


 俺は軽く頷いた。山里で子供にするのと同じだ。意味は薄い。敵ではないと示す程度の動き。


 子供は、ほんの少しだけ頷き返した。


 母親の手の力が、僅かに緩んだ。


 俺は歩いた。振り返らなかった。


──────────────────────────────


 村の中央に広場があった。


 覆いをかけられた二つの形が、広場の真ん中に並んでいた。白い布。長い形と、小さい形。端は石で押さえられている。風が布をめくることはない。


 傍らに白い貝殻があった。小さな鮫歯の飾りもある。素焼きの壺には海水が入っている。ホアロハ島の土産物とは違う。ここでは売り物ではなく、手の順番を待つものだった。


 カイが立ち止まった。


「神官様、後でよろしいですか」


 低い女の声がした。


 中年の女が、覆いの脇に膝をついていた。目元は乾いていた。泣いた後ではない。泣く暇をまだもらっていない目だ。


 立ち上がる動きが少し重い。腰は曲がっていない。肩だけが、身体の内側へ入っている。家族を失った者の肩だ。戦場で何度も見た。


 シレリオ家の母だ、と分かった。


 レオンが頭を下げた。


「私たちは教会から、ラウリ・シレリオ殿の件で参りました。失礼を、お許しください」


 女は頷いた。


「アリイと申します。あの子の母です。父と妹は、今日、浜に送ります。それまでに、お話を伺えれば。家まで、ご案内します」


 声は崩れない。冷たいわけではない。最後に残った礼節を、両手で持っている声だった。


 俺はその背中を見た。


 故郷の女たちの手を思い出した。襲撃の朝にも、女たちは水を運び、薬草を煎じ、血のついた布を洗った。泣く者はいた。泣かない者もいた。どちらも同じ重さだった。


 口には出さない。


 目の前の女を、自分の記憶で塗るのは違う。


──────────────────────────────


 シレリオ家は広場から少し離れた場所にあった。海へ近い側だ。


 戸口に傷はなかった。壁も壊されていない。だが家の空気は抜けていた。血の匂いではない。誰かが戻ってこない家の匂いだ。炉の灰も、干した草も、同じ場所にあるのに芯だけが欠けている。


「どうぞ、お入りください」


 母アリイが言った。


 奥に白髪の女がいた。髪を後ろで結っている。細いが、背筋は残っている。立ち上がる動きは遅い。だが頭を下げる時、家の主の重みがあった。


「祖母です」


 母が短く言った。


 祖母は喋らなかった。視線だけが俺たちを順に見た。レオンで一度止まる。聖剣ではなく、顔を見る。次にカイ。ヴァロー。ヴェスタ。最後に俺。


 俺は頭を下げた。


 祖母の眼が、俺の左頬の傷を見た。それから眉上の傷を見た。次に、俺の靴の汚れを見た。戦士が戦士を測る眼ではない。土地が人に残すものを測る眼だった。


 母アリイは土間に座った。薬草の束を出す。手を止めずに話すつもりだと分かった。手が止まると、心が追いつく。それを避ける者の動きだ。


 俺の母も、そういう手をしていた。薬草を選り分け、繕い物をし、子供の頭に手を置く。手が動く間だけ、声が崩れない。


 レオンは膝を折った。カイも隣に座る。ヴァローは少し後ろで、手帳を出せる位置に立った。ヴェスタは戸口に寄った。半分外を見る。斥候の立ち位置だ。


 俺は重盾を下ろした。入り口の脇に立てかける。土間が鈍く鳴った。


 母アリイが薬草を皿へ置いた。


「赤髪の賢者にも、これと同じものをお渡ししました」


 最初の言葉だった。


「左の手を、庇っていらっしゃったから」


 レオンの顔が上がった。カイの呼吸が細くなる。ヴァローの手が手帳へ動き、止まる。ヴェスタが戸口から視線を戻した。


 母アリイは続けた。


「黒髪の若い男は、右を浅く使っていました。脇から下、まだ塞がりきっていない傷です」


 医療の眼だ。


 俺はその言葉を戦士の身体で受けた。右を浅く使う。脇から下が塞がっていない。息を深く吸うと痛む。腕を大きく振ると傷が開く。そういう身体で、船を降り、村を歩き、動いたということだ。


 母アリイは見ていた。痛みを隠す人間の足を見分けた。薬草を扱う手は、戦場を知らなくても傷の嘘を知る。


 レオンが声を出した。


「その方々は、あの……」


「赤髪の賢者と、海守りの若い男と、耳を隠した語り部の三人です」


 母アリイの指が薬草を分ける。乾いた葉。細い茎。白い根。手つきが正確だった。


「襲撃の翌々日に、お船で来られました。最初は、ご自分のお仕事のために来た、と言われました。シャーク・コーラーズに、お話を伺いたい、と」


 束が一つ作られる。紐が締まる。


「けれど、村の有り様を見て、お仕事の話を、一度も口にされませんでした」


 カイが頭を下げた。祈りではない。ただ受け取るための動きだった。


 母アリイは別の葉を取った。


「黒髪の若い男は、ご自分の傷を抑えながら、瓦礫の下から、二人の老人を引き出されました」


 そこで一度、指が止まった。


「隣家の戸を肩で押し破って、中の子供を抱いて出されました。桟橋の柱に手を当てて、息を整えていらっしゃいました」


 俺の中で、その男の動きが組み上がる。脇の傷を押さえ、右を浅く使い、瓦礫の重さを肩で受ける。引き出すための身体だ。受け止める盾ではない。動いて、掴んで、戻す。


 戦士として重い動きだ。


「赤髪の方は」


 母アリイは言った。


「赤髪の方は、左の手を庇いながらも、深い傷の村人を見て、すぐに手を当てられました」


 薬草の葉が皿に置かれる。


「この方は急ぐ、この方はまだもつ、と見分けていらっしゃいました。私の知らない葉の使い方も、短く教えてくださいました」


 レオンの左手が聖剣の柄に触れた。それから膝へ戻った。今は抜く場ではない。触れる場でもない。そう身体で覚え直すような動きだった。


「歌の人は」


 母アリイが祖母を見た。祖母は何も言わない。


「歌の人は、歌で、村人の傷を癒してくださいました」


 母アリイの声が少し低くなった。


「緑の光が、傷の縁を覆いました。熱を出した子供のそばで、一晩、歌ってくださいました。どこで歌えば一番届くかを、よく知っている方でした」


 カイはロザリオを握った。祈りの形ではない。こぼれそうなものを留めるための手だった。


 ヴェスタが半歩だけ内へ入った。足音はほとんどない。


 俺の胸の中で、赤髪の賢者たちの形が変わった。


 手がかりを追って来た者が、手がかりを後に回した。賢者会の賢者がそうするものかは知らない。だが戦場で人を担ぐ者の重さは分かる。


 レオンが息を吸った。


「お三方は、今、どちらに」


 母アリイの手が止まった。


 初めて、母アリイはレオンの目を正面から見た。


「ラウリのことを、お話ししたら、すぐに、西へ」


 声がわずかに震えた。


「ラウリの行方を、追ってくださっています」


──────────────────────────────


 祖母が口を開いた。


「あの語り部は」


 低い声だった。歳を取った声ではある。だが枯れてはいない。底に石のようなものがある声だ。


「耳を隠していた」


 祖母の指が膝の上で一度動いた。


「わたくし、と言う男だった」


 レオンが静かに聞いている。カイも目を伏せた。ヴァローの手帳が開く音がした。


「歌を持つ者は、奪う者と聞く者の違いを知っている」


 俺は祖母を見た。


 山の年長者にも、こういう眼をする者がいた。冬至の夜に火の前へ座り、村の祠の始まりを語る者だ。子供が騒げば一度だけ見る。その一度で静まる。


 ただ、祖母の眼は岩ではなく波を見てきた眼だった。動くものを記憶する眼だ。消えるものを、消えたまま覚える眼だ。


 ヴァローが何かを書きとめた。たぶん「わたくし、と言う男」と書いた。塔の男は、そういう言い方を残す。


 祖母はそれ以上言わなかった。


 語らないことで守るものがある。俺にも少し分かる。


──────────────────────────────


 家の奥に、小さな祭壇があった。


 入った時から目の端で見ていた。土間の奥。家の一番深い場所。低い棚。飾りは少ない。木で組まれた素朴なものだ。


 俺の村の家にも、小さな石像を置く棚があった。家の最も奥だ。外から来た者の目に触れにくい場所。年長者が朝に手を当てる場所。冬至の夜には、子供も一人ずつ手を当てる。


 シレリオ家の棚には、何かが置かれていた跡があった。


 埃の薄さで分かる。中央だけ色が違う。手のひらほどのものが、最近までそこにあった。


 母アリイが棚の前へ行った。背中が一度だけ小さく沈む。


「祖伝の聖物が、ここに置かれていました」


 名は言わない。


「父と娘が、ここを守って、死にました」


 声は淡い。だが棚を見る目が一瞬だけ揺れた。すぐ戻った。戻す力が残っていることが、かえって重かった。


 ヴァローが低く言った。


「物と、人を、同時に奪った」


 母アリイは頷いた。


「父と娘は、棚の前で、最後まで立っていました。父は槍を持ちました。娘は祭祀の楽器を持ちました。私と祖母は、奥の小屋へ逃げました。父が、そう命じました」


 俺は棚を見た。


 村の祠の石像を思い出す。十年以上前の朝、外の傭兵団が来た。霧がまだ残っていた。鐘の代わりに鉄鍋が叩かれた。年長者たちは子供を奥へ押し込み、戦士は広場へ走った。


 祠の前で死んだ者がいた。名も顔も、今でも出てくる。俺は若く、盾も今より軽かった。


 目の前の棚に、その朝の火の匂いが重なった。


 俺は言わなかった。


 言えば、この家の棚から何かを奪う。


──────────────────────────────


 レオンが襲撃の経緯を尋ねた。


 母アリイと祖母は、断片を渡すように答えた。


 四日前の夜。深淵の徒の中堅戦闘員が三人。末端が十数人。藍色の刃を持つ者がいた。父カエラニと妹マエアが棚の前で抵抗した。ラウリは家に伝わる槍を持った。複数の男に制圧され、船へ運ばれた。


 襲撃者は肩に倒れた碇の紋章を付けていた。島の古い血を狙ったのだと、村人の一人が後で言ったらしい。シャーク・コーラーズは沈んだ王の家臣の名を、祭りの時だけ口にするという。


 祖母はそこで黙った。母アリイも続けなかった。語る場所ではない、という沈黙だった。


 ヴァローが手帳に書いた。筆先が速い。感情は乗せない。だが筆圧が少し深かった。


 ヴェスタが戸口から言った。


「藍色の刃。アズリウム製じゃねえ。それより、もっと深いところで打たれた金属だ」


 ヴァローが頷く。


「我々が岩石島で見た跡を作った武器と、同じ系譜の可能性があります」


 俺は情報を胸の内で並べる。


 藍色の刃。倒れた碇の紋章。複数の港。物と人。祭壇の棚。拐われた男。西へ逃げた船。


 組織の匂いがする。末端だけではない。中堅を使い、目的を絞り、逃げ道を用意する敵だ。盾だけで止める相手ではない。前で受けても、別の手が裏へ回る。


 レオンの左手が聖剣の柄に触れた。


 今度は握らない。指の腹で確かめるだけだ。すぐ離す。


 それでいい。


──────────────────────────────


 母アリイが薬草の束を二つに分けた。


 一つをレオンの前へ置く。


「これは、皆様にお持ちいただきたいもの。長旅にお使いください」


 レオンは両手で受けた。頭を下げる。言葉は少なかった。


 母アリイはもう一つの包みを手元に残した。指が少し迷う。結び目を撫でる。目が棚の方へ行き、すぐ戻る。


 それから、包みをレオンの前へ置いた。


「これは、もし、追いつかれたら」


 母アリイの目が、レオンの顔を見る。


「赤髪の賢者たちに、追いついたら、お渡しください」


 一拍。


「追いつける保証は、ありません」


 また一拍。


「けれど、追いつけたら、お渡しください。それが、私の願いです」


 レオンは息を止めていた。肩が僅かに下がる。彼は両手で包みを受け取った。聖剣ではなく、薬草の包みを受ける手だ。


 ヴェスタが戸口で肩を一つ揺らした。軽口は出なかった。


 俺は包みを見た。


 薬草の包みは軽い。だが、受け取った者の手を重くするものがある。山の村でも、旅立つ戦士に母たちは干した根を持たせた。食えるもの。塗れるもの。結べるもの。


 死者のためではない。生きて追いつく者のためだ。


──────────────────────────────


 夕方、村人が浜辺へ集まり始めた。


 母アリイと祖母は家の戸を閉めた。戸板に手を置く時間が少し長い。閉めるだけの所作ではなかった。


 広場では白い覆いの二つの形が担がれていた。村の男たちが肩を入れる。足取りは乱れない。だが軽くもない。担架は木の長椅子の脚で組まれている。急ごしらえだが、布の掛け方は丁寧だった。


 死者は軽く見える。生きていた時の重さは、声や体温や癖が持っていたのだろう。布に覆われると、残るのは形だけだ。


 故郷の年長者が言っていた。死んだ後の身体は軽い。だが運ぶ者の肩は、後から重くなる。


 俺たちは列の後ろに付いた。


 レオンが母アリイに頭を下げた。


「参列を、お許しいただけますか」


 母アリイは頷いた。


「あなたたちは、息子のことを追ってくれています。それで充分です」


 浜辺は網干し場の下だった。黒い砂。白い貝殻。濡れた石。西の空は橙に薄く染まっている。波は静かだが、音は低い。


 覆いの二つの形が、浜辺の中央に置かれた。


 村人が円になる。母アリイと祖母が脇に立つ。母アリイは薬草の束を持っていた。祖母は何も持たない。持たない手の方が重いこともある。


 歌が始まった。


 低い繰り返しの歌だった。言葉は分からない。だが声の重なり方は分かる。年長者の声が土台になる。若い者がその上に乗る。子供の細い声が遅れて追う。


 冬至の夜の火を思い出す。


 雪の夜。囲炉裏。小さな石像。年長者の低い声。子供たちの眠い声。母が鍋をかき回す音。外では風が戸を叩いていた。


 ここには灰がない。火もない。あるのは水と塩だ。


 母アリイが薬草を波の縁へ置いた。波が来る。薬草を洗う。戻る。次の波で薬草は浜へ戻る。母アリイは拾い、また置く。


 三度繰り返した。


 四度目の波で、薬草は戻らなかった。


 母アリイは手を止めた。終わりを知っている手だった。


 祖母が貝殻を一つ拾う。小さい方の白い形の傍へ置いた。妹マエアの傍だ。祖母は貝殻を見ていた。何も言わない。


 カイが隣で短い祈りを呟いた。光神オルヴェリスの名が一度だけ出た。村人は唱和しない。当然だ。ここには別の歌がある。


 母アリイがカイを見た。ゆっくり頭を下げる。


「あなたの神が、あなたのために聞くなら、それでよい」


 カイも深く頭を下げた。


 俺はその所作を見た。


 奪わない祈りだった。押し込まない。重ねない。ただ隣に置く。それで足りる時がある。


 レオンは聖剣の柄に手を置いていた。


 抜かなかった。


 指が柄から離れる。ゆっくりだ。決めて離した動きだった。夕日の中で、深紅のサッシュが風に揺れた。勇者の色だ。だが今は、その色も布の影に沈んで見えた。


 レオンは一歩前に出た。母アリイの方へ短く頭を下げた。


「ご家族の方の安らぎを、心からお祈り申し上げます」


 母アリイは、勇者を見る目ではなく、若い男を見る目で頷いた。


 レオンは布の前へ進んだ。両膝を砂につける。聖剣は抜かない。何も置かない。口元が一度だけ動いた。言葉にはならなかった。


 長く頭を下げる。


 その時間だけ、波の音が前に出た。


 俺はレオンの背中を見た。


 光を見せないことを選んだ背中だ。ここで剣の光を出せば、村の歌を割る。慰めのつもりでも、奪うことになる。レオンはそれを身体で分かった。


 少し前のレオンには、まだ難しかった所作だ。


 俺は何も言わなかった。


──────────────────────────────


 俺は浜辺の端に立っていた。


 足元に黒い石があった。丸く、手に収まる。波に削られた石だ。俺はそれを拾った。重さはある。だが山の石の重さではない。海の石は、表面が滑りすぎる。


 弔いの輪の外へ置いた。円の縁から少し離れた砂の上だ。


 置いただけだ。


 祈らなかった。


 山の村では、死者の名を岩に預ける。岩へ手を当て、名を呼び、岩が覚えると信じる。岩は動かない。季節が変わってもそこにいる。だから名を預けられる。


 ここでは波へ返す。


 灰がない。


 故郷なら火を焚く。骨の白さ。薪の匂い。翌朝の灰。年長者が灰を小袋に分け、祠の裏の土へ混ぜる。子供はその時だけ静かになる。


 ここには灰がない。煙もない。名を留める岩もない。


 俺の祈りをここで口にすれば、波の歌に石を投げ込むようなものだ。石は沈む。波は受け取らない。


 だから置いただけだ。


 カイが視野の端で俺を見た。


 何も言わなかった。


 俺も言わなかった。


 それでいい。


──────────────────────────────


 歌が終わった。


 終わった後の沈黙の方が長く感じた。波が寄せる。布が少しだけ動く。子供が鼻をすすった。誰も咎めない。


 母アリイと祖母が、白い覆いの中央に手を置いた。長く押さえる。手を離す時、母アリイの指が布に少し引っかかった。すぐ離した。


 村人が順に進んだ。


 貝殻を置く者。海水を指で落とす者。砂をひと握り置く者。鮫歯の飾りを布の端へ触れさせる者。誰も長く喋らない。所作だけが続く。


 俺たちも列に加わった。


 レオンは何も置かなかった。布の前で両膝をついたまま、もう一度深く頭を下げた。長い時間だった。立ち上がる時、左手は聖剣ではなく膝を押した。


 カイはロザリオを胸元から外した。布の上へ短く触れさせる。また戻す。母アリイがそれを見て、静かに頷いた。


 ヴァローは手帳から白紙を一枚破った。布の脇へ置いた。書かれていない紙だ。塔の男らしい弔いだった。書けなかったものを、そのまま置く。


 ヴェスタは腰の曲刀の鞘紐を一つ解いた。布の脚元へ短く置き、すぐ取った。海の戦闘員の挨拶だろう。戦いはここで終わった、と告げる手つきだった。


 俺は布の前で片膝をついた。


 何も置かない。


 膝を砂へ深く沈める。山の戦士が、村を守って死んだ者の前で取る所作だ。立ち上がる時、砂が膝についた。払わない。


 母アリイが俺を見ていた。


 長く見ていた。


 何も言わなかった。


 俺も言わなかった。


──────────────────────────────


 弔いの輪がほどけた。


 村人たちは少しずつ家へ戻る。足音が小さい。声も低い。浜には波の音が残った。


 俺たちは母アリイと祖母に同行した。シレリオ家へ戻り、そこから港へ向かう。夜になる前に出る予定だった。赤髪の賢者たちも一夜だけ泊まり、夜明け前に出たという。長く留まる島ではない。俺たちにとっても、島にとっても。


 家の前で祖母が止まった。


 祖母は俺の名を知らない。だから俺を見て、こう呼んだ。


「あんた、山の出だね」


「ああ」


「岩を、何度も、見てきた人の眼だ」


 俺は黙っていた。


 祖母の声には、当てたという誇りがなかった。ただ見えたものを言っただけだ。


 コルヴの顔が浮かんだ。俺が村に残してきた弟子だ。十代の後半。肩はまだ細いが、足腰はいい。盾より斧に向いている。毎月の送金の半分は、あいつの飯と装備に回っているはずだ。


 あいつもいつか、岩を見てきた眼になるのだろうか。


 祖母はレオンの方を向いた。


「あんたたちが、追っているのは」


 海へ指を向けた。


 地図の方角ではない。指の角度が違う。風でも潮でもないものを測っている指だった。歌の残り香を追うような指だ。


「歌が、遠ざかった方角」


 それだけだった。


 レオンは頭を下げた。


「ありがとうございます」


 祖母は付け加えない。それで終わりだった。


 ヴァローが低く言った。


「襲撃船が向かった方角と、一致します」


 ヴェスタが頷く。


「西。外洋寄りだな」


 母アリイが家の中から出てきた。小さな布包みを持っている。薬草の二組とは別の包みだ。結び目が丁寧だった。


「これを、もし、追いつかれたら」


 母アリイはレオンへ渡した。


「赤髪の賢者の、左の手に、巻いてください」


 一拍置く。


「赤髪の賢者の、左の手に、巻いてください」


 同じ言葉を、今度は少し強く言った。願いが形を持つように。


 レオンは両手で受け取った。


 母アリイはもう何も言わなかった。


 俺はその包みを見ていた。


──────────────────────────────


 港までの道は黙って歩いた。


 夕暮れの村に灯りが点く。窓の薄い火。炉の赤。修理途中の柱の影。網を巻く手。戸を閉める音。襲撃の後でも夜は来る。飯を作る者がいて、水を汲む者がいて、子供を寝かせる者がいる。


 それが一番重い。


 桟橋に着くと、船は出航の支度を済ませていた。ヴェスタが舵手と話している。声が低い。海の段取りの声だ。


 レオンが乗る前に、ヴェスタを見た。


 ヴェスタはレオンへ言った。


「ここから先は、拐われた男を追う仕事だ。黒煙の賢者を狩る仕事じゃねえ」


 低い声だった。軽口はない。契約の言葉のようで、そうではない。だが契約の言葉と同じだけ、逃げ場がなかった。


 レオンは黙って頷いた。


 顔に葛藤が残っていた。岩石島で見た黒い跡は消えない。あれを見た者なら、警戒を捨てられない。俺も捨てない。だが今日、赤髪の賢者たちは別の形で見えた。


 敵かもしれない者。救助に手を伸ばした者。ラウリを追う者。


 同じ輪郭に収まりきらない。


 カイがレオンの隣で言った。


「私たちは、敵を追っていたのではなかったかもしれない」


 レオンが頷いた。


「うん」


「けれど、行く理由は、変わらない」


「うん」


 ヴェスタはもう何も言わなかった。舵柄へ歩く。足音が桟橋に軽く乗る。


 俺はその三人を見た。


 何も足さなかった。


──────────────────────────────


 俺は最後に船へ乗った。


 桟橋の端で一度だけ、村を見た。


 低い緑。黒い浜。家々の小さな灯り。修理の終わっていない屋根。広場の空いた場所。母の背中。祖母の指。子供が母の手を握る力。男たちの肩の震え。白い覆いの二つの形。


 中央山脈の村とは何もかも違う。


 山の高さと海の広さ。土の重さと波の動き。火の灰と塩の水。石像の祠と家の奥の棚。冬至の声と浜辺の歌。


 同じ言葉では語れない。


 それでも、外から来た力に家の奥まで踏み込まれた顔は、俺の記憶を叩いた。


 十年以上前の朝。霧が濃かった。外の傭兵団が来た。俺はまだ今の盾を持っていなかった。村の戦士たちは広場へ走った。年長者たちは祠の前に立った。誰が誰を逃がしたか。誰が戸を閉めたか。誰が子供を背負ったか。


 覚えている。


 コルヴはまだ生まれていなかった。母は血のついた布を洗っていた。俺はその横で、折れた槍の柄を握っていた。


 口には出さない。


 シレナ島はシレナ島だ。俺の村ではない。


 船首は西を向いた。


 帆が膨らむ。


 シレナ島の桟橋が後ろへ流れた。窓の薄い火が遠くなった。やがて、夜の中へ沈んだ。


──────────────────────────────


 船上で、ヴァローが手帳を開いた。


「整理しましょう」


 俺たちは舵柄の近くに集まった。日は沈んだ。空は藍色だ。船首は西。風は横から来ている。ヴェスタが時々帆を見る。


 ヴァローはページをめくった。


「西の方角。赤髪の賢者たちが向かった方角と、襲撃船が向かった方角と、祖母が指した『歌が遠ざかった方角』が、一致していた」


 レオンが頷く。


 ヴァローは続けた。


「ラウリ・シレリオ氏は、四日前の夜、深淵の徒の中堅戦闘員三人と末端十数人によって拐われた。父カエラニ氏と妹マエア氏は、家の奥の祭壇の棚を守って、討たれた。棚に置かれていた祖伝の聖物も、持ち去られた」


 レオンの目が少し沈む。


「物と人を、同時に奪った」


「はい。つまり、ラウリ氏自身が、祖伝の聖物と何らかの形で繋がっている。家系の血筋、または継承者としての役目」


 ヴァローの声は冷えている。だが冷たいだけではない。整理しなければ潰れるものを、整理している声だ。


 ヴェスタが言った。


「西の方角だ。船の方向、武器の系譜、それが揃っている」


 曲刀の柄に親指が触れる。


「岩石島と繋がる線が、まだ見えるとは言わねえが、向きは外れちゃいねえ」


 ヴァローが頷く。


「そうですね」


「で、その方角に、赤髪の賢者たちも、向かった」


 ヴェスタはレオンを見た。


「彼らは、ラウリ氏を救う目的で。俺たちは、ラウリ氏を救う目的で。同じ目的の者が、同じ方角へ進んでいる」


 カイが低く言った。


「だから、追いついても、戦わずに済むかもしれない」


「向こうがどう受け取るかは、まだ分かりません」


 ヴァローがすぐ付け加えた。


「岩石島で見たあの規模の力を、向こうは抱えている。敵対した時の脅威としては、依然として最大級です」


 レオンは頷いた。


「分かっている。けれど、追う理由が、敵を追う理由だけではなくなった」


 俺は黙って聞いた。


 その言葉は、船板へ落ちるように胸へ入った。派手な決意ではない。だが足場になる言葉だ。


 レオンの指は聖剣の柄に触れていなかった。深紅のサッシュだけが夜風に揺れている。朝の白い指とは違う。


 二十を少し過ぎた若い戦士が、一日のうちにいくつか覚えた。抜かないこと。頭を下げること。追う理由が変わることを受け入れること。


 俺はそれを口にしなかった。


 口にすれば軽くなることもある。


──────────────────────────────


 夜の海を、船は西へ進んだ。


 俺は舳先の縁に立っていた。足元で船板が小さく鳴る。背中の盾は壁のように重い。船酔いは少しある。腹の奥が遅れて揺れる。だが吐くほどではない。


 ヴァローの懐には、母アリイから渡された包みが三つ入っている。一つは俺たちのため。一つは赤髪の賢者たちのため。一つは赤髪の賢者の左の手のため。


 追いつける保証はない。


 母アリイはそう言った。保証はない。だが渡してほしいと願った。保証のない願いほど、受け取った手を重くする。


 俺は追いついた時のことを考えた。


 赤髪の賢者。傷を負った海守りの若い男。耳を隠した語り部。三人は西の海のどこかでラウリを追っている。俺たち五人が追いついた時、剣はすぐには収まらないだろう。


 俺ならそうする。


 向こうも、こちらを測る。レオンの聖剣を見る。カイの白を見る。ヴァローの塔の目を見る。俺の盾を見る。ヴェスタの曲刀を見る。


 問答が要る。互いの足の置き方を見て、手の位置を見て、呼吸の速さを見る。抜きかけて、抜かない時間が続く。


 その時、薬草の包みが役に立つかもしれない。


 母アリイの結び目。薬草の匂い。包帯。塗り薬。言葉よりも先に届くものがある。


 俺はそう願った。


 願うという言葉は、俺の口にはあまり馴染まない。だが他に言い方がなかった。


──────────────────────────────


 耳を隠した語り部のことを、もう一度考えた。


 歌を持つ者は、奪う者と聞く者の違いを知っている。


 祖母はそう言った。


 俺は戦士だ。歌は持たない。楽器も持たない。持っているのは盾と剣だ。背中の鉄。腰の刃。毛皮のマント。村から持ってきた刺繍。


 だが聞くことなら、少しは知っている。


 山の村では、年長者の話を聞くのも子供の役目だった。祠の起こり。冬至の祈祷。山頭へ一礼してから狩りに出る理由。川の増水で死んだ猟師の話。外の傭兵団が来た朝の話。誰が誰を守り、誰が誰の飯を分けたか。


 短い話。長い話。何度も聞く話。一度しか聞かない話。


 聞いて、覚える。


 覚えて、コルヴに言う。コルヴは眉をしかめて聞く。途中で飽きる。だが大事なところは覚える。あいつはそういう顔をする。


 俺は村を出た。送金だけでは、村を守ったことにはならない。分かっている。だが今の俺にできるのは、金を送り、話を運び、盾を前に出すことだ。


 赤髪の賢者のそばにいる語り部も、何かを運んでいるのだろう。奪うためではなく、聞くために。


 会った時、何を話すかは分からない。


 たぶん、最初は黙る。


 それでいい。


 夜の海が、俺の足元で、低い音を立てていた。


 船は、西へ進んでいた。

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