見つめることのできない
夜明け前の海には、夜の重さがまだ底の方に残っていた。
シレナ島の桟橋を離れてから、半刻ほどが過ぎていた。船は西の沖合へ向かい、まだ暗い水面を斜めに裂いて進んでいる。東の空に薄い橙が差し、その上には消え残った星がいくつか冷たく瞬いていた。
風は西へ抜けていた。
母アリイ殿が、歌が遠ざかった方角と告げた方角だった。
俺は舳先に立っていた。白い旅装の裾が風に煽られる。深紅のサッシュが腰の横で固く張る。潮の粒が頬に当たり、すぐに乾いて塩のざらつきだけを残した。
右手は聖剣の柄にあった。
握っている。
そう気づいた時には、指の節が白くなっていた。手の甲の筋が浮いている。抜くつもりはなかった。今すぐ何かを斬るつもりもなかった。それなのに、俺の手は聖剣を握り込んでいた。
柄革は夜の湿りを吸って冷たかった。掌にじわりと沈む冷え。その奥に金属の硬さがある。俺はその硬さを掴んでいれば、自分の中の揺れも止まるような気がしていた。
止まらない。
海は黒く、風は冷たく、船は西へ進んでいた。
「兄ちゃん、舳先は風が食いつくぜ」
甲板の方からヴェスタの声が飛んだ。
振り返ると、青と黄色のバンダナが朝の薄闇に揺れていた。ヴェスタは片手を腰に置き、もう片方の手で風の向きを確かめている。軽口の形をしていたが、目は海を見ていた。
「平気だ」
「気合いで風に勝とうって顔してる」
「そんな顔か」
「勇者様の顔はだいたいそうだ」
ヴェスタは笑った。半分は茶化しで、半分は本気だった。ヴェラーナ港の冒険者組合で雇った夜から、俺はその混ざり方を少しずつ覚えてきた。
「落ちるなよ、兄ちゃん」
「落ちない」
「ならいい」
ヴェスタはそれだけ言って、艫の方へ戻っていった。歩きながらもう海面を見ている。斥候の眼だ。軽口は置いていく。眼だけが先に仕事へ戻る。
俺はまた西を見た。
母アリイ殿は出航の前、カイに薬草の包みを託した。二組の薬草と、一つの塗り薬。一組はこちらの傷に。もう一組と塗り薬は、赤髪の賢者たちに。追いついたら渡してほしい。塗り薬は赤髪の賢者の左の手に。
あの手のことを、俺はまだ見ていない。
だが母アリイ殿の声は残っていた。痛みを見た者の声だった。嘘や噂ではなく、傷に触れた者の声だった。
カイは艫の近くに座っていた。懐には薬草の包みがある。小さく祈る声が風の隙間から流れてくる。光神オルヴェリスへの祈り。その奥に、島の歌の節が薄く混じっているように感じた。
俺たちは誰の傷を運んでいるのか。
俺たちは誰を追っているのか。
追いついた時、俺は何をするのか。
右手がまた強くなった。柄革が掌に食い込む。指の節が白い。俺はそれを見て、力を抜こうとした。
うまく抜けなかった。
──────────────────────────────
ヴァローが甲板を歩いてきた。足音は小さい。船が揺れても、灰色のローブの裾は無駄に乱れない。海の上に慣れているわけではないはずなのに、無様に揺れを受けないのがヴァローらしかった。
「兄上殿」
「ヴァロー」
「夜明けから半刻。シレナ島から西へ流されずに進めています。風はやや西寄りですが、今のところ致命的ではありません」
ヴァローは手帳を開いていた。薄い革綴じの手帳だ。星の頁、潮の頁、風の頁。小さな文字と線が並んでいる。ホアロハ島で聞いた噂も、シレナ島の祖母殿の証言も、その紙の中で一度冷やされているのだろう。
「夕方までに着くか」
「上陸候補地までは届くでしょう。もっとも、上陸候補地と呼んでよいかはまだ疑問です」
「どういう意味だ」
「シレナ島の祖母殿が指された方角を海図に落としました。西の外洋寄りに、岩礁の連なりがあります。漁師の避難港として使えなくもない窪地がある。近年の使用記録は薄いと港役人は言いました」
「記録は薄い」
「ええ。記録が薄い場所ほど、別の用途には向きます」
ヴァローの声は平らだった。皮肉は混じっていたが、いつものように刺すための皮肉ではなかった。事実の輪郭を固くするための棘だった。
「赤髪の賢者たちの船も、そちらへ向かったとヴェスタは見ています」
「ヴェスタは何を見た」
「潮の乱れです。夜明け前から艫で見ています。彼の表現を借りれば、半日前にそれなりの大きさの船がこの海域を抜けた」
「半日前」
「彼の感覚での半日前です。私は断定しません」
「ヴァローらしい」
「断定した方が勇者殿のお好みですか」
「いや」
俺は西の海を見た。明るくなり始めた水面は、俺にはただの水面だった。半日前に船が抜けた痕跡など見えない。泡も、潮も、風も、俺にはすぐ消えるものに見える。
だがヴェスタには残っている。
ヴァローには記録される。
カイには祈りとして沈む。
ガイウスには戦場の形として立つ。
俺は何を見ている。
右手はまだ聖剣の柄にあった。握り込んでいた。指を開こうとしたが、掌の中心だけが遅れた。
ヴァローの目が、俺の手を一瞬だけ見た。
何も言わなかった。
そういう沈黙の方が、言葉より残る時がある。
──────────────────────────────
カイは薬草の包みを膝に置き、結び目を確かめていた。紐の結びが緩んでいないか、布が湿りを吸いすぎていないか。指先が丁寧に動く。
俺は艫へ歩いて、カイの隣に腰を下ろした。甲板の板は夜の湿りを残していて、膝を置くと冷たさが旅装越しに上がってきた。
カイは祈りを止めた。
「レオン」
「カイ」
「顔色が良くありません」
「眠っていないだけだ」
「それを、顔色が良くないと言います」
カイは柔らかく笑った。孤児院の朝の食堂で、俺が徹夜を隠そうとした時と同じ笑い方だった。俺は息を吐いた。胸の奥に固まったものが少しだけ動いた。
「薬草は無事か」
「はい。母アリイ殿の包みは湿らせないようにしております」
カイは布の上から掌を置いた。
「一組は私たちのため。もう一組と塗り薬は、赤髪の賢者たちのためです」
「重いか」
「重さはありません」
そこでカイは一度言葉を切った。目を薬草の包みに落とす。
「ただ、軽くはありません」
俺はその言い方を聞いて、カイの膝の上の包みを見た。乾いた薬草の匂いが、潮の中にわずかに混じっている。島の土と風を含んだ匂いだった。
「教会の聖具とは違います。聖油でも、聖水でも、典礼で定められた道具でもありません。母アリイ殿の手で乾かされ、混ぜられ、託されたものです」
「誰のために」
俺が問うと、カイは小さく頷いた。
「はい。そこが、まだ私の中で定まりません」
カイは薬草を運ぶ神官の顔をしていた。だが同時に、誰かの願いを預かった一人の人間の顔をしていた。教会の祈りだけでは受け止めきれないものを、胸に抱えている顔だった。
俺は手を伸ばし、布の上から薬草の包みに触れた。乾いた葉が中でわずかに鳴る。軽い。だが胸に置くと沈む重さだ。
「カイだけに持たせるものじゃないな」
声に出すつもりはなかった。だが出た。
カイは俺を見た。
「レオンも持っています」
「俺が?」
「聖剣だけではなく」
それ以上は言わなかった。
俺は手を引いた。聖剣の柄に戻りそうになった右手を、膝の上で止めた。それでも指は柄の形を覚えていて、何もない空気を握りそうになった。
「レオン」
「ああ」
「聖剣は、何か答えていますか」
カイの声は静かだった。責めるものではない。祈りの中で、火が消えていないか確かめるような声だった。
「答えていない」
「そうですか」
「答えを聞く耳が、俺にあるかも分からない」
カイはしばらく黙った。
「分からない時に、分からないと言えるのは大切です」
「勇者が言うことか」
「レオンが言うことです」
カイはそう言って、また薬草の包みに手を戻した。
俺は西の海へ顔を向けた。右手は膝の上に置いたままだった。だが指の奥には、まだ柄革の冷たさが残っていた。
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「兄貴、見えるか」
艫からヴェスタの声が飛んだ。
軽口ではなかった。低く、細い。風に乗せるための声ではなく、仲間だけに届けばいい声だった。
ガイウスが先に反応した。背中の重盾に触れる。ヴァローが手帳を閉じる。カイが薬草の包みを懐に収め、祈りを止めた。
俺も立ち上がった。
ヴェスタは右舷側の手すりに片手を置いていた。指しているのは水平線ではない。海面の低い位置だ。岩礁の連なりが朝の光の中で黒く盛り上がっている。その一部に、波の返り方が違う場所があった。
「煙じゃねえ」
ヴェスタが言った。
「なら何だ」
「出入りの跡だ。あの岩の奥、洞口がある。波が入って返ってくる音が違う」
「俺には見えない」
「見えるもんじゃねえ。まずズレるんだよ」
ヴェスタは指先を少しだけ動かした。
「あそこだけ白波の割れが遅い。外から当たる波と、中から戻る波がぶつかってる。洞口がなきゃ、あの返りは出ねえ」
俺は目を凝らした。波が砕ける。白が散る。岩に当たり、戻る。そこまでは分かる。だがヴェスタの言うズレは、言われてやっと輪郭を持った。見えないものを見ているのではない。見えるものの間の違いを拾っている。
「拠点か」
「断言はしねえ。けど人が使った場所だ。最近の匂いがする」
「匂いまで分かるのか」
「潮の匂いの中に、油が少し混じる時がある。気のせいかもしれねえがな」
ヴェスタは舵手へ振り返り、短く指示を出した。船は岩礁の手前で速度を落とした。帆の角度が変わる。縄が鳴る。船体がゆっくりと横を向き、洞口のある方へ近づいていく。
ガイウスは重盾を下ろした。革紐を結び直す。ヴァローは手帳を懐へ入れる。カイは懐の薬草を一度胸に押し当て、それから立ち上がる。
俺は聖剣の柄に手を伸ばした。
握り込む。
また指の節が白い。
だが、今度は少し違った。抜くためではない。自分の揺れを隠すためでもない。ただ、今から見るものを受け止める前に、自分の手の位置を確かめたかった。
「上陸する」
声は低く出た。
四人が頷いた。ヴェスタはもう浅瀬の深さを読んでいる。ガイウスの肩が少し落ち、戦場へ入る時の重さになった。
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岩礁の奥に、洞口が開いていた。
満潮線の白い塩の筋が、岩肌に横一文字に残っている。砕けた貝殻が岩に貼りつき、乾いた白い斑点になっていた。ところどころ鋭く、触れれば手を切りそうな殻だ。
洞口は低い。人が一人、身をかがめて入れるほど。波が満ちれば、中まで海水が入る形だった。
近づくと匂いが変わった。外の風が運ぶ潮の匂いではない。岩の中で濃くなり、逃げ場を失った匂いだ。濡れた石。腐りかけた海藻。古い血。そのどれもがまだ名を持たず、喉の奥へ先に届いた。
ガイウスが洞口の前で身を沈めた。塊のような身体が岩陰に収まる。
「狭えな」
ヴァローが後ろから見た。
「通れますか」
「盾を外せばな」
ガイウスは重盾を背から外し、縦にして前へ持った。肩をすぼめる。大きな身体が岩の暗がりに入ると、洞口がさらに狭く見えた。
波が足元まで滑り込んだ。冷たい水が旅靴の底を濡らす。引いていく時、細かな砂と貝殻が擦れてざりざりと鳴った。
「奥から息が返る」
ガイウスが言った。
「息?」
「冷えた息だ。奥が広い」
俺は洞口に立った。確かに、奥から冷たい風が返ってくる。海風とは違う。海風は頬を打つ。これは喉の内側へ入り込み、胸の底を少し冷やす風だった。
ガイウスが先頭。次にヴァロー。俺。カイ。最後尾にヴェスタ。
「俺、外で潮を見てる方が役に立つぜ」
ヴェスタが一度だけ言った。
ガイウスは振り返らずに答えた。
「斥候は最後尾だ」
「はいよ、兄貴」
それで決まった。
洞口を抜けると、奥は思ったより広かった。
岩盤の天井が頭上で藍色に沈んでいた。低い場所は黒く湿り、上の方は塩で白く乾いている。壁には小さな貝殻が入り込んでいて、灯りを向けると鈍く光った。
水滴の音がした。
一定ではなかった。波が洞口から入り、また引く。その間隔に合わせて、水滴の落ちる速さが変わる。ぽつ、ぽつ、ぽつ。波が強く入ると少し早くなる。岩そのものが呼吸しているようだった。
匂いは三層になっていた。
最初に潮と海藻の腐りかけた匂い。足元の岩の窪みに、引いた海水が残っている。その中で藻が黒く柔らかくなっていた。
次に血の鉄臭さ。奥から来る。乾いた血は生の血より重い。鼻ではなく舌の奥で分かる。
最後に油と煤と鉱石粉の匂い。火を使った後の匂いに、石を砕いた粉のざらつきが混じっていた。息を吸うと喉に引っかかる。
「儀式の痕跡でしょうね」
ヴァローが小さく言った。
俺は聖剣の柄に手を置いた。
握ってはいなかった。
触れているだけだった。
洞窟の冷えが指の先から上がってくる。柄革の冷たさと岩の冷たさが繋がる。聖剣に触れているのか、洞窟の冷えに触れているのか分からなくなる。
抜く準備ではなかった。
確かめる所作だった。
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奥に進むと、戦闘の痕跡があった。
岩盤の床に乾いた血が広がっている。薄く引きずられた跡、飛び散った跡、そこで倒れた者の重さが残した濃い染み。壁には血の飛沫が細かく散り、床と壁の角に矢が一本刺さっていた。矢の先は岩の奥まで食い込んでいる。
死体はない。
それがまず、洞窟の冷えよりもはっきりと分かった。
「運び出してるな」
ヴェスタが後ろで言った。
「外の浜辺に岩を組んだ跡があった。岸から少し離してる。見せねえためだろ」
「誰に」
「囚われてた連中だ。死体の横を歩かせねえで済む位置に置いたんだと思うぜ」
俺は床の血を見た。乾き方は一様ではない。濃い場所は黒く、薄い場所は茶に近い。今朝のものではない。一日か二日、もっとか。
「強いのが一人」
ガイウスが低く言った。
「他に七か八。下働きか見張りだな。こいつらをここで止めて、奥へ抜けられねえようにした」
ガイウスは膝をついた。分厚い指が床の血の縁を示す。
「前衛が二つ。ここで受けた。後ろから矢。逃げる先を塞いでる。声は少ねえはずだ。無駄に広がってねえ」
ガイウスの眼は戦場を読んでいた。俺には血の跡にしか見えないものが、ガイウスには人の動きになっている。踏み込み、受け、引き、押し返す。その順番まで見えているようだった。
ヴァローは壁と床を見ていた。
「あの黒い跡はありません」
その言葉に、俺の胸が一拍重くなった。
「ここには、岩石島で見たような地形の崩れはありません。酸で焼けた跡もない。熱で岩が変質した跡もない。骨だけが残るような死体の痕跡も確認できません」
「断定するのか」
「観察できる範囲では、断定できます。観察できない範囲については保留します」
ヴァローの言い方はいつも通りだった。
だが俺の中で、いつも通りに受け取れないものがあった。岩石島のあの黒い跡を思い出す。海の風があっても消えなかった匂い。地形そのものが死んでいるような感覚。
ここには、それがない。
同じ赤髪の賢者がここに来たと、母アリイ殿の証言は示している。だがここには、あの地獄の跡がない。
俺の聖剣の柄の下に、薄い温みが立った。
日なたの石に触れた時のような温みだった。洞窟の冷えの中で、それはほんの一息だけ掌を緩めた。すぐに消える。錯覚かもしれない。自分の血が戻っただけかもしれない。
俺は聖剣から手を離した。
何も言わずに、ヴァローを見た。
ヴァローは矢の刺さった位置を測っていた。こちらは見ていない。だから俺も、何も言わなかった。
あの岩礁では冷たかった。
ここでは、違った。
その違いを言葉にするには、まだ早すぎた。
──────────────────────────────
囚われ人がいた場所は、さらに奥の小部屋だった。
岩盤の壁に鉄環が打ち込まれている。そこから鎖が伸び、手首と足首を留める枷が床に落ちていた。枷は開いているのではない。壊されている。
だが乱暴ではなかった。
ヴェスタが膝をつき、枷の鍵の壊れ口を指で撫でた。
「うまいな」
「何がだ」
「壊し方だ。鎖を切ってねえ。岩ごと砕いてもねえ。鍵の腹だけ潰してる。囚われてる奴の手首を傷つけにくいやり方だ」
ガイウスが枷を見下ろした。
「鍵屋か」
「鍵屋なら開ける。これは壊してる。けど急所を分かってる壊し方だ。鍵を何度も見た奴の手だな」
ヴェスタはそう言って立ち上がった。口調は軽いが、目は細い。過去に似たものを見たことがある眼だった。
床には布が敷かれていた跡があった。布そのものはない。だが乾いた血の上に一度布が置かれ、剥がされた境目が残っていた。染みの縁が四角く切れている。
カイが屈んだ。
「薬草の屑が残っています」
指先で小さな葉片を拾う。乾いた薄緑の欠片。カイは匂いを確かめた。
「母アリイ殿の処方に近い」
「同じか」
「同じ系統です。配合まではここでは判じられません。けれど近い。シレナ島で私たちが受け取ったものと、同じ土地の薬草です」
カイは葉片を床へ戻した。
それから両手を合わせた。
光神オルヴェリスの祈りではなかった。唇の動きは祈りだが、節が違う。シレナ島で祖母殿が歌った祈祷の節を、カイなりに受け止めて添えているのだと分かった。
神官としての祈りではない。誰かの祈りの前で、靴を脱いで立つような所作だった。
俺はカイの背中を見ていた。
細い背中だった。戦士の背中ではない。だがその背中は、俺よりも多くの痛みの前に膝をついてきた背中だった。
俺はまた聖剣の柄に触れそうになった。
やめた。
──────────────────────────────
岩盤の奥に、壁画があった。
灯りを向けた時、まず古い線が浮いた。岩を削った線だ。長い時間の中で摩耗し、丸くなっている。手で何度も触れられたところは艶を帯び、塩をかぶったところは白く曇っていた。
海の絵だった。
幾重にも重なる波。その波の中を大きな鯨が泳いでいる。鯨の背には小さな人影が立っていた。周囲には鮫が群れ、鯨を守るように回っている。波、鯨、鮫、鯨の背の人影。
古いのに、消えていない。
ヴァローが息を呑んだ。
「これは……」
「ヴァロー」
「シレナ島の祖母殿が話しておられた口伝の図像と一致します。鯨の背の人影は、おそらく沈んだ王を示すもの。周囲の鮫は王に仕えた者たち。シャーク・コーラーズの祭祀官の祖を表している可能性があります」
「カモアラニ王国の絵か」
「その時代の祭祀図像かもしれません。断定はしません。月読みの塔の図録で似た系譜を二度見ています。ここにある絵は、その記憶と近い」
ヴァローは言葉を慎重に置いた。
俺は壁画の前に立った。古い線の上に、新しい線が描かれていた。
藍色の鉱石粉を油で練ったような線だった。まだ艶が残っている。煤の匂いが強い。古い波の上に、新しい円が描かれている。その円の中に幾何の線。碇の意匠を倒したような形。刃のような図。召喚陣に似たもの。
新しい線は、古い絵を尊重していなかった。
鯨の背の人影の上を、横切っている。波の流れを無視している。鮫の群れを踏みつけるように、別の意味が重ねられている。
踏みにじっている。
そう思った。
何を、なぜ、誰が。俺には分からない。だが胸の奥が先に拒んだ。古いものを上から塗りつぶす手つきが、目ではなく身体に届いた。
ヴァローは手帳を開いた。古い線と新しい線を分けて写し始める。
「古い図像は、観察できる範囲だけ写します。欠けた線は補いません。新しい線は形だけ記録します。意味は推定しない」
「意味が読めないからか」
「読めないものを読んだふりはできません」
ヴァローはそう言った。
ガイウスは壁画へ背を向け、入口側に立っていた。重盾の角度が後衛を守る形になっている。何も言わない。だがそこにいるだけで、洞窟の広さが少し狭くなる。守られているというより、逃げ道を確保されている感覚だった。
カイは壁画の前で膝をついた。
光神オルヴェリスの祈りではない。海の絵に向けた頭の垂れ方だった。カイは自分の信仰を捨てていない。だが他者の祈りの前で、静かに膝をつくことができる。
俺はその姿を見て、聖剣に触れずにいた。
──────────────────────────────
壁画の右下に、跡があった。
床に近い位置。砂と埃が薄く積もった場所に、膝をついた跡が残っている。片膝ではない。両膝だった。深く、長い。そこにしばらくいた者の重さがある。
膝の跡の前、壁画の一筋だけ埃が落ちていた。
指で触れた跡だ。
古い波の線を、指の腹でなぞっている。少し進み、曲がり、そこで止まっていた。
「止まっている」
俺は声にした。
自分の声が洞窟に短く返る。水滴の音に混ざって消えた。
「ヴァロー」
「拝見します」
ヴァローが隣に膝をついた。手帳を閉じ、まず目で見た。指を近づけるが、触れない。
「指の跡が途中で途切れています。力の向きもそこで変わっていない。意図して止めたように見えます」
「意図して」
「ためらった痕跡、と読むことはできます。もちろん、断定はしません」
「気づいたのではなく」
「気づいて、そこでためらった。そう読める余地はあります」
ヴァローはまだ書かなかった。書く前に、見る時間を置いている。
俺は指の跡の終わりを追った。
その近くに、もう一つの跡があった。
左手の掌の跡だった。
砂と埃の上に軽く置かれている。指の跡は薄い。力を入れて支えた跡ではない。掌の重さすら、全部は預けていないように見えた。
だが砂の散り方が不自然だった。
掌を置いたのに、指先の砂がほとんど押されていない。手首の方だけがわずかに沈み、指の付け根は浮いていたように見える。
「これは」
「左手を、庇った跡と読むこともできます」
ヴァローが言った。
「庇った」
「強く地につけたくない理由があったのでしょう。手のひらを置いてはいる。けれど重さはかけていない。指にも力が入っていない」
俺は左手の跡を見た。
意味は読めない。
だが意味がないとは思えなかった。
誰かがここで膝をついた。古い波の線をなぞった。途中で止めた。左手を庇いながら、手を置いた。
それだけのことが、洞窟の冷えの中で妙に重かった。
カイが俺の隣に来て、膝の跡の傍に座った。短く祈る。誰のためかは分からない。赤髪の賢者のためか、ここにあった古い絵のためか、囚われていた者のためか。あるいはそのすべてのためか。
ガイウスが入口側を見たまま言った。
「俺たちには読めない言葉だな」
「ああ」
俺は頷いた。
読めない。
見えているのに、見つめきれない。
その感覚が、岩の冷えよりも長く胸に残った。
──────────────────────────────
洞口を出る時、白い旅装の右腰に煤がついていることに気づいた。
岩に擦れたのだろう。深紅のサッシュにも黒い粉が入り込んでいた。払えば落ちる。指で払えば、少なくとも目立たなくはなる。
俺は払わなかった。
理由は言葉にならない。汚れを残したかったわけではない。だが今、この煤だけをきれいに落とすことが、何かを軽く扱うように思えた。
ヴェスタが俺の腰を見た。何か言いかけた。唇が動き、やめた。
「兄ちゃん、外の潮見てくる」
それだけ言って、岩礁の方へ歩いていく。
俺はもう一度、洞窟の中へ戻った。奥までは行かない。壁画の見える位置までだ。
膝の跡。
指でなぞった跡。
途切れた線。
左手を庇った掌。
何が見えていたのか。
赤髪の賢者はここで何に気づき、何をためらったのか。俺の眼では読めない。ヴァローの眼でも読み切れない。カイは祈ることはできる。ガイウスは読めないと言える。ヴェスタは跡を拾うことができる。
俺は。
俺は何を見ている。
聖剣の柄に手を置いた。
熱はなかった。
冷たさだけがある。だが握り込む必要はなかった。指は自然に開いていた。柄に触れているだけで、抜く準備も、縋る所作もなかった。
洞窟の奥の水滴が、波の間隔に合わせて落ち続けている。
俺は手を離し、外へ出た。
──────────────────────────────
岸から少し離れた場所に、小屋があった。
岩礁の連なりを抜けた先、砂浜の縁の枯れ草の上に建っている。屋根は乾いた葦を編んだもの。壁は流木と粗い布を組み合わせていた。煙突から細い煙が上がっている。人がいる。
小屋の前には小型の漕ぎ舟が引き上げられていた。縁に墨で紋章が描かれている。鮫の背が波の上に立つ印。シャーク・コーラーズのものだった。
俺は入口の前で立ち止まり、声をかけた。
「ご免」
布の奥で足音がした。年配の男が出てくる。日に焼けた肌に深い皺。肩と腕は細くなっているが、海で長く働いてきた身体の芯が残っていた。腰にはシャーク・コーラーズの帯紐を結んでいる。
男は俺たちを見た。教会の紋章、聖剣、カイの神官服、ガイウスの重盾、ヴァローのローブ、ヴェスタの海事装備。その順に見た。
「あなた方は」
警戒の声だった。
俺は頭を下げた。
「申し遅れました。聖オルヴェリス教会から派遣された、勇者一行と申します。私はレオン・ソル。後ろの四人と共に、ラウリ・シレリオ殿の救援に向かっております」
男の表情が止まった。
ラウリ殿の名が、扉を叩いたのだと分かった。
「ラウリ殿の名を、ご存知でしたか」
「シレナ島の母アリイ殿、祖母殿からご事情を伺いました」
男は深く頭を下げた。
「左様でございましたか」
風が枯れ草を鳴らす。小屋の中から、薬草を煮たような匂いがした。
「マラエが、中におります。お話できる状態でございます。お入りください」
俺は男の名を問うた。
男はもう一度、姿勢を整えた。
「フィノ・カナイと申します。マラエの伯父にあたる者でございます」
マラエの世話のために、ティカエ島のカナイ家の別の枝から来たのだと話した。言葉は丁寧だが、目の奥には眠っていない者の赤さがあった。
俺はもう一度頭を下げ、小屋の中へ入った。
──────────────────────────────
小屋の中は薄暗かった。
天窓から差す光が、葦の敷物の上に細く落ちている。煙の匂い。薬草の匂い。海風に乾かされた布の匂い。奥の寝床に、若い男が横になっていた。
俺たちが入ると、若い男はすぐには起き上がらなかった。
まず、喉を整えた。
小さく息を吸い、吐く。それから喉の奥を軽く鳴らす。咳払いではない。声を出す前に、場へ向かうための所作だった。
それから片手で布団の縁を押さえ、ゆっくりと身体を起こした。痛みを隠す動きではない。痛みの位置を知った上で、そこを乱さない動きだった。
寝床の縁に座る。
両手を膝の上に揃える。
頭を軽く下げる。
「あなた方は……教会の方々ですか」
声は細かった。だが整っていた。祭祀の場で人に向かう声だった。
俺も頭を下げる。
「私たちは、ラウリ・シレリオ殿の救援に向かっております。私は、レオン・ソルと申します。後ろの四人と共に」
男の顔がわずかに緩んだ。
「ラウリ殿の名を、聞かせていただいて嬉しい」
それから男は、俺を見た。
正確には、すぐ俺の目を見たのではなかった。
まずカイの胸元の聖オルヴェリスの紋章を見た。次に俺の腰の聖剣。続いてカイの懐の膨らみ、薬草の包みがある位置。最後に俺の目を見た。
測っていた。
信じたのではない。話してよい相手かどうか、距離を測ったのだ。
男は息を吸い、もう一度喉を整えた。それから自分の名より先に家名を置いた。
「ティカエ島の、カナイ家、若手祭祀補佐の、マラエと申します」
その名乗りを聞いた時、小屋の薄暗がりが少し重くなった気がした。
個人の名ではなく、家と役目を背に置いた名乗りだった。
──────────────────────────────
俺は寝床の少し手前に膝をついた。カイはマラエの傍らへ進み、薬草の包みの一つを膝の前に置く。ヴァローは入口側に近い位置で手帳を出した。ガイウスは戸の近くへ座り、ヴェスタは壁際に軽く背を預ける。
「マラエ殿、お差支えなければ、傷の様子を確かめさせていただいてもよろしいでしょうか」
カイが穏やかに言った。
「お願い申し上げます」
マラエは上着の襟元を少し開いた。肩から首にかけて、浅い切傷が二筋走っている。傷の縁には薄い緑の光の名残があった。完全な光ではない。朝の霧に残る色のようなものだ。
カイの指が止まった。
「これは、植物系の治癒の所作の跡でございますか」
「はい。歌の人が、私の傷を覆ってくださいました。緑の光が、傷の縁を覆う所作でした。一晩、続きました。朝には深い傷は塞がっておりました」
「歌の人」
カイはその言葉を丁寧に受けた。
「耳を隠した、旅の語り部の方でございます。お一人で楽器を抱えて、歌をお歌いになりました。歌は、私の身体の中の熱をゆっくりと下げる節でございました」
カイは黙った。傷に指を近づけるが、直接触れる前にマラエを見る。マラエが小さく頷く。そこで初めて、カイは自分の祈りを重ねた。
白い光が薄く立つ。
緑の名残の上に、白が乗る。混ざりきらず、隣り合う。小屋の薄暗さの中で、二つの違う光が同じ傷の周りに静かに息をした。
俺はそれを見ていた。
カイは何も言わなかった。
自分の祈りだけで満たそうとしない沈黙だった。
──────────────────────────────
「マラエ殿」
ヴァローが声をかけた。
「ご事情を、お伺いしてもよろしいでしょうか。私たちが追っております者の動向に関わるかもしれません」
「お話し申し上げます」
マラエは膝の上で指を揃えた。祭祀補佐としての所作なのだろう。痛みで肩がわずかに強張っているのに、声の形は崩さない。
「五日前の夜、ティカエ島が深淵の徒の手の者に襲われました。私は祭祀の務めの後で、海岸の祈りの場に残っておりました。そこで四人の男に囲まれました」
一度息を整える。
「気を失い、目が覚めた時にはここの洞窟の奥の小部屋におりました」
「ご家族は」
カイが静かに問うた。
「父、母、妹がおります。安否はまだ確かめられておりません」
声はそこで細くなった。
だが折れなかった。
「拐われた後、何日こちらに」
ヴァローが続ける。
「四日、と存じます。三日目の夜まで奥の小部屋におりました。三日目の夜に外で戦いの音がございました」
「戦いの音」
「金属の打ち合う音。岩に何かが砕ける音。矢の風を切る音。三つの種類の音が混じっておりました。私の枷の鎖の鉄環が、岩盤に響いて揺れておりました」
マラエは目を伏せた。
「声は最小限でございました。叫ぶ声は敵の方からだけでございました。お助けくださった方々の声は、戦いの中ではほとんど聞こえませんでした」
「最小限」
「はい。声を必要なだけしかお出しになりませんでした」
ガイウスがわずかに顎を引いた。戦場の話として受け取ったのだと分かった。
ヴァローは手帳に書いていた。だが筆の速度は遅い。言葉を追い越さないための速度だった。
──────────────────────────────
「お助けくださった方々のことを、伺ってもよろしいですか」
俺は言った。
マラエは背筋を伸ばした。
「お話し申し上げます」
小屋の外で波が鳴った。岩礁に当たる音が遠い。
「最初に奥の小部屋にお入りになったのは、赤髪の賢者でございました。背の高い、長身の方でございました。私の前にお立ちになって、私の枷の鍵をお見せになりました。鍵を切る前に、お声をかけてくださいました」
「お声、というのは」
マラエはその声を思い出すように、短く息を入れた。
「『痛むかもしれぬ。我慢してくれ』と」
俺の呼吸が止まった。
痛むかもしれぬ。
我慢してくれ。
助ける者の言葉だ。だが勝者の言葉ではない。救いの形だけを差し出す言葉でもない。痛みが起きることを先に伝え、その痛みを相手のものとして扱う言葉だった。
「鍵を切る前に、痛むかもしれぬ、と」
「はい。その所作が、私には何より深く残っております。お助けくださる方が、お助けする側の方であっても痛みのことを最初に告げてくださった。それが、私には忘れられません」
マラエは言い終えて、喉を整えた。
俺の右手は聖剣の柄にあった。
手を置いたまま、力は入れない。
その下で、薄い熱が立った。
洞窟で感じたものより長い。日なたの石ほどの温みが、柄革の下の冷たさに薄く混ざる。冷たさを消すのではない。冷たさの中に、ほんの少しだけ別の層が入り込む。掌の皮膚がそれを覚え、指の腹がすぐには離れなかった。
俺は握らなかった。
言葉にもできなかった。
カイを見た。
カイはマラエを見ていた。茶色の目が静かに湿っている。俺の視線には気づいていない。気づいていないまま、マラエの言葉を受け止めている。
俺は視線を戻した。
「続きを、お聞かせください」
「お話し申し上げます」
マラエはゆっくり頷いた。
「鍵を切ってくださったのは、赤髪の賢者でございました。けれど鍵を切る所作の前に、その方が左の手を庇っていらっしゃいました。鍵を切る所作の時には、右手だけをお使いになりました。左の手は、傷を負っていらっしゃるご様子でございました」
「左の手」
「はい。包帯のようなものは巻いておられませんでした。ただ、肌の表面が薄く赤くなっていらっしゃいました。お動きの時に、左の手の指の付け根を何度かお庇いになっていらっしゃいました」
壁画の前の掌の跡が浮かんだ。
砂と埃の上に軽く置かれた左手。指に力が入っていない跡。不自然な砂の散り方。
ヴァローの筆が止まった。
一瞬だけ、ヴァローが俺を見た。俺も見返した。言葉はなかった。繋がったと互いに分かっただけだった。
「次に、お入りになったのは」
ヴァローが促した。
「黒髪の海守りの方でございました。背は、赤髪の賢者の方よりやや低めでございました。けれど肩のお作りが堅いお作りでございました。海守りの方は私をお抱えになって、岸まで運ばれました」
マラエは自分の腕を少し動かし、当時の角度を思い出すようにした。
「そのお動きの時に、ご自分の傷口を庇いきれないご様子でございました。右の脇腹の、上の方でございました。動きの度に息をお詰めになりました」
「それでも運んだ」
俺の声が低く出た。
「はい。けれど私を下ろされる時には、息を整えてくださいました。私の身体の重さを傷の上にかけられないように、お腕の角度を調整してくださいました」
カイの手が薬草の包みの上で止まった。
母アリイ殿が話していた。右を浅く使っていたと。傷を負いながら、それでも人を運んだ者の動きが、ここで一つの形になった。
「最後に、お入りになったのは」
「歌の人でございました。耳を、布で覆っていらっしゃいました。楽器をお抱えになっていました。私の高熱を見抜かれて、私の頭の傍らに座ってくださいました。歌をお歌いになる前に、お声をかけてくださいました」
「お声」
「『眠ってよい。歌は、わたくしが繋ぐ』と」
掌の熱が、また少し長く残った。
眠ってよい。
眠らせるではなく、眠ってよい。
その違いを、マラエが忘れなかったことも分かった。俺も、その違いを聞き落とせなかった。
「それが、私には深く残っております」
マラエは静かに言った。
俺はようやく聖剣から手を離した。
指の腹に温みが残っている。柄革の冷たさに混じっていた温みが、手を離した後もしばらく消えない。俺は右手を見た。何も変わっていない。血の色も、皮膚の皺も、いつも通りだ。
それでも、すぐには拳を作れなかった。
カイの薬草を押さえる手が視野の端で動いた。
俺は何も言わなかった。
結論を出すには、まだ早い。
──────────────────────────────
「お助けくださった方々のお話の中で、ラウリ殿のお名がございましたでしょうか」
ヴァローが問うた。
マラエは頷いた。
「はい。戦いの中で、赤髪の賢者は敵に向かって『ラウリ・シレリオの行方を吐け』と短くお尋ねになりました。藍色の刃を持った頭格の方に、その問いをぶつけられました。頭格の方は答えませんでした。赤髪の賢者は、それ以上の問いを重ねられませんでした」
「重ねなかった」
「はい。一度の問いで、答えがなければそれで仕舞いでございました。倒すべき相手は倒される。問うべき相手には一度だけ問う。それが、赤髪の賢者の所作でございました」
俺は岩石島を思い出した。
あの黒い跡。地形を変えた力。煙の柱。骨まで乾いたような匂い。胸の奥が重くなる記憶だった。
ここでは違う。
同じ問い。同じ敵。同じラウリ・シレリオの名。
それなのに結果が違う。
俺の中で二つの絵が並ぶ。並ぶのに、重ならない。重ねようとすると、どちらかが歪む。
これは、何だ。
俺は声に出さなかった。
マラエは続ける前に、喉を整えた。その所作が何度も丁寧だった。話すことは痛みを掘り返すことだ。それでも、祭祀補佐として語る形を崩さない。
──────────────────────────────
「拐われた囚われ人は、私のほかにおられたのでしょうか」
マラエが逆に問うた。
ヴァローは少し考えた。
「私たちが受けた証言の中では、確かには聞いておりません。お助けくださった方々がどこかへお運びになったか、あるいはあなた様が唯一だったか」
「左様でございましょうか」
マラエは膝の上の指を握り直した。
「私のほかに、シャーク・コーラーズの祭祀官が二人奥の小部屋におりました。深淵の徒の手の者は、シャーク・コーラーズの祭祀官を複数集めようとしておりました」
小屋の中の空気が沈んだ。
一人の拐いではない。
ラウリ殿だけでもない。
「拐われた折には、私は自分の家のことしか存じませんでした。ラウリ殿のことを知ったのは、奥の小部屋に運ばれて二日目の夜でございます」
マラエは目を伏せた。
「敵の手の者の声が、岩盤の壁越しに薄く聞こえてまいりました。『ラウリ殿は、特別な扱いだ。あの男は急ぐ、待たせるな』と、頭格らしき方が話しておられました。それでラウリ殿が、別の系列で運ばれていらっしゃることを知りました」
「別の系列」
「私たちのような若手祭祀補佐の系列とは、別のものと存じます。ラウリ殿は、シレリオ家の当主でございます。シャーク・コーラーズの本家筋の方でございますから」
ヴァローの筆が紙を走った。
俺はその音を聞きながら、言葉の底を追っていた。複数の祭祀官。別の扱い。急ぐ男。待たせるな。
まだ形にならない。
だが胸の中で、海の底のように暗い輪郭だけが広がっていく。
「ラウリ殿のことを、お話しいただいてもよろしいですか」
俺は言った。
マラエの顔が、かすかに変わった。
それは笑みだった。ここに来て初めて見る、痛み以外の色だった。
「ラウリ殿は、私の親しい血族ではございません。シレリオ家とカナイ家は家系が違います。けれど海に呼ばれる場で、補佐に立つ者同士の理解というものがございます」
マラエは背筋を伸ばした。
「ラウリ殿は、私より先に呼ばれる方でございます」
その言葉の響きだけで、ラウリ殿という人の位置が少し見えた気がした。
「先に、呼ばれる」
「祭祀の場で、海が呼ばれる時、最初に応える方がラウリ殿でございます。私たちはその後に続きます。ラウリ殿は、私たちの先を歩く方でございます。先を歩く方が、いま海とは違う方角に運ばれていらっしゃいます。それが、私には許せません」
許せません。
その言葉だけが、マラエの声で震えた。
家族を案じる震えではない。役目を奪われることへの怒りでもない。先に立つ者が、先に立つべき場から引き剥がされたことへの痛みだった。
カイが薬草の包みを持ち上げた。
「マラエ殿、シレナ島の母アリイ殿から私たちが託された薬草の包みでございます。この一握りを、あなた様にお残ししたく」
「お受け取りしてよろしいのでしょうか」
「母アリイ殿のお気持ちでございます。シャーク・コーラーズの祭祀官の方々の間で、回るべきものでございます。私が媒介させていただくだけでございます」
マラエは両手で受け取った。胸に当て、深く頭を下げる。
「ありがたく、頂戴いたします」
カイも頭を下げた。
俺はその所作を見ていた。教会の聖具ではない薬草が、島から島へ、手から手へ移っていく。俺たちはその途中にいる。
それが何を意味するのか、まだ判じられない。
だが軽いことではない。
──────────────────────────────
「私たちは、これから西へ向かいます。お助けくださった方々を追って、ラウリ殿のところへ向かいます。マラエ殿の言葉を、ラウリ殿のところまで運びます」
俺は立ち上がる前に頭を下げた。
マラエは寝床の縁で姿勢を正し、深く頭を下げた。
「お運びくださいませ」
「必ず」
「赤髪の賢者にも、ラウリ殿にも無事を祈っております」
「お言葉を、お運びいたします」
言ってから、俺はもう一度頭を下げた。四人も続く。
カイが最後にマラエの傍へ寄った。
「マラエ殿、傷の癒えるまで無理をなさらず、お休みください」
「ありがとうございます」
カイの祈りが薄く流れた。光神オルヴェリスの祈り。その中に、シレナ島で聞いた祈祷の歌の節がほんの少しだけ混じる。混じっても形は崩れない。別のものを飲み込むのではなく、隣に座らせるような祈りだった。
マラエは目を閉じた。
両手で薬草の包みを胸に当てている。
俺は小屋の入口へ歩いた。布を上げる前に振り返る。
薄暗い小屋の中で、マラエはまだ目を閉じていた。痛みで肩が少し上がっている。だが薬草の包みを抱く手は、祭祀の器を持つように丁寧だった。
俺は何も言わず、外へ出た。
──────────────────────────────
砂浜でフィノ・カナイ殿に頭を下げた。
マラエ殿の世話を、どうかお続けくださいと告げる。フィノ殿は深く頭を下げ返した。こちらこそ、お運びくださりありがとうございましたと。後でマラエをティカエ島まで連れて戻ります。まだ家の者が残っているかもしれませぬ。それを確かめねばなりませぬ。
その声には疲労があった。
だが疲労の下に、帰る者の強さがあった。
俺はもう一度頭を下げた。
漕ぎ舟の脇を通る。墨で描かれた紋章が、乾いた木の上で薄く光っていた。鮫の背。波。立つ印。
船は岩礁の手前に錨を下ろしていた。舵手が甲板でこちらを見ている。帆は半分だけ張られて、風を待っていた。
ヴェスタが舳先近くで潮目を見ていた。俺たちが戻ると、すぐ声を上げる。
「兄ちゃんたち、戻ったか。風が変わってきてる。西寄りで、強くなってる。三十分以内に、舵を切る」
「分かった」
俺は甲板に上がった。木板が足の下で鳴る。カイ、ヴァロー、ガイウスが続く。
ヴェスタは舵手へ短く指示を出した。舵手が頷き、船員が錨を上げ始める。縄が濡れた音を立てる。帆の角度が変わり、船体が少し揺れた。
俺は船室の戸の前で止まった。
カイ、ヴァロー、ガイウスが後ろに集まる。
「中で、整理しよう」
三人が頷いた。
ヴェスタは舳先で、まだ潮の方角を見ている。彼に聞かせる話と、聞かせられない話がある。その線引きが胸の奥に重く置かれた。
俺は船室に入り、戸を内側から閉めた。
──────────────────────────────
船室の中は薄暗かった。
小窓から入る海面の反射が、卓の上で揺れている。船が傾くたび、光も細く動いた。外では帆綱が鳴り、ヴェスタの声が遠く聞こえる。
俺は卓の正面に座った。右にカイ。左にガイウス。向こう側にヴァロー。
四人だけだ。
カイが祈りを止めた。
さっきまで薄く続いていた祈りが、船室の中で途切れる。マラエ殿の傷。ラウリ殿の無事。母アリイ殿の薬草。それらを運ぶ祈りが、ここだけ止まった。
ヴァローが筆を置いた。
手帳は開いている。けれど書かない。筆を横に置き、指を離した。記録する前に、記録しない時間を作る所作だった。
ガイウスは腕を組まなかった。
いつもなら胸の前で両腕を組む。だが今は両手を膝の上に置いている。手のひらは上を向いていた。戦士が武器から手を離し、敵意のない場に入る時の所作に見えた。
俺は聖剣の柄から右手を離した。
膝の上に両手を置く。掌にまだ柄革の感触が残っている。薄い熱の名残はもう消えた。冷たさも、今は遠い。
戸の外からヴェスタの声がした。
「西寄り、もう一段」
船が少し傾いた。
俺は息を吸った。
──────────────────────────────
「教会本部の密命を、ここで改めて確認させてくれ」
声を落とした。
三人が頷いた。
俺はカイを見た。
カイの顔に、孤児院の灯りが一瞬重なった。俺がまだ背の低かった頃、夜に眠れず廊下へ出ると、カイはいつも先に気づいた。叱るのではなく、隣に座った。何を聞くでもなく、俺が話すまで待った。
今も、その待つ目だった。
カイは目を閉じ、ひと呼吸置いて開いた。
頷いた。
それで、俺は言える気がした。
「俺たちは、深淵の神の討伐が究極の目的だ」
言葉が船室の低い天井に当たり、胸へ返ってきた。
「黒煙の賢者が、深淵の神と繋がっているかどうかを判じる役目」
俺は続けた。
「彼が、俺たちの正義にもとるかどうかを判じる役目」
「これが、教会本部から俺に告げられた密命だ。お前たち三人と、俺の四人だけが知っている」
カイが頷いた。
ヴァローが小さく頷く。
ガイウスも、手のひらを上に向けたまま頷いた。
戸の外で風が鳴った。船が西へ向きを変えていく気配が、足元から伝わる。
「議論を、確認させてくれ」
俺は言った。
「岩石島の地獄絵図を、俺たちは見た。あれは、彼が起こした。それは事実だ。だが」
息を継ぐ。
「シレナ島で、母アリイ殿が傷を負った彼らに薬草を渡した。負傷を押して、襲撃直後の村で人を救った彼らの手当てを母アリイ殿が引き受けた。それも事実だ」
「ホアロハ島で、噂が割れた。煙の跡から人が消えた。あれを救いと呼ぶか、地獄と呼ぶか。住民の声が二つに割れていた。それも事実だ」
「ここで、海岸洞窟で抑制された戦闘の痕跡を俺たちは見た。地形の汚染なし。酸性熱水なし。骨が露出した死体なし。岩石島の時のような跡は、ここにはなかった。それも事実だ」
「壁画の前で、彼らが何かを指でなぞってためらった跡を俺たちは見た。何を見ていたのか、何を読んでいたのか。俺たちには判じられなかった。それも事実だ」
「マラエ殿から、彼らの救助の証言を俺たちは聞いた。鍵を切る前に、痛むかもしれぬと告げた赤髪の賢者。傷口を庇いきれずに、囚われ人を岸まで運んだ黒髪の海守りの方。眠らせるではなく、眠ってよいと告げた歌の人。それも事実だ」
言い終えて、俺は自分の両手を見た。
震えていなかった。
「俺は、これらの事実を密命の役目にどう繋げばいいのか判じきれていない」
声は低いまま出た。
──────────────────────────────
カイが薬草の包みの上に手を置いた。
「人を救う方のお力と、人を呑む方のお力は違う系譜でございます」
カイの声は柔らかかった。だが曖昧ではない。
「光神オルヴェリスの祈りの眼で、私がこれまでに見てきたものの中で、人を救う系譜と人を呑む系譜は別の方向に流れます。赤髪の賢者のお力の流れ方は、岩石島では人を呑む方角に流れたと私は受けました」
そこでカイは一度、薬草の包みを撫でた。
「けれどここでは、人を救う方角に流れていらっしゃいました。同じ方の中で、二つの方角が同居しているということでございます。それをどう判じるか、私にはまだ判じきれません」
カイは口を閉じた。
その正直さが、船室の空気を少しだけ澄ませた。
ヴァローは筆を取らず、閉じた手帳の頁に指を置いた。
「観察できる事実を、整理いたします。判定の三軸をお聞かせください」
指が一つ目の位置で止まる。
「一つ、戦闘の質感。岩石島では地形の死を起こされた。ここでは起こしておられない。同じ方の手による、二つの違う結果。理由は、観察できておりません」
次の指。
「二つ、力の発動の動機。岩石島は深淵の徒の中規模拠点を制圧された。ここも深淵の徒の小規模拠点を制圧された。動機の方向は同じです。だが結果が違います。動機が同じで結果が違うのは、抑制の度合いの違いと読めます。岩石島では抑制が外れた。ここでは抑制が保たれた。それは観察できる事実から推定できます」
三つ目。
「三つ、人としての所作。母アリイ殿の証言、マラエ殿の証言、壁画の前のためらった跡。これらを並べる限り、人としての所作の質は抑制された側です。人を救う側の所作でございます。これも、観察できる事実から推定できます」
ヴァローは指を離した。
「三軸を整理した上で、判定するかと問われれば私は判定を控えます。観察できない範囲が、まだ多い」
「観察できない範囲」
俺は返した。
「岩石島で抑制が外れた理由です。観察できておりません。私たちがその場にいなかった以上、推定するしかありません。推定で判じることは、私の月読みの塔の流儀ではいたしません」
ヴァローはそれだけ言って、筆に触れないまま手を戻した。
ガイウスは膝の上で開いていた手を、ゆっくり握り直した。
──────────────────────────────
ガイウスが卓を見ていた。
声を出す前に、一度だけ深く息を吐いた。山の岩が動くような、重い息だった。
「俺の山の村なら、こう言う」
ガイウスの声は低く、ゆっくりだった。
「判じるのは、目の前の人間を見てからだ。証拠じゃねえ。会ってからだ」
その言葉が、船室の中に落ちた。
俺は受け止めるまで、少し時間がかかった。
「会ってからだ」
「そうだ。山の村じゃ、訴えがあって両方の言い分を聞く。それでも判じきれねえ時は、両方の人間を長老の前に連れてきた。それで長老が目を合わせた」
ガイウスは俺を見ない。卓を見たまま続ける。
「目を合わせれば、嘘か本当かある程度は見える。完全じゃねえ。だが紙の上の証拠だけで判じるよりはましだった」
紙の上の証拠。
床の血。
壁画の跡。
証言。
薬草。
俺はそれらを一つずつ思い浮かべた。どれも事実だ。だが事実だけでは、人の眼にならない。
「会って、判じる」
俺は声に出した。
ガイウスが頷いた。
「ヴェラーナ港の桟橋で、刃は交えた」
俺は続けた。
「あの雨上がりの桟橋で、俺は彼を見た。海神代行者、と彼は名乗った。聖剣を抜いた俺の前で黒い境界を広げ、海守りの船で離れていった。あれは対峙だった」
雨上がりの匂いが蘇る。濡れた木の桟橋。港のざわめき。黒い境界。海守りの船が離れていく水音。聖剣の柄を握った俺の指。
「あれは対峙だった」
もう一度、俺は言った。
「だが、判じる眼で見てはいない」
カイが静かに俺を見ている。
ヴァローは手帳を閉じたまま待っている。
ガイウスは頷かず、ただ聞いている。
「あの時、俺は彼を敵として見ていた。住民を傷つけた者として見ていた。聖剣を抜いた。前へ進むことしか考えていなかった」
言葉にすると、あの時の視野の狭さが分かった。怒りではない。恐れでもない。ただ、見えていなかったものが多すぎた。
「岩石島の跡を見た。シレナ島の証言を聞いた。海岸洞窟の跡を見た。マラエ殿の証言を聞いた。それでようやく、俺の眼が判じるための眼を持ち始めた」
息を吸う。
「判じるための眼での対峙は、まだしていない」
カイが小さく頷いた。
「会って、判じる、ということでよろしいでしょうか」
「ああ。古代神殿で、彼にもう一度会う。今度は判じる眼で合わせる。それから判じる。それまでは判定を留保する」
ヴァローがようやく筆に触れた。だがまだ書かない。
「合理的でございます。情報は、揃えられる限り揃えます。だが最終判定は対面で。月読みの塔の流儀でも、その順序が最も少ない判定誤差を生みます」
ガイウスが頷く。
「眼を、合わせてからだ」
カイも頷いた。
「私もそう思います。古代神殿で彼らに会う時、眼を合わせて判じます」
戸の外からヴェスタの声が聞こえた。
「兄貴たち、潮の方角が変わった。風が、西の小島の方へ向いてる」
俺は立ち上がった。
カイ、ヴァロー、ガイウスも立つ。
聖剣の柄に手を置いた。
握り込まなかった。
触れているだけだった。柄革の冷たさが掌に薄く沁みる。熱はない。だが冷たさが敵意ではないことだけは、少し分かった気がした。
俺は船室の戸を開けた。
──────────────────────────────
甲板に出ると、空は夕方の色へ傾いていた。
夕陽が西の水平線の手前に低くあり、橙の光を海面へ長く伸ばしている。波頭の白が橙に染まり、火の粉のように見えた。風は朝より強い。西寄り。ヴェスタが何度も言っていた風が、今は肌に直接分かった。
ヴェスタは舳先の手前で手すりに片手を置いていた。見ているのは水平線ではない。海面の斜め下だ。肩の角度が低い。足の置き方も、船の揺れに合わせている。
俺は隣へ立った。
「兄ちゃん、見えるか」
「何が見えるんだ」
「潮目だ。あそこの泡、切れ方が細い」
ヴェスタが指した。
俺は目を凝らした。
海面に白い泡の筋が流れている。普通なら波の動きに沿って広がるはずの泡が、ある一点だけ細く切れていた。水の流れがそこだけ違う向きへ引かれている。
「あそこを船が抜けてる」
「泡で分かるのか」
「船尾が水を切ると、泡の戻りが遅れる。大きい船ほど残る。風が強けりゃすぐ崩れるが、今日は残ってる」
ヴェスタはすぐ別の方角を見た。
「海藻も見ろ。あそこの浮いたやつ」
海藻が点々と浮いていた。潮に沿って流れているように見える。だが一部だけ扇形に散っていた。
「普通は筋になる。あそこは一度、横から乱された。船の通った後の波の余りだ」
「まだ残るものか」
「残る時は残る。見ようとしねえと見えねえけどな」
ヴェスタは空を指した。
海鳥が群れで飛んでいる。夕方の餌場へ向かう動きとは少し違う。低く降り、また上がる。何かを拾っているように見えた。
「あれは船の捨てた屑を追ってる。屑がまだ散りきってねえ。鳥が新しい動きをしてる」
「いつ抜けた」
「半日前よりは近い、夜明け前じゃねえ、昼前でもねえ」
ヴェスタは断定しなかった。だが声には確かな手触りがあった。
「三本マスト、と断言はしねえが、それなりの大きさだ。積み方は軽い。急いでる」
俺はもう一度、泡と海藻と海鳥を見た。
最初は何もなかった場所に、船の通った痕跡が立ち上がってくる。ヴェスタが見せたのだ。俺の眼が急に良くなったわけではない。
「追いつけるか」
「今すぐは無理だ。だが風が変われば、距離は詰まる。半日前よりは近い、夜明け前じゃねえ、昼前でもねえ。向こうも急いでる」
ヴェスタは手すりから手を離した。
「兄ちゃん、焦るなよ。船ってのは真っ直ぐ走れば速いってもんじゃねえ」
「分かっている」
「顔が分かってねえ」
俺は何も返せなかった。
ヴェスタは笑わなかった。今は斥候の眼のままだった。
──────────────────────────────
ヴァローが甲板の卓に地図を広げた。
風で紙が浮かないよう、四隅に小さな重しを置く。ヴェスタが手を伸ばし、地図の西外洋寄りを指した。
「ここから、こっちに抜けてる」
指が滑る。
「三本マスト、と断言はしねえが、それなりの大きさだ。小舟じゃねえ。積み方が軽い。急いでる。海洋同盟の船足に近い」
「二本ではないと」
ヴァローが問う。
「二本じゃねえ。三本か四本か、そのへんだ。断言はしねえ」
「方角はこの線で」
「少し外へ振れてる。内海寄りじゃねえ。西、外洋寄り、小さな無人島の方角だ」
ヴァローは地図に薄く印を打った。
ガイウスが卓の脇から覗き込む。重盾が背で鈍く鳴った。
「あれが、ラウリを連れて行った先か」
「断言はしねえ」
ヴェスタは即座に言った。
「だが、その方角にある程度の大きさの船が抜けてる。風と潮と鳥の動きで、それは間違いねえ。何の船かは見てねえから断言できねえ」
「古代の海神の遺跡が、その方角にあるとシレナ島の祖母殿が話しておられた方角と一致いたします」
カイが地図を見ながら言った。
「祖母殿が指された方角は、地理ではなく感覚で指されておりました。『歌が、遠ざかった方角』と祖母殿は告げられました。その方角とヴェスタ殿の読みの方角が一致いたします」
歌が、遠ざかった方角。
俺は復唱しそうになり、飲み込んだ。
海面は橙色に染まっている。水平線はまだ曖昧だった。空と海の境目が溶けていて、何もないように見える。
だが見えない場所へ、船は向かっている。
ヴァローが地図を閉じた。
「次に見えるのは島影でしょう。夕陽が沈み切る前なら、黒い線として立つはずです」
「見落とすなってことか」
ヴェスタが片口を上げた。
「魔導士の旦那、そいつは俺の仕事だ」
「では頼みます」
「お任せくださいってやつだな」
軽口が戻った。
だがヴェスタの目は、すぐ水平線へ戻った。
──────────────────────────────
「兄ちゃん、見えるか」
ヴェスタがもう一度言った。
今度の声は少しだけ高い。見つけた声だった。
「何が」
「水平線だ。橙の中をよく見ろ」
俺は目を細めた。
夕陽の光が強い。空と海の境目が滲んでいる。最初は何も見えなかった。ただ燃えるような橙と、波の反射だけがある。
しばらく見続けた。
目が痛くなり、涙が少し滲む。それでも視線を動かさないでいると、橙の中に一本だけ違う色が立った。
黒い線。
細い。水平線の傷のような線だった。
「見えた」
声が出た。
「あれが、無人島だ。古代神殿の島だ」
ヴェスタが頷いた。
「明日の朝、上陸する」
「ああ。風がこのまま西寄りで、潮もこのままなら夜明け前には岸の手前まで届く」
ヴェスタはそれだけ言うと艫へ戻った。舵手と短く話し、帆の角度をもう一度調整させている。
俺は舳先に立ち、黒い線を見続けた。
島はまだ島ではなかった。地図の上の印でもない。海と空の間に入った細い傷だ。
俺たちはその傷へ、船首を向けていた。
──────────────────────────────
カイが右隣に来た。
気配で分かった。祈りの薄い温度が、風の中に混じる。薬草の匂いも少しした。カイは水平線を見ているようで、もっと別の何かに目を向けているようにも見えた。
俺の左に、ヴァローが立った。
手帳を開いている。だが書き始めるまで少し時間があった。壁画の線と航路の線が、彼の中でまだ同じ頁に乗るかどうかを待っているようだった。筆先は紙の上で止まり、次の瞬間だけ遅く動いた。
その先にガイウスが立つ。
重盾の角度がわずかに上がっていた。背中の盾はただ背負われているのではない。明日の上陸でどちらへ向けるか、もう身体が選び始めている。肩の筋が静かに張り、足の幅が船の揺れよりも広くなる。
端に、ヴェスタが戻ってきた。
ヴェスタの視線は水平線の黒い線に長く留まらない。風へ行き、帆へ行き、海面の泡へ戻る。肩の角度が少し外へ開いている。次に風がどう変わるかを、身体の側面で聞いているようだった。
俺は前を向いたまま、視野の端で四人を受け取っていた。
右隣のカイは、救われるべき人の輪郭を見ていたのかもしれない。それがラウリ殿なのか、マラエ殿なのか、赤髪の賢者たちなのか。俺には判じられない。祈りの底に沈む形だけがある。
左隣のヴァローは、壁画と航路を見ていたのだろう。古い波の線、新しい上書き、洞窟の儀式の匂い、ヴェスタが示した泡の切れ。彼の筆はいつもより遅く、紙の上で急がなかった。
その先のガイウスは、戦場を見ていた。明日の朝に足を置く岸。盾を構える角度。俺が前に出る距離。カイを守る位置。言葉にしない準備が、背中の重さになっていた。
端のヴェスタは、風と潮を見ていた。夜のうちに帆をどう使うか。船がどの角度で岸へ寄るか。海鳥が消えた後に残るもの。軽口の代わりに肩が読んでいた。
俺は、明日の朝に判じる眼で合わせる赤髪の賢者の輪郭を見ていた。
五人で、同じ水平線を見ていた。
けれど、見ているものは五人とも違っていた。
それを、俺は初めて知った気がした。
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俺は聖剣の柄に手を伸ばした。
伸ばしたところで止めた。
握らない。
指の腹だけを柄革に当てる。冷たさがある。朝と同じ冷たさだ。洞窟の中で触れた冷えとも似ている。だが今は、その冷たさを押さえつけようとは思わなかった。
熱はない。
光もない。
聖剣は沈黙している。
その沈黙を、俺は一瞬だけ拒絶だと思いかけた。俺に答える価値がないから黙っているのだと。判じる役目を持つ者として足りないから、光を返さないのだと。
すぐに違うと思い直した。
聖剣は、今ここで答えを渡すためのものではないのかもしれない。俺がまだ見ていないものを、見たことにするための剣ではない。答えを急ぐ手に、答えを握らせないための沈黙もある。
聖剣は待っている。
何を待っているのかは分からない。明日の朝か。俺の眼か。彼の眼か。それとも、俺が握らずに立つことを覚える時か。
正しい受け取り方かどうか、俺には判じられない。
判じられないまま、指を柄から離した。
冷たさだけが、指の腹に残った。
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水平線の小島は、夕陽の中でまだ細い黒い線だった。
風が強くなっている。
波が立っている。
帆が鳴り、船体が西へ進む。舳先が波を割るたびに、橙のしぶきが上がった。夜はすぐそこまで来ていた。だが船は止まらない。
俺たちは明日の朝、その傷の岸に上陸する。
そこで、彼にもう一度会う。
今度は、判じる眼で合わせる。
それから、判じる。
それまでは、俺は彼を見つめることができない。
岩石島の地獄。海岸洞窟の抑制。母アリイ殿の薬草。マラエ殿の証言。壁画の前のためらった跡。左手を庇った跡。すべて俺の中に沈んでいる。だが沈んだものは、まだ形にならない。
形は明日の朝まで待つ。
彼の眼と、俺の眼が合うまで待つ。
俺は四人の隣で、水平線の黒い線を見た。
聖剣はまだ沈黙していた。
だから俺は、明日の朝、自分の眼で見ることにした。




