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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
45/57

祈らずにいられない

 ホアロハ島の朝は、まだ目を開けきらない港の上に、潮と香草と果物の酸っぱさを薄く撒いていた。


 宿の食堂は二階の北側にあった。開け放した木窓の外には、白珊瑚石の道が港まで続いている。朝の光を受けたその道は、中央大陸の石畳よりもずっと軽く見えた。踏めば乾いた音が返るのだろうと、座ったままでも思えた。


 長卓には五人分の皿が並んでいた。焼魚は皮に焦げ目がつき、脂が塩で光っている。酸味の強い果物は木鉢に山盛りで、切り口から透明な汁を滲ませていた。芋を潰した甘い粥は鍋の中で湯気を立て、香草の汁は青い匂いを放っている。辛い赤い調味料だけが、やけに鮮やかだった。


 レオンはその壺を見た。


 勇者らしく挑む目だった。孤児院の食堂で、誰よりも早く熱いスープに手を出して舌を焼いた少年の目でもあった。


 彼は粥に赤い調味料を落とした。多かった。


 そして、むせた。


「聖剣より先に水だな」


 ガイウスが水差しを押し出した。大きな手が器を包むと、水差しまで小さく見える。レオンは咳き込みながらそれを受け取り、まだ涙の滲んだ目でガイウスを睨んだ。


 ヴァローは香草の汁を眺めていた。観察対象を見る時の灰色の目で。


「香草の汁が辛味を中和します」


「先に言え」


 レオンの声はかすれていた。私は小碗を取って、香草の汁を足した。青い匂いが立つ。海辺の朝の匂いと混じって、少しだけ礼拝堂の薬草棚を思い出した。


 ヴェスタは向かいで平然と粥を啜っていた。赤い調味料をレオンより多く落としたのに、額に汗ひとつ浮かべない。無精髭のあたりに粥の湯気がかかり、彼はそれを気にもせず笑った。


「神官殿、祈りで舌は冷えねえのか」


「冷えるなら、もっと早く祈っています」


 私が答えると、ヴェスタは喉の奥で笑った。悪意のない軽口だった。彼の軽口には塩気がある。港の縄や乾いた網に染み込んだ、取れない匂いのようなものがある。


 レオンが水を飲み干したあと、指を一瞬止めた。


 ほんの一瞬だった。だが、私は見た。水差しから離れた指が宙に浮き、卓の上の赤い壺を見ているようで、もっと遠いものを見ていた。岩石島の黒く粘った跡。あの岩礁の荒い肌に絡みついていたもの。私たちが目を逸らせなかった跡。


 私は何も言わなかった。


 言葉にすれば、朝食の湯気が冷えてしまう気がした。


「カイ」


 レオンが呼んだ。


「はい」


「香草の汁、もう一杯くれ」


「ええ」


 私は汁を注いだ。レオンは今度は慎重に飲んだ。喉が動く。その首にまだ護符はない。だが、私にはなぜか、何かがそこに下がる余白が見えた。


 孤児院で彼に汁を注いでいた頃、レオンは木椀を両手で持つのが下手だった。よく零し、よく熱がり、それでも最後まで食べた。目の前の青年はもう二十歳を越え、聖剣を帯びている。それでも私の手は、昔と同じ角度で器を支えていた。


 ガイウスが鍋を傾け、最後の粥を自分の鉢に落とした。芋粥は重そうに流れ、底に残った甘い香りまで攫っていく。


 ヴェスタが目ざとくそれを見た。


「神官殿、レオンの取り合いに勝ったぞ」


「私は取り合いをしていません」


「それが負けってことだ」


 ガイウスが低く笑った。レオンが空の皿を指して「俺はまだ食ってる」と抗議した。ガイウスは「魚だろ」と返し、ヴァローはその横で宿の薄い木板に何かを刻んでいた。香草の効能か、辛味への反応か。彼の指先は朝の食卓でも研究室の指だった。


 ヴェスタは粥を食べ終えると、匙を置いた。


「兄貴、そんな取り合いより、午後の段取りだ」


 ガイウスは「兄貴、か」と短く呟いた。嫌そうではなかった。ヴェスタが年下でも、海の上で生きた時間は別の重みを持つ。ガイウスはそれを知る男だった。


 窓の外では笛が鳴っていた。観光客を呼び込む高い音。港の朝の笑い声。魚を焼く煙。全部がいつもの朝の形をしていた。


 その形の下に、まだ乾ききらない黒いものが沈んでいる気がした。


──────────────────────────────


 ヴェスタは食後すぐに女将から地図を借りてきた。


 紙は何度も濡れて乾いたものらしく、角が波打っていた。折り目には白い塩が吹き、港の名を書いた墨はところどころ滲んでいる。彼は皿を押しのけて卓に地図を広げた。指先の爪には薄く塩が残っていた。


「表の港」


 爪が大きな桟橋をなぞった。観光船が着く場所。朝から笛が鳴り、土産物の旗が揺れる場所。


「裏の船溜まり」


 今度は南側の入江を叩く。地図の上では雑な線でしかない。だがヴェスタの指は迷わなかった。


「女と酒の口が軽い通り」


 中央通りから一本外れた路地を、彼は斜めに指で切った。そこだけ地図職人が描くのを面倒がったように、細い道が絡んでいる。


「表の港、裏の船溜まり、女と酒の口が軽い通り」


 ヴェスタは同じ順で繰り返した。彼にとって港町は、まずこの三つでできているのだろう。教会と市場と役所で街を測る私とは、最初に見る骨格が違う。


「神官殿は、礼拝堂と市場だ」


「分かりました」


「祈りを求められたら受けろ。礼として話を聞く。あんたの仕事だ」


 その言い方は粗いが、役目の見立ては正確だった。私は頷いた。


 ヴェスタはヴァローを見る。


「魔導士の旦那は、坂の上の研究院。看板が潮で半分読めねえ建物だ。古い紙の匂いがする連中から記録を引っ張ってくれ」


「老研究者がいるなら、私が摩擦を引き受けます」


 ヴァローは淡々と言った。摩擦を引き受けるという言い方が、彼らしかった。人と人の間に火花が散る場所でも、ヴァローは手袋をはめたような顔で近づいていく。


「兄貴は港の警備員だ」


 ヴェスタはガイウスを指した。


「重盾の体格だ。向こうは同類を見る。船の出入りと最近の異変を聞けるはずだぜ」


「ああ」


 ガイウスは短く返した。背中の盾が椅子の脚に当たり、鈍い音を立てた。


「俺は裏酒場と裏港。酒の匂いをまとってくる。あんまり清潔な情報じゃねえと思うが、まあ、勘弁してくれ」


 その時、レオンが手を上げるように口を開いた。


「俺は」


「勇者様」


 ヴェスタが先に挟んだ。半分茶化し。半分は、旗が強すぎる者への警告だった。


 レオンは眉を寄せた。


「俺、港役所に行きたい。責任者から直接、最近の出入りを聞きたい。象徴の勇者として、教会の名で」


「やめとけ」


 ガイウスが即座に言った。


 レオンの視線がそちらに向く。


「なぜだ」


「勇者様が真正面から聞くと、相手が正しい答えを作る」


 ガイウスの声は低かった。責める言い方ではない。盾を置く場所を告げるような、実用の言葉だった。


 ヴァローが頷く。


「虚偽が混じる前提で収集する。公的な口は、公的な顔を先に出します」


 ヴェスタは地図の端を爪で押さえた。


「便利が雇い金になるんだよ、勇者様」


 レオンは黙った。窓の外で笛が鳴り、階下では女将が椅子を引く音がした。


 やがて彼は小さく言った。


「象徴って便利な言葉だな」


 その声は自嘲ではなかった。だが、肩に置かれた何かを指先で確かめるような響きがあった。私はレオンの背を見た。孤児院の廊下を走っていた少年の背より、ずっと広い。けれど時々、その広さが痛むほど頼りなく見える。


「カイに同行する」


 レオンは顔を上げた。


「神官の付き添いとして街に顔を出す。礼拝堂と市場なら、勇者様の名前は重すぎない」


「いいだろう」


 ヴェスタは頷いた。


「夕方、ここに集まる。情報を持ち寄って夜に詰める」


 ガイウスが腕を組む。


「夜明け前に出るかどうかも、夜に決める。島は楽しそうだが、長居する島でもなさそうだ」


 観光客を呼ぶ笛が、また高く鳴った。


 私は地図の白い塩の跡を見ていた。潮が乾いて残したもの。見えない水の通った痕跡。今日、私たちが拾うものも、そういう形をしているのかもしれなかった。


──────────────────────────────


 宿を出ると、白珊瑚石の道が足の下で軽く鳴った。


 中央大陸の石畳は湿ると重い音を返す。ここは違う。乾いた貝殻を踏むような明るい音がして、歩くたびに靴底から陽が上がってくるようだった。


 道の両側では土産屋の旗が揺れていた。青、赤、黄色。風を受けてひらめく布の下で、老人が笛を吹いている。旅人が銅貨を投げると、老人は笛を止めずに目だけで礼をした。


 ヴェスタは南の路地へ消えた。ヴァローは坂の上の研究院へ向かった。ガイウスは港まで同じ道だと言い、店先を覗きながら歩いた。残った私は、レオンと並んで中央通りの端を進んだ。


 最初に足を止めたのは、鮫歯の護符の屋台だった。


 灰黒の小さな鮫歯が麻紐で編まれ、貝殻と一緒に吊られている。革の小袋に入ったものもあった。袋は掌に収まるほど小さく、口を結ぶ紐には塩で白くなった跡があった。隣には刺青模様の布が並び、さらに横では沈んだ王の絵皿が売られていた。


 王冠をかぶった横顔。沈む船。海の渦。観光客が笑って皿を裏返し、値を聞いている。


 レオンが鮫歯の一つを手に取った。小さな歯だった。けれど硬い。曇った光を飲み込むような灰黒だった。


 彼はすぐ戻した。


 その前に、ヴェスタが店主と話していた。南の路地へ向かう途中で、片足だけ店の影に残していたような短さだった。


「混ざっても売れるなら、生きてる証拠だ」


 そう言って、彼は護符を一つ買った。


 そして何のためらいもなく、レオンの首にかけた。


「勇者様、お守りは多い方が安心だぜ」


 レオンが外そうとしたが、ヴェスタは手首を軽く押さえた。


「神官の祈りと、海の魔除けと、二重の方が遠出には安心だ」


 それだけ言って、彼は今度こそ路地へ消えた。青と黄色のバンダナの端が人波の奥で揺れ、それもすぐ見えなくなった。


 レオンの胸元で、鮫歯が揺れていた。白い旅装と深紅のサッシュの間に、灰黒の小さな点がある。勇者の装いには異物のようで、けれど妙に似合ってもいた。


 店主が笑った。


「若い勇者様には似合うねえ。シャーク・コーラーズの護符だよ。海の魔除けさ」


 彼は観光客にする調子で説明した。古い祭祀官が鮫の歯を扱うこと。化石の歯は特別に強いとされること。店に出ているものは安価な品で、祭りの日にはもっと大きなものが飾られること。


 私は尋ねた。


「本物の化石はあるのですか」


 店主の笑顔が少しだけ薄くなった。声が落ちる。


「本物は売らないよ。沈んだ王の家臣に怒られる」


 冗談の形だった。けれど最後の一語が、木箱の底に当たるように鈍かった。


 彼はさらに小さく続けた。


「島の古い血は、あれを冗談にしすぎるのを嫌う」


 通りは明るい。笛が鳴り、土産物が売れ、絵皿を抱えた旅人が笑っている。だが、その言葉だけは陽の当たらない場所から出てきたようだった。


 ガイウスがレオンの護符を見て笑った。


「勇者様の魔除け、案外似合うじゃねえか」


「ガイウスの魔除けは、お前の重盾だ」


 レオンはそう返した。口元だけ笑っていた。


 私はもう一度、鮫歯を見た。麻紐の編み目。小さな歯の艶。革小袋の古びた縁。どれも土産物の顔をしていた。


 その奥に、売り物にならないものが眠っている気がした。


──────────────────────────────


 中央通りの中ほどで、空気が低く鳴った。


 鐘ではなかった。金属の澄んだ響きではない。木を打つ深い音だった。北の方角から、太い音が一つずつ来る。打たれた木の腹が震え、その震えが街路の石にも薄く伝わる。


「祈りみたいな音だな」


 レオンが言った。


「ええ、たぶん祈りです」


 私は答えた。


 近くの店主が、北の鼓楼だと教えてくれた。潮位を告げる木鼓が一日に三度鳴るのだという。潮が満ちる時。引く時。その間の曖昧な時。人の都合ではなく海の都合で街に知らせる音。


 私が知る祈りの時は、鐘で測られる。教会の塔で金属が鳴り、朝祷と昼祷と夕祷を呼ぶ。音は上から降ってくるものだった。


 ここでは違った。


 木の音は横から来る。潮の高さと一緒に道を渡り、屋根の下に入り、人の耳の奥へ置かれる。私はロザリオに触れた。銀の小さな紋章が指に冷たかった。


 レオンの首で鮫歯の護符が揺れた。


 その瞬間、雨が落ちた。


 一粒目が頬に当たり、二粒目で道が濡れた。三粒目を数える前に、雨は屋根を叩く音になった。南方の雨は急だった。太い雨粒が布屋根を打ち、土産屋の旗を斜めに跳ね上げる。観光客が笑い声を悲鳴に変え、軒下へ駆け込んだ。


 私たちはほとんど同時に動いた。


 レオンは近くの屋台の柱を支えた。片手で柱を掴み、もう片方で跳ね上がる布を押さえる。聖剣の柄が腰で揺れたが、彼は抜かなかった。今必要なのは剣ではなく腕だった。


 ガイウスは荷車を背中で受け止めた。魚を積んだ車が雨に押されて動き、彼の体格にぶつかって止まる。彼は片足を石に噛ませるように踏ん張った。


 ヴァローは坂の途中から戻ってきていた。濡れた前髪を払いもせず、空を見上げる。


「もう一陣来ます」


 その声で、店主たちが荷を奥へ移し始めた。


 ヴェスタは屋根の上にいた。


 いつ戻ったのか分からなかった。南の路地へ消えたはずの彼が、濡れた瓦の上を低く走り、外れかけた紐を結び直している。爪先が屋根を掴むように動く。海賊あがりの身軽さは、こういう時に何の説明もなく役に立つ。


 私は泣いている子供の前に屈んだ。


 五歳ほどだろうか。濡れた髪が額に張りつき、唇が震えている。私は白い羽織を脱いで肩に掛けた。布が雨を吸って少し重い。


「大丈夫」


 短い祝福を置いた。光神オルヴェリスの名を呼ぶ一行だけの祈り。子供の呼吸が少しずつ整っていく。小さな手が羽織の端を握った。


 二陣目の雨が屋根を叩いた。


 それも長くは続かなかった。雲は来た時と同じ速さで東へ流れ、白い陽が濡れた街路に戻った。石の道が眩しく光る。布屋根から水が落ち、旗がまた色を取り戻した。


 子供を母親に渡すと、母親は何度も頭を下げた。


 ガイウスが屋台の老婆と話していた。老婆は彼の腕を掴み、私たちの方へ顔を向けた。雨で濡れた頬の皺が深く見える。


「神官様、あんた方には礼を言わせて」


「ご無理なさらず」


 私が言うと、老婆は首を振った。


「北東の煙の話なら、うちの亭主が見たんだよ。聞いていきな」


 雨上がりの街に、また笛が戻り始めていた。


 だが私たちは、もう笛の方を向いていなかった。


──────────────────────────────


 老婆の亭主は南西の岸壁にいた。


 街路の坂を下ると、白珊瑚石の道は潮で色を濃くし、やがて木の桟橋と石の岸壁に変わった。観光客船の明るい表の港ではない。網を直す手、桶を運ぶ足、魚を選ぶ目でできた作業場だった。


 潮の匂いは食堂より濃い。魚の血と濡れた縄と、古い木材の匂いが混じっている。木槌の音。滑車の軋み。誰かが短く怒鳴る声。海が近くなると、人の言葉も短くなるのだと思った。


 亭主は網のそばにいた。だが彼に声をかける前に、岸壁の端の小さな集まりが目に入った。


 家族らしい五、六人が海に花を流している。白い花だった。波に乗るとすぐ離れていく。年長の女が涙を流し、その隣で男が肩を支えていた。


 慰霊だった。


 亭主は私たちを見ると、すぐその集まりを指した。


「神官様、先にあちらに祈ってやってくれませんか」


「もちろん」


「北東で消えた漁船の家族です。今朝、まだ帰らねえと諦めて、慰霊に来た。神官の祈りがあれば、きっと──」


 言葉の終わりは波に消えた。


 私は家族の前で頭を下げた。


「祈らせていただいてもよろしいですか」


 年長の女は声もなく頷いた。


 私は岸壁の端に膝をつかずに立った。海へ出て戻らなかった者のために、海の前で膝をつくことが正しいのか分からなかったからだ。光神オルヴェリスの祈りを、できるだけ簡素にした。名を呼び、道を願い、残された者の息が途切れないように願う。


 祈りの声は波の音に混ざった。すぐにほどけていく。祈れば死者が戻るわけではない。神官になって最初に覚えた痛みは、その事実だった。けれど、祈りのあいだ家族の背中は少しずつ揃っていった。乱れていた呼吸が、海に合わせるように静まる。


 終えると、年長の女がかすれた声で言った。


「神官様、ありがとうございます」


 その声は潮に濡れていた。


 近くの老漁師が網から手を離した。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。彼は私を見ずに海を見たまま言った。


「煙のあと、舟は消えなくなった」


「煙、ですか」


「北東の岩礁の方だ。三、四日前、海から黒い筋が立った。遠目だ。細けえことは分からん。だが、あれから北東で舟が消えなくなった」


 彼は網の結び目を一つ引いた。


「あれから、帰ってくる船が増えた」


 若い船員がそこで吐き捨てるように言った。


「だが人を呑む煙だ。救いの形じゃねえ」


 老漁師は振り返らずに返した。


「黙れ若造、お前の親父も帰ってきたろう」


 若い船員の口が閉じた。濡れた縄を握る手が白くなる。


 感謝。嫌悪。安堵。恐れ。岸壁の上で、それらは同じ方向を向かなかった。同じ黒い煙が、ある人の家族を返し、別の人の眠りを奪っている。


 ガイウスが亭主に向き直った。


「煙を、あんたが見たんだな」


 亭主は頷き、見たものを話した。煙の高さ。色。消え方。話すたびに形が変わる。老漁師の証言とも、女たちの噂とも違う。岩石島で私たちが見た跡とも、完全には重ならない。


 噂は海水のようだった。器に移すたび、形が変わる。


 レオンは黙っていた。


 私は彼を見なかった。見てしまえば、彼が何を抱えているかを知りたくなる。そして知ってしまえば、支える前に私の膝が揺れる気がした。


 彼の胸元で、鮫歯の護符だけが小さく揺れていた。


──────────────────────────────


 ガイウスは岸壁の警備員に声をかけるため、私たちと別れた。


 レオンと私は市場へ戻った。雨上がりの中央通りは、濡れた魚の銀と果物の赤で騒がしかった。売り子たちは声を張り、客は値を下げようと笑う。さっきまでの慰霊の白い花が、ここではもう遠いものに思える。


 一番声の大きい魚売りの屋台で、私たちは足を止めた。


 女将は丸い肩と太い腕をした人だった。日に焼けた顔でこちらを見ると、私の旅装とレオンのサッシュを一瞬で測った。


「神官様、何を捧げますか」


「捧げ物ではなく、お話を伺いたくて」


 彼女の手が止まった。魚の鱗を落とす刃が板の上で光る。


「神官様、何を聞きたいんだい」


「北東の煙のことを」


 女将の目の奥に影が入った。彼女は屋台の奥へ半歩引き、声を落とした。


「うちの弟が、見たよ。北東の岩礁の方を漁に出ていてね」


「どんな煙でしたか」


「空に上がる煙じゃないんだよ」


 女将は海の方を顎で示した。


「海面を這って、岩にまとわりついた、と言ってたね。神の罰なら、上から来る。あれは、下から来た」


 私は息を止めた。


 下から来た。


 岩石島の跡が脳裏に戻る。岩の表面に絡み、溝に入り込み、剥がしきれないように黒く残っていたもの。あの時はすでに煙はなかった。跡だけがあった。だから私は、煙がどこから現れたのかを言えなかった。


 下から来た。


 その言葉は私の記憶に合ってしまった。


 別の客が魚を選びながら口を挟んだ。


「でも、碇のフードどもが消えたんだろ」


 女将は頷いた。


「あの煙の前は、北東で碇のフードの船をよく見たって、弟が言ってた。あれから、見なくなった。だから、結局のところ、誰の煙だったかは、よく分からないんだよ」


 女将は私を見る。


「神官様、誰の煙だい」


 その問いは魚の匂いと一緒に胸へ入ってきた。


 私は答えられなかった。


 光神の名を呼べば、言葉の形は作れるかもしれない。けれど今ここで、それを答えとして差し出すことはできなかった。


 レオンが会釈した。会話を終えるための、丁寧で短い動きだった。


 女将は察してくれた。「魚を持っていきな」と言いかけたが、私は礼を述べて辞退した。背中で女将の声が客への声に戻る。


 市場はまた騒がしくなった。


 けれど私の中では、下から来た、という言葉だけが濡れた石の上に残っていた。


──────────────────────────────


 市場の路地に入ると、子供たちの声が壁に跳ねていた。


 細い塀の影に数人が集まり、一人が黒い布を頭からかぶっている。布はたぶん古い店の日除けを切ったものだ。子供は両手を広げ、ふらふら歩いた。


「黒煙の賢者だ!」


 別の子供たちが声を上げる。わざと怖がる者。笑う者。少し離れて見ている者。


 黒い布の子供がさらに叫んだ。


「悪い人を食べる賢者だ!」


 その言葉で、一番小さな子が泣き出した。


 布をかぶった子は慌てて布を脱いだ。汗で髪が額に張りついている。


「ごっこだよ。泣くなよ」


 けれど泣き声は止まらない。


 私は近づいて屈んだ。膝が濡れた石に触れた。子供の目は涙でいっぱいだった。


「もう大丈夫」


 光神の祝福を一行だけ置く。泣き声が少しずつ小さくなり、息がしゃくり上げる音に変わった。


 屋根の下から母親が走ってきた。


「神官様、申し訳ない」


「いえ、子供の遊びです」


 そう言ったが、母親の顔は笑わなかった。彼女は子供の手を握り、私にだけ聞こえる声で言った。


「神官様、本当はね、こうやって怖がらせる話にしないと、子供が、北東の浜の方に行ってしまうんだよ」


「北東の浜、ですか」


「岩石島の方角の浜さ。最近、岩礁から流れてきた漂着物が拾えるって言うんだ。青い金属の小片や、見たこともない貝殻や、光る石みたいなものまでね」


 母親は子供の肩を抱き寄せた。


「危ないと言っても行きたがる。だから怖い話にする。それしか、ないんだよ」


 私は頷いた。頷く以外のことが、すぐにはできなかった。


 岩石島で散ったものが、潮に乗ってこの島の浜へ届いている。戦いは終わった場所に残るだけではない。海はそれを運ぶ。噂も、破片も、恐れも。


 黒い布を持った子供が私を見ていた。罰の悪そうな顔で、布の端を握っている。私は笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。


「カイ」


 レオンの声が低く落ちた。


「はい」


「俺たちは、何を、追いかけてるんだろうな」


 私は答えを探した。


 探して、見つからなかった。


 だからただ、路地の向こうの白い光を見た。雨上がりの陽が壁を照らしている。そこだけなら、何も起きていない午後に見えた。


──────────────────────────────


 中央通りの広場でヴェスタと合流したのは、午後の早い時間だった。


 彼は約束より少し早く来ていた。酒の匂いが服に付いている。だが目は酔っていない。むしろ朝より鋭かった。薄い笑みの下で、港の音を拾い続けている顔だった。


「碇のフードはいた」


 彼は挨拶の代わりに言った。


「裏港の小舟で、夜に出て、朝に戻らねえ連中だ。最近少し減ったが、ゼロじゃねえ。三日前までは確かに動いていた、と倉庫番が言った」


 碇のフード。


 その意匠を聞くだけで、岩石島の湿った黒が戻る。白い岩肌。残った跡。消えた者たち。消えなかった疑問。


 ヴェスタは私の顔を見た。肩を少しだけすくめる。


「神官殿の祈りじゃ開かねえ口もある」


 笑っていなかった。私を責めてもいない。ただ事実を卓に置くような言葉だった。


 私の祈りで開いた口は、今日もあった。慰霊の家族。子供の母親。魚売りの女将。祈りの所作があったから、彼らは話してくれたのだと思う。


 けれど倉庫番の口は違う。酒の匂い。裏港の暗さ。金か昔の貸し借りか、ヴェスタにしか触れない糸があったのだろう。


 助かる手段が祈りだけでないのは、本当はずっと前から、知っていた。


 孤児院では、祈っても熱が下がらない子がいた。教会本部では、祈りのあとで空腹に戻る貧しい人がいた。私はそのたびに目を閉じて、祈りを続けた。目を開けたまま動く別の手が必要だと知っていたのに。


 それでも祈らなければ、私の手まで動かなくなる気がした。


 ヴェスタはその別の手を持っている。汚れた酒杯を持つ手。屋根に上がる手。誰かが隠した口をこじ開ける手。


 私は小さく息を吐いた。


「ありがとう、ヴェスタ」


 彼は一拍だけ意外そうにした。それから口角を上げた。


「神官殿に礼を言われちまうとは、海賊あがりも昇格したもんだ」


 軽口に戻すのが彼の優しさなのかもしれない。私はそう思ったが、口には出さなかった。


 彼は北の坂を顎で示した。


「魔導士の旦那が、もうすぐ降りてくる」


──────────────────────────────


 ヴァローは坂道を降りてきた。


 長い灰色の髪は湿気で少し乱れていたが、本人は気にしていない。革表紙の手帳を脇に挟み、歩きながらなお何かを書き足そうとしていた。坂を下る足取りまで、研究室の廊下を歩くように整っている。


 私たちに気づくと、彼は軽く頷いた。


「老研究者は、偏屈でした」


「でしょうね」


 ヴェスタが返した。


 ヴァローは手帳を開いた。頁の端には潮で丸まった紙片が挟まっている。


「黒煙の噂を、現地の迷信、と片づけました。想定内です。ですが、碇のフードの男たちの記録を出すと態度は変わりました」


「記録には弱い連中だな」


 ヴェスタが笑う。


 ヴァローはその軽口を受け流した。


「彼の言葉です。迷信は嫌いだが、同じ紋章が三つの港で出るなら、それは記録だ」


 三つの港。


 碇のフードは、岩石島の影だけではない。複数の港で同じ形を見せている。それは噂ではなく、動線のあるものだった。人がいて、船があり、命令があり、目的がある。


 胸の奥が冷えた。


 その時、広場の北側からガイウスが戻ってきた。重盾を背負った肩がいつもより固い。彼は私たちの前で立ち止まり、短く言った。


「警備員の話だが」


 風が広場を抜けた。濡れた旗が音を立てる。


「最近、港の警備が薄い。シレナ方面で、何かが起きてるらしい」


 ヴェスタの目が細くなった。


 ヴァローの手帳の筆が止まる。


 レオンが顔を上げた。


 そして、桟橋の方角で叫び声が上がった。


──────────────────────────────


 帆の裂けた小舟が、表の港へ斜めに滑り込んできた。


 白い帆は中央から裂け、片側だけが風を拾っている。舷側の塗装は剥げ、船底には岩に擦ったような傷があった。片方の艪は折れていた。船員は三人しかいない。その一人が舫を投げ、桟橋に膝をつく前に叫んだ。


「シレリオの当主が消えた!」


 港が止まった。


 魚売りの声。観光客の笛。桟橋で荷を下ろす掛け声。子供の笑い声。それらが一拍だけ抜け落ちる。風の音と波の音だけが残った。


 誰かが低く呟いた。


「シャーク・コーラーズに手を出したのか」


 その言葉は、人から人へ音もなく渡った。


 観光客は意味が分からず首を傾げている。だが地元の人々の顔は違った。土産物屋の笑顔が消え、魚売りの腕が止まり、船員たちは互いに目を合わせた。明るい祭りの布の下から、古い畏れが顔を出す。


 私は午前の屋台を振り返った。


 鮫歯の護符。沈んだ王の絵皿。刺青模様の布。笑い話として売られていたものが、今は別の重さを持っている。


 観光通りの鮫歯の護符が、冗談でなくなった。


「行くぞ」


 ヴェスタが短く言った。


 私たちは桟橋へ向かった。


 船員の周りにはすぐ人だかりができた。彼は水を受け取っても、飲むより先に断片を吐き出した。シレリオ家。ラウリ・シレリオ。シャーク・コーラーズの現当主。シレナ島の祭祀官。三日前の夜。碇のフードの一団。抵抗。数の多さ。混乱。


 彼自身は結末を見ていないと言った。別の島から戻る途中で、報告だけが先に走ったのだと。シレナの港も混乱し、冒険者組合の支部へ人手が集められているのだと。


 レオンの手が聖剣の柄へ近づき、すぐ離れた。


 ヴァローは人だかりの外で言葉の粒を拾っていた。ガイウスは桟橋の端に立ち、誰が近づきすぎるかを見ている。ヴェスタは一歩引いた場所から、船員の服と船の傷を見ていた。


 彼がガイウスに小声で言った。


「ここに長居するなよ。情報が一気に広がる」


 その判断には迷いがなかった。


 私たちは桟橋から離れた。背中で人々の声が増えていく。さっきまで一つだった知らせが、もういくつにも裂け始めていた。


──────────────────────────────


 戻る道のりで、噂は歩く速度より速く変わっていった。


 最初に聞いたのは、祭祀官が拐われた、という声だった。次の軒先では、沈んだ王の家臣が怒る、に変わっていた。三つ目の店では、若い船員が客を相手に声を潜めていた。


「いや、赤髪の賢者が朝から追った」


 レオンが足を止めた。


 鮫歯の護符が胸で小さく揺れる。


「赤髪の賢者」


 彼は私を見た。


「カイ、それは──」


「分かりません」


 私は答えた。早かった。自分でも驚くほど早かった。


「分かりませんが、可能性は」


「ある」


 レオンが頷いた。


 その頷きの中に、岩石島で見た黒い跡の影があった。断定してはいけない。けれど、そうであってほしいと思う心が先に動く。


 ヴァローが後ろから追いつき、手帳に短く書いた。


「一致点は、シレナ島、当主、朝に出た赤髪の賢者」


 彼は顔を上げた。


「ただし、断定はしません」


「噂だからか」


 レオンが聞く。


「噂だからです。伝わるごとに角が削れます。今残っているのは三つの角だけです」


 ヴェスタがその場で踵を返した。


「裏港で確認してくる」


 彼は走らなかった。ただし、歩く速さが変わった。斥候が急ぐ時の、目立たない速さだった。


 私はレオンと礼拝堂へ向かった。


 市場の喧騒は後ろへ遠ざかる。白珊瑚石の道は雨を吸ってまだ少し湿り、踏むたびに昼とは違う低い音を返した。


 レオンはしばらく黙っていた。


 私も黙っていた。


 言葉が早く出すぎる時ほど、祈りは遅れてやってくるのかもしれないと思った。


──────────────────────────────


 ホアロハ島の礼拝堂は、街の中心から少し外れた場所にあった。


 白い石造りの小さな建物で、光神オルヴェリスの教会ではない。祭壇の形も、聖典台の高さも、私が知るものと違う。海洋同盟の地方信仰が幾重にも混ざった場所なのだろう。入口には貝殻が吊られ、風が吹くと小さく鳴った。


 レオンには外で待ってもらった。


「短く祈ってきます」


「ああ」


 堂内は薄暗かった。湿った木と古い布の匂いがする。祭壇には白い石と乾いた海藻が置かれていた。誰の名に捧げられているのか、私には読めない。それでも祈りの場であることだけは分かった。


 私は右手の小さな祈祷台の前に膝をついた。


 光神オルヴェリスの祈りをここで唱えることが、正しいのかは分からない。けれど私は、私の祈り方しか持っていない。


 ラウリ・シレリオという名を、心の中で呼んだ。まだ生きていますように。助けの手が届きますように。追っている者が、裁きではなく救いのために海へ出たのだとしたら、その道が閉ざされませんように。


 祈りの言葉は小さかった。堂内の湿った空気に吸われ、外の波音と混じっていく。


 立ち上がろうとした時、すぐ脇に人の気配があった。


 老女だった。


 長袖の布を着ている。暑い島の午後には少し不自然な長さだった。袖口が祈りの所作でずれ、腕に薄い紋様の影が見えた。刺青だと分かった。観光通りの布飾りに似ていて、まったく違う。売られるための線ではなく、皮膚の下に時間を沈めた線だった。


 老女は袖を直さなかった。


 私が気づいたことも、分かっている顔だった。


「神官様、聞きな」


「はい」


「シレリオに手を出すのは、海に石を投げるのとは違う」


 私は息を止めた。


 老女の声は低く、堂内の湿りに沈まなかった。


「沈んだ王の家臣は、沈んだまま眠っているわけじゃない」


 それだけ言うと、老女は祭壇へ歩いた。足取りは何でもない。市場で芋を選ぶ人の足だった。彼女は短く頭を垂れ、貝殻の音を背にして外へ出ていった。


 私は祈祷台に手をついたまま動けなかった。


 今の言葉は、教会で習ったどの祈りにも似ていない。だが祈りだった。警告であり、記憶であり、誰かを守ろうとする声だった。


 外へ出ると、レオンがすぐ顔を上げた。


「カイ、顔色が」


「大丈夫です」


 そう答えた。


 大丈夫かどうかは分からなかった。ただ、足は動いた。祈りのあとで手を止めてはいけないことだけは、体が覚えていた。


──────────────────────────────


 ヴェスタは夕暮れの少し前に戻ってきた。


 今度は酒の匂いが濃かった。襟にも袖にも染みている。けれど歩き方は乱れていない。彼は私たちの前で止まり、濡れたような緑の目で一人ずつ見た。


「赤髪の賢者の船は、朝に出た」


 レオンの肩が動いた。


 ヴェスタは続ける。


「シレナの方角だ」


 ヴァローが手帳を開いた。


「補給は」


「水と、薬草を積んでいた」


 ヴェスタは倉庫の方角を親指で示した。


「倉庫番が積み込みを手伝った。間違いねえ。ただし通常の航海の補給じゃねえ」


「と、言うと」


 ヴァローの声は平らだった。


「水の量が普通の倍だ。薬草は傷の手当てに使うやつ。普通に行って帰る船なら、干物や香辛料を積む。あれは違う」


 彼は私を見た。


「神官殿、これは、急患か、救助用の積み方だ」


 胸の奥で何かがほどけかけた。


 私はそれを言葉にしなかった。言葉にすれば、祈りではなく希望の形になりすぎる気がした。


 レオンが代わりに聞いた。


「救助、なのか」


「断定はしねえ」


 ヴェスタは肩をすくめた。


「だが、人を斬りに行く船の積み方じゃねえ」


 その一文だけで、レオンの表情がわずかに変わった。重さが消えたのではない。重さの置き場所が変わったのだと思う。


 彼は首元の鮫歯に触れた。親指で灰黒の縁を撫でる。


「カイ」


「はい」


「俺は、確かめたい」


「ええ」


 私は頷いた。


 確かめたい。その言葉は、岩石島でレオンが震える声で言った言葉に似ていた。けれど今の声は少し違った。震えがなくなったわけではない。震えの下に、歩くための骨が通ったようだった。


 私は思った。


 そうであってほしい。


 赤髪の賢者の船が、人を斬るためではなく、人を助けるために出たのだと。岩石島の黒いものが、人を呑むためではなく、人を呑もうとした何かを止めたのだと。


 それは断定ではない。


 けれど祈りは、時々、断定できない場所にだけ置ける。


 夕暮れの光がレオンの胸元の護符に当たり、灰黒の歯が一瞬だけ白く光った。


──────────────────────────────


 夜、宿の私室で私たちは卓を囲んだ。


 窓は半分開けていた。湿った夜風が入ってくる。港の喧騒は昼より遠く、雨上がりの軒から水が落ちる音だけが近い。どこかで木鼓が一度鳴った。夕の潮位を告げる音だろう。鐘ではないその響きが、部屋の梁を震わせた。


 卓の上には収穫が並んだ。


 私は老漁師の言葉と、市場の母親の話と、礼拝堂の老女の言葉を書いた紙片を置いた。字が少し乱れていた。ガイウスは警備員から聞いた話を短く報告した。シレナ方面へ人手が出ていること。港の警備が薄いこと。ヴァローは研究院の海図を広げ、同じ紋章が三つの港で出たという記録を示した。


 ヴェスタは裏港の見取り図を紙ナプキンに描いていた。小舟の停泊場所。倉庫。酒場の裏口。水と薬草を積み込んだ朝の動線。線は乱暴だが、必要なものだけが見える。


 レオンは港役所の建前を置いた。混乱はない。正規の経路で報告が来る。そう言われたと、苦い顔で。


 そのあと彼は、首から鮫歯の護符を外した。


 麻紐が指を離れ、灰黒の歯が卓の中央に置かれる。小さなものなのに、置いた音が部屋の空気を変えた。


 朝は土産物だった。昼には街の古い言葉と結びついた。夕方には冗談でなくなった。今は私たちの話し合いの中心にある。


 ヴェスタが肘をついた。


「俺の契約は、勇者様のお守りと、海の揉め事の案内だ」


 声は低い。酒の匂いを帯びているが、酔いはない。


「沈んだ王の家臣だの、黒煙の賢者だの、古い神様だのは、別料金だぜ」


 レオンは彼を見た。


 ヴェスタは笑わない。


「だが、今行かねえと高くつく。命も、情報もな」


 沈黙が落ちた。


 ヴァローの指が海図の端を押さえる。ガイウスが椅子の背にもたれ、目を細めている。私は護符とレオンの手を交互に見た。


「船を出すなら、潮は夜明け前だ」


 ヴェスタは最後にそう言った。


 契約の話は、潮の話で終わった。彼らしいと思った。金額や範囲を言葉にしながら、その奥で彼はすでに船の向きと風の匂いを読んでいる。


 レオンが息を吸った。


 長くはなかった。けれど、その一息の中に孤児院の夜も、聖剣を帯びた朝も、岩石島の黒い跡も入っていた気がした。


「シレナ島へ行く」


 声は震えなかった。


 だが私は卓の下を見ていた。レオンの右手が聖剣の柄を強く握っている。指の関節が白い。震えが消えたのではない。震えを、柄の中へ押し込めている。


 それが今の彼の、震えない方法だった。


 ガイウスが短く言った。


「飯を食ってからな」


 ヴァローがすぐ続いた。


「食事は合理的です」


 ヴェスタがようやく笑った。


「勇者様、吐くなら、船に乗る前にしろ」


 レオンの口元が少しだけ緩んだ。


 その顔を見て、私は彼がまだ若いことを思い出した。勇者で、象徴で、聖剣を持つ者で、それでも私が昔寝台まで背負った子供と同じ人間だった。


 彼は卓の中央から護符を取り、また首にかけた。


 麻紐が首筋に戻り、灰黒の歯が胸元で静かに止まった。


──────────────────────────────


 合議の後、私たちは食堂で遅い夕食を取った。


 朝と同じ食堂なのに、窓の外は暗く、港の灯りが水に揺れていた。焼魚の香りは朝より重く感じた。粥は温かい。酸っぱい果物は舌を少し刺す。食べることがこんなにも現実に体を戻すのだと、私は皿を前にして思った。


 女将が皿を運んできた。昼の市場の女将とは違う人だが、同じように太い腕をしている。彼女は私の前に皿を置く時、声を落とした。


「神官様」


「はい」


「賢者様と言えばいいのか、化け物と言えばいいのか、神官様にはわかるかい」


 食堂のざわめきが遠くなった。


 私は皿を受け取り、少しだけ指を止めた。


「私にも、まだ」


 それが今出せるすべてだった。


 女将は頷いた。落胆した様子はなかった。最初から答えが出ないことを知っていたのかもしれない。ただ、問う相手が欲しかったのだろう。誰かが分からないと言ってくれることも、時には呼吸の置き場になる。


 彼女は空いた皿を抱えて厨房へ戻った。


 レオンは隣でその会話を聞いていた。何も言わず、魚を一口食べた。それから私を見て、小さく頷いた。


 頷き返すと、胸の奥で疲れが遅れて来た。


 食事を終えたあと、私たちはそれぞれの部屋へ分かれた。廊下の板は湿気で少し軋んだ。遠くの部屋で誰かが笑い、すぐに扉が閉まって声は消えた。


 夜は明るい島から、少しずつ余分な音を剥がしていった。


──────────────────────────────


 部屋へ戻ると、私は祈祷台の前に膝をついた。


 宿の小さな祈祷台には、光神オルヴェリスの紋章は刻まれていない。ただ旅人のために置かれた木の台で、角は多くの手に撫でられて丸くなっていた。私はロザリオを胸元から出し、銀の紋章を指に挟んだ。


 いつもの祈りを始めようとした。


 言葉はそこで止まった。


「正しい道を」


 その一節だけが、喉の前で動かなくなった。


 孤児院で最初に覚えた祈りだった。神よ、私を正しい道に導いてください。幼い頃の私は、それを唱えれば道は一本に見えるのだと思っていた。実際には道はいつも複数あり、見えている道が正しいとも限らない。


 岩石島の黒い跡。北東で帰ってきた船。人を呑む煙と言った若い船員。下から来たと語った女将。赤髪の賢者の船に積まれた水と薬草。どれも一つの答えにはならない。


 私は祈りを変えた。


「見誤らぬ目を」


 声には出さなかった。心の中でだけ言った。


 正しい道を選ばせてください、とは言えなかった。何が正しいのかを、私はまだ見ていない。だからせめて、見誤らぬ目を。黒煙の賢者を裁きに行くのか、人を救いに行くのか。ラウリ・シレリオが今どこにいるのか。レオンの震えが、どこまで彼を支え、どこから彼を傷つけるのか。


 光神オルヴェリスよ。


 私に、見誤らぬ目を。


 隣の部屋から砥石の音が聞こえた。ヴェスタが武器を手入れしているのだろう。刃を擦る音。布で拭う音。鞘に納める短い音。どれも規則正しい。祈りの拍に似ていて、祈りではない。


 私はふと思い出した。


 ヴェスタは、私の祈りの間も目を閉じない。


 前の港での合同の祈祷の時だった。レオンもガイウスも目を閉じ、ヴァローさえ瞼を下ろしていた。けれどヴェスタだけは目を開けていた。斜め前の柱の影、扉の隙間、誰かの手元を見ていた。祈りを拒んでいるのではない。彼は彼の流儀で、目を開けたまま祈りの場に立っていた。


 胸に寂しさが沈んだ。


 同じ場所に、頼もしさも残った。


 私は祈祷台から立ち上がった。寝台に横たわると、体がすぐに沈む。目を閉じていたかった。何も考えず、朝まで木のように眠りたかった。


 けれど手はロザリオを握ったままだった。


 夜の最後の木鼓が鳴った。私はそれを、鐘のように聞いた。違う音なのに、祈りを呼ぶものとして体が受け取った。


 答えは出なかった。


 それでも、祈りの形だけは手の中に残っていた。


──────────────────────────────


 夜明け前、私たちは港へ向かった。


 街は青黒かった。観光客の姿はなく、屋台は布を畳んで眠っている。白珊瑚石の道だけが、星明かりを薄く返していた。昼間は明るい音を返した石も、この時間には静かだった。靴音が少し遠くまで響く。


 湿った夜風が通りを抜けた。


 観光通りの軒先で、何かが揺れていた。


 朝に見た鮫歯の護符だった。売れ残ったのか、飾りとして残されたのか。麻紐の先で灰黒の小さな歯が揺れ、夜の青の中でわずかに光っている。革の小袋も隣で揺れていた。風に触れるたび、紐が軒の木に当たって小さな音を立てる。


 私は足を止めなかった。


 レオンも何も言わなかった。彼の胸元にも同じ護符が下がっている。昼の陽の中で見た時より、夜明け前の方がずっと重く見えた。


 桟橋にはヴェスタが先に立っていた。


 彼は私たちより早く港へ出て、潮と風と人影を読んでいた。青と黄色のバンダナが暗がりで沈んだ色に見える。片手は曲刀の柄近くにあり、もう片方の手は舫の結び目を確かめていた。


「行ける」


 短い声だった。


 ガイウスが荷を担いだ。山の男には海の朝は落ち着かないはずだが、足取りは鈍らない。ヴァローは海図を筒に入れ、手帳を懐に深くしまった。湿気を嫌う仕草が、こんな時でも丁寧だった。


 レオンは船に乗る前に一度だけ島を振り返った。


 ホアロハ島は静かだった。観光客の街。明るい港。笑い話として繰られる祭祀。鮫歯の護符。沈んだ王の絵皿。刺青模様の布。そして、その底に沈む二千年の畏れ。昼に聞いた声も、夕方の叫びも、夜の祈りも、今は青い沈黙の中にある。


 レオンが船に乗った。


 私が最後に足をかけようとした時、ヴェスタがこちらを見た。


「神官殿、潮は読めるか」


「いえ」


「俺が読む。あんたは祈れ」


 私は頷いた。


 舫が解かれた。


 船はゆっくり桟橋を離れた。木が水を押す音がする。ホアロハ島の白い道が後ろへ遠ざかり、港の灯りが海面に揺れて細くなっていく。


 シレナ島の方角は西だった。東の空はまだ淡く青み始めたばかりで、夜は完全には明けていない。私は舳先に立ち、海風を受けた。袖が後ろへ流れ、ロザリオが胸元で冷えた。


 祈りの言葉を口にした。


 だが風がすぐにほどいていった。


 光神オルヴェリスの耳へ届くのか。潮位の木鼓を打つ誰かの耳へ届くのか。あるいは、沈んだ王の眠る海の底へ沈んでいくのか。私には分からなかった。分からないまま、祈るしかなかった。


 祈れば答えが出るわけではない。


 それでも、祈らずに、手を止めることはできない。


 船は夜明け前の海を西へ進んだ。


 シレナ方面の空に、一瞬、不自然な赤い暁が見えた気がした。だが、目を凝らすと、それは、ただの普通の日の出の前の、雲の縁の色だった。たぶん、ただの、雲の縁の色だった。


 私は、もう一度、祈った。


 私の祈りは、もう、私の耳にも、聞こえなかった。

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