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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
43/56

定まらない

 夜の船上は、星空の濃さだけが近くにありました。


 岩石島から船首を西へ向けて、どれほど進んだでしょうか。潮の匂いは冷えています。甲板の板は昼の熱を失い、靴底から足裏へ静かに冷たさを渡してきます。帆はときどき低く鳴り、綱は湿った音でわずかに軋みました。波が船腹を撫でるたび、船は薄く身じろぎします。


 私は甲板の中央から少し外れた場所で、胸元のロザリオを握っていました。


 夕食の祈りを上げるべき時刻は過ぎていました。神官として、その時刻を体は覚えています。けれど声が喉の奥で止まるのです。「光神のご加護を」の最初の音だけが胸の底から浮かび、それ以上は上がってきません。息を吸う。鎖を指でなぞる。銀の粒がひとつずつ指の腹に触れる。そのたびに言葉の代わりに冷たさだけが残りました。


 岩石島の臭いは、潮風に薄められていました。


 それでも、消えてはいません。神官服の白の折り目。革のベルトの縁。髪の根元。鼻の奥。硫化物と腐臭と焦げと酸が、潮の塩のさらに下に沈んでいるようでした。風が強く吹くたび、表面だけが洗われます。けれど深いところに染みたものはほどけません。私たちは海の上にいるのに、まだあの島を身にまとっていました。


「神官の兄ちゃん、飯は」


 舵柄の方から、ヴェスタの声がしました。


 私は顔を上げました。


 星明かりの中に、ヴェスタの影がありました。片手は舵柄。もう片方の手は腰のあたりで縄を扱っています。舵の横に垂れていた細い索を指先で引き、結び目の緩みを確かめているのでした。青と黄色の迷彩のバンダナが、夜風の中で薄く揺れています。


「いただきます、後ほど」


 そう返すのがやっとでした。


 胃はまだ固く閉じていました。空腹はあるはずです。体は一日を越えて働きました。けれど食べ物を思い浮かべると、岩石島の中央で見たものが喉の奥に戻ってくるのです。祈れない。食べられない。その二つが、神官である私の体を内側から細くしていました。


「無理するな」


 ヴェスタは縄を結び終えて、舵柄に手を戻しました。


 軽口ではありませんでした。いつものヴェスタなら、ここで何かを足したでしょう。神官の兄ちゃんが痩せたら女神も泣くぜ、くらいの乱暴な冗談を置いたかもしれません。けれど今夜は置きません。声は粗いままでしたが、粗さの奥に余計なものを削った静けさがありました。


「ヴェスタ」


 私は舵柄の方へ歩きました。


 甲板の板が、足の下でかすかに鳴ります。夜露が薄く下りていて、手すりの上に指を置くと湿り気が残りました。ヴェスタの横まで行くと、海風が二人の間を抜けます。彼の灰色がかった緑の瞳が一度だけこちらに動き、それからまた進路の方へ戻りました。


「貴方の眼に、あの賢者はどう映りましたか」


 問いは短く出ました。


 ヴェスタはすぐには答えませんでした。舵柄を握る手の親指が、木の表面を一度撫でます。先ほど結んだ縄の端が、彼の膝の横で揺れました。即断する人が一拍を置く。それだけで、今夜の問いの重さが分かります。


「俺の手に負える話じゃねえ」


 その声は低く、乾いていました。


「だが、ついていく」


 続いた言葉は、あの朝と同じでした。


 ヴェスタは舵から目を離さず、少しだけ顎を引きました。


「兄ちゃん、こいつは組合の経験じゃ整理できねえ話だぜ。港の揉め事、海賊の癖、商船の嘘ならまだ嗅げる。俺はそういう場所で飯を食ってきたからな。だが、あの島の真ん中にあったもんは違う」


 舵柄が小さく軋みました。船首が風を拾い直し、帆の影が星空の下で鈍く動きます。


「地図に印をつけられる話じゃねえ。誰が得をして、誰が損をして、誰が逃げたか。そういう線で引けねえんだ。お前ら教会の連中の方が、こういう矛盾を入れる箱を持ってるんじゃねえか」


 私は夜の海を見ました。


 星が海面に映り、波に砕かれています。砕けても、次の波でまた別の光になります。地図の上に置けないものが、世界にはあります。神官として私は、それでも祈りの置き場を探す者のはずでした。


「私たちも、整理できないでいます」


 私の声は、思ったよりも小さく出ました。


 ヴェスタの口元が、ほんの少しだけ動きました。笑ったというより、息がこぼれた音でした。


「そうかい」


 それだけ言って、ヴェスタはまた舵に戻りました。


 左手で舵柄を押さえ、右手で縄の張りを確かめる。足の位置をわずかに変え、体重で船の揺れを受ける。実務の所作の中に、彼の答えがありました。ヴェスタはこの先も船を進めます。けれど私たち四人の整理には入らない。そういう線を、言葉にせず引いているのでした。


 私は短く礼を告げ、舵柄から離れました。


──────────────────────────────


 甲板の縁に立ちました。


 手すりに片手を置き、もう片方の手でロザリオを握り直しました。銀は冷たく、指の熱をゆっくり奪います。海面を見下ろすと、星空は揺れていました。岩石島は背後です。振り返ろうとして、私は首を止めました。黒い柱はもう見えないはずです。それでも眼の奥には、まだ縦に立っています。


 ヴェスタの言葉が、私の内側で別の記憶を呼びました。


 あの賢者。


 私は心の中で、その呼び方をもう一度置き直しました。


 あの方が、海賊3隻からヴェラーナ港を救った方でもあります。


 それは皆が知っている事実でした。ヴェラーナ港にいた頃、伝道師マルクス様から聞きました。街の住民からも、商人からも聞きました。商船3隻が襲われ、海守り衆と賢者の連携で2隻が撃退されました。1隻は逃げた。住民の被害は抑えられ、多くの船員が救われました。公的な記録の中では名が薄くても、人々の声の中には確かに残っていました。


 その同じ方が、岩石島の中央を地獄に変えたのです。


 その同じ方の連れの方を、私は知っていました。


──────────────────────────────


 私の胸の奥で、潮の冷たさとは別の温度が立ち上がりました。


 ヴェラーナ港の小教会から坂を下り、商家連合の支部を横目にして住宅街へ向かった朝のことです。海賊事件から三日目でした。伝道師マルクス様から紹介された遺族の家へ、私は祈祷と聞き取りのために向かっていました。


 玄関の木は少し潮で白くなっていました。戸口には子供用の小さな履物が揃えてあり、軒先の縄には濡れた布が干されています。家の中には、煮出した薬草の匂いと古い涙の匂いが混ざっていました。悲しみのある家には、独特の静けさがあります。声を小さくするだけでは足りない静けさです。


 居間で、海守りの戦闘服を着た青年に会いました。


 革の軽装。深い藍と砂色の重ね着。背中の革紐に下げられた潮鎚。立ち上がる時の姿勢が、あまりにも静かでした。若い方でした。けれど膝の使い方にも、視線の置き方にも、若さだけではない落ち着きがありました。


「ヒュウマと申します。海守り衆の方から聞き取りに伺いました」


「カイ・グレイスです。聖オルヴェリス教会から祈祷とご家族のケアに伺いました」


 互いに名乗りました。


 卓の幅だけ、私たちは離れていました。視線が一拍だけ合います。教会の神官と海守りの方。祈りの体系も、立つ場所も違います。けれどあの方の瞳の縁にあった警戒は、私の名乗りの後で少し緩みました。私も同じように、胸元のロザリオから指を離しました。


 奥さんがお茶を運んでくださいました。手が震えていて、湯気が皿の上で細く揺れていました。あの方はすぐに立ち、椅子を一つ引いてくださいました。音を立てない引き方でした。誰かを驚かせないために体が覚えた動きです。私は会釈を返し、薬草と包帯の布袋を卓の脇に置きました。


 聞き取りの途中で、奥さんが声を細くされました。


「海守りの儀礼で海に沈んだ方の魂を還すことができると伺いました」


 あの方は短く頷かれました。


「《魂の還し》、と申します」


 それだけでした。


 長い説明はありません。けれどその短さの中に、儀礼を軽く扱わない方の重みがありました。海に沈んだ魂を還す。光神のご加護を魂に渡す。言葉も作法も異なります。ただ死者のために手を伸ばす方角は、確かに重なっていました。私は教義の外で、同じ願いに触れた気がしました。


 子供を介抱する手も、覚えています。


 奥さんの腿に頭を預けていた幼い男の子が、私の祈祷の途中で泣き出しました。声を我慢しようとして、余計に喉が詰まる泣き方でした。あの方は卓の脇から立ち上がり、男の子の頭の上に手を置きました。押さえつけない。撫ですぎない。そこにいると知らせるだけの触れ方でした。


 男の子の肩が、少しずつ下がりました。


 その時、奥さんの指が湯呑みの縁を握り直しました。私の祈りは続いていましたが、私の眼は一瞬だけあの方の手を見ていました。子供を扱い慣れた手。誰かの悲しみを急がせない手。戦闘服の硬さと、掌の柔らかさが同じ体にありました。


 あの方は、優しい方でした。


 その確認は、私の中で今も消えていません。海守りの当代として若く、潮鎚を背に下げ、索具を腰に巻く方。それでも遺族の家の居間では椅子を引く方。子供の頭に静かに手を置く方。私が教義の外で祈りの重なりを受け取った相手でした。


──────────────────────────────


 それから雨上がりの桟橋で、もう一度視線が交わりました。


 勇者一行が四人でマリヴェルの蒼凪とあの方に対峙した朝でした。板の隙間には雨水が残り、港の空気は洗われたように冷えていました。私は後衛で、ヴァローの斜め後ろに立っていました。ロザリオを胸元で握る指が一度ほどけ、それからまた握り直されたことを覚えています。


 境界線越しに、あの方と視線が一拍交わったのです。


 あの賢者の《断絶境界》が桟橋の中ほどに広がる前の、短い瞬間でした。あの方は内側に立っていました。潮鎚を構え、マリヴェルの蒼凪を守る位置です。私は外側で、《光神の祈り》のフィールドを展開しようとしていました。


 本来なら、祈りは行くべき場所へ広がります。味方を支え、傷ついた者に光を渡す。その形を私は信じています。けれどあの朝、私の祈りの縁は一瞬だけ薄くなりました。あの賢者は敵の側にいる。ただ住民を救った方でもある。あの方も敵の側にいる。ただ私は一度、あの方の手の柔らかさを知っている。


 フィールドの端が、呼吸に遅れました。


 視線が交わったのは、その薄くなった縁の上でした。


 茶色の瞳が私を一拍だけ捉えました。あの遺族の家で会った神官と、桟橋で対峙する相手。その二つがあの方の眼の中で同じ一人として結び直されたように見えました。私の中でも同じことが起きました。祈りを向ける相手と、追わなければならない相手が重なったのです。


 あの一拍の後、視線はすぐに外れました。


 けれど私は、その短さを忘れられませんでした。


──────────────────────────────


 そして、岩石島でした。


 あの方は、岩石島には上陸しなかった。少なくとも、私たちが見た場所に姿はありませんでした。残されていたのは、あの賢者の戦闘の痕跡です。焼けた岩。崩れた地面。形を失ったもの。神官として祈るべき死者の数すら、簡単には数えられない場所。


 けれどマリヴェルの蒼凪の連れとして、あの方はあの戦闘の側に立っていました。その事実は消えません。海賊3隻から港を救った同じ方々が、岩石島の中央を地獄に変えた。私はそれを同じ一つの線で結べませんでした。


 三つの像が、同じ人々の上に重なっていました。


 救済者。対峙者。破壊者。


 私の祈りは、どこへ向かうべきなのでしょうか。


 問いは胸の奥でほどけません。ロザリオを握る力を一度緩め、また握りました。銀の冷たさは確かです。星空も、波音も、甲板の冷えも確かです。けれど確かなものがいくつ並んでも、それらはまだ一つの答えにはなりませんでした。


──────────────────────────────


「カイ」


 レオンの声が、舳先の方角から聞こえました。


 私は振り返りました。


 レオンが戻ってきていました。白い旅装。深紅のサッシュ。腰の左には聖剣。昼なら陽光のように見える金髪も、今は星の下で淡い銀の色に沈んでいます。オレンジの瞳は夜の中で一段深く、火を内側にしまい込んだようでした。


「集まらないか」


 レオンは短く言いました。


「ヴァロー、ガイウス、お前。話したい」


 私は頷きました。


 甲板の中央へ向かいます。油皿の小さな灯りが置かれていました。火は弱く、風に煽られるたびに皿の縁へ伏せるように揺れます。ヴァローはすでにそこに座っていて、紙束を膝の上に置いていました。灰色のローブの裾が甲板の上に細く広がっています。月の魔導書ではなく、教会から預かった文書と自分の記録を合わせた束のようでした。


 ヴァローは紙の端を指で押さえ、膝の上で揃えています。束の下を軽く叩き、角を合わせる。湿った夜気で紙が少し反っているためでしょう。彼はそれを嫌うように、親指で一枚ずつ押し戻しました。皮肉ではなく、手順そのものに集中している顔でした。


 ガイウスが舷側から立ち上がりました。


 重盾を背に、毛皮のマントの裾が船板を擦ります。広い肩が星明かりを受けて、甲板の上に暗い幅を作りました。緑の瞳が一度だけ空へ動きます。それから、私たちの中央へ戻りました。船が揺れるたび、彼の足はほとんど動きません。山の戦士には不慣れな海の上でも、重心は乱れていませんでした。


 四人が甲板の中央に立ちました。


 円というには歪んでいます。レオンが舳先側。ヴァローが油皿の横。ガイウスが舷側寄り。私は船室への階段に少し近い位置です。けれど四人の間に、言葉が置かれる場所ができていました。岩石島から続いた沈黙が、ようやく形を持とうとしていました。


 最初に口を開いたのは、レオンでした。


「あの賢者を、俺たちはどう読むか」


 声は低く、整っていました。


「俺の中で、像が定まらない」


 雨上がりの桟橋で、レオンが決意を掲げた朝のことを私は覚えています。あの時のレオンは、目撃した事実で十分だと自分の中で線を引きました。住民を傷つけ、煙幕で逃げた相手。追うべき相手。勇者として正義の形を保つために、彼は迷いを声の外に押し出していたのです。


 その同じレオンが、今は定まらないと言いました。


 ヴァローが紙束を膝の上で整え直しました。角を揃え、親指を一番上の紙に置きます。それから視線を紙から上げました。灰色がかった暗い瞳が、油皿の灯りをわずかに拾っています。


「私の観察では、複数の像が同じ一人の中で同時に立っています」


 静かな声でした。皮肉の棘はありません。ヴァローが自分の防御を下ろし、観察だけを置く時の声です。


「整理いたします」


 彼は紙の上に指を置き、見えない線を引くようにゆっくり動かしました。


「像の一つ。マリヴェルの蒼凪。賢者の階位、客員賢者として評議会に呼ばれる立場。塔の体系の外にある独自の権能体系。これは桟橋で確定した事実です」


 紙の端を一枚めくる音がしました。


「像の二つ。ヴェラーナ港の海賊事件、海賊3隻から港を救った賢者。住民の証言が複数あった事実です。商船3隻が襲われ、2隻が撃退され、1隻は逃げた」


 ヴァローの指が次の行へ滑ります。


「像の三つ。商家連合支部の夜、《重圧》の余波で住民2人を傷つけた賢者。我々が現場に駆けつけた夜です。剣士──レオン、貴方が傷ついた住民の方角に走りました。神官──カイ、貴方も続いた。私と、ガイウスと。あの夜、我々は追う側に立ちました」


 レオンの肩が、ほんの少しだけ動きました。あの夜の走り出す背を、私は覚えています。


「像の四つ。桟橋で《断絶境界》煙幕を張って勇者一行から逃げた賢者。我々の追跡を一度、煙の中に消した方です」


 もう一枚、紙が鳴ります。


「像の五つ。岩石島の中央を地獄に変えた賢者。私の《翳り見》が読みきれなかった、神格の系譜の権能。世界の地図の外」


 そこでヴァローは紙から指を離しました。


「これらが、同じ一人の中で同居しています」


 沈黙が降りました。


 油皿の火が揺れます。波音が低く続きます。ヴェスタのいる舵の方から、縄が船体を叩く短い音がしました。


「私の観察では、まだ収束しません」


 ヴァローは言い切りました。


 ガイウスが腕を組みました。革鎧と金属板が低く擦れます。彼はすぐには話しません。顎を少し下げ、ヴァローの言葉を体の中で重さとして測っているようでした。それから首を一度だけ横に振りました。否定ではなく、余分な枝を落とす動きでした。


「賢者の力は」


 ガイウスの声は低く、短いものでした。


「向ける方角で、別のものになる」


 その言葉は、甲板の中央に太い杭のように置かれました。


「ヴェラーナ港の海賊3隻、あの規模を一人で潰す力。岩石島の地獄、あの規模を一人で作る力。同じだ。違うのは、向けた方角だけだ」


 ガイウスは言い終えると、腕を組んだまま黙りました。説明を飾りません。山で石を積むように、必要な形だけを置く人です。


 ヴァローが紙束を膝の上で軽く叩きました。


「同じ力が、向け方で別の効果を持つ。観察として、ガイウスの整理は筋が通っています」


 ガイウスは短く頷きました。


 レオンが息を吸いました。深く吸ったはずなのに、胸の奥でどこか引っかかったような呼吸でした。彼は星空を一度見上げます。高く広がる星の下で、勇者の深紅のサッシュが夜に沈んでいました。


「向けた方角で別のものになる、なら」


 レオンは視線を戻しました。


「俺たちは、何を裁くのか」


 その問いに、誰もすぐには返しませんでした。


 裁く、という言葉が中央に置かれました。けれど誰の手も伸びません。ヴァローは紙束を押さえたまま。ガイウスは腕を組んだまま。私はロザリオを握ったままです。決意で形を保っていたレオンが、自分の足元を見ている。そのことが、私の胸に静かに触れました。


「俺たちが、なぜ追うのか」


 レオンは続けました。


「確認したい」


 ヴァローが紙束を閉じました。紙の端を揃え、膝の上に置き直します。次の言葉の前に、彼は一度だけ目線を下げました。


「私たちの密命は、深淵なる神の討伐です」


 声が一段低くなりました。


「ただし、教会本部からの密命の中身はもう一段具体的に言えば──」


 ヴァローは一拍置きました。


「あの賢者が本当に深淵なる神とつながっているか、確かめる」


 四人の沈黙が、さらに深くなりました。


 その言葉は、私も知っていました。表向きの言葉。内側の言葉。レオンに下された使命の形。伝道師マルクス様から私が軽く伺っていたもの。ヴァローは塔派遣の時に受け取ったのでしょう。ガイウスは戦闘員として全てを知らされていたわけではないはずです。それでも今夜、四人は同じ一点に揃いました。


「裁くより、確かめる、か」


 ガイウスが言いました。


「ああ。そっちの方がまだ噛める」


 ヴァローは短く息を吐きました。


「ええ。裁きは、確かめた後の話です」


「では、私たちは追って確かめる」


 私は言いました。


 自分の声が、いつもより少し遅れて聞こえました。ロザリオを握る指は、まだ冷えていました。


「ああ」


 レオンが返しました。


 短い返事でした。けれどそこには、いつものように前へ出るだけの熱ではなく、揺れた足でなお立つための重さがありました。私はその声を聞きながら、孤児院で小さかった彼が夜に目を覚ました時の呼吸を思い出していました。眠れない時ほど、レオンは短く返事をする子でした。


 私は四人の中央で、ロザリオを胸元に引き寄せました。


「私の中にも、像は定まりません」


 そう告げました。


「岩石島で見たものと、ヴェラーナ港で住民を救った方が同じ一人だと思えません。祈りも、誰に渡すべきか判じきれません」


 ヴァローがこちらを見ました。灰色の瞳は冷たく見えます。けれど今は、冷たさの中に記録の正確さだけがありました。


「カイ、貴方の祈りが揺らぐのは観察者として記録すべき事実です」


「ありがとうございます」


 私は返しました。


 ヴァローの皮肉が落ちていることを、私は岩石島の朝から感じていました。彼の言葉は時に鋭い。けれど今夜の鋭さは、誰かを切るためではありません。見えないものの輪郭を少しでも確かめるための刃でした。


 ガイウスが腕をほどき、盾の柄に手をかけました。背負ったままの盾が、わずかに動きます。


「俺は難しいことは全部は読まん」


 彼は言いました。


「だが、止める時は止める。確かめた後でな」


 レオンがその言葉を受け、頷きました。


 ヴァローが紙束を膝の上で軽く叩きました。


「私の結論は、像が定まらないという結論です」


 ガイウスが短く頷きました。


「俺は、止めればいいと判じる。確かめた後で」


 私はロザリオを握り直しました。


「私は、祈ります。誰にどう触れるか、分からないまま祈ります」


 最後に、レオンが口を開きました。


「俺は、追う。それは決めた。追って、確かめる」


 四人の間に、もう一度沈黙が降りました。


 夜の海風が低く通り抜けます。油皿の火が細く揺れ、ヴェスタの影が舵柄の上で動かずにいました。船は西へ進んでいます。進んでいるのに、私たちの内側だけはまだ同じ問いの前に立ち尽くしていました。


──────────────────────────────


 ヴァローとガイウスが船室に戻りました。


 見張りの交代と休息の時間でした。ヴァローは紙束を片腕に抱え、もう片方の手でローブの裾を軽く払いました。階段を降りる前に一度だけ油皿の火を見て、それから何も言わずに下りていきます。ガイウスは盾を背中に上げ直し、肩の位置を整えて続きました。重い足音が船板に二つ、三つ。やがて船室の方へ消えました。


 甲板に残ったのは、レオンと私でした。


 ヴェスタは舵柄にいます。こちらを見ていないようで、見ていないわけではない距離です。声をかけない配慮を、粗い所作の中で保っていました。星空の下、私とレオンは甲板の中央に立っています。波の音。帆の低い軋み。油皿の小さな光。船の揺れが二人の影をわずかにずらしていました。


 レオンと二人になった瞬間、私の口調が一段下に降りました。


「お前」という言葉が、自然に喉の奥で形を取っていました。四人の前では私は神官です。仲間の一人であり、祈りを預かる者です。けれどレオンと二人で立つ時だけ、私はその形を少しほどきます。兄として、弟と二人で立つ時の声。孤児院の夜からずっと、私の中に残っている声です。


 レオンが先に口を開きました。


「カイ、お前は、何を見ている」


 二人になった途端の、お前呼びでした。四人会議の勇者の声ではありません。弟として兄に預ける時の声です。


「お前を、見ています」


 私は返しました。


 丁寧体は崩れません。けれど声の温度だけが、祈祷台の前から孤児院の寝台脇へ戻っていました。


「俺を」


 レオンは小さく繰り返しました。


 私は半歩近づきました。手を伸ばせば肩に触れられる距離です。触れませんでした。触れる前に言葉を置くべき時があると、私は知っています。


「お前は、震えていました。あの船の上で。私は気付いていました」


 レオンの呼吸が止まりました。


 ほんの短い間でした。けれど私には分かりました。彼の左手が聖剣の鞘の近くで止まり、指先が革の縁に触れる前に浮いたままになります。オレンジの瞳が一度伏せられました。星明かりが睫毛の影を頬に落とします。


「ああ」


 短い肯定でした。


 震えを否定しない声でした。岩石島から戻った船の上で、四人とも気付いていた震え。誰も口にしなかった震え。ヴェスタでさえ軽口の温度で受け止めた震え。それを今、レオンは兄の前で認めました。


「正義か、畏怖か。それとも別の何か」


 レオンは言いました。


「判じきれない」


 言い終えた後、彼は聖剣の鞘に手を添えました。握るのではなく、添えるだけでした。白銀の鞘は星明かりを淡く返しています。その光は美しく、けれど今夜はどこか遠いものに見えました。


 私は手すりの方へ一歩動き、彼の隣に並びました。海面の星が揺れています。風は冷たく、神官服の袖口から入り込んで腕を冷やしました。


「私の祈りも揺らいでいます」


 私は静かに告げました。


「判じきれない者の隣に立つ祈りで、私は十分です」


 レオンが私を見ました。


「十分なのか」


「十分にするのです」


 私は答えました。


「祈りは、答えを持つ者だけのものではありません。答えを持たない者が、それでも手を合わせるためにもあります」


 レオンの喉が小さく動きました。


 私はそれ以上、彼の震えを広げませんでした。震えの理由を掘り出すことはできます。兄として知りたい気持ちもあります。神官として受け止めたい思いもあります。けれど、弟の胸の奥にあるものを私の手で無理に明るみに出すことは、支えることではありません。


「兄として、お前の震えにこれ以上は触れません」


 私はロザリオを握り直しました。


「お前が判じる時を、私は待ちます」


 レオンは深くはない、けれど確かな頷きを返しました。


 しばらくの間、波音だけがありました。


「カイ、すまない」


 レオンの声が、また一段砕けました。


「俺は、確かめるまで、お前にも本当のところは言えない」


 その謝罪は、四人会議では出ないものでした。勇者として仲間に向ける言葉ではなく、弟として兄に渡す言葉でした。私はそれを胸の奥で受け取りました。痛みを持つ言葉でしたが、同時に信頼の形でもありました。


「言わなくていいのです」


 私は返しました。


「私は、隣にいます」


 レオンの指が、聖剣の鞘からゆっくり離れました。


 二人の沈黙が、星空の下に降りました。


──────────────────────────────


 私はレオンの隣で、聖剣の方角を一度だけ眼の隅で確かめました。


 腰の左の聖剣。白銀の鞘。光神オルヴェリスの紋章。私はその気配を、神官としてずっと感じてきました。教会本部の保管庫にあった頃の静かな気配。レオンが擁立され、貸与されてから腰に下げるようになった気配。聖剣は剣であり、象徴であり、祈りの器でもありました。


 桟橋の朝、《暁光》が発動した時、剣身に光属性が薄く纏うのを見ました。けれどその光は、奥まで沈みませんでした。表面に沿って走り、すぐに縁で止まるような光でした。本来なら、もっと深く広がるはずです。私は神官として、それを目ではなく胸の奥で聞いていました。祈りの反響が浅い時の感覚に似ていたのです。


 あの賢者は、おそらくそれを読んでいました。


 私にはそう思えました。あの時の視線。あの時の間合い。剣身を前にした沈黙。言葉にはされませんでしたが、見抜かれていたものがある。そう感じました。


 岩石島の朝も、私は気付いていました。


 レオンが聖剣の柄を握る手の力が、いつもより強かったこと。鞘の白銀が薄い影の中で、いつもの澄んだ静けさとは違う気配を帯びていたこと。聖剣が沈黙しているのか、レオンの内側が揺れているのか。私には判じきれません。ただ違う、ということだけが胸に残りました。


 それを、私はレオンに伝えていません。


 感じることと、言葉にして渡すことは別です。神官としてなら、確認すべきかもしれません。けれど兄としては待つべき時があります。レオンが自分でその気配に気付くまで、私は何も言いません。


 それが私の所作でした。


 神官として祈り、兄として隣に立つ。その二つはいつも同じではありません。時には片方が言葉を求め、もう片方が沈黙を求めます。今夜の私は、沈黙の方を選びました。


 レオンには伝えません。


 私の内側だけに留めます。


──────────────────────────────


 海風がもう一度、二人の間を通り抜けました。


 岩石島の臭いは、鼻の表面からは遠のいていました。けれど深いところには残っています。神官服の白の隙間。革の旅装の繊維。髪の根元。祈りを止めた喉の奥。船が進むほど薄れていくのに、消えません。あの場所は後方にあるはずなのに、体の内側ではまだ近いのです。


 ヴェスタの影は、舵柄の上にありました。


 彼は一度、こちらを見たかもしれません。けれど声はかけませんでした。縄を引き、舵の角度をわずかに直す。青と黄色のバンダナの端が夜風に揺れる。海を知る人の所作は、言葉より先に船を守っていました。


「カイ」


 レオンが、もう一度呼びました。


「いるか」


 幼い頃にも、同じような声を聞いたことがあります。孤児院の寝室で、夜中に目を覚ましたレオンが暗がりの中で私を呼ぶ声です。あの頃の彼はもっと小さく、寝台の端から足を下ろすのも慎重でした。私は隣の寝台から起き上がり、いると答えました。それだけで、彼はまた眠れることがありました。


「います」


 私は返しました。


 レオンが短く笑ったような気配がありました。笑いというには小さすぎる、息がほどける音です。岩石島の朝から続いていた硬さが、ほんの少しだけ緩む音でした。


「ありがとう」


 レオンは言いました。


「礼を申し上げるのは、私の方です」


 私は答えました。


「お前が、震えながらも追うと決めた。その隣に立てる役目を、私は受け取りました」


 レオンは頷きました。


「重い役目だぞ」


「知っています」


「カイは、そういう時だけ頑固だ」


「お前ほどではありません」


 言ってから、私は少しだけ息を緩めました。レオンもほんのわずかに口元を動かしました。軽い掛け合いにも満たない短いやり取りでした。それでも、私たちの間に孤児院の夜の温度が一瞬戻りました。


 二人の沈黙が、もう一度星空の下に降りました。


──────────────────────────────


 私は船室に戻る前に、胸元のロザリオを確かめました。


 銀の紋章は冷えています。けれど握っているうちに、少しずつ指の熱を受け取りました。私は目を閉じました。甲板の冷え。帆の軋み。波の低い音。油皿の光。星空の濃さ。それらが私の周りに並び、ようやく祈りの場所になりました。


 夕食の祈りを、短く上げました。


「光神のご加護を」


 声に出した瞬間、喉の奥で止まっていたものがほどけました。


「あの方々にも、私たちにも」


 あの賢者にも。あの海守りの方にも。追う側に立つ私たちにも。舵を取るヴェスタにも。紙束を抱えて船室に戻ったヴァローにも。重盾を背負って黙って降りていったガイウスにも。震えながら追うと決めたレオンにも。祈りが同じ温度で渡ることを、私は願いました。


「いずれの行いも、いずれの罪も、いずれの祈りも、私には判じきれません。だから、いずれの全体に、祈ります」


 岩石島の中央で、私は似た言葉を死者の前に置きました。今夜は、生きている者たちの上に置きます。救った行い。傷つけた行い。逃げた行い。追う行い。確かめる行い。どれか一つだけを選び、そこに祈りを置くことができませんでした。


 光神は、いつも応えてくださるわけではありません。


 神格の沈黙を受け入れることも、神官の所作の一つです。応えがないことと、届かないことは同じではない。届いた上で沈黙が返ることもある。沈黙そのものが、私たちに委ねられた形であることもある。私はそう教わり、そう信じてきました。


 けれど今夜の祈りが届いたのか。


 届いた上で、応えられなかったのか。


 そもそも、私の祈りがどこへ向かえばよいのか。


 私には、判じきれませんでした。


 判じきれないまま、私は祈りを終えました。


 レオンの隣で、もう一度星空を見ました。ヴェスタの舵柄の上の影。ヴァローとガイウスが消えた船室の階段。岩石島の臭いが薄く残る神官服の白。私の手の中のロザリオの銀。聖剣の白銀の鞘。それらは夜の船上に並び、まだ一つの像には収束していません。


 定まらないまま、船は西へ進んでいた。

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