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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
42/57

正義か、畏怖か

 西の空はまだ濁っていた。一晩経っても消えない濁りは、煙だ。俺の鼻は朝の風の中にもう、その匂いを薄く拾っていた。


 舵柄に手を置いて、俺はノナ港の桟橋を背にした。桟橋の杭には朝露が残っていて、縄の繊維が湿って黒ずんでいる。船は小さい。勇者の兄ちゃんが後ろ盾の港組合から借りた漁船の改装。五人乗ればきつい代物だが、岩石島の手前まで一日もかからん。


 艫の板はまだ新しい。けれど元は漁船だ。魚の脂が染みた木の匂いは消えない。舷側の補強は雑に見えて、実用には耐える。潮を被っても沈まないこと。それがこの船に求める全部だ。


 風はちょうど西寄り。潮目もまだ素直だ。舵柄の木目を掌で撫でると、細かいささくれが皮膚に引っかかった。俺は指の腹でそれを確かめ、船首の角度を少しだけ変えた。


「ヴェスタ、頼む」


 舳先のレオンが短く言った。白い旅装に深紅のサッシュ。腰の左に聖剣。朝の光を浴びると、目立つことこの上ない。港の娘なら一度は振り返るだろうし、敵なら最初に狙う。


「任せろ、勇者の兄ちゃん」


 俺は軽く返した。


「揺れるぞ。格好つけて落ちるなよ」


「落ちない」


「そういう奴から落ちるんだぜ」


 レオンは少しだけ口元を動かした。笑ったというには薄い。けれど朝の港で見た顔よりは、いくらか血が通っていた。


 カイの兄ちゃんはレオンの右隣に立っている。神官服の白が朝の海風に薄く揺れていた。胸元のロザリオの銀が、潮の照り返しの中で一瞬光る。裾は汚れないように手で押さえているが、指先にはすでに潮の粒が付いていた。


 ヴァローは船尾の近くで読書。灰色のローブのフードを下ろして紙束に目を落としていた。船が揺れても文字を追う眼の角度が変わらない。ああいう連中は、海の上でも紙に勝手な理屈を書きつける。


 ガイウスの兄貴は舷側に座って盾を確認している。毛皮のマントの裾が、船板の上で重い音を立てた。顔色は悪くねえ。だが山の人間の足は、船板を信用しすぎる癖がある。


「ガイウスの兄貴」


「なんだ」


「寝るなら岩に着いてからにしな。船板で寝ると揺れが腹に来るぜ」


「寝ん」


「そいつは残念だ。賭けにならねえ」


 兄貴は短く鼻を鳴らした。それだけだった。


 それを笑いに変える前に、風が変わった。


 潮の塩の匂いに、別の匂いが薄く混じり始めた。硫化物の、卵の腐ったような臭い。それから焦げ。ほんの数滴の薄さで、空気の中に滴る。俺の鼻はそれを拾った。


 漁師の鼻だ。海の上で、潮の混じり方は季節を語る。春先の藻。雨の前の水気。遠い漁場の血の匂い。今、この風には季節じゃない何かが混じっている。


「兄ちゃん、口に布巻いとけ」


 俺は舵から声を上げた。


「これ、酒場の喧嘩じゃねえぜ」


 レオンが振り返った。


「分かった」


 短い返し。笑わなかった。俺の声の温度を、勇者の兄ちゃんは正確に拾った。


 カイの兄ちゃんは布を取り出し、まずレオンに渡した。それから自分の口元を覆う。祈りの前に息を整える時の動きに似ている。ヴァローが紙束を閉じる音がした。船尾の方で、観察者の眼が動いた気配があった。


 ガイウスの兄貴は盾を背に上げた。金具が革に当たって低く鳴る。動作は無駄なく、寡黙のまま。船板が一拍沈んだ。あの盾はやっぱり船には重すぎる。


 風下に船首が回った瞬間、匂いが少し濃くなった。


 塩じゃない。腐臭、硫化物、焦げ。それに金属臭が薄く重なる層。これは戦の匂いじゃない。戦の後の匂いでもない。もっと別の、生き物の死に方の中でも特異な匂いだった。


 俺は舵柄を握る手に力を入れた。指の下で木がわずかに軋む。舌の奥が苦くなる。煙を吸う前から、喉が薄く焼ける感じがした。


 海面の色が変わってきた。


 濃い青の上に、白い斑点が浮き始めた。最初は小さい。距離が縮むほど大きくなっていく。魚だ。腹を上にして浮いている。何百もの。目が酸で白濁していた。近づくと身が崩れる柔らかさで、波の上に揺れていた。


 一匹が船腹に当たった。鈍い音がした。皮が破れたのか、白い腹から濁った液が海ににじんだ。カイの兄ちゃんが息を呑む。レオンは見たまま顔を動かさない。ヴァローは目を細めた。ガイウスの兄貴は何も言わない。


 俺は十代の頃から海の上にいる。漁師として。海賊として。組合の依頼で。魚の死に方なら、ひと通り見てきたつもりだった。網にかかった魚。撃ち合いで甲板を血に染めた魚。嵐で岸に打ち上げられた魚。


 こんな死に方は、見たことがない。


「カシラがよく言ってた」


 俺は独り言で短く呟いた。


「海の上では風が全部だ、と」


 風は、今日は煙だった。


 その言葉の後ろで、喉の奥が少し沈んだ。あの人なら煙を見て黙る。騒ぐ時じゃないと知っていた。逃げる時も、突っ込む時も、舵の上では声を余らせない人だった。


 島が見えた。


 火山性の岩石島。黒い肌が海面から低く起き上がる形。船から見える島の輪郭は、左半分はいつもの黒い火山岩だ。右半分は灰白色に変色していた。健康な岩と死んだ岩の境目が、刃物で切ったみたいに島の真ん中を縦に走っている。


 その死んだ半分の上空に、黒い柱が立ち上っていた。


 煙だ。一晩どころか、もう数日は経っているはずの煙が空に向かって縦に立ったまま薄れずにいる。風がほとんど流せていない。煙の量が多すぎて流れきらない構造だった。柱の中に時々、赤い揺らぎが走る。間欠泉のリズムで、地面の下から何かが噴き上がっているのだ。


 俺は舌打ちしそうになって止めた。舌を打つ相手がいない。


 島の上空に、海鳥がいなかった。


 これがいちばん、こたえた。


 ノナ港から出てくる時、俺は無意識に島の上空を確かめていた。海鳥の群れがあれば、岩礁の魚が無事だという証拠になる。ところが、いない。一羽も。


 鳥が逃げる時より、もっと深い静けさだった。鳥は嵐の前に逃げる。潮目が変わる前にも逃げる。だが、ある場所からは逃げるのではなく近づかなくなる。今、岩石島はそれだった。


 俺は舵を少し右に切り、島の風上側に船を回した。


 風下に入ると、五人とも肺をやられる。漁師の鼻が、それを言った。船底が浅瀬に近づく気配を足裏で拾う。岩礁の周りは潮が巻く。下手に寄せれば船腹を裂く。


「勇者の兄ちゃん」


 俺は舵柄から声を上げた。


「ここから先は、お前の仕事だ」


 レオンが頷いた。布越しでも顎の硬さが分かる。聖剣の鞘が朝の光を受けて白く光った。


 岩礁の縁に船腹を寄せながら、俺は煙の柱の中の赤い揺らぎをもう一度見た。あの賢者がここを通った。あの兄ちゃんが何をしたのか、俺には分からねえ。分からねえが、海の匂いは嘘をつかない。


 カシラなら、こういう時にどう答えたか。あの人は、こういう時に黙る人だった。


 俺も、黙った。


──────────────────────────────


 岩礁の岩は、灰白色だった。


 俺はサッシュの位置を直して、小舟から岩の上に降りた。足の裏に伝わる岩の感触が、いつもの火成岩のそれではなかった。表面が薄く柔らかい。削ると粉が指先に残るような肌触り。健康な黒い岩の上を歩く時とは別物だった。


 靴底が沈むわけではない。だが一歩ごとに、薄い膜を踏み破るような嫌な感触がある。乾いた骨の表面を踏んでいるようだった。俺は自分の呼吸が浅くなっていることに気付いた。


 カイが俺の後ろから降りた。神官服の裾を片手で持ち上げる仕草。いつもと同じ静かな所作。白い布は岩の粉で汚れた。カイはそれを見たが、払わなかった。


 ヴァローが続いた。紙束は小舟の中に置いてきている。短杖だけを手にしている。灰色のローブの裾が、岩の粉を擦って薄く白くなった。彼はその汚れも観察の一部のように見た。


 ガイウスが最後。重盾を背中に上げたまま、革鎧と部分プレートの重みで岩を踏み抜きそうな足取りだった。岩が硬いはずなのに、彼の靴の周りで粉が弾ける。


 ヴェスタは小舟に残った。舵を一度抑えてから、俺たちに片手を上げた。


「行ってこい」


 ヴェスタの声は普段より低かった。


 俺たちは岩礁の縁から島の中央へ向かった。


 最初に目に入ったのは、地面の裂け目だった。


 岩盤に、刃物で切ったような亀裂が走っていた。一直線ではない。地形の弱い場所を選んで蛇行しながら、島の中央へ向かって伸びていく。亀裂の縁は、黄色く縁取られていた。硫黄の結晶だ。地中から噴き上がった気体が冷やされて、亀裂の口を黄色い唇のように飾っている。


 その唇の奥から、黒煙が薄く立ち上る。


 間欠泉のリズム。数秒に一度、息のように。地面が呼吸している。


 俺は聖剣の柄に左手を置いた。


 握る手が、いつもより少し強く握られていた。自分でそうしたわけではない。気付いたら握っていた。鞘の白銀の感触が、岩の上に立つ薄い影の中でいつもと違う温度を持っているような気がした。


 ただし、それは気のせいかもしれなかった。俺はそれを言葉にせず、足を進めた。


 裂け目を跨ぐ。底から間欠泉のリズムで黒煙が立ち上る。足元の岩が薄く熱を持っていた。革靴の底を通して伝わる温度。生きている火山ではない。もっと別種の熱。


「レオン」


 カイが後ろから低く声をかけた。


「お気をつけて」


 俺は短く頷いて、進んだ。


 戦場の縁だと、俺は見た。


 最初の遺体が、岩の上に倒れていた。


 革鎧の戦闘員。逃げようとして倒れた姿勢。両足を島の縁の方角に伸ばし、上半身が岩に張り付いていた。


 俺は足を止めて、それを見下ろした。


 皮膚は緑黒色に変色していた。腐敗ガスで膨張した腹が、革鎧の隙間から押し出されている。今にも破裂しそうな緊張感。顔の上を、ハエの群れが這っていた。眼窩、鼻孔、開いたままの口。ハエは出入りを繰り返し、口の中で何かを食っていた。


 革鎧の革の部分は、酸の蒸気で薄く溶けていた。表面が泡立ったように波打っている。剥がれかけていた。金属の留め金だけが、変色した革の上に浮いて見えた。


 胸元の留め金、肩の留め金、腰のベルトの金具。それぞれが、革の溶けた地から島のように突き出している。風が吹くたびに腐臭が動いた。布を巻いていても、臭いは鼻の奥に入る。


 髪の毛が、硫化物で変色していた。本来は何色だったのか、俺には分からなかった。今は、緑がかった灰色だった。


 手の指が、岩を掴んだまま固まっていた。


 俺は腰を屈めて、その指を見た。爪の下に、岩の粉が詰まっていた。最後まで這おうとしていた痕跡だった。逃げる方角の岩を爪で掴む。引き寄せて、もう一歩。もう一歩、と。届かなかった。


 俺は、目を逸らさなかった。


 勇者として鍛えられてきた。戦場の遺体は見慣れているはずだった。剣で斬った敵。矢で射貫いた敵。火で焼いた敵。その全てを、俺は自分の手で葬ってきた。自分の判断で、葬ってきた。


 これは、それじゃない。


 これは戦場で倒れた者の姿じゃない。災害で死んだ者の姿に近い。けれど災害じゃない。人為だ。


 俺は立ち上がった。


 聖剣の柄を握る手の力を、緩めようとした。緩まらなかった。


「これをやった者を」


 俺は声に出さずに自問した。


「俺は止めるのか、裁くのか」


 答えは出なかった。


 カイが俺の隣に追いついた。息を整える音が聞こえた。彼は遺体を見て、目を閉じなかった。


「光神のご加護を」


 カイがロザリオを胸元で確かめながら、低く祈祷の言葉を呟いた。俺は祈れなかった。祈ろうとしたが、口が動かなかった。神官の隣で、神官の祈祷の言葉が俺の喉の手前で止まった。


 俺は祈る資格があるのだろうか。


 そう思って、すぐに思考の手前でその問いを止めた。神官の隣でその問いを抱えるのは、神官への裏切りだった。


 カイは祈り終えて、立ち上がった。次の遺体へ向かった。白い神官服の裾に灰白色の粉が付いている。その白はもう港で見た白ではなかった。


 俺は戦場の中央を見た。


 裂け目が放射状に広がっていた。半径百メートル弱。いや、もっとかもしれない。島の中央部の岩盤が、ほぼ全て口を開けていた。黒煙の柱は、その真ん中から立ち上っている。


 戦場の中央へ、俺は足を進めた。


 聖剣の柄を握る手は、自分の意図より少し強く握りすぎていた。


──────────────────────────────


 戦場の中央は、私が見てきたどの場所とも違っていた。


 私は《翳り見》を発動した。観察者の眼を、戦場の地面の上に薄く広げる。普段なら、この距離で発動すれば戦闘の痕跡がそのまま残滓として捉えられる。使われた魔法の系統。術者の癖。戦闘員の階層。すべてが図のように立ち上がる。


 立ち上がらなかった。


 正確には、立ち上がりかけて視界が黒くなった。


 黒は視界を覆ったのではない。視界そのものが塗り潰される感覚だった。瞼の裏ではなく、眼の奥に墨を落とされたようだった。私は短く息を止めた。舌の根が冷えた。


 私は一拍、《翳り見》を弱めた。


 視界は戻った。しかし戦場の残滓は、依然として読めない。


 興味深い、と私は内側で呟いた。皮肉ではない。私が観察者として持ち合わせている言葉の中で、最も中立的な単語だった。


 私は地面の上を歩いた。


 足元の岩は灰白色に変色し、表面に白い菌糸状の結晶が薄く生えていた。硫酸塩の析出だろうと私は見た。塔の研究室で、似たような色の結晶を見た記憶がある。ただし、塔の結晶は標本の壺の中にあった。


 地面そのものが結晶を生やしているのは、私の知識の中では古文書の挿絵にしかない事象だった。岩を踏むたびに乾いた粉が上がる。粉はローブの裾に付着し、灰色を白に寄せていった。


 戦場の中央に近づくにつれて、地面の上に何かが増え始めた。


 最初は黒い染み、そう見えた。


 近づいて、それが間違いだと知った。


 人体だったものの輪郭が、地面に張り付いていた。


 皮膚と骨と、燃えた藻のような何かが層になって混ざり合っている。元は何人だったのか、私の眼でも捉えきれない区域があった。複数の遺体が酸で融合し、一体化している箇所。骨が他の骨の上に重なる。皮膚が他の皮膚と溶け合う。


 地面の凹みの中で、半液状化した塊として固まっていた。


 私は眼を逸らさなかった。


 観察者の本懐は、見ることだ。


 塊の縁の酸の溜まりの底を、私は覗き込んだ。


 黄緑色の鉱物が沈殿していた。エナメル状の光沢。表面が薄く揺れている。その下に、骨が透けて見えた。骨の表面は、酸で削られて細かい穴が開いていた。


 胃の奥が硬くなった。私はその反応を記録し、同時に切り離した。身体の反応は観察を曇らせる。そう塔で教えられてきた。だがこの場所では、身体が先に正しい警告を出しているようにも思えた。


 私は《翳り見》をもう一度、慎重に発動した。


 戦闘の魔法の残滓を、消去法で照合する手順を取った。


 マナの8属性。火、水、風、土、金、木、光、闇。私は塔出身の魔導士として、8属性の残滓は手に取るように捉えられる。


 火の残滓には焦げた空気の気配。水の残滓には湿度の名残。風には軌跡。土には岩の沈黙の音。金には研いだ刃の冷たさ。木には生命の薄い揺らぎ。光には澄んだ清潔さ。闇には影の重さ。


 ここには、いずれの響きもなかった。


 聖オルヴェリス教会の神格魔法。8属性とは別系統、神格との契約による力。典礼の聖句、古い言葉。カイの力で何度も観察してきた。神格魔法の光には、属性魔法の光とは違う澄み方がある。神格そのものの、清潔さ。


 ここには、その澄んだ気配が一切なかった。


 エルフの世界樹体系。植生、成長、治癒。古エルフ語の口伝。ヴェラーナ港で、私はその系統に接近する機会があった。観察者として。世界樹の力は生かす方角を持つ。


 ここには、生かす方角の肌触りがない。すべてが死だった。死そのもの、と言うより死を引き延ばす力。そのほうが私の眼には近かった。


 自然神信仰。山岳土着の力、土地神、川神、木々の精霊。ガイウスの土属性魔法を観察した蓄積で、私はこの体系の温度を一定の解像度で把握している。土地に根ざした、地表の力。


 ここには、地表の温度がなかった。地中から来ている。もっと深い場所から。


 暗黒魔法、禁忌の魔法、塔から破門された者たちの体系。8属性の闇とは別の歪みを帯びた領域。私は若い頃、月読みの塔の派遣でいくつかの禁忌を追ったことがある。禁忌の魔法には、独特の歪みがある。それが残滓として常に残る。


 ここの残滓は、禁忌の歪みとも違っていた。禁忌より下の場所。私は内側でそう言葉にした。その言葉は、私の知識の地図の上で居場所を持たなかった。


 海神信仰。


 私の脳裏に、その単語が浮かんだ。


 海神信仰の力の気配に、ここの残滓は近い。海から来ている。水の系譜の音がする。地中から噴き上がる温度に、海の塩の名残がある。


 しかし、近いだけだった。


 海神信仰の力なら、もっと澄んでいるはずだと私は見た。塔の記録の中で、私は海神信仰の解析記録を読んだことがある。海神は自然神。人格神ではない。しかし海そのものの意志を借りる力の気配には、海そのものの透明さが残る。


 ここには、その透明さがない。何かが混じっている。


 何かが混じっている、と私は内側で繰り返した。


 何が混じっているのか、私には分からなかった。


 私の知識の地図には、その混じったものの居場所がなかった。


 これは神格の系譜だ、と私は見た。


 しかし、私の知る神格ではない。


 私は、世界の地図の外に出てしまった。


 身体感覚として、それが私の喉の奥に降りた。塔で積み上げた分類。講義室の黒板。書庫の索引。先達の注釈。そのすべてが、ここでは端の欠けた紙片に見えた。


 私は《翳り見》を弱めた。一定以上は捉えられない。触れようとすると、底のない側から私を見返してくる気配があった。深い、と私は思った。深さに耐性のない者が触れると、そのまま落ちる種類の深さだった。


 私は戦場の縁の岩の上を見た。


 岩の上に、術者が立った場所があった。


 私は《翳り見》で、その一点だけを慎重に読んだ。


 深い海の色と赤の混じった残光が、岩の表面に薄く残っていた。海溝晶の残滓だろう。賢者の階位を持つ魔導士の触媒の名前は、塔の記録の中にいくつか登録されている。


 マリヴェルの蒼凪は水属性派閥の賢者。深い海色の触媒を使うと推定される、と塔の記録は短く記している。記録は触媒の色の詳細までは記していなかった。


 赤の差し色について、塔の記録は何も言わない。


 私は記録を更新する必要があった。ただし、記録の更新先がどこにあるのか私には分からなかった。塔の記録の体系の外、と見る他なかった。


 もう一度だけ、私は術者の位置を読もうとした。無謀ではない。観察者として当然の再確認だ。そう自分に言い聞かせる必要があった時点で、私はすでに判断を誤りかけていた。


 視界が、また黒くなった。


 今度は足元が遠くなった。岩の感触が靴底から消えかける。私は短杖を地面に突いた。木と岩が当たる乾いた音が、私をこちら側に引き戻した。


 レオンが私の隣に立っていた。


 私は気付いていなかった。観察者の眼が深く沈んでいた間、レオンは私の隣で待っていてくれたらしい。彼のサッシュにも灰白色の粉が付いている。聖剣の鞘は薄い影の中で白い。


「レオン」


 私は声をかけた。


「……どうした、ヴァロー」


「私一人では、この賢者は、追えない」


 短く告げた。


 レオンは何も言わなかった。少しして、頷いた。


 私はもう一度、戦場の中央を見た。


 黒煙の柱は、空に向かって縦に立っていた。


──────────────────────────────


 私は祈ろうとしました。


 祈祷の言葉が、口の手前で止まりました。


 主の祈り、永遠の安息を、憐れみたまえ。教義の中で、私が何度も繰り返してきた言葉が戦場の縁で動きを止めたのです。


 戦場の縁の遺体に、私は最初に祈りました。革鎧の戦闘員。皮膚が緑黒色に変色した方。レオンが見下ろしていた、その方の魂に。「光神のご加護を」と短く呟く。ロザリオを胸元で握り直す。それから戦場の中央へ向かいました。


 岩の粉が神官服の裾に付きました。白は白でなくなっていきます。私はそれを払えませんでした。この場所で白さを守ろうとすることが、ひどく不自然に思えたからです。


 中央に、半液状化した塊がありました。


 私はそれを、最初は見なかったことにしようとしました。


 神官として、それは恥ずかしい所作です。私は自分の眼を、それからすぐに塊の方角に戻しました。眼を逸らすのは、教義の手前で許されない所作でした。


 塊に近づいて、私は腰を屈めました。


 一人の方に祈ろうとしました。一人の方、というのが定まらない区域でした。塊の中に、どれだけの方が混じっているのか私には分かりませんでした。二人だったかもしれません。三人だったかもしれません。もっと多かったかもしれません。


 骨が、他の骨の上に重なっていました。


 肋骨と、別の方の肋骨が酸で融合していました。背骨が縦に二本並ぶ。互いに半ばまで溶け合っていました。頭蓋骨が一つ、塊の縁にありました。もう一つの頭蓋骨は、その下に半分埋もれていました。


 歯列だけが、原型を保っていました。


 その白さが、私にはつらく見えました。歯だけが生前の形を残している。笑ったこと。食べたこと。誰かの名前を呼んだこと。そうした小さな生活の入り口だけが、酸に遅れて残されているようでした。


 光神オルヴェリスは、教義の中で魂を一人ずつ受け取られると説きます。一人一人の生涯を。一人一人の罪と祈りを。神格は別々に受け取られるのです。


 塊の中の方々は、別々ではありませんでした。


 私はロザリオを胸元で確かめました。銀の感触が、いつもより薄く感じました。潮と硫化物の臭いが布越しに入ってきます。胃の奥が波のように持ち上がり、私は息を細く吐いて抑えました。


「いずれの罪も」


 私は口に出して言いました。声は戦場の中央の風に吸い込まれて、自分の耳にも遠く聞こえました。


「いずれの罪も、私は数えきれませんでした」


 数えようとしました。塊の中の方々を、一人ずつ数えようと。数が確定しませんでした。三人かもしれません。四人かもしれません。いずれの数も確信できないまま、私は数えるのを止めました。


 レオンが、塊の手前で足を止めていました。


 レオンの聖剣の柄に、左手が掛かっていました。普段の握り方ではありませんでした。聖剣の鞘の白銀が、薄い影の中でいつもの澄んだ静けさとは違う気配を帯びているように私には見えました。


 私は、それを言葉にしませんでした。


 神格魔法の感応者として、聖剣の気配がいつもと違うと感じることはありました。感じることと、それを言葉にして伝えることは別の所作です。レオンが自分でその気配に触れるまで、私は何も言わない。それが兄として弟を見守る私の所作でした。


 ヴァローは、戦場の中央の更に奥にいました。観察者の姿勢で、岩の上をゆっくりと歩いていました。短杖の先が時々地面に触れます。そのたびに音が短く鳴り、彼の立っている場所を私に知らせました。


 私はヴァローに祈りを届けるべきか、一拍迷いました。届けたい欲は、私の中で動いていました。ただし、ヴァローの観察を遮るのは観察者への裏切りでした。私はヴァローに祈りを送るのは控え、塊の方々に視線を戻しました。


 一人ずつに祈ろうとして、私はもう一度それができないことを確認しました。


 私は祈りを切り替えることにしました。


 集合的な祈りに。


 教義の中で、神官が数えきれない死者に向き合う場面は災害の場面に限られます。地震、火事、海嵐の難破。集合的な祈りの祈祷文は、教会の本部で災害の時のために編まれています。私はそれを神学校で習いました。


 ただし実際に使うのは、これが初めてでした。


 ここは、災害ではありません。


 ただ、私の手に余る点では災害と同じでした。


 私はロザリオを胸元で握り直しました。鎖の輪が指に食い込みます。痛みはありました。痛みがあることに、少しだけ救われました。


「いずれの魂も、いずれの罪も、私は数えきれませんでした。だから、いずれの全体に、祈ります」


 声に出して、言いました。


 戦場の中央の風に、声は吸い込まれました。


 祈りが届いたかどうか、私には分かりませんでした。


 光神は、いつも応えてくださるわけではありません。神格の沈黙を受け入れるのも、神官の所作の一つでした。私はそれを、神学校で繰り返し習いました。ただし、応えてくださらないことと届かないことは同じではないと教義は説きます。


 届いた上で、神格が応えないことを選ばれることはある。応えないことが、応えなのですと教義は説きます。


 ここでの祈りが、届いた上で応えられなかったのか。そもそも届かなかったのか。


 私には、定められませんでした。


 定められないまま、私は祈りを終えました。


 立ち上がる時、塊の縁にハエの群れが集まっているのが視界の隅に入りました。腐敗ガスで膨張した腹が、どこかで破裂したのでしょう。内臓が酸で焼けた黒い液体として、地面に流れ広がっていました。


 ハエは、その黒い液体に集まっていました。群がりすぎて、地面が黒く動いて見えるほどでした。


 私は、そこにも祈りを送ろうとして止めました。


 ハエは光神の被造物でした。生命の循環の一部として、神格はハエにも役目を与えられました。私は、ハエに祈ることはできませんでした。教義の枠の中で、それは神格への申し開きが立たない所作でした。


 私はロザリオを胸元に戻しました。


 指を離すと、掌に銀の形が残っていました。強く握りすぎていたのです。私はそれを見て、またロザリオに触れました。


 レオンの隣まで戻ろうとして、レオンが私を待たずに戦場の更に奥へ進んでいるのに気付きました。レオンの背中が、聖剣の柄を握ったまま戦場の中央の黒煙の柱の方角へ動いていました。


 私はレオンの背中を、一拍見ました。


 その背中に、いつもの熱血の動きはありませんでした。何か別の動き。レオンが普段の自分から少し離れた場所にいる動きでした。


 私はレオンの背中に、声を掛けませんでした。


 声を掛けるのは、後でした。今は、レオンが自分で進む時間でした。


 私は、レオンの背中を追って戦場の更に奥へ進みました。


──────────────────────────────


 俺は、戦場の縁の岩の上で立ち止まった。


 戦場の中央には進まない。レオン、カイ、ヴァローの三人が中央寄りに立っているのが見えた。ヴェスタは小舟の方で待機。俺は縁から全体を見渡せる位置で、盾を背に下ろした。


 盾の縁が岩に当たった。音が軽い。山の岩なら、もっと腹に響く音が返る。ここでは乾いていた。中身の抜けた石を叩いたような音だ。


 岩の上の傷を、まず見た。


 放射状に走る亀裂の数は、目で数えて十数本。深さは肉眼で測れる範囲のもので一メートル弱。視界の届かない奥まで続くものは、底が見えねえ。亀裂の際は黄色く硫黄が結晶している。地面が口を開けて、底から黒煙を吐いている格好だ。


 亀裂の中心を、俺は見た。


 中心は、戦場の北寄りに偏っていた。亀裂が放射状に広がっている起点が、そこに一点にある。術者が立っていた場所だ。


 その一点の岩の上に、俺は《大地の声》を流した。


 足元の振動を、盾を介して拾う。山の戦士の素朴な観察だ。普段なら足音、呼吸、剣のぶつかる響きが地面を通る。死んだ場所でも、岩盤の下の水や根の動きは上がってくる。


 何も上がってこなかった。


 地面が、死んでいた。


 山の戦士として、こんな感覚は知らねえ。地面ってのは、いつも何かが動いている場所だ。凍った冬でも奥に水がいる。焼けた斜面でも石の下に虫がいる。古い墓地でも土は沈み、少しずつ形を変える。


 ここは、止まっていた。


 俺は《大地の声》を切った。


 不気味だった。それが俺の最初の感覚だ。動かない盾の俺が、足元の地面から何の応答も得られない場所に立つのは初めてだった。


 俺は地面の傷の方に視線を戻した。


 革鎧の金属の留め金が、あちこちに散らばっていた。大半は酸で腐食して銀灰色の塊になり、岩の上に無造作に残っている。革の部分は完全に消えていて、留め金だけが浮いて見える。


 留め金の意匠を、俺は順に確認した。


 胸元の留め金、肩の留め金、腰のベルトの金具。革鎧の戦闘員の標準的な留め金だ。ここまでは末端の戦闘員の装備。


 ところが、中央寄りに別種の留め金が混ざっていた。


 肩の留め金がやや大きく、腰のベルトの金具に彫刻が入っている。彫刻は古い意匠だ。海洋同盟の戦闘員の意匠ではねえ。山の戦士の意匠でもねえ。中央大陸の意匠とも違う、もっと別の系統。


 異教徒の集団、という呼び方を任務の話の中で何度か聞いた。それの戦闘員の装備だと見た。


 中堅の戦闘員だ。


 中堅の留め金は、中央寄りに三組見えた。三人いた、ということだ。


 俺は地面の上に散らばる金属片の中から、刀の残骸を探した。


 数本見つかった。刀身は酸で完全に溶けて、柄の鍔の金属だけが残っているものが多い。普通の鋼鉄だ。山の鉄に近い。海の鉄ではねえ。けれど海洋同盟内で流通している標準的な鋼。末端の戦闘員の刀。


 一本だけ、別物があった。


 刀身の根元の数センチが、酸で腐食しても残っていた。


 色が違っていた。


 黒鋼でもねえ。アズリウムでもねえ。深い藍色の鉱石。俺の知らねえ金属で打たれた刃だった。山岳地方の鉱山で採れる鉄ではねえ。ヴェラーナ港の武器商街の流通でも見たことがねえ。


 中央大陸の暗い側の意匠の中で、こういう色の鉱石が時々語られると聞いたことがある程度だ。


 俺は、その刀身の根元を蹴ってみた。


 足の革靴の底を通して、刃の硬度が伝わってきた。酸で腐食しても、芯はまだ硬い。普通の鋼ならとっくに崩れている。芯の硬さが普通じゃねえ。異教徒の集団の中堅。特に位の高い者の持ち物だ。


 刀の柄の金属の前に、骨の指が一本残っていた。


 最後まで刀を握っていた男の指だ。


 骨の指は、柄の金属の輪郭をなぞるように曲がっていた。指の関節が、握る形のまま固まっている。骨の表面は酸で削られて、細かい穴が開いていた。それでも、握る形は崩れていない。


 俺は、その指の曲がり方を一拍見た。


 最後まで刀を離さなかった男の最期だ。内側で短く呟いた。


 倒れ方の方角を、俺は順に確認した。


 末端の戦闘員の遺体。いや、遺体だったものはすべて島の縁の方角を向いて倒れていた。逃げる方角だ。逃げ道を求めて散ったが、逃げきれずに倒れた。


 中堅の三人のうち二人は、中央付近で前のめりに倒れていた。逃げる動きを取らなかった。構えたまま倒れたんだろう。


 最後の一人。最後まで刀を握っていた男は、中央そのものに倒れていた。亀裂の放射の中心。術者の立った位置の真正面で。


 倒れる方向が、流れを語っていた。


 末端の戦闘員は、術者が起点に立った瞬間に逃げた。中堅の二人は、構えたまま地獄に飲まれた。最後の一人は、逃げも構えもせずに術者へ走った。走って、刀を振り下ろそうとして地面に飲まれた。


 俺は息を、薄く吐いた。


 盾を背に下ろしたままにしている理由を、自分で確かめた。中央に進まないのは恐れだけじゃねえ。全体を見る役目がいる。そう思った。そう思わなければ、足が勝手に前へ出そうだった。


 レオンが俺の方角を振り返った。


 カイがレオンの隣に追いついていた。ヴァローも、戦場の縁から戻ってきている。三人の視線が、俺に集まった。


 俺は、見たことを伝える必要があった。


「賢者だ」


 俺は短く言った。


「一人で、これをやった」


 それ以上は言わなかった。山の戦士は、説明しねえ。見た事実を伝えるだけだ。


 レオンの顔の色が少し沈んだ。カイがロザリオを握り直した。ヴァローは何も言わずに頷いた。


 俺は、戦場から目を離さなかった。


「山の方がマシだ」


 その言葉は、出なかった。今のここでは、その定型句で纏める覚悟が喉の奥で固まらなかった。山の戦士として、こんな地面の死に方は山岳地方の冬の凍土の比じゃねえ。冬の凍土には春が来る。ここには来ねえ。


 俺は盾を背に上げ直して、レオンの方角に歩き出した。


──────────────────────────────


 撤退だと、俺は短く決めた。


 岩礁の縁の小舟まで戻る間、五人とも口を開かなかった。誰かの靴が岩の粉を削る音だけがした。布越しの息。革鎧の擦れ。ローブの裾の乾いた音。それらが黒煙の下で小さく響いた。


 ヴェスタが小舟で待っていた。俺たちの顔を順に見たが、何も訊かなかった。俺たちが乗り込むと、ヴェスタは何も訊かずに帆を上げた。風はまだ西寄りだった。船首が、島の風上側を回って沖へ向かう動きに変わった。


 岩礁が後方に下がる。岩石島の灰白色の半分が、水平線の上で薄くなっていく。黒い柱は、まだ立っていた。距離を取るほど煙の柱が小さく見えるはずだった。けれど、煙そのものは消えなかった。空に向かって縦に立ったままだった。


 船板の上で、俺は背を船室の壁に預けた。


 体に染みついた悪臭が、潮の風の中でも落ちなかった。革の旅装。白を基調にしていた服は、灰色がかった汚れで覆われていた。サッシュの深紅が、陽射しの中で薄く濁って見えた。


 ヴェスタが舵柄に手を置いている。普段の軽口は出ない。灰色がかった緑の眼は、波と風と煙を順に読んでいた。舵を握る指の節が白い。彼も迷っているのだと分かった。


 ガイウスは舷側に座って盾を抱え直していた。動きは無駄なく、しかし普段より一拍遅い。重盾の縁に付いた灰白色の粉を、親指で一度だけ払った。払っても残る汚れを見て、彼は何も言わなかった。


 カイは船板に膝をつき、ロザリオを胸元で握ったまま視線を海面に落としていた。神官服の白は汚れている。けれど彼は裾も袖も直さなかった。祈りを終えた後の人間の顔ではなく、まだ祈りの入口に立っている人間の顔だった。


 ヴァローは船尾の近く。紙束は手に取らなかった。観察者の姿勢のまま、戦場の方角を見ていた。何かを書き留めたいはずだ。けれど手は動かない。彼の眼だけが、見えない図をまだ追っていた。


 俺は立ち上がった。


 四人の視線が、俺に集まった。


 船が揺れた。膝がわずかに遅れて受け止める。喉の奥に、まだあの臭いが残っている。俺は息を吸った。吸った息が浅い。胸の中で止まる。


「俺たちは、この賢者を追う」


 声が出た。


 声に違和感があった。俺は言葉を発した後で、その違和感の正体に気付いた。


 震えていた。


 俺の声が、震えていたのだ。


 肩が一度、ほんの少しだけ動いた。自分では止めたつもりだった。けれど止まらなかった。喉から出た音の端が、薄い糸のように揺れていた。


 四人の中で、ヴァローが一番早く反応した。観察者の眼が、一拍長く俺の顔に止まった。視線の止まり方が、いつもの皮肉混じりの観察ではなかった。ヴァローは、俺の声の震えを捉えた。


 ヴァローは何も言わなかった。


 口に出さない、ということがヴァローの選んだ態度だった。


「ヴァロー」


 俺は名前を呼んだ。


「私は同行する」


 ヴァローは短く返した。


「私一人では追えないと、戦場で言った。今もそう言う。だが、貴方に同行する」


 声は冷静だった。皮肉は混ぜなかった。観察者の本懐の声だった。


「カイ」


 俺は次に呼んだ。


「祈ります、レオン」


 カイが顔を上げた。


「裁きではなく、止めるために」


 カイの声は柔らかかった。ロザリオを握った指が、薄く光を反射していた。指先は赤くなっている。強く握っていたのだ。


「ガイウス」


「ああ」


 ガイウスは盾の縁を一度叩いて、それで返事を終えた。鈍い音が船板に落ちた。短い音だったが、俺には十分だった。


「ヴェスタ」


 ヴェスタが舵柄から手を離して、肩を一度すくめた。


「兄ちゃん、これは俺の手に負える話じゃねえ」


 軽口の温度が、ほんの少しだけ戻っていた。


「だが、ついていく」


 俺は四人の返事を受けた。


 それで、俺は黙った。


 何の震えだろう、と俺は内側で問うた。


 正義のために震えているのか。


 あの賢者が怖いから震えているのか。


 それとも、別の何か。


 怒りか。悲しみか。あるいは、名前のない感情か。


 俺は四人を順に見渡した。


 ヴァローの観察者の眼が、俺の顔に止まったままだった。見られていることを止める術が、俺の中にはなかった。彼の眼は俺を責めていない。ただ事実として、震えをそこに置いている。


 カイの茶色の瞳は、ロザリオを握った指の上に落ちていた。兄として、カイは俺の震えに気付いていた。気付いた上で、口には出さない。それがカイの選んだ態度だった。


 ガイウスの緑の瞳は、戦場の方角の海面に向いていた。盾の縁を一度叩いた音は、戦士としての受諾の合図だった。震えについては、ガイウスは触れない。山の戦士は、戦友の震えに触れない。それが流儀だった。


 ヴェスタの灰色がかった緑の瞳は、舵柄の方角に戻っていた。海賊あがりの斥候の眼。軽口の裏にあるもの。ヴェスタも、震えに気付いている。気付いた上で、軽口の温度で受け止めた。


 四人は、四人とも、俺の震えに気付いていた。


 そして、四人は、四人とも、口には出さなかった。


 俺は、答えの出ない問いを抱えていく覚悟だけを決めた。


 正義か、畏怖か。あるいは別の何か。判じきれないまま、俺はその震えを抱えていく。判じきれないまま、追う。


「西へ進路を取れ」


 俺は二度目の声を出した。


 最初の声よりは、静かだった。


 完全に静かにはならなかった。


 ヴェスタが舵を切った。船首が西の海域へ向かい、帆が西寄りの風を捉え直した。帆布が張る音が鳴る。船が小さく傾き、海面を切る音が変わった。


 船板の上で、俺は背を船室の壁に預け直した。


 岩石島の黒い柱が、後方の水平線の上で薄くなっていく。距離が縮むと小さく見えるが、消えはしない。空に向かって縦に立ち続けている。


 俺は、黒い柱を見届けるのを止めた。


 視線を、西の海域の方角に戻した。


 聖剣の柄に、左手はもう掛かっていなかった。掛けようとしても、指が握り直す前に止まった。震える指は、聖剣の柄に触れる前に自分の膝の上に置かれた。


 船が、西の海域へ進路を取った。

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