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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
41/57

西の春の湊にて

 ノナ港は、遠目には岩に張りついた貝みたいな町だった。


 船が桟橋へ腹を寄せる前から、俺にはその匂いが分かった。古い石、干した網、昼を過ぎた魚の脂、樽に染みた塩。ヴェラーナ港みたいに人を呑む大きさはない。けれど小さい港には、小さい港だけの呼吸がある。


 俺は舷側を越えて、先に石の上へ降りた。


「足元、濡れてるぜ。滑るなよ、勇者の兄ちゃん」


 振り返って言うと、レオンが苦笑しながら頷いた。白い旅装に深紅のサッシュ、腰の聖剣。港の陽射しを受けると、目立つことこの上ない。


「分かった。ありがとう、ヴェスタさん」


「さんはいらねえって言ったろ」


「努力する」


 努力する、か。真面目な返しだ。俺は笑って、桟橋の奥へ目をやった。


 網小屋の影に、背の丸い爺さんが座っていた。膝に網を広げ、指先だけがやけに若い速さで動いている。顔はしわだらけ、目は白く濁っているが、耳はまだ死んでいない。


「アンドル老」


「その声は、ヴェスタか」


「まだ俺を間違えねえか。たいした耳だぜ」


「お前の声は潮に混じっても騒がしい」


「ひでえ挨拶だな、兄貴」


 アンドル老は喉の奥で笑った。俺はしゃがんで、網の目を見た。結びは細かい。乱れはない。目が弱っても、海の手は弱らない。


「西はどうだ」


 俺がそう言うと、アンドル老の指が止まった。


 ほんの一拍。潮が桟橋の下で石を叩く音だけが残る。


「いい顔はしとらん」


「海がか」


「海も、人もだ」


「人?」


「今朝、戻った船がある。西からだ。船員が三人、陸に足をつけて吐いた。船酔いじゃねえ。見たものを腹から出そうとする吐き方だ」


 俺は黙って聞いた。


「三日前の夕方、水平線に黒い筋が立った。煙にも見えた。雲には見えん」


「場所は」


「岩石島の方だ」


 やっぱりか、と内側で舌を打つ。岩石島。商家連合の海図でも余白に近いあたり。地元の漁師が昔から避ける岩礁の島。


「音は?」


「昨日から、少し低い」


 アンドル老はまた網を繕い始めた。


「海の音が低い時は、底で何かが動いとる」


「ありがとよ」


「礼はいらん。戻って酒を奢れ」


「老いぼれのくせに強欲だな」


「生き残る理由は多い方がいい」


 俺は立ち上がった。背後で、四人が順に桟橋へ降りてくる。カイは靴の泥を払うより先に、坂の上の祠へ目を向けていた。ヴァローは港の配置を測るように眺め、ガイウスは背中の重盾の位置を直している。


「お前ら、こっちだ。まず宿を押さえる」


「今の方は?」


 レオンが小声で聞いた。


「アンドル老。ノナ港の古い漁師だ。目より耳と指が強い」


「西の話を?」


「ああ。決定打じゃねえが、潮目は嫌な方へ向いてる」


 ヴァローが俺の横に並んだ。


「決定打ではない、と言う割に、君の顔はもう結論を半分出している」


「魔導士ってのは人の顔まで読むのか」


「観察できる範囲では、君は隠すのが上手い方ではない」


「面白え。俺は斥候だぜ」


「斥候が自分の感情まで隠せるとは限らない」


 言われて、俺は笑った。皮肉屋のくせに、こういう所は妙に正確だ。


──────────────────────────────


 坂を上がると、ノナ港の広場に出る。


 市場は半分だけ開いていた。魚籠が三つ、柑橘の屋台が一つ、塩と干物の樽が並ぶ店が一つ。大きな町なら見落とすような規模だが、ここではこれが昼の中心だ。魚を捌く音、老婆の値切り声、子供が走る足音。活気は薄くない。


 広場の奥に、石造りの宿がある。隣は酒場。煙突から魚を焼く匂いが流れていた。


 俺は宿の戸を押した。


「マルテラ、客だぜ」


 奥で椅子が鳴った。


「その声、ヴェス坊だね」


「坊はやめろって毎度言ってるだろ」


「毎度聞いてないよ」


 マルテラが暖簾を分けて出てきた。ふくよかな体、太い腕、よく笑う口。夫を海で失ってからも、背筋を曲げずに宿を回してきた女だ。俺はこの人の前では、少しだけ若い頃に戻る。


 マルテラは俺を見て、それから後ろの四人を見た。視線がレオンの聖剣、カイの白い襟、ヴァローの灰色のローブ、ガイウスの盾へ順に動く。


「へえ。勇者一行を連れてきたのかい」


「俺が連れてきたってより、俺が雇われてる」


「同じことさ。ようこそ、ノナ港へ。部屋は?」


「五つ。空いてるか」


「空いてるよ。こんな端の港に、春の半ばから泊まりに来る物好きは少ない」


 レオンが一歩前に出た。


「レオン・ソルです。お世話になります」


「硬いねえ。ここじゃ勇者も船乗りも、腹が減れば客だよ」


 カイが柔らかく会釈する。


「カイ・グレイスです。よろしくお願いいたします」


「神官さんか。祠に行くなら、白い貝殻を一つ持って行きな。うちの玄関横に置いてある」


「ありがとうございます」


 ヴァローは軽く頭を下げた。


「月読みの塔のヴァローと申します」


「塔の人までいるのかい。今夜の酒場は賑やかになるね」


 ガイウスは短く「ああ」とだけ言った。マルテラはそれで十分だと言うように笑う。


「大きいのは二階の奥だ。床が強い」


「助かる」


 ガイウスがもう一度低く答えた。


 鍵を受け取って荷を置くまで、宿の中は木と塩の匂いがした。廊下の床板は古いが、軋み方が一定で悪くない。こういう宿は信用できる。傷みを隠していない。


 荷を置いたあと、ガイウスだけが部屋に残った。


「盾を見る」


「兄貴、港見物はいいのか」


「後で飯は見る」


「それが一番大事だな」


 ガイウスは鼻で短く笑った。


──────────────────────────────


 俺はレオン、カイ、ヴァローを連れて広場へ戻った。


 魚屋の親父が俺を見るなり、包丁を止めた。


「ヴェスタじゃねえか。まだ生きてたのか」


「死んだらもっと騒がれる男だぜ、俺は」


「騒ぐのは酒場の勘定くらいだろ」


「親父、客の前だ。俺の品格を守れ」


「品格があるならな」


 レオンが横で笑いを堪えている。こういう小さいやり取りが、旅の硬さを少し削る。


「今日は何がいい」


「鯛だ。あと蛸。ハロンが蛸を持ってった。夜に食えるぞ」


「悪くねえな」


 レオンは並べられた鯛を覗き込んだ。剣士の目で魚を見るのは、少しおかしい。


「大きいな」


「勇者さん、内陸育ちかい」


 魚屋が言う。


「はい。中央大陸の教会で育ちました」


「なら骨に気をつけな。魚は剣より細い刃を隠してる」


「覚えておきます」


 素直に返すレオンを見て、魚屋の親父は満足げに頷いた。勇者だと知っても、必要以上に持ち上げない。ノナ港らしい。


 カイは柑橘の屋台で足を止めた。黄色と青みがかった緑の実が、小さな山になっている。


「この香りは、薬草に合いますね」


「分かるのか、神官の兄ちゃん」


 俺が聞くと、カイは一つ手に取って、傷つけないように鼻へ近づけた。


「皮を少し乾かして煎じると、苦味の強い薬草が飲みやすくなります。効きも穏やかに通る。孤児院の薬室で教わりました」


「へえ。じゃあ五つ買うか」


「ヴェスタさん、そんな」


「教わり賃だ。俺の薬袋は大抵まずい匂いしかしねえからな」


 屋台の婆さんが笑いながら袋へ詰める。カイは少し困った顔をしたが、最後には「ありがとうございます」と受け取った。


 ヴァローは市場の端で、古い石柱を見ていた。


 風化した文字が残っている。海神の祠へ続く道標だ。俺には半分も読めないが、ヴァローの目は細かく動いていた。


「何か面白えか」


「古い海洋語だ。今の漁師言葉に残っている音と、少し違う」


「読めるのか」


「ある程度は。『西の岩、寄るべからず』……その後は欠けている。『音なき潮』『沈む灯』とも読める」


「嫌な言葉を拾うのが上手いな、お前さん」


「石がそう言っている。私の性格の問題ではない」


「そりゃ失礼」


 レオンが真剣な顔になった。


「岩石島のことか」


「たぶんな。地元じゃ昔から、あの島の周りに船を寄せるなと言う。岩礁が多いだけなら海図に書けば済む。だが伝承になってるってことは、何か余計なものが乗ってる」


 カイが坂の上を見た。


「祠へ、行ってもよろしいでしょうか」


「もちろんだ。出る前に礼をしておくのは悪くねえ」


 俺たちは坂を上がった。


──────────────────────────────


 海神の祠は、広場より少し高い場所にある。石造りの小さな箱のような祠で、前に白い貝殻が積まれていた。海へ出る者が一つ置き、戻った者がまた一つ置く。単純な作法だが、単純なものほど残る。


 カイは宿の玄関で受け取った白い貝殻を、両手で持って膝をついた。


 光神オルヴェリスの神官の所作ではない。けれど、相手の土地の神に頭を下げる姿勢は丁寧だった。祈りの言葉は口にしない。ここでは、黙るのが礼だと分かっている。


 レオンも膝をついた。少しぎこちないが、真っ直ぐだった。


 ヴァローは立ったまま、短く頭を下げた。塔の人間らしい距離の取り方だ。ガイウスなら山にするように、たぶんこの男は夜空に礼をするのだろう。


 俺は指を組み、額の高さで一度止めた。


 カシラに教わった海の礼だ。海賊団の作法なんざ、教会の神官から見れば雑なものかもしれない。だがカシラは、無抵抗の連中には手を出すな、海には礼をしろ、と言った。俺の中では、その二つは同じ重さで残っている。


 祠の正面から、西の海が見える。


 昼の光の中で、水平線は平らだった。穏やかに見える。けれど目を細めると、その縁だけが薄く汚れていた。雲ではない。煙と呼ぶには薄い。だが春の海の色ではなかった。


「見えるか」


 俺が言うと、レオンが隣で目を凝らした。


「少し、灰色に見える」


「三日前はもっと濃かったらしい」


 ヴァローが低く言った。


「風の流れと合わない。あの位置に煙が残るなら、発生源は相応に大きいか、継続している」


「嫌な見立てだな」


「観察できる範囲では、という限定つきだ」


「その限定、便利だぜ」


──────────────────────────────


 坂を下りる途中、縄を肩に担いだ漁師とすれ違った。四十前後、日焼けした頬に浅い傷がある。名前はジル。昔、俺が嵐の後に壊れた船を曳く手伝いをした男だ。


「ヴェスタ」


「ジル。顔が渋いな。嫁さんに怒られたか」


「嫁なら毎日怒る。今日は海だ」


「西か」


 ジルは頷いた。


「戻った船、見たか」


「まだだ。話だけ聞いた」


「船倉を空にしてた。荷がないんじゃねえ。荷を隠すみてえに、全部急いで下ろした。商家連合の代理人が来て、船頭と長く話してた」


「船員は?」


「黙ってる。目だけが泳いでた。西の空の話を振ると、顔を伏せる」


「金で口止めか」


「かもな。だが金だけじゃねえ顔だ」


 ジルはレオンたちを見た。聖剣に気づいたが、態度は変えなかった。


「明日行くなら、潮が上がる前に出ろ。昼過ぎると西風がねじれる」


「助かる」


「戻ったら酒だ」


「さっきアンドル老にも同じことを言われた。ノナ港は俺を酒で潰す気か」


「潰れる前に払え」


 ジルは笑わずに言って、広場の方へ下りていった。


 レオンが俺を見る。


「皆、あなたに警告してくれる」


「借りがあるんだよ。こっちにも、向こうにも」


「それだけではないと思う」


「勇者の兄ちゃん、そういう真っ直ぐな言葉は照れるから海に投げとけ」


 レオンは少し笑った。


──────────────────────────────


 夕方になると、広場の市場は畳まれ始めた。代わりに酒場の灯が強くなる。ハロンの店は、外から見ればただの石造りの箱だが、中に入れば熱と匂いがある。


 奥の卓にガイウスがいた。


 エールの杯がすでに空に近い。背中の重盾は壁に立てかけられ、剣は手の届く位置に置いてある。寡黙な戦士のくつろぎ方だ。


「兄貴、早いな」


「腹が減った」


「理由が強い」


 ハロンが料理を運んできた。無口な六十男で、皿を置く動きに無駄がない。鯛の蒸し焼き、蛸の煮物、鯵の塩焼き、貝の汁、地元の麦酒。卓が一気に港になる。


 カイが小さく頭を下げた。祈りは短い。周りの客の酒を止めない長さだ。


 俺は杯を持ち上げた。


「ノナ港と、明日の足に」


「ノナ港と、明日の足に」


 レオンが真面目に繰り返し、カイが穏やかに、ヴァローが少し皮肉を含んだ口元で、ガイウスが低く続いた。


 酒が入ると、店の空気は柔らかくなる。


──────────────────────────────


 隣の卓の老人が、こちらに杯を掲げた。見覚えのある顔だが、名前はすぐに出ない。港ではそういう相手が多い。互いに何度か命綱を結んだことがあっても、名前は後から来る。


「ヴェスタ、その金髪の若いのが勇者か」


「目ざといな、爺さん」


「聖剣の鞘なんざ、魚の骨より目立つ」


 レオンは立ち上がりかけたが、老人が手で制した。


「座って食え。勇者も腹が減るだろ」


「ありがとうございます」


「西へ行くなら、聞いとけ。商家連合の小船が一隻、戻ってねえ。一週間だ。あのあたりで一週間は長い」


 ヴァローの目が細くなる。


「積荷は?」


「知らん。だが夜に出て、昼に戻るはずの船だった。戻らん。三日前に黒い煙。今朝は別の船が青い顔で帰った。これで何もないと思うやつは、海に嫌われる」


「岩石島の周辺について、他に伝承はありますか」


 カイが丁寧に聞いた。


 老人は杯を置いた。


「海の音が消える、という話がある。波は立つ。風も吹く。だが耳に入る音だけが薄くなる。そうなったら舳先を返せ、と俺の親父は言った」


 ガイウスが短く呟く。


「嫌な場所だな」


「山の人か」


「ああ」


「山にも、入るなと言われる谷があるだろ」


「ある」


「同じだ。理由は忘れても、足が覚えてる」


 ガイウスは頷いた。それだけで、老人とは話が通じたようだった。


──────────────────────────────


 料理はうまかった。鯛は身が締まり、蛸は濃い味で酒に合う。ヴァローが予想より器用に魚の骨を外すので、俺はつい笑った。


「塔の魔導士は魚も解剖するのか」


「構造を理解すれば難しくない」


「飯にまで理屈を持ち込むなよ」


「君は感覚で骨を避ける。私は構造で避ける。結果は同じだ」


「じゃあ次は酒を構造で飲んでみろ」


「酒は経験則だ」


「都合がいいな、おい」


 レオンが笑い、カイも口元を緩めた。ガイウスは黙って蛸を食っている。表情は変わらないが、皿が減る速さで気に入ったのが分かる。


「ガイウスの兄貴、海の飯も悪くねえだろ」


「悪くねえ。だが山の酒の方が重い」


「そこは譲らねえのか」


「譲らん」


 カイが俺を見た。


「ヴェスタさんは、どの港でもこうして迎えられるのですか」


「どの港でもってほどじゃねえ。追い出される港もある」


「追い出されるのですか」


「昔の俺は、今よりもう少し行儀が悪かった」


 ヴァローが杯を傾けた。


「今も十分に粗野だと思うが」


「褒め言葉として受け取るぜ」


 カイは笑わず、柔らかい目のまま言った。


「それでも、ここでは皆さんが安心して声をかけています。マルテラさんも、アンドルさんも、ジルさんも。家族のような距離に見えます」


 家族。


 その言葉だけ、酒場の音から少し浮いた。


 俺は杯の中を見た。麦酒の泡が消えかけている。


「港の連中は距離が近いんだよ。船一枚、縄一本で命が繋がるからな」


「それも、家族に近いものではありませんか」


 カイの声は押してこない。ただ置かれる。こういう言葉の置き方をする男は、厄介だ。逃げ道を塞がないのに、胸の中へ残る。


 カシラの声を思い出した。


 船の上じゃ、血より縄だ。結んだ相手を見捨てるな。


 踊るナマズ海賊団は、悪党の集まりだった。商船を襲い、武器を抜き、海の上で生きた。けれど俺にとっては家族だった。カシラがいて、甲板があって、笑い声があった。三年前、副船長の裏切りでそれが割れた。割れたものは、元には戻らない。


 俺はレオンを見た。若い勇者は老人の話を反芻するように黙っている。熱いが、軽くはない。


 カイは水で割った酒を両手で包んでいる。祈る手と同じ手つきだ。


 ヴァローは皮肉の鎧を少し緩め、酒場の音を観察している。


 ガイウスは黙って食い、時々こちらの会話に低く頷く。


 四人。


 変な組み合わせだ。教会の勇者、神官、塔の魔導士、山の重盾。そこに海賊あがりの俺が混じっている。


 悪くねえ、と内側で思った。


 言葉にするには、まだ早い。


──────────────────────────────


 夜が深くなると、地元の客は一人ずつ帰っていった。ハロンが皿を下げ、マルテラが隣の宿から顔を出して、飲みすぎるなよと俺にだけ釘を刺した。


「俺だけかよ」


「ヴェス坊が一番信用ならない」


「勇者一行の前で評判を落とすな、女将」


「評判が残ってたらね」


 四人が笑った。ガイウスまで喉の奥で低く笑ったので、俺は降参して両手を上げた。


 客が減ったところで、俺は卓に肘をついた。


「明日の話をするぜ」


 空気が少し締まる。


「西の岩石島へ向かう。今日拾った話は、黒い煙、戻った船の船員、戻らない商家連合の船、古い伝承、海の音の違い。どれも単独じゃ弱い。だが五つ並ぶと、ただの噂じゃねえ」


 レオンが頷いた。


「俺も行くべきだと思う。だが、皆の意見を聞きたい」


 最初にカイが答えた。


「行きましょう。恐れだけなら、祈って留まる道もあります。けれど人が戻らず、戻った人が語れないなら、誰かが確かめる必要があります」


 ヴァローは杯を置いた。


「結論を急ぐな、と普段なら言うところだが、今回は観察のために接近する価値がある。私の《翳り見》で届く範囲にも限界はあるが、近づけば拾えるものは増える」


 ガイウスは短く言った。


「行くぞ」


「兄貴は分かりやすくて助かる」


「長く言う必要がねえ」


 レオンが俺を見る。


「ヴェスタさん、明日の海を頼みます」


「お任せください、勇者の兄ちゃん」


 わざと少し丁寧に言うと、レオンが真面目に頷いた。軽口を軽口として流すには、まだ少し若い。そこがいい。


「朝は潮が上がる前に出る。船頭には俺から話す。お前ら、今夜は寝ろ。酒で勇者一行が沈んだら、ノナ港の笑い話になるぜ」


「それは避けたい」


 レオンが苦笑する。


──────────────────────────────


 宿へ戻る道は、石畳が夜露で光っていた。海風は昼より冷たい。薄雲の奥で月が欠けている。ヴァローが一度空を見上げたが、何も言わなかった。


 宿の戸口で、マルテラが灯りを消す準備をしていた。


「明日、早いんだろ」


「ああ。西へ出る」


 マルテラの顔から、笑いが少し引いた。


「ヴェス坊」


「なんだよ」


「帰ってきな」


 短い言葉だった。


「俺は勘定を踏み倒す男じゃねえ」


「踏み倒したら、海の底まで取り立てに行くよ」


「そりゃ怖え」


 マルテラは笑ったが、目は笑っていなかった。


「明日の西風は、たぶん変わる。こういう夜は、窓の隙間が鳴らないんだ。あたしは海には出ないが、十年宿をやってると分かることもある」


「覚えとく」


 俺は短く頷いた。


──────────────────────────────


 部屋に戻ると、急に静かになった。


 革袋を下ろし、短剣を並べる。五本。刃の欠けはない。曲刀の鞘を外し、膝の上に置く。軽装の革鎧は椅子に掛け、靴底の砂を落とした。


 最後にバンダナを外した。


 青と黄色のまだら模様。踊るナマズ海賊団の色。潮と汗で褪せ、端は少しほつれている。それでも俺はこれを捨てられない。組合の支部で登録した時も、報告書を書かされた時も、港の役人に嫌な顔をされた時も、外さなかった。


 俺は布を額に巻き直した。結び目は昔と同じ。後ろに垂らす。


 カシラの曲刀を抜く。


 アズリウムの藍が、油皿の火を細く返した。重さは手に馴染む。馴染みすぎて、時々自分の手なのかカシラの影なのか分からなくなる。


「あの人なら、明日はどう動くかね」


 声に出すと、部屋の壁が少し近くなった。


 返事はない。


「四人、連れて行くぜ。妙な連中だ。勇者の兄ちゃんは真っ直ぐすぎる。カイの兄ちゃんは柔らかすぎる。ヴァローはひねくれすぎる。ガイウスの兄貴は黙りすぎる」


 そこで俺は小さく笑った。


「悪くねえだろ」


 刃を鞘に戻す。


 寝台に転がると、窓の外で潮が低く鳴っていた。アンドル老の言葉が戻る。海の音が低い時は、底で何かが動いている。


 カイの言葉も戻った。


 家族のような距離。


 やめとけ、と内側のどこかが言う。家族なんて呼ぶと、失った時に骨まで持っていかれる。俺は一度それを知っている。甲板の血、裏切りの刃、カシラの背中。届かなかった手。


 けれど、もう一つの声がある。


 船の上じゃ、結んだ縄を見ろ。


 レオン、カイ、ヴァロー、ガイウス。


 四本の縄が、いつの間にか俺の手元に来ている。俺が結んだのか、結ばれたのかは分からない。ただ、明日それを放す気はなかった。


 新しい家族。


 言葉は喉まで来て、そこで止まった。


 まだだ。


 まだ言わなくていい。


 俺は目を閉じた。酒の熱がゆっくり沈み、潮の音が遠くなる。明日の西の海は、明日見ればいい。


──────────────────────────────


 朝は、薄い灰色から始まった。


 桟橋へ出ると、風は弱い。弱いのに、向きが定まらない。帆を張るには悪くないが、気持ちのいい風ではなかった。


 船頭が縄を解き、若い船員が帆布を確かめている。俺は舳先の縄を見て、結びを一つ直した。


「細かいな」


 背後でガイウスが言った。


「海じゃ細かいのが命を拾うんだぜ、兄貴」


「山も同じだ」


 アンドル老は昨日と同じ場所で網を繕っていた。


「行くか」


「行くぜ」


「西風が途中で回る。帆を信じすぎるな」


「あいよ」


「ヴェスタ」


「なんだ」


「戻ったら酒だ」


「爺さん、そればっかりだな」


「生きて戻る話だけしておけば、足がそっちへ向く」


 俺は笑って、手を上げた。


 宿の前ではマルテラが腕を組んで立っていた。カイに白い貝殻をもう一つ渡し、レオンには包みにしたパンを押しつけ、ヴァローには「細いんだから食べな」と干し魚を持たせ、ガイウスには一番大きい包みを渡した。


「俺には?」


「勘定」


「世知辛え」


「帰って払うんだよ」


「了解だ、女将」


 五人で船に乗る。


 レオンが聖剣の鞘を確かめる。カイがロザリオに触れる。ヴァローが西の空を観察する。ガイウスが盾を船の揺れに合わせて置く。


 俺は舳先に立った。


 船が桟橋を離れる。石組みの港が少しずつ後ろへ下がる。アンドル老の背、マルテラの手、広場の屋根、坂の上の祠。全部が朝の薄曇りの中に収まっていく。


 西の水平線は、やはり少し濁っていた。


 明るい朝だ。少なくとも、光はある。


 けれどその光の下で、海は低く鳴っている。


「お前ら、置いてかれるなよ」


 俺は振り返らずに言った。


 背後で、レオンが短く答える。


「ああ。行こう」


 風が帆を叩いた。


 船は岩石島の方角へ、静かに舳先を向けた。

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