西の春の湊にて
ノナ港は、遠目には岩に張りついた貝みたいな町だった。
船が桟橋へ腹を寄せる前から、俺にはその匂いが分かった。古い石、干した網、昼を過ぎた魚の脂、樽に染みた塩。ヴェラーナ港みたいに人を呑む大きさはない。けれど小さい港には、小さい港だけの呼吸がある。
俺は舷側を越えて、先に石の上へ降りた。
「足元、濡れてるぜ。滑るなよ、勇者の兄ちゃん」
振り返って言うと、レオンが苦笑しながら頷いた。白い旅装に深紅のサッシュ、腰の聖剣。港の陽射しを受けると、目立つことこの上ない。
「分かった。ありがとう、ヴェスタさん」
「さんはいらねえって言ったろ」
「努力する」
努力する、か。真面目な返しだ。俺は笑って、桟橋の奥へ目をやった。
網小屋の影に、背の丸い爺さんが座っていた。膝に網を広げ、指先だけがやけに若い速さで動いている。顔はしわだらけ、目は白く濁っているが、耳はまだ死んでいない。
「アンドル老」
「その声は、ヴェスタか」
「まだ俺を間違えねえか。たいした耳だぜ」
「お前の声は潮に混じっても騒がしい」
「ひでえ挨拶だな、兄貴」
アンドル老は喉の奥で笑った。俺はしゃがんで、網の目を見た。結びは細かい。乱れはない。目が弱っても、海の手は弱らない。
「西はどうだ」
俺がそう言うと、アンドル老の指が止まった。
ほんの一拍。潮が桟橋の下で石を叩く音だけが残る。
「いい顔はしとらん」
「海がか」
「海も、人もだ」
「人?」
「今朝、戻った船がある。西からだ。船員が三人、陸に足をつけて吐いた。船酔いじゃねえ。見たものを腹から出そうとする吐き方だ」
俺は黙って聞いた。
「三日前の夕方、水平線に黒い筋が立った。煙にも見えた。雲には見えん」
「場所は」
「岩石島の方だ」
やっぱりか、と内側で舌を打つ。岩石島。商家連合の海図でも余白に近いあたり。地元の漁師が昔から避ける岩礁の島。
「音は?」
「昨日から、少し低い」
アンドル老はまた網を繕い始めた。
「海の音が低い時は、底で何かが動いとる」
「ありがとよ」
「礼はいらん。戻って酒を奢れ」
「老いぼれのくせに強欲だな」
「生き残る理由は多い方がいい」
俺は立ち上がった。背後で、四人が順に桟橋へ降りてくる。カイは靴の泥を払うより先に、坂の上の祠へ目を向けていた。ヴァローは港の配置を測るように眺め、ガイウスは背中の重盾の位置を直している。
「お前ら、こっちだ。まず宿を押さえる」
「今の方は?」
レオンが小声で聞いた。
「アンドル老。ノナ港の古い漁師だ。目より耳と指が強い」
「西の話を?」
「ああ。決定打じゃねえが、潮目は嫌な方へ向いてる」
ヴァローが俺の横に並んだ。
「決定打ではない、と言う割に、君の顔はもう結論を半分出している」
「魔導士ってのは人の顔まで読むのか」
「観察できる範囲では、君は隠すのが上手い方ではない」
「面白え。俺は斥候だぜ」
「斥候が自分の感情まで隠せるとは限らない」
言われて、俺は笑った。皮肉屋のくせに、こういう所は妙に正確だ。
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坂を上がると、ノナ港の広場に出る。
市場は半分だけ開いていた。魚籠が三つ、柑橘の屋台が一つ、塩と干物の樽が並ぶ店が一つ。大きな町なら見落とすような規模だが、ここではこれが昼の中心だ。魚を捌く音、老婆の値切り声、子供が走る足音。活気は薄くない。
広場の奥に、石造りの宿がある。隣は酒場。煙突から魚を焼く匂いが流れていた。
俺は宿の戸を押した。
「マルテラ、客だぜ」
奥で椅子が鳴った。
「その声、ヴェス坊だね」
「坊はやめろって毎度言ってるだろ」
「毎度聞いてないよ」
マルテラが暖簾を分けて出てきた。ふくよかな体、太い腕、よく笑う口。夫を海で失ってからも、背筋を曲げずに宿を回してきた女だ。俺はこの人の前では、少しだけ若い頃に戻る。
マルテラは俺を見て、それから後ろの四人を見た。視線がレオンの聖剣、カイの白い襟、ヴァローの灰色のローブ、ガイウスの盾へ順に動く。
「へえ。勇者一行を連れてきたのかい」
「俺が連れてきたってより、俺が雇われてる」
「同じことさ。ようこそ、ノナ港へ。部屋は?」
「五つ。空いてるか」
「空いてるよ。こんな端の港に、春の半ばから泊まりに来る物好きは少ない」
レオンが一歩前に出た。
「レオン・ソルです。お世話になります」
「硬いねえ。ここじゃ勇者も船乗りも、腹が減れば客だよ」
カイが柔らかく会釈する。
「カイ・グレイスです。よろしくお願いいたします」
「神官さんか。祠に行くなら、白い貝殻を一つ持って行きな。うちの玄関横に置いてある」
「ありがとうございます」
ヴァローは軽く頭を下げた。
「月読みの塔のヴァローと申します」
「塔の人までいるのかい。今夜の酒場は賑やかになるね」
ガイウスは短く「ああ」とだけ言った。マルテラはそれで十分だと言うように笑う。
「大きいのは二階の奥だ。床が強い」
「助かる」
ガイウスがもう一度低く答えた。
鍵を受け取って荷を置くまで、宿の中は木と塩の匂いがした。廊下の床板は古いが、軋み方が一定で悪くない。こういう宿は信用できる。傷みを隠していない。
荷を置いたあと、ガイウスだけが部屋に残った。
「盾を見る」
「兄貴、港見物はいいのか」
「後で飯は見る」
「それが一番大事だな」
ガイウスは鼻で短く笑った。
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俺はレオン、カイ、ヴァローを連れて広場へ戻った。
魚屋の親父が俺を見るなり、包丁を止めた。
「ヴェスタじゃねえか。まだ生きてたのか」
「死んだらもっと騒がれる男だぜ、俺は」
「騒ぐのは酒場の勘定くらいだろ」
「親父、客の前だ。俺の品格を守れ」
「品格があるならな」
レオンが横で笑いを堪えている。こういう小さいやり取りが、旅の硬さを少し削る。
「今日は何がいい」
「鯛だ。あと蛸。ハロンが蛸を持ってった。夜に食えるぞ」
「悪くねえな」
レオンは並べられた鯛を覗き込んだ。剣士の目で魚を見るのは、少しおかしい。
「大きいな」
「勇者さん、内陸育ちかい」
魚屋が言う。
「はい。中央大陸の教会で育ちました」
「なら骨に気をつけな。魚は剣より細い刃を隠してる」
「覚えておきます」
素直に返すレオンを見て、魚屋の親父は満足げに頷いた。勇者だと知っても、必要以上に持ち上げない。ノナ港らしい。
カイは柑橘の屋台で足を止めた。黄色と青みがかった緑の実が、小さな山になっている。
「この香りは、薬草に合いますね」
「分かるのか、神官の兄ちゃん」
俺が聞くと、カイは一つ手に取って、傷つけないように鼻へ近づけた。
「皮を少し乾かして煎じると、苦味の強い薬草が飲みやすくなります。効きも穏やかに通る。孤児院の薬室で教わりました」
「へえ。じゃあ五つ買うか」
「ヴェスタさん、そんな」
「教わり賃だ。俺の薬袋は大抵まずい匂いしかしねえからな」
屋台の婆さんが笑いながら袋へ詰める。カイは少し困った顔をしたが、最後には「ありがとうございます」と受け取った。
ヴァローは市場の端で、古い石柱を見ていた。
風化した文字が残っている。海神の祠へ続く道標だ。俺には半分も読めないが、ヴァローの目は細かく動いていた。
「何か面白えか」
「古い海洋語だ。今の漁師言葉に残っている音と、少し違う」
「読めるのか」
「ある程度は。『西の岩、寄るべからず』……その後は欠けている。『音なき潮』『沈む灯』とも読める」
「嫌な言葉を拾うのが上手いな、お前さん」
「石がそう言っている。私の性格の問題ではない」
「そりゃ失礼」
レオンが真剣な顔になった。
「岩石島のことか」
「たぶんな。地元じゃ昔から、あの島の周りに船を寄せるなと言う。岩礁が多いだけなら海図に書けば済む。だが伝承になってるってことは、何か余計なものが乗ってる」
カイが坂の上を見た。
「祠へ、行ってもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。出る前に礼をしておくのは悪くねえ」
俺たちは坂を上がった。
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海神の祠は、広場より少し高い場所にある。石造りの小さな箱のような祠で、前に白い貝殻が積まれていた。海へ出る者が一つ置き、戻った者がまた一つ置く。単純な作法だが、単純なものほど残る。
カイは宿の玄関で受け取った白い貝殻を、両手で持って膝をついた。
光神オルヴェリスの神官の所作ではない。けれど、相手の土地の神に頭を下げる姿勢は丁寧だった。祈りの言葉は口にしない。ここでは、黙るのが礼だと分かっている。
レオンも膝をついた。少しぎこちないが、真っ直ぐだった。
ヴァローは立ったまま、短く頭を下げた。塔の人間らしい距離の取り方だ。ガイウスなら山にするように、たぶんこの男は夜空に礼をするのだろう。
俺は指を組み、額の高さで一度止めた。
カシラに教わった海の礼だ。海賊団の作法なんざ、教会の神官から見れば雑なものかもしれない。だがカシラは、無抵抗の連中には手を出すな、海には礼をしろ、と言った。俺の中では、その二つは同じ重さで残っている。
祠の正面から、西の海が見える。
昼の光の中で、水平線は平らだった。穏やかに見える。けれど目を細めると、その縁だけが薄く汚れていた。雲ではない。煙と呼ぶには薄い。だが春の海の色ではなかった。
「見えるか」
俺が言うと、レオンが隣で目を凝らした。
「少し、灰色に見える」
「三日前はもっと濃かったらしい」
ヴァローが低く言った。
「風の流れと合わない。あの位置に煙が残るなら、発生源は相応に大きいか、継続している」
「嫌な見立てだな」
「観察できる範囲では、という限定つきだ」
「その限定、便利だぜ」
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坂を下りる途中、縄を肩に担いだ漁師とすれ違った。四十前後、日焼けした頬に浅い傷がある。名前はジル。昔、俺が嵐の後に壊れた船を曳く手伝いをした男だ。
「ヴェスタ」
「ジル。顔が渋いな。嫁さんに怒られたか」
「嫁なら毎日怒る。今日は海だ」
「西か」
ジルは頷いた。
「戻った船、見たか」
「まだだ。話だけ聞いた」
「船倉を空にしてた。荷がないんじゃねえ。荷を隠すみてえに、全部急いで下ろした。商家連合の代理人が来て、船頭と長く話してた」
「船員は?」
「黙ってる。目だけが泳いでた。西の空の話を振ると、顔を伏せる」
「金で口止めか」
「かもな。だが金だけじゃねえ顔だ」
ジルはレオンたちを見た。聖剣に気づいたが、態度は変えなかった。
「明日行くなら、潮が上がる前に出ろ。昼過ぎると西風がねじれる」
「助かる」
「戻ったら酒だ」
「さっきアンドル老にも同じことを言われた。ノナ港は俺を酒で潰す気か」
「潰れる前に払え」
ジルは笑わずに言って、広場の方へ下りていった。
レオンが俺を見る。
「皆、あなたに警告してくれる」
「借りがあるんだよ。こっちにも、向こうにも」
「それだけではないと思う」
「勇者の兄ちゃん、そういう真っ直ぐな言葉は照れるから海に投げとけ」
レオンは少し笑った。
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夕方になると、広場の市場は畳まれ始めた。代わりに酒場の灯が強くなる。ハロンの店は、外から見ればただの石造りの箱だが、中に入れば熱と匂いがある。
奥の卓にガイウスがいた。
エールの杯がすでに空に近い。背中の重盾は壁に立てかけられ、剣は手の届く位置に置いてある。寡黙な戦士のくつろぎ方だ。
「兄貴、早いな」
「腹が減った」
「理由が強い」
ハロンが料理を運んできた。無口な六十男で、皿を置く動きに無駄がない。鯛の蒸し焼き、蛸の煮物、鯵の塩焼き、貝の汁、地元の麦酒。卓が一気に港になる。
カイが小さく頭を下げた。祈りは短い。周りの客の酒を止めない長さだ。
俺は杯を持ち上げた。
「ノナ港と、明日の足に」
「ノナ港と、明日の足に」
レオンが真面目に繰り返し、カイが穏やかに、ヴァローが少し皮肉を含んだ口元で、ガイウスが低く続いた。
酒が入ると、店の空気は柔らかくなる。
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隣の卓の老人が、こちらに杯を掲げた。見覚えのある顔だが、名前はすぐに出ない。港ではそういう相手が多い。互いに何度か命綱を結んだことがあっても、名前は後から来る。
「ヴェスタ、その金髪の若いのが勇者か」
「目ざといな、爺さん」
「聖剣の鞘なんざ、魚の骨より目立つ」
レオンは立ち上がりかけたが、老人が手で制した。
「座って食え。勇者も腹が減るだろ」
「ありがとうございます」
「西へ行くなら、聞いとけ。商家連合の小船が一隻、戻ってねえ。一週間だ。あのあたりで一週間は長い」
ヴァローの目が細くなる。
「積荷は?」
「知らん。だが夜に出て、昼に戻るはずの船だった。戻らん。三日前に黒い煙。今朝は別の船が青い顔で帰った。これで何もないと思うやつは、海に嫌われる」
「岩石島の周辺について、他に伝承はありますか」
カイが丁寧に聞いた。
老人は杯を置いた。
「海の音が消える、という話がある。波は立つ。風も吹く。だが耳に入る音だけが薄くなる。そうなったら舳先を返せ、と俺の親父は言った」
ガイウスが短く呟く。
「嫌な場所だな」
「山の人か」
「ああ」
「山にも、入るなと言われる谷があるだろ」
「ある」
「同じだ。理由は忘れても、足が覚えてる」
ガイウスは頷いた。それだけで、老人とは話が通じたようだった。
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料理はうまかった。鯛は身が締まり、蛸は濃い味で酒に合う。ヴァローが予想より器用に魚の骨を外すので、俺はつい笑った。
「塔の魔導士は魚も解剖するのか」
「構造を理解すれば難しくない」
「飯にまで理屈を持ち込むなよ」
「君は感覚で骨を避ける。私は構造で避ける。結果は同じだ」
「じゃあ次は酒を構造で飲んでみろ」
「酒は経験則だ」
「都合がいいな、おい」
レオンが笑い、カイも口元を緩めた。ガイウスは黙って蛸を食っている。表情は変わらないが、皿が減る速さで気に入ったのが分かる。
「ガイウスの兄貴、海の飯も悪くねえだろ」
「悪くねえ。だが山の酒の方が重い」
「そこは譲らねえのか」
「譲らん」
カイが俺を見た。
「ヴェスタさんは、どの港でもこうして迎えられるのですか」
「どの港でもってほどじゃねえ。追い出される港もある」
「追い出されるのですか」
「昔の俺は、今よりもう少し行儀が悪かった」
ヴァローが杯を傾けた。
「今も十分に粗野だと思うが」
「褒め言葉として受け取るぜ」
カイは笑わず、柔らかい目のまま言った。
「それでも、ここでは皆さんが安心して声をかけています。マルテラさんも、アンドルさんも、ジルさんも。家族のような距離に見えます」
家族。
その言葉だけ、酒場の音から少し浮いた。
俺は杯の中を見た。麦酒の泡が消えかけている。
「港の連中は距離が近いんだよ。船一枚、縄一本で命が繋がるからな」
「それも、家族に近いものではありませんか」
カイの声は押してこない。ただ置かれる。こういう言葉の置き方をする男は、厄介だ。逃げ道を塞がないのに、胸の中へ残る。
カシラの声を思い出した。
船の上じゃ、血より縄だ。結んだ相手を見捨てるな。
踊るナマズ海賊団は、悪党の集まりだった。商船を襲い、武器を抜き、海の上で生きた。けれど俺にとっては家族だった。カシラがいて、甲板があって、笑い声があった。三年前、副船長の裏切りでそれが割れた。割れたものは、元には戻らない。
俺はレオンを見た。若い勇者は老人の話を反芻するように黙っている。熱いが、軽くはない。
カイは水で割った酒を両手で包んでいる。祈る手と同じ手つきだ。
ヴァローは皮肉の鎧を少し緩め、酒場の音を観察している。
ガイウスは黙って食い、時々こちらの会話に低く頷く。
四人。
変な組み合わせだ。教会の勇者、神官、塔の魔導士、山の重盾。そこに海賊あがりの俺が混じっている。
悪くねえ、と内側で思った。
言葉にするには、まだ早い。
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夜が深くなると、地元の客は一人ずつ帰っていった。ハロンが皿を下げ、マルテラが隣の宿から顔を出して、飲みすぎるなよと俺にだけ釘を刺した。
「俺だけかよ」
「ヴェス坊が一番信用ならない」
「勇者一行の前で評判を落とすな、女将」
「評判が残ってたらね」
四人が笑った。ガイウスまで喉の奥で低く笑ったので、俺は降参して両手を上げた。
客が減ったところで、俺は卓に肘をついた。
「明日の話をするぜ」
空気が少し締まる。
「西の岩石島へ向かう。今日拾った話は、黒い煙、戻った船の船員、戻らない商家連合の船、古い伝承、海の音の違い。どれも単独じゃ弱い。だが五つ並ぶと、ただの噂じゃねえ」
レオンが頷いた。
「俺も行くべきだと思う。だが、皆の意見を聞きたい」
最初にカイが答えた。
「行きましょう。恐れだけなら、祈って留まる道もあります。けれど人が戻らず、戻った人が語れないなら、誰かが確かめる必要があります」
ヴァローは杯を置いた。
「結論を急ぐな、と普段なら言うところだが、今回は観察のために接近する価値がある。私の《翳り見》で届く範囲にも限界はあるが、近づけば拾えるものは増える」
ガイウスは短く言った。
「行くぞ」
「兄貴は分かりやすくて助かる」
「長く言う必要がねえ」
レオンが俺を見る。
「ヴェスタさん、明日の海を頼みます」
「お任せください、勇者の兄ちゃん」
わざと少し丁寧に言うと、レオンが真面目に頷いた。軽口を軽口として流すには、まだ少し若い。そこがいい。
「朝は潮が上がる前に出る。船頭には俺から話す。お前ら、今夜は寝ろ。酒で勇者一行が沈んだら、ノナ港の笑い話になるぜ」
「それは避けたい」
レオンが苦笑する。
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宿へ戻る道は、石畳が夜露で光っていた。海風は昼より冷たい。薄雲の奥で月が欠けている。ヴァローが一度空を見上げたが、何も言わなかった。
宿の戸口で、マルテラが灯りを消す準備をしていた。
「明日、早いんだろ」
「ああ。西へ出る」
マルテラの顔から、笑いが少し引いた。
「ヴェス坊」
「なんだよ」
「帰ってきな」
短い言葉だった。
「俺は勘定を踏み倒す男じゃねえ」
「踏み倒したら、海の底まで取り立てに行くよ」
「そりゃ怖え」
マルテラは笑ったが、目は笑っていなかった。
「明日の西風は、たぶん変わる。こういう夜は、窓の隙間が鳴らないんだ。あたしは海には出ないが、十年宿をやってると分かることもある」
「覚えとく」
俺は短く頷いた。
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部屋に戻ると、急に静かになった。
革袋を下ろし、短剣を並べる。五本。刃の欠けはない。曲刀の鞘を外し、膝の上に置く。軽装の革鎧は椅子に掛け、靴底の砂を落とした。
最後にバンダナを外した。
青と黄色のまだら模様。踊るナマズ海賊団の色。潮と汗で褪せ、端は少しほつれている。それでも俺はこれを捨てられない。組合の支部で登録した時も、報告書を書かされた時も、港の役人に嫌な顔をされた時も、外さなかった。
俺は布を額に巻き直した。結び目は昔と同じ。後ろに垂らす。
カシラの曲刀を抜く。
アズリウムの藍が、油皿の火を細く返した。重さは手に馴染む。馴染みすぎて、時々自分の手なのかカシラの影なのか分からなくなる。
「あの人なら、明日はどう動くかね」
声に出すと、部屋の壁が少し近くなった。
返事はない。
「四人、連れて行くぜ。妙な連中だ。勇者の兄ちゃんは真っ直ぐすぎる。カイの兄ちゃんは柔らかすぎる。ヴァローはひねくれすぎる。ガイウスの兄貴は黙りすぎる」
そこで俺は小さく笑った。
「悪くねえだろ」
刃を鞘に戻す。
寝台に転がると、窓の外で潮が低く鳴っていた。アンドル老の言葉が戻る。海の音が低い時は、底で何かが動いている。
カイの言葉も戻った。
家族のような距離。
やめとけ、と内側のどこかが言う。家族なんて呼ぶと、失った時に骨まで持っていかれる。俺は一度それを知っている。甲板の血、裏切りの刃、カシラの背中。届かなかった手。
けれど、もう一つの声がある。
船の上じゃ、結んだ縄を見ろ。
レオン、カイ、ヴァロー、ガイウス。
四本の縄が、いつの間にか俺の手元に来ている。俺が結んだのか、結ばれたのかは分からない。ただ、明日それを放す気はなかった。
新しい家族。
言葉は喉まで来て、そこで止まった。
まだだ。
まだ言わなくていい。
俺は目を閉じた。酒の熱がゆっくり沈み、潮の音が遠くなる。明日の西の海は、明日見ればいい。
──────────────────────────────
朝は、薄い灰色から始まった。
桟橋へ出ると、風は弱い。弱いのに、向きが定まらない。帆を張るには悪くないが、気持ちのいい風ではなかった。
船頭が縄を解き、若い船員が帆布を確かめている。俺は舳先の縄を見て、結びを一つ直した。
「細かいな」
背後でガイウスが言った。
「海じゃ細かいのが命を拾うんだぜ、兄貴」
「山も同じだ」
アンドル老は昨日と同じ場所で網を繕っていた。
「行くか」
「行くぜ」
「西風が途中で回る。帆を信じすぎるな」
「あいよ」
「ヴェスタ」
「なんだ」
「戻ったら酒だ」
「爺さん、そればっかりだな」
「生きて戻る話だけしておけば、足がそっちへ向く」
俺は笑って、手を上げた。
宿の前ではマルテラが腕を組んで立っていた。カイに白い貝殻をもう一つ渡し、レオンには包みにしたパンを押しつけ、ヴァローには「細いんだから食べな」と干し魚を持たせ、ガイウスには一番大きい包みを渡した。
「俺には?」
「勘定」
「世知辛え」
「帰って払うんだよ」
「了解だ、女将」
五人で船に乗る。
レオンが聖剣の鞘を確かめる。カイがロザリオに触れる。ヴァローが西の空を観察する。ガイウスが盾を船の揺れに合わせて置く。
俺は舳先に立った。
船が桟橋を離れる。石組みの港が少しずつ後ろへ下がる。アンドル老の背、マルテラの手、広場の屋根、坂の上の祠。全部が朝の薄曇りの中に収まっていく。
西の水平線は、やはり少し濁っていた。
明るい朝だ。少なくとも、光はある。
けれどその光の下で、海は低く鳴っている。
「お前ら、置いてかれるなよ」
俺は振り返らずに言った。
背後で、レオンが短く答える。
「ああ。行こう」
風が帆を叩いた。
船は岩石島の方角へ、静かに舳先を向けた。




