抱えきることのできない
夜の船は、外洋の波の上で穏やかに揺れていた。
岩石島はもう半日の航海で見えない方角まで遠ざかっていた。風は弱く、潮の匂いは薄い。波の音だけが船底に低く続いている。雲の薄い縁の向こうに、欠け始めの月があった。
リオンは船室の階段を一段下りた。
足裏に木の軋みが小さく返った。昼間の熱を失った板は冷えている。船体は波に合わせてわずかに傾き、また戻る。そのゆるい揺れの中で油皿の火だけが細く震えている。
油皿の光が卓の上を黄ばんだ色で照らす。卓の向こう側に賢者様が座っていた。薬草茶の湯のみを片手で持って、もう片方の手は卓の縁に置かれている。指の力は入っていない。ただ置かれているだけだった。
眼は寝床の方角を見ていた。けれど焦点は手前のどこかで止まっているようにも見えた。海の底を見るような眼だった。疲れがあるのか、考えがあるのか。リオンには判じられなかった。
寝床の縁に当代が座っていた。
当代は寝間着の上半身を半ばまで緩めて、脇腹の包帯を確かめていた。包帯の白は薄く赤茶色に染まっている。朝の手当てから半日経った湿布の色だ。葉の匂いに血の匂いが少し混じっていた。
リオンは葉の湿布の包みと、小さな素焼きの瓶に入った薬油を持って卓の脇に置いた。瓶の腹が油皿の光を受けて鈍く光った。手の中に残っていた薬草の匂いが鼻の奥に薄く残る。
「巻き直します」
短く告げた。当代は頷いた。
「すまない」
「いえ」
当代の声は普段より少し掠れていた。戦闘の後の疲労と眠気が混じった声だった。それでも背筋は崩れていない。寝床の縁に座る姿勢にも海守りの当代らしい芯があった。
リオンは寝床の縁に膝をついた。
包帯を解く動きから始めた。指の腹で結び目を一つずつ外していく。乾いた布が擦れる音が近くで鳴った。湿布の葉が一枚ずつ剥がれていくたび、冷えた薬草の匂いがふっと立った。
傷の跡が見えた。脇腹の右側。肋骨の下から腰骨の手前まで、戦闘で受けた切り傷の跡。深くはない。ただ長い。葉の手当てで膿は止まっていた。傷の縁は乾き始めていた。
船が一度ゆっくり傾いた。リオンは膝で揺れを受け、手元だけを動かした。船の揺れの上で手当てをするのは慣れている。縄を結ぶことも、舵を取ることも、濡れた甲板で人を支えることも同じだった。
指が当代の脇腹の素肌に直接触れた。
肋骨の輪郭が指の腹に伝わった。海守りの当代の身体は、十八の年齢の割に厚かった。胸郭の張り、肋骨の間の引き締まった筋肉、薄い汗の感触。深い息の動きが、指の下でゆっくりと続いている。
心拍がわずかに早くなった。
気づかれないように、表情は崩さなかった。新しい湿布の葉を取って、傷の縁に当てた。指で押さえる。葉の冷たさが肌に馴染むのを待つ動き。掌に薄く汗が浮いた。
湿布の葉は夜の空気を吸って冷えていた。当代の肌は熱を持っていた。その差が指の腹に残る。葉、肌、血の乾いた匂い。小さな三つの感触が手元で混じった。
「冷たくないですか」
短く尋ねた。
「いや、ちょうどいい」
ヒュウマさんが答えた。
当代は痛みを隠すのが上手かった。声の揺れが少ない。だが息の底に一拍だけ浅いところがある。リオンはそれを聞き落とさないようにした。痛むなら緩める。滲むなら押さえる。それが手当ての手順だった。
包帯を巻き始めた。
腰の方に一周、肋骨の下に一周、胸の下に一周。包帯を巻く動きの中で指が当代の背中に回り、また前に戻ってくる。背中の筋肉の盛り上がり、肩甲骨の下の窪み、腰のくびれの線。
海守りの当代の身体の輪郭が、リオンの指の動きの中で順に伝わってきた。
息が半呼吸ぶんだけ浅くなった。
海守りの当代の体だ。
内側で短く唱えた。眼を逸らした。卓の上の湿布の包みの方角に。だが指は止められない。包帯はまだ巻き終わっていない。指の動きを続けながら、次の一周に移る。
布を引く力は強すぎても弱すぎてもいけない。傷に触れるところは緩く、動きでずれないところは少しだけ締める。リオンの指はその加減を知っていた。朝から何度も同じ手順を繰り返してきた。
心拍は元には戻らなかった。
首筋の温度が上がっているのを、自分でも気づいていた。
油皿の火が揺れるたび、当代の肌に影が流れた。胸郭の影が深くなり、肋骨の下が暗く沈む。リオンはそこを見ないようにした。見ないようにするほど、指に残った輪郭が明瞭になった。
「リオン」
賢者様の声が、卓の向こう側から短く届いた。
リオンは顔を上げた。
「腕の擦り傷も、診てやってくれ」
短い指示だった。眼は依然として寝床の方角を見ていた。ただ意識の方角だけは、リオンの手元に向いていた気がする。何かを見ていたが、何を見たのかはリオンの側からは見通せない。
「はい」
包帯の最後の一周を終えた。結び目を結ぶ。指の動きを丁寧に整える。結び目の余りを肌に当たらない位置へ逃がして、それから腕の方に手を移した。
ヒュウマさんが右腕を差し出した。
前腕の外側に擦り傷の跡があった。戦闘で岩礁に擦った跡らしく、深くはないが範囲が広い。赤く削れた皮膚の間に細かな砂が残っていないかを見た。リオンは薬油の瓶の口を開け、指に少量取った。
薬油は冷たかった。指先に触れた瞬間に薄く伸びる。傷の上に重ねると、当代の腕がわずかに強張った。
「沁みますか」
「少しだけだ」
「洗い直すほどでは」
「ない。続けてくれ」
短い応答だった。リオンは頷き、薬油をさらに薄く伸ばした。傷の端から中心へ向けて、強く押さえないように広げていく。薬油の匂いが血の匂いを少しだけ隠した。
掌の中で、当代の手の重みを薄く受けた。
海守りの当代の手だった。潮鎚を振るう手、剣ダコの位置、指の関節の節くれ、甲の血管の太さ。働く手だ。迷いのない手だ。リオンが家を出て船に乗った時、最初に握った手のひとつだった。
あの時の手は濡れていた。港の朝の霧と、出航前の縄の湿り気が残っていた。年下の当代がまっすぐに手を差し出し、よろしく頼むと言った。短い言葉だった。だがリオンの胸の内で何かが定まった。
今その手が、薬油を塗られるためにリオンの掌に乗っていた。重さはあの時よりはっきりしていた。戦いの疲れが入った重さ。守るために振るわれた手の重さ。誰かを引き上げるための重さ。
「腰の方も、まだ薬油が要る」
ヒュウマさんが告げた。
「擦り傷が深い箇所がある」
「はい」
当代が寝床の縁で身体の向きを変えた。寝間着の腰紐に手をかける。ゆっくりと緩める動き。布の前が腰骨の手前まで下がる。寝間着の下の腰の線が露わになった。
腰骨の輪郭。脇腹の下から下腹部に向かう線。戦闘の擦過傷が腰骨の上から薄く広がっていた。細く赤い跡が数本あり、その一本は皮膚の下まで熱を持っているように見えた。
リオンは瓶に指を入れた。薬油を取りすぎないように、瓶の縁で余りを落とす。手順は同じだ。傷を見て、量を決めて、伸ばす。それだけのことだと内側で整えた。
指が、薬油を取って腰骨の輪郭に触れた。
下腹部に薄い熱が立ち上がった。
リオンは手を止めかけた。
止めかけた瞬間、内側の身体が変わり始めていることに気づいた。寝間着の下。布の中で身体が薄く反応し始めていた。海守りの戦闘服の下、見えない位置で明確に答えが返ってきていた。
心が打ち消そうとしていた答えと別の答えだ。
息を一度整えた。
指の動きを続けた。薬油を腰骨の上に伸ばす。擦り傷の縁に薄く塗る。所作だけは平静を保った。手は震えなかった。薬油の量も適切で、傷の処置は手順通りに進んだ。
けれど内側で、身体の反応は収まらなかった。
海守りの当代の体だ。
もう一度、内側で唱えた。
打ち消しは、心には届いた。けれど身体には届かなかった。
当代の腰の線は若かった。まだ年齢の残る滑らかさがある。だがその奥には、潮の流れに逆らって泳ぎ続けた厚みがある。救助のために鍛えた腹。船を守るために踏ん張る脚。そのつながりが指先の近くにあった。
リオンは視線を傷だけに留めた。赤い擦過傷。薬油の光。肌の熱。そこだけを見た。見ているはずなのに、見ないようにしている場所の輪郭が意識の端で濃くなる。
「ありがとう、リオン」
ヒュウマさんが短く声をかけた。
リオンは指を引いた。薬油の瓶の口を閉じた。
「いえ」
声は普段通りに出た。だが自分でも、声の温度の中に何かが薄く乗っていることに気づいた。ヒュウマさんは気づかなかった。ただ寝間着の腰紐を結び直していた。
卓の向こう側からは何も声がない。薬草茶の最後の一口を飲む音だけがあった。
立ち上がった。
寝間着の下の薄い緊張があった。立ち上がる動きの中で、戦闘服の前を一度整える所作をした。布の崩れ方を直すふりで、内側の身体の方角を整える動きだった。
ヒュウマさんには見えなかった。賢者様の方角は背中だ。誰にも見られなかった。
それでも見られていないと言い切るには、船室の空気は静かすぎた。賢者様の沈黙には時々そういうところがある。何も言わず、何も動かず、こちらが隠したつもりの影だけを机の上に残す。
「賢者様の手当ても、やります」
短く告げた。
賢者様が首を一度振った。
「俺は要らん」
「ですが」
「代償だ。葉では治らない」
短い応答だった。リオンは頷いた。それ以上は問わなかった。代償について、自分の知っていることは少ない。体力が落ちている事実は見て取れる。けれど葉の湿布で何が直って何が直らないのかは、自分の知識の外だった。
賢者様の指は湯のみの縁にかかっていた。力が入っていないようで、落とさないだけの力は残っている。そういう持ち方だった。疲れているのに崩れない。崩れないようにしているのかもしれなかった。
「薬草茶を継ぎ足してきます」
短く告げた。
湯のみを集める動きに移った。賢者様の湯のみは空。ヒュウマさんの湯のみも空に近く、自分の湯のみは卓の脇に置いたままだった。三つの湯のみを盆に載せて、船室の階段に向かった。
盆の上で湯のみが小さく触れ合った。陶器の音が一度だけ鳴る。リオンはその音を押さえるように指を添えた。船室の夜には大きい音だった。
卓の向こう側から短く声がかかった。
「ありがとう」
「いえ」
そう答え、階段を上った。
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船室の入口の戸を後ろ手で閉めた。
廊下は薄暗かった。船尾の方角に厨房がある。油皿の光が一つ薄く漏れている。盆を片手で持ったまま、戸の前で一度立ち止まった。
息を整えた。
戦闘服の前を、もう一度整え直した。布の崩れ方を直す動き。されど布の中の身体の反応は完全には収まっていなかった。薄暗がりの中で短く息を吐いてから廊下を歩き始めた。
船の廊下は狭い。肩を少し引けば壁に触れる。板の隙間から潮の匂いが上がり、遠い船底で水が船腹を叩いている。船は眠っているようで、絶えず小さく動いていた。
厨房の火は落とされていた。残り火だけが灰の下で鈍く赤かった。薬草茶の鍋は布で覆われている。リオンは片手で布を外し、柄杓を取った。湯気はもう強くはない。けれど飲める温度は残っていた。
湯のみを一つずつ満たした。賢者様の分は少し薄くする。ヒュウマさんの分は熱すぎないようにする。自分の分は最後でいい。そういう順番は考えなくても手が覚えている。
薬草茶を継ぎ足す手の動きは、普段より半呼吸ぶんだけ遅かった。
柄杓の縁から茶が細く落ちる。湯のみの底に当たり、暗い香りが立つ。草の苦み。乾いた葉。少しの蜂蜜。朝に煮出したものより味は丸くなっているはずだった。
リオンは湯のみを盆に戻した。手の甲にかかった湯気が熱い。熱さは分かりやすかった。痛いなら手を引けばいい。冷えたなら温めればいい。けれど布の下に残る反応には、そういう単純な扱いができなかった。
戸の方角を見た。
船室の中には賢者様と当代がいる。イーリス殿も隅の寝床に戻っているかもしれない。あの部屋の中に戻れば、リオンはまた海守り衆の若手として立つ。それ以外のものは表に出してはいけない。
盆を持ち直した。指に力を入れすぎないようにした。湯のみの中の水面が一度だけ揺れた。
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船室の油皿の光の下、賢者様が湯のみを置いた。立ち上がって、寝床の方角に歩く。当代が顔を上げた。
「ヒュウマ」
短く呼んだ。
「凪さん」
ヒュウマさんが答えた。
二人とも、何故その呼び方が出たのかを内側で言葉にしなかった。
油皿の火が一度だけ揺れた。寝床の端に落ちた影が深くなった。賢者様はその影の中で膝を折った。寝床の縁に膝をつき、ヒュウマさんの脇腹の方角に手を伸ばす。
湿布の上に、その手が短く置かれた。傷を確かめる動きだったが、指の力は入っていない。ただ置かれているだけだった。
詫びの温度が、その手にあった。
ヒュウマさんは何も言わなかった。退けもしなかった。掌の温度を脇腹で受けて、息を一度短く吐く。
その吐息は痛みだけのものではなかった。溜めていたものが少しだけ外に出る時の音だった。喉の奥で止まった言葉が、息だけになって抜ける。そういう短さだった。
手が、湿布の上から離れた。
「すまんかった」
短く告げた。声は普段よりわずかに低かった。
ヒュウマさんは首を一度振った。
「いえ」
それ以上は、二人とも言葉にしなかった。
言葉にしないまま、二人の間にあった硬いものがほんの少し形を変えた。消えたわけではない。無かったことになったわけでもない。ただ置き場所が変わった。息をするだけの余白ができた。
賢者様は立ち上がった。寝床の縁から離れ、卓の方角へ戻った。ヒュウマさんは視線を落とし、結び直した寝間着の紐に一度だけ指をかけた。ほどくためではなかった。ただそこに手を置いただけだった。
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リオンが戻ってきた時、船室の温度はわずかにやわらかくなっていた。
何が起きたかは、分からなかった。
賢者様は卓の向こう側に戻り、ヒュウマさんは寝床の縁に座ったまま。二人の位置は出て行く前と変わっていなかった。けれど沈黙の質感は違う。リオンが船室を出る前の沈黙には、薄い棘が残っていた。
戻ってきた今の沈黙では、その棘が薄く抜けている。
何かを話したのだ、と察した。
何を話したかは、自分の眼では読み切れなかった。海守りの後輩には、賢者様と当代の関係性の手前にある温度の機微は見通せない。
ただ、二人がわずかに近づいたのだということだけは肌に滲んだ。
リオンはそれ以上を探らなかった。踏み込む場所と踏み込まない場所がある。船の上では、距離を間違えた者から足元を失う。人の間も同じだとリオンは知っていた。
盆を卓の上に置いた。湯のみを三つ揃え、薬草茶を順に継ぎ足す。手の動きは普段通りだった。けれど内側ではまだ別の波が続いていた。
賢者様が湯のみを手元に引いた。
「ありがとう」
「いえ」
ヒュウマさんも湯のみを受け取った。一口飲んでから、寝床の方角に倒れ込む。飲み下した喉が動き、肩から少し力が抜けた。疲れがようやく身体に追いついてきたようだった。
「先に休んでくれ」
卓の向こうからヒュウマさんに告げた。
「はい」
ヒュウマさんは短く答えて、寝床の中に潜り込んだ。寝間着の襟を整え、毛布を腰のあたりまで引き上げ、それから眼を閉じる。
息がゆっくりと落ち着いていく。海守りの当代の眠りの息遣いだった。世話焼きの所作と戦闘の疲労を一日終えた後のそれだ。まだ痛みはあるはずなのに、周囲を安心させるように穏やかな息だった。
イーリス殿が、いつの間にか船室の隅の寝床に戻っていた。
楽器を脇に置いて、毛布の中に深く埋もれていた。観察者の眼は閉じている。ただ息はまだ眠りの深さには沈んでいなかった。
あの人は聞いていたのだろうか。見ていたのだろうか。リオンには分からなかった。分からないままにしておくべきことでもあった。イーリス殿の沈黙は、船室の暗がりに薄く溶けている。
賢者様が湯のみを卓の上に置いた。
「リオン」
「はい」
「お前も休め」
短く告げた。
「賢者様は」
「俺はもう少し起きている」
頷いた。それ以上は問わなかった。賢者様が眠れない夜があることは、海守り衆の側でも知っていた。代償の夜、戦闘の余波の夜、思考が止まらない夜。いずれかだろう。
自分が踏み込める領域ではなかった。
「では、おやすみなさいませ」
短く告げた。
「ああ」
リオンは寝床の準備に動いた。
寝間着には着替えなかった。戦闘服のまま床に入ることもある、海守り衆の若手の慣習だった。ただ戦闘服の前を一度緩めた。床の縁に座って靴を脱ぐ。
靴底には細かな砂が残っていた。岩石島の砂か、船の甲板に上がった塩の粒か。指で払うとぱらぱらと床に落ちた。今日という一日が小さな粒になって残っているようだった。
船室の油皿の灯りがふっと落ちた。誰かが芯を軽く詰めた音がした。賢者様の手だろう。光が一段低くなると、寝床の影は深くなった。
身を横たえた。
毛布を引き上げた。
身体の反応は、まだ完全には消えていなかった。
眼を閉じた。けれどすぐには眠らない。眠れなかった。船底の波の音が低く続いていた。当代の息が隣で穏やかに整っている。卓の向こう側の動きが薄く伝わっていた。
仰向けのまま、リオンは自分の呼吸を数えた。一つ、二つ、三つ。数えれば落ち着くはずだった。船の揺れに合わせれば、身体はいつも眠りの方へ寄るはずだった。
だが今夜は違った。
脇腹の肌の熱が指に残っていた。腰骨の輪郭が掌の奥に残っていた。薬油の匂いが指先に残っていた。洗っても消えない種類のものが、内側に残っていた。
少し甲板へ出よう、と思った。
──────────────────────────────
船室の階段を上って、戸を開けた。
夜の風が顔に当たった。
潮の匂いは薄く、波は低い。月は雲の薄い縁の向こうで欠けかけていた。リオンは舳先の方角に歩いた。足音を殺したつもりでも、板は小さく鳴った。
甲板には誰もいなかった。見張りの交代までにはまだ間がある。帆は畳まれた形を保ち、縄は濡れた匂いを抱いたまま眠っている。船は夜の海を滑るように進んでいた。
リオンは舵輪の脇に立ち、海の方角を見た。
外洋の海の暗さが、月の光の下で広がっていた。
そのまま海面に視線が止まった。
海風が戦闘服の前を一度撫でた。下腹部の薄い熱は、海風の中で薄く沈んだ。沈んだが、消えはしなかった。舵輪の脇の柱に背中を預けて、息を一度深く吸った。
これは劣情だ、と思った。
そう気づいた瞬間、自分でも驚いた。
劣情、という言葉が内側にあったことに驚いた。十九の年齢で海守り衆の若手として海と船の上で生きてきた身体に、その言葉があった。誰かに教わったわけではない、独りで気づいた。
気づいた今、それ以外の言葉ではないと分かった。
俺は当代の体を見てしまった。
俺は当代の身体に、薄く惹かれている。
二つの言葉が、海の暗さの上に並んだ。
リオンは瞬きをした。月の光が海面の細い皺に砕けていた。波は低い。音も低い。見えるものは静かなのに、胸の内だけがまだ小さく騒いでいる。
海守り衆の若手として、当代の身体に触れた。傷を診て、湿布を替えて、薬油を塗った。そこまでは役目だった。役目であることに嘘はない。手順も乱していない。誰も傷つけていない。
それでも身体は別の答えを返した。
それが一番こわかった。
──────────────────────────────
しばらく海の方角に視線を置いていた。
舵輪の脇の柱に背中を預けたまま、息を整えた。海風の中で、いくつかのことを順に思い出した。家を出た日、最後に振り返って見た港の灯り、海守り衆の長に挨拶をした日。
当代に最初に握ってもらった手の温度。
当代の手は、その時から大きかった。年下の十八の手だったが、自分の十九の手より厚かった。
家を出た日は晴れていた。荷は少なかった。古い上着、替えの布、母が持たせた乾いた魚。港の灯りは朝なのにまだ残っているように見えた。リオンは一度だけ振り返り、それから足を前に向けた。
海守り衆の長の前では緊張していた。返事が少し硬かったことを覚えている。だが当代が横から手を差し出した時、その緊張の形が変わった。怖さではなく、踏み出すための重さになった。
家を出る覚悟は、その手の温度の中で固まった。
俺はこの当代の側で立つ、と内側で固めた。
その覚悟と今夜の劣情は別物のはずだった。覚悟は意志の領域にある、劣情は身体の領域にある。別の層のはずだった。けれど自分の中では、二つは同じ場所に置かれていた。
同じ場所で、同じリオンという男の中に同居していた。
これを認めたら、俺は海守り衆として立てるか。
舵輪の脇で、内側に問うた。
立てる、と答えた。
立てる、ただし条件付きで。
答えは思ったより早かった。迷いはあった。苦さもあった。けれど足場が崩れる感覚はなかった。揺れる船の上で何度も立ってきた身体が、揺れたまま立つ方法を知っているようだった。
──────────────────────────────
条件は二つあった。
一つは、当代に伝えないこと。一生伝えない。
もう一つは、自分の中で消そうとしないこと。
抑え込もうとすれば、また湧いてくる。打ち消そうとすれば、身体が答えを返す。今夜のように、心が一つの答えを出しても身体は別の答えを返す。なら抑え込むのは無理だ。
抑え込もうとすれば、いつか所作の中で漏れ出る。
抱える方が、安全だ。
抱えたまま、当代の側で立つ。仕える側として、奉仕の純度を保つ。気持ちは消えないまま、行動は当代への敬意で律する。心と身体が別の答えを出すなら、両方を抱えたまま行動だけを律する。
それが、十九の若手のリオンの結論だった。
言葉にすると、少しだけ呼吸が楽になった。恥が消えたわけではない。熱が消えたわけでもない。けれど形のないものに名前がつき、名前のあるものには置き場所を作れる。
リオンは舵輪に触れた。木は夜の冷たさを持っていた。掌を置くと、船の揺れがそこから腕に伝わる。操船の手は嘘をつかない。迷えば舵に出る。焦れば航路に出る。
なら今夜決めたことも、手に出るはずだった。
出してはいけないものは出さない。出すべきものだけを出す。縄を結ぶ力。舵を押さえる角度。傷を手当てする指先。声をかける間合い。それを一つずつ律すればいい。
──────────────────────────────
下腹部の熱は、海風の中で薄れていた。
完全には消えていなかった。
月の方角を一度見た。雲の薄い縁の向こうで、月は半分ほどの欠け方をしていた。欠けた月の光は鋭くない。海面に落ちても、輪郭をぼかして広がるだけだった。
明日もこうやって俺は立つ、と内側で唱えた。
明日も当代の手当てをする。明日も賢者様の指示に従う。明日も操船の手を整える。明日も内側に秘密を抱えたまま立つ。
それでいい。
声には出さなかった。出せば風に混じってしまう気がした。混じってしまえば、誰かの耳に届くかもしれない。これは内側に置くものだ。外へ出さないと決めたものだ。
舵輪の脇の柱から背中を離した。船室の階段に向かって歩き始めた。
足取りは来た時より少しだけ落ち着いていた。船の揺れが足裏に戻ってくる。板の冷たさ。縄の匂い。遠い波の音。どれもいつもの船だった。
──────────────────────────────
船室に戻った。
油皿の灯りは一つになっていた。卓の上の湯のみは片付けられていた、賢者様の手だろう。賢者様は卓の向こう側にまだ座っていた。けれど湯のみを持たず、ただ座っているだけだった。
眼は寝床の方角を見ている。ヒュウマさんの息が穏やかに続いている方角だった。
リオンは短く一礼した。
向こう側で頷きが返ったが、何も声はなかった。
その頷きに問いはなかった。咎めもなかった。ただ戻ったことを受け取る動きだった。リオンはそれに救われたような気がして、すぐにその感覚を胸の奥へしまった。
寝床に戻り、毛布を引き上げて眼を閉じた。
身体の反応は、もうほとんど消えていた。
完全に消えてはいなかった。ただ眠れる程度には落ち着いていた。当代の息が隣で穏やかに続いている。波の音が船底に低く続き、油皿の最後の一つの光が薄く揺れていた。
明日もこうやって俺は立つ、と内側でもう一度唱えた。
その言葉は今度は重くなかった。舵輪に手を置いた時の木の冷たさに似ていた。冷たく、確かで、掴めるものだった。
──────────────────────────────
油皿の最後の一つが、夜のどこかで落ちた。
船室の中は暗くなった。
卓の向こうの動きはもう聞こえなかった。ただ座っている気配だけがあった。当代の息は穏やかに続いている。イーリス殿の息遣いも穏やかで、リオン自身の息も整い始めていた。
暗さの中では、誰の顔も見えない。見えないことでようやく身体が休む方角を思い出した。毛布の内側に残った薬草の匂いが薄く沈む。船の揺れが背中をゆっくり押した。
波の音が、ふっと静まった気がした。
そのまま眠りに落ちていった。




