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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
39/58

閑話休題:下らない

 朝の光が、窓の木枠を薄くなぞっていた。


 カラヴェラ第三層の宿の部屋は、もう見慣れた形になっていた。二人で住み始めて一年と少し。卓の位置、寝台の向き、壁に掛けた外套、薬草の束を置く棚。そのどれもが、最初に借りた時より静かに馴染んでいる。


 ヒュウマは卓に朝食を並べていた。


 麦のパン。塩漬けの魚。切った果物。湯気の立つ薬草茶。皿は音を立てずに置かれる。海守りの当代らしい手つきだな、と俺は思った。人を送り出すことに慣れた手。戻ってきた者を受け止めることにも慣れた手。


 俺は卓の向こうに座った。


「ヒュウマ」


「はい」


 返事は早い。けれど手元は止まらない。最後の果物を皿に移してから、ヒュウマは俺を見た。


「明日、別件で動く」


 ヒュウマの指先が、皿の縁に触れたまま止まった。


 ほんの半呼吸。長い沈黙ではない。だが、俺には見える。動かないことを選んだ動きだった。


「お一人で、ですか」


「ああ」


「分かりました」


 ヒュウマはそれ以上を飲み込んだ。茶色の瞳が、俺の顔を一度正面から受ける。それから薬草茶の湯気へ落ちた。問わないことで守る側の所作。年齢より早く当代になった人間の、余計な場所に踏み込まない判断。


 俺はその判断を、ありがたいと思った。


 同時に、少し重く受け取った。


 朝食は普段通りに進んだ。港の風向きの話。昨夜、第三層の市場で魚が高かった話。海守り衆の若手が桟橋で足を滑らせたが、荷だけは守ったという話。ヒュウマは軽く笑った。俺も相槌を返した。


 何も変わらない朝に見える。


 だが、俺の内側では別の箱が開いていた。シローネ家。第四層。十二年前のマリヴェル家事件。表では消えた記録。裏に残ったかもしれない声。


 そこへヒュウマを連れていく選択はない。


 危険だから、だけでは足りない。危険なら対処できる。ヒュウマも戦える。問題は、そこに出てくるものが戦闘の形をしているとは限らないことだった。裏社会の作法、情報の値段、屈辱を混ぜた試し。そういう場に、海守りの当代を置く理由がない。


 賢者としては正しい。


 連れとしては、完全には整わない。


 朝食を終え、俺は支度をした。白と青のローブを整える。薄い革の上着を羽織る。海溝晶をベルトの内側へ納める。首飾りが胸の中央に落ち着く位置を、指先で一度だけ確かめた。


 玄関で、ヒュウマが薬草茶の包みを差し出した。


「途中で召し上がってください」


「ありがとう」


 包みを受け取る時、指が触れた。


 半秒。ヒュウマは手を引かなかった。俺もすぐには引かなかった。それから、どちらともなく離れた。


「お気をつけて」


「ああ」


 戸が開く。第三層の朝の音が入る。


 俺は宿を出た。


──────────────────────────────


 カラヴェラ第四層の縁に、片目の老人の情報屋がいる。


 第三層から第四層へ下りる道は、石段と坂が交互に続く。層を一つ移るだけで、海の匂いに混じるものが変わる。第三層では焼いた魚と商人の香油の匂いが強い。第四層では縄、湿った木材、古い酒、表に出さない荷の匂いが前に来る。


 情報屋の小部屋は、古い倉庫の入口脇にあった。


 戸は開いている。閉じる意味がない場所だ。閉じなくても、入る者は選ばれる。机の上には木札が並んでいた。刻まれた符牒は、どれも表の商人が使うものではない。老人は片目を細めた。もう片方の眼は義眼で、薄い灰色のまま動かない。


「賢者殿。久しいですな」


「シローネ家への取り次ぎを頼む」


 老人は笑わなかった。義眼ではない方の眼だけが、机の上を動く。指先が一枚の木札に触れた。


「相談役のカリアーリ殿でよろしいですかな」


「それでいい」


「銀貨五枚。それと、賢者殿の貸しを一つ」


 俺は銀貨を置いた。


 硬い音が五つ。貸しの一つは、銀貨より扱いが重い。老人が後で困った時、俺の名を呼べるということだ。使い道は相手が決める。賢者として動ける範囲で済むなら、悪くない値段だった。


「一刻後、倉庫街の奥の三番倉庫へ。若衆が迎えます」


「分かった」


 小部屋を出る。


 第四層の通りでは、朝と夜が同じ場所に残っていた。漁師の妻が空の籠を運ぶ。港湾労働者が肩を揉みながら歩く。路地の影で、若い男が小袋を袖に隠す。売った男の眼は眠っていない。買った男の眼も、眠っていない。


 黒蜜だな。


 組織の中だけではない。外にも薄く流れている。甘い名を付けたものほど、後味は悪い。


 俺は懐から薬草茶の包みを出した。封を緩めると、ヒュウマの選んだ薬草の匂いが立った。第四層の空気の中で、その匂いだけが少し浮いている。


 一口飲む。


 苦い。だが、喉は落ち着いた。


 俺は包みを戻し、三番倉庫の方角へ歩いた。足の重さを、誤差ではなく兆しとして内側に置いた。


──────────────────────────────


 三番倉庫の前で、若衆が二人待っていた。


 革ベスト。短剣。使い込んだ棍棒。港湾で働けば自然につく肩と腕の厚み。だが眼が違う。労働で疲れた眼ではない。瞳孔が普段の人間の眼の動きとは違う、薬物の影響下の眼。組織の中で黒蜜が常用されている事実が、若衆の眼の動きに薄く出ていた。


「賢者殿。こちらです」


 丁寧体は整っている。整っているだけだ。底には、相手を客として見ていない冷たさがある。


 俺は頷き、二人の後に続いた。


 倉庫の中は薄暗い。油皿の灯りが、木箱の角を低く照らしていた。荷は多い。麻袋、樽、巻いた帆布、古い鎖。表の港に出してよいものと、出せないものが同じ床に積まれている。


 麻袋の一部から匂いが漏れていた。


 樹脂、乾燥植物、粉末、表の市場では嗅がない種類の匂いの層。黒蜜そのものか、混ぜる前の材料か。断定はしない。断定しなくても、ここが何を扱う場所かは分かる。


 奥に階段があった。


 石造りの階段。段ごとに小さな油皿が置かれている。降りるほど、港の音が遠ざかった。代わりに石の湿りと、古い記録紙の匂いが近づく。


 地下の取引室は円形だった。


 石壁。中央の円卓。卓上の油皿。壁にはシローネ家の紋章が薄く彫られている。見せるための紋章ではない。そこに属する者だけが確認するための印。


 取引室の隣には、記録の保管庫があるはずだ。


 円卓の向こうに、相談役のトマソ・カリアーリが座っていた。


──────────────────────────────


 トマソ・カリアーリは、立つ前から整っている男だった。


 五十代。紺の上着。袖口の縫い目に乱れがない。銀の懐中時計の鎖が、灯りを細く拾っている。髪は後ろで結ばれ、白いものが混じる。顔には疲れがない。疲れを表に出さない訓練の跡がある。


 眼は静かだった。


 商人の眼でもある。相談役の眼でもある。人の値段と、沈黙の値段を同時に測る眼。


「マリヴェルの蒼凪殿」


 トマソは名を呼び、立ち上がった。


「お越しいただき、感謝いたします」


「呼び立てたのはこちらだ。時間を取らせた」


「賢者殿のためならば」


 言葉だけなら礼儀正しい。だが、その礼儀は温かさではない。組織の形だ。形があるから、こちらも形で返せる。


 俺は円卓の向こうに座った。


 卓の上には杯が二つあった。どちらにも酒はない。勧められない酒。飲まないことで、互いに余分な貸しを作らない作法。悪くない。


 トマソも座った。指を組む。


「伺っております。十二年前のマリヴェル家事件。その裏側に触れる情報をお探しだと」


「表の記録は消えている」


「でしょうな」


「裏の記録は」


「率直に申し上げます」


 トマソは少しだけ間を置いた。その間は、惜しんでいるのではない。こちらに受け取る姿勢を作らせるための間だ。


「シローネ家の記録にも、もう残っておりません」


 俺は頷いた。


 短く。驚かない。落胆もしない。落胆は内側で処理するものだ。


「理由は」


「古いものです。十二年前。当時の港湾帳簿は、何度も持ち場が変わりました。関わった者も散っております」


「散った、か」


「死んだ者もおります。消えた者もおります。名を変えた者も」


 トマソの声は変わらない。死と改名と失踪を、同じ箱に入れて出してくる。裏社会では正しい扱いだ。人間は、使える情報を持っている間だけ輪郭が残る。


「ただし」


 トマソは続けた。


「当時を直接見ていた者はおりました」


「誰だ」


「ジーノ。港湾労働者の古参です。マリヴェル家の荷に触れた日もあり、事件の前後に港で動いた船のことも覚えていたと聞いております」


「会えるか」


 トマソは首を振った。


 速すぎない。遅すぎない。用意していた否定だ。


「ジーノは三年前に逝きました。心臓で」


 心臓。


 便利な言葉だな、と思った。


 俺はトマソの眼を見たまま、《滴見》を薄く動かした。石壁の内側に湿りはある。だが流れがない。水滴の動きが少ない場所では、掴めるものも細る。トマソの脈、掌の汗、杯の縁に残る水分。断片は拾える。嘘か真実かを裁くには足りない。


「看取ったのは」


「組織の者です」


「名は」


「その者も今はおりません」


「便利だな」


 トマソは少しだけ頭を下げた。


「そう聞こえることは承知しております」


 扉の向こうで、誰かが咳をした。


 短い咳。湿りがある。薬物を扱う者の喉だ。マッテオ。名は耳に入っている。シローネ家で黒蜜の流れを握る幹部。トマソはその名を出さない。扉の向こうにいる者を、この場にいない者として扱う。それも作法だった。


「十二年前の薬物の記録は」


「残っておりません」


「マリヴェル家事件と黒蜜の線は」


「組織として申し上げられることはありません」


 言い方が変わった。


 ない、ではない。申し上げられることはない。


 俺はその違いを拾った。拾っただけだ。ここで指を入れれば、会話は閉じる。閉じた会話からは何も出ない。


「ジーノが最後の生き証人だった」


「少なくとも、私の知る範囲では」


「その最後が三年前に心臓で死んだ」


「はい」


 俺は内側で並べた。


 十二年前。マリヴェル家。港湾。薬物。ジーノ。九年生きて、三年前に死んだ古参。自然死の可能性。口封じの可能性。組織が記録を処分した可能性。誰かが組織より先に消した可能性。


 箱は増える。中身はない。


「ジーノが何を見たか、伝言は」


「ございません」


「遺した物は」


「組織の保管には」


「保管には、か」


 トマソは答えなかった。


 答えないことが答えになる。個人の手元、家族、借り部屋、墓。そこに何かが残る可能性はある。だがシローネ家はそこまで差し出す気がない。あるいは既に回収済みで、俺に渡す気がない。


 どちらでも同じだ。


 この場では。


「分かった」


 俺は短く言った。


 トマソが頷く。卓の上の杯には、最後まで何も注がれない。油皿の火が小さく揺れた。


「賢者殿。お役に立てず、申し訳ございません」


「情報は得た」


「そう言っていただけるなら」


「手がかりではないがな」


 トマソの眼が、一拍だけ細くなった。俺の言葉の棘を測ったのだろう。だが、刺すほどではない。互いに血を出す場ではない。


「賢者殿の旅路に、幸を」


「ありがとう」


 俺は立ち上がった。


 トマソは座ったまま頭を下げた。組織の流儀では、それが最大の礼に近い。立って見送らない。追わない。ここで取引は閉じたという印でもある。


 俺は円卓から離れた。


 背後で、トマソの指が卓を一度だけ叩く音がした。合図か、癖か。判断は保留した。


 地下の取引室の戸を開ける。


 石壁の湿りが、少し冷たく感じられた。


 俺は地下の取引室を出た。


──────────────────────────────


 階段を上がり、倉庫の中に戻る。麻袋の薬物の匂いが、降りる時より一段強く感じられた。倉庫の出口の方角に向かう通路で、若衆が四人立っていた。


 四人とも、降りる時の若衆とは別の男たちだった。


 革ベストではなく上半身の薄い革鎧、棍棒ではなく短剣を腰に。眼の据わり方は降りる時の若衆より一段深い、薬物の影響下で瞳孔が大きく開いている。倉庫の油皿の光を眼が反射する、人間の眼ではなく獣の眼に近い反射の質感。


 四人は俺の前で道を塞いだ。


「賢者殿」


 最も体格の大きい男が短く告げた。剃り上げた頭、首に古い傷の跡。声は低く擦れている。


「ドンの賓客への作法は、知っております」


 剃り上げた男が続けた。


「ただ、若衆の流儀は、別なのです」


 俺は立ち止まった。


 四人の眼が、俺のローブの胸元の方角に薄く動いた。深い青のローブ、胸元の前は普段通りに緩んでいる。鍛えた胸の縁が、ローブの開きの中で薄く見える状態。剃り上げた男の眼が、その縁に一拍だけ釘付けになった。


「賢者の体は、布の下も賢者の体なのか」


 別の男が告げた。鼻孔の縁が荒れている、指先と歯茎が薄く黒ずんで見える、若手の黒蜜常用者の体つき。


「ただ、確かめさせてくれ」


 俺は短く返した。


「離せ、と言う前に、引け」


 四人は引かなかった。


 剃り上げた男が前に出た、俺のローブの肩を掴む動き。俺は抵抗を返さない、整然の所作で受ける選択、最初の試しを一度だけ通す構え。剃り上げた男が俺を倉庫の壁の方角に押した、俺の背中が壁に触れた。


 壁の冷たさが、ローブ越しに肩甲骨に触れた。


 別の男が俺の腰に手を回した。革のベルトの位置を確かめる動き、ベルトの内側の海溝晶の位置を探る指の動きでもあった。海溝晶は内側に納まったまま、しかし指先がその縁に触れる距離まで近づいた。


 剃り上げた男が、俺のローブの胸元の前を緩める動きに移った。


 布の前が一段開く、鍛えた胸が薄暗い倉庫の油皿の光の中で晒される。剃り上げた男の眼が一拍だけ止まった、賢者の体の質量を測る眼。指先の黒ずんだ男も、一段前に出た。胸元の縁を指で押し開く動き、賢者の鍛えた胸の輪郭を布の縁から押し広げて見ようとする動き。


「賢者の体は、思っていたより重そうだ」


 指先の黒ずんだ男が低く告げた。


 俺は内側で獣が一段近づく感覚を、確かに覚えた。


 整然の下に置いた獣が、薬物の影響下の若衆の暴力に反応している。声を荒げない、表に出さない。内側で獣が動いている事実は俺自身が一番よく分かっている。


 最後の一人が、俺の腰の前に手を回した。


 ローブの上から布越しに、俺の局部を上から掴んだ。


 布越しの輪郭、賢者の身体の質量、若衆の手のひらに余る存在感。剃り上げた男も指先の黒ずんだ男も、その瞬間に眼を一度止めた。賢者の体がこの規模であることは、若衆の側でも予想の外だったらしい。四人の眼の動きが一拍止まる時間があった。


 布越しの掴む手は、すぐには離れなかった。


 確かめる動きが続いた、賢者の体の重さを布越しに測る指の動き、別の若衆が俺の腰のベルトの近くに手を伸ばす動き。俺は整然の所作のまま、内側で獣が一段近づくのを抑えた。


 そこで、俺は決めた。


──────────────────────────────


 俺は海溝晶を掌の上に浮かべた。


 ベルトの内側から、晶が掌の高さに上がる。動きは小さい。だが、深海色の明滅は油皿の灯りを押し返した。暗い倉庫の通路に、海の底の色が一枚差し込む。


 詠唱はしない。


 ここで詩を使う必要はない。圧し潰すための発動ではない。止めるための発動だ。無詠唱の微小発動、賢者の格の最低限の発露。それで足りる。


「《重圧 / Crushing Depth》」


 権能名だけを告げた。


 通路の空気が沈んだ。


 風は吹かない。音も大きく変わらない。ただ、若衆たちの上に重さが落ちる。半径数メートル。段階一。床、壁、油皿、積み荷には触れすぎない。人間の体だけを選び、関節と呼吸の上へ圧を置く。


 剃り上げた男が膝をついた。


 指先の黒ずんだ男が短剣を取り落とす。石床に当たった金属音が、やけに乾いて聞こえた。腰のベルトに手を伸ばした男が、後ろの壁に押しつけられる。息が抜け、声にならない音が漏れた。


 局部を布越しに掴んでいた男は、掌が俺から離れて若衆自身の重さで前のめりに崩れた。


 四人。


 床に伏すまで、長くはかからなかった。


 俺は呼吸を一つ置き、《重圧》を解いた。深海色の明滅が海溝晶の中へ戻っていく。油皿の火は消えていない。揺れて、戻った。それでいい。壊すつもりはなかった。


 俺はローブの胸元を片手で直した。


 直す。戻す。整える。


 だが、布は出かけた時の形には戻らない。肩の線がずれている。胸元の開きが乱れている。腰の前の布も、完全には落ち着かない。布はただの布だ。起きたことを覚える力はない。覚えているのは俺の側だった。


 足元で若衆が呻いた。


 俺は見下ろさない。見下ろせば獣が近くなる。必要なのは、勝利ではない。停止だ。


 通路の奥から足音がした。


 一つ。ゆっくり。急いでいない足音。


 トマソだった。


──────────────────────────────


 トマソは通路の入口で立ち止まった。


 最初に床を見た。四人の若衆。膝を折った者、壁際で息を整えられずにいる者、短剣を落とした者、前のめりに崩れた者。次に俺を見る。顔。手。海溝晶。最後にローブの胸元。


 視線は一拍だけ留まった。


 それで十分だった。


「お前たち」


 トマソの声は低い。


「賓客への礼を、失したな」


 若衆たちは返事をしない。返事ができないのではない。返せる立場にいないと分かっている。


「賢者殿」


 トマソは俺に向き直った。


「失礼をいたしました」


「気にしていない」


 言葉は短くした。だが、温度は消さない。


 お前は知らなかったか。知っていたか。あるいは知る必要がない程度には、若衆の衝動を放置していたか。


 問いにはしない。ここで問いにすれば、トマソは答えを作る。作られた答えに意味は薄い。


 トマソの眼がわずかに逸れた。


 すぐ戻る。戻るのが早い。相談役としては正しい。


「ドンには伝えます。若衆の責は、組織で取ります」


「そうしてくれ」


「賢者殿の格を見誤った」


「格の話ではない」


 俺は言った。


 トマソの表情は動かない。


「作法の話だ」


「心得ております」


 心得ている人間の口調だった。心得ているからこそ、今日のことが起きた。そこまで含めて、シローネ家だ。


 トマソは短く合図した。通路の奥から別の若衆が二人現れ、床の四人に近づく。俺は見届けない。倒れた人間の処分は、俺の仕事ではない。


 出口へ向かう。


 倉庫の中は、先ほどより匂いが強い。麻袋から漏れる樹脂、乾燥植物、粉末、表の市場では嗅がない種類の匂いの層。黒蜜。シローネ家の血管の中を流れる甘い毒。若衆の眼の奥で揺れていたものと、同じ匂いだ。


 外に出ると、夕方の光が第四層の縁に落ちていた。


 海風がある。ありがたい。倉庫の内側の匂いを一枚剥がしてくれる。ただし全部は剥がれない。布の歪みも、身体の表面に残った意識も、風では消えない。


「賢者殿。本日のお越し、感謝いたします」


 トマソが倉庫の前で頭を下げた。


「ジーノの件、組織として申し訳なく思っております」


「分かった」


「何か新しいものが出れば」


「出ないだろうな」


 俺は言った。


 トマソは否定しなかった。


「それでも、もし出ればお知らせします」


「その時は、対価を払う」


「承知しました」


 トマソは倉庫へ戻った。


──────────────────────────────


 その背中に、焦りはない。四人の若衆が床に伏したことも、相談役の中ではもう処理済みなのだろう。組織は人を飲み、捨てる。甘い名の薬を流し、古い証人を失い、賓客への礼を口にしながら若衆を放置する。


 整理する。


 得たもの。ジーノは三年前に死んだ。心臓で。少なくとも、トマソはそう言った。十二年前を直接知る者は組織の中にもういない。記録は残っていない。薬物の記録も出ない。


 得られなかったもの。ジーノの言葉。港で動いた船の名。マリヴェル家事件の前後に、誰が何を運んだか。家の没落に手を伸ばした相手の輪郭。


 別の箱。


 通路で起きたこと。拒絶した。《重圧》で止めた。獣に下らなかった。これは事実だ。声を荒げず、殺さず、壊さず、賢者としての最低限で抑えた。


 だが、抑えた事実は消去ではない。


 布越しに掴まれた感触の残り方、ローブの歪みが完全には取れない事実。それらは身体の外にあるようで、内側にある。第三層へ戻る坂を上がるたび、その残り方が少しずつ位置を変える。


 罪悪感は、そこに重なる。


 ヒュウマに言わずに出たこと。戻っても言わないだろうこと。賢者として連れを守る判断と連れに伝えない選択の対比、それは整然の中で完全には整わない。


 第三層の宿が見えた。


 窓に灯りがある。ヒュウマがいる灯りだ。


 俺は深く息を吸って、戸を開けた。


──────────────────────────────


「お帰りなさい」


 ヒュウマが玄関にいた。


 声は普段通りだった。戸が開く前から、俺の足音を拾っていたのだろう。海守りの当代は、人が戻る音に敏い。


「ただいま」


 俺は短く返した。


 茶色の瞳が俺の顔を一度見て、それから俺の身体の表面に視線が動いた。半秒。ローブの胸元の歪みの方角に視線が留まる、すぐに視線が逸れて俺の眼に戻った。


 そこで終わった。


 ヒュウマは何も問わなかった。


「お疲れ様でした」


「ああ」


「湯、用意してあります」


「ありがとう」


 ヒュウマは俺を中へ入れた。戸を閉める。外套を掛ける場所を空ける。卓に薬草茶の湯のみを置く。動きはいつもと同じだ。だからこそ、最初の半秒だけが際立つ。


 俺は革の上着を脱いだ。


 ヒュウマの手が一度動きかけた。手伝おうとしたのだろう。だが、途中で止めた。俺が自分で脱ぐのを待つ。その判断も見える。


「ヒュウマ」


「はい」


「取引は成立した。だが手がかりは得られなかった」


 ヒュウマは湯のみを卓に置いたまま、俺を見た。


「そうですか」


「ジーノという古参がいた。十二年前を見ていた可能性が高い。三年前に死んでいた」


「心当たりは、そこまででしたか」


「ああ。シローネ家の記録も残っていない」


「分かりました」


 短い会話だ。だが、ヒュウマは内容の重さを雑に扱わない。俺の言った分だけを受け取り、言わなかった分には触れない。


 最初の半秒の視線で、ヒュウマは何かを見抜いたのだった。


 それでも問わない、それが海守りの当代の作法だった。賢者の連れとして、俺の選択を一度こちら側に置いておく所作。問えば、俺は答えなければならない。答えないなら沈黙が生まれる。嘘をつけば、二人の間に別の傷が入る。


 ヒュウマは、その全部を避けた。


 優しさだけではない。判断だ。若いが、当代としての判断だった。


 俺は湯のみを取った。


 薬草茶は朝の包みと同じ配合に近い。少し濃い。帰ってきた体に合わせた濃さだな、と分かる。喉を通る苦味が、第四層の匂いを少し遠ざけた。


「蒼凪さん」


「何だ」


「湯を浴びて、休んでください。飯は軽く用意してあります。食べられそうなら後で」


「分かった」


「無理なら、残して構いません」


「悪くないな」


 ヒュウマの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その緩みを見て、俺の内側の罪悪感が形を変えた。深く刺さるものではない。浅く、広く残るものだ。言わない選択は、守るための判断だった。だが、守るために相手の目を借りながら、相手に言葉を渡さない。それは整然とは別の場所で、完全には片づかない。


 ヒュウマは湯殿の方角へ視線を送った。


「先にどうぞ」


「ああ」


 俺は頷いた。


 それ以上、ヒュウマは問わなかった。


──────────────────────────────


 湯殿で、俺は身体を洗った。


 ローブを脱ぐ、布の歪みが目視で残っていた。胸元の縁、腰のベルトの位置、局部の方角の布の崩れ。湯で洗う、布越しに掴まれた感触は身体の表面には残っていない。けれど意識の表面に残っている事実は変わらない。


 湯の中で、俺は内側で詫びた。


 ヒュウマに、語らない事実について。ヒュウマが読んだ可能性について、それを問わずに抱えた選択について。賢者として連れを守る判断と連れに伝えない選択の対比、それは整然の中で完全には整わない。


 身体の中の感触は、湯の温度では流れなかった。


 布越しに掴まれた重みの記憶が、俺の腰の前の方に残っている。湯に浸かったまま俺は気づいていた、若衆の手の動きが消えないこと、消えないまま身体が反応の質を変え始めていること。賢者の整然は意識の上では立っているが、身体は別の言葉を話していた。


 俺は湯から手を伸ばした。


 自分の手で一人で、整然の下にあるものを処理する。湯の中で身体を一度静かにする、呼吸を整える。内側で深い青を呼ぶ、けれど呼びきれない。若衆の手の感触が深い青の前を遮る。手の動きは無造作になる、賢者の所作とは別の手、整然の下の獣の指の動き。湯の音と呼吸の音だけが湯殿の中に立つ。短く済ませる、けれど完全に静かには済ませられない。終わりの瞬間に肩が一度大きく震える。


 湯の表面に薄く広がるものを、俺は湯ですぐに流した。


 湯殿の壁に手をついて、俺は息を整えた。


 罪悪感が一段深くなった。されど深くなった分だけ、内側の獣も一段静まった。賢者の整然が戻り始める、海神への呼びかけの経路が普段の場所に戻る感覚。若衆の手の感触が、ようやく身体の表面から薄く引いていく。


 湯から上がり、寝間着に着替えた。


 布は新しい。肌の上に触れる感触も、湯で温まった体には柔らかい。だが、柔らかい布が触れても、内側に残るものがただ消えるわけではない。消えないものは、消えないものとして置くしかない。


 寝室に入ると、ヒュウマは既に寝間着になっていた。


 寝台の縁に座り、湯のみを両手で持っている。茶色の瞳は湯気の向こうに落ちていた。俺が入ると、顔を上げる。視線は顔にだけ来た。身体の表面には戻らない。


「湯、温度は大丈夫でしたか」


「ああ」


「よかったです」


 ヒュウマは湯のみを卓に戻した。それから寝台の上で、位置を一段空ける。いつもの距離だ。近すぎない。遠すぎない。踏み出していない関係の、正確な幅。


「先に休んでください」


「お前も寝ろ」


「はい」


 俺は寝台の縁に座った。


 身体の重さが、そこで少し出た。疲れている。戦闘の疲れではない。交渉の疲れでもある。抑えた疲れでもある。獣を内側に戻す時、力は外へ出ない。出ない分だけ、内側のどこかが削れる。


 ヒュウマは反対側に横になった。


 連れ添って一年と少し、踏み出していない関係の中で寝台の中の距離は普段通りに保たれていた。


 俺も横になる。天井を見る。木目は何度も見たものだ。節の位置も覚えている。こういう夜ほど、見慣れたものは役に立つ。余計な意味を持たないからだ。


 ヒュウマの呼吸が隣で整っていく。


 起きているのか、眠ろうとしているのか。その境目の呼吸。海守りの当代は、人を急かさない。隣にいることで支え、言葉で押さない。若さに似合わない作法だ。だが、その作法に俺は何度も助けられている。


 俺は眼を閉じなかった。


 整理する。


 ローブは脱いだ。湯で身体は洗った。寝間着は新しい。海神への呼びかけの経路も、普段の場所に戻ってきている。賢者の所作は戻った。呼吸も乱れていない。


 それでも、内側に残るものは消えない。


 ジーノが死んでいたこと。シローネ家が記録を持たないと言ったこと。マッテオの咳。黒蜜の匂い。トマソの視線。若衆を床に伏せた重さ。ヒュウマの最初の半秒。問わない選択。


 どれも一つではない。層になっている。


 獣に下らなかった、確かに。


 されど下らない夜とはこういう夜のことなのかもしれない、と俺は内側で薄く笑った。


 下らない、つまらない、得るものが薄かった夜。獣に下らなかった代わりに、別の何かが内側に薄く残った夜。賢者として、整然の所作で抑えた夜。ヒュウマに語らない選択をした夜。


 俺は眼を閉じた。


 隣で、ヒュウマの呼吸が穏やかに続いている。何も問わない呼吸。だが、いないふりはしない呼吸。


 それで十分だった。


 十分だと、今夜は言うしかなかった。


 寝台の中の距離は変わらないまま、二人は別々の眠りに落ちていく時間に入っていた。

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