抑えられない
岩礁に船首が触れた。
木と黒い岩が、湿った短い音を立てた。リオンはその音さえ嫌ったように片手を上げ、船員たちを黙らせた。帆はすでに絞られている。風下の陰に入った船体は、朝の海の上で息を潜めていた。
俺たちは順に降りた。
春の朝の光はまだ薄く、火山性の岩石島の黒い肌を、冷えた刃のように斜めから撫でていた。島には高い木がない。岩の割れ目に苔が張り付き、海風で低く曲がった灌木がところどころに残っているだけだった。乾いた場所と湿った場所の境が不自然に細かく、岩の色も均一ではない。黒、灰、赤褐色。古い熱の痕跡が層になっている。
煙は見えない。
それでも、地面の奥に呼吸があった。
海面から上がる潮の匂いとは違う。火山の匂いとも違う。ずっと下に沈んだ熱が、まだ自分の名を忘れていないような気配だった。俺の眼はそれを拾った。海守りの感度で読むものではない。賢者の眼が、地形の歪みとマナの濁りを並べて、箱に入れていく。
ヒュウマが先に岩陰へ入った。
潮鎚は背から半分下ろされている。抜き切らない。だが、いつでも落とせる位置にある。左手で海守りの戦闘服の革帯を確認する所作があった。留め金、肩紐、脇の締め。最後に指先が脇腹の帯を一度なぞり、そこで止まる。肩の角度を一段沈める動き。前に出る準備をした身体の沈み方だった。
朝の光がヒュウマの褐色の肌に細い影を落とす。左耳のプラチナが一瞬だけ光った。
イーリスは音を立てなかった。
長弓を背負い、楽器は絹に包まれたまま腰にある。細い指が絹の結び目に触れ、ほどきはしない。ただ場所を確認する。エルフの歩行は岩を信用しない。尖った岩の上に足を置いても、そこへ重みを残さない。緑がかった灰色の瞳は、俺たちの足元ではなく島の奥を測っていた。
俺は最後に降りた。
ローブの裾を岩に引きずらないように絞り、ベルトの内側に収めた海溝晶の位置を確認する。胸元はいつも通り緩めたままだった。潮風が肌に当たり、鍛えた胸の上を朝の冷たさが薄く通る。身体は起きている。呼吸も浅くない。
「行こう」
俺は言った。
ヒュウマが頷く。
「先行します」
「頼む」
イーリスが絹をほどいた。
布が擦れる音すら、朝の波音の中に沈む。楽器が外気に触れた。弦には触れない。ただ、いつでも歌える状態に置く。慇懃な男らしい丁寧さと、旅人の手早さが同居した所作だった。
リオンの船は岩陰に残った。艫で若手の船員が槍を構え、リオンは舵の脇からこちらを見ていた。十九の顔に、船を預かる者の重みがあった。軽くない目だった。
俺は片手を上げた。
リオンが同じように返す。
それで、島に入った。
──────────────────────────────
洞窟の入口は、岩礁から少し上がった場所にあった。
潮が直接届かない高さだが、波の飛沫は来る。入口の周囲の岩だけが濡れて暗く見え、そこに物見が二人立っていた。
末端の戦闘員だな、と俺は読んだ。
革鎧。片手剣。短い投げ刃が腰に三本。足運びは傭兵のものに近いが、重心が少しおかしい。自分の身体を惜しむ者の立ち方ではなかった。顔立ちは東方系にこの土地の血が混じっている。首筋には細い刻印。彫った直後ではない。傷は閉じている。だが刻まれた線の中に、薄い黒が残っていた。
普通の見張りではない。
警戒のしかたが浅いのに、反応だけが鋭い。意識の置き場所を自分で選んでいない男たちに見えた。
イーリスが弓を下ろした。
絹をほどいたときと同じ丁寧さで、弦を引く。音がしない。朝の風の中で矢羽が一度だけ細く光り、それから二本の線が消えた。
一人目の喉に矢が刺さった。
喉笛を貫いて後ろの岩に当たり、短い硬音を立てる。男は声を出せなかった。両手が喉へ上がる前に膝が抜ける。二人目は眼窩を抜かれた。頭が後ろに跳ね、革鎧が岩を擦る。
血が流れた。
黒い岩の上に、赤は濃すぎた。朝の光がまだ弱いせいで、血の色だけが先に起きたように見える。
「制圧、完了でございます」
イーリスが低く言った。
「早いな」
「お褒めに預かり光栄でございます。物見に長く息をさせる趣味はございませんので」
軽い皮肉を置く余裕がある。だが弓はまだ下ろしていない。
ヒュウマが倒れた二人の脇を抜けた。
潮鎚を背から下ろす。手首の返しに迷いはない。海守りの当代の仕事をするときの顔だった。洞窟の入口の陰まで進み、足を止める。
そこで、岩の奥から音が増えた。
一つではない。
革底が石を踏む音。金具が鳴る音。誰かが息を吸い、誰かが短く命令を発する気配。物見の死を、何らかの方法で察知したのだろう。儀式的な繋ぎがある可能性は見ていた。嫌な予想ほど、よく当たる。
「来る」
俺は告げた。
ヒュウマが身体を半身にした。左肩を前へ、潮鎚を斜めに。傷を受ける面を減らしながら、俺の詠唱線を塞がない位置取り。細かい。こういうところで、ヒュウマは十八の若者の顔をしない。
イーリスが弓を戻し、楽器を前に持った。
「支えを入れます。蒼凪殿、長くなると見てよろしいか」
「長くしない。だが備えは要る」
「承知いたしました」
イーリスの指が弦に触れた。
「《海神のレクイエム》、奉ります」
低い旋律が流れた。
楽器の音は島の黒い岩に吸われて、それでも薄い膜のように俺たちの周囲へ広がった。味方のマナ消耗を軽くする詩。海神への呼びかけが、ほんの少し近くなる。遠い扉が一枚分だけ開くような感覚。俺は息を入れ替えた。
洞窟から敵が出た。
末端が十数人。片手剣、短槍、短弓。革鎧はばらばらだが、首や頬に同じ線が刻まれている。
その後ろに中堅が二人。
一人は両手刀。もう一人は長槍。革鎧の上に黒いローブを羽織り、刻印が顔の半分まで上がっている。普通なら痛む。皮膚にこれだけ線を入れ、そこへ何かを流し込めば、表情のどこかに負荷が出る。だが二人の顔は凪いでいた。凪いでいる、というより、必要な揺れを削ぎ落とされている。
二十人前後。
数は見立ての範囲。密度が少し濃い。
「ヒュウマ、左の両手刀」
「はい」
「イーリス、右を削れ。詩は維持」
「了解いたしました」
「中央は俺が持つ」
海溝晶を掌に浮かせた。
深海色の明滅が朝の光の中で沈む。青というより、光を呑んだ青。結晶の芯がゆっくり脈打つ。俺は海神への経路を整え、水の質量、吸引、足元の岩盤、敵の重心を一つの図に置いた。
「巻き込め、何もかも ── 《海淵渦 / Maelstrom》」
地面に渦が立った。
海ではない。だが海の形を地面に押しつける。深海色の円が黒い岩の上に広がり、中央の足元を引き込んだ。半径十メートル弱。広げすぎない。味方の動線を残し、敵の中央だけを縛る規模。
末端の三人が足を取られた。
一人は短槍を岩に突き立てて耐えようとしたが、槍の先が削れた岩に滑り、身体が横に倒れた。革鎧が裂ける。頬が岩に当たり、歯が欠ける音がした。二人目は仲間の腕を掴んだせいで、二人まとめて渦の芯へ引かれていく。
俺は維持したまま、右手を上げる。
水を編み、雷を通す。《雷水弾》。十数の弾が掌の周囲に生まれ、青白い光を持つ水滴として震えた。イーリスの詩で負荷が軽い。悪くない。
放つ。
水弾が革鎧に当たり、破裂し、雷が走った。二人の末端が痙攣して倒れる。指が剣を握ったまま開かず、口の端から泡が出た。
ヒュウマは左へ踏み込んでいた。
潮鎚と両手刀がぶつかる。金属音が岩礁に跳ねた。潮鎚のアズリウムの青みが、黒鋼の灰色を斜めに弾く。ヒュウマは力任せに押さない。受け、ずらし、肩を入れて相手の重心を崩す。戦闘服の革帯が揺れ、褐色の首筋に汗が一筋落ちた。
両手刀の男は強い。だがヒュウマの潮鎚を受け続けるには足が浅い。二合、三合。三合目で男の膝が少し落ちた。
「そこ」
俺は小さく言い、《潮鞭》を編んだ。
水の鞭を三本。表面に氷の薄膜を置く。柔らかく打つのではない。絡めて切る。
鞭が右側の末端四人の脚を薙いだ。膝裏が凍り、次の瞬間に砕ける。骨の割れる音が重なった。一人の足首が不自然な向きに折れ、倒れた拍子に首を岩角へ打った。声は出たが、途中で止まる。別の一人は脚を失っても短弓を構えようとしたので、イーリスの矢が喉を塞いだ。
イーリスの弓は正確だった。
弦を引く音がない。矢が飛んだ結果だけがある。喉、眼窩、手首、膝。詩は途切れない。歌いながら射るのではなく、歌を地面に敷いたまま、弓で上の層を削っていく。面白い技術だな、と戦闘中の俺の眼が勝手に読んだ。
戦線は整っていた。
左にヒュウマ。右にイーリス。中央に俺。敵は洞窟から外へ押し出され、足場の悪い黒岩の上で数を削られている。読み直しても勝ち筋はある。多少の負傷は出ても、制圧できる。
そのはずだった。
洞窟の奥が、もう一度暗く動いた。
──────────────────────────────
三人目が出てきた。
俺の眼が、一瞬遅れた。
黒いローブは着ていない。革鎧の上から何かの硬い布を巻き、胸元まで刻印が深く入っている。首の線が胸の中央へ落ち、そこから肋骨に沿うように広がっていた。皮膚の下で黒が脈打つ。
武器は大刀。
刃渡りが長い。黒鋼でもアズリウムでもない。深い藍色を含んだ金属で、朝の光をほとんど返さない。刃が濡れているように見えるが、水ではない。鉱石そのものの色だ。俺の知識の箱に、すぐ入る名前がなかった。
男の眼は、さらに凪いでいた。
痛みを無視しているのではない。痛みを受け取る場所そのものが狭い。戦闘員としての反射だけを残して、人間の余白が削られている。
その男が、ヒュウマへ走った。
速い。
左の中堅と組んでいるヒュウマの背後、半歩外。潮鎚は両手刀を受けた直後で、まだ戻り切っていない。ヒュウマの視界の外。海守りの感度でも、この角度、この距離、このタイミングは薄い。
俺は短く息を吸った。
「顕現せよ、大海の底 ── 《海震 / Undersea Quake》」
最小の揺れを走らせる。
島の地面に、海底の震えを重ねる。広げない。三人目の足元だけを崩す。岩盤が低く鳴り、男の踏み込みが半呼吸だけ止まった。
間に合った、と俺は読んだ。
だが、男は止まらなかった。
膝が崩れた状態のまま、身体を前へ投げる。揺れを踏み抜く。大刀が低い軌道から跳ね上がり、ヒュウマの右側へ伸びた。
「ヒュウマ」
声が出た。
ヒュウマは振り返っていた。反応はした。潮鎚の柄を返し、刃を受ける。金属が鳴った。火花が散る。だが完全には逸れない。
刃がヒュウマの右肩の下を裂いた。
革の戦闘服が裂ける音は、布を破る音に似ていなかった。湿った革と肉が同時に開く音だった。刃は骨に食い込む前に逸れた。潮鎚が軌道を変えたからだ。それでも傷は長い。右肩の下から脇腹へ斜めに三十センチほど、皮膚と肉が開いた。
血が飛んだ。
朝の光の中で、赤い線が宙に散った。ヒュウマの褐色の肌を赤が走り、革帯の留め金に落ちて玉になった。片膝が岩に着く。潮鎚の柄が支えになり、右手が傷を押さえる。指の間から血が押し出された。
「ヒュウマ殿!」
イーリスの声が鋭くなった。
弓を引きかける。だが射線にヒュウマがいる。詩を切るか、射るか、支援に行くか。その判断の一瞬が戦場に落ちた。緑がかった灰色の瞳が傷を測る。深さ、出血、立てるかどうか。俺と同じように読んでいる。
ヒュウマは顔を上げた。
茶色の瞳が俺を見た。
痛みで揺れている。だが消えていない。潮鎚を支えに、立とうとする。片膝から体重を剥がし、もう一度肩を入れる動き。海守りの当代としての意地。救う側の身体が、自分の血を無視して立ち上がろうとしていた。
その肩が、震えた。
俺の中で何かが切れた。
──────────────────────────────
切れた、というのは比喩ではなかった。
俺の内側で、整然の下に置いた獣を縛っていた糸が物理的に切れる感覚が走った。
音はない。
けれど、確かに切れた。喉の奥が熱くなる。視界の縁に、赤黒い薄い線が差す。左手の海溝晶が掌の上で震え、深海色の明滅に別の色が混じった。赤ではまだない。黒に近い赤。沈めていたものが底泥を巻き上げながら上がってくる色だった。
俺は詠唱を変えた。
変えた、という認識だけが後から来た。口が先に動いていた。海神へ伸ばす経路が、普段の静かな深みから外れる。もっと熱く、もっと荒い底へ繋がる。俺が選んだのではない。俺の中の獣が、勝手に扉を開けた。
「煮え立て、底より ── 《黒煙泉 / Black Smoker》!!」
言葉が出た瞬間、島の地面が反応した。
ヒュウマを斬った三人目の足元に、亀裂が走る。一本ではない。岩盤の弱い筋を選び、黒い岩に細い裂け目が次々に開いた。半径二十メートル弱。地形の上に、見えない手で網を刻むような広がりだった。
低い唸りが、地面の下から来る。
裂け目から黒煙が上がった。
最初は薄かった。灰色に近い黒が、岩の隙間から息のように漏れる。次の瞬間、密度が上がった。熱波が押し寄せ、酸性熱水が泡立ちながら噴き出す。黒岩に触れた水が岩肌を白く曇らせ、灰色へ変えていく。腐食の音がした。じゅう、という軽い音ではない。岩が内側から噛み砕かれるような音だった。
末端の四人が巻き込まれた。
一人は裂け目の縁を踏み抜いた。足首まで熱水に落ちた瞬間、革のブーツが膨れ、縮み、溶けた。男が叫んだ。叫びながら転び、両腕が熱水の溜まりに入る。革鎧の袖が剥がれ、皮膚が泡立つ。焼けた肉の匂いが朝の空気に混じった。
二人目は逃げようとして、膝から落ちた。酸が革鎧の腹を食い破り、下の肌に届く。肌が黒ずみ、赤く裂け、白い脂肪が一瞬見えたあと、溶けて濁った水に混ざった。声が途切れる。煙を吸ったせいで、喉が潰れたのだ。
三人目と四人目は互いに掴み合ったまま倒れた。剣を持った腕が熱水に浸かり、指が柄から離れない。金属の留め具が酸で曇り、革鎧の胸当てが柔らかく歪む。絶叫が重なり、咳になり、血を吐く音になった。
ヒュウマを斬った男は、まだ立っている。
足は熱水の中にあった。ブーツが溶け、足の肉が崩れ、白い骨が覗く。腱が焼け切っているのに、男は大刀を構え直そうとする。顔に痛みは出ない。痛みがないのではない。痛みを顔に出す仕組みが残っていない。
俺は詠唱を切らなかった。
──────────────────────────────
「底より出づるは星々の血脈。全て吐き出せ、我が意のままに」
声が沈んだ。
俺の喉から出ている。俺の発音だ。だが、普段の俺の声ではない。胸の奥で獣の唸りが混じる。言葉の輪郭は保っているのに、息が熱い。舌の上に鉄の味がする。海溝晶は赤黒く脈打ち、深海色の青が縁へ押しやられた。
掌が熱い。
結晶の熱か、俺の手の熱か、判じきれない。左手の皮膚が乾く感覚がある。痛みは、まだ遠い。痛みを拾う場所へ意識が届いていない。
裂け目が増えた。
二十メートルの円は、岩盤の弱い線を見つけて外へ伸びる。三十、四十。戦場の中央を黒煙が飲み込む。酸性熱水が噴き上がり、岩の窪みに溜まり、そこからまた泡を立てる。硫化水素の匂いが立った。鼻を突く腐った刺激。朝の海の清潔な塩気が、一気に押し負けた。
末端たちが走り出した。
逃げ道を探している。だが黒煙の中で視界は消えていた。方向を失った男が、岩陰だと思って進んだ先で裂け目に足を落とす。片脚が膝まで沈み、引き抜こうとした瞬間に皮膚が剥がれた。膝の皿が白く見え、すぐに濁った湯の中へ消えた。
別の男は仲間の死体を踏んだ。
死体はもう死体の形を保っていなかった。半液状化した肉と革と金具の塊に足を取られ、うつ伏せに倒れる。顔面が熱水の膜に触れ、目の周りの皮膚が剥がれた。叫び声は出たが、口の中へ煙が入り、すぐに湿った咳に変わる。
「ヒュウマ殿、お下がりください!」
イーリスが叫んだ。
慇懃な丁寧体が崩れきらないまま、声の底が鋭くなる。弓を背に戻し、楽器を肩へ。戦場の縁を走る。エルフの足は速い。岩を踏んでも滑らない。黒煙の縁を読み、酸の溜まりを避け、ヒュウマの横へ入る。
ヒュウマは立とうとしていた。
右手で傷を押さえ、左手で潮鎚を支えている。顔色が悪い。出血が多い。だが、まだ俺の方へ来ようとしている。馬鹿だな、とどこかで思った。来るな。下がれ。言うべきだった。
言葉にならなかった。
イーリスがヒュウマの右腕を肩で受ける。血がイーリスの旅装に移る。ヒュウマは一度だけ抵抗したように見えたが、すぐに身体を預けた。判断できている。傷を負っても、自分の身体の限界を読む理性が残っている。
「《海神のワルツ》、奉ります」
イーリスが詩を変えた。
旋律が流れる。足元の重みが少し軽くなる。味方の動きが水に乗る。ヒュウマの足運びが戻った。傷から血は流れ続けているが、イーリスに支えられ、戦場の外へ下がる速度が出る。
俺はその動きを眼の隅で読んだ。
下がっている。生きている。まだ間に合う。
それでも、俺は詠唱を切らなかった。
口が、次の言葉へ進んでいた。
──────────────────────────────
「尽くを焼き、誰も還すな。開け放たれしは地獄の扉、誰も生き残れはしない」
言葉が、命令ではなく宣告になった。
自分で聞いていて分かった。これは戦術ではない。制圧でもない。対象を無力化するための詩ではない。残らないところまで持っていく言葉だ。俺の中の獣が、傷をつけた者だけでなく、その場にある敵の形すべてを許していない。
声に息が混じった。
息の継ぎ目が粗い。詠唱の合間に、喉の奥で低い音が鳴る。人間の声の範囲に収めようとする俺と、収める気のない獣が、同じ声帯を使っている。視界の縁に血の薄い膜が張った。世界の輪郭が赤く滲む。黒い岩、灰色の煙、倒れる敵。そのすべてが赤い薄膜越しに見えた。
戦場の規模が、五十メートルを超えた。
地面が開く。
表面が割れる、という程度ではない。岩盤の奥にあった熱と圧が、地表へ道を見つけて突き上がる。深い亀裂が何本も走り、裂け目の内側で赤黒い熱が一瞬見えた。酸性熱水が間欠泉のように噴き、黒煙が柱になる。地面そのものが、裂けた口で叫んでいるようだった。
右側の末端は全滅した。
イーリスが削った者たちの死体も、黒煙泉に呑まれていく。矢の刺さった喉が酸で崩れ、眼窩の矢羽が黒く濡れた。革鎧は縮み、留め具は外れ、肉と岩と酸の泥に混じる。
左の両手刀の中堅が逃げようとした。
ヒュウマと組んでいた男だ。片膝を引き、後ろへ下がる。だが足元に裂け目が開いた。熱水が噴き、男の左脚を膝下から浴びる。革が溶け、肉が焼ける。男は顔を歪めないまま倒れた。両手刀を支えにしようとして、柄を握る指の皮膚が剥がれていく。
槍の中堅は黒煙の中で見失った。
次に見えたとき、長槍だけが立っていた。柄の下に、半分崩れた身体がある。胸当ては溶け、肋骨が見えていた。口が動いているが声は出ていない。肺を焼かれている。槍の穂先が酸の蒸気で曇り、灰色に腐食していく。
三人目の中堅は、最後までこちらを見ていた。
両脚はもう脚ではない。骨が見え、体重を支えられない。膝が折れる。大刀を岩に突き立てて立とうとするが、刃の表面が腐食し、藍色の金属が白く曇る。指の皮膚は剥がれ、骨が柄に触れていた。それでも離さない。
男が口を開けた。
何かを言おうとした。
煙が口から入った。喉が内側から焼け、声にならない空気だけが漏れた。顔の刻印のあった皮膚は半分剥がれている。剥がれた下の肉が熱で黒ずみ、眼だけがこちらを向いた。
倒れた。
頭から熱水の溜まりに落ちる。頭蓋の内側へ酸が入り込む音が、黒煙の中で妙にはっきり聞こえた。気のせいかもしれない。だが俺の耳には聞こえた。
戦場は、もう数える場所ではなかった。
人数という箱が壊れる。敵、武器、革、骨、肉、岩、藻。すべてが混ざる。半液状化した塊が地面に張り付き、皮膚の剥がれた肉と骨と燃えた藻が、同じ黒い泥に沈んでいく。革鎧の溶ける音がまだ続く。肌が焼ける音も、骨が熱で割れる細い音も、黒煙の奥に残っている。
悪臭が朝の風に乗った。
硫化物。焦げた肉。腐り始めた体液。酸で焼けた革。海藻が燃えたような臭い。それらが層になって鼻を刺し、喉の奥へ貼り付く。普通なら吐いている。だが、俺の身体は吐かなかった。獣の側に落ちた身体は、その臭いをただ情報として受け取っていた。
「凪さん」
戦場の縁から声がした。
ヒュウマだ。
低い声。海守りの当代の声。普段より少し硬い。俺を呼ぶ声としては近いが、まだ表層に触れるだけだった。
俺は詠唱を切らなかった。
海溝晶の中で、赤が広がる。深海色の青が薄くなる。赤黒い差し色は差し色ではなくなり、結晶の半分以上を占めた。掌が焼ける。皮膚が乾き、薄く焦げる匂いが上がった。痛みは、まだ遠い。
「凪さん」
もう一度。
今度は少し近い。イーリスに支えられながら、ヒュウマが呼んでいるのだろう。傷のある身体で声を出している。俺はそれを読んだ。読んで、止まらなかった。
獣が、さらに深い場所へ舌を伸ばした。
──────────────────────────────
「世界を熔かし… 沈みゆく。嘆き悲しみ、一切が混じり合い… 永劫のくびきとなって…」
詩が割れた。
切れ切れになった言葉の間を、息ではない音が埋める。「世界を熔かし」の「熔」の中で、声が人間の発声から外れた。喉の奥を獣の唸りが擦る。詩と唸りの境目がなくなり、海神への呼びかけが、俺の口を借りて俺ではないものの熱を帯びる。
身体が震えた。
左手の痙攣が強くなる。海溝晶の赤は結晶の九割を占め、深海色は縁に細く残るだけだった。普段、俺の権能の媒体として沈んでいる結晶が、別の心臓のように脈打つ。光が赤い。黒煙の中で、その赤だけが俺の胸や手、ローブの開いた肌を照らす。
左手の皮膚が焦げた。
匂いで分かった。自分の肉が焼ける匂い。だが痛みが届かない。痛みの信号は上がっているはずなのに、俺の意識はその場所にいない。底へ押し下げられている。獣が上にいる。俺はそれを下から見ている。
「嘆き悲しみ」という言葉が、別の沈みを呼んだ。
赤い獣だけではなく、深い青の沈みが混ざる。俺が普段、整えて、沈めて、使える形にしているもの。その底そのものが外へ出かけていた。怒鳴る熱だけではない。沈み、重み、戻らないものの冷たさ。戦場の上空に、俺の内側の構造がそのまま立ち上がる。
整然の下に置いた俺そのものが、外へ剥がれ出ている。
止める手がない。
半径百メートルを超えた。
岩石島の中央が変わっていく。黒い岩の丘が崩れ、裂け目の列が海へ向かって伸びる。酸性熱水が新しい溝を作り、岩の表面を灰色に変えながら流れる。苔は一瞬で黒く縮み、灌木の根元から煙が上がる。島の地形が、戦闘の跡ではなく、別の場所へ置き換えられていく。
敵はもういない。
生きて動くものはない。だが詠唱は対象を必要としていなかった。
「永劫のくびきとなって…」
その言葉が外へ広がる。
島の中央だけでは足りない、というように。地形を殺し、土を酸に沈め、地下水を濁らせ、海へ流れ出すものまで縛ろうとする。俺自身の中から出たものが、世界に残る形を欲しがっていた。
まずい。
底の方で、俺は思った。
思っただけだった。身体は止まらない。声帯はまだ動く。結晶はまだ赤い。視界の血の膜は濃くなり、黒煙の向こうで朝の光が消えた。俺の意識がさらに沈む。獣が、俺の意識の上に完全に乗ろうとしている。
その時だった。
「凪——」
声が届いた。
ヒュウマの声だった。
普段の本名呼びではない。危機の場面で意識的に深く呼ぶ声。海守りが荒れた海で名を呼ぶ時の、腹の底から届く声。海と陸の境界の声だった。
それは耳から入らなかった。
俺の意識の底へ直接落ちた。
凪。
本名を呼ばれた瞬間、底に沈んでいた俺の一部が反応した。獣が握っていた結晶に、俺の意識が一瞬だけ触れる。海神への経路が熱い裂け目から引き戻される。普段の深い青の道へ、乱暴に戻る。喉の使い方が人間のものへ戻ろうとする。
痛みが来た。
左手が焼けている。皮膚が熱い。掌の中心が脈打つ。視界の縁の血の膜が薄くなる。赤い光が揺らぎ、海溝晶の奥で深海色が細く息を吹き返す。
詠唱が止まった。
俺は息を吸った。
人間の息だった。
肺が空気を取り込み、喉が焼けるように痛む。膝が抜けた。詠唱の負荷が身体に戻る。熱、疲労、マナの損耗、左手の痛み。全部が一度に落ちてくる。
海溝晶が掌に沈んだ。
握る力が抜ける。結晶は落ちなかった。浮いたまま、深海色と赤を混ぜて明滅する。戻りきらない色だった。
俺は前のめりに崩れた。
膝が黒岩に当たる。両手をつく。左手の皮膚が岩に触れて痛みが跳ねた。岩は熱い。だが酸の溜まりではない。戦場の縁。俺は知らないうちに、そこまで踏み込んでいたのか、それとも最初からそこにいたのか。判じきれない。
足音が来た。
ヒュウマとイーリスの足音。片方は重く、片方は軽い。ヒュウマの呼吸が乱れている。血の匂いが近い。
「凪さん」
近くで、ヒュウマが言った。
普段の「蒼凪さん」ではなかった。
凪さん。
その呼び方が、俺の意識の表層を支えた。深く呼び戻すための本名呼びとは違う。戻ってきた俺を、その場に留める呼び方だった。
手が触れた。
ヒュウマの右腕が俺の左肩を支える。濡れた革帯が俺の肌に当たった。血で湿っている。イーリスが右側から俺を支えた。細い身体だが、力の入れ方がうまい。楽器は背へ回している。弦に触れていないが、いつでも歌える位置にある。
「お運びいたします」
イーリスの声は慇懃だった。
だが深い。普段の観察者の軽さはない。俺を荷物として扱う声ではなく、壊れたものを運ぶための声だった。
「ヒュウマ」
俺は言ったつもりだった。
声が出たか分からない。
「俺は大丈夫です。凪さん、今は歩いてください」
ヒュウマが答えた。
大丈夫なわけがない。血の匂いが濃い。右脇腹の傷は深い。だがヒュウマは俺を支えている。片腕で俺を支え、もう片方をイーリスに預けている。俺たちは三人で、黒煙の外へ歩いた。
──────────────────────────────
船までの距離は、長かった。
来るときは短く感じた岩礁が、帰りは別の地形になっていた。足元の黒岩が傾き、ひとつひとつの段差が身体に響く。俺の脚には力がない。右足を出す。遅れて左足がついてくる。ヒュウマの体重がときどき俺の肩へ乗る。俺の体重もヒュウマへ乗る。互いに崩れそうになり、そのたびイーリスが位置を変えた。
「こちらでございます。左、少し高い」
イーリスが低く案内する。
普段なら皮肉を混ぜる男が、今は言葉を削っている。岩の高さ、足の置き場、酸の残り。必要なものだけを告げる。
俺は振り返らなかった。
振り返る力がない。というより、振り返ったら戻れなくなる気がした。黒煙の方角には、俺の中から外へ出たものがまだ残っている。見れば、また引かれる。そう読んだのかもしれない。読めていたのに、俺は自分の身体を制御しきれていなかった。
「船が見えます」
ヒュウマが言った。
声が少し掠れている。息の合間に痛みが混じる。俺は何か返そうとして、喉が動かなかった。
岩礁の縁で、リオンが走ってきた。
「おい、二人とも!」
若手の船員が二人、船板を抱えて続く。リオンの顔から血の気が引いていたが、指示は乱れない。
「板を渡せ。先にヒュウマさん、いや、蒼凪さんも同時に支えろ。そこ滑るぞ」
船員たちが動く。
俺とヒュウマは半分抱えられるように船へ上げられた。船板の上に座らされる。背中が船室の壁に当たり、ようやく身体が止まった。船の揺れが、地面の揺れではないことに少し遅れて気づく。
海溝晶はまだ左手の中にあった。
握っているつもりはない。だが手放せていない。結晶の色は深海色へ戻りかけている。戻りかけているだけだ。赤黒い差し色が芯に残り、呼吸のたびに薄く明滅する。
左手の皮膚は赤く焼けていた。
掌の中心と指の腹が特にひどい。皮膚が乾き、薄くひび割れている。軽い熱傷で済んだのは、結晶が最後に浮いたからだろう。完全に握り込んでいたら、もっと深かった。
ヒュウマが俺の左隣に座らされた。
イーリスがすぐに傷を見た。右脇腹の革を切り開く。刃を入れる所作が速い。血で貼り付いた革が剥がれ、傷が露出した。
長い。
右肩の下から脇腹へ、斜めに開いている。深さは皮下組織まで。筋膜の一部が見える。骨と内臓には届いていない。潮鎚で逸らしたおかげだ。だが出血は多い。戦闘服の内側が赤く濡れ、血が船板に落ちる。
リオンが布を持ってきた。
「水、清潔なやつ。あと包帯」
「はい!」
船員が走る。
イーリスは楽器を膝に置いた。弓は背。細い指が弦に触れる。
「《木神のバラード》、奉ります」
声が船板の上に低く流れた。
さっきまでの戦場の詩より柔らかい。だが軽くはない。木の根が土を掴むような、細い力が傷の周囲に広がる。ヒュウマの呼吸が一度乱れ、次に少し深くなった。傷の縁がゆっくり寄る。表面の出血が鈍る。
足りない。
俺の眼は読んだ。軽傷なら閉じる。だがこの傷は中傷だ。詩だけでは浅いところを覆うだけで、深さは残る。
イーリスも同じ判断をした。
「חֶסֶד ── 《葉手当 / Leaf Touch》」
短い詠唱が重なる。
緑がかった薄い光がヒュウマの脇腹に広がった。葉脈のような線が傷の縁をなぞり、樹液に似た薄緑の膜が傷口を覆う。血が止まる。完全に治るわけではない。だが出血の流れが消え、傷の奥が一段塞がった。
ヒュウマの顔から痛みの色が少し引いた。
唇の白さは残っている。額に汗。右手はまだ無意識に傷の近くへ行こうとして、イーリスに軽く止められた。
「触れてはなりません、ヒュウマ殿。今は膜を置いたところでございます」
「すみません」
「謝罪は後ほど承ります。今は呼吸を」
イーリスが包帯を受け取り、傷の上に布を重ねる。革の戦闘服を切り開いた上から、きつすぎない圧で巻く。船員の一人が息を呑んでいた。リオンがその肩を叩き、作業へ戻した。
俺は見ていた。
見ているだけだった。
「凪さん、手」
ヒュウマの声がした。
俺は少し遅れて自分の左手を見た。焼けた掌。海溝晶。戻りきらない赤。
「お前の……傷が先だ」
声が掠れた。
「もう止まってます」
「閉じて……ない」
「でも、止まってます。凪さんの手も見せてください」
凪さん。
呼び方が、また来た。
普段の「蒼凪さん」ではない。戦場で俺を引き戻したあと、ヒュウマは俺をその名で支えている。夜の甲板で迷っていた距離を、血と黒煙のあとに越えてきた呼び方だった。
俺は左手を少し上げた。
力が入らない。海溝晶が掌から浮き、俺の手の上で静かに回る。イーリスがヒュウマの包帯を結び終え、俺の方へ向き直った。
「蒼凪殿、お手当を奉ります」
「後で……いい」
「後でよい傷ではございません。貴方ほどの方が、焼けた手で結晶を握り続けるのは、いささか趣味が悪うございます」
「面倒だな」
「面倒で結構。手を」
俺は抵抗をやめた。
イーリスが俺の左手を取る。冷えた指が、焼けた皮膚の周囲を丁寧に支えた。弦に触れていた指とは別の、治療の手だった。
「חֶסֶד ── 《葉手当 / Leaf Touch》」
緑の薄い光が掌に広がる。
樹液の膜が焼けた皮膚を覆い、痛みが一段遠のいた。痛みが消えるのではない。受け取れる形に整えられる。俺はそこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
「ありがとう」
短く返した。
「どういたしまして」
イーリスはそれ以上、今は言わなかった。
観察者の眼が俺の内側まで見ようとしていた。だが踏み込まない。弦には触れず、いつでも歌える状態を保つ。慇懃な丁寧体の裏側で、距離を測っている。
「凪さん」
ヒュウマが言った。
「休んでください」
「俺、が……」
「休んでください」
遮られた。
声は強くない。だが深い。俺を責める声ではない。俺に言い訳をさせない声だった。海守りの当代の声で、俺の隣に座る十八の若者の声でもあった。
俺は頷いた。
それ以上、言葉が出なかった。
──────────────────────────────
船が岩礁を離れた。
リオンが舵を切り、若手の船員たちが帆を調整する。風下の岩陰から抜けると、船体が大きく一度揺れた。波の音が戻ってくる。島の黒い岩に吸われていた音が、海の上で広がった。
俺は船室の壁に背を預けたまま、左手を膝の上に置いた。
海溝晶は掌の少し上で浮いている。深海色が戻ってきた。だが完全ではない。赤黒い差し色が、結晶の芯に薄く残っている。傷跡のように。結晶そのものが、さっき開いた経路を覚えている。
ヒュウマは左隣にいる。
包帯を巻かれ、戦闘服の脇は切り開かれたまま。血の跡が黒くなり始めている。潮鎚は船板の上に置かれ、彼の手の届く位置にある。傷を負っていても、無意識に武器との距離を測っている。世話焼きで、救援者で、戦える者の癖だ。
呼吸は深くなっていた。
詩と《葉手当》で痛みが和らいだのだろう。眠りに落ちかけている。だが眉間にはまだ薄い皺が残る。痛みの残滓。出血の疲労。俺が守れなかった結果。
リオンが近くまで来た。
「蒼凪さん、島から距離を取ります。追手は見えません」
「追えない」
俺は言った。
自分の声が、思ったより低かった。
リオンは一瞬だけ島の方角を見た。若い顔に、見てはいけないものを見た色が差す。けれどすぐ戻る。
「了解です」
船は西寄りの風を掴んだ。
島が少しずつ離れる。
俺は、そこで初めて振り返った。
黒煙が立っていた。
島の中央から、まっすぐ空へ。朝の光は煙の上で割れ、黒い柱の向こう側へ抜けない。風はある。煙の縁は流れている。だが量が多すぎて、柱そのものは崩れない。地形の奥から、まだ熱水が噴き上がっている。時折、黒煙の根元に赤い揺らぎが見えた。
半径百メートルを超えた戦場。
そう読める。島の中央の起伏は変わった。岩の丘は崩れ、低い灌木のある場所まで黒く濡れている。酸が流れた筋は灰色に変わり、地表に白い縁を残している。数年は何も育たないだろう。地下の水も濁る。潮に流れ込むものも出る。臭いは残る。あの場所に踏み込む者は、しばらくいない。
俺がやった。
敵を倒した、では足りない。
俺の業が外に出た。その結果、島の中央が死んだ。地形の一部が、俺の内側の色に染められた。敵だったものは回収できない。骨も、革も、武器も、肉も、半液状化した塊として残るだけだ。朝の風に乗った悪臭は、たぶん船が離れても鼻の奥に残り続ける。
俺の眼の中で、その光景が動かなかった。
黒煙の柱だけが動いている。だが、俺の中に沈んだ光景は動かない。固定された。戦場の凄惨さではない。もっと底の方に貼り付いたものだ。
罪悪感、という言葉では足りなかった。
それは表層に名前を付ける言葉だ。人を殺した。島を汚した。予測を外した。ヒュウマを傷つけた。そういう事実に対して、胸の上に乗る重さを呼ぶ言葉なら、そう言ってもいい。
だが今あるものは、もっと底だった。
業そのものが外に出た後の空白。
獣が表に出て、戦場を噛み砕き、戻ったあとに残る穢れ。海神への経路が薄く濁っている感覚。普段、深海色で整えている俺の内側に、赤黒い差し色が残っている。海溝晶だけではない。俺の呼吸の中にも、左手の痛みの中にも、喉の掠れにも残っている。
俺は詠唱を切らなかった。
一度目、ヒュウマが離脱しているのを見ても。
二度目、敵が崩れているのを見ても。
三度目、生きている敵がいなくなっても。
俺は詠唱を切らなかった。
ヒュウマの言葉がなければ、どこまで行った。
島全体か。
海までか。
俺自身の意識が戻らないところまでか。
答えは出ない。だが、答えに近い冷たさだけが腹の底に沈む。
ヒュウマの呼吸が隣で深くなった。
眠りに落ちた。浅い眠りだ。傷の痛みと詩の眠気が混じった呼吸。右脇腹の包帯が上下する。革の戦闘服に残った血が朝の光で黒く乾いていく。彼の右手は、無意識に潮鎚の柄の方へ少し伸びていた。届かない距離ではない。眠っていても、守る側の位置を失っていない。
俺はその手を見た。
ヒュウマは俺を呼び戻した。
本名で。海と陸の境界の声で。俺の意識の底に届くように。
俺は戻ってきた。
戻ってきた俺が、ヒュウマを守れたのかどうかは分からない。ヒュウマは生きている。傷は閉じ始めている。だが、傷を負わせたのは俺の読みの甘さだ。三人目の中堅を見落とした。大刀の金属を知らなかった。刻印の深さから反応速度を見誤った。半呼吸の遅れが、ヒュウマの脇腹に残った。
俺が黒煙泉を発動しなければ、ヒュウマはさらに斬られていたかもしれない。
俺が黒煙泉を発動したから、ヒュウマを黒煙の縁まで追い込んだとも言える。
どちらも事実に近い。どちらも逃げ道にならない。
イーリスが右隣に膝をついた。
楽器は膝の上。弦には触れず、指を置いているだけだ。緑がかった灰色の瞳が俺の左手を見て、それから島の煙へ移る。観察者の眼だった。だが普段のように物語の形へすぐ編む軽さはなかった。
「蒼凪殿」
「何だ」
「お手は、しばらくお使いにならぬ方がよろしゅうございます」
「分かってる」
「分かっておいでで、握り続けておられましたか」
「癖だな」
「その癖は、少々高くつきます」
「悪くない指摘だ」
イーリスは薄く頷いた。
「詩にするには、まだ早うございます」
俺は少しだけ目を向けた。
「する気か」
「わたくしは見たものを忘れません。ただし、いつ歌うかは別でございます」
「今は歌うな」
「ええ。今は、歌いません」
その返答は、思ったより静かだった。
船がさらに離れる。黒煙の柱は小さくなる。小さくなっても、消えない。水平線の上に黒い傷のように残る。島の中央で、まだ熱水が噴いている。地形の死が続いている。俺の業の余韻が、俺が詠唱を止めた後も世界を傷つけている。
海溝晶を握り直した。
痛みが走る。イーリスの《葉手当》の膜の下で、皮膚が熱を持っている。結晶の深海色が強くなった。赤黒い差し色がさらに薄くなる。だが、完全には消えない。芯の奥に細い赤が残った。普段の蒼凪の権能の媒体へ戻りながら、黒煙泉を覚えている。
俺の内側も同じだった。
戻った。
だが、なかったことにはならない。
ヒュウマが寝息を立てた。浅い。痛みでときどき止まり、また続く。俺はその呼吸を数えた。一、二、三。深くなる。まだ大丈夫だ。出血は止まっている。傷は閉じる方向にある。
それでも、傷はある。
俺は島の方角を見続けた。
黒煙は朝の光の中で細くなっていく。船が距離を取るほど、島の輪郭は低くなり、煙の根元は見えなくなる。だが柱の上部だけが、空に残る。風に流され、崩れ、また立つ。遠くなればなるほど、それは現実の煙ではなく、俺の眼の内側に焼き付いた黒い線に近くなった。
俺がやった。
何度言っても、言葉は底まで届かない。
俺の中で切れた糸は、結び直せるのか。
整然の下に置いた獣は、もう一度下に置けるのか。
置くしかない。そう読んだ。俺は賢者だ。俺は海神の権能を扱う者だ。俺はヒュウマの隣に立つ者だ。外に出たものを、ただ恐れて終わる選択はない。だが、扱えると断じるには、今の俺の左手は焼けすぎていた。喉も、眼も、内側の深海色も、戻りきっていない。
船は進む。
リオンの指示が風の中で短く飛び、船員が応える。帆が鳴る。波が船腹を叩く。朝の海は変わらない顔をしていた。島だけが変わった。俺の内側だけが変わった。
煙が水平線に近づく。
黒い柱が細く、薄くなる。最後には、朝の光と海の白い揺れの間で、ただの滲みに見えた。
それでも俺は目を逸らさなかった。
煙が見えなくなるまで、島の方角を見続けた。
朝の光が俺の眼の中で薄く揺れていた。




