問うことのできない
朝の光が、海面の上で少しずつ角度を変えていた。
出港から数日が経っていた。あの方の祠を後にしてから、船は西の方角へ進み続けている。海守り衆の小型船は外洋寄りの航路を取り、商家連合の独自の海図に打たれた印を追っていた。
俺は舳先で潮を測っていた。潮鎚は背に下ろしたまま、右手だけ手すりに添えている。濡れた木の冷たさが掌に移り、塩を含んだ風が指の間を抜けた。
海面の温度。潮の流れの方向。風の高さ。どれも普段の海守りの感度の掌に収まる範囲で動いていた。
それでも海そのものの見え方が、少しだけ違った。
海の手触りが、以前より一段近い。潮の流れの方向が、聞き取るというよりも肌の表面に直に触れて来る質感。風の高さも同じで、空の動きが薄く海面に沈んで来る気配が指先まで降りて来ている。
波はいつもの波だった。舳先に当たって割れ、白い泡を残して後ろへ流れていく。だがその白さの奥に、もう一枚だけ薄い膜があるように見えた。触れれば破れるものではない。こちらが見方を変えた時だけ浮かび上がるものだった。
懐の内側に、羽が一枚あった。父さんの印章の隣で、玉虫色の羽が静かに重なっている。あの方が抜いて差し出された羽。海にて迷うことなかるべし、と告げられた贈り物。
俺は服の上から胸元を一度押さえた。
羽の薄い重みが、銅板の重みと並んで沈んでいた。銅板の硬さは変わらない。羽は軽いはずなのに、そこにあると分かる程度の沈み方をしている。
父さんの印章は過去の重みだった。羽は、まだ意味の開いていない重みだった。
二つが同じ場所にある。そのことだけが、朝の光の中で妙にはっきりしていた。
──────────────────────────────
「ヒュウマさん」
リオンの声が艫から届いた。
「西寄りの風、もう一段強くなりそうです」
「帆を一段絞ろう」
「了解です」
リオンが帆綱の方角に動いた。操船の手は若手のうちで一番上だ。危険な海域でも迷わない動きをしている。風を読んでから動くのではなく、風が変わる寸前に身体が先に向く。
帆が少し鳴った。乾いた布の音が一度だけ膨らみ、すぐに落ち着く。船員たちが櫓の手を合わせる。誰も大声を出さない。海守り衆の小型船は、静かな合図だけで進む。
蒼凪さんが艫の手すりに肘を置いていた。海溝晶はベルトの内側に収まっている。海上の風が深い青のローブを薄く揺らしていた。胸元の前は普段通りに緩んでいる。
海守り衆の若手の船員の視線が、一瞬だけそこに留まった。すぐ離れた。蒼凪さんは気づかないふりをしている。直さない方が船員には気まずくない、と前に言っていた人だ。
その判断ができるのに、直す気はないらしい。蒼凪さんらしいと思って、俺は少しだけ息を抜いた。
イーリスは船首寄りで楽器の弦を確かめていた。淡い金茶の髪が風に流れる。緑がかった灰色の瞳は西の方角に向けられたまま、何も言葉にしない。
指先が弦に触れる。音は出ない。音を出す寸前のところで止める所作だった。見えているものを、まだ歌にしない人の沈黙だった。
平穏な海面。平穏な風。平穏な空。三人と五人の船員が、それぞれの所作で海を進んでいる。
それでも俺の感度には、何か始まる気配が薄く沈んでいた。
海の見え方が違うせいかもしれない。羽の働きの薄い片鱗かもしれない。気のせいだと言えば、それも筋が通る。
蒼凪さんの横顔は静かだった。静かすぎると言ってもいい。深い青の瞳が海面ではなく、そのさらに奥を見ているように思えた。
「蒼凪さん」
呼びかけかけて、俺は止めた。
蒼凪さんは気づいたように、ほんの少しだけこちらを見た。
「何だ」
「……風、冷えてきましたね」
「そうだな」
それだけだった。蒼凪さんはそれ以上を訊かなかった。俺もそれ以上を言わなかった。
判じきれないまま、俺は西の方角を見続けた。
──────────────────────────────
経由地の港町は、海守り衆の支部が置かれた小さな漁港だった。
商家連合の海図には印しか打たれていない。ただ蒼凪さんが「ここから先は人の口を頼る方が早い」と短く言って、俺たちは桟橋に船を着けた。
桟橋の板は古かった。濡れた縄と魚籠の匂いがあり、朝に上がった魚の鱗が板の隙間で光っている。遠くで女の人が桶を洗う音がした。少年が網を抱えて走り、すぐ老人に怒鳴られていた。
リオンが先に降りた。
「ヒュウマさん、海守り衆の支部、俺が先に挨拶しておきます」
「頼む」
「腕利きの古参の方がいる、と聞いています。話を伺うなら、先に礼を尽くしてからの方がいい」
リオンの声は、若さの率直さの中に礼節が混ざっている。俺は頷いた。
「支部の人たちにも、船の状況を伝えておいてくれ」
「分かりました。補給の話も通しておきます」
短いやり取りで足りた。リオンは振り返らずに桟橋を進む。背中の動きが早い。けれど急いてはいない。
蒼凪さんが俺の隣に立った。深い青の瞳が桟橋の方角に向いている。賢者の眼が街の構造を素早く捉える動きだった。
「街は小さい。海守り衆の支部の周辺で情報は集まる。商家連合の出張所もあるが、こちらは触らない方がいい」
「ええ」
「リオンの聞き込みに合わせて、お前と俺で港の周辺を歩こう」
イーリスは桟橋に降りずに船に残った。
「わたくしはこちらで」
慇懃な丁寧体。観察者の瞳が穏やかに俺の方角に向けられている。
「街の中ではわたくしは目立ちます。船で楽器を抱えていれば、岸からこちらを観る者の動きの方が、わたくしには見えるでしょう」
「頼みます」
「承りました。ヒュウマ殿も、どうぞ魚籠につまずかれませぬよう」
「そこまで不慣れじゃないです」
「失礼いたしました。港に慣れた方ほど、足元を見ないものでございますので」
蒼凪さんが小さく息を抜いた。笑ったとは言えない。けれど、ほんの少しだけ口元が動いた。
「任せる」
「了解いたしました」
俺は潮鎚を背に下ろし直して、桟橋を歩いた。蒼凪さんが俺の左隣を歩く。海守りの当代と賢者の連れ立ちは、海洋同盟の港町ではそれほど目立たない。
港の空気は海風と魚の匂いと、薄い火の匂いが混ざっていた。
火の匂いは内陸の方角から来ている。鍛冶か、何かの炉か。どこか遠い場所で薄く焼かれている匂い。海守りの感度がそれを拾う。頭の隅に置いておく程度の情報だった。
「鍛冶場の匂いではない」
蒼凪さんが俺の感度を察して、短く告げた。
「もっと粗い、海産物の処理の匂いに近い」
「ええ」
俺は息を一度大きく吸った。海守りの感度がそれを確認する。鍛冶の鉄の匂いとは違う。もっと有機物寄りの焼き方だった。
街の異様さではなく、街の暮らしの匂い。蒼凪さんも俺も、そう判じて先に進んだ。
路地の奥では網を繕う男たちがいた。指の腹に糸の跡がつき、爪の間に塩が白く残っている。子供が干した魚の列をくぐろうとして、母親に首根っこを掴まれていた。
生活がある。穏やかとは言いきれないが、ここで人が海と暮らしている手触りがあった。
だからこそ、その中に混じる小さな歪みは目立つ。
商家連合の出張所の二階に、開ききらない窓が一つあった。蒼凪さんは見た。俺も見た。誰かがいるのかは分からない。ただ風の入り方が、他の窓と少し違った。
「後でイーリスに確認だな」
「ええ」
俺たちはそれ以上近づかなかった。
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海守り衆の支部は、桟橋の奥の石造りの平屋だった。
壁には潮が白く吹いていた。扉の横に古い錨が立てかけられている。装飾ではない。折れた時に退けられず、そのまま港の守りの印になったような錨だった。
リオンが先に話を通していた。古参の海守りの一人、五十年配の男性が平屋の入口で俺たちを迎えた。
「サルヴァトーレ家の当代様で」
「ヒュウマです。よろしくお願いします」
「お話は若手の方から伺いました。少し奥でよろしいか」
奥の部屋は、海図と帆の補修道具と古い書類で満ちていた。海守り衆の作法はどこの港でも変わらない。海岸線の管理書類の置き方。海図の畳み方。帆の縫い目の補修跡。すべてが同じ手の系譜だった。
古い棚に潮鎚の予備の柄が立てかけてある。壁の釘には濡れた外套が三枚掛かっていた。炭の匂いと紙の匂いが混ざる。俺の家にも似た匂いがあった。
蒼凪さんは奥の壁の方角に立って、海図を素早く見ていた。指は出さない。ただ眼だけが線を追っている。
俺は古参の方の正面に座った。
「西の海域に出入りする男の話を伺いたく」
「最近の話ですな」
古参の方の声は低く、海守りの年配の重みが乗っていた。言葉の前に一度だけ息を置く。急いで話す癖のない人だった。
「半年ほど前から、この港の沖合の航路で、見慣れない船が動いておる。中規模の商船を装っておるが、商家連合の名簿には乗っておらん」
「乗組員は」
「中央大陸の言葉を話す者がおりまする」
その言葉が、俺の胸の奥に薄く触れた。
中央大陸の言葉。先日の港の儀式で、海面に立ち上がった一瞬の音節の連なりと同じ系譜の言葉。先日の商船襲撃の生存者の方が、海賊の頭と副官が交わしたと証言していた、ゆっくりした音節の言葉。
音が記憶の底から戻ってくる。意味は分からない。だが口の奥に硬い石を含むような響きだけは覚えていた。
蒼凪さんの背中が壁の前で少しだけ動いた。海図を見たまま、こちらの会話を聞いている所作。
「頭格の男がおる、と」
古参の方は続けた。
「直接は会えぬ。海守り衆の若手が遠くから一度見たことがあるそうで。背の高い男で、フードを目深に被っておる。腰には刀を一振り、刃渡りは長めの両手刀。アズリウムの青みが、フードの陰でも見えたそうで」
俺は息を整えた。
アズリウムの両手刀。先日の鍛冶場の島の廃墟で見た地金の縞。先日の港の倉庫に押収した刀身。先日の海賊の頭が振るっていた刃。すべて同じ手の系譜の鉄だ。
古参の方の口から出た情報は、それと同じ系譜の刀の話だった。
「他には」
「碇の意匠が、フードの肩に縫い込まれておる、と若手の者が言うておりました」
碇の意匠。
蒼凪さんが壁の方角からこちらを見た。深い青の瞳が俺の眼を一度拾い、それから古参の方に戻る動きだった。
「碇の」
蒼凪さんが短く問うた。
「左様です。鎖と錨の組み合わせの紋章で、しかし普通の海賊の碇の意匠とは少し違う。爪が片側だけ深く彫り込まれておる、若手の者は『碇の意匠を倒したような形』と表現しておりました」
「他に名乗りは」
「ござりませぬ。ただ、街の者は『碇のフードの男』と呼んでおります」
碇のフードの男。
呼び名そのものに、どこか先日からの線が繋がる響きがあった。先日の鍛冶場の島で長から聞いた二人組のうち、背の高い方の影。先日の商船襲撃の海賊の頭。すべてが同じ風貌で重なっている可能性。
俺の指は膝の上で一度だけ止まった。潮鎚の柄に触れたい衝動が胸の奥から上がる。けれどここは支部の奥の部屋だ。相手は情報を渡してくれている海守り衆の古参だった。
その繋がりを今ここで口に出す相手ではない。俺は短く礼の動きで返した。
「貴重なお話、ありがとうございます」
「お役に立てれば」
古参の方は煙管を取り出したが、火を点けずに掌で転がしていた。煙管の銀の縁が擦れている。長く使われた道具の手触りだった。
「サルヴァトーレ家の当代様、お父上様にも一度、お会いしたことがありもうす」
俺の胸の奥が、ほんの少し動いた。
「先代様は、西の海域のことを気にしておられた。今と同じ方角の話を、訊きに来られたことがありもうす。十年以上前のことですがの」
「父さんが、ここに」
「左様。お若い頃のお父上様でした、まだ当代になられる前か、なられて間もない頃か」
俺は頷くしかなかった。声は出さなかった。
父さんの足跡が、また一つ増えた。古い紙の匂いがする部屋で、急に海風の冷たさが胸の内側に入って来た気がした。
父さんはここで何を訊いたのか。誰の名を探したのか。どこまで知っていたのか。訊きたいことがいくつも喉まで上がった。
けれど古参の方が知っているのは、きっと見たものだけだ。俺が欲しい答えを持っている訳ではない。
蒼凪さんの視線が俺の横顔を一瞬だけ捉え、それから古参の方に戻った。
賢者の眼は、何かを計っていた。父さんが先日辿った経路の点がまた一つ増えた事実を、蒼凪さんも内側で繋いでいた。
「その時の父さんは、誰かと一緒でしたか」
俺はようやく一つだけ訊いた。
古参の方は目を細めた。煙管を掌の中で止める。
「お一人でしたな。供はおらなんだ。ただ、船は沖に置いておられた。長居はなさらず、話を聞くとすぐ海へ戻られた」
「ありがとうございます」
「当代様」
古参の方が少しだけ声を低くした。
「西は、潮が読みにくい海でございます。若い衆の腕は良いが、知らぬ海は人を選びまする。どうかお気をつけなされ」
「覚えておきます」
その言葉は、海守り同士の忠告だった。俺は深く頭を下げた。
──────────────────────────────
港の周辺をもう一回りしてから、俺と蒼凪さんは船に戻った。
リオンは別の海守り衆の若手と話していた。風の質が変わる時間の話。潮の流れが沖合で乱れる海域の位置。漁師の網にかかった珍しい漂流物の話。実利の情報を、若手同士の率直な口調で集めていた。
「潮が止まる場所があるって?」
「止まるというより、鈍るんだ。網が妙に沈む」
そんな声が耳に入った。リオンは頷き、必要なところだけを短く訊き返している。俺が口を挟む必要はなかった。
イーリスは船首で楽器を抱えたまま、岸の方角を見ていた。
「観る者は、おりませんでした」
俺たちが船に上がると、イーリスは静かに告げた。
「貴方様方が桟橋を歩く間、岸から船を観る者の動きはございませんでした。されど、内陸の方角から海を観る位置に、一人だけ動きの止まった者がおりました」
「動きの止まった者」
蒼凪さんが短く問うた。
「商家連合の出張所の二階の窓辺に、半刻ほど立ち続けた者でございます。顔は見えませぬ、されど体格は中肉、海守りの作法でも商家の作法でもない、別の所作でございました」
「別の所作」
「中央大陸の流派の立ち方でございます。両手の位置、腰の向き、足の構え、複数の戦地を経た者の癖でございました」
蒼凪さんが頷いた。
「観られていたな」
「左様でございます。されど、貴方様方を観ていたかは、わたくしには判じきれませぬ。街そのものを観ている可能性もございました」
俺は潮鎚の柄に右手を一度触れた。指の腹が金属の冷たさに触れる。それから手を離した。
蒼凪さんが俺の動きを横で確認していた。深い青の瞳が俺の手の動きを一度捉え、それからイーリスの方角に戻った。
「情報の縁が揃ってきている」
蒼凪さんは短く告げた。
「拠点の位置を、もう一段絞り込みたい」
蒼凪さんが船室から海溝晶を取り出した。
掌の上に晶が浮かぶ。深海色の明滅が穏やかに広がる。《潮見》の所作。海溝晶を介して海の流れと方角の遠い気配を探る、賢者の固有の動きだった。
蒼凪さんの眼が一段深く沈んだ。
海風の音が薄くなる。実際に止んだ訳ではない。こちらの意識が、蒼凪さんの掌に浮かぶ晶へ寄せられているだけだ。深海色の光は明るくないのに、船板の縁に淡い影を作っていた。
「西の方角、二日の航海の距離。火山性の岩石島が一つ、海図の白い場所にある。商家連合の海図にも印は打たれていない、海守り衆の航海記録にも残っていない海域だ」
「拠点として使われている、と」
「断定はできない。潮の流れがそこで一度止まっている。普通の岩石島ではこうは止まらない、何かの構造物が海面の下に置かれている可能性が高い」
イーリスが緑がかった灰色の瞳をその方角に向けた。
「わたくしの過去の観察集の中にも、その辺りの海域の記述が薄くございます。神話時代の物語の断片、されど詳細は揃いきりませぬ」
「行ってみるしかないな」
蒼凪さんは海溝晶を掌から下ろした。
「ええ」
俺は短く応えた。
リオンが艫から声をかけた。
「ヒュウマさん、出航は」
「明日の朝で。今夜は補給と、若手の体を休める時間を取ろう」
「了解です」
「水樽も見ておいてくれ。潮が乱れるなら、余分に持つ」
「手配します」
返事が早い。リオンはもう次に必要なことを考えている顔だった。
俺は艫の方角に視線を戻した。蒼凪さんは舳先寄りで、海面を見ていた。深い青の瞳が西の遠くに向けられている。賢者の眼が俺には見えない場所で何かを組み立てている所作だった。
俺は問わなかった。
問えば蒼凪さんは答えるかもしれない、答えないかもしれない。どちらにせよ蒼凪さんの内側で組み立てられているものは、まだ形になっていない。
俺が問うことのできない場所が、蒼凪さんの中にあった。
その場所に手を突っ込めば、俺は答えに触れられるかもしれない。けれど触れた瞬間に、まだ形を持たないものを壊すかもしれない。
俺は手すりを握った。湿った木の感触が掌に戻る。
「補給を見てきます」
「頼む」
蒼凪さんの声は短かった。けれど俺の背中に、少しだけ長く残った。
──────────────────────────────
二日の航海は、西寄りの風に押されて短く済んだ。
リオンの操船は若手のうちで一番上だ、と俺は見ている。風の質が変わる時間を捉えて帆の角度を一度ずつ整える。海流の境目を船底の音で当てる。暗礁の散らばる海域では櫓の手を素早く動かす。
その判断は見慣れている。だからこそ、荒れた海でも俺は若手に背を預けられる。リオンが艫に立っている時、船の迷いは少ない。
火山性の岩石島は、二日目の夕方に水平線に薄く立ち上がった。
黒い岩肌。薄い植生。島全体が海面から低く張り出している地形。煙は上がっていない。火山の活動の痕跡だけが岩の縞模様に残っている。古い火山の島で、ここ数十年は静かな状態に見えた。
近づくほど、海面の音が変わった。波が岩に当たる音ではない。島の下に空洞がある時の、抜けた響きが混ざっている。船底を伝う振動が少しだけ薄い。
俺たちは島の風下の側に船を回した。
「直接の接岸はしない」
蒼凪さんが短く決めた。
「夜まで沖で待つ。月のない夜だ、明かりを落とせば岩陰から偵察に入れる」
「ええ」
リオンが帆を絞った。船は岩礁の手前で静かに停まる。海守り衆の若手たちは無言で帆と櫓の音を落としていた。
夕方の空が薄い橙に変わっていく。海面の色が深い青から黒に近づく。月のない夜が来る。星の光だけが海面に薄く落ちる時間が来る。
俺は潮鎚を背から下ろして、革の帯で固定し直した。蒼凪さんも海溝晶をベルトの内側に納め直していた。イーリスは楽器を絹で包んで肩に掛け直した。
リオンが俺の方角に来て、低く告げた。
「ヒュウマさん、お供します」
「いや、お前は船に残れ。若手の指揮を頼みたい」
「ヒュウマさん」
「もし俺たちが戻らなかったら、お前が船を西に走らせて、海守り衆の本部に報せろ」
リオンの眼が一瞬硬くなった。十九の率直さが薄く出た。それからすぐに引き締めた。
「了解です」
「お前が一番、若手の指揮を取れる」
「はい」
「明かりは落としたまま。合図は二度。俺たち以外が近づいたら、接岸させるな」
「分かっています」
分かっています、の声が少しだけ強かった。置いていかれることへの不満ではない。任されたものの重みを、飲み込む時の硬さだった。
俺はリオンの肩を一度だけ叩いた。
「船を頼む」
「任せてください」
リオンが艫の方角に戻った。十九の歩き方の中に、海守り衆の若手の頭の所作が薄く立ち上がっていた。
──────────────────────────────
夜の偵察は、三人で岩陰を伝って進んだ。
蒼凪さんが先頭、俺が後衛、イーリスが中。蒼凪さんの《滴見》が岩肌の薄い水滴の動きから人の通った痕跡を辿る。俺が潮鎚を背に下ろしたまま気配を肌で測る。イーリスが楽器の弦に指を置いて音の方角を整える。
三人の足の運びは、海守り衆の作法でも賢者の作法でも長命種の作法でも揃わない。それでいて互いに干渉しない動きで進んでいた。
岩は濡れていた。海水だけではない。島の内側から滲む湿りがあり、指で触れるとぬめりが残った。風下の岩陰は潮の匂いが濃く、そこに焦げた油の残り香が混ざっていた。
蒼凪さんが一度だけ手を上げる。俺たちは止まった。
岩肌の縁に、薄い焼け跡が散らばっていた。
「儀式の跡か」
蒼凪さんが屈み込んで、岩の表面を指で触った。
「血ではない、何かの油の燃え方だ。古い、けれど数日前のものではない、半月前か、それより少し新しい」
俺は隣で岩肌を見た。
岩の表面に、線が彫り込まれている。古い言葉の文字に近い。けれど俺には読めない。先日の鍛冶場の島の廃墟で見た石板の彫りと、同じ手の系譜だった。
線は浅い。だが雑ではない。刃物で一息に刻んだのではなく、何度も同じ筋をなぞって溝にしている。意味を知らない俺でも、ただの印ではないと分かった。
「父さんが、こういう儀式の話を、一度していた気がします」
俺は低く告げた。
声は震えていない。ただ普段より深い場所から出ていた。
「海守りは、こういう跡を見たら近づくな、と。海と陸の境界が薄くなる場所だ、と」
蒼凪さんが俺の眼を一度合わせた。
「お前の父上が、見ていたものだ」
「ええ」
その一言で、胸の内側が少し沈んだ。父さんの言葉は、ただの古い注意ではなかった。俺が幼い頃に聞き流したものが、今になって岩肌の線と繋がっている。
「触れない方がいい。記録だけ取っていく」
蒼凪さんは岩肌を指で軽く触れただけで、すぐに手を引いた。
イーリスは少し離れた場所で楽器の弦に指を一度置いた。それから離した。
「歌に編む場面ではございませぬ」
イーリスは低く告げた。
「ただ、観察者として記録は残します」
緑がかった灰色の瞳が、岩の表面の線を一度ずつ追っていた。
「イーリスさん、読めますか」
「断片だけでございます。意味を断じるには足りませぬ」
「断片でも」
「海を呼ぶ文字ではなく、海との距離を誤魔化す文字でございましょう。わたくしが見たところ、祈りより手続きに近い」
蒼凪さんの眼が細くなった。
「面倒だな」
「左様でございます。面倒なものほど、手順だけは丁寧でございますので」
俺は息を殺したまま、周囲を見た。岩陰の向こうに人の気配はない。けれどこの跡があるだけで、島の静けさが別の色を帯びていた。
──────────────────────────────
もう少し奥に進んで、俺たちは自然洞窟の入口を見つけた。
岩の隙間から、薄い人工の光が漏れていた。蝋燭の光ではない。油の灯りでもない。もっと薄く、青みがかった光。中で人が動いている気配がある。しかし話し声は聞こえない。
光は揺れなかった。火ではないからだ。洞窟の内側の岩肌に染みつくように広がり、濡れた面だけを鈍く浮かび上がらせている。
蒼凪さんが俺に視線で合図した。
これ以上は近づかない。ここで折り返す。賢者の判断、《滴見》で内側の人の数を遠く測った後の判断。
俺は頷いた。
イーリスが楽器の弦から指を完全に離した。
俺たちは音を立てずに岩陰を戻った。足の置き方を変える。濡れた岩では踵から置かない。爪先で重みを試してから体重を乗せる。海守りの訓練で叩き込まれた動きだった。
途中、蒼凪さんが一度だけ振り返って洞窟の方角を見た。深い青の瞳が、月のない夜の中で一段沈んでいた。
俺は俺で、一つ気づいたことがあった。
岩肌の縁に、研ぎ屑が落ちていた。
アズリウムの研ぎ屑だ。鉄ではない青みのある金属の細かい屑。刃を整えた跡。先日の港で押収した刀身を整えた時に出た屑と、同じ系譜の金属だった。
それは小さかった。星の光だけなら見落としていたかもしれない。けれど海面の見え方が変わってから、青みを帯びたものが妙に肌へ引っかかる。
俺は屑を一粒だけ拾って、懐の小袋に納めた。
蒼凪さんが俺の動きを横で確認していた。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
言葉にすれば、それは証拠になる。言葉にしなくても、それはもう俺たちの間に置かれていた。
船へ戻るまで、誰も喋らなかった。
岩陰を抜けると、沖の船が見えた。明かりは落ちている。けれど艫の位置だけが、星の下でわずかに分かる。リオンは約束通り、船を動かさずに待っていた。
二度、短い合図を返す。船側から同じ間隔で合図が戻った。
その小さな光に、俺は少しだけ息を戻した。
──────────────────────────────
船に戻ってから、俺たちは船室の小さな卓を囲んだ。
リオンも入れて、四人で航海図を広げた。船室は狭い。濡れた外套の匂いと油の灯りの匂いが混ざっている。卓の縁には細かな傷があり、船が波に合わせて揺れるたび海図の端が少し浮いた。
蒼凪さんが島の地形・洞窟の位置・儀式の跡の場所を航海図の上に書き込んだ。賢者の手の動きは速い。それでいて線は迷いなく真っ直ぐだった。
「中規模の拠点だ」
蒼凪さんが短く告げた。
「中堅の戦闘員が二、三人。末端が十数人。合計で二十人前後。幹部は不在、ただ定期的に来訪している痕跡がある」
「幹部、というのは」
リオンが尋ねた。
「碇のフードの男のような者、と仮置きでいい」
「ああ」
リオンが頷いた。理解した顔だった。恐れではなく、情報を置く場所を決めた顔だった。
「儀式の跡は、半月前のものだった。次の儀式の準備が進んでいる可能性がある。研ぎ屑の落ち方を見るに、武器の整備も最近行われている」
蒼凪さんは俺が拾った屑を航海図の隅に置いた。
「これも、同じ系譜の刀だな」
「ええ」
俺は屑を一度見た。それから屑をもう一度小袋に戻した。
小袋の口を締める指に、わずかな力が入った。父さんの印章と羽のある懐とは別の場所に収める。混ぜてはいけないものがある。
イーリスが楽器の弦に指を置いた。けれど弾かなかった。
「拠点の規模としては、わたくしの過去の観察集の中の中規模の支部と整合いたします。本拠地ではございませぬ、中継地点か補給地、あるいは儀式の準備のための実験場でございましょう」
「そうだろう」
蒼凪さんは航海図を一度畳んで、それから広げ直した。
折り目が少しずれた。蒼凪さんはそれを指で押さえる。普段なら一度で整える人が、今夜は同じ場所を二度なぞった。
俺はそれを見ていた。
「明日の朝、決める」
蒼凪さんは短く告げた。
「ええ」
俺は短く応えた。
リオンが俺の方を見た。
「若手には、警戒を強めるよう伝えます」
「頼む。ただし休ませろ。起きている者を交代で二人に」
「了解です」
イーリスは弦から指を離した。
「わたくしは甲板に近いところで休みましょう。耳だけなら、寝ていても多少は働きます」
「助かります」
「助かるという言葉は、使いすぎると安くなりますよ。ヒュウマ殿」
「今は本当に助かってます」
「でしたら、受け取っておきます」
蒼凪さんは何を決めるのかは、口にしなかった。
俺は問わなかった。
船室の灯りが海図の上で揺れていた。描き込まれた黒い岩石島の線が、波に合わせて小さく動いて見えた。
──────────────────────────────
夜の甲板で、俺は一人立っていた。
月のない夜、星の光だけが海面に落ちていた。海風は穏やか。潮の流れに薄い乱れだけがあった。
船室の窓から薄い光が漏れている。蒼凪さんが航海図を広げ続けている、そう察せる程度の光の動き。
俺は海面の方角を見た。
懐の中に、羽の重みと父さんの印章の重みがあった。胸の上で並んで、それぞれの重さを保っている。海の見え方は出港の時よりさらに薄く違って見える。それでも今夜は気のせいだと言い繕える程度の違いだった。
星の光が波の上で割れる。割れた光がまた繋がる。普段ならただ綺麗だと思うだけの景色が、今夜は何かの合図のようにも見えた。
蒼凪さんが、何かを決めようとしている。
俺の感度には、それが滲んでいた。
海溝晶を確かめる手の動きが、先日より一段多い。航海図の上で指を止める時間が、先日より長い。船室で一人になる時間が、出港の時より増えている。俺の方を見る視線が先日より少し長い、何かを伝えたいのに言葉にしない瞳の動きがある。
俺はそれをすべて肌に覚えていた。
問えば、蒼凪さんは何かを返すかもしれない。答えるかもしれないし、答えないかもしれない。返ってくる言葉はどちらにせよ、蒼凪さんが内側で固めきれていない場所のものだ。
固まりきっていないものを、俺が引き出してはいけない。
蒼凪さんが自分で固めきった場所の言葉を、自分で開く。それを待つことが、海守りの当代としての俺の所作だ。
俺の問いは蒼凪さんに届かない場所で、俺自身の中に積もっていく。
これは何が始まる予感なのか、俺には判じきれない。父さんの死との繋がりがどこまで深いのか、俺には測れない。蒼凪さんが何を背負おうとしているのか、俺には掴みきれない。
それでも、俺は蒼凪さんの後ろに立つ。
それが、俺が決めている場所だった。
凪、と呼んでいいか迷う。
今は、まだ呼ばない。
呼ぶのは、蒼凪さんが自分で固めた場所を開いた時、あるいは固めようとして崩れそうになった瞬間に、俺が蒼凪さんを引き戻すために呼ぶ時。
今夜の俺は海守りの当代として、相方の後ろで立つ。
呼吸を一度深く吸って、海面の方角に向け直した。
夜の海面の上を、星の光が薄く滑っていた。
懐の中の羽の重みが父さんの印章の重みと並んで、俺の胸の上で穏やかに沈んでいた。
船は静かだった。リオンの足音が艫の方で一度だけ聞こえた。交代の若手に低く何かを告げる声があり、すぐに消えた。
みんながそれぞれの場所にいる。誰かが船を守り、誰かが記録を残し、誰かが海図を広げている。
俺は甲板で海を見ていた。
その役目が、今夜は一番正しい気がした。
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夜更けに、船室の戸が静かに開いた。
蒼凪さんが甲板に出て来た。航海図を畳んだ手のまま、海溝晶はベルトの内側に納まっている。深い青のローブが夜の風に薄く揺れる。胸元の前は緩んだまま、星の光が鍛えた胸を一度撫でて消えていく動きだった。
蒼凪さんは俺の隣に立った。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
蒼凪さんは海面の方角を見ていた。深い青の瞳が星の光の中で一段沈んでいる。賢者の眼が俺には見えない場所で何かを組み立て続けている所作だった。
それでも今は、俺の隣に立っている。
俺は隣の蒼凪さんの呼吸を横で聞いていた。普段より少しだけ深い、詠唱の前の呼吸の所作に近い。けれど詠唱が始まる訳ではない。内側の何かを整えている呼吸の動きだった。
「冷えるぞ」
蒼凪さんが海を見たまま言った。
「蒼凪さんもです」
「俺は慣れてる」
「俺も慣れてます」
「お前、そういうところは譲らないな」
「海守りなんで」
それきり、言葉は続かなかった。短いやり取りだけが、夜の甲板に置かれた。
俺は問わなかった。
蒼凪さんも告げなかった。
夜の海面の上で、星の光が穏やかに続いていた。
明日の朝、何かが始まる気がした。
海の感度が、薄くそう告げていた。
羽のせいかもしれない、気のせいかもしれない。判じきれないまま、俺は蒼凪さんの隣に立ち続けた。




