表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
35/60

贈られる

 歌が止まってから何秒経ったのか、わたくしには判じきれません。長命種の時間の感覚と人間の時間の感覚は普段からずれてございますが、あの方の歌の中で過ごした時間は、その両方からさらに外れた質感でございました。


 朝の光は変わらずそこにあるのに、先ほどまでとは別のもののように海面へ降りてございました。青い水の上に薄い金色が流れ、船板の濡れた箇所だけが鋭く光る。海鳥の声が遠くで一度鳴り、また途切れました。その途切れ方まで、歌の余韻の外へ戻っていく音でございました。


 わたくしは楽器を胸の前から少し下ろしました。膝の上に完全には預けず、弦へ置いた指もまだ離さない。いつでも音を出せる位置に留めるのは、恐れというより習慣でございます。物語がまだ終わっていない場で、語り部が道具から手を放すのは、いささか早うございますから。


 蒼凪殿は、海溝晶を掌の上に浮かせたままでおられました。深海色の光は小さく明滅し、朝の海の色とは異なる奥行きをそこに保ってございます。《断絶境界》も解かれていない。賢者殿の肩は静かで、呼吸の乱れも表へは出ておりません。されど、掌の上の光の間隔は、わたくしの耳が拾う弦の震えにも似て、わずかに詰まってございました。


 ヒュウマ殿は、倒れかけた若手の船員を支えたまま、顔だけを空へ向けておられました。茶色の瞳はあの方を追い、腕の力は船員を離さない。海守りの当代の身体は、まず目の前の命を支え、それから空の異物を測る。その順序が、ヒュウマ殿の本質をそのまま示してございました。


 あの方は、祠の上空で停止しておられました。


 翼は半ば開かれ、羽ばたきの動きもなく、ただ空と海の間に留まっておられる。玉虫色の翼は、朝の光を受けるたびに青へ、緑へ、金へと薄く移ろい、どの色にも完全には留まりません。銀の長髪が風に遅れて流れる様子まで、距離があるにもかかわらず見えてございました。


 わたくしは内側で、古い作法を一つずつ並べておりました。


 あの方は歌の前に、ご自身の名と二つ名を示された。古い眷属の作法において、二つ名の開示は単なる名乗りではございません。他者と自らの間に道を通す行為であり、互いの干渉を強める意志の表明でございます。名を閉じて歌うこともできたはずのあの方が、そうなさらなかった。試練として我らを測りながら、同時に対話の口を初めから残しておられたのでございましょう。


 風が一度、帆の裂けた縁を鳴らしました。


 その音に応じるように、あの方が動かれた。


──────────────────────────────


 あの方は翼を一度、大きく打たれました。


 祠の上空にあった姿が、ゆるやかに高度を落とす。急襲の角度ではございません。風を裂く速度ではなく、風に身を預け、海に降りるための速度でございました。船員の一人が息を呑む音を、わたくしの耳は拾いました。けれど誰も叫ばず、誰も逃げず、ただ甲板の上に立ち尽くしてございました。


 あの方は海面すれすれを滑られました。


 玉虫色の翼の端が、波の頂に触れそうになり、触れない。水滴一つ跳ねないぎりぎりの高さで、空と海の境をなぞるように飛ばれる。空と海とを繋ぐもの。その二つ名は、言葉ではなく動きとして、今まさに我らの眼の前にございました。


 船首を回り込むように低く飛ばれた後、あの方は甲板の縁に降り立たれました。


 鳥の鱗に覆われた足が、船板を捉える。爪は薄く木目へ食い込み、されど板を割らぬ。重みは確かにあるのに、船はほとんど沈まない。その加減の中に、海上の船という人間の領域を壊さず入る作法がございました。


 翼は完全には畳まれません。半開きのまま、あの方の背後に広がってございました。銀の長髪は肩から背へ流れ、青みを帯びた色白の肌は朝の光に淡く照り、腰布だけをまとった上半身には、鍛えられた中肉の輪郭が静かに立っております。過剰な飾りは何もない。飾りが要らぬ身体でございました。


 蒼凪殿が半歩だけ前へ出られました。


 深い青の瞳は動かず、海溝晶を掌に保つ手も下げられない。礼を欠かぬ距離、されど退かぬ距離。賢者殿のそういう線引きは、たいへん端正でございます。相手が神話時代の眷属であろうと、線を引く者は自分であるという静けさがございました。


 ヒュウマ殿は、支えていた船員を別の若手へ預ける動きをなさいました。手のひらで肩を押さえ、相手の足が立つのを待ち、完全に重みが移ったことを確かめてから手を離す。海守りの当代の所作は、危機が終わりきっていない場でも順序を乱しません。その後でようやく、あの方へ向き直られました。


 あの方が我らを見渡されました。


 ヒュウマ殿。蒼凪殿。わたくし。


 玉虫色の瞳は、どなたの上にも同じ長さだけ留まりました。人間であるか、長命種であるか、魔法の体系がどこにあるか。そのような分類より前に、歌の中でどう動いたかを見ておられる眼でございました。


「足る、足るぞ。汝らの動き、見たり」


 あの方の声は、低く、船の腹へまで響くようでございました。


 歌の時の声は海と空を広く満たしておりましたが、今の声は甲板の上に置かれている。大きさではなく重さで届く声。対話の場へ入るために、あの方が声の形を変えておられるのが分かりました。


──────────────────────────────


「深きを侵す者に非ず」


 あの方は告げられました。


 その言葉を聞いた瞬間、船員たちの肩がわずかに下がったのを、わたくしは横目で見ておりました。許された、というほど単純な安堵ではございません。自分たちが踏み越えていなかったことを、海の古い何者かに認められた時の、身体の奥からほどける力でございました。


「海守りの末裔、本懐に従えり。深海の代行者、連れを守れり。長命の語り部、観察を超えて手を差し伸べたり」


 わたくしは、弦に置いた指を少しだけ押し込みました。


「観察を超えて手を差し伸べたり」の言葉が、わたくしの胸の奥に薄く届きました。わたくしはこれまで、多くの場面を見てまいりました。燃える町、沈む船、祝宴の歌、別れの朝。見て、集め、いずれ歌へ編む。その距離こそが、わたくしの作法でございました。


 されど先ほど、わたくしは音を重ねました。


 蒼凪殿が境界を保ち、ヒュウマ殿が人を支え、その間にできたわずかな継ぎ目へ、わたくしの指が入った。観察者の立つ場所から、ほんの半歩だけ、当事者の光の中へ出たのでございます。あの方はそれを見ておられた。歌の渦の中で、我らの身体だけではなく、選んだ距離まで見ておられた。


「光栄に存じます」


 わたくしは礼を申し上げました。


 声は平らに整えたつもりでございましたが、己の耳には一段だけ柔らかく聞こえました。あの方が頷かれる。玉虫色の瞳がわたくしの上で一度静止し、その奥に、古い歌の残響のようなものが沈んでございました。


「我が海域を通すに値する」


 あの方は続けられました。


「歌は止まりたり。今は対話の時なり」


 蒼凪殿が短く頷かれました。その頷きは受諾であり、同時に情報を受け取るための箱を内側に作る所作でございました。賢者殿は何かを理解する時、視線の深さが半音下がる。その変化は微かでございますが、わたくしの観察者の眼には、もう幾度も見えてきたものでございます。


 ヒュウマ殿は船員の状態をもう一度確かめ、腕を離しても倒れぬことを見てから、あの方に向き直られました。茶色の瞳に、緊張と敬意と、別の何かが薄く重なる。父上様から受け取った遠い話が、今、眼の前の身体を持った存在へ変わっている。その移り変わりが、息の深さに表れてございました。


──────────────────────────────


「父さんが、こういう御方の話を、一度していた気がします」


 最初に言葉を置かれたのは、ヒュウマ殿でございました。


 声は低く、整ってございました。海守りの当代としての凛とした響きの中に、十八歳の青年が父を思い出す時の率直さが薄く滲む。どちらも消されていないところが、ヒュウマ殿らしゅうございました。


「翼ある古き者、と」


 あの方は、静かに頷かれました。


「左様。海守りの代々が、我が祠の存在を口伝に残しおる。汝の父上、我が存在を察しておった一人なり」


 ヒュウマ殿の呼吸が、そこで一拍だけ止まりました。


 大きく表情が変わったわけではございません。眉も、口元も、海守りの当代として整えられたままでございました。けれど息の継ぎ目だけが消えた。父上様が語ったものが、ただの懐かしい話ではなく、確かにこの海のどこかへ届いていたと知る瞬間。わたくしの耳には、その止まった一拍が、どの歌よりもはっきり聞こえてございました。


 蒼凪殿が、次に問いを置かれました。


「セイレーン、と貴方の種族を呼ぶ古い書物を読んだ。神話時代の海の眷属、と」


 書物の上に置かれた知識を、現前する相手へ差し出す声でございました。断定ではなく確認。賢者殿の深い青の瞳は、あの方の反応の温度まで測っておられます。


「貴方の歌、何を見極めていた」


 あの方の玉虫色の瞳が、わずかに細められました。


「左様、その呼び名は知っておる。外からの呼称なり、我らは自らをそう呼ばぬ」


 言葉を否定するのではなく、置き場所を定める返答でございました。蒼凪殿はその違いを聞き逃されない。瞳が一度だけ動き、名付ける側と名付けられる側の距離を内側へ収める所作がございました。


「汝の問いに答えるならば、汝らが境界を保つ側か、侵す側か。歌の中で動きを見たり、答えは動きの中にあった」


 蒼凪殿は頷かれました。短い動きでございます。されどその短さの中に、歌そのものが審判であったこと、我らの説明ではなく所作が答えであったことを受け止める温度がございました。


 次は、わたくしでございました。


「神話時代の歌、わたくしも観察してまいりました。貴殿の種族の歌、複数の物語の中で集めてございます」


 わたくしは楽器を抱え直し、弦から指を離さぬまま申し上げました。


「されど、貴殿のような個体に直接お会いするのは、わたくしも初めてでございます」


 あの方は、わたくしを見られました。


 その眼は、蒼凪殿に向けた時とも、ヒュウマ殿に向けた時とも異なってございました。書物の知識でも、家の伝承でもなく、長い時間の中で集められた断片を見る眼。わたくしが集めてきた歌の背後にある、見送った者たちの影まで、あの方は測っておられるようでございました。


「左様。我ら、互いに見送る側の者」


 あの方はおっしゃいました。


「我は貴殿より一段古い。貴殿の集めた物語の中に、我が一族の名は薄く残っておるであろう。完全には残らぬ、それが我らの定めなり」


 わたくしの指が、また弦へ少し沈みました。


「より古い見送る側」として認識されるのが、わたくしの胸の奥で別の温度に変わるのを、わたくし自身が観察してございました。羨望ではない、同じ系譜の認識、それでも完全には同じではない、その距離の質感が一筋立ち上がってございました。


 人間の時間は、たいてい急ぎ足でございます。出会い、選び、失い、残す。その全てが、わたくしから見ると短い拍の連なりに思えることがある。されど、あの方の時間はさらに別でございました。長く生きる者の孤独という言葉ですら、少し届かない。雲の合間に祠を置き、歌の中で境界を測り、呼び名を外から受け、なお自らを別の名で保つ。その時間の厚みが、声の低さに沈んでございました。


 あの方は三人に、それぞれ別の温度で応答しておられました。


 ヒュウマ殿には、父上様から続く伝承へ。蒼凪殿には、書物の呼称と問いの構造へ。わたくしには、集めた歌と見送る者の距離へ。二つ名を示された意味が、そこでより明瞭になってございました。あの方は、我らをひとまとめの通行者として扱ってはおられません。それぞれが持つ道を見た上で、繋がりの端を差し出しておられたのでございます。


 干渉を強める意志の表明は、歌の前だけで終わっておりませんでした。


 蒼凪殿が、さらに一つ問いを置かれました。


「貴方は西の海域の深い場所を知っているか」


 声は静かでございました。けれど、静けさの底に、明らかな方角がございました。名を直接出さず、輪郭だけを水面の下に沈める問い。賢者殿の婉曲さは、隠すためではなく、踏み込みすぎぬための作法でございます。


 あの方の翼が、半開きのまま動きを止めました。


 風はまだ吹いております。髪は流れております。されど翼だけが、空気の中で重さを持ったように静まりました。


「我は知らず」


 低い声でございました。


「知らぬことが、我が務めなり」


 蒼凪殿の瞳が、ほんのわずかに深くなりました。海溝晶の光が掌の上で一度瞬き、賢者殿が返答の表面ではなく、返答の置かれ方を測っておられるのが分かりました。


「問うな」


 あの方は続けられました。


「我は答えぬ。問うこと自体、汝らの旅路を逸らす」


 甲板の上に、短い沈黙が降りました。


 その沈黙は拒絶の形をしておりましたが、ただ壁として立つものではございません。道を塞ぐのではなく、道から外れぬように置かれた石のような拒絶でございました。わたくしはそのように読みましたし、おそらく蒼凪殿も同じものを見ておられたでしょう。


 蒼凪殿は一拍、何も言われませんでした。


 深い青の瞳の中で、問いを続ける場合の枝と、ここで止める場合の枝が並べられ、重みが測られ、そして一つが選ばれる。その過程が、表情ではなく沈黙の長さに出てございました。


「分かった、それ以上は問わない」


 蒼凪殿は短く返されました。


 あの方の眼が、ほんの少しだけ伏せられました。表情を読むことは、わたくしにも叶いません。されど、語らぬという選択そのものが、我らの旅路の方角に対する応答でございました。知っているか、知らないか。その二分では足りない場所に、あの方の言葉は置かれてございました。


 朝の光は、変わらず海面の上に続いておりました。


──────────────────────────────


「海守りの末裔」


 あの方が、ヒュウマ殿へ向き直られました。


「汝に贈り物あり」


 ヒュウマ殿が顔を上げられました。茶色の瞳がまっすぐにあの方を見る。先ほど父上様の名に息を止めた青年と、海守りの当代として受けるべきものを受ける者とが、同じ身体の中で重なってございました。


 あの方は右の翼へ手を伸ばされました。


 指が羽の根元を捉え、迷いなく一本を抜かれる。痛みの気配は表へ出ません。右の翼の輪郭が、ほんの一枚分だけ薄くなる。抜かれた羽は三十センチほどの長さで、朝の光を受けて色を変えました。緑にも、青にも、金にも見える。玉虫色という言葉は便利でございますが、実際に眼前にすると、どの色の名も少し足りませぬ。


 あの方が甲板の上を歩かれました。


 鳥の鱗を持つ足が、濡れた木目を一歩ずつ踏む。爪は薄く食い込み、船板を傷つけず、滑りもしない。腰布のみの下で脚の筋肉が静かに動き、半開きの翼が歩みに合わせてわずかに揺れる。神話時代の眷属としての威厳と、男の身体としてそこにある重みが、同じ歩幅の中にございました。


 ヒュウマ殿の前で、あの方は止まられました。


 距離が近うございました。


 人間の社交距離より一段近い、儀礼の距離。されど人間の眼には、親密さに近い距離でもございます。手を伸ばすまでもなく互いの息の温度が届きそうな近さ。海風の匂いに、あの方の身体が帯びる冷えた空気の匂いが混じるような気がいたしました。


 銀の長髪が、ヒュウマ殿の肩先の風と同じ方向へ流れました。玉虫色の瞳が茶色の瞳を見下ろすのではなく、ほぼ同じ高さで捉えております。青みを帯びた色白の肌は朝日に照らされ、晒された胸から腹にかけて、鍛えた中肉の輪郭が影を作る。過剰に大きくも、細くもない。長く使われてきた身体、空と海の間で保たれてきた身体でございました。


 ヒュウマ殿が、一拍だけ視線を逸らされました。


 茶色の瞳が、あの方の顔から斜め下へ落ちる。肌の青白さ、腰布の結び目、胸の影、そのどこかへ意図せず触れてしまった視線を、すぐに戻す。海守りの当代としての所作で立て直されましたが、その一拍だけ、十八歳の身体が受け取ってしまう距離の温度がございました。


 蒼凪殿が動こうとなさいました。


 ほんの一歩、ヒュウマ殿の方角へ体重が移る。深い青の瞳が、あの方とヒュウマ殿の間の距離を測る。踏み込む理由も、踏み込まない理由も、同時にそこへございました。けれど賢者殿は止まられた。海溝晶を掌に保ち、境界を崩さず、ただ見ておられました。


 あの方の身体性は、人間の尺度では測れない、ヒュウマ殿の身体は人間の尺度で受けざるを得ない、と。距離の近さの質感は、神話時代の眷属の側では儀礼でも、ヒュウマ殿の側では別の温度を含む。それを蒼凪殿の眼が捉えておられた、わたくしの眼も捉えていた、二人とも口には出さなかった。


 あの方が、羽を両手で差し出されました。


「我が羽、贈らん」


 声は静かでございました。


「海にて迷うことなかるべし」


 羽の先が、朝の光を受けて薄く震えました。風ではございません。あの羽そのものが海の方角を覚えているかのような、わずかな震えでございました。


「されど、海を強く見れば、陸が薄く見ゆることもあろう。我ら、人間の善悪を持たぬゆえ、贈り物の働きも人間の尺度に合わぬ。気にせず、ただ受け取れ」


 ヒュウマ殿が両手を差し出されました。


 手は震えておりません。けれど、指の開き方に一段深い礼がございました。救助のために人を掴む手、船を繋ぐ手、蒼凪殿の詠唱を守るため前へ出る手。その手が今、贈り物を受ける形を取っている。わたくしには、その変化がたいへん静かで、美しく見えてございました。


 羽が、ヒュウマ殿の両掌へ移りました。


 その瞬間、ヒュウマ殿の指の付け根が、あの方の指へほんの一拍触れました。触れたというより、贈与の境目に必要なだけ重なったのでございましょう。されど、その一拍を消すことはできません。距離が近く、身体が近く、儀礼が近く、人間の側の温度がそこへ薄く滲む。ヒュウマ殿は目を逸らさず、羽を受け取られました。


「ありがとうございます」


 ヒュウマ殿の声は低うございました。


 普段の海守りの当代の凛とした温度より、一段深いところから出る声でございました。父上様の伝承と、今受け取った羽と、自分がここに立っている事実。その三つが、声の奥で静かに重なっているように聞こえました。


 あの方が手を離されると、羽は完全にヒュウマ殿のものになりました。


 ヒュウマ殿は一度だけ、その玉虫色の輝きを見つめられました。すぐには懐に入れない。掌の上の重みを確かめ、光の変わり方を見、そして一歩下がられる。そこでようやく距離が、人間の場へ戻ってまいりました。


──────────────────────────────


 あの方は、甲板の縁へ戻られました。


 歩みに迷いはなく、爪が木目を掴む音だけが小さく残る。縁に立たれると、翼を大きく広げられました。半開きだったものが完全に開き、左右合わせて五メートルほどの広がりが朝の光を受ける。玉虫色の翼の表面が、一斉に違う色を返し、甲板の上へ薄い虹の影を落としました。


 船員たちは、誰も声を出しませんでした。


 あの方の身体そのものが、一つの古い門のように見えてございました。空へ戻るために開かれた門。海から離れず、陸にも属さず、船という人間の足場に一時だけ立ったものが、再び本来の高さへ戻る直前の姿でございます。


「我、ここまでなり」


 あの方は告げられました。


「また交わることもあろう」


 完全な別れではございませんでした。二つ名を先に示され、羽を贈られ、問いには答えず、されど道は閉じない。古い眷属の作法は、いつも人間の別れより余白が深うございます。


「長命の語り部」


 最後に、あの方の視線がわたくしへ向きました。


「貴殿の歌、いずれ我が祠にも届くであろう」


 わたくしは、楽器を抱えたまま深く礼をいたしました。


「いずれ」と言葉を返すこともできたでしょう。されど、それはわたくしが今ここで歌を始める合図になりかねません。あの方の言葉に対しては、沈黙の礼の方がふさわしゅうございました。歌は、時を選ぶもの。物語の核がまだ動いている時に、早く閉じすぎてはなりません。


 あの方が、空中へ戻られました。


 翼が一度、強く風を打つ。船の周囲の海面に薄い波紋が広がり、裂けた帆の縁が再び鳴りました。あの方は海面すれすれを少し進み、それから上昇なさいました。銀の長髪が背へ流れ、腰布の端が風に揺れ、鳥の鱗を持つ足が甲板から完全に離れていく。


 祠の方角へ向かわれる背が、雲の合間に小さくなってまいりました。


 朝の光が翼へ一度だけ深く入り、玉虫色が強く変わりました。青から金へ、金から緑へ、その全てが一瞬で過ぎる。あの方の姿は雲の薄い層へ入り、輪郭がほどけ、翼の先端だけが最後に見えました。


 それも、消えました。


──────────────────────────────


 しばらく、誰も口を開きませんでした。


 沈黙は重くはございません。歌の後に残る空白ではなく、何かを受け取った後に、それぞれが自分の内側へ収めるための時間でございました。人間には短く、長命種にはさらに短く、それでも確かに必要な間でございます。


 蒼凪殿が海溝晶を掌から下ろされました。


 深海色の明滅が静かに沈み、《断絶境界》の詠唱が解かれる。賢者殿の肩から、戦闘のための張りが一段だけ抜けました。けれど瞳の奥には、先ほど拒まれた問いの形がまだ残ってございます。蒼凪殿はそれを今、口に出されない。箱へ入れ、蓋をし、必要な時まで持っていかれるのでございましょう。


 ヒュウマ殿は、両手の上の羽をもう一度確かめられました。


 玉虫色の羽は、朝の光の中で静かに光っておりました。ヒュウマ殿はそれを丁寧に持ち、海守りの装束の懐の内側へ納められました。父上様の印章と並ぶ位置。胸の上、呼吸のたびにわずかに動く場所でございます。玉虫色の羽と父上様の銅板が、同じ内側に収まる。その構図を、わたくしは言葉にせず、眼で覚えました。


 ヒュウマ殿は服の上から胸元を一度だけ押さえられました。


 それから手を下ろし、顔を上げられました。茶色の瞳には、もう先ほどの一拍の揺らぎは見えません。海守りの当代の凛とした温度が、再び前へ出てございました。


 若手の船員たちが、船の点検へ戻っていきました。


 船板に残った羽の刃を抜く者、裂けた帆の端を縫い合わせる者、怪我をした者の肩を押さえて布を巻く者。誰も無駄に騒がず、誰もあの方の名を軽く口にしません。海守り衆の若手らしい、仕事へ戻ることで出来事を受け止める所作でございました。


「西の方角に進みましょう」


 ヒュウマ殿が告げられました。


 声は凛としておりました。されど、戦闘の前よりも一段深い。父上様の伝承を受け、神話時代の眷属から羽を受け、拒まれた問いの先へなお進む声でございます。


 蒼凪殿が頷かれました。わたくしも頷きを返しました。


 帆が西寄りの風を捉え直し、船首がゆっくり方角を変える。商家連合の独自の海図に印の打たれた次の経由地へ向かうため、若手の船員が舵と帆を調整してございました。海は、先ほどと同じ青をしているはずなのに、わたくしの眼には少し違って見えました。


 朝の光が、海面の上で角度をさらに変えてございました。


 雲の合間の祠は、もう見えません。あの方の翼の玉虫色も、空のどこにも残っておりません。されど、ヒュウマ殿の懐の中には羽が一枚、父上様の印章と並んで納められている。その事実だけが、朝の光の中に確かに残ってございました。


 わたくしは楽器を肩に掛け直しました。


 弦の上に指を置いていた感触が、まだ残ってございました。観察を超えて手を差し伸べた瞬間の指の重み、音を重ねた時の震え、あの方がそれを見ておられた事実。楽器の木肌は朝の湿りを含み、わたくしの掌に静かに馴染んでございます。


 歌に編むことができる場面でございました。


 されど、今はまだ歌わない。


 歌うのは、いずれ。ヒュウマ殿の懐の中の羽が、旅路のどこかで何らかの意味を示した時。蒼凪殿が問わずに収めたものが、別の形で開く時。あるいは、あの方と再びまみえる時。その時に、わたくしはこの朝を歌に編むでしょう。


 今は、ただ見送る側に留まる。


 朝の光が、海面の上で穏やかに続いてございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ