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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
32/57

閑話休題:獣に下る

 夕方のカラヴェラ第二層に、商家連合の屋敷は静かに灯を入れ始めていた。


 応接室は藍と銀の調度で満ちている。卓の脚。杯の縁。壁際の燭台。すべてが海の方角を向くように整えられていた。窓は西向きだった。西日が壁の絹の壁掛けに薄く落ちている。絹の織りの中では銀糸の波が流れていた。


 商家連合カラヴェラ支部の主、マルティ・ガラン氏の屋敷だった。


 俺は卓の向こう側に座っていた。膝の上で指を組み、背を浅く椅子に預ける。背もたれの木は磨き込まれていて、触れた肩甲骨に冷たい硬さを返した。潮の匂いは窓を閉めた部屋の奥までは入ってこない。ただ調度の銀に海の色が移っていた。


 ガラン氏は四十代。恰幅の良い体格。整った身なり。商家の主としての風格。表向きは温和な社交家だった。瞳の奥には商家の冷静な計算が薄く沈んでいる。笑みの角度も手を置く位置も、相手に安心を与える形で整えられていた。


 妻帯者で、子もいる方だった。屋敷の廊下には子供用の小さな靴が一足だけ見えていた。それを隠しきらないあたりも、彼の社交の一部なのだろう。家を持つ男。土地に根を張る商人。そういう顔を先に見せる。


 ただし賢者向けの社交には独りで出てくる。


 最も旺盛な時期、と本人は先ほど短く笑った。その笑いは冗談の形をしていたが、冗談だけではなかった。商売も社交も身体も、まだ自分の手で動かせる年齢にいる男の声だった。


「マリヴェルの蒼凪殿」


 ガラン氏は短く名を呼んだ。


「先日のご相談の件、こちらでもう少し情報を集めております。賢者殿のお探しのものについて、商家連合の航路図の中にも一筋ご提示できるものがあるかもしれません」


「ありがとうございます」


 俺は短く返した。声の温度は公的な場所に置いたままにした。


 賢者として、俺は商家連合の航路情報に手を伸ばしている。家の没落の真相に通じるものが海のどこかに残っているなら、地図と記録は捨てられない。マリヴェル家の客員賢者という立場が、商家連合の社交圏に届く距離を作っていた。


 何を探しているのか、ガラン氏は深く問わない。


 商家の主の節度。それと打算。二つは同じ卓の上に置かれていた。どちらも見える。見えるが、今は退けない。


 ガラン氏は卓の上に古い航路図の写しを一枚広げた。紙は上等だった。端のほつれまで丁寧に押さえられ、複写した線の濃淡も残されている。海図の余白には商家連合の記録者がつけた小さな印が並んでいた。


「南西海域の縁、ここに名のない島の表記があります」


 俺は地図に視線を落とした。


 海図の縁に小さな印がある。名前は記されていない。通常の航路図には出ない島だった。商家連合の独自の記録のみで知られる島。季節風の読み。浅瀬の位置。積み荷を減らす時期の注記。そういう商人の言葉だけが周囲に残されている。


 手がかりとしてはまだ薄い。


 けれど無視できる薄さでもない。


「ご厚意に」


「いえ、賢者殿のお役に立てれば。マリヴェル家のご再興のお手伝いができれば、商家連合としても光栄でございます」


 ガラン氏の言葉の縁に、商家の打算が薄く沈んでいた。


 マリヴェル家の客員賢者を取り込むことは、商家連合にとって長期的な投資の一形態だった。今ここで俺に航路情報を渡すことは、ただの厚意ではない。恩の形をした綱だった。細く、柔らかく、切ろうと思えば切れる。だが何本も重なれば手首に残る。


 俺はそれを賢者の眼で確認していた。


 確認した上で、社交の枠の中で受けている。家の没落の手がかりが必要だった。ガラン氏の打算は受け入れる範囲だった。


「もう一軒、お付き合いいただきたく」


 ガラン氏は航路図を巻き直しながら短く告げた。巻き取る指の動きに迷いはない。話題の切り替えも商談の一部として整っていた。


「賢者殿のお疲れを、お和らげする場でございます。商家連合の社交場、潮音亭。お聞きになったことがございますか」


「名は」


 俺は短く返した。


「お初の方でしたら、ご紹介いたします」


 ガラン氏は短く笑った。


 商家連合の社交の延長として、男性向け遊郭への誘いが立っていた。海洋同盟の上層の文化として、潮音亭の名は俺も賢者の社交の縁で耳にしていた。商家筋の社交場。紹介制。商家連合の出資の館。


 その名が部屋の中に置かれた瞬間、銀糸の波が一段冷えて見えた。


 俺は断る選択肢を内側で計った。


 ガラン氏の打算を受け入れる範囲の社交は、ここまでだった。これ以上踏み込めば、商家連合との縁が一段深くなる。酒席ならまだしも、身体の欲を含む場に同席することは別の紐を生む。断れば、俺の追っている何かの手がかりが先細りになる可能性もあった。


 賢者として、断ることの代償が見えていた。


 見えているから面倒だった。


 それと、もう一つ。


 俺の中で、何かが動いていた。


 長旅の蓄積、ヒュウマへの踏み出していない関係の長期化、宿の部屋で独りで体を落ち着けてきた数月の疲労。整然の皮膜の下で、獣が動きやすくなっている時期だった。賢者として、自分の内側の状態を認識していた。認識した上で、社交を断れる強さは、今夜の俺の中になかった。


 自覚があることと、止まれることは同じではない。


 俺は組んでいた指をほどいた。卓の上の銀の杯が西日を拾っていた。そこに映る俺の髪は燃えるような赤に見えた。瞳の青は暗く沈んでいる。


「お供させていただきます」


 俺はそう告げた。


 ガラン氏は深く頷いた。商家の打算が、瞳の奥で薄く満ちた。


 その満ち方を見ても、俺は席を立たなかった。


──────────────────────────────


 潮音亭は、港町の縁の奥まった路地にあった。


 表通りからは見えない。魚市場からも船着き場からも、歩けば近いのに視界には入らない位置だった。店の前には藍色の暖簾が下がっている。二階建ての建物で、壁は白く塗られていた。銀の小さな看板が戸口の脇に打ち付けられている。


 入口の木戸は重かった。表の賑わいを断つための厚みだった。


 商家連合の社交圏に近い区画だ。周囲の店も値の張る客を相手にしている。香油の店。仕立屋。夜になってから灯る小さな酒場。通りを歩く人間の足音まで選別されているようだった。


 ガラン氏の歩き方は慣れていた。


 月に数度は通われる場所なのだろう、と俺は短く読んだ。迷いなく曲がる角。戸前で一度だけ袖を整える所作。馴染みの店へ入る男の自然さがあった。


 戸が開いた。


 中は石造りの控えの間だった。外より空気が少し冷たい。藍の香が薄く焚かれている。水を含んだ石の匂いと、香油の甘さ。磨かれた床には白い布が敷かれ、足音が柔らかく殺された。


 男の店主が短く頭を下げた。


 四十代後半。元男娼の年配者の質感があった。身体の線は保たれているが、前に出る艶は抑えられている。藍と白の重ね着。銀の細い首飾り。衣装は華やかすぎない。客を立てる側の装いだった。


 プロの距離感、客を読む眼。


「ガラン様、お待ちしておりました」


「客人を一人。マリヴェルの蒼凪殿だ」


「賢者様、お初にお目にかかります」


 店主の視線が、俺の体格に一秒留まった。


 それから顔の方角に戻った。賢者でこの体格というのは、商家連合の社交圏の中でも一拍止まる絵柄だった。ローブの前はいつもの通り開いている。鍛えた胸と腹は隠していない。俺の文化圏では戦闘服でもある。だがこの場所では、別の読みをされる。


 店主は商家の主の客への対応の所作で、視線をすぐに引いた。


 プロの読みだった。


 控えの間の奥に、薄い藍の暖簾があった。向こう側で衣擦れが重なった。水面の下から影が上がるように、男娼たちが一度に出てきた。


 五人ほど。


 衣装は揃えた薄い藍と白の組み合わせだった。肩の出し方。腰布の流し方。首飾りの銀。似た色をまとっていても、体格と立ち姿で差が作られている。細い者。柔らかい者。華やかな者。若さを前に出す者。


 選ばせるための並びだった。


 その中の一人に、俺の眼が留まった。


 二十代前半。褐色の肌。短髪。健康的な体格。ヒュウマよりやや細身。海守りの軽装に近い装いの男娼用衣装。肩から腕の線がよく見える。腰の布は動きやすさを残して締められていた。


 直接似ているわけではない。


 顔立ちも違う。瞳の色も違う。立ち方の重心も、ヒュウマのそれとは別物だった。けれど俺の眼が、ヒュウマの方角に通じる輪郭を勝手に拾っていた。


 拾うな、と内側で短く思った。


 視線をすぐに引いた。


 引いた、けれど一秒は留まった。


 店主の眼が、その一秒を捉えていた。視線が俺の方角に戻る前に、男娼の一人を視線の縁で確認する動きがあった。店主の中で配置が決まったのが、俺の眼に届いた。


 気取られた。


 訂正の所作はしなかった。「あの男ではなく別の男を」と告げ直す賢者の振る舞いを、俺は持っていなかった。獣が、その男娼を待っていた。訂正したくない、というのが俺自身の温度だった。


 男娼を選ぶ選択を、俺は控えの間の入口で済ませてしまっていた。


「広間にお通しいたします」


 店主は静かに手を差し出した。掌は客を急かさない角度で止まっている。


 社交の広間は、藍と白の灯りで満ちていた。


 円卓が二つ。低い長椅子が壁際に並ぶ。卓上には銀の小皿と青い硝子の杯が置かれていた。天井から吊るされた灯りには薄布がかけられ、光が肌の上で柔らかくほどけるように調整されている。


 商家筋の客が四、五人いた。


 それぞれの隣に男娼が一人ずつ座っている。膝が触れる距離の者もいれば、肩越しに杯を注がせる者もいる。会話は低い。笑いは短い。あからさまな荒れ方はない。海洋同盟の風土の装い、職能としての品の良さと商業的な温度の混合。


 俺はその空間に通された。


 ガラン氏は円卓の主席に座った。俺を隣に通す。主客の位置だが、同時に見せるための位置でもあった。商家連合の主が誰を連れてきたか。誰に酒を飲ませるか。その視線が広間の周囲から薄く届く。


 俺は椅子に座った。


 座面の布は柔らかすぎなかった。身体が沈みすぎない。逃げようと思えばすぐ立てる硬さだった。そういう設計も、この場所の熟れた作りなのだろう。


 店主が酒の杯を運んできた。


「黒潮酒でございます」


 店主は短く告げた。


「潮音亭オリジナルの一杯。賢者様、お楽しみくださいませ」


 杯は青い硝子だった。中の酒は黒ではない。深い藍色をしている。光を受けると縁だけが銀に光った。黒潮という名に合わせた色の作り方だろう。香りには海藻を思わせる苦みと、熟れた果実の甘さがあった。


 俺は杯を受け取った。


 杯の縁を口につけて、一口。


 舌の上で、酒の質感が広がった。海洋同盟の上等品の酒だった。喉に刺さる安い熱ではない。舌に残る塩気。果実酒の甘み。薬草の青い苦み。けれど普段の酒とは違う何かが混ざっていた。


 喉を通った後、胃の縁から皮膚の下へと薄い熱が広がっていく。


 速度が速い。


 賢者として、酒の効きの速度は内側で測れる。食事の量。疲労の深さ。水分の不足。そういう条件を並べれば、身体がいつ熱を持つかはおおよそ読める。今夜の杯は、一口で測りきれる速度ではなかった。


 二口目で、皮膚の温度が一段上がった。


 手首の内側が熱い。首の後ろが薄く汗を持つ。広間の灯りが肌の上に近くなった。


 三口目で、呼吸の深さが鈍く変わった。


 吸う息が少し重い。吐く息の終わりに熱が残る。目の前の青い杯が妙に濃く見えた。


 俺は内側で短く確認した。


 媚薬入りだ、と。


 賢者の観察力で、酒に薬草の成分が混ぜられている事実を読んだ。甘みの底にある遅い痺れ。血の巡りを早める草。感覚を皮膚の表に寄せる根。組み合わせは練られている。乱暴な薬ではない。場の用途に合わせた品だった。


 商家連合の社交場の慣習として、潮音亭の酒には媚薬が混ぜられる。客の身体感覚を鋭敏にして、男娼との時間を充実させる仕組みだった。文化として確立した手段、ガラン氏は当然のものとして俺に飲ませている。賢者を取り込む打算と、社交の慣習が重なっていた。


 俺はそれを察した。


 察した瞬間、酒席を立つ選択肢を内側で計った。


 立てなかった。


 商家連合の主の社交を、媚薬を理由に途中で立つことは、外交的に不可能だった。マリヴェル家の客員賢者として、ガラン氏との関係を断つ覚悟がなければ、席は立てない。家の没落の手がかりを、ここで失うわけにはいかなかった。


 それと、もう一つ。


 俺の中で動いていた。


 内側で、何かが薬を歓迎していた。


 整然の皮膜の下で、それが薬の効きを受け入れる方向に動いた。賢者として、その動きを観察していた。観察した上で、止める力が、今夜の俺にはなかった。


 俺は杯を空けた。


 舌の上に甘い苦みが残った。手の甲に浮いた血管が、いつもより近く見えた。呼吸を浅くすれば整えられる。姿勢を直せば表面は崩れない。そういう処理だけは、まだ機能していた。


 ガラン氏が短く笑った。


「賢者殿は、酒に強くていらっしゃる」


「ええ」


 俺は短く返した。声に温度を乗せなかった。


 賢者の冷静さの皮膜は、まだ表面で機能していた。皮膜の下では、内側のものが薬と酒の効きを受け取り続けていた。


 店主がもう一杯、酒を注いだ。


 硝子の中で深い藍が揺れた。俺はそれも受け入れた。


──────────────────────────────


「賢者殿のお相手は、お選びになりますか」


 ガラン氏が短く問うた。


 社交の広間の縁で、店主が待機していた。客の主の指示で男娼を選んで送る所作。すべてが滑らかだった。ここでは選ぶことも、選ばないことも、客の品として処理されるのだろう。


 俺はガラン氏の方角を一度見た。


 杯を持つ指は太い。笑みは穏やか。自分が開いた席が滞りなく進んでいることを喜ぶ商人の顔だった。そこに悪意はない。悪意がないことが、かえって逃げ場を狭くしていた。


 それから店主の方角に視線を上げた。


「お任せいたします」


 俺は短く返した。


 選ぶ意志を、自分の中で確定させない選択だった。賢者の打算。同時に内側で動いている何かの打算。皮膜の下のものが、選ぶ責任を店主に預ける方向に動いていた。


 自分では選んでいない、と後で言える形。


 その形が欲しかったのだと気づいた時点で、もう遅かった。


 選択は既に、控えの間で終わっていた。


 俺の眼の一秒を店主が捉えた瞬間に、男娼の配置は決まっていた。「お任せ」の言葉は、その配置を追認する所作にすぎない。


「では、賢者様のお好みに合わせて」


 店主は短く頷いた。


 その「お好み」が誰を指すのか、俺と店主の間でだけ通じていた。ガラン氏は気づいていない、男娼の一人が広間の縁から下がっていく動きを、社交の流れの一部として見ていた。


 広間の灯りが薄布の下で揺れた。


 俺は杯の縁に残った酒を見た。飲み干したはずなのに、香りだけが残っている。薬草の青さ。果実の甘さ。舌の奥でまだ熱がほどけている。握った指を開くと、掌に汗が薄く残った。


 短い間の後で、その男娼が俺の前に立った。


 控えの間で見た輪郭が、社交の広間の灯りの下で、もう一度俺の眼に届いた。褐色の肌に藍の衣装が映える。肩の線は若い。腕の形には訓練の名残のような硬さがあった。笑みは職能として整っている。


 ヒュウマの雰囲気が、その男娼の輪郭の中に薄く重なる。


 直接似ているわけではない。ただ俺の眼が、ヒュウマの方角に通じる輪郭を勝手に拾っていた。控えの間と同じ拾い方だった。


 俺は息を一段沈めた。


 内側のものが、その姿を歓迎していた。


 男娼は目を伏せて頭を下げた。首筋の線が見える。左耳に銀の小さな飾りが揺れた。ヒュウマの左耳のプラチナの光を、俺の記憶が勝手に引き出した。


 面倒だな、と内側で思った。


 思っただけだった。


「お部屋にご案内いたします」


 店主は短く告げた。


 俺は立ち上がった。


 椅子が床をかすかに鳴らした。その小さな音に、広間の客の視線が一瞬だけ寄る。商家筋の男が杯を掲げる。隣の男娼が笑みを作る。誰も何も言わない。ここではその沈黙も礼儀だった。


 ガラン氏に短く頭を下げた。


「ご配慮に感謝します」


「どうぞ、ごゆるりと」


 ガラン氏は満足げに頷いた。商家連合の主の打算が、賢者を取り込む方向で一段進んだ瞬間だった。


 その満足を、俺は責められない。


 ガラン氏のことを、俺は内側で短く確認した。


 この方を、俺は責められない。社交の慣習として媚薬入りの酒を出す文化、商家筋の取り込みの手段、すべて海洋同盟の上層の慣習の範囲だった。俺自身が、その慣習の中に座ったのだ。座った上で、酒を受け入れた。媚薬を察した上で、立たなかった。男娼の選択を店主に委ねたのも、俺の選択だった。


 すべて、俺の選択だった。


 内側のものの選択だった、けれどそれを内に飼っているのは俺だった。


 店主が先に立った。男娼は俺の半歩後ろを歩く。広間の奥へ続く廊下は、藍の敷物で足音が消えるようになっていた。壁には銀糸の波を織り込んだ絹が掛けられている。どの部屋も海の方角を忘れない作りだった。


 戸の前で店主が立ち止まった。


「こちらでございます」


 手が戸に添えられる。その動きの前で、俺の喉が一度だけ乾いた。酒の熱はまだ皮膚の下にある。男娼の気配は背後にある。ヒュウマの方角は宿にある。


 三つを並べて、俺はどれも退けなかった。


 店主が戸を開けた。


 藍と白の灯りが、廊下へ薄くこぼれた。


──────────────────────────────


 個室は、藍と白の灯りで満ちていた。


 寝台、小卓、窓は閉じられている。海の方角の絹の壁掛けが、灯りの下で薄く揺れていた。


 男娼は俺の半歩後ろを歩いて、戸が閉まる音を聞いてから、俺の方角に進んだ。


「賢者様」


 男娼の声は若かった、けれど職能としての落ち着きが乗っていた。


「お楽になさってくださいませ」


 俺はローブの帯を解いた。前ははだけたままだった、賢者の戦闘服の延長、街でもこの形で歩いている。男娼の視線が、俺の胸の方角に一秒留まった。それから腰の方角に下がった。プロの所作の中の視線、けれど一瞬止まる瞬間があった。


 賢者でこの体格、というのは港湾でも商家筋でも一段止まる絵柄だった。男娼の視線が、それと同じ方向で止まった。


「お見事な、お体でございます」


 男娼は短く告げた。


 職能の言葉だった、けれど声の縁に、職能を超える短い間があった。


 俺は応えなかった。声を出すことが、何かを認める形になりそうだった。内側のものが、その認めを待っている方向に動いていた。


 男娼が近づいた。


 掌が、俺の胸の方角に置かれた。男娼の手の温度、酒と媚薬で鋭敏になった皮膚の上で、その温度が一段濃く感じられた。ヒュウマの手の温度を、俺は内側で短く重ねた。重ねた事実が、罪悪感の核の最初の沈降だった。重ねた、けれど止めなかった。


「賢者様、お辛そうですね」


 男娼は短く問うた。


「別の者をお呼びしましょうか」


 プロの読みだった。客の表情を察して、躊躇いの瞬間に逃げ道を提示する職能の所作。男娼は俺の中の何かを読んでいた。読んだ上で、断る選択肢を提示してくれた。プロの倫理だった。


 俺は応えなかった。


 声を出さなかった、けれど首を振る所作もしなかった。曖昧な沈黙、その沈黙は男娼に「続けてくれ」を許す沈黙だった。男娼はプロの読みで、俺の沈黙の意味を取った。


 掌が、俺の胸の上で動いた。


 皮膜の下のものが、男娼の手の動きを受け入れていた。


 俺はその動きを内側から見ていた。止める力は、もうなかった。条件が揃いすぎていた。揃った上で、皮膜が下に降りていく。降りる選択は、俺自身のものだった。


 降りた。


 その瞬間から、獣が前に出た。


 男娼の手が、ローブの内側に入った。胸から腹、腹から下、男娼の指が俺の身体の縁を辿った。指の動きは慣れていた、プロの所作。媚薬で鋭敏になった皮膚の上で、その動きが一段濃く感じられた。


 男娼の手が、俺の腰の下に届いた。


 男娼の手が、止まった。


 短い一拍だった、けれど職能の手の動きの中では明確な止まりだった。男娼の眼が、薄く開いた。プロの読みの中でも、想定の枠を超えた瞬間だった。賢者の身体の質量、布の下で張った輪郭、男娼の手のひらに余る存在感。男娼は職能としてそれを処理し直した、けれど最初の動揺は俺の眼に届いていた。


「賢者様」


 男娼は短く呟いた。声の縁に、プロの読みが追いつかない一拍があった。


「お見事な、ご質量で」


 職能の言葉に戻った、けれど声の温度は一段変わっていた。


 俺は応えなかった。


 男娼の声の中の動揺、職能を超えて俺の質量に屈服した一拍。それを許す自分の温度を、俺は内側で確認した。確認しても、止めなかった。前に出た獣が、その動揺を歓迎していた。


 男娼が膝をついた。


 口での前戯が始まった。


 媚薬と酒の効きの中で、男娼の口の温度が、俺の身体の縁で展開していった。男娼の所作は職能として完成されていた、ただ俺の質量に対しては、男娼の口は深く対応していた。プロとして、客の身体に合わせて応える所作。俺は寝台の縁に腰を預けて、その動きを受けていた。


 ヒュウマの方角を、俺は内側で短く考えた。


 ヒュウマの口が、俺の身体に触れたことはない。ヒュウマの手も、俺の身体の縁を辿ったことはない。踏み出していない関係の中で、ヒュウマは俺の身体の縁から半歩離れた距離を保っていた。今夜、その距離は男娼の口の温度に取って代わられていた。


 取って代わられる、というのは、ヒュウマへの裏切りだった。


 裏切りの自覚を抱えながら、俺は男娼の口に身を委ねた。委ねた上で、止めなかった。ヒュウマへの欲求が男娼の輪郭に投影されたまま、俺は男娼の口を受け続けていた。


 男娼が立ち上がった。


「お部屋の方へ」


 短く告げられた。


 俺は寝台の縁から、奥の寝具の方角に動いた。


 獣が前に出ていた。賢者の冷静さの皮膜は、もう機能していなかった。媚薬と酒、ヒュウマ似の輪郭、内側で動いていた時期の蓄積、すべてが俺の中で重なっていた。重なった上で、俺は獣に下った。


 夜が深くなった頃には、俺は男娼の身体に踏み込んでいた。


──────────────────────────────


 行為が終わった瞬間、俺の中で何かが引いた。


 引いた瞬間、罪悪感が立った。


 寝台の縁、藍と白の灯りの中で、男娼が静かに身を起こした。プロの所作で身支度を整える動き、湯浴みの方角に下がる初めの一歩。男娼の表情は職能として落ち着いていた、けれど眼の縁に深い疲労が薄く沈んでいた。賢者の身体は、男娼の職能の中でも消耗が強かった。


「お湯を、お遣いになりますか」


 男娼は短く問うた。


「ええ」


 俺は短く返した。声に温度はなかった。


 男娼は隣の湯浴みの方角に下がった。俺は寝台の縁で自分の身体を見下ろした。汗、男娼の唾の薄い跡、媚薬の効きが引いていく速度。皮膚の温度がゆっくり下がっていく。前に出ていたものが完全に内側に引いた、その瞬間、ヒュウマの方角の輪郭が内側で立ち上がった。


 宿の二階の角部屋、寝台の縁、革帯を直しているヒュウマの後ろ姿。あの場所で待っている人の方角に、俺は今夜、踏み込めない身体になった。


 皮膜の下のものの選択だ、と言い訳できる距離は、もう俺の中になかった。それを内に飼っているのは俺だった。獣に下ったのも、俺だった。


 湯浴みの方角から、男娼が戻った。


「賢者様、お湯をご用意しております」


 男娼の声は職能の温度に戻っていた。守秘義務、口外しない原則、対価関係としての距離感。


 俺は男娼の方角を見た。


 プロだから口外しない。その打算が、俺の中で薄く沈んだ。男娼を一段下に置いている事実、職能の枠の中で相手を扱っている事実、その方が俺の罪悪感の核に都合が良い事実。下った先で、俺は相手を道具として扱っていた。


 俺は男娼に対価を払った。


 賢者の階級でお出しできる範囲を、商家連合の社交場の相場の上で渡した。男娼は職能の所作で受け取った。プロの距離感、過不足のない応対。その距離感そのものが、俺の罪悪感を一段強くした。


「ご丁寧に、ありがとうございました」


 男娼は短く頭を下げた。


「ええ」


 俺は短く返した。それ以上の言葉は、俺の中になかった。


 湯浴みの場所に進んだ。


 冷たい湯を肩から流した。皮膚の表面の汗と、男娼の触れた跡を、湯で流した。流せるのは皮膚の表面だけだった。獣に下った事実は、皮膚の下で残っていた。永遠に残ることを、俺は内側で確認した。


 確認しても、消えなかった。


──────────────────────────────


 潮音亭の戸を出た。


 夜の港町に、潮の匂いが薄く広がっていた。表通りほど明るくはない。提灯の橙の灯りが点々と続いている。商家連合の社交圏の縁。昼間の積み荷の声は消え、夜の商いの低い気配だけが路地に残っていた。


 湯浴みの後で、ガラン氏には短く挨拶を済ませていた。


「今夜はお疲れでございましょう」


 ガラン氏はそう言って笑った。満足げな笑みだった。商家の主の社交の延長として、賢者を取り込んだ夜の余韻。その余韻を彼は疑っていなかった。


「お気遣い、ありがとうございます」


 俺はそう返した。


 それ以上の言葉を重ねると、喉の奥で何かが崩れそうだった。だから短く済ませた。ガラン氏は深追いしなかった。深追いしないこともまた、商家の主の手際だった。


 俺は宿への道を歩き出した。


 石畳が夜露を含んでいる。靴底の下でかすかに滑った。潮音亭の香の甘さは髪に残っている気がした。湯で流したはずなのに、皮膚の奥にはまだ別の熱がある。


 道は普段より長く感じられた。


 媚薬の効きはまだ完全には引いていなかった、皮膚の温度が普段より一段熱い。歩く速度は普段より遅かった。前に出ていたものが引いた後の身体の重さ、罪悪感の重さ、どちらも区別がつかなかった。


 区別する意味も薄かった。


 どちらも俺の中にある。どちらも俺が持って帰る。


 商業街の三本目の路地を曲がった。


 昼間なら香辛料の袋が積まれている場所だった。今は木箱が壁際に寄せられ、猫ほどの影が箱の間を抜けた。路地の上には洗い紐が渡されている。乾いた布が夜風に小さく揺れていた。


 宿の方角への坂道に入る。


 提灯の橙の光が、坂の途中から薄くなっていく。潮音亭の区画の灯りが背後に遠のいた。前方には宿場の灯りがある。普段なら、この坂の途中でヒュウマが歩幅を少し合わせる。俺が何も言わなくても、彼は先に行きすぎない。


 普段、ヒュウマと並んで歩く道だった。


 今夜、独りで歩いている。


 ヒュウマは宿で、海守り衆の業務から戻った後、俺の帰りを待っているはずだった。革帯を外し、装備を整え、明日の段取りを考えているはずだった。たぶん俺の分の水も机に置いている。


 待っている、という事実が、俺の中で薄く沈んだ。


 沈んだものは重かった。喉の奥に引っかかり、呼吸の邪魔をする。酔いは引き始めている。薬の熱も薄くなっている。それでも身体の中心には別の温度が残った。


 獣に下った事実は、歩いても薄れない。


 坂の石段を一つ上がるたびに、宿の窓の灯りが近くなる。あの部屋の方角にヒュウマがいる。まだ踏み出していない関係の距離を保ったまま、普段通りに俺を迎える。


 その普段通りが、今夜は刃のようだった。


 宿の灯りが、坂の上で見えた。


 俺は足を止めなかった。


──────────────────────────────


 宿の二階の角部屋の戸を、俺は静かに押した。


 蝶番が小さく鳴った。廊下の灯りが室内に細く差し込む。部屋の中では油皿の灯りが薄く揺れていた。窓は閉じられている。外の潮の匂いは薄い。木の床に夜の冷えが沈んでいた。


 ヒュウマは寝台の縁で、革帯を直している途中だった。


 海守り衆の戦闘服を脱いだ後の身支度。夜の宿の所作。革帯には海水の匂いがわずかに残っている。彼は布で金具を拭き、傷んだ箇所を指で確かめていた。そういう確認を怠らない男だった。


 俺が戸を開けた瞬間、ヒュウマの視線が俺の方角に向いた。


「お帰りなさい」


 ヒュウマの声は、いつも通りだった。


「ああ」


 俺は短く返した。声に温度を乗せなかった。


 戸を閉める。閂を落とす。普段と同じ順番で動いた。指先に木の乾いた感触がある。そこへ意識を置けば、身体の奥の熱を少しだけ遠ざけられる気がした。


 ヒュウマは革帯を畳んで、棚に置いた。


 それから俺の方角に半歩進んだ。近づきすぎない。だが離れすぎもしない。視線が俺の胸元の方角に届いた。ヒュウマの観察の眼。海守りの当代として、戦場でも宿でも俺の状態を読む眼だった。


 その眼が嫌ではない。


 嫌ではないから、今夜は痛かった。


 俺は息を一度吸った。


「お疲れですか」


 ヒュウマは短く問うた。


「商家連合の社交が、長くなった」


 俺は短く返した。声は普段の温度を保っていた。賢者の冷静さの皮膜が、表面では機能していた。皮膜の下で、罪悪感が深く沈んでいた。


「お湯は」


「向こうで遣ってきた」


「ええ」


 ヒュウマは短く頷いた。


 それ以上は問わなかった。海守りの当代としての節度、または踏み出していない関係の中での距離の取り方。ヒュウマは俺の状態を読んだ、けれど読んだ事実を口にしない。


 読まれた、と俺は内側で短く確認した。


 何を、までは読まれていない。商家連合の社交の延長、潮音亭の存在、男娼の輪郭、獣に下った事実。すべてはヒュウマの読みの届かない場所にあった。ヒュウマが読んだのは、俺の表面の疲労だけだった。


 ただ、読まれた事実が、罪悪感を一段強くした。


「水、置いてます」


 ヒュウマが机の方角を示した。


「助かる」


 俺は杯を取った。水はぬるかった。宿の水差しに入れておいたものだ。喉を通る感触が、潮音亭の酒と違いすぎて苦かった。何も混ざっていない水。何も求めてこない水。そういうものが今は重い。


 俺は寝台の方角に進んだ。


 ローブを脱いで、寝具の縁に座った。布が肌に触れる。そこに残る感覚まで自分のものではないように思えた。湯で流した。服も整えた。それでも身体は知っている。何があったかを、表面より下で覚えている。


 ヒュウマは隣の寝台で、自分の身支度を続けている。


 普段通りの夜の宿の所作。普段通りの距離の取り方、踏み出していない関係の温度。


 ヒュウマの手が革の紐を結ぶ。ほどく。もう一度結ぶ。細かい癖がある。考え事をしている時、彼は結び目を一度余分に確かめる。その癖を俺は知っている。知っているのに、今夜の俺は何も言えない。


「明日は」


 ヒュウマが短く問うた。


「書物商に寄る」


「ええ」


「お前は」


「詰所に。長から伝言があります」


「分かった」


 短い対話だった。


 普段通りの、明日の段取り。朝の鐘より前に港へ出るか。昼の潮で戻るか。書物商の後に組合へ顔を出すか。そういう話を、俺たちは何度もしてきた。旅の生活は短い確認の積み重ねでできている。


 俺はそれを応えながら、内側で罪悪感を抱えていた。


 普段通りに応えられている事実、ヒュウマが普段通りに応えてくれる事実、すべてが罪悪感を強くした。


「顔色、少し熱いです」


 ヒュウマが言った。


 俺は水の杯を机に置いた。


「酒だ」


「飲まされたんですか」


「社交だな」


「ほどほどにしてくださいよ」


「分かってる」


 分かっている、という言葉が薄かった。


 ヒュウマはそれ以上踏み込まなかった。踏み込めたはずだ。俺の声の硬さも、皮膚の熱も、帰りの遅さも、彼の眼なら読む。けれど彼はそこで止まる。止まることを選ぶ。


 その選び方が、彼の優しさだった。


 同時に、まだ踏み出していない関係の形だった。


 油皿の灯りを消す前に、ヒュウマが窓の留め具を確かめた。風が強くなる夜には必ずやる所作だ。彼の左耳でプラチナのピアスが短く光った。潮音亭の男娼の銀飾りが、記憶の底で一瞬だけ重なった。


 俺は目を伏せた。


 ヒュウマは気づかなかった。少なくとも、気づいたとは言わなかった。


 油皿の灯りが消えた。


 部屋が暗くなる。窓の隙間から港の灯りが細く入る。寝具の布は乾いていて、宿の洗い場の石鹸の匂いがした。


 俺は寝具の中で、目を閉じた。


 ヒュウマの呼吸の音が、隣の寝台から薄く届いていた。眠っている呼吸ではない。ただ静かな呼吸。ヒュウマは何も気づいていない、または気づいた事実を口にしない。


 暗闇の中で、俺の身体だけがまだ夜を持っていた。


 潮音亭の藍の灯り。黒潮酒の熱。男娼の輪郭。宿で待っていたヒュウマの声。それらが同じ場所に沈んで、境目をなくしていく。整理しようとすればするほど、余計に混ざった。


 俺は寝返りを打たなかった。


 布の音でヒュウマを起こしたくなかった。起こしたくないという配慮の形が、今夜は自分の逃げにも見えた。


 眠りは、すぐには来なかった。


──────────────────────────────


 朝の光が、宿の二階の窓から差し込んでいた。


 俺は窓辺に立っていた。身支度は済ませている。ローブの帯も締め直した。首飾りはいつもの位置にある。表面の形だけなら、昨夜と何も変わらない。


 ヒュウマは寝台で、まだ眠っている。


 海守り衆の業務で深夜まで起きていた疲労が、朝の眠りに沈んでいた。普段より一段深い眠り。俺の朝の身支度の音にも気づかない深さ。肩の力が抜け、呼吸が低く整っている。


 窓の外には、カラヴェラ港の屋根の連なりがあった。


 赤い屋根。白い壁。狭い路地。洗濯物。朝の水を運ぶ女の声。遠くで船員が綱を引く音。海の縁が朝の光で薄い銀色に光っていた。夜の藍は退き、港は商いの顔に戻り始めている。


 海鳥が一羽、屋根の方角から海の方角へ渡っていく。


 海風が窓の縁から薄く流れ込んでくる。潮の匂い。木の窓枠に指を置くと、夜の冷えがまだ残っていた。指の腹にその冷たさが移る。身体の内側の熱とは違う冷たさだった。


 俺は窓辺で、海を見ていた。


 罪悪感は、皮膚の下で残っていた。


 媚薬も酒も引いた。ただ獣に下った事実だけが、内側で消えずに残っていた。一晩で薄れる種類の事実ではない。


 朝はいつも、物事の輪郭を整える。


 夜に歪んでいた判断も、明るい場所に置けば名前がつく。社交。打算。欲。選択。裏切り。そういう言葉を順に並べられる。並べられるからといって、軽くなるわけではない。


 ヒュウマの呼吸が、寝台の方角で深かった。


 俺はその呼吸の音を、窓辺から聞いていた。ヒュウマの眠りの深さが、俺の罪悪感を一段強くしていた。ヒュウマは知らない、俺が知っている、それで十分だった。


 十分だった、というのは罰の形でもあった。


 知られないまま隣にいる。問われないまま朝を迎える。普段通りの水差しが机にあり、普段通りの革帯が棚にある。昨夜の俺だけが、普段通りではなかった。


 海の縁で、銀色の光が薄く揺れていた。


 海鳥がもう一羽、屋根の連なりを渡っていく。窓の縁の木の冷たさが、俺の指の腹に届いていた。潮の匂いが、朝の光の中で濃くなっていく。


 賢者の冷静さは、朝の光の下で表面では機能していた。下では、獣が静かに座っていた。動いていない、ただ座っている。次の機会の方角に向いて、座っている。


 来た時に俺がまた下る可能性を、俺は否定できなかった。


 その確認がいちばん重かった。


 一度だけなら過ちと呼べる。条件が揃ったからだと、社交の圧だと、酒の熱だと、いくらでも箱に入れられる。けれど次の機会の方角に座っているものがある以上、俺はそれを偶然として処理できない。


 俺の内側にいる。


 俺が飼っている。


 ヒュウマが寝具の中で、寝返りを打った。


 布が小さく擦れる音がした。朝の光が彼の肩の線に触れる。まだ起きない。呼吸は深いままだった。


 俺は窓辺から振り返らなかった。


 海風が、窓の縁から流れ込んでいた。

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