表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
33/56

確かめることのできない

 夜の船室の油皿に、もう一度火が入った。


 昼の名残はもう船室から退いていた。畳まれた地図だけが机の隅に二枚重なっている。航路図と潮流図、商家連合の独自の海図。海洋古代遺跡の沿岸から離れてから、夕方まで俺たちは次の経由地を確かめた。船は西寄りの風を掴んで、夜の外洋を進んでいる。


 船底で潮の音が低く続いていた。板の下を擦っていく水の重さ。帆を張る縄の小さな鳴り。遠くの甲板で誰かが足を置き直す気配。夜の船は昼より狭く感じる。音がすべて近くなるからだ。


 俺は机に着いていた。膝の上に両手を置き、肩の力だけを少し抜いている。潮鎚は壁に立てかけてある。海守りの索具は机の脇に置いた。いつでも手を伸ばせる距離だが、今は手を伸ばさない距離でもあった。


 蒼凪さんが艫の方角から戻ってきた。戸を閉める音は小さい。白と青のローブの裾が夜の風を一枚だけ連れてきて、すぐに船室の空気へ溶けた。蒼凪さんは俺の左隣に座った。海守り衆の若手の船員は船首の方角で見張りに立っている。艫は無人だった。


 イーリスさんは机の対面に座っていた。


 膝の上には小さな弦楽器がある。弾くためではなく、手を置く場所としてそこにあるように見えた。淡い金茶の髪は一つに束ねられている。緑がかった灰色の瞳が油皿の灯りを薄く受けた。桟橋で会った朝と同じ慇懃さが、夜の船室では一段静かに沈んでいた。


 蒼凪さんは机の上で指を組んだ。節の形が灯りの縁で短く浮かぶ。深い青の瞳が火の揺れを一度だけ受け、それから俺に向いた。


「ヒュウマ」


「ええ」


「後で話す、と俺が言った話だ」


 蒼凪さんは短く告げた。


 桟橋で「後で話す」と告げられてから、二日が経っていた。漁村の小島の桟橋、イーリスさんが俺の父さんの軌跡を知っていると告げたあの朝。蒼凪さんは俺の方を見ずに声だけを届けてくれた。俺は短く頷いて返した。それから二日。海洋古代遺跡での戦闘を挟んで、夜が来た。


「ええ」


 俺はもう一度そう返した。


 声は思っていたより低く出た。口の奥が少し乾いている。膝の上で開いていた手を一度握り直した。腰の右で索具を確かめる癖が出かけて、俺はそれを止めた。そんな所作を挟むと、自分で自分の動揺を見てしまう気がした。


 蒼凪さんは俺の手元を見なかった。気づいていないわけではない。気づいた上で、見ない方を選んだのだと思った。視線はすぐにイーリスさんへ戻る。


 イーリスさんは慇懃に礼をした。


「お話しさせていただいてよろしいでしょうか」


 俺は短く頷いた。


 声は出なかった。頷きで返せるだけの落ち着きは残っている。そう自分に言い聞かせた。油皿の火が小さく鳴り、船底の潮がまた低く続いた。


──────────────────────────────


「父上様は、海守りの公的な業務の枠の外で、独自に何かを調べておられました」


 イーリスさんはそう切り出した。


 声は低かった。慇懃さは崩れていない。ただ街角の歌い手の軽い笑みは消えている。長命種の作法の芯だけが残り、緑がかった灰色の瞳が俺を見ていた。視線の重さは桟橋の朝と同じだ。あの時より、船室の壁が近いぶん逃げ場がなかった。


 俺はすぐには口を開かなかった。


 膝の上の手をもう一度握り直す。父さんが海守りの公的な業務の枠の外で何かを調べていた。その言葉を、まず内側に置いた。海守りの当代として公的な業務は表に出る。記録に残る、海守り衆の中で共有される、評議会にも届く。枠の外、となると話が変わる。


 海で起きたことを隠すのは難しい。潮の流れも、船の出入りも、人の口も残る。けれど父さんが俺たちの知らないところで動いていたのなら、それは海守り衆の中でも語られなかった事実だ。家の食卓にも、書斎の灯りにも、俺が知る父さんの声にも乗らなかったもの。


「枠の外で」


 俺は短く繰り返した。


「左様でございます」


 イーリスさんは慇懃に頷いた。


「もう少し、聞かせてください」


 声は震えなかった。胸の奥では何かが一段沈んでいる。それでも海守りの当代の輪郭は、まだ保たれていた。今ここで崩れたら、話を受け取れない。受け取れないまま終わるわけにはいかなかった。


 イーリスさんは膝の上の弦楽器を一度撫でた。弦は鳴らない。指先だけが木の縁を通った。それから手を机の上で軽く重ねる。急がない動きだった。俺が言葉を置く時間を、イーリスさんは所作で渡している。


「ある集団の動きを追っておられました」


 イーリスさんは静かに告げた。


「詳細は、わたくしの観察の範囲では揃いきりません。集団の名前、規模、本拠地、そういったものはお渡しできるほどの形でわたくしの中にも届いておりません。ただ、父上様がその集団を追っておられた事実は、わたくしの観察の中で動いておりました」


 俺は油皿の火の縁を見ていた。


 ある集団。イーリスさんの言葉は輪郭を持っているのに、中心を見せなかった。名前がない。数もない。根城もない。ただ動きだけがある。水面に残る波紋のような話だった。何かが通ったことは分かる。けれど船影はもう見えない。


 意図して遠ざけているのか、本当にそこまでしか見えていないのか。俺には判じきれなかった。イーリスさんは嘘を言っているようには見えない。ただ、見えたものをすべて渡す人でもない。それはこの旅の中で少し分かってきていた。


「十二年前のある春の夜、海洋同盟内の小さな港町でわたくしは父上様をお見かけしました」


 イーリスさんは続けた。


 俺の息の継ぎ目が止まった。


 十二年前の春。父さんが亡くなった年だった。俺が十二の年。海の匂いが今より広く感じられて、父さんの背中が今よりずっと高く見えていた頃だ。蒼凪さんに気づかれない範囲で、俺の指は机の縁を握り直していた。


「父上様は、海守りの装束をまとっておられました。潮鎚を背に下ろし、宿の窓辺で地図を広げておられた。夜遅くに宿に戻られ、朝早くに船着場を見て回っておられました。海守りの公的な業務とは、別の方角を読む眼でございました」


 イーリスさんの声は穏やかだった。


「お一人での行動でございました。誰かをお待ちのように、宿の周辺で時を過ごしておられた。時に地図に印を入れ、時に書き付けをされ、時に船着場の出入りの船を一つ一つお読みになっていた。海守りの当代としての所作と、別の方角を読む集中とが、同じ姿の中に同居しておられました」


 俺は父さんの姿を頭の中で組み立てていた。


 宿の窓辺で地図を広げる父さん。深い藍の海守りの装束。潮鎚を背に下ろした輪郭。夜の宿。窓の外に港の灯り。地図に印を入れる指の動き。書き付けをする手元。朝の船着場を見て回る歩幅。


 俺の知らない父さんだった。十二年前の春の夜、俺のいない港町に立っていた父さん。海守りの当代として家にいた父さんではなく、一人で別の方角を読んでいた父さん。それでも、知らない人にはならなかった。


 父さんは家でもよく地図を見ていた。書斎の机に古い海岸線の図を広げ、顎に指を当てて何かを考えていた。俺は子供だったから、それが何の地図かを聞かなかった。父さんも、子供の俺には話さなかった。聞けば答えてくれたかもしれない。けれど俺は網の結び方や潮目の読み方の方が先に知りたかった。


 一度だけ覚えている夜がある。俺が戸口から覗くと、父さんは地図の上に置いた指を動かさないまま「まだ起きていたのか」と笑った。怒られはしなかった。ただ早く寝ろと言われた。俺は頷いて戻った。あの地図の先に、今夜の話が繋がっていたのかもしれない。


 ただ、宿の窓辺で。一人で。


「父さんは、海難事故と聞いてきた」


 俺は短く返した。


 声は思っていたより冷えて出た。


 蒼凪さんが俺の左で短く息を吐いた。感度で分かる程度の呼吸だった。視線は俺に向けられていない。ただ呼吸の輪郭だけが、俺の動揺を支える方向に置かれていた。


 イーリスさんは少しだけ視線を落とした。


「記録の上では、左様でございます」


 イーリスさんは静かに返した。


 慇懃さは崩れていない。ただ「記録の上では」の一言の中に、別の輪郭が薄く立った。記録の上ではそうである、ということは記録の外ではそうではないかもしれない。そう聞こえる言い方だった。


 海守り衆の中で「海難事故」として処理された父さんの死。その記録をイーリスさんは否定もせず肯定もしなかった。ただ、記録という箱の外に手をかけた。その手つきだけで、机の上の空気が重くなった。


 俺は膝の上の手をもう一度握った。


 潮鎚は壁に立てかけてある。海守りの索具は机の脇に置いてある。握る対象がなかった。だから自分の手を握った。指の腹が爪の付け根に当たる。痛いほどではない。けれど痛みの手前にある圧だけが、俺を席に留めていた。


 油皿の火が一度揺れた。船が波を一つ越えた振動が、床から足裏に伝わる。机の脚がごく小さく鳴った。


 蒼凪さんは何も言わなかった。


 俺の動揺を察しているのは分かった。察した上で、声を出さない。場の主導は俺に任せる。俺がイーリスさんに問い返す瞬間を待っている。視線で支えるという温度が、左から薄く届いていた。


「もう少し、聞かせてください」


 俺は同じ言葉をもう一度、声にした。


 イーリスさんは慇懃に頷いた。


「父上様は、その港町に何度か来ておられました」


 イーリスさんは続けた。


「最初にお見かけしたのは、お亡くなりになる二年ほど前の秋でございます。それから春・夏・秋と季節ごとにお越しになり、最後にお見かけしたのは、お亡くなりになる少し前の春の夕方でございました」


「最後の」


 俺の声が低く出た。


「左様でございます」


 イーリスさんは少しだけ間を置いた。その間が、油皿の火を一度揺らすほど長く感じた。


「ある人物との接触を求めておられました。父上様がその港町に何度も来ておられたのは、その方をお待ちになっていたからでございます。ただし、お会いになる前に、お亡くなりになりました」


 俺は目を閉じなかった。


 閉じたら、頭の中で組み立てた父さんの姿が一気に崩れそうだった。油皿の火の縁。机の木目。イーリスさんの慇懃な姿勢。蒼凪さんの指の影。見えるものを全部開いたまま、俺は言葉を受けた。


 父さんは誰かを待っていた。何度も港町に行った。季節ごとに足を運んだ。会えないまま、戻ってこなかった。ひとつひとつは細い事実だ。けれど束になると、海難事故という言葉の形を内側から押し広げていく。


「最後にお見かけした春の夕方、父上様はいつもより一段、遠い眼をしておられました」


 イーリスさんは静かに言った。


「焦りはおありでした。ただし、絶望ではございませんでした。海守りの当代としての責任感、それが姿の中で輪郭を保っておられた。家族のことを思っておられる眼でもございました。お一人で歩いておられたが、お一人で背負うつもりではない眼でございました。それが、わたくしが見送った父上様の最後のお姿でございます」


 俺は息を一度深く吸った。


 父さんの最後の姿。十二年前の春の夕方、海洋同盟内の小さな港町、宿を後にして船着場の方角に歩く父さん。遠い眼、焦り、絶望ではない眼、家族のことを思う眼、一人で背負うつもりではない眼。


 俺はその姿を頭の中に組み立てた。組み立てたら、家にいる父さんの姿と繋がった。夕飯の食卓で網の繕い方を教えてくれた父さん。俺の結び目を見て「力を入れすぎると切れる」と言った父さん。母さんと夜の縁側で低く話していた父さん。そういうすべてと同じ眼の延長で、港町の夕方に父さんが立った。


 遠い眼をしていた。けれど家族を置いていく眼ではなかった。イーリスさんの言葉を、俺はそう受け取った。受け取っていいのかは分からない。それでも今夜の俺には、その受け取り方が必要だった。


 俺の中で、父さんが死ぬ前の最後の姿が一段近くなった。


 イーリスさんは膝の上の弦楽器をもう一度撫でた。


「お亡くなりになった報せを、わたくしは別の港で受けました。海守りの当代の海難、その伝聞でございました。最後にお見かけした夕方から、半月ほど後のことでございます」


 イーリスさんはそう告げて、口を閉じた。


 開示の流れは、ここで止まった。


 俺は油皿の火の縁を見ていた。船室の壁の影が火の揺れの分だけ動く。船底の潮の音が低く続いている。蒼凪さんの呼吸が、俺の左で静かに重なっていた。


──────────────────────────────


 俺は短く息を吐いた。


 息は思ったより深く出た。胸の奥に溜まっていたものが、音にならないまま少しだけ抜ける。それでも抜けきらない。抜けきらないものが喉の下に残っている。


「殺された、と?」


 俺は問うた。


 声は震えなかった。震えなかったことに、自分でも少し驚いた。海守りの当代の輪郭が、最後にぎりぎり保たれていた。十八歳の率直さが、その上に乗って言葉になった。問わずにはいられなかった。問うても確証は返ってこないと内側では分かっていた。


 イーリスさんは少しだけ視線を落とした。それから、俺の方を見た。


「確証は、わたくしの観察の範囲では揃いきりません」


 イーリスさんは静かに告げた。


「ただし、可能性は高うございます」


「可能性は、高い」


 俺はその言葉を繰り返した。


「左様でございます」


 イーリスさんはそれだけ言った。


 それ以上は語らなかった。確証がないものを確証のように渡さない。ただ可能性として伝える範囲は伝える。観察者の作法だった。冷たいわけではない。むしろ、その線を崩さないことが今の俺への礼なのだと分かった。


 俺は机の縁を握っていた手を、ゆっくり開いた。


 殺された、可能性は高い。確証はない。可能性は高い。海難事故という記録の上に、別の可能性が薄く重なった。記録は残る。記録の外側で何が起きたかを、俺はもう確かめに行けない。父さんはいない。


 十二年前の春、父さんは港町を後にして最後の航海に出て戻ってこなかった。誰かを待っていた。誰かに会おうとしていた。何かを追っていた。けれど俺が今からその港へ行っても、父さん本人に聞くことはできない。海はその日の音を残していない。


 海守りの当代として俺は普段、海で起きたことを動いて確かめる。海難の現場に駆けつける、波の調子から事故の経緯を整理する、生存者がいれば証言を聞き、亡くなった者がいれば遺族に伝える。それが俺の本懐だった。動いて確かめる、海守りの所作の核。


 父さんのことだけは、確かめに行けない。


 俺は机の上に置いた両手を見ていた。


 指は開いている。震えてはいない。爪の端に昼間の塩がまだ少し残っている。俺の手は救助の手で、索具を結ぶ手で、潮鎚を握る手だ。けれど今夜は、何も掴めない手に見えた。


「ヒュウマ」


 蒼凪さんが俺の左で短く呼んだ。


「ええ」


 俺は短く返した。


 蒼凪さんはそれ以上、何も言わなかった。呼ぶことだけが、いまの蒼凪さんの役目だった。俺がここで一度、自分を引き戻すための声。蒼凪さんはそれを形容を重ねずに渡してくれた。


 俺は深い青の瞳を、左に少しだけ確認した。蒼凪さんは机の上を見ていた。俺の方を見ていない。視線で踏み込まない。それが蒼凪さんの選んだ距離だった。深い青の瞳が油皿の灯りの中で一段沈んでいた。


 沈み方の質感は、あのヴェラーナ港の宿で見たそれと近かった。「正しくはない、ただ必要だ」と蒼凪さんが言ったあの夜、俺が頷いた瞬間の蒼凪さんの瞳の沈み方。それと似ていた。


 あの時も蒼凪さんは、正しさだけで物事を置かなかった。必要なものがあると知っていた。今もたぶん、俺に必要な距離を測っている。慰めではなく、確認でもなく、俺が倒れずに言葉を受け取るための距離だ。


 俺は視線を机の上に戻した。


 油皿の火が細く伸びて、また戻った。船は変わらず進んでいる。その当たり前さが、少しだけ残酷に感じた。


──────────────────────────────


 イーリスさんが慇懃に礼をした。


「では、わたくしは少し甲板で夜風にあたってまいります」


 イーリスさんは膝の上の弦楽器を肩に掛けて、ゆっくり立ち上がった。長命種の所作の重み、急がない動き。場を空ける所作の中に、慇懃さの作法と長命の伝承者の温度が同居していた。


「ありがとうございます」


 俺はそれだけ返した。


 声は思っていたより低く出た。それでも、礼として届く範囲には届いた。海守りの当代として、観察者にお礼を伝える程度の所作はまだ残っていた。父さんの話を受け取った者としても、言わなければならない言葉だった。


 イーリスさんは慇懃に頷いて、船室の戸を開けた。夜の風が一瞬だけ船室に流れ込む。塩気と冷えが油皿の火を大きく揺らした。イーリスさんの外套の端が闇に紛れる。戸が閉まり、火の揺れが収まった。


 船室には蒼凪さんと俺の二人が残った。


 船底の潮の音が低く続いていた。


 蒼凪さんは机の上で指を組み直した。音はほとんどない。ただ骨の位置が変わる気配だけがある。


 俺は机の縁を握っていた手を一度開き、そのまま机の上に置いた。指は震えていなかった。震えそうな気配は内側で一度通り過ぎていた。通り過ぎただけで、消えたわけではない。胸の奥にはまだ波がある。


 蒼凪さんが俺の隣で姿勢を変えた。


 机の対面に向き直るのではなく、俺と同じ方向を向く形で机の脇に座り直した。肩は触れない距離。俺の右の腕の脇に、蒼凪さんの左の腕の輪郭がある位置だった。机を挟んで向き合う距離ではなく、同じ方角を見る距離だ。


 蒼凪さんは何も言わなかった。


 俺も何も言わなかった。


 油皿の火が低く揺れている。船底の潮の音が続いている。船が波を一つ越えるたびに、船室の壁の影が一度だけ動いた。影は伸びて戻る。伸びて戻る。その繰り返しだけが、時間を数えていた。


 蒼凪さんの右手が、机の上に置かれた。


 俺の左手のすぐ脇だった。触れない距離、指の幅一つ分ほどの隙間。蒼凪さんの掌は机に伏せて置かれている、指は緩く揃えられている。掌の縁は俺の左手の縁から指の幅一つ分の距離で止まっていた。


 触れていない、と俺は受け止めた。


 それでも、触れていない事実が内側に届いていた。


 二日前の船室で、蒼凪さんは俺の左手の甲を一度だけ撫でた。二秒か三秒の触れ方だった。あの夜、俺は罪悪感を共有した。蒼凪さんは「俺の罪だ」と短く繰り返して、俺の左手に右手を乗せた。あの撫で方は温度として内側に残った。


 今日は、触れていない。


 触れていない距離が、二日前の撫で方より一段別の温度を運んでいた。蒼凪さんが触れる選択をしなかった、その選択そのものがいまの俺の整理を支える形になっていた。触れたら、俺はたぶん崩れる。蒼凪さんはそれを察していた。だから触れない位置に、ただ並んで手を置いた。


 俺の左手は動かなかった。動かす必要がないと分かった。指の幅一つ分の隙間が、今は支えだった。その隙間を埋めないでくれることが、俺を机の前に留めていた。


 油皿の火がもう一度揺れた。


 俺は息を深く吸った。塩の混じった夜の空気が鼻の奥に届く。船室の中の油の匂いと、船底から立ち上がる潮の匂いが薄く混ざっている。昼の戦闘で革に染みた汗の匂いも、今になって少し戻ってきた。


 息を吐いた瞬間に、蒼凪さんの右手が動いた。


 俺の背中に、一度だけ触れた。


 手のひら全体ではなかった。指の付け根あたりが、俺の海守りの戦闘服の革の上に軽く触れた。数秒、たぶん三秒。それから手は離れた。


 短い接触だった。形容を重ねない触れ方、ただ「触れた」事実だけを残す動作。重さも温度も手のひらが残すほどの量はない。指の付け根の幅、それだけが背中の革の上に残った。


 その短さが、いま俺に必要な重さだった。


 撫でない、押さえない、長く留めない。海守りの当代の俺が次に動くために、ぎりぎり必要な重さの分だけ蒼凪さんは触れた。それから引いた。


「お前の父上は」


 蒼凪さんが低く言った。


「海守りの当代として、見えていたものがあった人だ」


 蒼凪さんはそれだけ言った。


 形容を重ねていない、敬意の温度だけが言葉の中に乗っていた。父さんを「お前の父」ではなく「お前の父上」と呼んだ。二日前の船室では「お前の父」だった。今日は「父上」で呼んだ。海守りの当代としての父さんへの敬意が、呼称に表れていた。


「ええ」


 俺は短く返した。


 声は震えなかった。震えなかったが、内側で何かが動いていた。父さんが見えていたもの、海守りの当代として見えていたもの。それを蒼凪さんは認めてくれた。海難事故という記録の上の言葉ではなく、父さんが何かを見ていた人だったという認め方。


 父さんはただ波に呑まれた人ではない。そう断じることはまだできない。けれど何かを見て、何かを追い、誰かに会おうとしていた人だった。そのことを蒼凪さんが短く置いた。俺の中で、父さんがもう一度近くなった。


 蒼凪さんの右手は机の上に戻っていた。俺の左手の脇、指の幅一つ分の距離。並んだ位置取りは変わらなかった。


 油皿の火が低く続いていた。船底の潮の音も続いていた。


「先に寝てていいぞ」


 蒼凪さんは短く言った。


「俺は、もう少し起きている」


「ええ」


 俺は短く返した。


 蒼凪さんは何も付け加えなかった。「眠れるなら」とも「無理はするな」とも言わなかった。ヒュウマが眠れないことを蒼凪さんは分かっている。分かった上で、寝床に行けと言ってくれた。眠れないまま寝床にいる時間もいまの俺には必要な時間だ、と蒼凪さんは判じている。


 俺は机から立ち上がった。


 椅子が床を擦る音を立てないように、少し持ち上げて戻した。蒼凪さんの右手に一度視線を落とす。指の幅一つ分の距離で止まったままの、触れない接触。それを内側に置いて、俺は船室の隅の毛布の方角に向かった。


 潮鎚を壁から取って、毛布の脇に立てかけた。木と金具の重さが掌に戻る。海守りの索具を腰に巻き直した。寝るときも腰から外さないのが俺の癖だった。外すと、自分が海から離れすぎる気がする。


 胸の懐の中で、父さんの印章が肌に触れていた。常に肌に触れている。その重さは普段から変わらない。今夜は普段より一段、重く感じた。


 俺は毛布を被って、横になった。


 机の方角で油皿の火を消す音がした。蒼凪さんが指で芯を摘まんで火を落とした音。小さな湿った音のあと、船室の中がゆっくりと暗くなっていった。


──────────────────────────────


 夜の闇が船室を満たしていた。


 油皿の火が消えてから、しばらく時間が経っていた。船室の中は完全な暗闇ではなかった。戸の隙間と窓の縁から、夜の空の薄い明るさが差している。月相は半月過ぎ、満月手前。月光は雲の間から薄く差して、船室の壁に細い線を作っていた。


 蒼凪さんは机の脇で、まだ起きているはずだった。


 俺の毛布の位置から、蒼凪さんの姿は見えない。ただ蒼凪さんの呼吸の輪郭が、感度で薄く届く。深い、低い呼吸。眠っているわけではない、ただ静かに座っている呼吸。机の上で何かをしている気配はない、ただ座っているだけの気配。それが俺に届いていた。


 俺は仰向けで船室の天井を見ていた。


 天井の板の継ぎ目が夜の薄明かりの中で薄く見える。船が波を越えるたびに、板が低く軋む音が立った。船底の潮の音、帆が風を含む音、海守り衆の若手の船員が船首の方角で見張りをしている気配。すべての音が夜を作っていた。


 甲板の上で風が一度強くなった。帆布が膨らみ、縄が短く鳴る。船は西へ進んでいる。昼に確かめた航路を、今は夜の海が受け持っている。俺は横になっているだけなのに、身体の内側だけがまだ机の前に残っているようだった。


 俺は父さんの方角を考えていた。


 十二年前の春の夕方、海洋同盟内の小さな港町、宿を後にして船着場の方角に歩く父さん。遠い眼、焦り、絶望ではない眼、家族のことを思う眼、一人で背負うつもりではない眼。それから半月後、父さんは海難の報せとして帰ってきた。


 遺体は見つからなかった。海守り衆は事故として処理した。俺は十二歳だった。家の空気が変わった日を覚えている。大人たちの声が低くなり、母さんが戸口でしばらく動かなかった。俺は何を聞けばいいか分からず、父さんの印章を見ていた。


 海守りの当代として家を継ぐ準備が、その日から始まった。急に始まったのではない。前から少しずつ教わっていたことが、突然別の重さを持った。網の結び方も、潮の読み方も、救助の手順も、全部が父さんの不在に繋がった。


 殺された、可能性は高い。


 イーリスさんはそう告げた。確証は揃わない、ただ可能性は高い。確証がない以上、俺は「殺された」と確定して動けない。海守りの当代として、確証のないものを確定して動くわけにはいかない。それでも「海難事故」の輪郭は、もう内側で崩れていた。可能性として、別の輪郭が立っている。


 俺はそれを、確かめに行けない。


 父さんはいない。十二年前の海から、戻ってこなかった。最後にどんな海域で何が起きたのか、誰と会おうとしていたのか、誰に殺されたのか、どんな最期だったのか。それを父さんから聞ける機会はもうない。


 海守りの当代として俺は動いて確かめる血筋だった。海で起きたことに駆けつけて、波の調子から経緯を辿り、生存者がいれば証言を聞き、亡くなった者がいれば遺族に伝える。動いて確かめる、それが本懐の核だった。今日、その本懐が父さんのことだけは届かないと知った。


 確かめることのできない出来事を、内側に抱えて生きるしかない。


 俺は仰向けのまま毛布の縁を握った。


 天井の板の継ぎ目を見ていた。


 胸の懐の中で父さんの印章が肌に触れていた。重さは変わらない。父さんが「ある集団を追っていた」事実を聞いた今夜、印章の重さは別の意味を帯びていた。父さんが遺してくれた繋がり、海守りの当代としての印章。父さんが追っていたものと同じ方角を、いま俺たちが進んでいる事実と無関係ではない。


 蒼凪さんは「同じ筋に進んでいる」と二日前の船室で言った。父さんの軌跡は、俺たちが今日辿っている経路と重なる。


 父さんは、俺が辿るかもしれない方角を十二年前に先に歩いていた。


 俺は息を深く吸った。


 塩の混じった夜の空気が鼻の奥に届いた。父さんが宿の窓辺で広げていたであろう地図、夜の港町、朝の船着場、誰かを待つ夕方の眼。それらの情景が俺の頭の中で穏やかに並んだ。


 父さんは俺の知らない場所で、俺の知らない時間に、俺の知らない方角を読んでいた。それは父さんを遠ざけたのではなく、父さんを近くに引き寄せた。海守りの当代として家にいた父さんと、宿の窓辺で地図を広げていた父さん。それは同じ人だった。同じ眼で家族を見て、同じ眼で別の方角を読んでいた。


 子供の俺が見ていた父さんは、父さんの全部ではなかった。けれど嘘でもなかった。食卓で笑った父さん。俺の手の結び目を直した父さん。夜の書斎で地図を見ていた父さん。港町で誰かを待っていた父さん。それらが今夜、別々の板ではなく同じ船底の一部みたいに繋がった。


 俺は父さんに少し近づいた、と感じた。


 確証はない、ただ可能性として近づいた。それで十分、いまの俺には十分だった。


 蒼凪さんの呼吸が、机の脇で続いていた。


 深い、低い呼吸。俺が眠るのを待っている呼吸ではない、ただ俺の傍にいる呼吸。眠れない夜を一緒に起きている呼吸。蒼凪さんは机の脇で何もしていない。地図を広げているわけでも海溝晶を確かめているわけでもない、ただ座っている。座っていることが、いまの俺の支えになっていた。


 俺は仰向けのまま深く息を吐く。


 胸の懐の印章の重さが、息と一緒に少しだけ落ち着いた。父さんの印章、父さんが俺に遺した繋がり。父さんの最後の姿、十二年前の春の夕方、遠い眼。それらをすべて内側に置いて、俺は天井の板の継ぎ目を見ていた。


 確かめることのできない出来事を、確かめないまま抱える夜だった。


 ただ、抱えるしかないとは思わなかった。


 蒼凪さんの呼吸が隣で続く。イーリスさんは甲板で夜風にあたっている。海守り衆の若手の船員は船首の方角で見張りをする気配がある。船は西の方角に進み続けている。父さんが追っていた集団の方角、父さんが辿りきれなかった経路。それを俺たちはいま辿っている。


 父さんに追いつくつもりはない。追いつけるものでもない。十二年前の父さんはもう海の向こうにいる。それでも、父さんが見えていたものに俺も少しずつ近づいていきたい、と思った。


 蒼凪さんの背中に短く触れた指の付け根の重さが、まだ俺の背中の革の上に薄く残っていた。形は残らない、けれど蓄積として残る。二日前の手の甲を撫でた二秒の温度と、今夜の背中の三秒の重さは別の方角の蓄積だった。二日前は罪を共有する温度、今夜は俺が次に動くための重さ。蒼凪さんは違う温度を別の触れ方で渡してくれていた。


 俺は毛布の縁をもう一度握り直した。


 夜が深まっていた。


 天井の板の継ぎ目に、月光の細い線が薄く落ちていた。船底の潮の音、帆の音、海守り衆の若手の船員の見張りの気配、蒼凪さんの呼吸。すべての音が夜を続けていた。


 眠れないまま、俺は夜の音を受けていた。


 父さんの方角を内側で並べ直した。海難事故という言葉の輪郭は崩れた。別の可能性が立った。確かめることはできない。それでも、父さんに少し近づいた。それが今夜、俺の中で並んだすべてだった。


 船は、西の方角に進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ